『液状と透明 ⑥』
夜が訪れていた。
陽が落ちてなお未練たらしく鳴き続けるひぐらしの声が、時折校舎の中にまで紛れ込む。
そのか細い囁きよりももっと小さく、特殊な歩法によって押し殺したユージンノ足音が階段を降りてくる。
星火がそこを通ったのより一分ほど遅れ、彼は正確にその後を辿っていた。
まだ灯の点いている職員室前を駆け抜け、生徒たちの下駄箱へと差し掛かる保健室の前で、ユージンはそれを発見する。
人間を抱えた人間の姿。
闇に閉ざされ輪郭すらもおぼろげだったが、間もなくそれが誰であるかが明らかになる。
「ブギーポップ……!」
この一分足らずの間になにがあったのか、抱えられる静だけはそのままに、抱えている人物が入れ替わっていた。
だが構うものか、どうせこいつも敵だ。ユージンは心の中でそう呟き、果敢にそちらへ突進する。
必殺の気迫をみなぎらせた手刀を繰り出す──かわされる。
それは予想済みだった。と、言うより──それが狙いだった。
攻撃を回避したことで揺らいだ構えの隙を突くように、ブギーポップの側頭部目掛けて蹴りを放つ。
先ほど星火が静を盾にしてみせたことから、それを警戒した軌道で──目標まで一直線に進むものではなく、
大きな弓なりのカーブを描く変幻の──蹴撃だった。
ここで予想もしないことが起こった。
確かにユージンは相手の隙を突くつもりで攻撃を加えたが、それにしても、というほどの無防備な態勢で、
ブギーポップは横から伸びてくるユージンの脚を見事に食らい──吹っ飛ばされたのだ。
腕に抱いた静ごと宙を舞い、頭からもろに壁に叩きつけられる。
攻撃を避けるつもりがなかったのか? と唖然となるユージンの目の前で、ブギーポップは静かに立ち上がった。
「君……気をつけたまえ」
思わず眉をひそめそうになるのへ、
「もう少しで彼女に傷かつくところだった」
なにか壊れ物でも扱うように、あらゆる危険から庇うように、そんな感じで静を抱きとめていることに気が付き──、
「……なんなんだ、お前は」
なんだかもうやるせない気分というかとにかくどうしようもない気分になり、ユージンは構えを解いて腰に手を当てた。
「……シンフォニ、いや、星火はどうした?」
「さっきまで静・ジョースターを抱えていた女性のことかな?
彼女ならどこかへ行ってしまったよ。放っておけばいずれ戻ってくるだろうがね」
意識の戻らぬ静の顔を眺めていたおもてを上げ、続ける。
「しかし、いいところに来たな。実は君に頼みがある。なに、簡単なことさ。放っておかないで欲しいんだ」
「なんだと?」
「彼女がこの静・ジョースターを再び連れ去りに戻ってこないようになんとかして欲しい、と頼んでいるのさ」
「なぜ僕に頼む」
「君にしか頼めないからさ」
本気で言ってるのか? と問い返したくなるが、おそらくこいつはどこまでも本気なのだろう──知らず、溜め息がこぼれる。
「僕の目的は、この静・ジョースターから情報を入手することだぞ。
ただ出前がかち合ってしまっただけで、本来、星火と対立する理由はない」
先ほどは殺気立ってまで星火を追跡していたことは棚に上げ、ついそんなことを言う。
「無理かな? この少女を守るためには必要なことなんだが」
「……分からないな」
「ほう? なにがだね?」
「お前が彼女を守る理由だよ」
「ああ、それは簡単なことさ──静・ジョースターは『世界の敵』の可能性を秘めているからな」
と、いともあっさりと答えが返ってくる。
だが、ちょっと待て──。
「『世界』の……『敵』?」
「『世界の敵』だ」
反射的にブギーポップの瞳を覗き込む。
底知れぬ虚無がそこに渦巻き、その水面にユージンの姿が映っていた。
「お前は、この無力な少女がこの世界をどうにかすると、本当に思っているのか?」
「君は……彼女の『消える』能力をどう思っている? なんの足しにもならない能力だと思うかね?」
「そこまでは思ってないさ。人間が知覚している情報のうち、視覚の占める割合は八〇%にも及ぶ。
だが……その使い手たる彼女に戦闘の素質がない。残りの二〇%で対応可能さ。現時点ではなんの脅威にはならない」
「では、未来はどうかな? もしも、彼女が真にこの『能力』を支配したら?
さっきの君の言葉だが、裏を返せばこういうことにならないかね? 『世界の八〇%を支配する』能力だと。
いつか彼女が『完全に消える』ことに目覚め、その時、彼女がこの世界に敵対するスタンスを取っていたら?」
「馬鹿な……そこまで言ってしまったらこの世の全てがお前の言う『世界の敵』になる。
実現していない可能性になんの意味があると言うんだ」
「前者は君の言う通りだ。この世の全てが『世界の敵』たる可能性を秘めている。
そして後者だが……君も分かっているはずだ。この世界の水面にいまだ浮かび上がらずとも、
可能性の水底で待ち続けている『なにか』が確かに存在していることを。
そう、かつて君が『予知』に従って『世界の敵』と戦ったときのように」
「貴様……知っているのか!?」
ユージンは反射的に声を荒げ、ブギーポップの襟首を掴む。
が、そのすぐ下で静が「ん……」と身じろぎをしたことで、忌々しげにその手を放す。
「残念だが、過去の君の身になにがあって今の君があるのか、私自身は『知らない』。
だが、『泡』の記憶が教えてくれる……君もまた、このろくでもない世界を守るために戦う孤独な戦士だと言うことを」
「ふん……僕はこの世界がどうなろうと知ったことじゃないね。ただ──」
「ただ?」
「そう思わない人たちが、どうやら少なからずいるようだ」
ユージンはブギーポップにお姫様抱っこされている静に目を落とす。
意識を失っているというよりはむしろ眠っているだけのような、そんなだらしのない寝顔を見て──、
少し、笑った。
それはつい一時間足らず前に静に対して見せたあの気弱そうだが誠実さのこもった笑顔だった。
「君が何者なのか、必ず突き止めてやる、静・ジョースターさん。
……そのためには、お前の口車にも乗ってやるさ。
僕は星火を足止めないしは撃退する。その間に彼女を安全な場所に移しておけ」
そう言って顔を上げるころには、そこには明確で強固な意志が宿っていた。
一方のブギーポップはさっきから微動だにしない能面のままで、
「やる気になってくれてなによりだ」
「……それに、あの『予知』とやらは気に食わない」
「なぜだね?」
「それは、僕の……って、なんでお前に話す必要がある。関係ないだろう」
「もっともだ」
いちいち生真面目な感じが癇に障る。
もしかして同属嫌悪なのか? という面白くない連想が浮かんだので、意識的に打ち消す。
それを平静な視線で眺めるブギーポップがぼそりと、
「だが、なるほど……それが君の『カーメン』か」
「……なにか言ったか?」
「いや、こっちの話さ。彼女のことは私に任せたまえ。武運を祈る」
「思いもしないことを言うな」
「心外だな。私は心から君の無事を願っている」
これ以上こいつと会話するのはなんか疲れる気がするので、ユージンは無愛想に手を振ってその場から立ち去る。
静・ジョースターを守るために──それ以上に、『予知能力者』星火と対決するために。
陽が落ちてなお未練たらしく鳴き続けるひぐらしの声が、時折校舎の中にまで紛れ込む。
そのか細い囁きよりももっと小さく、特殊な歩法によって押し殺したユージンノ足音が階段を降りてくる。
星火がそこを通ったのより一分ほど遅れ、彼は正確にその後を辿っていた。
まだ灯の点いている職員室前を駆け抜け、生徒たちの下駄箱へと差し掛かる保健室の前で、ユージンはそれを発見する。
人間を抱えた人間の姿。
闇に閉ざされ輪郭すらもおぼろげだったが、間もなくそれが誰であるかが明らかになる。
「ブギーポップ……!」
この一分足らずの間になにがあったのか、抱えられる静だけはそのままに、抱えている人物が入れ替わっていた。
だが構うものか、どうせこいつも敵だ。ユージンは心の中でそう呟き、果敢にそちらへ突進する。
必殺の気迫をみなぎらせた手刀を繰り出す──かわされる。
それは予想済みだった。と、言うより──それが狙いだった。
攻撃を回避したことで揺らいだ構えの隙を突くように、ブギーポップの側頭部目掛けて蹴りを放つ。
先ほど星火が静を盾にしてみせたことから、それを警戒した軌道で──目標まで一直線に進むものではなく、
大きな弓なりのカーブを描く変幻の──蹴撃だった。
ここで予想もしないことが起こった。
確かにユージンは相手の隙を突くつもりで攻撃を加えたが、それにしても、というほどの無防備な態勢で、
ブギーポップは横から伸びてくるユージンの脚を見事に食らい──吹っ飛ばされたのだ。
腕に抱いた静ごと宙を舞い、頭からもろに壁に叩きつけられる。
攻撃を避けるつもりがなかったのか? と唖然となるユージンの目の前で、ブギーポップは静かに立ち上がった。
「君……気をつけたまえ」
思わず眉をひそめそうになるのへ、
「もう少しで彼女に傷かつくところだった」
なにか壊れ物でも扱うように、あらゆる危険から庇うように、そんな感じで静を抱きとめていることに気が付き──、
「……なんなんだ、お前は」
なんだかもうやるせない気分というかとにかくどうしようもない気分になり、ユージンは構えを解いて腰に手を当てた。
「……シンフォニ、いや、星火はどうした?」
「さっきまで静・ジョースターを抱えていた女性のことかな?
彼女ならどこかへ行ってしまったよ。放っておけばいずれ戻ってくるだろうがね」
意識の戻らぬ静の顔を眺めていたおもてを上げ、続ける。
「しかし、いいところに来たな。実は君に頼みがある。なに、簡単なことさ。放っておかないで欲しいんだ」
「なんだと?」
「彼女がこの静・ジョースターを再び連れ去りに戻ってこないようになんとかして欲しい、と頼んでいるのさ」
「なぜ僕に頼む」
「君にしか頼めないからさ」
本気で言ってるのか? と問い返したくなるが、おそらくこいつはどこまでも本気なのだろう──知らず、溜め息がこぼれる。
「僕の目的は、この静・ジョースターから情報を入手することだぞ。
ただ出前がかち合ってしまっただけで、本来、星火と対立する理由はない」
先ほどは殺気立ってまで星火を追跡していたことは棚に上げ、ついそんなことを言う。
「無理かな? この少女を守るためには必要なことなんだが」
「……分からないな」
「ほう? なにがだね?」
「お前が彼女を守る理由だよ」
「ああ、それは簡単なことさ──静・ジョースターは『世界の敵』の可能性を秘めているからな」
と、いともあっさりと答えが返ってくる。
だが、ちょっと待て──。
「『世界』の……『敵』?」
「『世界の敵』だ」
反射的にブギーポップの瞳を覗き込む。
底知れぬ虚無がそこに渦巻き、その水面にユージンの姿が映っていた。
「お前は、この無力な少女がこの世界をどうにかすると、本当に思っているのか?」
「君は……彼女の『消える』能力をどう思っている? なんの足しにもならない能力だと思うかね?」
「そこまでは思ってないさ。人間が知覚している情報のうち、視覚の占める割合は八〇%にも及ぶ。
だが……その使い手たる彼女に戦闘の素質がない。残りの二〇%で対応可能さ。現時点ではなんの脅威にはならない」
「では、未来はどうかな? もしも、彼女が真にこの『能力』を支配したら?
さっきの君の言葉だが、裏を返せばこういうことにならないかね? 『世界の八〇%を支配する』能力だと。
いつか彼女が『完全に消える』ことに目覚め、その時、彼女がこの世界に敵対するスタンスを取っていたら?」
「馬鹿な……そこまで言ってしまったらこの世の全てがお前の言う『世界の敵』になる。
実現していない可能性になんの意味があると言うんだ」
「前者は君の言う通りだ。この世の全てが『世界の敵』たる可能性を秘めている。
そして後者だが……君も分かっているはずだ。この世界の水面にいまだ浮かび上がらずとも、
可能性の水底で待ち続けている『なにか』が確かに存在していることを。
そう、かつて君が『予知』に従って『世界の敵』と戦ったときのように」
「貴様……知っているのか!?」
ユージンは反射的に声を荒げ、ブギーポップの襟首を掴む。
が、そのすぐ下で静が「ん……」と身じろぎをしたことで、忌々しげにその手を放す。
「残念だが、過去の君の身になにがあって今の君があるのか、私自身は『知らない』。
だが、『泡』の記憶が教えてくれる……君もまた、このろくでもない世界を守るために戦う孤独な戦士だと言うことを」
「ふん……僕はこの世界がどうなろうと知ったことじゃないね。ただ──」
「ただ?」
「そう思わない人たちが、どうやら少なからずいるようだ」
ユージンはブギーポップにお姫様抱っこされている静に目を落とす。
意識を失っているというよりはむしろ眠っているだけのような、そんなだらしのない寝顔を見て──、
少し、笑った。
それはつい一時間足らず前に静に対して見せたあの気弱そうだが誠実さのこもった笑顔だった。
「君が何者なのか、必ず突き止めてやる、静・ジョースターさん。
……そのためには、お前の口車にも乗ってやるさ。
僕は星火を足止めないしは撃退する。その間に彼女を安全な場所に移しておけ」
そう言って顔を上げるころには、そこには明確で強固な意志が宿っていた。
一方のブギーポップはさっきから微動だにしない能面のままで、
「やる気になってくれてなによりだ」
「……それに、あの『予知』とやらは気に食わない」
「なぜだね?」
「それは、僕の……って、なんでお前に話す必要がある。関係ないだろう」
「もっともだ」
いちいち生真面目な感じが癇に障る。
もしかして同属嫌悪なのか? という面白くない連想が浮かんだので、意識的に打ち消す。
それを平静な視線で眺めるブギーポップがぼそりと、
「だが、なるほど……それが君の『カーメン』か」
「……なにか言ったか?」
「いや、こっちの話さ。彼女のことは私に任せたまえ。武運を祈る」
「思いもしないことを言うな」
「心外だな。私は心から君の無事を願っている」
これ以上こいつと会話するのはなんか疲れる気がするので、ユージンは無愛想に手を振ってその場から立ち去る。
静・ジョースターを守るために──それ以上に、『予知能力者』星火と対決するために。