虚木藍さんの来訪、彼女の超絶電波話、飛鳥井全死さんの襲来、という
コンデンスミルクとカルピス原液を煮詰めたようなめっちゃ濃い時間が過ぎ去り、
やっと事務所に束の間に平和が訪れた、と思っていたのだったが──。
まだ、今日という特濃デーは終わりを告げてはいないようだった。
なぜなら、
「桂木弥子さん。済みませんが、しばらくわたしに付き合っていただけませんか」
事務所の入り口に小さな女の子が立っている。
「ご心配なく。全死さんはもう帰りました。これはわたし個人の要請であり、全死さんは関知していません」
どこか冷たさすら感じる理知的な面差し、線の細い体にまとうセーラー服。
その子には、以前一度会ったことがある。
名前は、確か──。
「荻浦嬢瑠璃です」
言葉にしないわたしの思考を汲み取ったかのように、彼女はそう言った。
コンデンスミルクとカルピス原液を煮詰めたようなめっちゃ濃い時間が過ぎ去り、
やっと事務所に束の間に平和が訪れた、と思っていたのだったが──。
まだ、今日という特濃デーは終わりを告げてはいないようだった。
なぜなら、
「桂木弥子さん。済みませんが、しばらくわたしに付き合っていただけませんか」
事務所の入り口に小さな女の子が立っている。
「ご心配なく。全死さんはもう帰りました。これはわたし個人の要請であり、全死さんは関知していません」
どこか冷たさすら感じる理知的な面差し、線の細い体にまとうセーラー服。
その子には、以前一度会ったことがある。
名前は、確か──。
「荻浦嬢瑠璃です」
言葉にしないわたしの思考を汲み取ったかのように、彼女はそう言った。
そして十数分後、わたしは車の助手席に座っていた。
それは、事務所が入っているビルの前に路駐されているクーペで、この中で待ってるように言われたのだ。
「お待たせしました。ちょっと用意するものがありましたので」
運転席のドアを開け、嬢瑠璃ちゃんが待たせたことのお詫びを告げる。
「ううん、わたしも今事務所から降りてきたばかりだから」
「そのようですね。では行きましょうか」
と言うや、嬢瑠璃ちゃんはまるで当然のように運転席に乗り込む。
見た目は大人しそうで賢そうな女の子だけど、さすがは全死さんの関係者だ。さっそくツッコミどころを提供してくれる。
「ちょっと待てえええ!」
イグニッションキーを差し込もうとしていた彼女の手がぴたりと止まる。
「はい。なんでしょうか」
「じょ、嬢瑠璃ちゃんが運転するの? 免許は?」
「日本の法律では、わたしの年齢で運転免許を所持することは不可能です。当然の帰結として、無免許運転です」
(確信犯かよ!)
「ですが、ご憂慮には及びません。運転技術はマスターしてあります」
(そういう問題じゃねえ!)
たとえ口にしなくてもわたしの内心は十分に伝わっているはずなのに、
「シートベルトをお願いします」
嬢瑠璃ちゃんはそれをあっさり無視して車を発進させた。
言うだけあって見事なくらいにスムーズな加速で、瞬く間にギアを三速まで切り替える。
しかしそれでも、わたしは気が気じゃなかった。
彼女の運転が不安だという訳ではなく、警察に見咎めらたらどうしようとかそういうのでもなく、
なんというか──嬢瑠璃ちゃんのような中学生が運転席に座ってステアリングを握っているという光景が、
日常と非日常の入り混じって混沌とした──とてつもない違和感を醸し出しているのだ。
それは、これまで出会った全死さんの関係者が共通して持っている感触だった。
「貴女は──いえ、貴女と脳噛氏は、虚木女史の依頼を受けるつもりですか?」
街中で堂々と車を走らせる嬢瑠璃ちゃんは、赤信号の合間にわたしへと向き直った。
「うん……多分ね。受けることになると思う」
「以前、虚木女史は『参宮』と呼ばれる特殊任務に従事していました。
この話の本筋ではないので詳細は省きますが、宮下乖離という民間人を協力者としたある種の捜査活動です。
この『参宮』で、虚木女史は数々の迷宮入り事件を解決に導いてきました。
ですが──その任務は宮下乖離の死亡を以って終焉を迎えました」
「──死んだ?」
信号が青になる。嬢瑠璃ちゃんは前方に視線を戻し、ギアを入れる。
「詳しく知りたいのでしたら、その件の当事者であった香織さんに聞くといいでしょう。
問題はそこではなく──貴女たちは、その『次』として虚木女史に選ばれたのです。
彼女は貴女たちを警察機構の外部機関として取り込むつもりです。それでも彼女に協力しますか?」
藍さんの言っていた「恒常的な捜査協力」とはそういう意味だったのか、と今さら納得する。
さっきはほとんど意味不明だった全死さんと藍さんの言い争いも、なんとなく輪郭が見えてきたような気がする。
「誰かに利用される」というのは、ネウロがもっとも嫌っていることの一つだ。
ネウロは思う存分他人を利用したいのであり、自分がそうされるのを良しとしない傲慢極まりない性格の持ち主だ。
──ただ、それには例外がある。
「それでも……そこに『謎』があるなら」
「この事件に『謎』なんてあるのでしょうか。貴女たちは有栖川恵を殺害した『犯人』を知っています。香織さんです。彼が殺しました。
いえ、そもそも、なぜ貴女は自ら『謎』に関わろうとするのですか? 失礼ですが、貴女について多少調べさせていただきました。
わたしの見る限りですと、『謎』を解くのは脳噛氏のカヴァーする案件で、貴女がそこに立ち会う必要はないように思います」
──やっぱり、全死さんの知り合いだけあって只者じゃない。
わたしがただの傀儡で、実際に『謎』を解く(くう)のはネウロだということを知っている人物は何人かいるけど、
それはそれぞれの人たちのそれぞれの『謎』を通して知られたことで、こんなにも初期の段階で看破されたことは初めてだった。
「ちょっと調べただけ」で分かることではない、と思う。
「嬢瑠璃ちゃんにも──見えてるの? 『メタテキスト』ってやつ」
「さあ、どうでしょう。ご想像にお任せします。
ただ少なくとも、貴女が脳噛氏の隠れ蓑として使われていることを突き止めるのは、それほど困難なことではありません。
下部回路(インフラストラクチャ)のレヴェルでも到達可能な範囲です。
それに、わたしには見えようが見えまいが関係のないことです。わたしは全死さんの奴隷に過ぎませんから」
……「奴隷」ときたか。
なんか、どうも身近に感じる言葉だ。
「今、『奴隷』という単語に反応しましたね? 脳噛氏に虐げられている身として、わたしに親近感を覚えましたか?
それは表層上の類似点でしかなく、わたしと貴女は根本的に異なる存在です。
わたしの行動の全ては、全死さんの意志を逸脱することがありません。わたしは全死さんの執行機関であり、完璧な主従関係が成立しています。
ですが、貴女と脳噛氏を繋ぐ関係は違うのではないでしょうか。わたしが知りたいのはそこです。
貴女はなぜ、脳噛氏のそばで『謎』に接しているのですか?」
そう、最初はネウロの脅迫に負けていやいや謎解き(くい)に付き合っていた。
だけど、今は違う。
わたしは、わたしなりに思うところや考えるところがあり、ネウロと行動を共にしている。
そして、ネウロにはネウロにしか出来ないことがあるように、わたしにしか出来ないこともある。そう言い切れる。
わたしがネウロと共に『謎』に関わる理由、それは──。
めっちゃ真面目な顔で嬢瑠璃ちゃんを見据え口を開こうとしたそのとき、
キィッ、ごん。
嬢瑠璃ちゃんが急ブレーキを踏み、身体ごとすっぽ抜けたわたしは思いっきり頭を打ちつけた。
「……大丈夫ですか? だからシートベルトをお願いしたじゃないですか」
「ご、ごめん……」
額を押さえてうめくわたしを呆れたように見下ろしながら、嬢瑠璃ちゃんもシートベルトを外す。
「到着しました。降りてください」
ドアを開けてすたすたと歩き出す嬢瑠璃ちゃんを追って、わたしも慌てて車から降りる。
そこは駅前の繁華街だった。
夕暮れの雑踏を掻き分けながら、嬢瑠璃ちゃんはずんずん進んでゆく。
それはまるで目的地まで一直線、といった感じで、わたしははぐれないようするのがやっとだった。
やがてビル街の大通りを一本逸れた路地に足を踏み入れ、立ち並ぶ店舗の一つ、オープンカフェへと向かっていく。
そして、嬢瑠璃ちゃんはあるテーブルの前でふいに足を止める。
その席にはひとつの人影があった。
「──やあ、よく俺がここにいると分かったな」
「なんとなく、ここにくれば貴方に会えると思ってました。文脈的に」
「文脈的に、ね。なるほど。──全死さんのお使いか?」
「わたしがここに来たのは、わたしの独断によるものです。大局的な見地で言えば全死さんの判断とイコールですが。
──貴方に会わせるために、ある人をお連れしました」
「ある人? 誰」
そう言って、彼は首を巡らせてわたしを見る。
その瞬間、彼は露骨に顔をしかめた。
「──おい、なんで彼女がここにいるんだよ。全死さんとデートじゃなかったのか」
多分、わたしも同じように顔をしかめていたと思う。
『不可触(アンタッチャブル)』の『辺境人(マージナル)』、習慣の殺人鬼──香織甲介さんだった。
それは、事務所が入っているビルの前に路駐されているクーペで、この中で待ってるように言われたのだ。
「お待たせしました。ちょっと用意するものがありましたので」
運転席のドアを開け、嬢瑠璃ちゃんが待たせたことのお詫びを告げる。
「ううん、わたしも今事務所から降りてきたばかりだから」
「そのようですね。では行きましょうか」
と言うや、嬢瑠璃ちゃんはまるで当然のように運転席に乗り込む。
見た目は大人しそうで賢そうな女の子だけど、さすがは全死さんの関係者だ。さっそくツッコミどころを提供してくれる。
「ちょっと待てえええ!」
イグニッションキーを差し込もうとしていた彼女の手がぴたりと止まる。
「はい。なんでしょうか」
「じょ、嬢瑠璃ちゃんが運転するの? 免許は?」
「日本の法律では、わたしの年齢で運転免許を所持することは不可能です。当然の帰結として、無免許運転です」
(確信犯かよ!)
「ですが、ご憂慮には及びません。運転技術はマスターしてあります」
(そういう問題じゃねえ!)
たとえ口にしなくてもわたしの内心は十分に伝わっているはずなのに、
「シートベルトをお願いします」
嬢瑠璃ちゃんはそれをあっさり無視して車を発進させた。
言うだけあって見事なくらいにスムーズな加速で、瞬く間にギアを三速まで切り替える。
しかしそれでも、わたしは気が気じゃなかった。
彼女の運転が不安だという訳ではなく、警察に見咎めらたらどうしようとかそういうのでもなく、
なんというか──嬢瑠璃ちゃんのような中学生が運転席に座ってステアリングを握っているという光景が、
日常と非日常の入り混じって混沌とした──とてつもない違和感を醸し出しているのだ。
それは、これまで出会った全死さんの関係者が共通して持っている感触だった。
「貴女は──いえ、貴女と脳噛氏は、虚木女史の依頼を受けるつもりですか?」
街中で堂々と車を走らせる嬢瑠璃ちゃんは、赤信号の合間にわたしへと向き直った。
「うん……多分ね。受けることになると思う」
「以前、虚木女史は『参宮』と呼ばれる特殊任務に従事していました。
この話の本筋ではないので詳細は省きますが、宮下乖離という民間人を協力者としたある種の捜査活動です。
この『参宮』で、虚木女史は数々の迷宮入り事件を解決に導いてきました。
ですが──その任務は宮下乖離の死亡を以って終焉を迎えました」
「──死んだ?」
信号が青になる。嬢瑠璃ちゃんは前方に視線を戻し、ギアを入れる。
「詳しく知りたいのでしたら、その件の当事者であった香織さんに聞くといいでしょう。
問題はそこではなく──貴女たちは、その『次』として虚木女史に選ばれたのです。
彼女は貴女たちを警察機構の外部機関として取り込むつもりです。それでも彼女に協力しますか?」
藍さんの言っていた「恒常的な捜査協力」とはそういう意味だったのか、と今さら納得する。
さっきはほとんど意味不明だった全死さんと藍さんの言い争いも、なんとなく輪郭が見えてきたような気がする。
「誰かに利用される」というのは、ネウロがもっとも嫌っていることの一つだ。
ネウロは思う存分他人を利用したいのであり、自分がそうされるのを良しとしない傲慢極まりない性格の持ち主だ。
──ただ、それには例外がある。
「それでも……そこに『謎』があるなら」
「この事件に『謎』なんてあるのでしょうか。貴女たちは有栖川恵を殺害した『犯人』を知っています。香織さんです。彼が殺しました。
いえ、そもそも、なぜ貴女は自ら『謎』に関わろうとするのですか? 失礼ですが、貴女について多少調べさせていただきました。
わたしの見る限りですと、『謎』を解くのは脳噛氏のカヴァーする案件で、貴女がそこに立ち会う必要はないように思います」
──やっぱり、全死さんの知り合いだけあって只者じゃない。
わたしがただの傀儡で、実際に『謎』を解く(くう)のはネウロだということを知っている人物は何人かいるけど、
それはそれぞれの人たちのそれぞれの『謎』を通して知られたことで、こんなにも初期の段階で看破されたことは初めてだった。
「ちょっと調べただけ」で分かることではない、と思う。
「嬢瑠璃ちゃんにも──見えてるの? 『メタテキスト』ってやつ」
「さあ、どうでしょう。ご想像にお任せします。
ただ少なくとも、貴女が脳噛氏の隠れ蓑として使われていることを突き止めるのは、それほど困難なことではありません。
下部回路(インフラストラクチャ)のレヴェルでも到達可能な範囲です。
それに、わたしには見えようが見えまいが関係のないことです。わたしは全死さんの奴隷に過ぎませんから」
……「奴隷」ときたか。
なんか、どうも身近に感じる言葉だ。
「今、『奴隷』という単語に反応しましたね? 脳噛氏に虐げられている身として、わたしに親近感を覚えましたか?
それは表層上の類似点でしかなく、わたしと貴女は根本的に異なる存在です。
わたしの行動の全ては、全死さんの意志を逸脱することがありません。わたしは全死さんの執行機関であり、完璧な主従関係が成立しています。
ですが、貴女と脳噛氏を繋ぐ関係は違うのではないでしょうか。わたしが知りたいのはそこです。
貴女はなぜ、脳噛氏のそばで『謎』に接しているのですか?」
そう、最初はネウロの脅迫に負けていやいや謎解き(くい)に付き合っていた。
だけど、今は違う。
わたしは、わたしなりに思うところや考えるところがあり、ネウロと行動を共にしている。
そして、ネウロにはネウロにしか出来ないことがあるように、わたしにしか出来ないこともある。そう言い切れる。
わたしがネウロと共に『謎』に関わる理由、それは──。
めっちゃ真面目な顔で嬢瑠璃ちゃんを見据え口を開こうとしたそのとき、
キィッ、ごん。
嬢瑠璃ちゃんが急ブレーキを踏み、身体ごとすっぽ抜けたわたしは思いっきり頭を打ちつけた。
「……大丈夫ですか? だからシートベルトをお願いしたじゃないですか」
「ご、ごめん……」
額を押さえてうめくわたしを呆れたように見下ろしながら、嬢瑠璃ちゃんもシートベルトを外す。
「到着しました。降りてください」
ドアを開けてすたすたと歩き出す嬢瑠璃ちゃんを追って、わたしも慌てて車から降りる。
そこは駅前の繁華街だった。
夕暮れの雑踏を掻き分けながら、嬢瑠璃ちゃんはずんずん進んでゆく。
それはまるで目的地まで一直線、といった感じで、わたしははぐれないようするのがやっとだった。
やがてビル街の大通りを一本逸れた路地に足を踏み入れ、立ち並ぶ店舗の一つ、オープンカフェへと向かっていく。
そして、嬢瑠璃ちゃんはあるテーブルの前でふいに足を止める。
その席にはひとつの人影があった。
「──やあ、よく俺がここにいると分かったな」
「なんとなく、ここにくれば貴方に会えると思ってました。文脈的に」
「文脈的に、ね。なるほど。──全死さんのお使いか?」
「わたしがここに来たのは、わたしの独断によるものです。大局的な見地で言えば全死さんの判断とイコールですが。
──貴方に会わせるために、ある人をお連れしました」
「ある人? 誰」
そう言って、彼は首を巡らせてわたしを見る。
その瞬間、彼は露骨に顔をしかめた。
「──おい、なんで彼女がここにいるんだよ。全死さんとデートじゃなかったのか」
多分、わたしも同じように顔をしかめていたと思う。
『不可触(アンタッチャブル)』の『辺境人(マージナル)』、習慣の殺人鬼──香織甲介さんだった。
場の空気はかなり気まずかった。
香織さんは物凄く嫌そうな顔をしていた。その気持ちは分かるような気がする。
彼は「わたしに会いたくない」と公言していたし、自分の犯罪行為の目撃者と好んで会いたがる人物など稀だろう。
──その気持ちは分かる。分かるんだけど、わたしにはどうしようもないことだった。
こっちだって、どんな顔をすればいいのかよく分からない。
なので、この重苦しい雰囲気を紛らわすため──わたしはひたすら食べまくることにした。
とりあえず、メニューに書かれた料理を上から順に一回転注文する。そこから先は食べながらお腹と相談することにする。
幸いにも、今月のお小遣いを貰ったばかりなので懐には余裕がある。その後の財政が火の車になるのはミエミエだが、それも後で考えることにする。
ウェイトレスさんに注文を伝え終わったとき、
「──もしかして、君は海難事故から帰還したばかりなのか?」
と、ぼそっとつぶやく香織さんの声が心に突き刺さったけれど。
香織さんは物凄く嫌そうな顔をしていた。その気持ちは分かるような気がする。
彼は「わたしに会いたくない」と公言していたし、自分の犯罪行為の目撃者と好んで会いたがる人物など稀だろう。
──その気持ちは分かる。分かるんだけど、わたしにはどうしようもないことだった。
こっちだって、どんな顔をすればいいのかよく分からない。
なので、この重苦しい雰囲気を紛らわすため──わたしはひたすら食べまくることにした。
とりあえず、メニューに書かれた料理を上から順に一回転注文する。そこから先は食べながらお腹と相談することにする。
幸いにも、今月のお小遣いを貰ったばかりなので懐には余裕がある。その後の財政が火の車になるのはミエミエだが、それも後で考えることにする。
ウェイトレスさんに注文を伝え終わったとき、
「──もしかして、君は海難事故から帰還したばかりなのか?」
と、ぼそっとつぶやく香織さんの声が心に突き刺さったけれど。
わたしは食べるのは大好きだ。
ご飯を食べている間だけは、嫌なことなんか綺麗さっぱり忘れられる。
手始めにトーストとシーザーサラダが運ばれてきた。
一口食べて感心する。どうやらこの店は、たっぷりバターを塗ってからパンを焼いているようだ。
噛み締めるたびに熱々のバターがじわっと滲み出てくる。
「──そう言えば、さっき都草りなこと会ったぞ。ケーキ奢ってやったよ」
「余計なことはしないでください。りなこには貴方に奢ってもらう理由がありません」
「理由ならあるさ。彼女は俺のものだからな──そんな怖い顔するなよ、冗談だ」
ベーコンサンドと和風海鮮サラダ、鳥の唐揚げを食べ終わる頃には、三種類のパスタが運ばれてくる。
カルボラーナが特に「当たり」だった。下手な店だとソースがダマになっているのだが、ここのはしっとりとまろやかに仕上がっている。
熱の加えかたにコツがあるのだが、ソースに卵の白身を使うか使わないかも重要な要素だった。
「貴方の存在はりなこにとって悪影響です」
「──ずいぶん直截に言うよな。いや、君のそういうところは好感持てるけど」
「もっとはっきり言いましょうか。わたしは、貴方ほど女性にだらしない人を他に知りません」
「なんでだよ。至って真面目なもんさ、俺は。とっかえひっかえとか手当たり次第とかは、俺の対極に位置する言葉だぞ」
「現象レヴェルで見ればそうでしょう。ですが──ああ、もう、こんなこと説明しなければ分かりませんか?」
「分からないね。ぜひ解説が欲しいところだ」
「こんな馬鹿げた話、口にもしたくありません。どうしても知りたいと言うなら、
今すぐ秋葉原にでも行って美少女ゲームを買い漁ってプレイしてください。そこに答があります」
「そこでエロゲと言わないところが歳相応で可愛いよな──だから冗談だって。睨むなよ」
次に現れたのは香ばしい匂いを漂わせるジンジャーポークだった。
ジンジャーポーク、またの名を豚の生姜焼き。
豚の美味さはなによりも脂の味で決まる。豚は脂が美味い。
ヘットよりもラードが料理によく使われることからも、それは明白だ。ラードはそのまま白飯に混ぜてもいける。
そして──この豚は決して高級なものではないが、それでも及第点以上の味わいだった。
醤油と生姜の黄金のような組み合わせが、肉の旨みを何倍にも増幅していて、なんというか、もう──最高だ。
いつも思うが、生きてて良かった。ありがとう豚肉。ありがとう生姜。
「それで、君はもう中学校には戻らないのか? りなこが心配してたぞ」
「いずれは一度戻るつもりです。ですが、それよりも優先すべきことがありますので。
──言っておきますけれど、わたしはまだ貴方を諦めたわけじゃありませんから」
「その件なら丁重に断ったはずだけどな」
「一度や二度拒否された程度で断念するなら、最初から貴方を見初めたりはしませんでした」
「……意志が強いってのはけっこうなことだ」
そして運ばれてくるアジフライ。添えられたソースはタルタルソース。
タルタルとは韃靼人のことらしい。
ちなみにタルタルソースのベースとなるマヨネーズはマヤ人を指すとも言われてるが、こっちは俗説だったりする。
それはともかく、卵と酢という神がかった配合のこの調味料は、ありとあらゆる料理に合う。
というか、生で一本飲むことだって出来る。これを考えた人にノーベル料理賞を進呈したい。
サクサク食感とアジの微かに甘い脂がタルタルソースに優しく包まれ、
口に運ぶたびに脳内でドーパミンやらエンドルフィンやらがばんばん分泌されてるのが実感できる。
「しかし彼女……よく食うな。ここまで旺盛だと、胸が焼けるのを通り越して逆に空く思いだ」
「育ち盛りというやつではないでしょうか」
「君も見習ったらどうだ?」
「その発言はセクハラですよ」
「……そうなのか?」
「朴念仁の貴方には理解できないでしょうけど」
「はいはい、どうせ俺は愚鈍で無神経で鈍色鮪だよ」
さて、そろそろ注文したメニューの弾切れが近づいてきた。
テーブル上に所狭しと並べられたデザート群を眺め、えもいわれぬ恍惚の中にちょっとだけ寂しさを感じる。
まずはミルフィーユに手をつける。
ミルフィーユの正しい食べかたをご存知だろうか。
皿に載せられたミルフィーユを普通のケーキと同じように上からフォークで切り分けてしまったら、
超繊細な極薄多層構造であるミルフィーユは、フォークの圧力に耐え切れず押し潰されて無残にもぼろぼろになってしまう。
だから、ミルフィーユを綺麗に食べるためには、まずフォークで側面を押して横倒しにするのだ。
側面が上向きになった状態で層に垂直にフォークを入れると、遥かに無理なく切断できる。
そして、これをそっとすくい上げて口に入れる。
するとどうだろう。ミルフィーユは口の中でほろほろと優しく崩れて、なんとも言えない食感を与えてくれるのだ。
ご飯を食べている間だけは、嫌なことなんか綺麗さっぱり忘れられる。
手始めにトーストとシーザーサラダが運ばれてきた。
一口食べて感心する。どうやらこの店は、たっぷりバターを塗ってからパンを焼いているようだ。
噛み締めるたびに熱々のバターがじわっと滲み出てくる。
「──そう言えば、さっき都草りなこと会ったぞ。ケーキ奢ってやったよ」
「余計なことはしないでください。りなこには貴方に奢ってもらう理由がありません」
「理由ならあるさ。彼女は俺のものだからな──そんな怖い顔するなよ、冗談だ」
ベーコンサンドと和風海鮮サラダ、鳥の唐揚げを食べ終わる頃には、三種類のパスタが運ばれてくる。
カルボラーナが特に「当たり」だった。下手な店だとソースがダマになっているのだが、ここのはしっとりとまろやかに仕上がっている。
熱の加えかたにコツがあるのだが、ソースに卵の白身を使うか使わないかも重要な要素だった。
「貴方の存在はりなこにとって悪影響です」
「──ずいぶん直截に言うよな。いや、君のそういうところは好感持てるけど」
「もっとはっきり言いましょうか。わたしは、貴方ほど女性にだらしない人を他に知りません」
「なんでだよ。至って真面目なもんさ、俺は。とっかえひっかえとか手当たり次第とかは、俺の対極に位置する言葉だぞ」
「現象レヴェルで見ればそうでしょう。ですが──ああ、もう、こんなこと説明しなければ分かりませんか?」
「分からないね。ぜひ解説が欲しいところだ」
「こんな馬鹿げた話、口にもしたくありません。どうしても知りたいと言うなら、
今すぐ秋葉原にでも行って美少女ゲームを買い漁ってプレイしてください。そこに答があります」
「そこでエロゲと言わないところが歳相応で可愛いよな──だから冗談だって。睨むなよ」
次に現れたのは香ばしい匂いを漂わせるジンジャーポークだった。
ジンジャーポーク、またの名を豚の生姜焼き。
豚の美味さはなによりも脂の味で決まる。豚は脂が美味い。
ヘットよりもラードが料理によく使われることからも、それは明白だ。ラードはそのまま白飯に混ぜてもいける。
そして──この豚は決して高級なものではないが、それでも及第点以上の味わいだった。
醤油と生姜の黄金のような組み合わせが、肉の旨みを何倍にも増幅していて、なんというか、もう──最高だ。
いつも思うが、生きてて良かった。ありがとう豚肉。ありがとう生姜。
「それで、君はもう中学校には戻らないのか? りなこが心配してたぞ」
「いずれは一度戻るつもりです。ですが、それよりも優先すべきことがありますので。
──言っておきますけれど、わたしはまだ貴方を諦めたわけじゃありませんから」
「その件なら丁重に断ったはずだけどな」
「一度や二度拒否された程度で断念するなら、最初から貴方を見初めたりはしませんでした」
「……意志が強いってのはけっこうなことだ」
そして運ばれてくるアジフライ。添えられたソースはタルタルソース。
タルタルとは韃靼人のことらしい。
ちなみにタルタルソースのベースとなるマヨネーズはマヤ人を指すとも言われてるが、こっちは俗説だったりする。
それはともかく、卵と酢という神がかった配合のこの調味料は、ありとあらゆる料理に合う。
というか、生で一本飲むことだって出来る。これを考えた人にノーベル料理賞を進呈したい。
サクサク食感とアジの微かに甘い脂がタルタルソースに優しく包まれ、
口に運ぶたびに脳内でドーパミンやらエンドルフィンやらがばんばん分泌されてるのが実感できる。
「しかし彼女……よく食うな。ここまで旺盛だと、胸が焼けるのを通り越して逆に空く思いだ」
「育ち盛りというやつではないでしょうか」
「君も見習ったらどうだ?」
「その発言はセクハラですよ」
「……そうなのか?」
「朴念仁の貴方には理解できないでしょうけど」
「はいはい、どうせ俺は愚鈍で無神経で鈍色鮪だよ」
さて、そろそろ注文したメニューの弾切れが近づいてきた。
テーブル上に所狭しと並べられたデザート群を眺め、えもいわれぬ恍惚の中にちょっとだけ寂しさを感じる。
まずはミルフィーユに手をつける。
ミルフィーユの正しい食べかたをご存知だろうか。
皿に載せられたミルフィーユを普通のケーキと同じように上からフォークで切り分けてしまったら、
超繊細な極薄多層構造であるミルフィーユは、フォークの圧力に耐え切れず押し潰されて無残にもぼろぼろになってしまう。
だから、ミルフィーユを綺麗に食べるためには、まずフォークで側面を押して横倒しにするのだ。
側面が上向きになった状態で層に垂直にフォークを入れると、遥かに無理なく切断できる。
そして、これをそっとすくい上げて口に入れる。
するとどうだろう。ミルフィーユは口の中でほろほろと優しく崩れて、なんとも言えない食感を与えてくれるのだ。
「──なあ、そろそろいいか?」
お腹いっぱい桃源郷、幸せのアッチの世界とコッチの世界の境目をうろうろしてたわたしを呼び戻したのは、香織さんだった。
「……ふえ?」
「こっちは君が食べ終わるのを待ってたんだ。俺になんの用があるんだ?」
甘い靄の掛かった思考の中で考える。
確か、わたしは嬢瑠璃ちゃんに連れられてここに来ただけで、わたし自身にはこれといって特に──、
「用は……ないでふ」
「おい──」
うんざりしたような香織さんの声。
わたしの意識も少しずつ晴れてゆく。もしもわたしに香織さんと会うべき理由があるのなら、
それは、わたしをここまで連れてきた嬢瑠璃ちゃんが知っていることじゃないのかと考えた。
隣の嬢瑠璃ちゃんを見ると、彼女は軽く頷いてわたしの目を見つめ返す。
「そうですね、桂木さんの食欲が満たされたようなので、話を先に進めましょう。
わたしが貴方がたを引き合わせたのは──間もなく開始される闘争への予備行動です」
「えっと……どういう意味?」
「貴方がたはすでに認識しているはずです。この世界のあらゆる場所が生存闘争のための戦場であることを。
その中で、我々はどういう戦略を講じるべきでしょうか? また、その戦略に於いてどういった戦術を選択するか、
我々は常に考え続けねばなりません。敵を知り、己を知れば百戦危うからず──今、貴方がたに求められるものは情報です。
『探偵』、そして『犯人』──非常に形式的で形骸化された構図ですが、この対立する両陣営に分かれているのが現状です。
闘争が本格化する前の情勢を鑑みるに、互いの情報を開示することは、大きな意義があります」
「──冗談言わないでくれ。俺は『不可触(アンタッチャブル)』だ。この子なんか敵じゃないし、敵になるつもりもない。
俺が望むのはレギュラーだ。それ以上でもそれ以下でもない。情報交換なんかより、没交渉に徹したほうが事は穏当に済む」
ただ耳に入れただけじゃなに言ってるかさっぱり分からない嬢瑠璃ちゃんの演説じみた言葉だったが、
香織さんは普通に返事していた。類友というか、やっぱりこの人たちは普段からこういうことばかり言い合っているのだろうか。
「ええ、貴方は『辺境人(マージナル)』です。勝者でも敗者でもなく、奪うものでも奪われるものでもなく、
今の中途半端な立場を頑なに固持している途方もない偏屈者です。この世に稀なる絶対に近い傍観者です。
ですが──それすらも限度があります。貴方も血と肉を具えた人間です。ハードウェアの制約から逃れることは不可能です。
それは、宮下乖離の件で不覚にも『当事者』となってしまった貴方こそがよくご存知のことではないでしょうか?」
「相変わらずの諧謔趣味だな、君は。……要するにどうしろと?」
おお、その言葉を待っていた。
本当はわたしが言いたかった言葉だけど、なんかそれを言うと「わたし馬鹿でーす」と宣言してしまうような気がして
ちょっと抵抗があったので、香織さんが率先して言ってくれた事は素直に嬉しかった。
「分かりました。では端的に言います」
と、嬢瑠璃ちゃんは学生鞄からなにかの紙片を二枚、取り出した。
「これを差し上げます」
それは映画のチケットで、近頃各種メディアで話題になってる、恋愛小説を映画化した作品だった。
香織さんは首をひねりながらチケットを嬢瑠璃ちゃんから受け取る。
「……この映画を見れば、君の言う情報開示とやらが達成されるということか?
俺はこの映画のことは知らないが、そんな哲学的な内容なのか?
──まあ、別にいいけどな。どうせ学校以外の予定はないんだ。二回も映画で暇を潰せるならラッキーだ」
「寝言を言わないでください」
思いっきり軽蔑の色を滲ませた冷たい声が香織さんに飛ぶ。
「なぜ貴方が一人で二回も見るのです。一枚は桂木さんのに決まってるじゃないですか」
「誰がそんなことを決めたか知らないが、否定する理由はないな。富の分配というやつか」
この人って、けっこう天然なのか? というわたしの思いをよそに、香織さんは一枚をわたしに差し出す。
「ほら」
「はあっ」とわざとらしい溜め息をつき、嬢瑠璃ちゃんが香織さんを睨みつける。
「貴方という人は本当に……どうしようもない朴念仁の唐変木の頓馬で愚鈍極まりないですね」
「……なにがだ?」
「本当に分かっていないんですか? わたしをからかってるわけではないですよね?」
「俺はいつだって真面目だけど。人をからかうのは趣味じゃない」
「……桂木さん。貴女もそうなんですか? 一から十まで説明しないと理解できませんか?」
意図的に抑えた声音とともに、嬢瑠璃ちゃんがわたしを見る。
それは蔑むでも救いを求めるでもない、ただ確認しているような、静かな視線だった。
──もちろん、わたしには嬢瑠璃ちゃんの意図は十分すぎるくらいに分かっていた。
ただ、それがあまりにも突飛でありえないことだったので、反応するのが遅れてしまっていただけで。
お腹いっぱい桃源郷、幸せのアッチの世界とコッチの世界の境目をうろうろしてたわたしを呼び戻したのは、香織さんだった。
「……ふえ?」
「こっちは君が食べ終わるのを待ってたんだ。俺になんの用があるんだ?」
甘い靄の掛かった思考の中で考える。
確か、わたしは嬢瑠璃ちゃんに連れられてここに来ただけで、わたし自身にはこれといって特に──、
「用は……ないでふ」
「おい──」
うんざりしたような香織さんの声。
わたしの意識も少しずつ晴れてゆく。もしもわたしに香織さんと会うべき理由があるのなら、
それは、わたしをここまで連れてきた嬢瑠璃ちゃんが知っていることじゃないのかと考えた。
隣の嬢瑠璃ちゃんを見ると、彼女は軽く頷いてわたしの目を見つめ返す。
「そうですね、桂木さんの食欲が満たされたようなので、話を先に進めましょう。
わたしが貴方がたを引き合わせたのは──間もなく開始される闘争への予備行動です」
「えっと……どういう意味?」
「貴方がたはすでに認識しているはずです。この世界のあらゆる場所が生存闘争のための戦場であることを。
その中で、我々はどういう戦略を講じるべきでしょうか? また、その戦略に於いてどういった戦術を選択するか、
我々は常に考え続けねばなりません。敵を知り、己を知れば百戦危うからず──今、貴方がたに求められるものは情報です。
『探偵』、そして『犯人』──非常に形式的で形骸化された構図ですが、この対立する両陣営に分かれているのが現状です。
闘争が本格化する前の情勢を鑑みるに、互いの情報を開示することは、大きな意義があります」
「──冗談言わないでくれ。俺は『不可触(アンタッチャブル)』だ。この子なんか敵じゃないし、敵になるつもりもない。
俺が望むのはレギュラーだ。それ以上でもそれ以下でもない。情報交換なんかより、没交渉に徹したほうが事は穏当に済む」
ただ耳に入れただけじゃなに言ってるかさっぱり分からない嬢瑠璃ちゃんの演説じみた言葉だったが、
香織さんは普通に返事していた。類友というか、やっぱりこの人たちは普段からこういうことばかり言い合っているのだろうか。
「ええ、貴方は『辺境人(マージナル)』です。勝者でも敗者でもなく、奪うものでも奪われるものでもなく、
今の中途半端な立場を頑なに固持している途方もない偏屈者です。この世に稀なる絶対に近い傍観者です。
ですが──それすらも限度があります。貴方も血と肉を具えた人間です。ハードウェアの制約から逃れることは不可能です。
それは、宮下乖離の件で不覚にも『当事者』となってしまった貴方こそがよくご存知のことではないでしょうか?」
「相変わらずの諧謔趣味だな、君は。……要するにどうしろと?」
おお、その言葉を待っていた。
本当はわたしが言いたかった言葉だけど、なんかそれを言うと「わたし馬鹿でーす」と宣言してしまうような気がして
ちょっと抵抗があったので、香織さんが率先して言ってくれた事は素直に嬉しかった。
「分かりました。では端的に言います」
と、嬢瑠璃ちゃんは学生鞄からなにかの紙片を二枚、取り出した。
「これを差し上げます」
それは映画のチケットで、近頃各種メディアで話題になってる、恋愛小説を映画化した作品だった。
香織さんは首をひねりながらチケットを嬢瑠璃ちゃんから受け取る。
「……この映画を見れば、君の言う情報開示とやらが達成されるということか?
俺はこの映画のことは知らないが、そんな哲学的な内容なのか?
──まあ、別にいいけどな。どうせ学校以外の予定はないんだ。二回も映画で暇を潰せるならラッキーだ」
「寝言を言わないでください」
思いっきり軽蔑の色を滲ませた冷たい声が香織さんに飛ぶ。
「なぜ貴方が一人で二回も見るのです。一枚は桂木さんのに決まってるじゃないですか」
「誰がそんなことを決めたか知らないが、否定する理由はないな。富の分配というやつか」
この人って、けっこう天然なのか? というわたしの思いをよそに、香織さんは一枚をわたしに差し出す。
「ほら」
「はあっ」とわざとらしい溜め息をつき、嬢瑠璃ちゃんが香織さんを睨みつける。
「貴方という人は本当に……どうしようもない朴念仁の唐変木の頓馬で愚鈍極まりないですね」
「……なにがだ?」
「本当に分かっていないんですか? わたしをからかってるわけではないですよね?」
「俺はいつだって真面目だけど。人をからかうのは趣味じゃない」
「……桂木さん。貴女もそうなんですか? 一から十まで説明しないと理解できませんか?」
意図的に抑えた声音とともに、嬢瑠璃ちゃんがわたしを見る。
それは蔑むでも救いを求めるでもない、ただ確認しているような、静かな視線だった。
──もちろん、わたしには嬢瑠璃ちゃんの意図は十分すぎるくらいに分かっていた。
ただ、それがあまりにも突飛でありえないことだったので、反応するのが遅れてしまっていただけで。
「えーと、つまり……これを観に行けってことだよね? わたしと……香織さんとで」