『液状と透明 ③』
「はぁっ、はぁっ……」
静は弾む息を口から吐き、三段飛ばしで階段を駆け下りる。屋上から四階へ、四階から三階へ。
後も振り返らない必死さで、弾丸のように性急に、わき目も振らずに位置エネルギーを消費しつつ階下へと向かう。
あのユージンとかいう男子生徒に締め上げられた左肩の付け根がしくしく痛むので、そこに右手をあてがっていた。
そんな微妙に無理のある体勢で一気に駆け下りたため、三階の踊り場へ至る最後の一段を踏み外してしまい、
足をもつれさせて無様に床にくずおれる。
「痛ぁ……」
自分の来た道を仰ぎ見る、だがあの彼が後を追ってくる気配は感じられない。
無事に逃げおおせたと考えるのは楽観に過ぎるだろうということは静も自覚していた。
軽くひねった足首をさすりつつ、よろよろと立ち上がる。
「なんなのよ、もう……」
ふと口を付く弱音。
ここ数十分の間に静の見に起こった屋上での体験は、まったくもってどこまでも決定的かつ徹底的に──意味不明だった。
変身ヒーローを自任するクラスメイトとの奇妙な交流から始まり──
友達の十和子がなんだかこの上なく傲慢な感じの校内放送を流し、ブギーポップは消え、
見ず知らずの男子生徒にスカートの中身を覗かれたと思ったらその当の本人たる男子生徒に訳もわからず腕を捻りあげられ──
「なにが起こっているの……? この学校、なんなの……?」
静の知っている学校というものは、決してコスプレ少年が校内を闊歩することなどなく、
決して大上段に構えたオレ様的呼び出しがスピーカーから全校放送されることなどなく、
決して転校生に向かって「なぜここにいるのか」とかなんとか小難しい存在論的弁明を暴力によって強制することなどないのだ。
それが静の知る学校という機関だし、一般的な見地からしてもこの認識はおおむね間違っていないはずだと静は考えている。
静は弾む息を口から吐き、三段飛ばしで階段を駆け下りる。屋上から四階へ、四階から三階へ。
後も振り返らない必死さで、弾丸のように性急に、わき目も振らずに位置エネルギーを消費しつつ階下へと向かう。
あのユージンとかいう男子生徒に締め上げられた左肩の付け根がしくしく痛むので、そこに右手をあてがっていた。
そんな微妙に無理のある体勢で一気に駆け下りたため、三階の踊り場へ至る最後の一段を踏み外してしまい、
足をもつれさせて無様に床にくずおれる。
「痛ぁ……」
自分の来た道を仰ぎ見る、だがあの彼が後を追ってくる気配は感じられない。
無事に逃げおおせたと考えるのは楽観に過ぎるだろうということは静も自覚していた。
軽くひねった足首をさすりつつ、よろよろと立ち上がる。
「なんなのよ、もう……」
ふと口を付く弱音。
ここ数十分の間に静の見に起こった屋上での体験は、まったくもってどこまでも決定的かつ徹底的に──意味不明だった。
変身ヒーローを自任するクラスメイトとの奇妙な交流から始まり──
友達の十和子がなんだかこの上なく傲慢な感じの校内放送を流し、ブギーポップは消え、
見ず知らずの男子生徒にスカートの中身を覗かれたと思ったらその当の本人たる男子生徒に訳もわからず腕を捻りあげられ──
「なにが起こっているの……? この学校、なんなの……?」
静の知っている学校というものは、決してコスプレ少年が校内を闊歩することなどなく、
決して大上段に構えたオレ様的呼び出しがスピーカーから全校放送されることなどなく、
決して転校生に向かって「なぜここにいるのか」とかなんとか小難しい存在論的弁明を暴力によって強制することなどないのだ。
それが静の知る学校という機関だし、一般的な見地からしてもこの認識はおおむね間違っていないはずだと静は考えている。
「とりあえず……これからどうしよう?」
さっきは勢い任せに件の彼にビンタをかましたけれど、訳の分からぬままに彼と事を構えるという選択肢はナシのように思える。
静には戦闘的な能力や資質、敵の力量を計る感受性などは皆無に等しかったが、それでも肌で実感できたことがある。
かのユージンなる人物は自分とは桁違いのレベルで『暴力』というものに慣れているであろうことを。
どんな理由があれ、相手の腕を無理やりねじり上げて詰問を掛けるなどという真似は自分には物理的にも心情的にも限りなく困難な行為であるが、
彼はそれをいとも容易く行えるのだ。それだけでも彼我の差は歴然としている。
ならば、大人しく彼の望むとおりに自分がこの街に来た理由を伝えるべきなのだろうか。
自分がこの街に来たのは、極めて私的な事由──自分のルーツを探るため。
そんなことを知って、いったい彼はどうするつもりなのだろうか。
彼はなにかとんでもない勘違いをしているのではないだろうか?
──と、すると、やはり誤解を解くためにも正直に話すべきなのだろう。
静の理性の大半はその判断を支持していた。
だが。
(でも……なにかがズレてるような気がする)
なにがズレているのかは自分でも理解できないまま、そんなある種切実な所感を抱く。
ハイスピードで流動する状況に翻弄されて思考は混乱し、自分が何をするべきなのかを見失いかける静。
とりあえず逃げなければ──遅かれ早かれ、彼はきっと自分を追ってくるのだから。
その本能の囁きに従い、薄暗くなりかけた無人の廊下を進みかけたその時、
「おい」
「うひゃぁ」
背後からいきなり呼び止められ、口から心臓が飛び出そうになる。
実際に飛び出しはしなかったが、代わりになんとも馬鹿丸出しの小さな悲鳴が飛び出した。
半分涙目でギギギって感じな動作で振り返ると、そこには黒のジャージを来た男性教師の姿があった。
大柄でかなり人相の悪いその教師は剣のある視線で静を一瞥し、
「こんな時間までなにしてんだ」
「へ、あの」
答える言葉が無かった。
脳裏にはさっきまでのあれやこれが想起されるも、それが具体的な形で喉元に上がってこず、へどもどしながらやっとのことで、
「い、色々してました」
「色々ってなんだ色々って」
呆れたように返すその声すらドスが利いていて、静は本気で泣きそうになる。ある意味あのユージン氏より怖かった。
静の意識の一部が、彼に助けを求めることで屋上での問題の解決を図ろうと提案するが、
「あ、あのう」
「ああ?」
ぎろりと睨む凶眼にビビったので即座に却下。
「もー、ダメだよ、その子怖がってるじゃーん」
黒ジャージの背後から声。目を凝らすと、そこにもう一つの人影があった。
さらさらの金髪、夕暮れの薄闇にも映える蒼眼、ひょろりと細長い手足を白衣で包んだ姿。
「ごめんねー、このせんせー目つき悪いからー」
ぽんぽんを肩を叩かれるのを鬱陶しそうに振り払う黒ジャージ。
「余計なこと言ってんじゃねえ」
こっちの白衣の先生は安心できそうだ──と静は思いかけ、すんでのところで思いとどまる。
柔和そうな顔には優しそうな微笑が浮かんでいたが──目が全く笑っていなかった。
その含むところがありそうな目は、どこかで見たような気がする──思い出せない。
「でもでもー、そんな怖い顔してたらダメだようー。だって、さ──」
その目つきを思い出す。
なにかろくでもないことを考えているときの十和子のそれにそっくりだった。
「静ちゃんには聞きたいことがあるんだからねー」
白衣の男の言葉が引き金となって、静はあることに思い至る。
『聞きたいこと』
これが違う場所、違う時で放たれた言葉なら、「はい、なんでしょうか」と受け答えの態勢も取れただろうが、
今この時この場所で『それ』を言うということはまず間違いなく──『彼』の仲間だ!
まるで予期せぬ伏兵だったが、だが、大筋に於いては想定の範囲内だった。
『ユージン』の追尾に備え、静は意識下で精神テンションを十分に張り詰めていた。
今度こそ遅滞も瑕疵もなく、
(『アクトン・ベイビー』!)
心の内でその名を唱え、自らの姿を空間に溶かす。
「──あれ?」
「……んだと?」
いきなり消失した静を訝しむ声が二つ。
だが、透明化した彼女はもはや誰にも見えず、ゆえに誰にも捕らえられることは無く──。
「えーっと、ここらへん?」
白衣の男がひょいと指し伸ばした腕が、静の肩を掠った。
(え──!)
二人の間を通り抜けようとした静の足がたたらを踏む。
「あ、惜っしいー」
へらへら笑う白衣の男の横で、静は愕然としかける。
うろたえながらも、彼と距離を置こうと正反対の位置へと足を伸ばしたところで、
「逃がすかよ」
自分がまさにその位置へと──黒ジャージの手の届く範囲へと誘導させられたことを遅まきながら悟った。
「目に見えねえからってな、本当に見えなくなるわけじゃねえんだよ」
その声から逃れるように身を屈め、だが男の手はまっすぐこちらへと伸びてきて、
透明のセーラー服の襟首をしっかりと掴まれてしまう。
服ごと首から引っ張られる感覚を覚えながら、静は黒ジャージの言ったことに共感していた。
『アクトン・ベイビー』。それはただ透明になるだけの無力な能力。
視覚的に消えてみたところで、本当にこの世から消えてなくなる訳じゃない。
呼気は気流を渦として、重力に縛られた身体は音として、血と肉は仄かな匂いとして、この世界に確実な跡を残し続けている。
本当にいなくなる訳じゃない、十和子だって見えない自分を探り当てて見せた。
そんな、かくれんぼにしか役に立たなそうな小さな力。
(でも、だからって──!)
「逃げなきゃ」という目的意識以上に、正体不明の意地に突き動かされて静はもがく。
猫でもつまむように持ち上げられる襟に逆らい、一瞬息が詰まるほどの喉に圧迫感、そして──、
見えない服を脱ぎ捨てて、静は猛ダッシュした。
男たちがなにかを言っているのが感じられたが、それはすでに背中越しのことだった。
振り返らず、阻むものなく、静は走る。
逃げ切った、そう思った瞬間、不意にがつん、という衝撃が後頭部に走った。
ぐらりと世界が反転する。天地が逆になった世界で、静は床からぶら下がるそれを見た。
それは、あの強気なんだから弱気なんだからよく分からないユージンでもなく、もちろん白黒教師二人組みでもなく──、
「廊下を走っちゃあ、ダメじゃない。静・ジョースターさん?」
艶やかな声音、しかし怜悧な口調、
「でも、ちょうど良かったわ──」
糸が切れたように傾く身体と幕が降りるように暗転する視界の中で、静は見る。
腰まで伸びたソバージュ、砂時計のような洗練されたプロポーション、漆黒の瞳。
「邪魔臭いユージンやあの異世界人二人に先んじて貴女を確保することが出来たんですもの」
──そこで、静の意識はぶっつりと途絶えた。
さっきは勢い任せに件の彼にビンタをかましたけれど、訳の分からぬままに彼と事を構えるという選択肢はナシのように思える。
静には戦闘的な能力や資質、敵の力量を計る感受性などは皆無に等しかったが、それでも肌で実感できたことがある。
かのユージンなる人物は自分とは桁違いのレベルで『暴力』というものに慣れているであろうことを。
どんな理由があれ、相手の腕を無理やりねじり上げて詰問を掛けるなどという真似は自分には物理的にも心情的にも限りなく困難な行為であるが、
彼はそれをいとも容易く行えるのだ。それだけでも彼我の差は歴然としている。
ならば、大人しく彼の望むとおりに自分がこの街に来た理由を伝えるべきなのだろうか。
自分がこの街に来たのは、極めて私的な事由──自分のルーツを探るため。
そんなことを知って、いったい彼はどうするつもりなのだろうか。
彼はなにかとんでもない勘違いをしているのではないだろうか?
──と、すると、やはり誤解を解くためにも正直に話すべきなのだろう。
静の理性の大半はその判断を支持していた。
だが。
(でも……なにかがズレてるような気がする)
なにがズレているのかは自分でも理解できないまま、そんなある種切実な所感を抱く。
ハイスピードで流動する状況に翻弄されて思考は混乱し、自分が何をするべきなのかを見失いかける静。
とりあえず逃げなければ──遅かれ早かれ、彼はきっと自分を追ってくるのだから。
その本能の囁きに従い、薄暗くなりかけた無人の廊下を進みかけたその時、
「おい」
「うひゃぁ」
背後からいきなり呼び止められ、口から心臓が飛び出そうになる。
実際に飛び出しはしなかったが、代わりになんとも馬鹿丸出しの小さな悲鳴が飛び出した。
半分涙目でギギギって感じな動作で振り返ると、そこには黒のジャージを来た男性教師の姿があった。
大柄でかなり人相の悪いその教師は剣のある視線で静を一瞥し、
「こんな時間までなにしてんだ」
「へ、あの」
答える言葉が無かった。
脳裏にはさっきまでのあれやこれが想起されるも、それが具体的な形で喉元に上がってこず、へどもどしながらやっとのことで、
「い、色々してました」
「色々ってなんだ色々って」
呆れたように返すその声すらドスが利いていて、静は本気で泣きそうになる。ある意味あのユージン氏より怖かった。
静の意識の一部が、彼に助けを求めることで屋上での問題の解決を図ろうと提案するが、
「あ、あのう」
「ああ?」
ぎろりと睨む凶眼にビビったので即座に却下。
「もー、ダメだよ、その子怖がってるじゃーん」
黒ジャージの背後から声。目を凝らすと、そこにもう一つの人影があった。
さらさらの金髪、夕暮れの薄闇にも映える蒼眼、ひょろりと細長い手足を白衣で包んだ姿。
「ごめんねー、このせんせー目つき悪いからー」
ぽんぽんを肩を叩かれるのを鬱陶しそうに振り払う黒ジャージ。
「余計なこと言ってんじゃねえ」
こっちの白衣の先生は安心できそうだ──と静は思いかけ、すんでのところで思いとどまる。
柔和そうな顔には優しそうな微笑が浮かんでいたが──目が全く笑っていなかった。
その含むところがありそうな目は、どこかで見たような気がする──思い出せない。
「でもでもー、そんな怖い顔してたらダメだようー。だって、さ──」
その目つきを思い出す。
なにかろくでもないことを考えているときの十和子のそれにそっくりだった。
「静ちゃんには聞きたいことがあるんだからねー」
白衣の男の言葉が引き金となって、静はあることに思い至る。
『聞きたいこと』
これが違う場所、違う時で放たれた言葉なら、「はい、なんでしょうか」と受け答えの態勢も取れただろうが、
今この時この場所で『それ』を言うということはまず間違いなく──『彼』の仲間だ!
まるで予期せぬ伏兵だったが、だが、大筋に於いては想定の範囲内だった。
『ユージン』の追尾に備え、静は意識下で精神テンションを十分に張り詰めていた。
今度こそ遅滞も瑕疵もなく、
(『アクトン・ベイビー』!)
心の内でその名を唱え、自らの姿を空間に溶かす。
「──あれ?」
「……んだと?」
いきなり消失した静を訝しむ声が二つ。
だが、透明化した彼女はもはや誰にも見えず、ゆえに誰にも捕らえられることは無く──。
「えーっと、ここらへん?」
白衣の男がひょいと指し伸ばした腕が、静の肩を掠った。
(え──!)
二人の間を通り抜けようとした静の足がたたらを踏む。
「あ、惜っしいー」
へらへら笑う白衣の男の横で、静は愕然としかける。
うろたえながらも、彼と距離を置こうと正反対の位置へと足を伸ばしたところで、
「逃がすかよ」
自分がまさにその位置へと──黒ジャージの手の届く範囲へと誘導させられたことを遅まきながら悟った。
「目に見えねえからってな、本当に見えなくなるわけじゃねえんだよ」
その声から逃れるように身を屈め、だが男の手はまっすぐこちらへと伸びてきて、
透明のセーラー服の襟首をしっかりと掴まれてしまう。
服ごと首から引っ張られる感覚を覚えながら、静は黒ジャージの言ったことに共感していた。
『アクトン・ベイビー』。それはただ透明になるだけの無力な能力。
視覚的に消えてみたところで、本当にこの世から消えてなくなる訳じゃない。
呼気は気流を渦として、重力に縛られた身体は音として、血と肉は仄かな匂いとして、この世界に確実な跡を残し続けている。
本当にいなくなる訳じゃない、十和子だって見えない自分を探り当てて見せた。
そんな、かくれんぼにしか役に立たなそうな小さな力。
(でも、だからって──!)
「逃げなきゃ」という目的意識以上に、正体不明の意地に突き動かされて静はもがく。
猫でもつまむように持ち上げられる襟に逆らい、一瞬息が詰まるほどの喉に圧迫感、そして──、
見えない服を脱ぎ捨てて、静は猛ダッシュした。
男たちがなにかを言っているのが感じられたが、それはすでに背中越しのことだった。
振り返らず、阻むものなく、静は走る。
逃げ切った、そう思った瞬間、不意にがつん、という衝撃が後頭部に走った。
ぐらりと世界が反転する。天地が逆になった世界で、静は床からぶら下がるそれを見た。
それは、あの強気なんだから弱気なんだからよく分からないユージンでもなく、もちろん白黒教師二人組みでもなく──、
「廊下を走っちゃあ、ダメじゃない。静・ジョースターさん?」
艶やかな声音、しかし怜悧な口調、
「でも、ちょうど良かったわ──」
糸が切れたように傾く身体と幕が降りるように暗転する視界の中で、静は見る。
腰まで伸びたソバージュ、砂時計のような洗練されたプロポーション、漆黒の瞳。
「邪魔臭いユージンやあの異世界人二人に先んじて貴女を確保することが出来たんですもの」
──そこで、静の意識はぶっつりと途絶えた。