気づけば、上下のない空間に閉じ込められていた。
目の前には漆黒が広がる。明かり一つない、正真正銘の闇。だが、不思議と恐怖はなか
った。
手足をばたばた動かしても、まるで手応えがない。前に進んでいるのか、同じ座標で徒
労を演じているのかすら判断がつかない。
泳ぐ、休む、泳ぐ、休む。これをどれだけ繰り返しただろうか。突然、ある一点に光が
灯った。光はみるみるうちに大きくなり、やがて人の形を取った。
「誰だ、てめぇは!」
「私は武神」
「ぶ、武神だと?!」
「丁度いいところに来てくれた。君には私の手伝いをしてもらおう。もし彼に君と戦う資
格があったならば、とても素晴らしいものとなるはずだ」
武神を名乗る光がまっすぐに飛んできた。
逆らう暇もなく、その光に呑まれた──。
目の前には漆黒が広がる。明かり一つない、正真正銘の闇。だが、不思議と恐怖はなか
った。
手足をばたばた動かしても、まるで手応えがない。前に進んでいるのか、同じ座標で徒
労を演じているのかすら判断がつかない。
泳ぐ、休む、泳ぐ、休む。これをどれだけ繰り返しただろうか。突然、ある一点に光が
灯った。光はみるみるうちに大きくなり、やがて人の形を取った。
「誰だ、てめぇは!」
「私は武神」
「ぶ、武神だと?!」
「丁度いいところに来てくれた。君には私の手伝いをしてもらおう。もし彼に君と戦う資
格があったならば、とても素晴らしいものとなるはずだ」
武神を名乗る光がまっすぐに飛んできた。
逆らう暇もなく、その光に呑まれた──。
一人ぼっちの朝。井上はもういない。
自分でも意外なほど、穏やかな目覚めだった。寂しさも、警戒心も、夢の中に置いてき
てしまったようだ。
井上は無事に帰れたかな、とふと心配した。
試練もあとは十日を残すのみ。期間としてはすでに三分の二を終えたが、密度としては
おそらくまだ半分にも達していない。武神自ら井上を案じて退場させるほどだから、危険
度は当然はね上がるのだろう。
しかし、今さら特別な覚悟をする必要はない。まさかセンター試験を解かせるわけがあ
るまいし、向かってくる敵を己の五体でぶちのめすだけ。
格闘士でも、兵器でも、キングギドラでも、誰でもかかって来やがれ。
加藤はいつものように砂浜で朝のトレーニングを開始した。
体が温まってきた頃、彼らはどこからともなく徒歩でやってきた。
敵は二人。
片方は、身長百五十センチにも満たない老人。小汚い作務衣を着用し、よろよろと頼り
なく近づいてくる。頭髪はなく、歯も所々抜け落ちてしまっている。
もう片方は黒いボクサーパンツ一丁の若者。どことなく中東を思わせる端正なマスクの
下には、逆三角形の鍛え抜かれた筋肉が完備されている。
「ずいぶん普通なのが来たな。それともてめぇらも変な能力を持ってるのか?」
ボクサーパンツの若者が口を開く。
「安心しろ。我々はいたって純粋な格闘士だ。己の肉体と技以外、なんら武器を持たぬ」
「……嘘はついてねぇようだな」
「当然だ。我々は武神直属のエリートファイター。余計な能力を持つことは、むしろ足枷
となる」
刹那の沈黙の後、加藤が猛然と駆け出した。
久々となるまともな肉弾戦。拳を交える快感。この喜びが彼を突き動かした。
「ふぉふぉふぉ……若いのう」
「ですが力量は十分です」
老人は太極拳のようにゆるやかに手足を泳がせる。若者は両手を拳とし、ガードを上げ
る。
加藤は標的を若者に定めた。奇妙な構えでスタイルを読ませない老人に比べ、彼が筋力
を生かした打撃系(ストライカー)であることは明白だ。これを撃破し、老人攻略に挑ん
だ方がリスクが薄いと判断した。
──敵の思う壺だとも知らずに。
まっすぐ踏み込み、正拳を発射する。打ち合いになれば勝てる、と踏んだためだ。
しかし、間合いに入るや否や、加藤は若者に手首を取られた。
「なっ──」
次の瞬間には視界がひっくり返っていた。空中で逆さまになっていた。投げられた。
これを待ちかねていたかのように、信じられない速度で老人が接近する。無防備の加藤
に、老人の細腕が唸る。
「ほりゃっ」
小さな拳ではあったが、鼻を中心に深々とめり込んだ。
鼻の穴から紅い紐を撒き散らしながら、砂浜を転げ回る加藤。立ち上がるのに数秒を要
した。
「ふぉ、あれを受けて立てるとはさすがじゃのう。そそるわい」
今の一撃。これまでに喰らったことがない重さだった。
「……油断したぜ、ジジイ。年取ると、筋肉がなくてもあんなとんでもねえ突きが出せる
もんなんだな」
「ふぉふぉふぉ……」
加藤と老人、同時に間合いを詰める。互いの制空圏が触れた。
突きをかわし、逆に正拳をぶち込んで倒してみせる。相手は今すぐにでも天寿を迎えそ
うな老人、当たりさえすれば一撃で決まるはず。
しかし、思惑は外れた。
いきなりの胴タックル。虚を突かれ、加藤はあっさり侵入を許してしまう。
(何が来る──!?)
「よっ」
軽いかけ声とともに、加藤は真上へぶん投げられた。三メートルは飛んだだろうか。力
の流れを読むとか、相手の力を利用するとか、そんな次元の高い技ではなかった。ただひ
たすらに筋力だけで成された現象であった。
どうにか着地は成功するが、今度は若者が迫る。
すかさずラッシュで応じるが、全て絶妙なタイミングで捌かれる。さらに足払いを受け、
不安定になったところでまたも手首を掴まれてしまう。
手首を通じて重心を崩され、操り人形にされる加藤。彼めがけて老人が跳ぶ。もう加藤
は猛獣の前に差し出された餌に過ぎない。
「どうぞ」
「ナイスじゃ」
老人の、老人による、老人のためのドロップキック。
顔面直撃。首が折れんばかりの勢いで、加藤は宙を舞った。
自分でも意外なほど、穏やかな目覚めだった。寂しさも、警戒心も、夢の中に置いてき
てしまったようだ。
井上は無事に帰れたかな、とふと心配した。
試練もあとは十日を残すのみ。期間としてはすでに三分の二を終えたが、密度としては
おそらくまだ半分にも達していない。武神自ら井上を案じて退場させるほどだから、危険
度は当然はね上がるのだろう。
しかし、今さら特別な覚悟をする必要はない。まさかセンター試験を解かせるわけがあ
るまいし、向かってくる敵を己の五体でぶちのめすだけ。
格闘士でも、兵器でも、キングギドラでも、誰でもかかって来やがれ。
加藤はいつものように砂浜で朝のトレーニングを開始した。
体が温まってきた頃、彼らはどこからともなく徒歩でやってきた。
敵は二人。
片方は、身長百五十センチにも満たない老人。小汚い作務衣を着用し、よろよろと頼り
なく近づいてくる。頭髪はなく、歯も所々抜け落ちてしまっている。
もう片方は黒いボクサーパンツ一丁の若者。どことなく中東を思わせる端正なマスクの
下には、逆三角形の鍛え抜かれた筋肉が完備されている。
「ずいぶん普通なのが来たな。それともてめぇらも変な能力を持ってるのか?」
ボクサーパンツの若者が口を開く。
「安心しろ。我々はいたって純粋な格闘士だ。己の肉体と技以外、なんら武器を持たぬ」
「……嘘はついてねぇようだな」
「当然だ。我々は武神直属のエリートファイター。余計な能力を持つことは、むしろ足枷
となる」
刹那の沈黙の後、加藤が猛然と駆け出した。
久々となるまともな肉弾戦。拳を交える快感。この喜びが彼を突き動かした。
「ふぉふぉふぉ……若いのう」
「ですが力量は十分です」
老人は太極拳のようにゆるやかに手足を泳がせる。若者は両手を拳とし、ガードを上げ
る。
加藤は標的を若者に定めた。奇妙な構えでスタイルを読ませない老人に比べ、彼が筋力
を生かした打撃系(ストライカー)であることは明白だ。これを撃破し、老人攻略に挑ん
だ方がリスクが薄いと判断した。
──敵の思う壺だとも知らずに。
まっすぐ踏み込み、正拳を発射する。打ち合いになれば勝てる、と踏んだためだ。
しかし、間合いに入るや否や、加藤は若者に手首を取られた。
「なっ──」
次の瞬間には視界がひっくり返っていた。空中で逆さまになっていた。投げられた。
これを待ちかねていたかのように、信じられない速度で老人が接近する。無防備の加藤
に、老人の細腕が唸る。
「ほりゃっ」
小さな拳ではあったが、鼻を中心に深々とめり込んだ。
鼻の穴から紅い紐を撒き散らしながら、砂浜を転げ回る加藤。立ち上がるのに数秒を要
した。
「ふぉ、あれを受けて立てるとはさすがじゃのう。そそるわい」
今の一撃。これまでに喰らったことがない重さだった。
「……油断したぜ、ジジイ。年取ると、筋肉がなくてもあんなとんでもねえ突きが出せる
もんなんだな」
「ふぉふぉふぉ……」
加藤と老人、同時に間合いを詰める。互いの制空圏が触れた。
突きをかわし、逆に正拳をぶち込んで倒してみせる。相手は今すぐにでも天寿を迎えそ
うな老人、当たりさえすれば一撃で決まるはず。
しかし、思惑は外れた。
いきなりの胴タックル。虚を突かれ、加藤はあっさり侵入を許してしまう。
(何が来る──!?)
「よっ」
軽いかけ声とともに、加藤は真上へぶん投げられた。三メートルは飛んだだろうか。力
の流れを読むとか、相手の力を利用するとか、そんな次元の高い技ではなかった。ただひ
たすらに筋力だけで成された現象であった。
どうにか着地は成功するが、今度は若者が迫る。
すかさずラッシュで応じるが、全て絶妙なタイミングで捌かれる。さらに足払いを受け、
不安定になったところでまたも手首を掴まれてしまう。
手首を通じて重心を崩され、操り人形にされる加藤。彼めがけて老人が跳ぶ。もう加藤
は猛獣の前に差し出された餌に過ぎない。
「どうぞ」
「ナイスじゃ」
老人の、老人による、老人のためのドロップキック。
顔面直撃。首が折れんばかりの勢いで、加藤は宙を舞った。