「『複数形』の『シモンズ』……? なにを言っている?」
バイオレットの訝しむ声に、その女性研究員は銃声で応えた。
一瞬早く銃撃を察知していたバイオレットは、廊下の角の向こうに飛び込んで壁を盾にする。
「言葉通りの意味ですよ、サー・バイオレット」
その声は背後から聞こえた。
いつの間に後ろを取られたのか──違う! 今のは男の声だ!
そんな言葉がバイオレットの思考を駆け巡り、そして本日何度目かの銃声。
「ぐうっ……!」
慌てて身を捩るがすでに遅く、肩口に熱い衝撃がねじ込まれる。
遠のきかけた意識、わずかにぼやける視界に映るのは──やはり、奇妙にねじくれたにやにや笑いを貼り付ける男。
廊下の向こうから、こつこつと歩み寄る女性研究員の気配を感じる。
また別の気配が生じる。ひとつ、また一つ。
(包囲されているのか……?)
気力を振り絞って、痛みに歪むおもてを上げたバイオレットは、その異様な光景に愕然とした。
どこから沸いてきたのか、バイオレットへとわらわらと群がりつつある人々──その数は六──いや七。
だが、問題はそんなことではまるでなく──、
「お、お前たちは……」
人種、年齢、顔立ち、そのすべてがばらばらである七人の男女たちなのに、
──顔に浮かべた笑みは気味が悪いほどに相似していた。
それは胸のむかつく悪夢のような光景で、その印象を裏付けるような非常識さで、そいつらは同時にハモりながら喋りだす。
「『複数形』……つまり、『我々』はみな『私』なのですよ。お分かりですか? この意味が?」
「貴様……テレパシストか? テレパシー能力で、複数の人間を遠隔操作する……そういう能力者か?」
いつしか、バイオレットの声音は平静を取り戻していた。
肩の辺りが真っ赤に塗れたスーツも、それ以上に血が染み渡る様子は無い。
銃弾の一発や二発では、ARMSを移植されたものを死に至らしめることは出来ない。
全身に分布するナノマシンは、適応者のバイオリズムを根拠に最適な状態を保とうとするプログラムが組み込まれているからだ。
銃創程度の傷ならば、たちどころに治癒してしまう──それが、キースという存在だった。
「遠隔操作などと人聞きの悪い。私はただ、『我々』の気分を肩代わりしているだけですよ。
サー・バイオレット。見えますか? 貴女を囲む者たちの顔が。彼ら──いや、『我々』は皆、貴女が嫌いで嫌いでしょうがないんですよ。
キース・シリーズなどと名乗り、『我々』がまるで淘汰されるべき下等種のように振舞う貴女たち『キース』が、嫌いなんです」
バイオレットを囲む輪がじりじりと間隔を狭めてくる。
この包囲を突破することは、バイオレットの『マーチ・ヘア』にとっては造作も無い。
「減らず口を……!」
体内に眠るコアを解放し、ARMSを発動──、
「おや、『我々』を殺すんですか? ただ『貴女が嫌い』だというだけの、罪の無い人間を?」
ぎくり、と身体が強張る。
「そういう意味では、貴女の言うとおりです。『我々』は『私』によって操られている──貴女への嫌悪感を楔としてね。
それでも殺しますか? 人類の革命種であるキース・シリーズは、ヒトの命になど興味がない?」
ぱん、と乾いた火薬の破裂音。太腿が撃ち抜かれ、膝を落とす。
食い縛った歯の奥から、か細い悲鳴を漏らしてしまう。
「ああ、可哀想に。殺したければどうぞ『我々』を殺しなさい。だが、これだけは肝に銘じていただきたいですね。
もしもなんの良心の仮借なく『我々』を殺せるのであれば──貴女は『人でなし』だ。
そう……貴女はヒトではない。人間の資格がない。人間の心がない」
バイオレットを囲むにやにや笑いが、いっそうの凄惨さを帯びる。
「『我々』は貴女のためにたっぷりと弾を用意してあります。ARMSを持つ貴女なら、何発くらい耐えられるのでしょうかね。
果たして貴女は『ヒト』の心と身体を持った存在なのか……今、確かめてさしあげましょう。
もしも万が一に貴女が『ヒト』であるなら、ここで死ぬのが貴女にとって幸せだと思いますがね。
これだけの身近な人間に憎まれていることが明らかとなっては、生きている甲斐もないでしょう。──それが人間らしい反応というものです」
──どこか遥か遠く、果て無き地の底から、『声』が聞こえた。
(『憎い』……!)
『シモンズ』たちがめいめいに銃を構えてバイオレットに照準を定める。
「やめろ──やめてくれ」
思わず、バイオレットは懇願していた。
それは、目の前に並ぶ者たちへ向けた言葉ではなく、このカリヨンタワーの奥底に住まう『声』の主へのものだった。
(『ヒト』が『憎い』……!)
だが──その『声』──途方もない虚無の体現者──マザーARMS『アリス』は、バイオレットの悲痛な願いをいとも容易く捻じ伏せた。
バイオレットの訝しむ声に、その女性研究員は銃声で応えた。
一瞬早く銃撃を察知していたバイオレットは、廊下の角の向こうに飛び込んで壁を盾にする。
「言葉通りの意味ですよ、サー・バイオレット」
その声は背後から聞こえた。
いつの間に後ろを取られたのか──違う! 今のは男の声だ!
そんな言葉がバイオレットの思考を駆け巡り、そして本日何度目かの銃声。
「ぐうっ……!」
慌てて身を捩るがすでに遅く、肩口に熱い衝撃がねじ込まれる。
遠のきかけた意識、わずかにぼやける視界に映るのは──やはり、奇妙にねじくれたにやにや笑いを貼り付ける男。
廊下の向こうから、こつこつと歩み寄る女性研究員の気配を感じる。
また別の気配が生じる。ひとつ、また一つ。
(包囲されているのか……?)
気力を振り絞って、痛みに歪むおもてを上げたバイオレットは、その異様な光景に愕然とした。
どこから沸いてきたのか、バイオレットへとわらわらと群がりつつある人々──その数は六──いや七。
だが、問題はそんなことではまるでなく──、
「お、お前たちは……」
人種、年齢、顔立ち、そのすべてがばらばらである七人の男女たちなのに、
──顔に浮かべた笑みは気味が悪いほどに相似していた。
それは胸のむかつく悪夢のような光景で、その印象を裏付けるような非常識さで、そいつらは同時にハモりながら喋りだす。
「『複数形』……つまり、『我々』はみな『私』なのですよ。お分かりですか? この意味が?」
「貴様……テレパシストか? テレパシー能力で、複数の人間を遠隔操作する……そういう能力者か?」
いつしか、バイオレットの声音は平静を取り戻していた。
肩の辺りが真っ赤に塗れたスーツも、それ以上に血が染み渡る様子は無い。
銃弾の一発や二発では、ARMSを移植されたものを死に至らしめることは出来ない。
全身に分布するナノマシンは、適応者のバイオリズムを根拠に最適な状態を保とうとするプログラムが組み込まれているからだ。
銃創程度の傷ならば、たちどころに治癒してしまう──それが、キースという存在だった。
「遠隔操作などと人聞きの悪い。私はただ、『我々』の気分を肩代わりしているだけですよ。
サー・バイオレット。見えますか? 貴女を囲む者たちの顔が。彼ら──いや、『我々』は皆、貴女が嫌いで嫌いでしょうがないんですよ。
キース・シリーズなどと名乗り、『我々』がまるで淘汰されるべき下等種のように振舞う貴女たち『キース』が、嫌いなんです」
バイオレットを囲む輪がじりじりと間隔を狭めてくる。
この包囲を突破することは、バイオレットの『マーチ・ヘア』にとっては造作も無い。
「減らず口を……!」
体内に眠るコアを解放し、ARMSを発動──、
「おや、『我々』を殺すんですか? ただ『貴女が嫌い』だというだけの、罪の無い人間を?」
ぎくり、と身体が強張る。
「そういう意味では、貴女の言うとおりです。『我々』は『私』によって操られている──貴女への嫌悪感を楔としてね。
それでも殺しますか? 人類の革命種であるキース・シリーズは、ヒトの命になど興味がない?」
ぱん、と乾いた火薬の破裂音。太腿が撃ち抜かれ、膝を落とす。
食い縛った歯の奥から、か細い悲鳴を漏らしてしまう。
「ああ、可哀想に。殺したければどうぞ『我々』を殺しなさい。だが、これだけは肝に銘じていただきたいですね。
もしもなんの良心の仮借なく『我々』を殺せるのであれば──貴女は『人でなし』だ。
そう……貴女はヒトではない。人間の資格がない。人間の心がない」
バイオレットを囲むにやにや笑いが、いっそうの凄惨さを帯びる。
「『我々』は貴女のためにたっぷりと弾を用意してあります。ARMSを持つ貴女なら、何発くらい耐えられるのでしょうかね。
果たして貴女は『ヒト』の心と身体を持った存在なのか……今、確かめてさしあげましょう。
もしも万が一に貴女が『ヒト』であるなら、ここで死ぬのが貴女にとって幸せだと思いますがね。
これだけの身近な人間に憎まれていることが明らかとなっては、生きている甲斐もないでしょう。──それが人間らしい反応というものです」
──どこか遥か遠く、果て無き地の底から、『声』が聞こえた。
(『憎い』……!)
『シモンズ』たちがめいめいに銃を構えてバイオレットに照準を定める。
「やめろ──やめてくれ」
思わず、バイオレットは懇願していた。
それは、目の前に並ぶ者たちへ向けた言葉ではなく、このカリヨンタワーの奥底に住まう『声』の主へのものだった。
(『ヒト』が『憎い』……!)
だが──その『声』──途方もない虚無の体現者──マザーARMS『アリス』は、バイオレットの悲痛な願いをいとも容易く捻じ伏せた。
「すごい『力』だな……まさか、これほどの発動を見せてくれるとは思わなかったよ。
おめでとう。君は『ARMS』の移植に成功したばかりか……僕らが仕えるべき『アリス』との共振にも成功した……」
あの時、彼女が生み出した虚無の中に、彼女と良く似た少年は平然と立っていたのだった。
「君は夢の中で聞いたはずだ…彼女の言葉を!! 彼女に選ばれた者だけが、僕たちとともに歩む資格を持っている……」
(ワタシハダレ? アナタハダレ?)
彼女が訊くと、少年はにっこりと笑って彼女に左手を差し出した。
「君は、キース・バイオレット……僕の妹だ。
そして僕は……キース・ブラック……君の兄にして……僕らの母たる『アリス』の意思を代行する者だ!」
おめでとう。君は『ARMS』の移植に成功したばかりか……僕らが仕えるべき『アリス』との共振にも成功した……」
あの時、彼女が生み出した虚無の中に、彼女と良く似た少年は平然と立っていたのだった。
「君は夢の中で聞いたはずだ…彼女の言葉を!! 彼女に選ばれた者だけが、僕たちとともに歩む資格を持っている……」
(ワタシハダレ? アナタハダレ?)
彼女が訊くと、少年はにっこりと笑って彼女に左手を差し出した。
「君は、キース・バイオレット……僕の妹だ。
そして僕は……キース・ブラック……君の兄にして……僕らの母たる『アリス』の意思を代行する者だ!」
(ああ……思い出した……ブラック兄さんがわたしに言った言葉……)
血の海の中に立つキース・バイオレットは、どこかぼうっとした面持ちでそんなことを考えていた。
もう『シモンズ』はいない……あのにやにや笑いを彼女に見せていた集団は、すべてが肉塊となって崩れ落ちていた。
バイオレットが装備するARMS『マーチ・ヘア』は拡散散布の機能を備えたものだった。
至近距離でその機能を発揮した場合、爆発的に拡散するナノマシンが生体組織をミクロ単位でずたずたに破壊してしまう。
生物を、いや人間を殺傷する目的でしか使いようがない、彼女の『ARMS』。
(やはり、わたしは『ヒト』ではないのか……?)
乾いた瞳で辺りに散らばる『ヒトだったもの』を見回し、彼女は思った。
(会いに行こう……『ママ・マリア』に……)
なぜ会いに行かなければならないのか、会ってどうするつもりなのかはまるで思いつかなかったが、
──今のバイオレットにはそのことしか考えられなった。
血の海の中に立つキース・バイオレットは、どこかぼうっとした面持ちでそんなことを考えていた。
もう『シモンズ』はいない……あのにやにや笑いを彼女に見せていた集団は、すべてが肉塊となって崩れ落ちていた。
バイオレットが装備するARMS『マーチ・ヘア』は拡散散布の機能を備えたものだった。
至近距離でその機能を発揮した場合、爆発的に拡散するナノマシンが生体組織をミクロ単位でずたずたに破壊してしまう。
生物を、いや人間を殺傷する目的でしか使いようがない、彼女の『ARMS』。
(やはり、わたしは『ヒト』ではないのか……?)
乾いた瞳で辺りに散らばる『ヒトだったもの』を見回し、彼女は思った。
(会いに行こう……『ママ・マリア』に……)
なぜ会いに行かなければならないのか、会ってどうするつもりなのかはまるで思いつかなかったが、
──今のバイオレットにはそのことしか考えられなった。
「雨が降っているねえ……」
盲目の老婆がそう言うのへ、そばに立つ男は分厚いカーテンを押しのけて窓の外を見、その通りであることを知る。
「分かるのかい」
「分かるともさ。ママはなんでもお見通しだよ」
「ママには敵わないな」
男はアフリカ系らしい陽気な笑顔で、老婆の枕元を親愛の情を込めて叩いた。
小ざっぱりとした室内を飾る品の良い調度品に囲まれ、その老婆は床に臥していた。
痩せこけた顔には病魔の色が濃く浮かび、うっすら開かれた瞼の奥からは、白濁した瞳が覗いている。
その衰弱した姿は、この世の業を他人よりも多く取り込んでいるかのようでもあった。
やがて老婆は手探りで男のひび割れた手を取り、横たえていた身を起こそうとする。
「駄目だよ、ママ。ちゃんと寝ていなくちゃ」
「倅や、馬鹿を言うんじゃないよ。お客さんが来ているのにそんな行儀の悪いこと出来やしないよ」
「なにを言ってるんだい、ママ。客なんて──」
いないよ、と言いかけた男は、その言葉を飲み込む。
呆気に取られた視線は戸口の方を向いており、そこには、一人の少女が立っていた。
いつからそこにいいたのか、全身ずぶ濡れで、おまけに至る所が血で汚れているという、
不審人物そのまんまの姿で所在無さげに立ち尽くす少女は、あろう事か──極めつけに不審な──白人だった。
「おい……あんた誰だ? どうしてここに? いや、どうやってここまで来れた?
ここはブラックハーレムのド真ん中だぜ。こんな夜中に、あんたみたいなホワイトのお嬢さんがほいほい歩ける場所じゃないぞ」
警戒心を露わにした男の声などまるで無視して、その少女は老婆に歩み寄る。
「お前が『ママ・マリア』だな……」
盲目の老婆がそう言うのへ、そばに立つ男は分厚いカーテンを押しのけて窓の外を見、その通りであることを知る。
「分かるのかい」
「分かるともさ。ママはなんでもお見通しだよ」
「ママには敵わないな」
男はアフリカ系らしい陽気な笑顔で、老婆の枕元を親愛の情を込めて叩いた。
小ざっぱりとした室内を飾る品の良い調度品に囲まれ、その老婆は床に臥していた。
痩せこけた顔には病魔の色が濃く浮かび、うっすら開かれた瞼の奥からは、白濁した瞳が覗いている。
その衰弱した姿は、この世の業を他人よりも多く取り込んでいるかのようでもあった。
やがて老婆は手探りで男のひび割れた手を取り、横たえていた身を起こそうとする。
「駄目だよ、ママ。ちゃんと寝ていなくちゃ」
「倅や、馬鹿を言うんじゃないよ。お客さんが来ているのにそんな行儀の悪いこと出来やしないよ」
「なにを言ってるんだい、ママ。客なんて──」
いないよ、と言いかけた男は、その言葉を飲み込む。
呆気に取られた視線は戸口の方を向いており、そこには、一人の少女が立っていた。
いつからそこにいいたのか、全身ずぶ濡れで、おまけに至る所が血で汚れているという、
不審人物そのまんまの姿で所在無さげに立ち尽くす少女は、あろう事か──極めつけに不審な──白人だった。
「おい……あんた誰だ? どうしてここに? いや、どうやってここまで来れた?
ここはブラックハーレムのド真ん中だぜ。こんな夜中に、あんたみたいなホワイトのお嬢さんがほいほい歩ける場所じゃないぞ」
警戒心を露わにした男の声などまるで無視して、その少女は老婆に歩み寄る。
「お前が『ママ・マリア』だな……」
バイオレットから見て、彼女──『ママ・マリア』は虚弱そのものだった。
ARMSの力など借りなくても簡単に息の根を止められそうな、ちっぽけな存在。
「触れるだけで人間の心の奥まで読み取る『リーディング』能力を持つ女……『ハーレムの聖母』と呼ばれるママ・マリア……」
彼女に問うているのか、それとも自分の中だけの確認なのか判然としない口調にもかかわらず、ママ・マリアは鷹揚な動作で首を縦に振る。
そのまるで『何でもお見通しだぞ』とでも言いたげな感じに、バイオレットの心の中の『なにか』が刺激され、強い口調で次の言葉が出てくる。
「──だったら、私の問いに答えてもらおう!!」
ママ・マリアは無言のままで、なにも映らないはずの瞳をバイオレットに向ける。
なぜか『見られている』ような気がした。
「わたしは父も母もなく、試験管の中で生まれた……遺伝子を操作され子供を作る能力を持たない、ただ一代だけの生物……」
自分で言ったその言葉に、たとえようもないうそ寒さを感じる。
だが、それだけであった。そんなことで泣いたことなど、バイオレットは一度もない。
人間の女性なら、泣くはずだった。
「わたしを作った人間たちは、わたしには心や感情すら無いと言っていた。
確かに私に心があるのなら、人を殺せば胸が痛み、涙を流すはず……。
わたしは今……ここに来る前に九人殺した……だが……涙は出ない……」
言っている間中ずっと脇に垂らしたままだった両腕をママ・マリアの前に差し出す。
硬く握り締められた両拳を天に向け、まるで怖々そうしているようなぎこちなさで指を開いた。
乾いた血で赤黒い染みがこびりつく掌を見せ付ける。
これがわたしなのだと。わたしがこの手に掴めるものは、これ以外に無いのだと。
「答えろ! わたしは……ヒトなのか? わたしは人生をプログラムだけに支配された、戦闘兵器じゃないのか?」
遠くから『声』が聞こえる。
彼女を『殺せ』、と。
劣等種の分際で超人気取りのそいつを殺さねば、『我々』に未来はないと。
『声』は言う。
彼女が『ヒト』だと答えたら殺せ、と。なぜなら、それはとんでもない嘘だから。
『声』は言う。
彼女が『ヒトではない』と答えたら殺せ、と。その言葉を真実たらしめるために。
『声』は──いや、『声』が遠のく。
そんなどこかの誰かの言葉などよりも、もっとも切実でもっとも堪えがたい『なにか』が、バイオレットの胸の内から湧き上がる。
ほとんどすがりつくようにようにして、ママ・マリアに詰め寄る。
「わたしは…わたしはいったい…なんなのだ!?」
瘧のように震えるバイオレットの手を、彼女よりも小さく、老齢のためにがさがさになった手がそっと包んだ。
気管支を患っているのか、ひゅうひゅうと笛の音交じりの弱々しい声。
だが──今まで聞いた誰のよりも、暖かくて優しい声がバイオレットの耳朶を打つ。
「私の盲いだ目に見えるのは、傷ついて泣いている小さな女の子だけ……涙がないなんて嘘だよ……」
「……わたしは泣いたことなどない」
「心だけで涙を流すことだってあるものだよ。……今、どんな気持ちだね?」
「分からない……わたしには感情などないから……だけど……」
「だけど?」
「喉が……胸が、苦しい。ナノマシンの不調のせいだ。戦闘行動の影響だ」
不意に、ママ・マリアが息を潜めるのをバイオレットは感覚した。
そのまま永遠に呼吸が止んでしまいそうになるが、ママ・マリアがいっそう強い力でバイオレットの手を握り締めた。
「お嬢ちゃん……その苦しみを、ヒトは『悲しみ』と呼ぶんだよ……」
「──嘘だ!」
ほとんど反射的に、バイオレットは絶叫していた。
まるで仇でも見るような形相で、ママ・マリアを睨みつける。
その視線をやんわりと受け止め、彼女は真直ぐに見つめ返してくる。
「嘘なこと、あるものかね。私はずっと、色んな人間の『心』を見てきたんだよ……。
綺麗なもの、汚いもの、たくさん見てきたけどね……その誰もが、あんたの言う『苦しさ』を抱えていたよ」
「そんなはずはない、貴様は嘘をついている! だって……もしもこれが『そう』だと言うなら……わたしは……!」
バイオレットの細い首が震え、息を呑むような音が微かに響く。
耐え難い言葉を口にするように、だがどうしても言わなければならないことのように、全身を絞りつくしてその先を──言った。
「この苦しみを『悲しみ』と呼ぶなら……わたしはいつだって『悲しかった』……!」
ママ・マリアの手をつかむ指が、真っ白に変色していた。
それが並みの人間以上の握力であるにも関わらず、ママ・マリアはじっとその痛みを受けている。
そうすることで、バイオレットの痛みをわずかでも引き受けているかのように。
「人を殺すたび……『アリス』の声を聞くたび……誰かに『お前は人間じゃない』と言われるたび……いつもいつもいつも! わたしは!」
息が切れる。
「『悲しかった』……!」
そこまで言い切って、バイオレットは虚脱したように肩を落とす。
ママ・マリアの言うことが真実であったなら、それはなんて馬鹿馬鹿しくて、なんて滑稽で──なんて残酷な話だろう。
自分だけが気がつかなかった。
ヒトが当然知るべき感情を、今の今まで知ることもなく、知ろうともせず、ただ見過ごしてきた。
「ママ・マリア……やはりわたしはヒトではないようだ……」
キース・シリーズにとって、感情とはあってもなくても変わることのない、ただのノイズでしかないのだろうか?
ヒトではない『キース』には、感情を持つ資格がないのだろうか?
「それは違うよ」
そのしわがれ声に、バイオレットは顔を上げる。
違う──なにが?
「ヒトは、生まれつきヒトなんじゃない……自分で『ヒト』になってゆくものだよ……」
普段のバイオレットなら鼻にも引っ掛けない論理──だが、なぜか彼女の言葉はバイオレットの隅々にまで染み渡っていく。
「お嬢ちゃん、あんたは今、『絶望』してるね……でも、そこで諦めちゃいけないよ。
ヒトは絶望するから足を止めるんじゃない。絶望から這い出ることを『諦め』てしまったから足を止めるんだ。
ヒトは希望があるから前に進むんじゃない。希望を探そうという『意思』で前に進むんだ。
それでね、ヒトがヒトであるためには……どこまでも歩いていかなきゃいけないのさ。
いつか、神様が私らをお召しになるその時までね」
バイオレットは、ママ・マリアの体温を感じていた。
それは半分死に掛けているようで、弱々しい脈動で、でももっと感じていたくて──、
無意識のうちに、その手を自分の額に押し当てていた。
「泣きたいときは泣くのがいいよ。希望の青い鳥を探すためには、泣くのだって、人間、どうしたって必要なことさね」
その言葉で、バイオレットの心を堰き止めていた『なにか』が崩れた。
胸の内に次から次へと溢れるものが、この世界に現出しようとしていた。
今までそれを阻んでいた、あの途方も無い虚無はもうどこにもない。
目の前のちっぽけで気高い老婆が晴らしてくれたから。
彼女の頬を、なにか熱い液体の伝うのが感じられた。
それはどうやら血ではないようだった。
「あ──ああ──」
それは言葉にならない声だった。
これが自分が出しているものなのかと、どこか冷静に驚いている自分がいる。
「う、うぁ……うああぁ……」
だが──それこそがヒトが『感情』と呼ぶものなのだろう。
ゆえに、バイオレットは自らの心の赴くままに従い、その『感情』を解放した。
ARMSの力など借りなくても簡単に息の根を止められそうな、ちっぽけな存在。
「触れるだけで人間の心の奥まで読み取る『リーディング』能力を持つ女……『ハーレムの聖母』と呼ばれるママ・マリア……」
彼女に問うているのか、それとも自分の中だけの確認なのか判然としない口調にもかかわらず、ママ・マリアは鷹揚な動作で首を縦に振る。
そのまるで『何でもお見通しだぞ』とでも言いたげな感じに、バイオレットの心の中の『なにか』が刺激され、強い口調で次の言葉が出てくる。
「──だったら、私の問いに答えてもらおう!!」
ママ・マリアは無言のままで、なにも映らないはずの瞳をバイオレットに向ける。
なぜか『見られている』ような気がした。
「わたしは父も母もなく、試験管の中で生まれた……遺伝子を操作され子供を作る能力を持たない、ただ一代だけの生物……」
自分で言ったその言葉に、たとえようもないうそ寒さを感じる。
だが、それだけであった。そんなことで泣いたことなど、バイオレットは一度もない。
人間の女性なら、泣くはずだった。
「わたしを作った人間たちは、わたしには心や感情すら無いと言っていた。
確かに私に心があるのなら、人を殺せば胸が痛み、涙を流すはず……。
わたしは今……ここに来る前に九人殺した……だが……涙は出ない……」
言っている間中ずっと脇に垂らしたままだった両腕をママ・マリアの前に差し出す。
硬く握り締められた両拳を天に向け、まるで怖々そうしているようなぎこちなさで指を開いた。
乾いた血で赤黒い染みがこびりつく掌を見せ付ける。
これがわたしなのだと。わたしがこの手に掴めるものは、これ以外に無いのだと。
「答えろ! わたしは……ヒトなのか? わたしは人生をプログラムだけに支配された、戦闘兵器じゃないのか?」
遠くから『声』が聞こえる。
彼女を『殺せ』、と。
劣等種の分際で超人気取りのそいつを殺さねば、『我々』に未来はないと。
『声』は言う。
彼女が『ヒト』だと答えたら殺せ、と。なぜなら、それはとんでもない嘘だから。
『声』は言う。
彼女が『ヒトではない』と答えたら殺せ、と。その言葉を真実たらしめるために。
『声』は──いや、『声』が遠のく。
そんなどこかの誰かの言葉などよりも、もっとも切実でもっとも堪えがたい『なにか』が、バイオレットの胸の内から湧き上がる。
ほとんどすがりつくようにようにして、ママ・マリアに詰め寄る。
「わたしは…わたしはいったい…なんなのだ!?」
瘧のように震えるバイオレットの手を、彼女よりも小さく、老齢のためにがさがさになった手がそっと包んだ。
気管支を患っているのか、ひゅうひゅうと笛の音交じりの弱々しい声。
だが──今まで聞いた誰のよりも、暖かくて優しい声がバイオレットの耳朶を打つ。
「私の盲いだ目に見えるのは、傷ついて泣いている小さな女の子だけ……涙がないなんて嘘だよ……」
「……わたしは泣いたことなどない」
「心だけで涙を流すことだってあるものだよ。……今、どんな気持ちだね?」
「分からない……わたしには感情などないから……だけど……」
「だけど?」
「喉が……胸が、苦しい。ナノマシンの不調のせいだ。戦闘行動の影響だ」
不意に、ママ・マリアが息を潜めるのをバイオレットは感覚した。
そのまま永遠に呼吸が止んでしまいそうになるが、ママ・マリアがいっそう強い力でバイオレットの手を握り締めた。
「お嬢ちゃん……その苦しみを、ヒトは『悲しみ』と呼ぶんだよ……」
「──嘘だ!」
ほとんど反射的に、バイオレットは絶叫していた。
まるで仇でも見るような形相で、ママ・マリアを睨みつける。
その視線をやんわりと受け止め、彼女は真直ぐに見つめ返してくる。
「嘘なこと、あるものかね。私はずっと、色んな人間の『心』を見てきたんだよ……。
綺麗なもの、汚いもの、たくさん見てきたけどね……その誰もが、あんたの言う『苦しさ』を抱えていたよ」
「そんなはずはない、貴様は嘘をついている! だって……もしもこれが『そう』だと言うなら……わたしは……!」
バイオレットの細い首が震え、息を呑むような音が微かに響く。
耐え難い言葉を口にするように、だがどうしても言わなければならないことのように、全身を絞りつくしてその先を──言った。
「この苦しみを『悲しみ』と呼ぶなら……わたしはいつだって『悲しかった』……!」
ママ・マリアの手をつかむ指が、真っ白に変色していた。
それが並みの人間以上の握力であるにも関わらず、ママ・マリアはじっとその痛みを受けている。
そうすることで、バイオレットの痛みをわずかでも引き受けているかのように。
「人を殺すたび……『アリス』の声を聞くたび……誰かに『お前は人間じゃない』と言われるたび……いつもいつもいつも! わたしは!」
息が切れる。
「『悲しかった』……!」
そこまで言い切って、バイオレットは虚脱したように肩を落とす。
ママ・マリアの言うことが真実であったなら、それはなんて馬鹿馬鹿しくて、なんて滑稽で──なんて残酷な話だろう。
自分だけが気がつかなかった。
ヒトが当然知るべき感情を、今の今まで知ることもなく、知ろうともせず、ただ見過ごしてきた。
「ママ・マリア……やはりわたしはヒトではないようだ……」
キース・シリーズにとって、感情とはあってもなくても変わることのない、ただのノイズでしかないのだろうか?
ヒトではない『キース』には、感情を持つ資格がないのだろうか?
「それは違うよ」
そのしわがれ声に、バイオレットは顔を上げる。
違う──なにが?
「ヒトは、生まれつきヒトなんじゃない……自分で『ヒト』になってゆくものだよ……」
普段のバイオレットなら鼻にも引っ掛けない論理──だが、なぜか彼女の言葉はバイオレットの隅々にまで染み渡っていく。
「お嬢ちゃん、あんたは今、『絶望』してるね……でも、そこで諦めちゃいけないよ。
ヒトは絶望するから足を止めるんじゃない。絶望から這い出ることを『諦め』てしまったから足を止めるんだ。
ヒトは希望があるから前に進むんじゃない。希望を探そうという『意思』で前に進むんだ。
それでね、ヒトがヒトであるためには……どこまでも歩いていかなきゃいけないのさ。
いつか、神様が私らをお召しになるその時までね」
バイオレットは、ママ・マリアの体温を感じていた。
それは半分死に掛けているようで、弱々しい脈動で、でももっと感じていたくて──、
無意識のうちに、その手を自分の額に押し当てていた。
「泣きたいときは泣くのがいいよ。希望の青い鳥を探すためには、泣くのだって、人間、どうしたって必要なことさね」
その言葉で、バイオレットの心を堰き止めていた『なにか』が崩れた。
胸の内に次から次へと溢れるものが、この世界に現出しようとしていた。
今までそれを阻んでいた、あの途方も無い虚無はもうどこにもない。
目の前のちっぽけで気高い老婆が晴らしてくれたから。
彼女の頬を、なにか熱い液体の伝うのが感じられた。
それはどうやら血ではないようだった。
「あ──ああ──」
それは言葉にならない声だった。
これが自分が出しているものなのかと、どこか冷静に驚いている自分がいる。
「う、うぁ……うああぁ……」
だが──それこそがヒトが『感情』と呼ぶものなのだろう。
ゆえに、バイオレットは自らの心の赴くままに従い、その『感情』を解放した。
あー、あー、あー。
まるで生まれたての赤子のような騒々しさで泣きじゃくる少女を膝に抱え、
『ハーレムの聖母』ママ・マリアは愛おしそうな仕草で少女の艶やかな金髪を梳っていた。
そうして、いつか彼女の泣き止むときをじっと待っている──いつまでも。
まるで生まれたての赤子のような騒々しさで泣きじゃくる少女を膝に抱え、
『ハーレムの聖母』ママ・マリアは愛おしそうな仕草で少女の艶やかな金髪を梳っていた。
そうして、いつか彼女の泣き止むときをじっと待っている──いつまでも。