ロードワークから帰ってくるなり、いきなり見知らぬガラ悪いロン毛大男とスパーリングしろ、
と言われたんだから、そりゃ一歩は困惑する。
「なんでボクが?」
「ご指名なんだからしょうがねえだろ。見学者には親切に、可能な限りリクエストには
応え、入門に繋げる。ジム経営にとっては大切なこと、って八木ちゃんも言ってただろ。
ん? 何だよその、『ウソ臭い。鷹村さんらしくない。絶対なんか企んでる』って目は」
「……もういいです」
反論する気力もない一歩は、のろのろと用意してリングに上がる。
そこには、ヘッドギアとマウスピースとグローブと、準備万端のレッドが待っていた。ギラつく
目で一歩を睨みつけている。ジム内には相変わらずDMCの曲がエンドレスで轟いている
ので、否が応にも殺害ムードは満点だ。
ちょっと縮こまってしまう一歩に、レツドが低い声で語りかけた。
「一つ、答えろ。お前はこの曲の……DMCの、クラウザーさんのファンか?」
「え? ボクが? この曲のバンドのファン?」
何をバカな、と言わんばかりの素っ頓狂な声で一歩が応えた。ファンどころか、DMCには
恨みがあるのだからそれも仕方ないが。
「冗談じゃないっ。ボクはこんなドロドロした歌、嫌いですよ。DMC? 知りませんそんなの。
ボクはもっとこうカッコいいのとか、可愛いのとか、」
「……そうかよ」
ぐぐっ、とレッドがグローブの中で拳を握り締めた。そして声を大きくして、リングの下にいる
鷹村や根岸にも聞こえるように言う。
「クラウザーさんはな、お前のことを凄ぇ買ってるんだよ。世界チャンピオンになれるだの、
人に力を与える力があるだのと。あの方にしては珍しいぐらい、素直に褒め称えておられた。
幕之内一歩、お前のことをだ。で、」
レッドは首を回して、DMCの曲が轟くジム内を指し示した。
「ここに来てみたらこの状態だ。さぞ、お前も熱心なDMC信者で、ってことは相思相あ……
と思って怒って待ってた。が、ようやく会えたお前はDMCなんか知らないっ、ときた」
レッドの歯軋りが聞こえてきそうだ。
「そう言われちゃ、ますます許せねぇ。クラウザーさんは絶対、騙されてる。何か勘違いを
しておられる。だから俺が、お前をボコボコに叩きのめして、お前なんかクラウザーさんが
気にかけるほどの奴じゃないって証明してやるんだ。これで納得したか、鷹村?」
一歩を睨んだままでレッドが尋ねる。鷹村は頷きながらゴングを手に取って、
「ああ、スッキリ納得したぜ。じゃあ早速、」
「待って下さいっ!」
リングの上から声を張り上げ、一歩が鷹村を制止した。
「何なんですかこれ? 体験入門でもなんでもない、ムチャクチャな言いがかり
じゃないですか!」
言われた鷹村が答えるより早く、青木たちが囃し立てる。
「いいじゃねえか一歩、受けてやれよ。あのクラウザーさんがお前に目ぇつけてたなんて、
羨ましいというか光栄な話だぜ」
「全くだ。ここは一発、お前が悪魔的なボクシングで期待に応えて」
「いい加減にして下さいっ!」
一歩が叫ぶ。
「どうせ気付いてないんでしょうけど、ボクはこの曲のせいで今、クミさんから避けられて
るんですよ! はっきり言ってこの曲もこのバンドも大っっ嫌いですし、そこのメンバーが
勝手にボクのことを喋って、それで変な恨み買ってこんな……迷惑にも程があります!」
心底、本当に心から不快そうな顔で、憎々しげに一歩が吐き捨てている。普段、こんな
顔や口調を滅多に見せないだけに、青木も木村も迫力に押されて黙り込んでしまった。
そして、一歩に吐き捨てられている当のターゲット、「大っっ嫌い」呼ばわりされたモロ本人
であるクラウザーこと根岸はというと。
『ぁう……やっぱりクラウザーは、DMCは、こうやって無関係な人に迷惑をかける存在
なんだ……だから僕はこんなのやめたいって、前々から社長に言ってるのにっっ』
「とにかく! ボクはこんなのお断りですから!」
一歩が怒ってリングを降りようとする。と、今度は鷹村が声を上げて一歩を制止した。
「待て」
「待ちませんよ。こんなケンカまがいのこと、したくありません」
「いいから聞け。オレだってケンカは推奨しねえよ。そして、お前がDMCを嫌うのも勝手だ。
だがな一歩よ。そいつが本気でお前を憎んでるだけなら、路上で襲いかかれば済むことだろ。
しかしそうはせずに、今そうやってグローブを着けている。自分の流儀であるケンカを捨てて、
お前に合わせてボクシングで挑もうってんだ」
「でも……だからって……」
「デモもストもねえ。そうまでされて背を向けるなど、オレは許さん。ましてお前は日本チャンプ
だぞ。それにだ、会長がよく言ってるだろ、ボクシングは単なる格闘技に非ず、武道に近い
もの。礼に始まり礼に終わるとな。見ての通り、わざわざお前に合わせて正々堂々と
試合を挑んできた武芸者に対してだな、」
「わかりましたよっ」
これ以上言い合ってても結局いつも通り押し通されるだけだ、と覚悟した一歩は話を
打ち切った。そしてレッドに向かい合う。
「お相手します。但し、1ラウンドだけですよ」
「おお、三分もありゃ充分過ぎるぜ。おい鷹村、こいつを説得してくれたこと、礼は言っとく」
「んなもん、いらねぇよ。じゃあいくぜ」
一歩とレッドが後退して、それぞれのコーナーに背を預ける。それを見て、鷹村がゴングを
打ち鳴らした。
待ってましたとばかりに、雄叫びを上げてレッドが駆ける。一歩が待ち受ける。
ケンカの場数は豊富だが、やはりボクシングは素人のレツド。迫力はあるが大振りの
テレフォンパンチを、一歩は易々とかわしていく。
青木たちにとっては予想通りの展開なので、涼しい顔で見ている。が、レッド同様に根岸は
素人だ。チャンプという肩書きはあれど大人しそうな一歩が、恐ろしげなレツドの猛攻に
晒されているのを見てビクビクしている。
「だ、大丈夫なのかな幕之内君……」
「大丈夫だ」
根岸の隣で鷹村が言い切った。
「ケンカならまだしも、これはボクシングだからな。いくら体格差があるって言っても、一歩
が負けるなんてことはねえよ。で、一歩に叩きのめされれば、あいつもいろいろ考えるだろ」
「? ああ、もしかして昔の不良仲間だから、まだ足を洗ってない旧友をスポーツで
更正させようとか、そういう意図で?」
ありがちなストーリーを根岸が振ってみると、鷹村はふんっと鼻息一つついて。
「ま、当たらずとも遠からずだ。オレもあいつも、昔はケンカばっかしてたからな。何の意味も
なく、山場もなく、そしてオチもつかないケンカだけの日々。オレはこうしてボクシングと
出会えたが、あいつはまだ……と思ってたんだが、さっきの答えによるとどうやら違うらしい」
「え?」
「なんつーかな、オレ様がリングの中に居場所を見つけたみてえに。あいつはあいつなりの、
生きてく意味を見つけて、今、一つ山場を迎えてんだよ。自分は気付いてねえようだが。
これでどんなオチがつくかは、あいつ次第だが……お、そろそろ終わるか」
言われて根岸が、リングに目を戻した。今、鷹村と会話した三十秒かそこらの間に、
二人はかなりの数、パンチの交換をしたらしい。
といっても一歩は何も変わっておらず、レッドだけが息を切らして顔を痛々しく腫らしている。
つまりレッドは空振りしまくって体力消耗、そして一方的に殴られ続けているということで。
『うわぁ痛そう。でも、なるほど。これが日本チャンピオンの実力ってことか。流石だなぁ』
と根岸は感心するのだが、ふと見ると青木と木村が怪訝な顔で何やら言っている。
根岸は、今度はリングを見たままで二人の会話に耳を傾けてみた。
「なんか一歩、おかしくねえか? 素人相手に、ちょっとやりすぎだろ」
「だな。確かに、あいつにしては珍しいほど怒ってはいたけど、それにしても……あ、
今のなんか俺の目に狂いがなきゃ、70%ぐらいの力は出してるぞ」
「75、いや80だ」
と、二人の会話を聞いていたらしい鷹村が訂正した。
「一歩のツラ見れば解る。あいつ、かなり戸惑ってるぞ。思ってるように手加減できなくて。
ついつい、リキ入れて殴ってしまう自分が止められなくて」
「それほど、あのレッドやDMCに対して怒ってるってことですか」
「と、お前ら程度の小者は考えるだろうな。まぁ黙って見てろ」
鷹村は何やら楽しそうな顔で、二人の戦いぶりというか一歩の一方的殴りを見つめている。
と言われたんだから、そりゃ一歩は困惑する。
「なんでボクが?」
「ご指名なんだからしょうがねえだろ。見学者には親切に、可能な限りリクエストには
応え、入門に繋げる。ジム経営にとっては大切なこと、って八木ちゃんも言ってただろ。
ん? 何だよその、『ウソ臭い。鷹村さんらしくない。絶対なんか企んでる』って目は」
「……もういいです」
反論する気力もない一歩は、のろのろと用意してリングに上がる。
そこには、ヘッドギアとマウスピースとグローブと、準備万端のレッドが待っていた。ギラつく
目で一歩を睨みつけている。ジム内には相変わらずDMCの曲がエンドレスで轟いている
ので、否が応にも殺害ムードは満点だ。
ちょっと縮こまってしまう一歩に、レツドが低い声で語りかけた。
「一つ、答えろ。お前はこの曲の……DMCの、クラウザーさんのファンか?」
「え? ボクが? この曲のバンドのファン?」
何をバカな、と言わんばかりの素っ頓狂な声で一歩が応えた。ファンどころか、DMCには
恨みがあるのだからそれも仕方ないが。
「冗談じゃないっ。ボクはこんなドロドロした歌、嫌いですよ。DMC? 知りませんそんなの。
ボクはもっとこうカッコいいのとか、可愛いのとか、」
「……そうかよ」
ぐぐっ、とレッドがグローブの中で拳を握り締めた。そして声を大きくして、リングの下にいる
鷹村や根岸にも聞こえるように言う。
「クラウザーさんはな、お前のことを凄ぇ買ってるんだよ。世界チャンピオンになれるだの、
人に力を与える力があるだのと。あの方にしては珍しいぐらい、素直に褒め称えておられた。
幕之内一歩、お前のことをだ。で、」
レッドは首を回して、DMCの曲が轟くジム内を指し示した。
「ここに来てみたらこの状態だ。さぞ、お前も熱心なDMC信者で、ってことは相思相あ……
と思って怒って待ってた。が、ようやく会えたお前はDMCなんか知らないっ、ときた」
レッドの歯軋りが聞こえてきそうだ。
「そう言われちゃ、ますます許せねぇ。クラウザーさんは絶対、騙されてる。何か勘違いを
しておられる。だから俺が、お前をボコボコに叩きのめして、お前なんかクラウザーさんが
気にかけるほどの奴じゃないって証明してやるんだ。これで納得したか、鷹村?」
一歩を睨んだままでレッドが尋ねる。鷹村は頷きながらゴングを手に取って、
「ああ、スッキリ納得したぜ。じゃあ早速、」
「待って下さいっ!」
リングの上から声を張り上げ、一歩が鷹村を制止した。
「何なんですかこれ? 体験入門でもなんでもない、ムチャクチャな言いがかり
じゃないですか!」
言われた鷹村が答えるより早く、青木たちが囃し立てる。
「いいじゃねえか一歩、受けてやれよ。あのクラウザーさんがお前に目ぇつけてたなんて、
羨ましいというか光栄な話だぜ」
「全くだ。ここは一発、お前が悪魔的なボクシングで期待に応えて」
「いい加減にして下さいっ!」
一歩が叫ぶ。
「どうせ気付いてないんでしょうけど、ボクはこの曲のせいで今、クミさんから避けられて
るんですよ! はっきり言ってこの曲もこのバンドも大っっ嫌いですし、そこのメンバーが
勝手にボクのことを喋って、それで変な恨み買ってこんな……迷惑にも程があります!」
心底、本当に心から不快そうな顔で、憎々しげに一歩が吐き捨てている。普段、こんな
顔や口調を滅多に見せないだけに、青木も木村も迫力に押されて黙り込んでしまった。
そして、一歩に吐き捨てられている当のターゲット、「大っっ嫌い」呼ばわりされたモロ本人
であるクラウザーこと根岸はというと。
『ぁう……やっぱりクラウザーは、DMCは、こうやって無関係な人に迷惑をかける存在
なんだ……だから僕はこんなのやめたいって、前々から社長に言ってるのにっっ』
「とにかく! ボクはこんなのお断りですから!」
一歩が怒ってリングを降りようとする。と、今度は鷹村が声を上げて一歩を制止した。
「待て」
「待ちませんよ。こんなケンカまがいのこと、したくありません」
「いいから聞け。オレだってケンカは推奨しねえよ。そして、お前がDMCを嫌うのも勝手だ。
だがな一歩よ。そいつが本気でお前を憎んでるだけなら、路上で襲いかかれば済むことだろ。
しかしそうはせずに、今そうやってグローブを着けている。自分の流儀であるケンカを捨てて、
お前に合わせてボクシングで挑もうってんだ」
「でも……だからって……」
「デモもストもねえ。そうまでされて背を向けるなど、オレは許さん。ましてお前は日本チャンプ
だぞ。それにだ、会長がよく言ってるだろ、ボクシングは単なる格闘技に非ず、武道に近い
もの。礼に始まり礼に終わるとな。見ての通り、わざわざお前に合わせて正々堂々と
試合を挑んできた武芸者に対してだな、」
「わかりましたよっ」
これ以上言い合ってても結局いつも通り押し通されるだけだ、と覚悟した一歩は話を
打ち切った。そしてレッドに向かい合う。
「お相手します。但し、1ラウンドだけですよ」
「おお、三分もありゃ充分過ぎるぜ。おい鷹村、こいつを説得してくれたこと、礼は言っとく」
「んなもん、いらねぇよ。じゃあいくぜ」
一歩とレッドが後退して、それぞれのコーナーに背を預ける。それを見て、鷹村がゴングを
打ち鳴らした。
待ってましたとばかりに、雄叫びを上げてレッドが駆ける。一歩が待ち受ける。
ケンカの場数は豊富だが、やはりボクシングは素人のレツド。迫力はあるが大振りの
テレフォンパンチを、一歩は易々とかわしていく。
青木たちにとっては予想通りの展開なので、涼しい顔で見ている。が、レッド同様に根岸は
素人だ。チャンプという肩書きはあれど大人しそうな一歩が、恐ろしげなレツドの猛攻に
晒されているのを見てビクビクしている。
「だ、大丈夫なのかな幕之内君……」
「大丈夫だ」
根岸の隣で鷹村が言い切った。
「ケンカならまだしも、これはボクシングだからな。いくら体格差があるって言っても、一歩
が負けるなんてことはねえよ。で、一歩に叩きのめされれば、あいつもいろいろ考えるだろ」
「? ああ、もしかして昔の不良仲間だから、まだ足を洗ってない旧友をスポーツで
更正させようとか、そういう意図で?」
ありがちなストーリーを根岸が振ってみると、鷹村はふんっと鼻息一つついて。
「ま、当たらずとも遠からずだ。オレもあいつも、昔はケンカばっかしてたからな。何の意味も
なく、山場もなく、そしてオチもつかないケンカだけの日々。オレはこうしてボクシングと
出会えたが、あいつはまだ……と思ってたんだが、さっきの答えによるとどうやら違うらしい」
「え?」
「なんつーかな、オレ様がリングの中に居場所を見つけたみてえに。あいつはあいつなりの、
生きてく意味を見つけて、今、一つ山場を迎えてんだよ。自分は気付いてねえようだが。
これでどんなオチがつくかは、あいつ次第だが……お、そろそろ終わるか」
言われて根岸が、リングに目を戻した。今、鷹村と会話した三十秒かそこらの間に、
二人はかなりの数、パンチの交換をしたらしい。
といっても一歩は何も変わっておらず、レッドだけが息を切らして顔を痛々しく腫らしている。
つまりレッドは空振りしまくって体力消耗、そして一方的に殴られ続けているということで。
『うわぁ痛そう。でも、なるほど。これが日本チャンピオンの実力ってことか。流石だなぁ』
と根岸は感心するのだが、ふと見ると青木と木村が怪訝な顔で何やら言っている。
根岸は、今度はリングを見たままで二人の会話に耳を傾けてみた。
「なんか一歩、おかしくねえか? 素人相手に、ちょっとやりすぎだろ」
「だな。確かに、あいつにしては珍しいほど怒ってはいたけど、それにしても……あ、
今のなんか俺の目に狂いがなきゃ、70%ぐらいの力は出してるぞ」
「75、いや80だ」
と、二人の会話を聞いていたらしい鷹村が訂正した。
「一歩のツラ見れば解る。あいつ、かなり戸惑ってるぞ。思ってるように手加減できなくて。
ついつい、リキ入れて殴ってしまう自分が止められなくて」
「それほど、あのレッドやDMCに対して怒ってるってことですか」
「と、お前ら程度の小者は考えるだろうな。まぁ黙って見てろ」
鷹村は何やら楽しそうな顔で、二人の戦いぶりというか一歩の一方的殴りを見つめている。