光一つない部屋の中、さらに黒く、闇に沈む男の姿があった。
「あの二人は、どうしている?」
その闇の狭間から、それとは別の姿無き声が答える。
「驚異的な達成率で任務をクリアしている。
定点的に評価を下すなら、問題点はまだ多い。山積みと言ってもいい。
にも関わらず、最終的には──たとえ辛うじてあろうとでも──目標を達成している。
決戦能力とでもいうべきか……最後の最後で状況を制圧する能力に秀でている、という見方もあるがな。
それぞれの資質的な欠損を相互に補い、高次の一存在として成立している」
それを引き取るように、微かな食器の音を響かせながら女は言った。
「二人で一人、というわけか。さすがね。わたしも姉として鼻が高い」
そこで言葉が切れる。だがまもなく女は続けて言葉を発した。
「この紅茶、香りが上手に開いているな。変な渋みもない。これは誰が淹れたのかしら」
闇に沈む声がそれに応じる。
「私だ」
「まあ……」
「意外かね?」
「ふん、茶の味などどうでもいいだろう。……セイロンか?」
「いや、ダージリンだ」
「アッサムです」
「淹れた本人がダージリンだと言っているのだがな」
「アッサムです」
「…………」
「…………」
死神が通り過ぎる、という慣用句に相応しいほどの静寂が場を満たす。
気を取り直すように軽く咳払いをした後、姿無き声は先ほどの説明を続ける。
「クラーク・ノイマン少佐の一件以来、『グリフォン』は飛躍的に成長を遂げている。
最終形態には至っていないが、能力自体は分子レベルでの超振動を可能にしている。
それが分子結合への干渉にまで及ぶのは時間の問題だろうというのが、ドクター・ティリングハーストの見解だ」
「それに名前はあるのですか?」
「なんだと?」
「わたしの『マーチヘア』は『バロールの魔眼』。あなたの『マッドハッター』は『ブリューナクの槍』。では『グリフォン』は?」
「む……オレは知らんな」
「『それ』に名はまだ無い。不確かな可能性を秘めたままの、未だこの世に出ていない力だ」
「……『グリフォン』はさらに進化すると? 分子の破壊を超えた、更なる力がその先にあるというのか?」
「全ては可能性の段階だ。或いは分子結合の破壊にすら至らず、能力は完成を迎えてしまうかもしれない。
小さいスケールでまとまった、世界を変えるには到底及ばぬ矮小な力のまま」
「道は半ばなり、というわけですね」
女は感慨深げにつぶやき、黙った。さくさくとなにかを噛み砕く音が控えめに響く。
「このクッキー、香りがついているわね。誰が焼いたのかしら」
「私だ」
「まあ……」
「意外かね?」
「ふん、菓子の匂いなどどうでもいいだろう。……ナッツか?」
「いや、アーモンドだ」
「アマレットです」
「焼いた本人がだとアーモンドだと言っているのだがな」
「アマレットです」
「…………」
「…………」
さくさくさくさくさくさくさく、と連続した音が響く。
それを遮るように、闇に沈む声が静かに語る。
「『グリフォン』が日々進化するように、『モックタートル』もその能力を発展させるだろう。
『プログラム・ジャバウォック』が本格的に始動する日は近い。
四人の適性者にはすでにオリジナルARMSが移植され、目覚めの日を待ち続けているのだ。
それまでに、我々にはどうしてもクリアしておかなければならない課題がある」
「『エクスペリメンテーション・グリフォン』」
「そうだ」
「それは、いったいどういう概要なのですか?」
「極秘だ。お前たちにも全貌を伝えることはできない。計画遂行の段階ごとに進行役を変えるのも、その為の処置だ」
姿無き声は苛立たしげに問う。
「何故そんな回りくどいことをする」
「向こうには『モックタートル』がついている。運命の流れを肌で感じる、黄金の仔牛が」
「……わたしは、あの子を不幸せにするようなことはしたくありません」
「それを選択するのは本人だ。他人から与えられた籠の中の幸福を、彼女は幸福と感じると思うか?」
「どちらにせよ、オレには関係の無いことだな。あのような失敗作どもにはなんの同情も憐憫もない」
「お前はそれでいい」
海よりも深いしじまの中で、女は重い口を開いた。それは決然とした口調だった。
「わたしは、あの二人には強くなって欲しいと思っています。その意味では、わたしに与えられた仕事を拒む理由はありません」
「そう、だからこそ私は第一段階の進行役にお前を選んだ。もしも私のやることに疑念があるのなら──」
「ええ、それすらも凌ぐ力をあの二人に」
「茶番だな。オレたちはそれぞれ違う運命をプログラムされている。その無慈悲な歯車の回転には、何人たりとも横から手を加えることはできない」
「その通りだ。これは遥かな太古よりすでに決定されたプログラムなのだから。それは、私とて同じことだ。誰もそこからは自由になれない。
我々の為すべきことはたった一つ──」
その言葉を最後に、声は闇に沈みきり、溶けた。
「全ては、我らが母『アリス』の為に」
挿入話『闇』 了
「あの二人は、どうしている?」
その闇の狭間から、それとは別の姿無き声が答える。
「驚異的な達成率で任務をクリアしている。
定点的に評価を下すなら、問題点はまだ多い。山積みと言ってもいい。
にも関わらず、最終的には──たとえ辛うじてあろうとでも──目標を達成している。
決戦能力とでもいうべきか……最後の最後で状況を制圧する能力に秀でている、という見方もあるがな。
それぞれの資質的な欠損を相互に補い、高次の一存在として成立している」
それを引き取るように、微かな食器の音を響かせながら女は言った。
「二人で一人、というわけか。さすがね。わたしも姉として鼻が高い」
そこで言葉が切れる。だがまもなく女は続けて言葉を発した。
「この紅茶、香りが上手に開いているな。変な渋みもない。これは誰が淹れたのかしら」
闇に沈む声がそれに応じる。
「私だ」
「まあ……」
「意外かね?」
「ふん、茶の味などどうでもいいだろう。……セイロンか?」
「いや、ダージリンだ」
「アッサムです」
「淹れた本人がダージリンだと言っているのだがな」
「アッサムです」
「…………」
「…………」
死神が通り過ぎる、という慣用句に相応しいほどの静寂が場を満たす。
気を取り直すように軽く咳払いをした後、姿無き声は先ほどの説明を続ける。
「クラーク・ノイマン少佐の一件以来、『グリフォン』は飛躍的に成長を遂げている。
最終形態には至っていないが、能力自体は分子レベルでの超振動を可能にしている。
それが分子結合への干渉にまで及ぶのは時間の問題だろうというのが、ドクター・ティリングハーストの見解だ」
「それに名前はあるのですか?」
「なんだと?」
「わたしの『マーチヘア』は『バロールの魔眼』。あなたの『マッドハッター』は『ブリューナクの槍』。では『グリフォン』は?」
「む……オレは知らんな」
「『それ』に名はまだ無い。不確かな可能性を秘めたままの、未だこの世に出ていない力だ」
「……『グリフォン』はさらに進化すると? 分子の破壊を超えた、更なる力がその先にあるというのか?」
「全ては可能性の段階だ。或いは分子結合の破壊にすら至らず、能力は完成を迎えてしまうかもしれない。
小さいスケールでまとまった、世界を変えるには到底及ばぬ矮小な力のまま」
「道は半ばなり、というわけですね」
女は感慨深げにつぶやき、黙った。さくさくとなにかを噛み砕く音が控えめに響く。
「このクッキー、香りがついているわね。誰が焼いたのかしら」
「私だ」
「まあ……」
「意外かね?」
「ふん、菓子の匂いなどどうでもいいだろう。……ナッツか?」
「いや、アーモンドだ」
「アマレットです」
「焼いた本人がだとアーモンドだと言っているのだがな」
「アマレットです」
「…………」
「…………」
さくさくさくさくさくさくさく、と連続した音が響く。
それを遮るように、闇に沈む声が静かに語る。
「『グリフォン』が日々進化するように、『モックタートル』もその能力を発展させるだろう。
『プログラム・ジャバウォック』が本格的に始動する日は近い。
四人の適性者にはすでにオリジナルARMSが移植され、目覚めの日を待ち続けているのだ。
それまでに、我々にはどうしてもクリアしておかなければならない課題がある」
「『エクスペリメンテーション・グリフォン』」
「そうだ」
「それは、いったいどういう概要なのですか?」
「極秘だ。お前たちにも全貌を伝えることはできない。計画遂行の段階ごとに進行役を変えるのも、その為の処置だ」
姿無き声は苛立たしげに問う。
「何故そんな回りくどいことをする」
「向こうには『モックタートル』がついている。運命の流れを肌で感じる、黄金の仔牛が」
「……わたしは、あの子を不幸せにするようなことはしたくありません」
「それを選択するのは本人だ。他人から与えられた籠の中の幸福を、彼女は幸福と感じると思うか?」
「どちらにせよ、オレには関係の無いことだな。あのような失敗作どもにはなんの同情も憐憫もない」
「お前はそれでいい」
海よりも深いしじまの中で、女は重い口を開いた。それは決然とした口調だった。
「わたしは、あの二人には強くなって欲しいと思っています。その意味では、わたしに与えられた仕事を拒む理由はありません」
「そう、だからこそ私は第一段階の進行役にお前を選んだ。もしも私のやることに疑念があるのなら──」
「ええ、それすらも凌ぐ力をあの二人に」
「茶番だな。オレたちはそれぞれ違う運命をプログラムされている。その無慈悲な歯車の回転には、何人たりとも横から手を加えることはできない」
「その通りだ。これは遥かな太古よりすでに決定されたプログラムなのだから。それは、私とて同じことだ。誰もそこからは自由になれない。
我々の為すべきことはたった一つ──」
その言葉を最後に、声は闇に沈みきり、溶けた。
「全ては、我らが母『アリス』の為に」
挿入話『闇』 了