二週間前、都内の名門高校で男子生徒が殺害された。
強酸性の消化液で顔をドロドロに溶かされた死体は、引き合わされた家族が泣き崩れるほど惨い
有り様だった。そしてそれから一週間ののち、もう一人の男子生徒が、まったく同じ手口で惨殺さ
れて発見された。
捜査線上に浮上したのは、被害者のグループでいじめられていた少年。
名前を大菅依という。
「殺された奴らのことを、恨んでいなかったと言えば嘘になります」
黒く丸い両目を伏せて、大菅少年はそう答えた。
「トイレの個室に押し込まれて便器の水に顔を突っ込まれたり、足を雨どいに針金でくくりつけら
れてよってたかって殴られたり。校舎の周りを裸で一周して来いと言われて、実際やらされたこ
ともありました」
「裸で……」
対して目をしばたかせたのは、向かいに座った竹田刑事である。
「悪ふざけで済ませられるレベルじゃないね」
「はい。でも……」
この春入学したばかりの一年生。今年の誕生日はまだ迎えていないというから、まだ十五歳のは
ずだ。
サイズの大きすぎるシャツに包まれた細い肩は、まだ成長期を迎えていないことを示している。
竹田の問いに首を振った瞬間、その成熟途中の肩がわずかに震えた。脳に刻み込まれた屈辱を反芻
していることは、誰の目にも明らかだった。
署の備品のパイプ椅子に腰かけた彼の、膝に置いた手がこぶしを作った。きつく握り締められた
手から血の気が引き、指の付け根から先が白くなった。
「でも、だからって、『いい気味だ』なんてぜんぜん思ってません。だってこんなのって、あんま
りひどいじゃないですか。何もあんな風に殺さなくても」
特徴といえばやや太い眉くらいの、いかにも気の弱そうな平凡な顔は、苦行に耐えているかのよ
うに歪んでいた。眉間には浅い皺が寄り、垂れ気味の目の端は更に下がっていた。
指は決して太くないが、関節は節くれだっている。胸板の薄い胸にその手が置かれる。
心臓の鼓動を確かめるように、ゆっくりと呼吸して大菅は言った。
「人を人とも思ってない嫌な連中ではあったけど、それでもあいつらにだって家族がいたんです。
いなくなったら悲しむ家族が。それを殺して奪うなんて、どんな理由があっても許されることじゃ
ないでしょう? それくらいは俺だって理解してます」
「そうだね」
竹田は頷いた。
「なのに周りの人間は好き勝手に、色んなことを俺に言ってきます。分かります? 色んなことを。
『胸がスッとしただろう』とか『天罰だと思っただろう』とか、そんなのはまだいい方で、中に
は『お前がやったんじゃないか』なんてストレートに言ってくる奴らまで。マスコミには『疑惑
の少年A』だなんて好き勝手に書き立てられるし」
「ああ、毒日の記事なら読んだよ。ひどいものだったね」
『"溶解仮面"は教育現場の歪みの被害者か?』あまり詳しくは覚えていないが、ヘッドラインは
確かこんな文面だったと思う。記事の中身は大菅が受けていたいじめの内容や、教師のコメントな
どがほとんどだった。
匿名とはいえ、彼を知る人間が読めば本人の特定はたやすい記事。程度は違えど他紙も似たよう
なものだ。
「はい」
竹田の相槌に首を振る大菅。
「どれもこれもでたらめです。信じてください刑事さん。俺、そんな大それたことができる人間じゃ
ありません」
聡明さを秘めた大菅の黒い目が、すがるように竹田を見た。胸に乗せられていた手が今度は肩を抱
いた。寒さに耐えるように一度、ぶるりと大きく身を竦ませた。
「そりゃあ、『こいつら全員いなくなればいいのに』とか、『死んでしまえ』とか、そんなふうに思
ったことならあります。一度や二度じゃなく。でも、それと実際に殺せるかどうかって別問題でしょ
う?」
「……ふむ」
「俺は小心者です。見た目どおりの臆病な人間なんです。変に騒いだり仕返ししたりして取り返しの
つかないことになるくらいなら、黙っていじめられている方がまだましです。そもそも報復に出ら
れるくらい度胸があったら、最初からいじめのターゲットになんて選ばれません」
今度は竹田は答えず、ただ唇の端を持ち上げただけにとどめる。
彼の表情を大菅がどう解釈したかは分からない。ただ、すがりつく目は悲痛な輝きを帯びた。
「俺はやってません。本当です」
竹田は大菅の目を見返した。
机越しに手を伸ばし、少年の肩にそっと触れた。宥めとも励ましとも慰めとも、どうとでも取れる
力強さで小刻みに震える体を叩いた。
「俺は小心者です。見た目どおりの臆病な人間なんです。変に騒いだり仕返ししたりして取り返しの
つかないことになるくらいなら、黙っていじめられている方がまだましです。そもそも報復に出ら
れるくらい度胸があったら、最初からいじめのターゲットになんて選ばれません」
今度は竹田は答えず、ただ唇の端を持ち上げただけにとどめる。
彼の表情を大菅がどう解釈したかは分からない。ただ、すがりつく目は悲痛な輝きを帯びた。
「俺はやってません。本当です」
竹田は大菅の目を見返した。
机越しに手を伸ばし、少年の肩にそっと触れた。宥めとも励ましとも慰めとも、どうとでも取れる
力強さで小刻みに震える体を叩いた。
「少し落ち着きなさい。確かにマスコミは君について書き立てているようだが、今のところ捜査の方
針として君は容疑者から外れている」
「……はい」
「第一君にはアリバイがあるだろう?」
最初の事件の被害者の死亡推定時刻は、犯行現場から離れた職員室で英語教師と会話していた。第
二の事件では、これまた犯行現場から離れた三階の更衣室で掃除していた。いずれも何人もの生徒や
教師が目撃し証言している。
一方でそのアリバイの存在こそが彼に向けられる疑惑を強めるという、皮肉な結果になってもいる
のだが。
完璧すぎるのだ。関係者一同の証言を照らし合わせたとき、『完璧すぎていっそ不自然だ』と、こ
の場にはいない竹田の相棒に言わしめたほど。
確かに不自然には違いない。進学のため上京してきて一人暮らし、気弱な性格ゆえに友人も皆無の
大菅は、学校においていわば空気のように希薄な存在。その彼に動かしがたい目撃証言が、それも二
度にわたって存在する事実には、竹田の相方でなくても何かの作為を感じずにはいられない。
だが竹田はあえてそれを示唆しなかった。
「そう不安がる必要はないよ。確かに君を疑ってる人間は多いが、私個人としては君のことを信じた
いと思っている。誰かが君を犯人に仕立て上げようとしている可能性だって、ゼロとは言い切れな
いわけだしね」
「そう言ってくれると助かります」
「身に覚えがないなら、ただ堂々と胸を張っていればいいんだ。真実というのはいつだって一つしか
ないし、遅かれ早かれそのうち明るみに出るものだからね」
詭弁である。
闇に葬り去られた真実など無数にある。そもそも警察が常に真犯人を見つけ出せる万能の存在なら、
犯罪史上の冤罪事件も迷宮入り事件も、書物の中だけのフィクションに過ぎなかったはずだ。
それが分かっていて竹田はあえて、この意味をなさぬきれいごとを口にする。
「現場の刑事にできることなんて限られているが、何なら先生がたに、私の方からご指導をお願いし
ておこう」
「ありがとうございます。何から何まで本当に助かります」
少年の小ぶりな頭が軽く下がった。
翳っていた口元がこのとき、ほんの一瞬ちらりと覗いた。肉薄の唇は、上向きの三日月の形に大き
く歪んだ。
安堵の微笑でも歓喜の笑顔でもない。しおらしく下げた頭の下で、大菅依が詐欺師の笑みを浮かべ
たのを竹田は確かに見た。
「刑事さん」
だがそれはごくわずかな、瞬きするにも満たぬ間。
笑みはすぐにかき消え、沈痛そうな表層が再び戻ってきた。
「この事件の犯人って、どんな奴だと思います?」
ひそめた眉も不安げな口元も、身近に潜む殺人鬼の存在に怯える男子高生そのものだ。
見る目のない者なら、あるいは騙すことも可能だろう。しかし竹田をたばかることはできない。
「そうだね、まだ手がかりもろくにない状況だから何とも言えないが、ここまで捜査してきて個人的
に感じたことをあえて言うなら……」
捜査一課のベテラン刑事は、まだ幼さを残す大菅の瞳をまっすぐに見返し、言った。
「恐ろしく性格の歪んだ人間だね」
「…………」
「それも、外から見ただけでは歪んでいるとは分からないタイプの人間だ。他人の目にはごくごく穏
やかで、大人しく人畜無害に見える。でも実際の腹の中は真っ黒なんだ。自分が満足を得るために
他人を殺して何とも思わない、あるいは殺すことそのものを楽しいとさえ感じる。自前なのか、そ
れとも経験で歪んだのかまでは分からないが」
すっと、大菅の目が細くなった。
竹田は気づかないふりをして続けた。
「二回の犯行を見る限り、今の彼の行動は怒りに突き動かされている。煮えたぎるような強烈な怒り
にね。仮面の下の彼の表情が憎悪一色に加工されているのが、私には目に見えるようだよ。まった
く惜しいな、その顔を今目の前で拝めないのは」
本当に、惜しい。
そう呟いて竹田は天井を仰いだ。
「怒りというのは残念ながら、そう長くは続かない感情なんだ。この犯人を今突き動かしている怒り
も、そう遠くないうちに消えてしまうだろうね」
「それは……もうじき犯行も止むだろうってことですか?」
「そうじゃない」
首を横に振る竹田。
「長年の経験をもとに言うことだが、こういう『歪んだ』人間は、一度こういうことに手を初めると
二度とやめられない。今の彼を突き動かしている感情はそのうち消えるかもしれないが、いずれ必
ずまた別の形で誰かを殺す。一人また一人と殺し続ける。永遠にね」
表情の消えた大菅の顔に、竹田は人好きのする微笑を向けた。
「ああ、君がそんな顔をする必要はないよ。そうならないように私たち警察官がいるんだ。君のクラ
スメイトを殺した犯人は、必ず私たちが捕まえるよ」
「……あんまり脅かさないでくださいよ。ほとんどホラーですよ、今の話」
「ははは、悪かったね。青少年に話して聞かせるにはきつい内容だったかな?」
竹田は大菅の肩を叩き、しわがれかけた声を明るく響かせて笑った。
強酸性の消化液で顔をドロドロに溶かされた死体は、引き合わされた家族が泣き崩れるほど惨い
有り様だった。そしてそれから一週間ののち、もう一人の男子生徒が、まったく同じ手口で惨殺さ
れて発見された。
捜査線上に浮上したのは、被害者のグループでいじめられていた少年。
名前を大菅依という。
「殺された奴らのことを、恨んでいなかったと言えば嘘になります」
黒く丸い両目を伏せて、大菅少年はそう答えた。
「トイレの個室に押し込まれて便器の水に顔を突っ込まれたり、足を雨どいに針金でくくりつけら
れてよってたかって殴られたり。校舎の周りを裸で一周して来いと言われて、実際やらされたこ
ともありました」
「裸で……」
対して目をしばたかせたのは、向かいに座った竹田刑事である。
「悪ふざけで済ませられるレベルじゃないね」
「はい。でも……」
この春入学したばかりの一年生。今年の誕生日はまだ迎えていないというから、まだ十五歳のは
ずだ。
サイズの大きすぎるシャツに包まれた細い肩は、まだ成長期を迎えていないことを示している。
竹田の問いに首を振った瞬間、その成熟途中の肩がわずかに震えた。脳に刻み込まれた屈辱を反芻
していることは、誰の目にも明らかだった。
署の備品のパイプ椅子に腰かけた彼の、膝に置いた手がこぶしを作った。きつく握り締められた
手から血の気が引き、指の付け根から先が白くなった。
「でも、だからって、『いい気味だ』なんてぜんぜん思ってません。だってこんなのって、あんま
りひどいじゃないですか。何もあんな風に殺さなくても」
特徴といえばやや太い眉くらいの、いかにも気の弱そうな平凡な顔は、苦行に耐えているかのよ
うに歪んでいた。眉間には浅い皺が寄り、垂れ気味の目の端は更に下がっていた。
指は決して太くないが、関節は節くれだっている。胸板の薄い胸にその手が置かれる。
心臓の鼓動を確かめるように、ゆっくりと呼吸して大菅は言った。
「人を人とも思ってない嫌な連中ではあったけど、それでもあいつらにだって家族がいたんです。
いなくなったら悲しむ家族が。それを殺して奪うなんて、どんな理由があっても許されることじゃ
ないでしょう? それくらいは俺だって理解してます」
「そうだね」
竹田は頷いた。
「なのに周りの人間は好き勝手に、色んなことを俺に言ってきます。分かります? 色んなことを。
『胸がスッとしただろう』とか『天罰だと思っただろう』とか、そんなのはまだいい方で、中に
は『お前がやったんじゃないか』なんてストレートに言ってくる奴らまで。マスコミには『疑惑
の少年A』だなんて好き勝手に書き立てられるし」
「ああ、毒日の記事なら読んだよ。ひどいものだったね」
『"溶解仮面"は教育現場の歪みの被害者か?』あまり詳しくは覚えていないが、ヘッドラインは
確かこんな文面だったと思う。記事の中身は大菅が受けていたいじめの内容や、教師のコメントな
どがほとんどだった。
匿名とはいえ、彼を知る人間が読めば本人の特定はたやすい記事。程度は違えど他紙も似たよう
なものだ。
「はい」
竹田の相槌に首を振る大菅。
「どれもこれもでたらめです。信じてください刑事さん。俺、そんな大それたことができる人間じゃ
ありません」
聡明さを秘めた大菅の黒い目が、すがるように竹田を見た。胸に乗せられていた手が今度は肩を抱
いた。寒さに耐えるように一度、ぶるりと大きく身を竦ませた。
「そりゃあ、『こいつら全員いなくなればいいのに』とか、『死んでしまえ』とか、そんなふうに思
ったことならあります。一度や二度じゃなく。でも、それと実際に殺せるかどうかって別問題でしょ
う?」
「……ふむ」
「俺は小心者です。見た目どおりの臆病な人間なんです。変に騒いだり仕返ししたりして取り返しの
つかないことになるくらいなら、黙っていじめられている方がまだましです。そもそも報復に出ら
れるくらい度胸があったら、最初からいじめのターゲットになんて選ばれません」
今度は竹田は答えず、ただ唇の端を持ち上げただけにとどめる。
彼の表情を大菅がどう解釈したかは分からない。ただ、すがりつく目は悲痛な輝きを帯びた。
「俺はやってません。本当です」
竹田は大菅の目を見返した。
机越しに手を伸ばし、少年の肩にそっと触れた。宥めとも励ましとも慰めとも、どうとでも取れる
力強さで小刻みに震える体を叩いた。
「俺は小心者です。見た目どおりの臆病な人間なんです。変に騒いだり仕返ししたりして取り返しの
つかないことになるくらいなら、黙っていじめられている方がまだましです。そもそも報復に出ら
れるくらい度胸があったら、最初からいじめのターゲットになんて選ばれません」
今度は竹田は答えず、ただ唇の端を持ち上げただけにとどめる。
彼の表情を大菅がどう解釈したかは分からない。ただ、すがりつく目は悲痛な輝きを帯びた。
「俺はやってません。本当です」
竹田は大菅の目を見返した。
机越しに手を伸ばし、少年の肩にそっと触れた。宥めとも励ましとも慰めとも、どうとでも取れる
力強さで小刻みに震える体を叩いた。
「少し落ち着きなさい。確かにマスコミは君について書き立てているようだが、今のところ捜査の方
針として君は容疑者から外れている」
「……はい」
「第一君にはアリバイがあるだろう?」
最初の事件の被害者の死亡推定時刻は、犯行現場から離れた職員室で英語教師と会話していた。第
二の事件では、これまた犯行現場から離れた三階の更衣室で掃除していた。いずれも何人もの生徒や
教師が目撃し証言している。
一方でそのアリバイの存在こそが彼に向けられる疑惑を強めるという、皮肉な結果になってもいる
のだが。
完璧すぎるのだ。関係者一同の証言を照らし合わせたとき、『完璧すぎていっそ不自然だ』と、こ
の場にはいない竹田の相棒に言わしめたほど。
確かに不自然には違いない。進学のため上京してきて一人暮らし、気弱な性格ゆえに友人も皆無の
大菅は、学校においていわば空気のように希薄な存在。その彼に動かしがたい目撃証言が、それも二
度にわたって存在する事実には、竹田の相方でなくても何かの作為を感じずにはいられない。
だが竹田はあえてそれを示唆しなかった。
「そう不安がる必要はないよ。確かに君を疑ってる人間は多いが、私個人としては君のことを信じた
いと思っている。誰かが君を犯人に仕立て上げようとしている可能性だって、ゼロとは言い切れな
いわけだしね」
「そう言ってくれると助かります」
「身に覚えがないなら、ただ堂々と胸を張っていればいいんだ。真実というのはいつだって一つしか
ないし、遅かれ早かれそのうち明るみに出るものだからね」
詭弁である。
闇に葬り去られた真実など無数にある。そもそも警察が常に真犯人を見つけ出せる万能の存在なら、
犯罪史上の冤罪事件も迷宮入り事件も、書物の中だけのフィクションに過ぎなかったはずだ。
それが分かっていて竹田はあえて、この意味をなさぬきれいごとを口にする。
「現場の刑事にできることなんて限られているが、何なら先生がたに、私の方からご指導をお願いし
ておこう」
「ありがとうございます。何から何まで本当に助かります」
少年の小ぶりな頭が軽く下がった。
翳っていた口元がこのとき、ほんの一瞬ちらりと覗いた。肉薄の唇は、上向きの三日月の形に大き
く歪んだ。
安堵の微笑でも歓喜の笑顔でもない。しおらしく下げた頭の下で、大菅依が詐欺師の笑みを浮かべ
たのを竹田は確かに見た。
「刑事さん」
だがそれはごくわずかな、瞬きするにも満たぬ間。
笑みはすぐにかき消え、沈痛そうな表層が再び戻ってきた。
「この事件の犯人って、どんな奴だと思います?」
ひそめた眉も不安げな口元も、身近に潜む殺人鬼の存在に怯える男子高生そのものだ。
見る目のない者なら、あるいは騙すことも可能だろう。しかし竹田をたばかることはできない。
「そうだね、まだ手がかりもろくにない状況だから何とも言えないが、ここまで捜査してきて個人的
に感じたことをあえて言うなら……」
捜査一課のベテラン刑事は、まだ幼さを残す大菅の瞳をまっすぐに見返し、言った。
「恐ろしく性格の歪んだ人間だね」
「…………」
「それも、外から見ただけでは歪んでいるとは分からないタイプの人間だ。他人の目にはごくごく穏
やかで、大人しく人畜無害に見える。でも実際の腹の中は真っ黒なんだ。自分が満足を得るために
他人を殺して何とも思わない、あるいは殺すことそのものを楽しいとさえ感じる。自前なのか、そ
れとも経験で歪んだのかまでは分からないが」
すっと、大菅の目が細くなった。
竹田は気づかないふりをして続けた。
「二回の犯行を見る限り、今の彼の行動は怒りに突き動かされている。煮えたぎるような強烈な怒り
にね。仮面の下の彼の表情が憎悪一色に加工されているのが、私には目に見えるようだよ。まった
く惜しいな、その顔を今目の前で拝めないのは」
本当に、惜しい。
そう呟いて竹田は天井を仰いだ。
「怒りというのは残念ながら、そう長くは続かない感情なんだ。この犯人を今突き動かしている怒り
も、そう遠くないうちに消えてしまうだろうね」
「それは……もうじき犯行も止むだろうってことですか?」
「そうじゃない」
首を横に振る竹田。
「長年の経験をもとに言うことだが、こういう『歪んだ』人間は、一度こういうことに手を初めると
二度とやめられない。今の彼を突き動かしている感情はそのうち消えるかもしれないが、いずれ必
ずまた別の形で誰かを殺す。一人また一人と殺し続ける。永遠にね」
表情の消えた大菅の顔に、竹田は人好きのする微笑を向けた。
「ああ、君がそんな顔をする必要はないよ。そうならないように私たち警察官がいるんだ。君のクラ
スメイトを殺した犯人は、必ず私たちが捕まえるよ」
「……あんまり脅かさないでくださいよ。ほとんどホラーですよ、今の話」
「ははは、悪かったね。青少年に話して聞かせるにはきつい内容だったかな?」
竹田は大菅の肩を叩き、しわがれかけた声を明るく響かせて笑った。
「竹田さん」
少年を署の出口まで送ったところで、相方に声をかけられた。
「返しちまったのか? あのいじめられっ子の高校生」
「こんな時間だからね」
竹田は肩をそびやかせ、 背広の袖から腕時計を覗かせる。
彼の年代の男が持つにはそぐわない安物の時計は、九時五分過ぎを指し示していた。
「少なくとも今の段階ではまだ、容疑者でもない青少年だ。あまり遅くまで署に引き止めておくわけ
にもいかんだろう?」
「そりゃあまあそうかもしれないが……あの子にはまだ色々と聞きたいことが」
二十代半ばとも思えぬ老けた目が、視線を中空にさまよわせた。
竹田は宥めるように笑ってみせる。
「随分と彼を疑っているようだね、笹塚」
「疑っちゃいねーよ」
けだるく息を吐いて煙草を咥える相棒。
「不自然な点がやけに多いから一応洗ってるだけだ。目撃証言が二度とも単なる偶然だって可能性も、
別にまだ捨てちゃいない」
「否定する必要はないよ、笹塚。私も彼だと思っている」
装用時間が長引いたおかげで、コンタクトレンズが乾いてきていた。ちょうど目薬を切らしていた
竹田は、目元を押さえながら軽く何度か瞬きした。
大菅依が見せた不安と悲哀は、負の感情に加工された表情をこよなく愛する竹田の心をまるで揺さ
ぶらなかった。見せ掛けの、作り物の感情を装っている証だ。
「もっとも、警察というのは決めつけで捜査してはいけない組織だ。これといった決め手がない以上、
大っぴらに容疑者扱いするわけにはいかないよ」
「ああ、分かってる」
首肯する相棒。
「あんたに教えてもらったことだ、竹田さん」
家族を皆殺しにされ、ほぼ約束されていたに等しい高級官僚の道を捨てて刑事となったこの青年を、
一から教え導いたのは竹田である。絶望と無力感に加工されていた青年の顔は、今は若さに見合わぬ
倦怠をたたえている。それは彼の上司となった竹田にとって、なかなか面白い見世物だった。
「なあ笹塚。刑事の私がこんなことを言っては怒られるんだろうがね」
長時間座っていたせいで凝り固まった首を、竹田はボキリと鳴らした。
「私には、あの少年が他人とは思えないよ」
「は?」
相棒が煙草を口から離す。
「どういう意味だ、竹田さん」
「そのままの意味だ、深く考えなくていい。あまり他の人間にも言わないでくれると助かる」
中肉中背の相棒の肩を、ぽん、と軽く叩いて歩き出す。
相棒が首をかしげるのが視界の端に見えた。
「……ああ、ひょっとして、あんたも昔いじめられっ子だったとか?」
「そんなところだ。――それより早く報告書をまとめて帰りなさい笹塚。家で眠って体力を温存する
んだ」
唇の端を吊り上げる。
「この事件は長丁場になる。そんな予感がするよ」
鏡はない。自分が具体的にどんな顔をしているのか、確かめることはこの場ではできない。想像で
補うほかはなかった。
ほの暗い署内の廊下を歩きながら静かに笑う自分の顔は、さっき垣間見た少年の笑みに、どこか似
ているに違いないと竹田は思った。
少年を署の出口まで送ったところで、相方に声をかけられた。
「返しちまったのか? あのいじめられっ子の高校生」
「こんな時間だからね」
竹田は肩をそびやかせ、 背広の袖から腕時計を覗かせる。
彼の年代の男が持つにはそぐわない安物の時計は、九時五分過ぎを指し示していた。
「少なくとも今の段階ではまだ、容疑者でもない青少年だ。あまり遅くまで署に引き止めておくわけ
にもいかんだろう?」
「そりゃあまあそうかもしれないが……あの子にはまだ色々と聞きたいことが」
二十代半ばとも思えぬ老けた目が、視線を中空にさまよわせた。
竹田は宥めるように笑ってみせる。
「随分と彼を疑っているようだね、笹塚」
「疑っちゃいねーよ」
けだるく息を吐いて煙草を咥える相棒。
「不自然な点がやけに多いから一応洗ってるだけだ。目撃証言が二度とも単なる偶然だって可能性も、
別にまだ捨てちゃいない」
「否定する必要はないよ、笹塚。私も彼だと思っている」
装用時間が長引いたおかげで、コンタクトレンズが乾いてきていた。ちょうど目薬を切らしていた
竹田は、目元を押さえながら軽く何度か瞬きした。
大菅依が見せた不安と悲哀は、負の感情に加工された表情をこよなく愛する竹田の心をまるで揺さ
ぶらなかった。見せ掛けの、作り物の感情を装っている証だ。
「もっとも、警察というのは決めつけで捜査してはいけない組織だ。これといった決め手がない以上、
大っぴらに容疑者扱いするわけにはいかないよ」
「ああ、分かってる」
首肯する相棒。
「あんたに教えてもらったことだ、竹田さん」
家族を皆殺しにされ、ほぼ約束されていたに等しい高級官僚の道を捨てて刑事となったこの青年を、
一から教え導いたのは竹田である。絶望と無力感に加工されていた青年の顔は、今は若さに見合わぬ
倦怠をたたえている。それは彼の上司となった竹田にとって、なかなか面白い見世物だった。
「なあ笹塚。刑事の私がこんなことを言っては怒られるんだろうがね」
長時間座っていたせいで凝り固まった首を、竹田はボキリと鳴らした。
「私には、あの少年が他人とは思えないよ」
「は?」
相棒が煙草を口から離す。
「どういう意味だ、竹田さん」
「そのままの意味だ、深く考えなくていい。あまり他の人間にも言わないでくれると助かる」
中肉中背の相棒の肩を、ぽん、と軽く叩いて歩き出す。
相棒が首をかしげるのが視界の端に見えた。
「……ああ、ひょっとして、あんたも昔いじめられっ子だったとか?」
「そんなところだ。――それより早く報告書をまとめて帰りなさい笹塚。家で眠って体力を温存する
んだ」
唇の端を吊り上げる。
「この事件は長丁場になる。そんな予感がするよ」
鏡はない。自分が具体的にどんな顔をしているのか、確かめることはこの場ではできない。想像で
補うほかはなかった。
ほの暗い署内の廊下を歩きながら静かに笑う自分の顔は、さっき垣間見た少年の笑みに、どこか似
ているに違いないと竹田は思った。
"溶解仮面"こと大菅依は、その後六名の犠牲者を出す。
のちに怪盗Xのもとで"蛭"と名を変え、彼の手足として更なる死を振りまくことになるのだが、
それはまた別の話である。
のちに怪盗Xのもとで"蛭"と名を変え、彼の手足として更なる死を振りまくことになるのだが、
それはまた別の話である。