3
その惨状の中、行動できたのは薬売りだけだった。
ご主人の倒れるか倒れないかのうちに白い札のようなものを襖に投げつける。
札の一枚が襖に張り付き、そのまま無数の札の列が円を描くようにぐるりと部屋を一周した。
白かった札に何かの文字が一瞬浮かび、それがぞろりと溶けて目玉を描く。
ご主人が僅かに開けた襖は、薬売りが札を指差して横にスライドするだけでぴっちりと閉じる。
……宿の主人が倒れてから、桂木弥子が三回瞬きをする間のことだった。
ご主人の倒れるか倒れないかのうちに白い札のようなものを襖に投げつける。
札の一枚が襖に張り付き、そのまま無数の札の列が円を描くようにぐるりと部屋を一周した。
白かった札に何かの文字が一瞬浮かび、それがぞろりと溶けて目玉を描く。
ご主人が僅かに開けた襖は、薬売りが札を指差して横にスライドするだけでぴっちりと閉じる。
……宿の主人が倒れてから、桂木弥子が三回瞬きをする間のことだった。
主人に駆け寄るものは居なかった。皆非現実的な光景に自失状態なのかもしれない。
女将ですからへたり込んだまま呆然と夫を眺めている。
ヤコは再び主人に目をやった。
倒れた主人は全く動かない。ばっくりと裂けた喉からは一滴も血が出ていないのが異様だった。
傷口はただ赤く、覗いた肉がてらてらと光っている。
女将ですからへたり込んだまま呆然と夫を眺めている。
ヤコは再び主人に目をやった。
倒れた主人は全く動かない。ばっくりと裂けた喉からは一滴も血が出ていないのが異様だった。
傷口はただ赤く、覗いた肉がてらてらと光っている。
「こ……これで安全なのかな」
主人を遠巻きに見ながら中村が言う。
「さあ。それは、どうだか。時間は稼げるでしょうがね」
薬売りは薬箪笥から何か取り出しながら答えた。そして急に振り返りヤコを見る。
「ヤコさん、手伝っちゃあくれませんか」
「は?ええと」
ヤコは何故自分なのかと問いかけたが、周囲を見て納得した。
女将も安藤も中村も、そして籠原叶絵もまだ呆然としている。
事態が全く飲み込めないのはヤコも一緒だが、異常事態慣れしている分まだ頭も身体も機能している。
それと奇人変人に人外のものにも慣れている。全く嬉しくないのだけれど。
薬売りに幾つも手渡されたそれはヤジロベーに似ていた。白く逆三角形で、左右には鈴がついている。
装飾も施されていてどちらかというとベネツィアあたりの祭りの仮面に形が似ているかもしれない。
「あの、これは」
「天秤ですよ。……物の怪との、距離を測るためのもの。物の怪が近づくと傾くんですよ」
「てんびん……」
天秤ってそんな使い方だったかとヤコが考えていると、目の前に一つが浮き上がった。
天秤はヤコにお辞儀をするように前に傾き、鈴がりんとなる。なんだか礼儀正しい。
「あ、ありがとう」
天秤に挨拶をされヤコもぺこんとお辞儀を返す。視界の隅で薬売りが少し目を細めた気がした。
主人を遠巻きに見ながら中村が言う。
「さあ。それは、どうだか。時間は稼げるでしょうがね」
薬売りは薬箪笥から何か取り出しながら答えた。そして急に振り返りヤコを見る。
「ヤコさん、手伝っちゃあくれませんか」
「は?ええと」
ヤコは何故自分なのかと問いかけたが、周囲を見て納得した。
女将も安藤も中村も、そして籠原叶絵もまだ呆然としている。
事態が全く飲み込めないのはヤコも一緒だが、異常事態慣れしている分まだ頭も身体も機能している。
それと奇人変人に人外のものにも慣れている。全く嬉しくないのだけれど。
薬売りに幾つも手渡されたそれはヤジロベーに似ていた。白く逆三角形で、左右には鈴がついている。
装飾も施されていてどちらかというとベネツィアあたりの祭りの仮面に形が似ているかもしれない。
「あの、これは」
「天秤ですよ。……物の怪との、距離を測るためのもの。物の怪が近づくと傾くんですよ」
「てんびん……」
天秤ってそんな使い方だったかとヤコが考えていると、目の前に一つが浮き上がった。
天秤はヤコにお辞儀をするように前に傾き、鈴がりんとなる。なんだか礼儀正しい。
「あ、ありがとう」
天秤に挨拶をされヤコもぺこんとお辞儀を返す。視界の隅で薬売りが少し目を細めた気がした。
ヤコは薬売りの指示で床の隅に天秤を置いていく。これも部屋を一周させるようだ。
そんなヤコを見ながら安藤が薬売りを見た。
「これで俺らもご主人みたいに死なずにすむのかい」
薬売りは天秤を置く手を止めてちらりと安藤を見る。
「まだご主人は死んじゃあいませんよ。―――今のところは」
「今のところは?」
皆が薬売りを見る。
ピクリとも動かず呼吸もしていないこのご主人の状態で死んでいないと言うのは通常ありえないが―――、
今は『通常』ではないということを思い出したのか誰も何も言わない。
「まあ……、こちらが物の怪を斬る前にここに居る全員が斬られてしまえば分かりませんが、ね」
つまり、物の怪に斬られてもとりあえずは死なないが全員が斬られてしまえば分からない、ということか。
一瞬安心しかけた皆も再び顔が強張る。
「き、斬るってえとアンタの剣で化け物を斬ってくれりゃいいんだな」
なんとか安心したいのか、安藤が再び言う。
「早くなんとかしてくれ、こんなのはもう嫌だ」
「言ったでしょう。斬れませんよ、今のままでは」
薬売りは退魔の剣を見る。
「この物の怪の『形』と『真』と『理』が揃わねば、この退魔の剣を抜くことはできない」
「意味わかんねえよ!」
中村は頭を抱える。当然だ。ヤコだってそんなことを言われても何をどうすればいいのか分からない。
女将も動かないご主人と薬売りを見比べながらオロオロとしているし、
叶絵だって「ヤコ意味分かる?」と囁いてくる。
「ああもう、何でこんなことになったんだ!ここにきたのはあれ以来二回目だってのに!
こないだだって化け物に殺されなきゃいけないようなこたぁしてねえ!」
安藤が頭を抱えて喚く。
「あれ以来、ですか」
安藤の言葉に何を感じたのか薬売りが静かに言葉を挟む。
「取材だよ、火事の。俺は記者だ」
「―――ほう」
「半年くらい前にな、この近くで火事が有ったんだ。まだ若い母親と幼い三人の兄妹が死んだよ。
……貧しい親子でな、無理心中だとさ。やるせねえよな」
その事件はヤコも聞いたことが有った。
母親が子供たち三人に覆いかぶさるように死んでいたそうだが、
無理心中を図ったものの、死の間際にやはり子供たちを助けようとしたのだろうとされ涙を誘った事件だ。
確か他の新聞より早く無理心中と断定し、
いち早く政治がしっかりしていればというところまで追求し評価された記事が有ったはずだが、それを安藤が書いたのか。
そんなヤコを見ながら安藤が薬売りを見た。
「これで俺らもご主人みたいに死なずにすむのかい」
薬売りは天秤を置く手を止めてちらりと安藤を見る。
「まだご主人は死んじゃあいませんよ。―――今のところは」
「今のところは?」
皆が薬売りを見る。
ピクリとも動かず呼吸もしていないこのご主人の状態で死んでいないと言うのは通常ありえないが―――、
今は『通常』ではないということを思い出したのか誰も何も言わない。
「まあ……、こちらが物の怪を斬る前にここに居る全員が斬られてしまえば分かりませんが、ね」
つまり、物の怪に斬られてもとりあえずは死なないが全員が斬られてしまえば分からない、ということか。
一瞬安心しかけた皆も再び顔が強張る。
「き、斬るってえとアンタの剣で化け物を斬ってくれりゃいいんだな」
なんとか安心したいのか、安藤が再び言う。
「早くなんとかしてくれ、こんなのはもう嫌だ」
「言ったでしょう。斬れませんよ、今のままでは」
薬売りは退魔の剣を見る。
「この物の怪の『形』と『真』と『理』が揃わねば、この退魔の剣を抜くことはできない」
「意味わかんねえよ!」
中村は頭を抱える。当然だ。ヤコだってそんなことを言われても何をどうすればいいのか分からない。
女将も動かないご主人と薬売りを見比べながらオロオロとしているし、
叶絵だって「ヤコ意味分かる?」と囁いてくる。
「ああもう、何でこんなことになったんだ!ここにきたのはあれ以来二回目だってのに!
こないだだって化け物に殺されなきゃいけないようなこたぁしてねえ!」
安藤が頭を抱えて喚く。
「あれ以来、ですか」
安藤の言葉に何を感じたのか薬売りが静かに言葉を挟む。
「取材だよ、火事の。俺は記者だ」
「―――ほう」
「半年くらい前にな、この近くで火事が有ったんだ。まだ若い母親と幼い三人の兄妹が死んだよ。
……貧しい親子でな、無理心中だとさ。やるせねえよな」
その事件はヤコも聞いたことが有った。
母親が子供たち三人に覆いかぶさるように死んでいたそうだが、
無理心中を図ったものの、死の間際にやはり子供たちを助けようとしたのだろうとされ涙を誘った事件だ。
確か他の新聞より早く無理心中と断定し、
いち早く政治がしっかりしていればというところまで追求し評価された記事が有ったはずだが、それを安藤が書いたのか。
「お、俺、それ知ってる。っていうか」
蹲って俯いていた中村がおずおずと手を上げる。
「俺が消防に電話したんだ」
「あの、あたしも」
ご主人の傍にへたり込んでいた女将もそろそろと手を上げた。
「見たんです、その火事。たまたま前を通った時に」
二人をそれぞれ見た薬売りは薄く笑った。
「なるほど。この傷口と三兄妹、これで見えた」
薬売りは退魔の剣の中ほどを握り、横向きのまま襖の方に突き出す。
「この物の怪の『形』は、―――『カマイタチ』」
かちん。
退魔の剣の柄にある狛犬もどきが歯を一回合わせた。
蹲って俯いていた中村がおずおずと手を上げる。
「俺が消防に電話したんだ」
「あの、あたしも」
ご主人の傍にへたり込んでいた女将もそろそろと手を上げた。
「見たんです、その火事。たまたま前を通った時に」
二人をそれぞれ見た薬売りは薄く笑った。
「なるほど。この傷口と三兄妹、これで見えた」
薬売りは退魔の剣の中ほどを握り、横向きのまま襖の方に突き出す。
「この物の怪の『形』は、―――『カマイタチ』」
かちん。
退魔の剣の柄にある狛犬もどきが歯を一回合わせた。
そして、薬売りは今度は安藤たちのほうへ横に持ったままの退魔の剣を突き出す。
「物の怪の『形』を為すのは、人の因果と縁(えにし)」
再び呆然とする安藤たちをよそに、澄んだ通る声で薬売りは言う。
「『真(マコト)』とは事の有様、『理(コトワリ)』とは心の有様。
―――よって皆々様の『真』と『理』、お聞かせ願いたく候」
「物の怪の『形』を為すのは、人の因果と縁(えにし)」
再び呆然とする安藤たちをよそに、澄んだ通る声で薬売りは言う。
「『真(マコト)』とは事の有様、『理(コトワリ)』とは心の有様。
―――よって皆々様の『真』と『理』、お聞かせ願いたく候」
……何かを確信したネウロの声に少し似ている、とヤコは思った。
〈続く〉