いつの頃からか、キース・レッドの心の中ではある『少女』の囁きが聞こえていた。
その声はリフレインする──『憎い』、と。
ただその言葉だけを何度も何度も何度も繰り返し、レッドの意識の隅々までに染み渡らせていた。
その憎しみがどこに向けられたものなのか、レッドは知らない。
少女の声に聞き覚えがあるような気もするし、もしかしたらそれはまったくの気のせいのような気もする。
そんな茫漠の囁きに、レッドはあらゆる物の面影を重ねるのだ。
それは時として自分の兄弟だったり、任務上の敵だったり、或いは自分自身だったりもする。
名も知らぬ──本当に存在するかも疑わしい声に耳を傾け、己の目の前にあるものと重ね合わせるとき、
レッドの両腕に移植されたナノマシン兵器『グリフォン』は常識を超えた機能を発現させる。
その経験の反復を経て、レッドは漠然と理解していた。
『憎しみ』……そしてそこから生み出される『怒り』こそが自分を強くする、と。
『少女』の囁き声(ウィスパー)が聞こえる限り、そしてその声が少しずつ明確な輪郭をとるにつれ、
『グリフォン』はどこまでも強化されるだろう。
そう、『憎い』と繰り返すこの声がレッドの心に届いている限り──。
その声はリフレインする──『憎い』、と。
ただその言葉だけを何度も何度も何度も繰り返し、レッドの意識の隅々までに染み渡らせていた。
その憎しみがどこに向けられたものなのか、レッドは知らない。
少女の声に聞き覚えがあるような気もするし、もしかしたらそれはまったくの気のせいのような気もする。
そんな茫漠の囁きに、レッドはあらゆる物の面影を重ねるのだ。
それは時として自分の兄弟だったり、任務上の敵だったり、或いは自分自身だったりもする。
名も知らぬ──本当に存在するかも疑わしい声に耳を傾け、己の目の前にあるものと重ね合わせるとき、
レッドの両腕に移植されたナノマシン兵器『グリフォン』は常識を超えた機能を発現させる。
その経験の反復を経て、レッドは漠然と理解していた。
『憎しみ』……そしてそこから生み出される『怒り』こそが自分を強くする、と。
『少女』の囁き声(ウィスパー)が聞こえる限り、そしてその声が少しずつ明確な輪郭をとるにつれ、
『グリフォン』はどこまでも強化されるだろう。
そう、『憎い』と繰り返すこの声がレッドの心に届いている限り──。
「レッドー!」
鬱屈した思考の澱にじっと身を委ねていたレッドは、突然横から飛んできたクッションに反応できなかった。
鮮やかな黄色に彩られたクッションが、ぼふ、と側頭部にめりこむ。
数瞬遅れ、クッションがレッドの膝にずり落ちる。
「……なにしやがる」
精一杯の苛立ちをこめて、レッドは目の前の少女をぎろりと睨む。
だが、彼女──キース・セピアは、レッドの凶眼にひるむことなく、
むしろその目つきの悪さを咎めるように、腰に手を当てて強い口調で言い放つ。
「それはこっちのセリフだってば。せっかくわたしがお料理作ってあげたのに、
そのしかめっ面はいったいぜんたいどーゆーつもり?」
「頼んでねーよ、そんなこたぁ」
「うわ、ひっどーい」
「ふふん、そもそもレッドのような無神経で単細胞で乱暴なやつに、この繊細な味が理解できないことを知るべきだよ、セピア。
──もちろん、僕は美味しくいただいているさ。僕にはまっとうな神経が通っているからね」
鼻につく澄まし顔でシチューを口に運ぶのは、レッドやセピアと同じ『キースシリーズ』の少年──キース・グリーンだった。
今、三人がいるのは、レッドが寝床として使っているアパートメントのリビングであった。
レッドの妹である『キース』──セピアがエグリゴリ本部に配属されてからは、
なぜか……それこそ納得のいく説明が一つもないまま、実に当然のように彼女が居ついてしまっている。
それだけでもレッドにとってはげんなりする話のに、今日はそれに輪をかけて最悪だった。
それはそうだろう。『兄弟』たちの中で特に感情的な部分でソリの合わないグリーンを迎え、食卓を囲んでいるのだから。
「うるせえよ、グリーン。誰にまっとうな神経が通ってるって?」
「……今、言っただろ? 僕だよ」
こんな明け透けな皮肉すら通じないとは幸せな性格してるよな、とレッドは内心で嘆息する。
確かに、彼には神経が通っている。──ただしそれは、まっとうとは程遠い、とんでもなく図太い神経回路だろう。
「レッド。言ってしまえば君は贅沢なのさ。セピアのような可愛い妹がいて、
しかもこうして料理を振舞ってくれるというのに、いったいなにが不満なんだい?」
偉そうに指を立てて述べ立てながら、コップに注がれたグレープジュースを口に運んで一息、
「僕だってセピアの兄なのに、君だけがいつも彼女の手料理にありつけるのは──実にずるいと言わざるを得ないね」
「結局、それが本音かよ……」
「ほーら、グリーン兄さまだってこう言ってるわ。
レッドはもっとわたしに感謝なさい! ──そうですよね、グリーン兄さま!」
明らかに調子に乗ってるグリーンは、なおも涼しげで癇に障る微笑を浮かべてセピアに同調する。
「ふふふ、そうさ。だが君も知っての通り、レッドは恩知らずで我侭でおまけに味音痴ときている。
本来なら身に余るであろうこの幸福を理解できない可哀想なやつなのさ。だからあまり責めないでやってくれ」
「グリーン──お前もう帰れ」
うんざりしてレッドが告げるのへ、セピアは真っ白い歯を剥き出しにして「いーっ」ってした。
「ダメですう、レッドにわたしのお客様を追い出す権利なんかありませーん!」
「ここ、オレのアパートメントなんだが」
「わたしも住んでるんだから、わたしの部屋でもあるんですう!」
自信満々にきっぱりと言い切るセピアの剣幕に押され──レッドは唇を尖らせてそっぽを向くしかなかった。
「……あー、くそ、好きにしやがれ」
まったくもって不本意だった。
なにが不本意かって──こんな生意気なガキに振り回されて好き放題の限りを尽くされているのに、
それを大人しく諦めて受け入れている自分がいる、という事実だった。
鬱屈した思考の澱にじっと身を委ねていたレッドは、突然横から飛んできたクッションに反応できなかった。
鮮やかな黄色に彩られたクッションが、ぼふ、と側頭部にめりこむ。
数瞬遅れ、クッションがレッドの膝にずり落ちる。
「……なにしやがる」
精一杯の苛立ちをこめて、レッドは目の前の少女をぎろりと睨む。
だが、彼女──キース・セピアは、レッドの凶眼にひるむことなく、
むしろその目つきの悪さを咎めるように、腰に手を当てて強い口調で言い放つ。
「それはこっちのセリフだってば。せっかくわたしがお料理作ってあげたのに、
そのしかめっ面はいったいぜんたいどーゆーつもり?」
「頼んでねーよ、そんなこたぁ」
「うわ、ひっどーい」
「ふふん、そもそもレッドのような無神経で単細胞で乱暴なやつに、この繊細な味が理解できないことを知るべきだよ、セピア。
──もちろん、僕は美味しくいただいているさ。僕にはまっとうな神経が通っているからね」
鼻につく澄まし顔でシチューを口に運ぶのは、レッドやセピアと同じ『キースシリーズ』の少年──キース・グリーンだった。
今、三人がいるのは、レッドが寝床として使っているアパートメントのリビングであった。
レッドの妹である『キース』──セピアがエグリゴリ本部に配属されてからは、
なぜか……それこそ納得のいく説明が一つもないまま、実に当然のように彼女が居ついてしまっている。
それだけでもレッドにとってはげんなりする話のに、今日はそれに輪をかけて最悪だった。
それはそうだろう。『兄弟』たちの中で特に感情的な部分でソリの合わないグリーンを迎え、食卓を囲んでいるのだから。
「うるせえよ、グリーン。誰にまっとうな神経が通ってるって?」
「……今、言っただろ? 僕だよ」
こんな明け透けな皮肉すら通じないとは幸せな性格してるよな、とレッドは内心で嘆息する。
確かに、彼には神経が通っている。──ただしそれは、まっとうとは程遠い、とんでもなく図太い神経回路だろう。
「レッド。言ってしまえば君は贅沢なのさ。セピアのような可愛い妹がいて、
しかもこうして料理を振舞ってくれるというのに、いったいなにが不満なんだい?」
偉そうに指を立てて述べ立てながら、コップに注がれたグレープジュースを口に運んで一息、
「僕だってセピアの兄なのに、君だけがいつも彼女の手料理にありつけるのは──実にずるいと言わざるを得ないね」
「結局、それが本音かよ……」
「ほーら、グリーン兄さまだってこう言ってるわ。
レッドはもっとわたしに感謝なさい! ──そうですよね、グリーン兄さま!」
明らかに調子に乗ってるグリーンは、なおも涼しげで癇に障る微笑を浮かべてセピアに同調する。
「ふふふ、そうさ。だが君も知っての通り、レッドは恩知らずで我侭でおまけに味音痴ときている。
本来なら身に余るであろうこの幸福を理解できない可哀想なやつなのさ。だからあまり責めないでやってくれ」
「グリーン──お前もう帰れ」
うんざりしてレッドが告げるのへ、セピアは真っ白い歯を剥き出しにして「いーっ」ってした。
「ダメですう、レッドにわたしのお客様を追い出す権利なんかありませーん!」
「ここ、オレのアパートメントなんだが」
「わたしも住んでるんだから、わたしの部屋でもあるんですう!」
自信満々にきっぱりと言い切るセピアの剣幕に押され──レッドは唇を尖らせてそっぽを向くしかなかった。
「……あー、くそ、好きにしやがれ」
まったくもって不本意だった。
なにが不本意かって──こんな生意気なガキに振り回されて好き放題の限りを尽くされているのに、
それを大人しく諦めて受け入れている自分がいる、という事実だった。
「……レッド、どういう風の吹き回しだ?」
夕餉の時間が終わり、キッチンで鼻歌を歌いながら洗い物をしているセピアを横目で眺め、
リビングのグリーンは隣のレッドの耳元で小さく呟いた。
「なにがだ」
「とぼけんるじゃないよ。君は信じないかも知れないが、僕の目だって節穴じゃない。
セピアが僕をこの晩餐に招待したのなら、なにもおかしいことはない。
だが──残念なことにだね、僕を呼んだのは君だ。言えよ、なにを企んでいる?」
「企んでるって、てめえな……人をなんだと──」
言いかけて、やめた。
こうした事実関係の確認に手間隙をかけることが馬鹿らしく思え、溜め息ひとつついて軽く頷く。
「グリーン、お前……セピアをどう思う?」
「それはどういう意味の質問だい?」
「そのまんまだ。セピアについて思ってることを言えって話だ」
「どうって……妹さ。僕らの掛け替えのない家族の一員だよ」
「そうじゃなくてだな……」
「要領を得ないな……もっとなにについて訊きたいのか、それを先に言えよ」
レッドはちらりとキッチンに視線を走らせ、セピアがこっちの話に耳を傾けていないことを確認する。
セピアの情報制御用ARMS『モックタートル』にかかれば、
彼女にその気がある限りは彼ら自身のARMSを通じて話が筒抜けなので、そんな心配などまるで無意味なのだが。
「……お前、『声』を聞いたことあるか?」
てっきりまた「要領を得ない」といった類の不平が返ってくるとレッドは思っていたが、意外にも、
「──それは、『アリス』のことを言ってるのか?」
「お前にも……聞こえてるのか、グリーン」
「それはそうさ。我らキースシリーズの始祖にして、ナノマシン群体『ARMS』のコアチップの発生源──
マザーARMS『アリス』だろう? どんな形であれ、彼女の『声』が聞こえなければARMSは装着できない」
奇しくも、リビングのテレビからはディズニー映画の『不思議の国のアリス』が放映されている。
帽子屋、三月兎、チェシャ猫の三匹の気違いがアリスを翻弄する『キ印のお茶会(マッド・ティー・パーティー)』のシーンだった。
フェルト処理の水銀中毒、発情期を迎えておかしくなった兎、チェシャーチーズに群がる鼠を捕らえて舌なめずり──
肥大化されたアイデンティティばかりが強調される、三つの怪物たち。
「──なら、夢は見るか?」
レッドの二つ目の質問に、グリーンは肩をすくめて答えた。
「もちろん見るさ。アンドロイドだって電気羊の夢を見るんだ。
僕ら『キース・シリーズ』が夢を見ちゃいけない道理はないよ。そうだろう?」
「どんな夢だ?」
「……そんなの、いちいち覚えちゃいないよ。それが夢ってものじゃないのかい?」
ふと、キッチンからセピアの微かな歌声が空気の流れに乗って聞こえてくる。
「ロンドンばっし、おっちった、おっちった、おっちった、ロンドンばっし、おっちった──」
そのソプラノに耳をかたむけながら、レッドは低く漏らす。
「だよな──それが夢ってもんだよな」
夕餉の時間が終わり、キッチンで鼻歌を歌いながら洗い物をしているセピアを横目で眺め、
リビングのグリーンは隣のレッドの耳元で小さく呟いた。
「なにがだ」
「とぼけんるじゃないよ。君は信じないかも知れないが、僕の目だって節穴じゃない。
セピアが僕をこの晩餐に招待したのなら、なにもおかしいことはない。
だが──残念なことにだね、僕を呼んだのは君だ。言えよ、なにを企んでいる?」
「企んでるって、てめえな……人をなんだと──」
言いかけて、やめた。
こうした事実関係の確認に手間隙をかけることが馬鹿らしく思え、溜め息ひとつついて軽く頷く。
「グリーン、お前……セピアをどう思う?」
「それはどういう意味の質問だい?」
「そのまんまだ。セピアについて思ってることを言えって話だ」
「どうって……妹さ。僕らの掛け替えのない家族の一員だよ」
「そうじゃなくてだな……」
「要領を得ないな……もっとなにについて訊きたいのか、それを先に言えよ」
レッドはちらりとキッチンに視線を走らせ、セピアがこっちの話に耳を傾けていないことを確認する。
セピアの情報制御用ARMS『モックタートル』にかかれば、
彼女にその気がある限りは彼ら自身のARMSを通じて話が筒抜けなので、そんな心配などまるで無意味なのだが。
「……お前、『声』を聞いたことあるか?」
てっきりまた「要領を得ない」といった類の不平が返ってくるとレッドは思っていたが、意外にも、
「──それは、『アリス』のことを言ってるのか?」
「お前にも……聞こえてるのか、グリーン」
「それはそうさ。我らキースシリーズの始祖にして、ナノマシン群体『ARMS』のコアチップの発生源──
マザーARMS『アリス』だろう? どんな形であれ、彼女の『声』が聞こえなければARMSは装着できない」
奇しくも、リビングのテレビからはディズニー映画の『不思議の国のアリス』が放映されている。
帽子屋、三月兎、チェシャ猫の三匹の気違いがアリスを翻弄する『キ印のお茶会(マッド・ティー・パーティー)』のシーンだった。
フェルト処理の水銀中毒、発情期を迎えておかしくなった兎、チェシャーチーズに群がる鼠を捕らえて舌なめずり──
肥大化されたアイデンティティばかりが強調される、三つの怪物たち。
「──なら、夢は見るか?」
レッドの二つ目の質問に、グリーンは肩をすくめて答えた。
「もちろん見るさ。アンドロイドだって電気羊の夢を見るんだ。
僕ら『キース・シリーズ』が夢を見ちゃいけない道理はないよ。そうだろう?」
「どんな夢だ?」
「……そんなの、いちいち覚えちゃいないよ。それが夢ってものじゃないのかい?」
ふと、キッチンからセピアの微かな歌声が空気の流れに乗って聞こえてくる。
「ロンドンばっし、おっちった、おっちった、おっちった、ロンドンばっし、おっちった──」
そのソプラノに耳をかたむけながら、レッドは低く漏らす。
「だよな──それが夢ってもんだよな」
──その夜半。
ああだこうだと理由をつけて長っ尻だったグリーンがしぶしぶ部屋を辞去した後、
テレビの前に陣取って夜更かしを敢行しようとするセピアに、彼女自身の体調を引き合いに出した説得と、
形式上はレッドが彼女の上官であることを盾にした恫喝を同時進行的に加え、
「はいはいはい寝るよ寝ますよ寝ればいーんでしょー?」
「たりめーだ。ガキはとっとと寝ろ」
「レッドだって十分ガキじゃんよ」
「あ? なんか言ったか?」
「なにも言ってませんおやすみなさい」
半分不貞腐れた音を立てて寝室のドアが閉められるのを見届け──レッドは喉にためていた息を全て吐き出した。
「ったく……」
やっと静かになった部屋を見渡し、髪をごしゃごしゃと掻く。
部屋の電気を消し、さっきまでセピアが座っていたソファーに身を横たえる。
寝室をセピアに占拠されている現在、レッドが安眠を貪れる場所は他に無かった。
といってもレッドは寝つきのよいほうではないため、かなりの時間を暗闇の中で凄さねばならないが。
そういうときに考える事は決まりきっていた。
胸の奥に聞こえる『少女』の声だ。
ふと、あまり関係のないことが心に浮かび、瞼が開く。──セピアにも、この声が聞こえているのだろうか。
果てない闇へと自分を誘う、虚無からの呼び声が。
ああだこうだと理由をつけて長っ尻だったグリーンがしぶしぶ部屋を辞去した後、
テレビの前に陣取って夜更かしを敢行しようとするセピアに、彼女自身の体調を引き合いに出した説得と、
形式上はレッドが彼女の上官であることを盾にした恫喝を同時進行的に加え、
「はいはいはい寝るよ寝ますよ寝ればいーんでしょー?」
「たりめーだ。ガキはとっとと寝ろ」
「レッドだって十分ガキじゃんよ」
「あ? なんか言ったか?」
「なにも言ってませんおやすみなさい」
半分不貞腐れた音を立てて寝室のドアが閉められるのを見届け──レッドは喉にためていた息を全て吐き出した。
「ったく……」
やっと静かになった部屋を見渡し、髪をごしゃごしゃと掻く。
部屋の電気を消し、さっきまでセピアが座っていたソファーに身を横たえる。
寝室をセピアに占拠されている現在、レッドが安眠を貪れる場所は他に無かった。
といってもレッドは寝つきのよいほうではないため、かなりの時間を暗闇の中で凄さねばならないが。
そういうときに考える事は決まりきっていた。
胸の奥に聞こえる『少女』の声だ。
ふと、あまり関係のないことが心に浮かび、瞼が開く。──セピアにも、この声が聞こえているのだろうか。
果てない闇へと自分を誘う、虚無からの呼び声が。
鬱屈した思考の澱にじっと身を委ねていたレッドの邪魔をするのは、やはりセピアだった。
「──う、うう」
(……またかよ)
ぱちっと目を開けたレッドは、のっそりとソファーから身を起こした。
光のない室内を見通すように、リビングと寝室を隔てるドアに視線を凝らす。
「──う、あ」
その扉の向こうから、セピアのくぐもった声が聞こえる。
扉に隔てられてることもあり、それはとても小さな囁きとしかレッドの耳に届かなかった。
無視しようと思えばいくらでも無視できるものだったが──それだけに、一度気にしてしまうとよりはっきりと知覚できてしまう。
ゆっくりと立ち上がったレッドは、無意識的に足音を忍ばせてリビングを横切る。
寝室のドアの前で止まり──、
「く、う……」
レッドは『向こう側』を感覚する。
『そのこと』に気付いた当初は、これはいったいなんの呻き声かと大いに訝ったものだが、
今となってはこれ以上ないくらいにはっきりと分かる。
これは──『夢』だ。
この扉に隔たれてその姿は見えないが、まず間違いなく、セピアは悪夢にうなされている。それも、かなりの頻度で。
だが──いったいなにに?
なにが、あのセピアを夜な夜な苦しめているのだろうか。
昼間は底抜けに快活な素振りを装っているが、実のところはエグリゴリの任務やレッドの存在に苦痛を感じているのだろうか。
それとも、やはり彼女も『キース』だということだろうか。
絶えることなく悪感情を囁き続ける、あの『少女』──『アリス』の声にうなされているのだろうか。
それを確かめることは容易い。今すぐこのドアを開け、セピアを叩き起こし、問い詰めればいい。
だが──。
「う、うう、うあ……」
夜の闇に苦悶を放出し続けるセピアの細い声をじっと聞きながら、レッドの身体は彫像のように身じろぎ一つない。
彼の手は、ドアノブのことろで固まっていた。
──そうして、いつものようにいつもの夜が過ぎてゆく。
醒めることのない真夏の夜の夢──ワルプルギスの夜のように、果てのない悪夢が。
「──う、うう」
(……またかよ)
ぱちっと目を開けたレッドは、のっそりとソファーから身を起こした。
光のない室内を見通すように、リビングと寝室を隔てるドアに視線を凝らす。
「──う、あ」
その扉の向こうから、セピアのくぐもった声が聞こえる。
扉に隔てられてることもあり、それはとても小さな囁きとしかレッドの耳に届かなかった。
無視しようと思えばいくらでも無視できるものだったが──それだけに、一度気にしてしまうとよりはっきりと知覚できてしまう。
ゆっくりと立ち上がったレッドは、無意識的に足音を忍ばせてリビングを横切る。
寝室のドアの前で止まり──、
「く、う……」
レッドは『向こう側』を感覚する。
『そのこと』に気付いた当初は、これはいったいなんの呻き声かと大いに訝ったものだが、
今となってはこれ以上ないくらいにはっきりと分かる。
これは──『夢』だ。
この扉に隔たれてその姿は見えないが、まず間違いなく、セピアは悪夢にうなされている。それも、かなりの頻度で。
だが──いったいなにに?
なにが、あのセピアを夜な夜な苦しめているのだろうか。
昼間は底抜けに快活な素振りを装っているが、実のところはエグリゴリの任務やレッドの存在に苦痛を感じているのだろうか。
それとも、やはり彼女も『キース』だということだろうか。
絶えることなく悪感情を囁き続ける、あの『少女』──『アリス』の声にうなされているのだろうか。
それを確かめることは容易い。今すぐこのドアを開け、セピアを叩き起こし、問い詰めればいい。
だが──。
「う、うう、うあ……」
夜の闇に苦悶を放出し続けるセピアの細い声をじっと聞きながら、レッドの身体は彫像のように身じろぎ一つない。
彼の手は、ドアノブのことろで固まっていた。
──そうして、いつものようにいつもの夜が過ぎてゆく。
醒めることのない真夏の夜の夢──ワルプルギスの夜のように、果てのない悪夢が。