「ドッポ」
呟いたと同時に、意識が猛烈な勢いで引っぱられるのが分かった。これが「東京に戻る」
ことを意味しているのか。ジェットコースターのような激流に成すがまま、意識が呑み込
まれていく。
意識はまもなく再構築され、うっすらと視界が開けてきた。
蛍光灯が並んだ白い天井。胸から下を包む布団の柔らかい感触。頭は枕の上に乗ってい
る。体を起こすと白い壁、また自分がベッドに横たわっていることが判明した。
「おう。ようやく目ぇ覚ましたか」
「すげぇな。あの娘がいってたとおりだ」
懐かしい声が二つ、鼓膜を揺るがせる。久しぶりに聞く声だ。
「館長……克巳さん……」
ベッドの横にある丸椅子に、双方とも私服姿で腰かけていた。特に驚かされたのが、師
匠の風体だ。切断されたはずの左手が復活しており、その代わり顔中がケロイドに覆われ
ている。
「どうしたんスか……すげぇ火傷じゃないですか」
「なァに、ちょいとしくじっちまってな。おめぇさんの敵討ちと洒落込みたかったが、烈
にオイシイところ持ってかれちまった」
「ちょっと待ってくれよ、館長。俺の敵討ちってのはどういう意味だよ」
「──おめぇはドリアンに単身で挑んで返り討ちにあったんだ。まさか全然覚えてねぇの
か?」
まるで身に覚えのない事実を伝えられ、冷えた汗が乾かない。東京での記憶は、ドリア
ンを追跡していたところで途絶えている。
「……全然」
「しょうがねぇ奴だな。これでも心配してたんだぜ、なぁ克巳よ」
「えぇ、まったく。今生きているのが奇跡なくらいですよ」
二人が嘘をついているとは思えない。つく意味もない。もし独歩と克巳が偽者で、試練
がまだ続行中だとするなら、記憶の矛盾もどうにか説明がつく。が、百パーセントありえ
ない話だ。二人が嘘をついていないと断定するなら、自然と、いや必然的に恐るべき仮説
が生み落とされる。
「冗談だろ……まさか、今までのは全部──」
夢。
結論として、一ヶ月間にも及ぶ加藤清澄の無人島での生活は全て、「夢」という一文字
に集約されるに至った。
残酷すぎる真実。どんなに現実的(リアル)で充実していた内容でも、夢であったのな
らば潔く諦めるしかない。分かっているはずなのに、なかなか気持ちの整理がつかない。
もちろん、こんな心境を独歩や克巳と共有するなど不可能だ。バカバカしくて語る気にも
なれない。
ふと、克巳が加藤に水を向ける。
「ところで、うちの井上君って知ってるか?」
「え」
知っているも何も、共に戦い、キスまで済ませた仲だ。もっとも夢の中での話に過ぎな
いが。それでも彼女の名前を聞いた途端、心臓が激しく胸を打つのが分かった。
「女子部の娘なんだが、ちょっと前にまったく稽古に出なくなった時期があってな。で、
十日くらい前にひょっこり復帰したらしいんだが、そしたら別人のように強くなってたら
しいんだな。
まぁそれはさておき、五日前アンタを見舞いに行った時、偶然彼女に会ったんだよ。ん
で“どうしてこんなところに”って聞いたら彼女なんて答えたと思う?」
「さぁ」
「“加藤先輩を見舞いに来た”って答えたよ。しかも“詳しいことは話せないが、先輩は
五日後に必ず目覚める”ともな。みごとに当たってたよ」
加藤は脊髄に電流を放り込まれたかの如き衝撃を受けた。
「でも、おまえと井上君って面識あったっけ?」
「えぇと……」少し考えてから、加藤は答えた。「一度もないな」
「だよな。ま、アンタがやられたって報は神心会中に広まったからな(つうか、俺が広め
たようなもんだけど)。それで知ったのかもな」
会話も一段落し、再会の喜びを分かち合う加藤と克巳。若い神心会戦士の笑い声がこだ
まする。
しかし、なぜか独歩は神妙な顔つきを崩さない。
「親父ィ、どうしたんだよ。色々あったけどさ、ひとまず回復を祝ってやろうぜ」
「加藤よ」
五十五年間で培われた観察眼が、意識を取り戻して間もない患者を鋭く射抜く。
「おめぇ……少し、いやかなり強くなってねぇか……?」
「おいおい親父、どうしたんだよ。だって加藤はずっと寝たきり──」
すぐに克巳も察した。
夢ではあったが夢ではなかった。無人島で毎日欠かさなかった鍛錬と、試練との激闘の
記録は、心と体にしっかりと刻み込まれていた。
独歩、克巳に続き、ようやく加藤も気づく。
全ては紛れもない現実であった、と。
一度気づけば、芋づる式に自覚できる。入院していたにもかかわらず、筋量が増えてい
る。会得した数々の術も、今すぐにだって出せる。
歯茎をむき出し、力ずくで加藤を引き起こす独歩。
「よしっ! さっそく退院して、ちょいと手合わせといこうや」
「おいおいおいおいおい」
「いいスよ、館長……。ぶっちゃけ敗けませんよ」
「おいおい、お前までッ!」
あくまで常識人を装う克巳だが、すでに彼の心も決まっていた。
父であり師でもある偉大なる武神と、不可解なレベルアップを果たしたデンジャラスラ
イオン。どちらが上か、観戦したい。そして出来るなら、自分も混ざりたい。
「よっしゃ克巳、さっそく院長に手ェ回して、退院の手続き取ってこいや」
「親父にゃあ、敵わねぇなァ~」
「へっ、バカヤロウ、おめぇも好きなくせによ」
「ハハ、バレてましたか……」
こうして、あれよあれよと加藤の退院は実現した。
「ところで、加藤よ」
「あン?」
「おめぇ目ぇ覚ました時、独歩っていってたが、まだオイラァおめぇに呼び捨てされる筋
合いはねぇぜ?」
「え? いや、あれは違うんだよ。館長じゃなく、虎の名前で……」
「虎なんてどこにいるんでぇ」
「いや、どこにっつうか……何でもないス。──ゴメンナサイ」
その後、病院の出口で加藤はある戦友のことを思い出した。
「そういやァ館長。大方末堂の奴もさっきまでの俺みたいに、この病院で寝たきりなんだ
ろ? あいつも近いうちにうち起きるから、心配しなくていいぜ」
日が傾き、空が夜を歓迎するために燃え上がっている。公園にほとんど人気はなく、犬
を連れている人や、これから帰社するであろうサラリーマンが、ぽつぽつ歩いているだけ
だ。
女性が独り、ベンチに腰を下ろしている。
理由は待ち合わせ。約束はしていない。なのに、彼女が待っている人間は必ずここへ来
るという自信があった。
ベンチはお世辞にも上等とはいえず、ひんやりとした感触が心地悪い。が、たとえ北風
であろうと太陽であろうと、彼女を移動させる力は持たない。
やがてスニーカーが軽快に地面を蹴る音が聞こえてきた。
これだ、と女性の中で直感が轟いた。
「井上」
「先輩」
直感は正しかった。座る女と立つ男、両者の視線が斜線を描いて交わった。
「戻ったぜ」
男が息を弾ませているのは、ロードワークだけが原因ではあるまい。
「道場で会うってハナシだったが、やっぱあそこじゃ色々と目立つからな。と思って来て
みたら、やっぱり居てくれたな」
「私も同じことを考えて、ここで待ってました。神心会本部に近くて、再会しやすい場所
といったらここしかないですから」
「敵わねぇなァ……」
苦笑いする加藤に、井上が好奇心を満面に浮かべて問いかける。
「ところで、館長とはどうでした……?」
「え、どうして俺が試合したことを……?」
「分かりますよ。真新しい絆創膏やバンテージが貼ってますもん」
「おまえにゃ空手だけじゃなく、探偵の才能もあるみてぇだな」
ふぅ、と嘆息すると、加藤は独歩との試合結果を報告した。
加藤が手を差し伸べると、井上はその手を握った。
「行くか!」
「オス!」
共に空手を志す雄と雌。彼らの本当の試練は今日を以って開始された。
呟いたと同時に、意識が猛烈な勢いで引っぱられるのが分かった。これが「東京に戻る」
ことを意味しているのか。ジェットコースターのような激流に成すがまま、意識が呑み込
まれていく。
意識はまもなく再構築され、うっすらと視界が開けてきた。
蛍光灯が並んだ白い天井。胸から下を包む布団の柔らかい感触。頭は枕の上に乗ってい
る。体を起こすと白い壁、また自分がベッドに横たわっていることが判明した。
「おう。ようやく目ぇ覚ましたか」
「すげぇな。あの娘がいってたとおりだ」
懐かしい声が二つ、鼓膜を揺るがせる。久しぶりに聞く声だ。
「館長……克巳さん……」
ベッドの横にある丸椅子に、双方とも私服姿で腰かけていた。特に驚かされたのが、師
匠の風体だ。切断されたはずの左手が復活しており、その代わり顔中がケロイドに覆われ
ている。
「どうしたんスか……すげぇ火傷じゃないですか」
「なァに、ちょいとしくじっちまってな。おめぇさんの敵討ちと洒落込みたかったが、烈
にオイシイところ持ってかれちまった」
「ちょっと待ってくれよ、館長。俺の敵討ちってのはどういう意味だよ」
「──おめぇはドリアンに単身で挑んで返り討ちにあったんだ。まさか全然覚えてねぇの
か?」
まるで身に覚えのない事実を伝えられ、冷えた汗が乾かない。東京での記憶は、ドリア
ンを追跡していたところで途絶えている。
「……全然」
「しょうがねぇ奴だな。これでも心配してたんだぜ、なぁ克巳よ」
「えぇ、まったく。今生きているのが奇跡なくらいですよ」
二人が嘘をついているとは思えない。つく意味もない。もし独歩と克巳が偽者で、試練
がまだ続行中だとするなら、記憶の矛盾もどうにか説明がつく。が、百パーセントありえ
ない話だ。二人が嘘をついていないと断定するなら、自然と、いや必然的に恐るべき仮説
が生み落とされる。
「冗談だろ……まさか、今までのは全部──」
夢。
結論として、一ヶ月間にも及ぶ加藤清澄の無人島での生活は全て、「夢」という一文字
に集約されるに至った。
残酷すぎる真実。どんなに現実的(リアル)で充実していた内容でも、夢であったのな
らば潔く諦めるしかない。分かっているはずなのに、なかなか気持ちの整理がつかない。
もちろん、こんな心境を独歩や克巳と共有するなど不可能だ。バカバカしくて語る気にも
なれない。
ふと、克巳が加藤に水を向ける。
「ところで、うちの井上君って知ってるか?」
「え」
知っているも何も、共に戦い、キスまで済ませた仲だ。もっとも夢の中での話に過ぎな
いが。それでも彼女の名前を聞いた途端、心臓が激しく胸を打つのが分かった。
「女子部の娘なんだが、ちょっと前にまったく稽古に出なくなった時期があってな。で、
十日くらい前にひょっこり復帰したらしいんだが、そしたら別人のように強くなってたら
しいんだな。
まぁそれはさておき、五日前アンタを見舞いに行った時、偶然彼女に会ったんだよ。ん
で“どうしてこんなところに”って聞いたら彼女なんて答えたと思う?」
「さぁ」
「“加藤先輩を見舞いに来た”って答えたよ。しかも“詳しいことは話せないが、先輩は
五日後に必ず目覚める”ともな。みごとに当たってたよ」
加藤は脊髄に電流を放り込まれたかの如き衝撃を受けた。
「でも、おまえと井上君って面識あったっけ?」
「えぇと……」少し考えてから、加藤は答えた。「一度もないな」
「だよな。ま、アンタがやられたって報は神心会中に広まったからな(つうか、俺が広め
たようなもんだけど)。それで知ったのかもな」
会話も一段落し、再会の喜びを分かち合う加藤と克巳。若い神心会戦士の笑い声がこだ
まする。
しかし、なぜか独歩は神妙な顔つきを崩さない。
「親父ィ、どうしたんだよ。色々あったけどさ、ひとまず回復を祝ってやろうぜ」
「加藤よ」
五十五年間で培われた観察眼が、意識を取り戻して間もない患者を鋭く射抜く。
「おめぇ……少し、いやかなり強くなってねぇか……?」
「おいおい親父、どうしたんだよ。だって加藤はずっと寝たきり──」
すぐに克巳も察した。
夢ではあったが夢ではなかった。無人島で毎日欠かさなかった鍛錬と、試練との激闘の
記録は、心と体にしっかりと刻み込まれていた。
独歩、克巳に続き、ようやく加藤も気づく。
全ては紛れもない現実であった、と。
一度気づけば、芋づる式に自覚できる。入院していたにもかかわらず、筋量が増えてい
る。会得した数々の術も、今すぐにだって出せる。
歯茎をむき出し、力ずくで加藤を引き起こす独歩。
「よしっ! さっそく退院して、ちょいと手合わせといこうや」
「おいおいおいおいおい」
「いいスよ、館長……。ぶっちゃけ敗けませんよ」
「おいおい、お前までッ!」
あくまで常識人を装う克巳だが、すでに彼の心も決まっていた。
父であり師でもある偉大なる武神と、不可解なレベルアップを果たしたデンジャラスラ
イオン。どちらが上か、観戦したい。そして出来るなら、自分も混ざりたい。
「よっしゃ克巳、さっそく院長に手ェ回して、退院の手続き取ってこいや」
「親父にゃあ、敵わねぇなァ~」
「へっ、バカヤロウ、おめぇも好きなくせによ」
「ハハ、バレてましたか……」
こうして、あれよあれよと加藤の退院は実現した。
「ところで、加藤よ」
「あン?」
「おめぇ目ぇ覚ました時、独歩っていってたが、まだオイラァおめぇに呼び捨てされる筋
合いはねぇぜ?」
「え? いや、あれは違うんだよ。館長じゃなく、虎の名前で……」
「虎なんてどこにいるんでぇ」
「いや、どこにっつうか……何でもないス。──ゴメンナサイ」
その後、病院の出口で加藤はある戦友のことを思い出した。
「そういやァ館長。大方末堂の奴もさっきまでの俺みたいに、この病院で寝たきりなんだ
ろ? あいつも近いうちにうち起きるから、心配しなくていいぜ」
日が傾き、空が夜を歓迎するために燃え上がっている。公園にほとんど人気はなく、犬
を連れている人や、これから帰社するであろうサラリーマンが、ぽつぽつ歩いているだけ
だ。
女性が独り、ベンチに腰を下ろしている。
理由は待ち合わせ。約束はしていない。なのに、彼女が待っている人間は必ずここへ来
るという自信があった。
ベンチはお世辞にも上等とはいえず、ひんやりとした感触が心地悪い。が、たとえ北風
であろうと太陽であろうと、彼女を移動させる力は持たない。
やがてスニーカーが軽快に地面を蹴る音が聞こえてきた。
これだ、と女性の中で直感が轟いた。
「井上」
「先輩」
直感は正しかった。座る女と立つ男、両者の視線が斜線を描いて交わった。
「戻ったぜ」
男が息を弾ませているのは、ロードワークだけが原因ではあるまい。
「道場で会うってハナシだったが、やっぱあそこじゃ色々と目立つからな。と思って来て
みたら、やっぱり居てくれたな」
「私も同じことを考えて、ここで待ってました。神心会本部に近くて、再会しやすい場所
といったらここしかないですから」
「敵わねぇなァ……」
苦笑いする加藤に、井上が好奇心を満面に浮かべて問いかける。
「ところで、館長とはどうでした……?」
「え、どうして俺が試合したことを……?」
「分かりますよ。真新しい絆創膏やバンテージが貼ってますもん」
「おまえにゃ空手だけじゃなく、探偵の才能もあるみてぇだな」
ふぅ、と嘆息すると、加藤は独歩との試合結果を報告した。
加藤が手を差し伸べると、井上はその手を握った。
「行くか!」
「オス!」
共に空手を志す雄と雌。彼らの本当の試練は今日を以って開始された。
お わ り