目が覚めると、もう昼だった。
そこは俺が借りているワンルームマンションのベッドではなく、そこから徒歩十五分ばかりの俺が通う大学──
そのなかで俺が所属してる思想インフラ研究会の部室の長椅子の上だった。
隣で寝息を立ててるのは裸の真銅白樺ではもちろんなく、最悪なまでに人相の悪い女──
俺の幼馴染兼腐れ縁兼レギュラーである存在の飛鳥井全死だった。当然だが裸ではない。
「──やれやれ」
とりあえずの習慣で溜め息をついてから、変な体勢で眠っていたことで軋りを上げる手足の関節をほぐし、
それと平行して自分はどうしてここにいるのだろうという問題について思い返す。
深夜であるのも構わずに「いちゃいちゃしようぜ」と言う全死によって部室まで呼び付けられ、
俺としては乗り気では無かったが全死の機嫌を損なうと何をされるか分かったものじゃないので、
仕方なく部室に足を運んだまでは良かったが──。
「お目覚めですか」
そんな背後からの声に、俺の記憶の反芻は中断された。
振り返ると、そこには学生服を着た小柄な少女の姿がある。
「……君か。いつからそこにいた? と言うか、今何時?」
少女──荻浦嬢瑠璃は細い手首を引っ繰り返して腕時計に目を落とし、「二時半です」と短く告げる。
今日受講する予定だったはずの講義を三つばかり逃してしまったことを知り、わずかな不快感が胸に立ち昇る。
「いつから、という質問ですが……そうですね、かれこれ三時間ばかり全死さんと貴方の寝顔を眺めてました」
「起こしてくれれば良かったのに。そうすれば講義をサボタージュしなくて済んだ」
「頼まれもしないのに貴方を起こす理由がありますか?」
言っていることはこの上なく正しいが、だからと言ってこの世の正義が俺の利益に直結している訳ではない。
俺の都合に限定するなら、たとえ理由が無くても起こして欲しかった。
「なにか、ご不満でも?」
「いや、俺は辺境人(マージナル)だからな。他人に対して不満なんか抱いたりしないさ。
ただ、俺の周りには冷たいやつばかりだと再認識したけどな」
「同情します」
明らかにそんなことは思っていない冷淡な口調で、嬢瑠璃はしゃらっと言ってのける。
「それに──わたしには無理です」
「……なにが」
「全死さんと貴方が仲良く肩を寄せ合って寝ているところに割って入るほどの根性が無いという意味です」
「気味の悪い表現をするなよ。全死さんが勝手に俺にもたれかかってきただけだ。
そうなんでもかんでも俺と全死さんをくっつけるような発言はやめてくれ。
この人、俺を呼び出しておきながら眠りこけてたんだから。放っておいて帰ろうかと何度思ったことか」
「そうですか? わたしはてっきり事後かと思ってましたが」
本気で背筋が寒くなった。
嬢瑠璃の無感動な目を見つめ返し、少し本格的に抗弁する。
「勘違いしないでくれ。なにも無かったんだから。考えるだけでぞっとする」
すると嬢瑠璃は軽く肩をすくめ、
「貴方がツンデレキャラだったとは、ちょっと意外ですね」
「──なんの話だ?」
「『勘違いするな』とはツンデレの常套句ですよ」
彼女はそんな言葉をどこから仕入れてくるのだろうか。
まず間違いなく全死経由だろうが。本当にろくなことを吹き込まない女だと思う。
「──念の為に言っておきますが、冗談です」
「冗談なら、もっとそれらしく言ったらいいんじゃないのか。笑いながら言うとかさ」
「これは誰も笑わないための冗談ですので」
そして嬢瑠璃は再び腕時計に視線を落とし、
「そろそろ全死さんはデートの時間ですので、起こしますよ」
「わざわざ俺の承諾なんかいらないだろ」
「もっともです。ですが、形式として一応言ってみました」
言い終えると、まるで俺の存在など最初からここにいなかったかのように、嬢瑠璃はもはやこちらに一瞥もくれず全死に歩み寄る。
「全死さん、そろそろ桂木弥子さんとの待ち合わせの時間ですよ」
耳元で囁きながら肩を揺する嬢瑠璃の手を、全死はうるさそうに振り払っている。
それをぼんやりと眺めながら、また溜め息をつく。
「……ほんと、やれやれだ」
そこは俺が借りているワンルームマンションのベッドではなく、そこから徒歩十五分ばかりの俺が通う大学──
そのなかで俺が所属してる思想インフラ研究会の部室の長椅子の上だった。
隣で寝息を立ててるのは裸の真銅白樺ではもちろんなく、最悪なまでに人相の悪い女──
俺の幼馴染兼腐れ縁兼レギュラーである存在の飛鳥井全死だった。当然だが裸ではない。
「──やれやれ」
とりあえずの習慣で溜め息をついてから、変な体勢で眠っていたことで軋りを上げる手足の関節をほぐし、
それと平行して自分はどうしてここにいるのだろうという問題について思い返す。
深夜であるのも構わずに「いちゃいちゃしようぜ」と言う全死によって部室まで呼び付けられ、
俺としては乗り気では無かったが全死の機嫌を損なうと何をされるか分かったものじゃないので、
仕方なく部室に足を運んだまでは良かったが──。
「お目覚めですか」
そんな背後からの声に、俺の記憶の反芻は中断された。
振り返ると、そこには学生服を着た小柄な少女の姿がある。
「……君か。いつからそこにいた? と言うか、今何時?」
少女──荻浦嬢瑠璃は細い手首を引っ繰り返して腕時計に目を落とし、「二時半です」と短く告げる。
今日受講する予定だったはずの講義を三つばかり逃してしまったことを知り、わずかな不快感が胸に立ち昇る。
「いつから、という質問ですが……そうですね、かれこれ三時間ばかり全死さんと貴方の寝顔を眺めてました」
「起こしてくれれば良かったのに。そうすれば講義をサボタージュしなくて済んだ」
「頼まれもしないのに貴方を起こす理由がありますか?」
言っていることはこの上なく正しいが、だからと言ってこの世の正義が俺の利益に直結している訳ではない。
俺の都合に限定するなら、たとえ理由が無くても起こして欲しかった。
「なにか、ご不満でも?」
「いや、俺は辺境人(マージナル)だからな。他人に対して不満なんか抱いたりしないさ。
ただ、俺の周りには冷たいやつばかりだと再認識したけどな」
「同情します」
明らかにそんなことは思っていない冷淡な口調で、嬢瑠璃はしゃらっと言ってのける。
「それに──わたしには無理です」
「……なにが」
「全死さんと貴方が仲良く肩を寄せ合って寝ているところに割って入るほどの根性が無いという意味です」
「気味の悪い表現をするなよ。全死さんが勝手に俺にもたれかかってきただけだ。
そうなんでもかんでも俺と全死さんをくっつけるような発言はやめてくれ。
この人、俺を呼び出しておきながら眠りこけてたんだから。放っておいて帰ろうかと何度思ったことか」
「そうですか? わたしはてっきり事後かと思ってましたが」
本気で背筋が寒くなった。
嬢瑠璃の無感動な目を見つめ返し、少し本格的に抗弁する。
「勘違いしないでくれ。なにも無かったんだから。考えるだけでぞっとする」
すると嬢瑠璃は軽く肩をすくめ、
「貴方がツンデレキャラだったとは、ちょっと意外ですね」
「──なんの話だ?」
「『勘違いするな』とはツンデレの常套句ですよ」
彼女はそんな言葉をどこから仕入れてくるのだろうか。
まず間違いなく全死経由だろうが。本当にろくなことを吹き込まない女だと思う。
「──念の為に言っておきますが、冗談です」
「冗談なら、もっとそれらしく言ったらいいんじゃないのか。笑いながら言うとかさ」
「これは誰も笑わないための冗談ですので」
そして嬢瑠璃は再び腕時計に視線を落とし、
「そろそろ全死さんはデートの時間ですので、起こしますよ」
「わざわざ俺の承諾なんかいらないだろ」
「もっともです。ですが、形式として一応言ってみました」
言い終えると、まるで俺の存在など最初からここにいなかったかのように、嬢瑠璃はもはやこちらに一瞥もくれず全死に歩み寄る。
「全死さん、そろそろ桂木弥子さんとの待ち合わせの時間ですよ」
耳元で囁きながら肩を揺する嬢瑠璃の手を、全死はうるさそうに振り払っている。
それをぼんやりと眺めながら、また溜め息をつく。
「……ほんと、やれやれだ」
「域外者(アウトサイダー)……?」
わたしのいかにも「意味が分かりません」的なオウム返しに、メイド服の警察官、虚木藍さんはにっこり微笑んで頷いた。
「そう。わたくしや飛鳥井全死さんのような人種は、便宜上そう呼ばれています。
『人種』、と言いましたがこれも比喩的な表現です。わたしくも彼女も、もちろん純正のヒト科生物です」
藍さんはそこで笹塚さんに会釈をし、
「わたくしは桂木さんと少々込み入ったお話を致しますので、外で待っていただけますか?」
「──了解。えー、と……弥子ちゃん、悪いな。なんか知らないけど、彼女の話を聞いてやってくれ」
ダルそうに手を振り事務所から出て行く笹塚さんを笑顔で見送った藍さんは、いっそうの柔らかい微笑でくるっと振り返る。
「さて、お話の続きですが……わたくしたちはこの『世界』を外側から眺めることが出来ます──これも比喩表現です。世界に内も外もありません。
しかしながら『外側から見るように』俯瞰的にこの世界を理解することで、わたくしたちはある一つの共通認識を得ることが可能になるのです。
それは『メタテキスト』と呼ばれているものです。メタテキストとは……人間の思考や精神よりも高次(メタ)なレヴェルに位置づけられる、
いわばその人の『本質』──いえ、これも正確ではないですね。その人と世界の関係を示すもの、
言うななれば、その人がどういった記号(キャラクター)を用いてこの世界に記述されているかを示す概念です。
これも例え話になりますが、ある種の創作物──小説、漫画、戯曲などに於いて、被創造物である虚構存在であるところの登場人物が
『創作者の思惑を超えて』、『勝手に動き出す』という話を耳にしたことはありませんか? もちろんそれはつまらない錯誤です。
すべてはワールドデザイナーたるクリエイターの思惑の中にあり、作中の登場人物がその枠を飛び越えることなどありえません。
では、なぜそういった錯誤が生まれるのでしょうか? 結論から言ってしまうと、創作者もまた虚構の産物だからに他なりません。
ここで気をつけていただきたいのは、ここで言う『創作者』と、クリエイターとして社会活動を行う人物は、
構造的に違うレヴェルの存在であるという簡単な事実です。お分かりですか?
現実に存在したクリエイターの『夏目漱石』の下位に、『坊っちゃん』を書いた『夏目漱石』が位置し、
その同位に列するものとして、『こころ』を書いた『夏目漱石』や『吾輩は猫である』を書いた『夏目漱石』がいるというロジックです。
クリエイターと登場人物の間には、『不完全な神=創作者』たる中間構造物が予め設定されているのです。
いわゆる『楽屋オチ』や『作者登場』、または『あとがき座談会』などのメタ演出は、この構造を前提として成立するストーリーテリングですね。
クリエイターは被創造物である『創作者』をしばしば自己と同一視するため、『登場人物が勝手に動き出す』という錯覚が発生するのです。
登場人物を動かすのは、虚構レヴェルの最上位に位置するクリエイターの極めて現実的な判断の結果でありますが、
その認識が『創作者』のレヴェルにまで浸透しなかった場合に、『勝手に動いた』と錯誤する──いえ、錯誤したことにされる、というわけです」
壊れたラジオかなんかのように長々としゃべっていた藍さんだったが、ここでふと口をつぐむ。
あ、お話終わったんだ──と思いきや、
「あら。あらあら。少々脱線してしまったようですね。話を元に戻させていただきます」
……どこからが本線なのか、そこを先に教えて欲しかったりする。
しかしわたしがそれを言う前に、アクセル全開の長話が再開されてしまった。
「『メタテキスト』とは、世界という『文脈』の中で位置づけられるその人の『記号パターン』を司る『関数』、
ある状況でその人はどう世界に対しアクションを起こすか、その入出力の関係を理解するものです。
この認識を敷衍すれば、おのずと『域外者(アウトサイダー)』についての実相も見えてくると思います。
そう──『メタテキスト』を読める『域外者(アウトサイダー)』とは、
世界を支配する摂理に一歩近づいた、現存在よりも一段上のレヴェルに位置する存在なのです。
さっきの例え話に準じるなら、わたくしたちは『自分が作品内のキャラクターだと知った』虚構内存在ということになります。
これは、わたくしたちが他より優れた存在だと言っているわけではありません。
単なる構造上の立ち位置の話であり、そこに品格や人間性はもちろんのこと、存在の優劣はまったくの無関係です。悪しからず」
よくもまあそこまで淀みなくしゃべれるよな、と話の内容とは関係ないところでその長広舌に感心するわたしだったが、
「──すみません。長々と電波を申し上げまして」
まるでその心を読んだかのように、藍さんは話を中断して頭を下げた。
……メイド服の女性に頭を下げられるというのは、物凄い非現実的な光景だ。
ある意味、ネウロの超常的な言動よりも不安を掻き立てられる。
「ふむ……実に興味深いお話です、虚木警部補どの」
一方のネウロは澄ました顔で顎に手をあて、うんうんと頷いている。
アンタ本当に分かってんのか?
「しかし腑に落ちませんね──」
「まあ、どこがでしょうか? わたくしにお答えできることなら喜んで説明させていただきます」
小首を傾げる藍さんに、ネウロはぴっと立てた指を示し、左右に振る。
「つまり『域外者(アウトサイダー)』とは『メタテキスト』が読めるもののこと。……そうですね?」
「はい、仰るとおりです。これが『メタテキストをいじる』段階にまで到達すると『フォーミュラツイスタ』となります。
わたくしや全死さんはむしろこちらの部類にカテゴライズされますが、総称としての区分はやはり『域外者(アウトサイダー)』です」
「なるほど、しかし……なぜ貴女は我が『桂木弥子魔界探偵事務所』を訪れたのです?
『メタテキスト』というものが読めるのならば、事件の捜査に非常に有効に働くと思われますが」
「まずはご理解いただきたいのですが、わたくしがメタテキストを読んでも、それ自体にはなんの証拠能力もありません。
犯人を検挙し、公判を維持するためにはやはり警察機構による地道な捜査は必要なのです。
そして、はい、確かに、『犯人を知っている』というアドバンテージを利用すること、
あるいはなんらかの形でメタテキストに改竄を加えることで、捜査を進展させることも原理的には可能です。ですが──」
コンコン、といきなりドアがノックされ。藍さんの話は途切れた。
その場の全員の視線が事務所の入り口に集中する。
「……あのさ、なんか来てるけど。……お客」
ドアの隙間からひょいと顔を出して告げる笹塚さんの頭が、
「おい、ちょっと──」
いきなりその背後から伸びてきた手で鷲づかみにされた。
そのまま笹塚さんを押しのけるように、そしてドアが壊れるくらいの乱暴さで『誰か』が事務所に入ってくる。
「──あ」
その人を見て、反射的に時計を見る。
三時十五分。──待ち合わせは三時。
「おそーい! このわたしを待たせるとはいい度胸じゃないか!?」
頭から爪先まで黒尽くめの魔女みたいな女性──飛鳥井全死さんが、怒りも露わに仁王立ちしている。
ぎろり、とノンフレームの奥の瞳を光らせてわたしを睨む。
「これがエロゲなら確実に好感度下がってるぞ! ウブなネンネじゃあるまいし、なにに時間を──」
とかなんとか喚き散らしながらバンプスを踏み鳴らして近づく全死さんだったが、
「──っておい!」
藍さんの横を通り過ぎた瞬間、驚いたように彼女を見る。
「おいおいおい、なんでお前がここにいるんだよ、虚木藍(エルストウリー)?」
「お久しぶりです、飛鳥井全死(テスラガール)」
「その名前で呼ぶなつってんだろ!」
「あら、まあ。相変わらず理不尽なお方ですね。先にその呼び方をなさったのは全死さんのほうですよ?」
「わたしはいいけどお前は駄目に決まってるだろ! こんな自明なことがあるか!」
「そうですか、失礼致しました。とにかくお久しぶりですね。わたくしがここにいる理由ですね? それは──」
「ふん、そんなの言わないでいいよ。警察組織のデッドコピー・エピゴーネンの考えそうなことくらいお見通しだ。
あの子を宮下乖離の後釜に据えようってんだろ? 違うか?
ああ、くそ、ほんとに胸糞悪いな。救いがたい馬鹿だ。そんなに自分の手を汚すのが嫌か?」
「──以前も申し上げましたが、わたくしでは駄目なのです。わたくしは警察官です。
あるシステムに属するものは、そのシステムに内包されない能力を行使することを避ける必要があります」
「うっさい巨乳メイド! だからお前は屑なんだ。下衆の極致だ。ここまでくるとむしろ賞賛に値するな」
汲めども尽きぬ泉のように、次から次へと悪罵や中傷や呪詛を撒き散らす全死を持て余したのか、
藍さんは小さな肩を落としてふうっと深く息を吐いた。
「わたくしはいずれ警察を離れ、師匠(マイスター)の元へ向かうつもりです。
その前にやれることをやっておこうというだけのことです。──まあ、この文脈で語ることでもありませんが」
最後に一礼して、それでケリをつけたのか藍さんは全死さんから視線を逸らす。
「今日のところはこれで失礼させていただきます。依頼を受けていただけるようでしたら、ぜひご一報を」
なおもぎゃーぎゃー騒ぐ全死さんを見ないように、藍さんはそそくさと去っていった。
事務所の入り口に背を預けてそんなやりとりを眺めていた笹塚さんが懐から手錠を取り出し、
(この女、しょっぴこうか?)
アイコンタクトでわたしに問い掛ける。
あ、お願いしちゃおかなー、と揺らぎかけたわたしの心を射抜くように、
(断れ)
というネウロの強烈なプレッシャーが背中越しにビシビシ突き刺さる。
(──この人は放って置いてください)
とボディランゲージ込みで笹塚さんに伝える。
笹塚さんはそれでも心配そうに、事務所の床に唾を吐いたり悪逆非道の限りを尽くす全死さんとわたしを見比べていたが、
やがて諦めたように溜め息をついて事務所を後にした。
ひとしきり暴れてやっと落ち着いたのか、しかしそれでもなお不服そうに、全死さんは唇を噛んで事務所のドアに殺視線を送っている。
「……全死さん、藍さん嫌いなんですか?」
いらいらと床を何度も蹴る全死さんは、わたしの質問に腹立たしげに舌打ちする。
「ああ? 嫌いだよ。あんな巨乳メイドを好きになるやつなんかいないね。
だが、くそ、そういうことか──興が殺がれた。結局、なにもかも無駄にならなかった訳だ」
「──はい?」
「帰る」
言い放つと、彼女はさっさと背を向けてすたすたと入り口へ向かっていった。
──もしかして、デートはお流れ?
いや、元々気が進まなかったし、それはそれで歓迎すべきことなのだろうが……なんだろう、この脱力感。
丸一日に及ぶ長電話に耐え、藍さんの意味不明な電波話を拝聴し、そうした諸々の苦労が──。
「全部、無駄……?」
それは声になるかならないかの小さなぼやきだったのが、まさにドアから出て行こうとする全死さんはそれを耳聡く捉え、返してきた。
「無駄じゃないさ。こいつはな、全部必要な手続きだったんだよ。
弥子ちゃん、あんたは聡い子だから特別に教えてあげるよ。わたしはなにも間違えてなんかいない。
そうさ──わたしは決して間違えないんだ」
──その言葉を最後に、飛鳥井全死は事務所から消えて行った。
ドアが閉まったのを確認すると、どっと疲れが襲ってきて床にへたり込む。
「ツッコみたいけどどこがツッコみどころやら……」
脱力するわたしの耳元で、ネウロが密やかに囁く。
「感じるぞ、ヤコ……『謎』の気配は近い。
そう遠くないうちに、これまで出会った人間どもが、我が輩を新たな『謎』に導くだろう。
もう間もなく、我が輩の脳髄の飢えを一時癒す至福のときが訪れるのだ」
──そんなことより、疲れきったわたしの脳は糖分を求めていた。
なので、わたしは一言だけでそれに応える。
「──あっそ」
わたしのいかにも「意味が分かりません」的なオウム返しに、メイド服の警察官、虚木藍さんはにっこり微笑んで頷いた。
「そう。わたくしや飛鳥井全死さんのような人種は、便宜上そう呼ばれています。
『人種』、と言いましたがこれも比喩的な表現です。わたしくも彼女も、もちろん純正のヒト科生物です」
藍さんはそこで笹塚さんに会釈をし、
「わたくしは桂木さんと少々込み入ったお話を致しますので、外で待っていただけますか?」
「──了解。えー、と……弥子ちゃん、悪いな。なんか知らないけど、彼女の話を聞いてやってくれ」
ダルそうに手を振り事務所から出て行く笹塚さんを笑顔で見送った藍さんは、いっそうの柔らかい微笑でくるっと振り返る。
「さて、お話の続きですが……わたくしたちはこの『世界』を外側から眺めることが出来ます──これも比喩表現です。世界に内も外もありません。
しかしながら『外側から見るように』俯瞰的にこの世界を理解することで、わたくしたちはある一つの共通認識を得ることが可能になるのです。
それは『メタテキスト』と呼ばれているものです。メタテキストとは……人間の思考や精神よりも高次(メタ)なレヴェルに位置づけられる、
いわばその人の『本質』──いえ、これも正確ではないですね。その人と世界の関係を示すもの、
言うななれば、その人がどういった記号(キャラクター)を用いてこの世界に記述されているかを示す概念です。
これも例え話になりますが、ある種の創作物──小説、漫画、戯曲などに於いて、被創造物である虚構存在であるところの登場人物が
『創作者の思惑を超えて』、『勝手に動き出す』という話を耳にしたことはありませんか? もちろんそれはつまらない錯誤です。
すべてはワールドデザイナーたるクリエイターの思惑の中にあり、作中の登場人物がその枠を飛び越えることなどありえません。
では、なぜそういった錯誤が生まれるのでしょうか? 結論から言ってしまうと、創作者もまた虚構の産物だからに他なりません。
ここで気をつけていただきたいのは、ここで言う『創作者』と、クリエイターとして社会活動を行う人物は、
構造的に違うレヴェルの存在であるという簡単な事実です。お分かりですか?
現実に存在したクリエイターの『夏目漱石』の下位に、『坊っちゃん』を書いた『夏目漱石』が位置し、
その同位に列するものとして、『こころ』を書いた『夏目漱石』や『吾輩は猫である』を書いた『夏目漱石』がいるというロジックです。
クリエイターと登場人物の間には、『不完全な神=創作者』たる中間構造物が予め設定されているのです。
いわゆる『楽屋オチ』や『作者登場』、または『あとがき座談会』などのメタ演出は、この構造を前提として成立するストーリーテリングですね。
クリエイターは被創造物である『創作者』をしばしば自己と同一視するため、『登場人物が勝手に動き出す』という錯覚が発生するのです。
登場人物を動かすのは、虚構レヴェルの最上位に位置するクリエイターの極めて現実的な判断の結果でありますが、
その認識が『創作者』のレヴェルにまで浸透しなかった場合に、『勝手に動いた』と錯誤する──いえ、錯誤したことにされる、というわけです」
壊れたラジオかなんかのように長々としゃべっていた藍さんだったが、ここでふと口をつぐむ。
あ、お話終わったんだ──と思いきや、
「あら。あらあら。少々脱線してしまったようですね。話を元に戻させていただきます」
……どこからが本線なのか、そこを先に教えて欲しかったりする。
しかしわたしがそれを言う前に、アクセル全開の長話が再開されてしまった。
「『メタテキスト』とは、世界という『文脈』の中で位置づけられるその人の『記号パターン』を司る『関数』、
ある状況でその人はどう世界に対しアクションを起こすか、その入出力の関係を理解するものです。
この認識を敷衍すれば、おのずと『域外者(アウトサイダー)』についての実相も見えてくると思います。
そう──『メタテキスト』を読める『域外者(アウトサイダー)』とは、
世界を支配する摂理に一歩近づいた、現存在よりも一段上のレヴェルに位置する存在なのです。
さっきの例え話に準じるなら、わたくしたちは『自分が作品内のキャラクターだと知った』虚構内存在ということになります。
これは、わたくしたちが他より優れた存在だと言っているわけではありません。
単なる構造上の立ち位置の話であり、そこに品格や人間性はもちろんのこと、存在の優劣はまったくの無関係です。悪しからず」
よくもまあそこまで淀みなくしゃべれるよな、と話の内容とは関係ないところでその長広舌に感心するわたしだったが、
「──すみません。長々と電波を申し上げまして」
まるでその心を読んだかのように、藍さんは話を中断して頭を下げた。
……メイド服の女性に頭を下げられるというのは、物凄い非現実的な光景だ。
ある意味、ネウロの超常的な言動よりも不安を掻き立てられる。
「ふむ……実に興味深いお話です、虚木警部補どの」
一方のネウロは澄ました顔で顎に手をあて、うんうんと頷いている。
アンタ本当に分かってんのか?
「しかし腑に落ちませんね──」
「まあ、どこがでしょうか? わたくしにお答えできることなら喜んで説明させていただきます」
小首を傾げる藍さんに、ネウロはぴっと立てた指を示し、左右に振る。
「つまり『域外者(アウトサイダー)』とは『メタテキスト』が読めるもののこと。……そうですね?」
「はい、仰るとおりです。これが『メタテキストをいじる』段階にまで到達すると『フォーミュラツイスタ』となります。
わたくしや全死さんはむしろこちらの部類にカテゴライズされますが、総称としての区分はやはり『域外者(アウトサイダー)』です」
「なるほど、しかし……なぜ貴女は我が『桂木弥子魔界探偵事務所』を訪れたのです?
『メタテキスト』というものが読めるのならば、事件の捜査に非常に有効に働くと思われますが」
「まずはご理解いただきたいのですが、わたくしがメタテキストを読んでも、それ自体にはなんの証拠能力もありません。
犯人を検挙し、公判を維持するためにはやはり警察機構による地道な捜査は必要なのです。
そして、はい、確かに、『犯人を知っている』というアドバンテージを利用すること、
あるいはなんらかの形でメタテキストに改竄を加えることで、捜査を進展させることも原理的には可能です。ですが──」
コンコン、といきなりドアがノックされ。藍さんの話は途切れた。
その場の全員の視線が事務所の入り口に集中する。
「……あのさ、なんか来てるけど。……お客」
ドアの隙間からひょいと顔を出して告げる笹塚さんの頭が、
「おい、ちょっと──」
いきなりその背後から伸びてきた手で鷲づかみにされた。
そのまま笹塚さんを押しのけるように、そしてドアが壊れるくらいの乱暴さで『誰か』が事務所に入ってくる。
「──あ」
その人を見て、反射的に時計を見る。
三時十五分。──待ち合わせは三時。
「おそーい! このわたしを待たせるとはいい度胸じゃないか!?」
頭から爪先まで黒尽くめの魔女みたいな女性──飛鳥井全死さんが、怒りも露わに仁王立ちしている。
ぎろり、とノンフレームの奥の瞳を光らせてわたしを睨む。
「これがエロゲなら確実に好感度下がってるぞ! ウブなネンネじゃあるまいし、なにに時間を──」
とかなんとか喚き散らしながらバンプスを踏み鳴らして近づく全死さんだったが、
「──っておい!」
藍さんの横を通り過ぎた瞬間、驚いたように彼女を見る。
「おいおいおい、なんでお前がここにいるんだよ、虚木藍(エルストウリー)?」
「お久しぶりです、飛鳥井全死(テスラガール)」
「その名前で呼ぶなつってんだろ!」
「あら、まあ。相変わらず理不尽なお方ですね。先にその呼び方をなさったのは全死さんのほうですよ?」
「わたしはいいけどお前は駄目に決まってるだろ! こんな自明なことがあるか!」
「そうですか、失礼致しました。とにかくお久しぶりですね。わたくしがここにいる理由ですね? それは──」
「ふん、そんなの言わないでいいよ。警察組織のデッドコピー・エピゴーネンの考えそうなことくらいお見通しだ。
あの子を宮下乖離の後釜に据えようってんだろ? 違うか?
ああ、くそ、ほんとに胸糞悪いな。救いがたい馬鹿だ。そんなに自分の手を汚すのが嫌か?」
「──以前も申し上げましたが、わたくしでは駄目なのです。わたくしは警察官です。
あるシステムに属するものは、そのシステムに内包されない能力を行使することを避ける必要があります」
「うっさい巨乳メイド! だからお前は屑なんだ。下衆の極致だ。ここまでくるとむしろ賞賛に値するな」
汲めども尽きぬ泉のように、次から次へと悪罵や中傷や呪詛を撒き散らす全死を持て余したのか、
藍さんは小さな肩を落としてふうっと深く息を吐いた。
「わたくしはいずれ警察を離れ、師匠(マイスター)の元へ向かうつもりです。
その前にやれることをやっておこうというだけのことです。──まあ、この文脈で語ることでもありませんが」
最後に一礼して、それでケリをつけたのか藍さんは全死さんから視線を逸らす。
「今日のところはこれで失礼させていただきます。依頼を受けていただけるようでしたら、ぜひご一報を」
なおもぎゃーぎゃー騒ぐ全死さんを見ないように、藍さんはそそくさと去っていった。
事務所の入り口に背を預けてそんなやりとりを眺めていた笹塚さんが懐から手錠を取り出し、
(この女、しょっぴこうか?)
アイコンタクトでわたしに問い掛ける。
あ、お願いしちゃおかなー、と揺らぎかけたわたしの心を射抜くように、
(断れ)
というネウロの強烈なプレッシャーが背中越しにビシビシ突き刺さる。
(──この人は放って置いてください)
とボディランゲージ込みで笹塚さんに伝える。
笹塚さんはそれでも心配そうに、事務所の床に唾を吐いたり悪逆非道の限りを尽くす全死さんとわたしを見比べていたが、
やがて諦めたように溜め息をついて事務所を後にした。
ひとしきり暴れてやっと落ち着いたのか、しかしそれでもなお不服そうに、全死さんは唇を噛んで事務所のドアに殺視線を送っている。
「……全死さん、藍さん嫌いなんですか?」
いらいらと床を何度も蹴る全死さんは、わたしの質問に腹立たしげに舌打ちする。
「ああ? 嫌いだよ。あんな巨乳メイドを好きになるやつなんかいないね。
だが、くそ、そういうことか──興が殺がれた。結局、なにもかも無駄にならなかった訳だ」
「──はい?」
「帰る」
言い放つと、彼女はさっさと背を向けてすたすたと入り口へ向かっていった。
──もしかして、デートはお流れ?
いや、元々気が進まなかったし、それはそれで歓迎すべきことなのだろうが……なんだろう、この脱力感。
丸一日に及ぶ長電話に耐え、藍さんの意味不明な電波話を拝聴し、そうした諸々の苦労が──。
「全部、無駄……?」
それは声になるかならないかの小さなぼやきだったのが、まさにドアから出て行こうとする全死さんはそれを耳聡く捉え、返してきた。
「無駄じゃないさ。こいつはな、全部必要な手続きだったんだよ。
弥子ちゃん、あんたは聡い子だから特別に教えてあげるよ。わたしはなにも間違えてなんかいない。
そうさ──わたしは決して間違えないんだ」
──その言葉を最後に、飛鳥井全死は事務所から消えて行った。
ドアが閉まったのを確認すると、どっと疲れが襲ってきて床にへたり込む。
「ツッコみたいけどどこがツッコみどころやら……」
脱力するわたしの耳元で、ネウロが密やかに囁く。
「感じるぞ、ヤコ……『謎』の気配は近い。
そう遠くないうちに、これまで出会った人間どもが、我が輩を新たな『謎』に導くだろう。
もう間もなく、我が輩の脳髄の飢えを一時癒す至福のときが訪れるのだ」
──そんなことより、疲れきったわたしの脳は糖分を求めていた。
なので、わたしは一言だけでそれに応える。
「──あっそ」