全死と嬢瑠璃が桂木弥子との『デート』へと向かったのを見送った後、
俺は遅ればせながら学生の本分を全うするべく教室に赴いて授業を受け、
図書館に移動して提出課題についての調べ物を行い、夕暮れ間近になるころ大学を出た。
習慣として定期的に人を殺して回っている俺だが、その行為は俺の日常に於いてさほど大きなウェイトを占めてはいない。
基本的に俺は真面目な学生なのだ。
朝起きては学校に通い、予定された通りの時間割をこなし、空いた時間はたいてい愚にもつかないことをぼけっと考えて過ごしている。
それが俺のライフスタイルであり、全死やその関係者に引っ掻き回されない限りは、そのルーチンワークを遵守している。
我ながら無味乾燥で平坦で退屈な人生だと思うが──その緩慢な時間の経過の中にこそ、俺にとっての幸福が存在する。
全死に振り回されたり、嬢瑠璃に冷たくあしらわれたり、白樺と寝たりするのも、それがレギュラーだからこそ受け入れいていることだ。
だから、駅前で都草りなことばったり出くわした時も、その素晴らしきレギュラーを尊重してコーヒーを奢ってやることにした。
「最近、先輩学校に来ないんだけど」
りなこは嬢瑠璃の一つ下の後輩で、つまり中学一年生である。
個人的な印象としては非常に子供っぽい子(これはトートロジーなのだろうか)で、ある意味で非常にアンバランスな少女だった。
この場合の『ある意味』とは一目瞭然だった。
「ねえ、聞いてるの?」
「聞いてるさ。嬢瑠璃が不登校だって話だろ?」
「ちょ、ちょっと! なんで先輩のこと呼び捨てにしてるのよ!」
「いちいち感嘆符をつけて話すなよ。彼女は俺よりも年下なんだ。呼び捨てにするのが礼儀ってものだろ」
「下の名前で呼ばなくてもいいじゃない!」
ばん、とテーブルを叩いて立ち上がるりなこのオーヴァリアクションに合わせて、彼女の歳に似合わぬ豊胸が大きく上下に揺れた。
「声が大きい。馬鹿」
「うるさい!」
「だから、うるさいのはそっちだろ……」
ちなみに全死は、りなこのような肉感的な体型の持ち主は嫌いだ。
全死の好みは嬢瑠璃のような線の細い子であり、ゆえにりなこは俺のものらしい。以前、全死が彼女を俺に譲ると言ってきた。
りなこは自由意思を持った人間であり物ではないので、そんなのを下賜されても俺が困るのだが。
──しかしまあ、それも一つの意見であり、こうしてりなこと喫茶店で顔を付き合わせる理由としては十分だった。
「学校に来ないのことのなにが問題なんだ? 学校以外でも会おうと思えばいつでも会えるだろ?
彼女、君のことをけっこう気にかけてるみたいだぞ。君が不機嫌になるから、俺とあまり話したくないそうだ」
「──ほんと?」
「なんでこんな情けない嘘つかなきゃいけないんだ。別に俺は用もないのに嬢瑠璃と話したいわけじゃないけど、
面と向かってそう言われるとさすがに傷つくものがあるぞ。こう見えても俺は繊細なんだ」
「嘘つき」
その通り、嘘でないこと以外は嘘である。
これを言うと文章の係り受けがややこしくなるので、そっと胸の中にしまっておくが。
「……でも、先輩に学校に来て欲しいの。先輩は学校に必要な人だから。みんな先輩のこと待ってる」
「必要、ね──愛されてるよな」
「え? なに?」
「いや、誰かに必要とされるってのはいいことだよな、多分。心配しなくても、そのうち戻るんじゃないのか?」
「無責任なこと言わないでよ」
「無責任が俺の数少ない生活信条さ」
ぷっとむくれるりなこに肩をすくめてみせ、コーヒーついでにケーキでも奢ってやろうとメニューを手に取ったときだった。
「──あんた、香織甲介?」
顔を上げると、俺と同じくらいの年齢と思しき男が立っていた。
まず目に入ったのは、男の顔に乗っている眼鏡だった。
「……そうですけど、どちらさまですか?」
中学か高校の同級生かと記憶の底を突っついてみたが、どうも該当するものがない。
人の顔などあまり覚えない性質なので、その「覚えがない」という認識すらに自信がないのは残念なことである。
「ん、そーだな、俺も自己紹介したほうがいいかな」
男は眼鏡を額まで押し上げ、無造作に伸ばされた髪に埋もれさせる。
「地味なあの子は眼鏡を外すと美少女だった」とは漫画にありがちなシチュエーションだが、
この男はそのテンプレートに非常に近い形で沿っていた。
眼鏡を掛けているときはなんとなく陰気そうな雰囲気を漂わせていたが、その下に隠されていた裸眼は明るい光をたたえており、
童顔な面差しと併せて第一印象よりも二~三歳若く(幼く?)見える。
「俺は篚口結也。一応、警察官」
「なるほど。それで……警察の方が、俺になんの用ですか?」
「あれ、反応軽いなぁ。俺、『刑事に見えない』とか良く言われて、いつも信じてもらうのに一苦労してんだけど」
「人間、見た目じゃないですからね」
警察官に見えない警察官から俺にも心当たりがあるし、本人がそう自称する以上、俺にそれを否定する理由はない。
彼を警察官だと認めることで俺になにかしらの不利益が生じるわけでもなし、もし認識を改める必要に迫られたらそれはそのときに考えればいいことである。
それよりも問題なのは──警察が俺になんの用があるかということだ。
俺は習慣のために人を殺している。
言うまでもなく、これはれっきとした犯罪行為であり、刑事罰の対象である。
殺害人数がそろそろ三桁に届こうとしている現状、俺の行為のすべてが明るみに出たらまず間違いなく生涯を塀の中で過ごすことになるだろう。
その場合の俺の予測としては、余罪の追求やそれによって次々と開催される裁判によって事実上の終身刑となるか、
司直側の担当者がうんざりして「これくらいの件数なら死刑は確実だろう」というあたりで調査がストップされるか、のどちらかである。
最高に上手く切り抜けたとしても、精神病院あたりに送られて二度と実社会には戻ってこれなくなるだろう。
どの道あまり愉快そうな人生ではない。監獄で営まれる永遠のルーチンには多少なりとも心動かされるものがあるが。
「まー、いいや。信じてくれるなら話は早い。あんた、桂木弥子って知ってる? 探偵の」
知ってるもなにも、俺の殺人現場を目撃されている。
そして今頃、全死とデートをしているはずである。
相手の意図がつかめないので、いざというときのために横目で退路を探りながら、曖昧に答える。
「はあ、何度か会ったことは」
りなこは不審そうに俺と篚口の顔を見比べている。
篚口は小脇に抱えていたラップトップの蓋を開け、液晶画面を俺に示した。
「実はさ、彼女、ストーカー被害を受けてんだよね。で、俺が調べたところ、
彼女のケータイや事務所のパソコンに大量の迷惑メールを送ったり不正な侵入を繰り返す行為のデータのやりとりが、
全てあんたの名義で契約されている携帯電話を中継しているんだ。思い当たること、ある?」
──目の前が真っ暗になった。
「……あの人、そんなことしてたのか」
俺が所持している携帯電話を全死がいじることは不可能だろうから、おそらく全死が勝手に俺の名義を使って契約したのだろう。
だが、なぜよりにもよって俺の名前でそんなことをしなければならないのか。
油断も隙もないというか、それ以前にまったく意味不明だった。
「俺、ネウロから依頼されて──おっと、ネウロは知ってるよな? あの助手な──いろいろ手を回してみたんだけど、
これちょっと酷くね? ケータイもパソコンもほとんど使い物にならなくなってるよ。この情報社会でそれば不便すぎだろ。
──どうなの? 止める気ある? あんましつこいようだと俺もほら、いちおう公僕だからさ。逮捕とかしちゃうかもよ」
「──分かりました。俺は断じて関与していませんが、心当たりは必要十分にあります。
約束は出来ませんが、その人に忠告しておきます。もしストーカー行為が止まないようでしたら、その人を逮捕してください」
心因性の頭痛をこらえながらそう告げると、篚口は得心したようににぱっと笑った。
「そっか。ありがとな。お礼に、いいことを一つ教えてやるよ。──あんた、今日の未明二時から六時ごろ、どこにいた?」
「……は?」
おかしな話だった。
「教えてやる」と言っておいて質問を投げかけるとは、どう考えても辻褄が合っていない。
「そう変な顔するなよ。話はここからが本題だから。その時刻、有栖川祐希という女性が殺害された。
その容疑者として、『なぜか』あんたの名前が挙がっている」
「……は?」
それもまたおかしな話だった。
今度こそ本気で心当たりがなかった。
まずその時間は俺を人を殺していないし、そんな名も知らないどこかの誰かが殺された事件で、なぜ俺が捜査線上に浮かび上がっているのか。
「『なぜか』──ここ、重要だぞ。被害者とあんたの間に接点は無い──少なくとも、現段階では発見できていない。
あんたの人相体格に合致した不審人物の目撃証言や、あんたとの関連を示す物的証拠もまるで無い。
なのに、あんたが捜査対象としてマークされているんだ。連続殺人事件のマル重としてね」
「──『連続』?」
「ああ、そうだよ。なんだ、知らないの? ほら、こないだニュースになったじゃんよ。女子高生が通り魔に殺されたとかって」
「あ」
なんとかポーカーフェイスを保つことに努めてきたが、さすがに限界だった。
思い出した。
いや、忘れるほうもどうかしているが、俺は先日、全死の依頼に従って有栖川健人という男子高校生を殺害しようとしたが、
なんの作用によるものか、人を違えて別の人間を殺してしまっていた。
嬢瑠璃の寄越した新聞によると、その『人違い』が有栖川恵という名前の少女だったはずである。
当の現場を目撃された桂木弥子のことは覚えているのに、殺した相手のことを忘れていたとは間抜けにもほどがある。
「あ──ああ、そう言えばそんなニュース、あったような気がします。……それで、なんで俺が?」
気を取り直して「なにも知りません」という風を装ってみるが、これは九割九分本気だった。
有栖川恵の件で俺が疑われているならともかく、篚口の口ぶりでは、
つい半日前に殺害された有栖川祐希という女性を殺した容疑が俺に掛かっているようだった。
「そこが俺も分かんないだよね。現場の捜査員も誰も分かってないみたいだ。
だけどな、やっぱ警察って縦社会なんだよね。上の人間が『こいつについて調べなさい』って言えばそうするしかないっしょ」
その意見は理解もできれば共感もできる。
なにかの上位概念に唯々諾々と従うという行動様式は、俺の美意識とも合致している。
──その結果、俺が濡れ衣を着せられるというのはいただけない話であるが。
「でも、そんなこと俺に話していいんですか? 捜査機密ってやつじゃないんですか」
「そこはほら、俺もいろいろ思うところあんのよ。現場の人間がみんな指揮官の命令に納得してるってわけじゃねーの。
笛吹さんもあいつの扱いに困ってるみたいだし──いや、見た目はなんかファンキーで好感持てるけど。
ま、それはそれでいいんだけど、実際のところはどうよ? 殺した?」
「俺は有栖川祐希という女性は知りませんし、もちろん殺していません」
これは嘘ではない。
──有栖川恵のほうは俺が殺したが。付け加えると誤認による殺害なので、『知らない』という点は彼女にも当てはまる。
「アリバイある? あるなら手っ取り早いけど。二時から六時ごろね」
「二時から三時に掛けては寝てました。──ああっと」
ここで俺はあることに思い至り、話を中断してりなこに振り返る。
「君、ちょっと耳でも塞いでたほうがいいぞ」
「……なんで? 今さら聞かザルしても遅くない?」
言われてみれば、純真な中学生を前に殺人事件について語り合うのはやや常識を欠いた行為だと思う。
全死のような人間と付き合っているとその方面の気配りがおろそかになってしまうから困る。
まあ、この篚口という刑事もその意味では俺と同類だろう。
「そうか、じゃあ最後まで聞けばいい」
俺は優しい人間なので本人の意思を尊重し、(単に『耳を塞ぐ理由』について説明するのが面倒だという見解もあるが)
それ以上言うのをやめて再度篚口に顔を向ける。
「寝てたというのは二重の意味です」
「二重? ──って言うと?」
「この時間帯なら証言してくれる人がいるという意味です。つまり──性交渉です」
りなこがテーブルを叩いて立ち上がった。本日二度目である。
「い、いいいきなりなに言ってんのあんた!?」
「声が大きい」
「でも、だって」
耳まで真っ赤にしながら口をぱくぱくさせるりなこはしばらく俺を睨んでいたが、
結局、言葉らしい言葉を吐くことなく、あーとかうーとかつぶやきながらのろのろ着席した。
「はは、確かに耳に栓しときゃ良かったかもな、お嬢ちゃん。──それで、三時以降は?」
それを思い出すのは容易だった。人間、嫌なことほど忘れがたいものだ。
全死の自己中心的な電話を受けた俺は、着るものも取り合えず表に出、マンションの前で白樺と別れて大学への道を駆け出したのだった。
「──さっき話したストーカー犯の人に呼び出されて大学まで出かけました」
「今度はそっちの人が証言してくれるってことな?」
俺の神経過敏だろうが、篚口の言い方が「今度は全死とやっていた」というニュアンスを含んでいるように聞こえた。
ために、意図せずして顔をしかめてしまう。
「いえ、その人は証言してくれないと思いますよ……寝てたから。こっちは普通の睡眠です」
二時から三時にかけては一緒にいた白樺が証言してくれるだろうが(そんな面倒なことは頼みたくもないのが本音だ)、
全死のほうはまるで当てにならない。あの晩、俺が思想インフラ研究会の部室の足に踏み入れたとき、すでに全死は眠りこけていた。
そしてつい数時間前に嬢瑠璃に起こされるまで寝通しだったはずである。
そもそもの問題として、全死が俺のために証言するということが有り得ないことのような気がする。
そんなことを期待するならダチョウが空を飛ぶのを期待したほうがまだしも現実的だ。
「ふーん……なるほどね。大体のことは分かった。いや、マジで助かったよ」
「まあ、やってもいないことで疑われるのは、こちらとしても不本意ですから」
「だよなー。なんの根拠もないのにあんたのこと容疑者のつもりで調べろって言われても、俺らもやりにくいよ、実際。
身内の愚痴になるけどさ、ほんと、あのメイドさんはなにを考えてるやら」
一瞬、篚口自身の家庭の話かと思いかけたが、警察官が『身内』といえば警察機構のことである。
そして、メイドという言葉が相応しい警察関係者といえば、俺には心当たりは一つしかなかった。
「……もしかして、虚木さんですか? あのメイド刑事」
「え? 知ってんの? うっそ」
「友人の知り合いでした」
「あ、そーなの? いやー、世間って狭いなー」
それどころか、一度は彼女の手によって手錠をかけられた仲であるが、そのことは言わないでおいた。
俺のことを調べている篚口がそれを知らないということは、その顛末に関しては全死があらゆる面からその公的記録を抹消しているということだろう。
なので俺は、適当に相槌を打つだけに留めておいた。
「そうですね。世界規模で人口爆発の御時勢ですからね」
それからしばらく篚口はりなこを相手にネット上の個人株取引や新作ゲームなどの他愛ない世間話に興じていたが、
他にもいろいろ抱えている仕事があるのだと言って席を辞した。
りなこもケーキを食べ終わると、「そろそろ帰る」と立ち上がる。
「送ろうか?」
社交辞令としてそう言うと、
「いい。一人で帰れる」
もし受諾されたら面倒だな、と内心思っていため、その返事は実に有難かった。
「──ねえ」
「なに」
「ケーキ、ありがと」
気にするな、君は俺のものらしいから──という言葉が浮かんだが、口にするのは止めておく。
口は災いの元だからだ。
「──あとさ」
「なに」
「本当に、殺してないよね。刑事さんの言ったこと、なんかの間違いだよね」
「当たり前だろ。あの篚口って人もそう言ってただろう」
「そ」
りなこはちょっとだけ微笑むと、自分と夕日を結ぶ直線上に位置する駅へと駆け出した。
途中、一度だけ振り返り、
「もし本当だったら、あんたを先輩に近づけたくないな、って思ってたとこ」
──かつて俺が嬢瑠璃を殺しかけたことは、りなこには言わないほうがいいだろう。
そう判断した俺は、黙って腕を大きく左右に振った。
俺は遅ればせながら学生の本分を全うするべく教室に赴いて授業を受け、
図書館に移動して提出課題についての調べ物を行い、夕暮れ間近になるころ大学を出た。
習慣として定期的に人を殺して回っている俺だが、その行為は俺の日常に於いてさほど大きなウェイトを占めてはいない。
基本的に俺は真面目な学生なのだ。
朝起きては学校に通い、予定された通りの時間割をこなし、空いた時間はたいてい愚にもつかないことをぼけっと考えて過ごしている。
それが俺のライフスタイルであり、全死やその関係者に引っ掻き回されない限りは、そのルーチンワークを遵守している。
我ながら無味乾燥で平坦で退屈な人生だと思うが──その緩慢な時間の経過の中にこそ、俺にとっての幸福が存在する。
全死に振り回されたり、嬢瑠璃に冷たくあしらわれたり、白樺と寝たりするのも、それがレギュラーだからこそ受け入れいていることだ。
だから、駅前で都草りなことばったり出くわした時も、その素晴らしきレギュラーを尊重してコーヒーを奢ってやることにした。
「最近、先輩学校に来ないんだけど」
りなこは嬢瑠璃の一つ下の後輩で、つまり中学一年生である。
個人的な印象としては非常に子供っぽい子(これはトートロジーなのだろうか)で、ある意味で非常にアンバランスな少女だった。
この場合の『ある意味』とは一目瞭然だった。
「ねえ、聞いてるの?」
「聞いてるさ。嬢瑠璃が不登校だって話だろ?」
「ちょ、ちょっと! なんで先輩のこと呼び捨てにしてるのよ!」
「いちいち感嘆符をつけて話すなよ。彼女は俺よりも年下なんだ。呼び捨てにするのが礼儀ってものだろ」
「下の名前で呼ばなくてもいいじゃない!」
ばん、とテーブルを叩いて立ち上がるりなこのオーヴァリアクションに合わせて、彼女の歳に似合わぬ豊胸が大きく上下に揺れた。
「声が大きい。馬鹿」
「うるさい!」
「だから、うるさいのはそっちだろ……」
ちなみに全死は、りなこのような肉感的な体型の持ち主は嫌いだ。
全死の好みは嬢瑠璃のような線の細い子であり、ゆえにりなこは俺のものらしい。以前、全死が彼女を俺に譲ると言ってきた。
りなこは自由意思を持った人間であり物ではないので、そんなのを下賜されても俺が困るのだが。
──しかしまあ、それも一つの意見であり、こうしてりなこと喫茶店で顔を付き合わせる理由としては十分だった。
「学校に来ないのことのなにが問題なんだ? 学校以外でも会おうと思えばいつでも会えるだろ?
彼女、君のことをけっこう気にかけてるみたいだぞ。君が不機嫌になるから、俺とあまり話したくないそうだ」
「──ほんと?」
「なんでこんな情けない嘘つかなきゃいけないんだ。別に俺は用もないのに嬢瑠璃と話したいわけじゃないけど、
面と向かってそう言われるとさすがに傷つくものがあるぞ。こう見えても俺は繊細なんだ」
「嘘つき」
その通り、嘘でないこと以外は嘘である。
これを言うと文章の係り受けがややこしくなるので、そっと胸の中にしまっておくが。
「……でも、先輩に学校に来て欲しいの。先輩は学校に必要な人だから。みんな先輩のこと待ってる」
「必要、ね──愛されてるよな」
「え? なに?」
「いや、誰かに必要とされるってのはいいことだよな、多分。心配しなくても、そのうち戻るんじゃないのか?」
「無責任なこと言わないでよ」
「無責任が俺の数少ない生活信条さ」
ぷっとむくれるりなこに肩をすくめてみせ、コーヒーついでにケーキでも奢ってやろうとメニューを手に取ったときだった。
「──あんた、香織甲介?」
顔を上げると、俺と同じくらいの年齢と思しき男が立っていた。
まず目に入ったのは、男の顔に乗っている眼鏡だった。
「……そうですけど、どちらさまですか?」
中学か高校の同級生かと記憶の底を突っついてみたが、どうも該当するものがない。
人の顔などあまり覚えない性質なので、その「覚えがない」という認識すらに自信がないのは残念なことである。
「ん、そーだな、俺も自己紹介したほうがいいかな」
男は眼鏡を額まで押し上げ、無造作に伸ばされた髪に埋もれさせる。
「地味なあの子は眼鏡を外すと美少女だった」とは漫画にありがちなシチュエーションだが、
この男はそのテンプレートに非常に近い形で沿っていた。
眼鏡を掛けているときはなんとなく陰気そうな雰囲気を漂わせていたが、その下に隠されていた裸眼は明るい光をたたえており、
童顔な面差しと併せて第一印象よりも二~三歳若く(幼く?)見える。
「俺は篚口結也。一応、警察官」
「なるほど。それで……警察の方が、俺になんの用ですか?」
「あれ、反応軽いなぁ。俺、『刑事に見えない』とか良く言われて、いつも信じてもらうのに一苦労してんだけど」
「人間、見た目じゃないですからね」
警察官に見えない警察官から俺にも心当たりがあるし、本人がそう自称する以上、俺にそれを否定する理由はない。
彼を警察官だと認めることで俺になにかしらの不利益が生じるわけでもなし、もし認識を改める必要に迫られたらそれはそのときに考えればいいことである。
それよりも問題なのは──警察が俺になんの用があるかということだ。
俺は習慣のために人を殺している。
言うまでもなく、これはれっきとした犯罪行為であり、刑事罰の対象である。
殺害人数がそろそろ三桁に届こうとしている現状、俺の行為のすべてが明るみに出たらまず間違いなく生涯を塀の中で過ごすことになるだろう。
その場合の俺の予測としては、余罪の追求やそれによって次々と開催される裁判によって事実上の終身刑となるか、
司直側の担当者がうんざりして「これくらいの件数なら死刑は確実だろう」というあたりで調査がストップされるか、のどちらかである。
最高に上手く切り抜けたとしても、精神病院あたりに送られて二度と実社会には戻ってこれなくなるだろう。
どの道あまり愉快そうな人生ではない。監獄で営まれる永遠のルーチンには多少なりとも心動かされるものがあるが。
「まー、いいや。信じてくれるなら話は早い。あんた、桂木弥子って知ってる? 探偵の」
知ってるもなにも、俺の殺人現場を目撃されている。
そして今頃、全死とデートをしているはずである。
相手の意図がつかめないので、いざというときのために横目で退路を探りながら、曖昧に答える。
「はあ、何度か会ったことは」
りなこは不審そうに俺と篚口の顔を見比べている。
篚口は小脇に抱えていたラップトップの蓋を開け、液晶画面を俺に示した。
「実はさ、彼女、ストーカー被害を受けてんだよね。で、俺が調べたところ、
彼女のケータイや事務所のパソコンに大量の迷惑メールを送ったり不正な侵入を繰り返す行為のデータのやりとりが、
全てあんたの名義で契約されている携帯電話を中継しているんだ。思い当たること、ある?」
──目の前が真っ暗になった。
「……あの人、そんなことしてたのか」
俺が所持している携帯電話を全死がいじることは不可能だろうから、おそらく全死が勝手に俺の名義を使って契約したのだろう。
だが、なぜよりにもよって俺の名前でそんなことをしなければならないのか。
油断も隙もないというか、それ以前にまったく意味不明だった。
「俺、ネウロから依頼されて──おっと、ネウロは知ってるよな? あの助手な──いろいろ手を回してみたんだけど、
これちょっと酷くね? ケータイもパソコンもほとんど使い物にならなくなってるよ。この情報社会でそれば不便すぎだろ。
──どうなの? 止める気ある? あんましつこいようだと俺もほら、いちおう公僕だからさ。逮捕とかしちゃうかもよ」
「──分かりました。俺は断じて関与していませんが、心当たりは必要十分にあります。
約束は出来ませんが、その人に忠告しておきます。もしストーカー行為が止まないようでしたら、その人を逮捕してください」
心因性の頭痛をこらえながらそう告げると、篚口は得心したようににぱっと笑った。
「そっか。ありがとな。お礼に、いいことを一つ教えてやるよ。──あんた、今日の未明二時から六時ごろ、どこにいた?」
「……は?」
おかしな話だった。
「教えてやる」と言っておいて質問を投げかけるとは、どう考えても辻褄が合っていない。
「そう変な顔するなよ。話はここからが本題だから。その時刻、有栖川祐希という女性が殺害された。
その容疑者として、『なぜか』あんたの名前が挙がっている」
「……は?」
それもまたおかしな話だった。
今度こそ本気で心当たりがなかった。
まずその時間は俺を人を殺していないし、そんな名も知らないどこかの誰かが殺された事件で、なぜ俺が捜査線上に浮かび上がっているのか。
「『なぜか』──ここ、重要だぞ。被害者とあんたの間に接点は無い──少なくとも、現段階では発見できていない。
あんたの人相体格に合致した不審人物の目撃証言や、あんたとの関連を示す物的証拠もまるで無い。
なのに、あんたが捜査対象としてマークされているんだ。連続殺人事件のマル重としてね」
「──『連続』?」
「ああ、そうだよ。なんだ、知らないの? ほら、こないだニュースになったじゃんよ。女子高生が通り魔に殺されたとかって」
「あ」
なんとかポーカーフェイスを保つことに努めてきたが、さすがに限界だった。
思い出した。
いや、忘れるほうもどうかしているが、俺は先日、全死の依頼に従って有栖川健人という男子高校生を殺害しようとしたが、
なんの作用によるものか、人を違えて別の人間を殺してしまっていた。
嬢瑠璃の寄越した新聞によると、その『人違い』が有栖川恵という名前の少女だったはずである。
当の現場を目撃された桂木弥子のことは覚えているのに、殺した相手のことを忘れていたとは間抜けにもほどがある。
「あ──ああ、そう言えばそんなニュース、あったような気がします。……それで、なんで俺が?」
気を取り直して「なにも知りません」という風を装ってみるが、これは九割九分本気だった。
有栖川恵の件で俺が疑われているならともかく、篚口の口ぶりでは、
つい半日前に殺害された有栖川祐希という女性を殺した容疑が俺に掛かっているようだった。
「そこが俺も分かんないだよね。現場の捜査員も誰も分かってないみたいだ。
だけどな、やっぱ警察って縦社会なんだよね。上の人間が『こいつについて調べなさい』って言えばそうするしかないっしょ」
その意見は理解もできれば共感もできる。
なにかの上位概念に唯々諾々と従うという行動様式は、俺の美意識とも合致している。
──その結果、俺が濡れ衣を着せられるというのはいただけない話であるが。
「でも、そんなこと俺に話していいんですか? 捜査機密ってやつじゃないんですか」
「そこはほら、俺もいろいろ思うところあんのよ。現場の人間がみんな指揮官の命令に納得してるってわけじゃねーの。
笛吹さんもあいつの扱いに困ってるみたいだし──いや、見た目はなんかファンキーで好感持てるけど。
ま、それはそれでいいんだけど、実際のところはどうよ? 殺した?」
「俺は有栖川祐希という女性は知りませんし、もちろん殺していません」
これは嘘ではない。
──有栖川恵のほうは俺が殺したが。付け加えると誤認による殺害なので、『知らない』という点は彼女にも当てはまる。
「アリバイある? あるなら手っ取り早いけど。二時から六時ごろね」
「二時から三時に掛けては寝てました。──ああっと」
ここで俺はあることに思い至り、話を中断してりなこに振り返る。
「君、ちょっと耳でも塞いでたほうがいいぞ」
「……なんで? 今さら聞かザルしても遅くない?」
言われてみれば、純真な中学生を前に殺人事件について語り合うのはやや常識を欠いた行為だと思う。
全死のような人間と付き合っているとその方面の気配りがおろそかになってしまうから困る。
まあ、この篚口という刑事もその意味では俺と同類だろう。
「そうか、じゃあ最後まで聞けばいい」
俺は優しい人間なので本人の意思を尊重し、(単に『耳を塞ぐ理由』について説明するのが面倒だという見解もあるが)
それ以上言うのをやめて再度篚口に顔を向ける。
「寝てたというのは二重の意味です」
「二重? ──って言うと?」
「この時間帯なら証言してくれる人がいるという意味です。つまり──性交渉です」
りなこがテーブルを叩いて立ち上がった。本日二度目である。
「い、いいいきなりなに言ってんのあんた!?」
「声が大きい」
「でも、だって」
耳まで真っ赤にしながら口をぱくぱくさせるりなこはしばらく俺を睨んでいたが、
結局、言葉らしい言葉を吐くことなく、あーとかうーとかつぶやきながらのろのろ着席した。
「はは、確かに耳に栓しときゃ良かったかもな、お嬢ちゃん。──それで、三時以降は?」
それを思い出すのは容易だった。人間、嫌なことほど忘れがたいものだ。
全死の自己中心的な電話を受けた俺は、着るものも取り合えず表に出、マンションの前で白樺と別れて大学への道を駆け出したのだった。
「──さっき話したストーカー犯の人に呼び出されて大学まで出かけました」
「今度はそっちの人が証言してくれるってことな?」
俺の神経過敏だろうが、篚口の言い方が「今度は全死とやっていた」というニュアンスを含んでいるように聞こえた。
ために、意図せずして顔をしかめてしまう。
「いえ、その人は証言してくれないと思いますよ……寝てたから。こっちは普通の睡眠です」
二時から三時にかけては一緒にいた白樺が証言してくれるだろうが(そんな面倒なことは頼みたくもないのが本音だ)、
全死のほうはまるで当てにならない。あの晩、俺が思想インフラ研究会の部室の足に踏み入れたとき、すでに全死は眠りこけていた。
そしてつい数時間前に嬢瑠璃に起こされるまで寝通しだったはずである。
そもそもの問題として、全死が俺のために証言するということが有り得ないことのような気がする。
そんなことを期待するならダチョウが空を飛ぶのを期待したほうがまだしも現実的だ。
「ふーん……なるほどね。大体のことは分かった。いや、マジで助かったよ」
「まあ、やってもいないことで疑われるのは、こちらとしても不本意ですから」
「だよなー。なんの根拠もないのにあんたのこと容疑者のつもりで調べろって言われても、俺らもやりにくいよ、実際。
身内の愚痴になるけどさ、ほんと、あのメイドさんはなにを考えてるやら」
一瞬、篚口自身の家庭の話かと思いかけたが、警察官が『身内』といえば警察機構のことである。
そして、メイドという言葉が相応しい警察関係者といえば、俺には心当たりは一つしかなかった。
「……もしかして、虚木さんですか? あのメイド刑事」
「え? 知ってんの? うっそ」
「友人の知り合いでした」
「あ、そーなの? いやー、世間って狭いなー」
それどころか、一度は彼女の手によって手錠をかけられた仲であるが、そのことは言わないでおいた。
俺のことを調べている篚口がそれを知らないということは、その顛末に関しては全死があらゆる面からその公的記録を抹消しているということだろう。
なので俺は、適当に相槌を打つだけに留めておいた。
「そうですね。世界規模で人口爆発の御時勢ですからね」
それからしばらく篚口はりなこを相手にネット上の個人株取引や新作ゲームなどの他愛ない世間話に興じていたが、
他にもいろいろ抱えている仕事があるのだと言って席を辞した。
りなこもケーキを食べ終わると、「そろそろ帰る」と立ち上がる。
「送ろうか?」
社交辞令としてそう言うと、
「いい。一人で帰れる」
もし受諾されたら面倒だな、と内心思っていため、その返事は実に有難かった。
「──ねえ」
「なに」
「ケーキ、ありがと」
気にするな、君は俺のものらしいから──という言葉が浮かんだが、口にするのは止めておく。
口は災いの元だからだ。
「──あとさ」
「なに」
「本当に、殺してないよね。刑事さんの言ったこと、なんかの間違いだよね」
「当たり前だろ。あの篚口って人もそう言ってただろう」
「そ」
りなこはちょっとだけ微笑むと、自分と夕日を結ぶ直線上に位置する駅へと駆け出した。
途中、一度だけ振り返り、
「もし本当だったら、あんたを先輩に近づけたくないな、って思ってたとこ」
──かつて俺が嬢瑠璃を殺しかけたことは、りなこには言わないほうがいいだろう。
そう判断した俺は、黙って腕を大きく左右に振った。