レッドの耳には、ガタゴトと揺れる車両の音と、トンネルを通過するときに特有の空気の圧搾音が響いていた。
ふと、隣に立つセピアを見る。
いったいなにが面白いのか、セピアは窓にぴったり頬をよせ、窓の外の景色──
コンクリートの壁や、そこに張り巡らされたケーブル類やパイプが後方に流れていくのを飽きもせずに眺めている。
──今回レッドとセピアに言い渡された任務は、貨物の護衛だった。
エグリゴリのダミー企業が運営する地下鉄経路を使い、『ある荷物』を『ある場所』まで運ぶ。
正規の線路とダイヤグラムの隙間を縫い、特別車両がニューヨークの地下を通って都市外へと無事に運び出されるまで、
二人は襲撃者に備えて車両に同乗しなければならない──そういう任務だった。
その貨物の内容や、それが送り届けられる最終目的地をレッドは知らされていない。
(ブラックの野郎……相変わらずの秘密主義だな)
と苦々しく思うが──実のところ、その程度のことにはすでに慣れっこになっていた。
どれだけ任務の内容に不満があったところで、レッドにはそれを拝命する以外の選択肢は存在しないのだ。
そう──それはちょうど、キース・セピアという少女を命令によって連れて歩いているのと同じように。
「──なあに?」
視線に気付いたセピアが、小首を傾げてレッドの瞳を覗き込む。
その仕草には屈託というものがまるでなく、数日前に彼女が見せた、虚無の塊のような表情は欠片も残っていない。
「なんでもねーよ。よくもまあそんなに熱心にトンネルなんぞ眺めていられるなって思ってただけだ」
ふと、隣に立つセピアを見る。
いったいなにが面白いのか、セピアは窓にぴったり頬をよせ、窓の外の景色──
コンクリートの壁や、そこに張り巡らされたケーブル類やパイプが後方に流れていくのを飽きもせずに眺めている。
──今回レッドとセピアに言い渡された任務は、貨物の護衛だった。
エグリゴリのダミー企業が運営する地下鉄経路を使い、『ある荷物』を『ある場所』まで運ぶ。
正規の線路とダイヤグラムの隙間を縫い、特別車両がニューヨークの地下を通って都市外へと無事に運び出されるまで、
二人は襲撃者に備えて車両に同乗しなければならない──そういう任務だった。
その貨物の内容や、それが送り届けられる最終目的地をレッドは知らされていない。
(ブラックの野郎……相変わらずの秘密主義だな)
と苦々しく思うが──実のところ、その程度のことにはすでに慣れっこになっていた。
どれだけ任務の内容に不満があったところで、レッドにはそれを拝命する以外の選択肢は存在しないのだ。
そう──それはちょうど、キース・セピアという少女を命令によって連れて歩いているのと同じように。
「──なあに?」
視線に気付いたセピアが、小首を傾げてレッドの瞳を覗き込む。
その仕草には屈託というものがまるでなく、数日前に彼女が見せた、虚無の塊のような表情は欠片も残っていない。
「なんでもねーよ。よくもまあそんなに熱心にトンネルなんぞ眺めていられるなって思ってただけだ」
セピアのことであれこれ考えるのはやめよう。
あの夜、レッドはそう結論付けた。
レッドを振り回しては様々な感情を臆面もなく押し付けてくるセピア。
かと思えば、それとは打って変わって不気味なほどの無表情でこちらを見つめるセピア。
いったい『どっち』なのか──どちらが本物のセピアなのか、レッドには分からなかった。
また、分かるはずもなかった。当のセピアが、そうしたことに関してなにも語ろうとしないのだから。
ならば、レッドはその疑問を切り捨てるしかない。
セピアが本当はどういった存在なのかも、彼女がうなされ続ける悪夢のことも、
すべては自分と関係のないことだと割り切り、ただ与えられた任務を──セピアの監督者としての役割を全うする。
所詮、セピアも命令だから自分の側にいるだけなのだ。
外部から押し付けられた、形ばかりの関係性のことで、ぐだぐだ思い悩むのは馬鹿げている。
──それが、一晩中苛々しながらセピアの寝顔を眺めた末に辿り着いた、たったひとつの事柄だった。
あの夜、レッドはそう結論付けた。
レッドを振り回しては様々な感情を臆面もなく押し付けてくるセピア。
かと思えば、それとは打って変わって不気味なほどの無表情でこちらを見つめるセピア。
いったい『どっち』なのか──どちらが本物のセピアなのか、レッドには分からなかった。
また、分かるはずもなかった。当のセピアが、そうしたことに関してなにも語ろうとしないのだから。
ならば、レッドはその疑問を切り捨てるしかない。
セピアが本当はどういった存在なのかも、彼女がうなされ続ける悪夢のことも、
すべては自分と関係のないことだと割り切り、ただ与えられた任務を──セピアの監督者としての役割を全うする。
所詮、セピアも命令だから自分の側にいるだけなのだ。
外部から押し付けられた、形ばかりの関係性のことで、ぐだぐだ思い悩むのは馬鹿げている。
──それが、一晩中苛々しながらセピアの寝顔を眺めた末に辿り着いた、たったひとつの事柄だった。
四両編制の特別列車の最後尾、じっと窓の外に視線を這わせていたセピアが、
「……ねえ、レッド。ちょっと」
「なんだ、白兎でも見つけたか?」
皮肉っぽい調子で肩をそびやかすレッドを手招きする。
「なに言ってるの。いいから見てよ」
面倒臭さそうにしながらも、セピアと顔を並べて窓に視線を向けたレッド。その眉が、む、とひそめられた。
つい先程ちらりと見たのと同じ、矢を飛ばすような勢いで後方へと流れていく殺風景がそこにあった。
だが――
「速度が……落ちている?」
レッドの視界を過ぎるトンネルの壁が、さっきよりも、そして徐々に明確な輪郭を見せるようになっていた。
それはつまり列車とトンネルの相対速度が減じているということで――、
「……なんでこんな所でブレーキかけてんだ?」
「さあ。わたしに聞かれても」
扉の横に据え付けられた端末を取り上げ、運転室のある先頭車輌へ通信――応答無し。
「――――?」
不安げにレッドの横顔を覗き込むセピアを半ば無視して、それぞれ警備兵が詰めているはずの第二車輌、第三車輌を呼び出す――応答無し。
はっとなったレッドは、慌てて車輌の連結部に駆け寄り、扉の小窓から第三車輌の内部を覗く。
次の瞬間には、大声で叫んでいた。
「セピア! 『モックタートル』の識閾を上げろ! 侵入者だ!」
四角に切り取られた視野に映るのは――夥しい量の血の海、壁に床にと倒れ込むメイド・バイ・エグリゴリのサイボーグ兵士たち。
彼らが既に絶命しているのは明らかだった。
各々が驚愕の表情にかたどられた死相を呈しており、それぞれ眉間、鳩尾、喉など――
場所は様々ながらも、正中線上の人体急所に寸分違わず短刀のようなものが叩き込まれていた。
離れた距離から死体を見るレッドの目にも、彼らが――恐るべき技量を持つ『誰か』によって――
反撃の暇すら与えられず、ただの一撃で死に至らしめられたことが分かる。
「セピア!」
振り返ってセピアを――彼女のARMS『モックタートル』による侵入者の探知を催促するも、
「わか、分かんない――どこにいるか、分からないの!」
その言葉の意味に、レッドは戦慄した。
直前に減速されていたとはいえ、走行中の列車に飛び乗り――いや、そもそも減速させるなんらかの手段を講じ――
車内にひしめく十数名の強化サイボーグを無音で瞬殺し――その一連の行為を『モックタートル』に感づかれることなく遂行したばかりか、
今まさに警戒状態にあるセピアに居場所を掴ませないとは――
およそ人間のなしえる所業とは思えなかった。
こうしているあいだにも、列車はどんどん慣性エネルギーを使い果たしてスピードを落としてゆく。
完全に停止する前になんとかしなければならない。この都市の地下深くで襲撃を受けたことを考えると、
待ち伏せされたことは当然のこととして――更なる戦力が待機してるものと思わなければならないだろう。
「くそ――」
レッドは荒々しくセピアの肘をつかみ、背後にそびえる貨物庫の扉まで引き寄せる。
「開けろ。中のブツを持って逃げるぞ」
「……すごい重いものだったらどうするの?」
「開ける前からそんな心配してんじゃねーよ。いいから開けろ」
「でも、わたしパスコード知らない」
「オレだって知らねーよ! あんたの『モックタートル』でこじ開けろって言ってんだよ!」
ブラックの秘密主義の弊害をここで云々しても始まらない。
今は、自分たちに出来る最大限で、この状況を切り抜けなければならない。
「――でも、いいの?」
「いいも悪いもあるか! 死にたくなかったらさっさとしろ!」
つい怒鳴り付けてしまうが、それでもセピアは素直に扉の前に立ち、
「――あ!」
「今度はなんだ!?」
「上よ! ――屋根に『誰か』がいる!」
反射的に見上げたレッドの瞳に、黒っぽい影が車内に躍り込もうとしているのが見えた。
「……ねえ、レッド。ちょっと」
「なんだ、白兎でも見つけたか?」
皮肉っぽい調子で肩をそびやかすレッドを手招きする。
「なに言ってるの。いいから見てよ」
面倒臭さそうにしながらも、セピアと顔を並べて窓に視線を向けたレッド。その眉が、む、とひそめられた。
つい先程ちらりと見たのと同じ、矢を飛ばすような勢いで後方へと流れていく殺風景がそこにあった。
だが――
「速度が……落ちている?」
レッドの視界を過ぎるトンネルの壁が、さっきよりも、そして徐々に明確な輪郭を見せるようになっていた。
それはつまり列車とトンネルの相対速度が減じているということで――、
「……なんでこんな所でブレーキかけてんだ?」
「さあ。わたしに聞かれても」
扉の横に据え付けられた端末を取り上げ、運転室のある先頭車輌へ通信――応答無し。
「――――?」
不安げにレッドの横顔を覗き込むセピアを半ば無視して、それぞれ警備兵が詰めているはずの第二車輌、第三車輌を呼び出す――応答無し。
はっとなったレッドは、慌てて車輌の連結部に駆け寄り、扉の小窓から第三車輌の内部を覗く。
次の瞬間には、大声で叫んでいた。
「セピア! 『モックタートル』の識閾を上げろ! 侵入者だ!」
四角に切り取られた視野に映るのは――夥しい量の血の海、壁に床にと倒れ込むメイド・バイ・エグリゴリのサイボーグ兵士たち。
彼らが既に絶命しているのは明らかだった。
各々が驚愕の表情にかたどられた死相を呈しており、それぞれ眉間、鳩尾、喉など――
場所は様々ながらも、正中線上の人体急所に寸分違わず短刀のようなものが叩き込まれていた。
離れた距離から死体を見るレッドの目にも、彼らが――恐るべき技量を持つ『誰か』によって――
反撃の暇すら与えられず、ただの一撃で死に至らしめられたことが分かる。
「セピア!」
振り返ってセピアを――彼女のARMS『モックタートル』による侵入者の探知を催促するも、
「わか、分かんない――どこにいるか、分からないの!」
その言葉の意味に、レッドは戦慄した。
直前に減速されていたとはいえ、走行中の列車に飛び乗り――いや、そもそも減速させるなんらかの手段を講じ――
車内にひしめく十数名の強化サイボーグを無音で瞬殺し――その一連の行為を『モックタートル』に感づかれることなく遂行したばかりか、
今まさに警戒状態にあるセピアに居場所を掴ませないとは――
およそ人間のなしえる所業とは思えなかった。
こうしているあいだにも、列車はどんどん慣性エネルギーを使い果たしてスピードを落としてゆく。
完全に停止する前になんとかしなければならない。この都市の地下深くで襲撃を受けたことを考えると、
待ち伏せされたことは当然のこととして――更なる戦力が待機してるものと思わなければならないだろう。
「くそ――」
レッドは荒々しくセピアの肘をつかみ、背後にそびえる貨物庫の扉まで引き寄せる。
「開けろ。中のブツを持って逃げるぞ」
「……すごい重いものだったらどうするの?」
「開ける前からそんな心配してんじゃねーよ。いいから開けろ」
「でも、わたしパスコード知らない」
「オレだって知らねーよ! あんたの『モックタートル』でこじ開けろって言ってんだよ!」
ブラックの秘密主義の弊害をここで云々しても始まらない。
今は、自分たちに出来る最大限で、この状況を切り抜けなければならない。
「――でも、いいの?」
「いいも悪いもあるか! 死にたくなかったらさっさとしろ!」
つい怒鳴り付けてしまうが、それでもセピアは素直に扉の前に立ち、
「――あ!」
「今度はなんだ!?」
「上よ! ――屋根に『誰か』がいる!」
反射的に見上げたレッドの瞳に、黒っぽい影が車内に躍り込もうとしているのが見えた。
いやに甲高い破裂音を響かせ、四両編制の特別列車が内部から破裂した。
それは炎も熱も煙もなく、ただ風船が割れたような、派手ではあるが大した威力の無い――そういう破壊だった。
それでも列車全体を吹き飛ばす程度のものではあり、飛び散った構造物がさらに派手な音を立ててトンネル内を乱舞する。
膨張する空気が逃げ場を求めて暴れ回り、コンクリート壁に亀裂を走らせる。
やがて爆圧がトンネルを伝って遠くへ伸びてゆき、周囲の状況が平静を取り戻し――
もうもうと立ち込める粉塵が晴れたころ、か細い非常灯のオレンジ光の下で一つの人影がふらりと立ち上がった。
その人影は軽い仕草で肩の塵を払い、「ふむ」と一息吐いて辺りを睥睨する。
「しかし――ずいぶんと派手にやったものだな?」
その気軽な口調に応える者はいない、
「私の侵入を避けられず、貨物の保護も間に合わないと悟るや、即座に自ら列車を破壊するとは――」
一人芝居でもしているように、そしてどこか面白がっているように首を振り、
「その、我が身を顧みぬ思い切りの良さと潔さは驚嘆に値するね。
まさに烈火の如き心の持ち主だ――だが半面、とても危うくもある。
……それが君のやり方なのかね? キース・レッドくん」
そこでやっと、彼の声に応える者があった。
瓦礫の山と化した列車の下から、鉄板を跳ね飛ばして姿を現す二人――、
闘争心に充ちた凶悪な目つきで彼を睨み据える少年と、
場違いなまでにおどおどとした態度でその背後に隠れる少女――、
キース・レッドとキース・セピアだった。
それは炎も熱も煙もなく、ただ風船が割れたような、派手ではあるが大した威力の無い――そういう破壊だった。
それでも列車全体を吹き飛ばす程度のものではあり、飛び散った構造物がさらに派手な音を立ててトンネル内を乱舞する。
膨張する空気が逃げ場を求めて暴れ回り、コンクリート壁に亀裂を走らせる。
やがて爆圧がトンネルを伝って遠くへ伸びてゆき、周囲の状況が平静を取り戻し――
もうもうと立ち込める粉塵が晴れたころ、か細い非常灯のオレンジ光の下で一つの人影がふらりと立ち上がった。
その人影は軽い仕草で肩の塵を払い、「ふむ」と一息吐いて辺りを睥睨する。
「しかし――ずいぶんと派手にやったものだな?」
その気軽な口調に応える者はいない、
「私の侵入を避けられず、貨物の保護も間に合わないと悟るや、即座に自ら列車を破壊するとは――」
一人芝居でもしているように、そしてどこか面白がっているように首を振り、
「その、我が身を顧みぬ思い切りの良さと潔さは驚嘆に値するね。
まさに烈火の如き心の持ち主だ――だが半面、とても危うくもある。
……それが君のやり方なのかね? キース・レッドくん」
そこでやっと、彼の声に応える者があった。
瓦礫の山と化した列車の下から、鉄板を跳ね飛ばして姿を現す二人――、
闘争心に充ちた凶悪な目つきで彼を睨み据える少年と、
場違いなまでにおどおどとした態度でその背後に隠れる少女――、
キース・レッドとキース・セピアだった。
レッドは内心で舌打ちしながら、前方十数メートルに立つ男を見た。
瓦礫に隠れて息を潜めていれば隙も生まれるかも知れないと期待していたのだが、さすがにそう都合よくはいかないらしい。
地上の陽光からは隔絶され僅かな非常灯だけが頼りとあっては、
相手の姿を正確に捉えることができず、それがなんとも苛立たしかった。
(それに、この距離――)
レッドたちと相手の間に横たわる空間は、先手を取って攻勢に移るには遠すぎて、
逃走に転じるには近すぎる――そんな絶妙な位置関係を形成していた。
このまま慎重に相手の出方を窺うしか手はなさそうだったが、むしろそれが向こうの狙いなのかも知れない。
周囲を分厚いコンクリートに阻まれ、目の前の男に選択肢を削がれ――得体の知れない閉塞感がそっとレッドの喉元に忍び寄る。
その嫌な感じを振り払うように、小声でセピアに呼び掛ける。
「――セピア。周りを探れ。あと何人いる?」
攻撃にも逃走にも移らないのは、情報が不足しているから――
決して、あの男に戦況判断を操作されているからじゃない、そう自分に言い聞かせながら。
「何人って……なにも感じない」
「するとなにか、ヤツみたいに気配を完璧に消せるような手練ればかりが潜んでるってことか? ……くそ、嫌になるな」
自棄気味に毒づくレッドの袖を引き、微かに首を振るセピア。
「ううん……そうじゃなくて。さっきは電車も動いてたし、あの人のことだって『どこにいるか』が分からなかっただけで、
『いる』ってことは『モックタートル』でもなんとか分かったの。だけど」
セピアの視線がちらりと前を向く。
「こんな静かなところなら間違えっこない。あの人だけ。他には誰もいないわ。
音響、熱分布、電磁波、生体波動、全部試した」
セピアの肌に移植された情報制御用ARMS『モックタートル』――その探査能力を信じるなら、その通りなのだろう。
だが、それなら、これはいったいどういうことだろうか?
確かに少人数で大多数を攻撃できるのが待ち伏せという戦術の利点だが、それにしてもたった一人というのは――?
(ええい、ごちゃごちゃ考えても仕方ねえ!)
敵が一人というなら話は早い。挟撃のリスクを心配することなく戦えるのだから、
「あの野郎を叩き斬ればいいんだろ!?」
腕に眠る『グリフォン』を発動させ、足を踏み出した瞬間、
「待って!」
なにかが風を切る鋭い音、なにかが地面に突き刺さる鈍い音。
セピアが飛びついてレッドを引き止めるのと、ちょうどレッドが足を置こうとしていた場所に板状の鉄塊がいきなり出現するのが同時だった。
その『なにか』が飛来した方向を見る――いや、見るまでもなかった。
暗がりにたった独りで立つ『そいつ』が今しがた『なにか』を投擲したばかりなのだと、差し延べられた腕が如実に語っていた。
「『兵は拙速を尊ぶ』と言うが……勇み足は良くないな、キース・レッドくん」
『そいつ』の穏やかだが容赦のない声を耳にしながら、レッドは危うく自分の脚を貫通するところだったものを見る。
最初に短刀だと思った『それ』は、柄も鍔もない裸の刀身の――日本映画でしか見たことのないような武具――クナイだった。
驚きと違和感による混乱で言葉もないレッドへ向かい、『そいつ』一歩進み出し、非常灯の真下に身を晒す。
レッドは知る、他に誰も襲撃者がいないのは、『そいつ』一人で十分であるという静かな自信と冷静な判断によるものだと。
極限まで機能性を追求した黒装束、またそれを纏うに相応しく機能的に引き絞られた肉体――
その場の空気にあっという間に溶け込んでしまいそうでありながら、確かに『ここにいる』という巨大な存在感を併せ持つ『そいつ』。
それはさながら、狩人の中の狩人、或いは――
それが虚勢に過ぎないと知りながら、それでもレッドはふざけた軽口を叩かずにはいられなかった。
「……てめー、どこのニンジャスターだ? ハリウッドに帰れ」
「いや……私はただの単身赴任中のサラリーマンさ。趣味で忍術を少々、ね」
――或いはさながら、静かな狼のように。
瓦礫に隠れて息を潜めていれば隙も生まれるかも知れないと期待していたのだが、さすがにそう都合よくはいかないらしい。
地上の陽光からは隔絶され僅かな非常灯だけが頼りとあっては、
相手の姿を正確に捉えることができず、それがなんとも苛立たしかった。
(それに、この距離――)
レッドたちと相手の間に横たわる空間は、先手を取って攻勢に移るには遠すぎて、
逃走に転じるには近すぎる――そんな絶妙な位置関係を形成していた。
このまま慎重に相手の出方を窺うしか手はなさそうだったが、むしろそれが向こうの狙いなのかも知れない。
周囲を分厚いコンクリートに阻まれ、目の前の男に選択肢を削がれ――得体の知れない閉塞感がそっとレッドの喉元に忍び寄る。
その嫌な感じを振り払うように、小声でセピアに呼び掛ける。
「――セピア。周りを探れ。あと何人いる?」
攻撃にも逃走にも移らないのは、情報が不足しているから――
決して、あの男に戦況判断を操作されているからじゃない、そう自分に言い聞かせながら。
「何人って……なにも感じない」
「するとなにか、ヤツみたいに気配を完璧に消せるような手練ればかりが潜んでるってことか? ……くそ、嫌になるな」
自棄気味に毒づくレッドの袖を引き、微かに首を振るセピア。
「ううん……そうじゃなくて。さっきは電車も動いてたし、あの人のことだって『どこにいるか』が分からなかっただけで、
『いる』ってことは『モックタートル』でもなんとか分かったの。だけど」
セピアの視線がちらりと前を向く。
「こんな静かなところなら間違えっこない。あの人だけ。他には誰もいないわ。
音響、熱分布、電磁波、生体波動、全部試した」
セピアの肌に移植された情報制御用ARMS『モックタートル』――その探査能力を信じるなら、その通りなのだろう。
だが、それなら、これはいったいどういうことだろうか?
確かに少人数で大多数を攻撃できるのが待ち伏せという戦術の利点だが、それにしてもたった一人というのは――?
(ええい、ごちゃごちゃ考えても仕方ねえ!)
敵が一人というなら話は早い。挟撃のリスクを心配することなく戦えるのだから、
「あの野郎を叩き斬ればいいんだろ!?」
腕に眠る『グリフォン』を発動させ、足を踏み出した瞬間、
「待って!」
なにかが風を切る鋭い音、なにかが地面に突き刺さる鈍い音。
セピアが飛びついてレッドを引き止めるのと、ちょうどレッドが足を置こうとしていた場所に板状の鉄塊がいきなり出現するのが同時だった。
その『なにか』が飛来した方向を見る――いや、見るまでもなかった。
暗がりにたった独りで立つ『そいつ』が今しがた『なにか』を投擲したばかりなのだと、差し延べられた腕が如実に語っていた。
「『兵は拙速を尊ぶ』と言うが……勇み足は良くないな、キース・レッドくん」
『そいつ』の穏やかだが容赦のない声を耳にしながら、レッドは危うく自分の脚を貫通するところだったものを見る。
最初に短刀だと思った『それ』は、柄も鍔もない裸の刀身の――日本映画でしか見たことのないような武具――クナイだった。
驚きと違和感による混乱で言葉もないレッドへ向かい、『そいつ』一歩進み出し、非常灯の真下に身を晒す。
レッドは知る、他に誰も襲撃者がいないのは、『そいつ』一人で十分であるという静かな自信と冷静な判断によるものだと。
極限まで機能性を追求した黒装束、またそれを纏うに相応しく機能的に引き絞られた肉体――
その場の空気にあっという間に溶け込んでしまいそうでありながら、確かに『ここにいる』という巨大な存在感を併せ持つ『そいつ』。
それはさながら、狩人の中の狩人、或いは――
それが虚勢に過ぎないと知りながら、それでもレッドはふざけた軽口を叩かずにはいられなかった。
「……てめー、どこのニンジャスターだ? ハリウッドに帰れ」
「いや……私はただの単身赴任中のサラリーマンさ。趣味で忍術を少々、ね」
――或いはさながら、静かな狼のように。