格闘技なんかはもちろんド素人で、殺気や闘気を感じ取ることなどできない留美。
もちろん、普通の女子高生……というか、平凡な一般人ならそれが当たり前だ。
だが目の前に立つ男からは、それらが強烈に感じられた。留美の髪を揺らさぬ突風が、
留美の服を濡らさぬ津波が、そして留美を物理的には押し潰さぬ重圧が、絶え間なく
襲いかかってくる。
「……ぅ……」
たった今、刃牙のことを地上最強だと心底信じた留美だったが、その思いはあっさりと
ひっくり返ってしまった。範馬君がこの人と戦っても絶対に勝てない、と確信できてしまう。
刃牙はというと半ば反射的に留美を背に庇う位置に立ったが、しかしそこまでだった。
勇次郎の気迫と視線を受け止め、潰されないようにするだけで精一杯である。
「親父……今、ここで、やる気なのか?」
もし勇次郎が本気でその気なら、どうせ逃げられはしない。ならば応戦するしかない。
そして応戦しても、どうせ勝てはしない。逃げられないのと同じく。だが、今ここには
留美がいる。せめて、何とか留美だけでも逃がさねば。
そう思って刃牙が踏ん張っていると、勇次郎の視線が留美に向けられた。
『むぅ……三つ編み眼鏡っ子……流石は我が息子、なかなかいい趣味をしている……
というか、正直羨ましい……ハート型シールで封をしたラブレターを貰ったのか……?
それとも、トースト咥えて走ってるとこにぶつかったか……? するとあの子は転校生で、
一番後ろの刃牙の隣の席が空いてるからってやつか…………?』
ゴゴゴゴゴゴゴゴと勇次郎の気が熱く大きく膨れ上がっていく。周囲の景色が陽炎で
揺らめく。少々特異な色合いをした陽炎ではあるが。
ともあれその気の流れを察した刃牙が、全身に汗を浮かべて背後の留美に言った。
「浅井さん。俺があいつを食い止めるから、その間に逃げて」
「え?」
「あいつが動き出したらオレなんか多分……悔しいけど、一分も持たない。そして今、
あいつの意識はオレよりもむしろ浅井さんに向けられてる。だから早く!」
と刃牙が言った時にはもう、勇次郎が歩き出していた。二人に向かって。
刃牙に向かってなのか、それともその刃牙の後ろに庇われている留美に向かって
なのか。どちらかというと、どうも留美っぽい……というのを、留美自身が己に
突き刺さる視線から察した。
「浅井さん、逃げてっ!」
覚悟を決めて刃牙が勇次郎に向かおうとしたその時。
恐怖に固まっていた留美が、まるでバネ仕掛けのように跳んで刃牙の前に立った。
そして両腕を広げ、勇次郎の前に立ちはだかる。刃牙を庇って。もちろん、刃牙以上に
恐怖の汗にまみれた顔をして。
「あ、浅井さん!?」
「……解ってる。こういう時、素直にヒーローの言うことを聞かずに逃げないヒロインって
のは、どうかと思う。それで二人ともやられたらどうする気だって。あたし自身、そういうの
見て苛立つこともある。漫画やアニメでね。けど、実際その立場になってみたら……」
留美は勇次郎をまっすぐ見据えたまま、言葉を続ける。
「あたしにも判るよ、この人の強さが。だから怖いの。あたしを逃がす為に範馬君が
この人と戦って……それで明日、学校で範馬君に会えなかったら……そう思ったら……
そう思ったら……」
「……浅井さん」
「あたし、今、こうするより他に何も考えられないの。だからここを動かない。絶対に」
眼鏡の奥で、留美の瞳が涙に揺れている。その涙は、眼前に迫りくる勇次郎への恐怖に
よるものではない。自分が、自分だけが無事に逃げ延びた場合に対する恐怖だ。
小さな肩も、華奢な腕も、細く頼りない脚も震わせて、それでも勇次郎の前に
立ちはだかる留美。
そんな彼女と視線をぶつけた勇次郎の歩みが、止まった。
「…………なんというか……この状況はつまり……アレか」
脱力して頭を掻く勇次郎。その気迫が、みるみる萎んでいく。
「どうやら俺は、お前らに盛大なフラグを立ててしまったようだな。これで攻略ルートは
固定、いやむしろバットエンドルートは閉鎖、後は告白ED一直線の分岐なし、と」
何やら戦意をなくしたらしい勇次郎の様子に、留美も刃牙も「え?」な顔。
そんな二人を見て、ふん、と鼻息ひとつついて。勇次郎は刃牙に言った。
「こうなっちゃ仕方ねぇ、祝福するぜ二人とも。そこで刃牙よ、お前に言っておく。
強くなりたくば喰らえ。朝も昼も夜もなく喰らって喰らって喰らい尽く……」
「あの空間に浅井さんを巻き込むなああああああああぁぁぁぁっっ!」
刃牙が絶叫、肩をいからせてぜ~は~している。
今度は勇次郎が「え?」な顔。
「何言ってんだお前」
「……い、いや……今、何か、遠い未来の不吉な映像が頭をよぎって」
「? とりあえず、今はお前を喰う気は失せた。またいずれ、な」
ポケットに両手を突っ込んで去っていく勇次郎。後姿に少々未練が感じられるが。
やがてその背が見えなくなった時……留美は倒れた。
「あ、浅井さんっ!? 浅井さん、しっかりして!」
「ぅ、う……ん。大丈夫、大丈夫だから」
そう言う留美の顔は蒼白もいいところ。血の気の失せきった青白い頬が、
冷たい汗と溢れ出た涙で濡れている。
刃牙に抱き起こされながら、留美は汗と涙を拭って訊ねた。
「それより範馬君。さっき、『親父』って言ってたよね。あの人、まさか」
「ああ、オレの親父。実の父親だよ。……その、実はオレは」
ストップ、と留美は人差し指を立てて刃牙の唇に当てた。
「謝るのはあたしよ。興味本位で範馬君に付きまとって、足手まといになって。
それであたし自身がどうなろうと自業自得だけど、範馬君まで危険に晒して
しまったんだもの。本当にごめんなさい」
済まなさそうに、留美は顔を伏せた。
「よく解ったわ。あたしが、何も解ってないってことが。範馬君は、実のお父さんと
まで戦わなきゃいけないような……重い宿命を、辛い過去を、深い思いを背負って
生きて来たのよね……それをあたしは、範馬君の気持ちも知らずに面白がって……」
留美の細い指に口を塞がれたまま、刃牙は黙っている。
「もう、範馬君の戦いに首を突っ込んだりしないわ。ただ、祈ってる。範馬君がこの先、
無事に戦い抜けることを」
そう言って、留美は立ちあがった。もう震えてはいないが、その代わりに止まったはずの
涙が、新たに溢れつつあった。
もちろんこれは、先ほどのような恐怖の涙ではない。
「さようなら……範馬君」
刃牙に背を向けて、留美は駆け出した。振り向くことなく、夕闇の中をまっすぐに。
その背が遠ざかっていくのを、刃牙は黙って見送った。
もちろん、普通の女子高生……というか、平凡な一般人ならそれが当たり前だ。
だが目の前に立つ男からは、それらが強烈に感じられた。留美の髪を揺らさぬ突風が、
留美の服を濡らさぬ津波が、そして留美を物理的には押し潰さぬ重圧が、絶え間なく
襲いかかってくる。
「……ぅ……」
たった今、刃牙のことを地上最強だと心底信じた留美だったが、その思いはあっさりと
ひっくり返ってしまった。範馬君がこの人と戦っても絶対に勝てない、と確信できてしまう。
刃牙はというと半ば反射的に留美を背に庇う位置に立ったが、しかしそこまでだった。
勇次郎の気迫と視線を受け止め、潰されないようにするだけで精一杯である。
「親父……今、ここで、やる気なのか?」
もし勇次郎が本気でその気なら、どうせ逃げられはしない。ならば応戦するしかない。
そして応戦しても、どうせ勝てはしない。逃げられないのと同じく。だが、今ここには
留美がいる。せめて、何とか留美だけでも逃がさねば。
そう思って刃牙が踏ん張っていると、勇次郎の視線が留美に向けられた。
『むぅ……三つ編み眼鏡っ子……流石は我が息子、なかなかいい趣味をしている……
というか、正直羨ましい……ハート型シールで封をしたラブレターを貰ったのか……?
それとも、トースト咥えて走ってるとこにぶつかったか……? するとあの子は転校生で、
一番後ろの刃牙の隣の席が空いてるからってやつか…………?』
ゴゴゴゴゴゴゴゴと勇次郎の気が熱く大きく膨れ上がっていく。周囲の景色が陽炎で
揺らめく。少々特異な色合いをした陽炎ではあるが。
ともあれその気の流れを察した刃牙が、全身に汗を浮かべて背後の留美に言った。
「浅井さん。俺があいつを食い止めるから、その間に逃げて」
「え?」
「あいつが動き出したらオレなんか多分……悔しいけど、一分も持たない。そして今、
あいつの意識はオレよりもむしろ浅井さんに向けられてる。だから早く!」
と刃牙が言った時にはもう、勇次郎が歩き出していた。二人に向かって。
刃牙に向かってなのか、それともその刃牙の後ろに庇われている留美に向かって
なのか。どちらかというと、どうも留美っぽい……というのを、留美自身が己に
突き刺さる視線から察した。
「浅井さん、逃げてっ!」
覚悟を決めて刃牙が勇次郎に向かおうとしたその時。
恐怖に固まっていた留美が、まるでバネ仕掛けのように跳んで刃牙の前に立った。
そして両腕を広げ、勇次郎の前に立ちはだかる。刃牙を庇って。もちろん、刃牙以上に
恐怖の汗にまみれた顔をして。
「あ、浅井さん!?」
「……解ってる。こういう時、素直にヒーローの言うことを聞かずに逃げないヒロインって
のは、どうかと思う。それで二人ともやられたらどうする気だって。あたし自身、そういうの
見て苛立つこともある。漫画やアニメでね。けど、実際その立場になってみたら……」
留美は勇次郎をまっすぐ見据えたまま、言葉を続ける。
「あたしにも判るよ、この人の強さが。だから怖いの。あたしを逃がす為に範馬君が
この人と戦って……それで明日、学校で範馬君に会えなかったら……そう思ったら……
そう思ったら……」
「……浅井さん」
「あたし、今、こうするより他に何も考えられないの。だからここを動かない。絶対に」
眼鏡の奥で、留美の瞳が涙に揺れている。その涙は、眼前に迫りくる勇次郎への恐怖に
よるものではない。自分が、自分だけが無事に逃げ延びた場合に対する恐怖だ。
小さな肩も、華奢な腕も、細く頼りない脚も震わせて、それでも勇次郎の前に
立ちはだかる留美。
そんな彼女と視線をぶつけた勇次郎の歩みが、止まった。
「…………なんというか……この状況はつまり……アレか」
脱力して頭を掻く勇次郎。その気迫が、みるみる萎んでいく。
「どうやら俺は、お前らに盛大なフラグを立ててしまったようだな。これで攻略ルートは
固定、いやむしろバットエンドルートは閉鎖、後は告白ED一直線の分岐なし、と」
何やら戦意をなくしたらしい勇次郎の様子に、留美も刃牙も「え?」な顔。
そんな二人を見て、ふん、と鼻息ひとつついて。勇次郎は刃牙に言った。
「こうなっちゃ仕方ねぇ、祝福するぜ二人とも。そこで刃牙よ、お前に言っておく。
強くなりたくば喰らえ。朝も昼も夜もなく喰らって喰らって喰らい尽く……」
「あの空間に浅井さんを巻き込むなああああああああぁぁぁぁっっ!」
刃牙が絶叫、肩をいからせてぜ~は~している。
今度は勇次郎が「え?」な顔。
「何言ってんだお前」
「……い、いや……今、何か、遠い未来の不吉な映像が頭をよぎって」
「? とりあえず、今はお前を喰う気は失せた。またいずれ、な」
ポケットに両手を突っ込んで去っていく勇次郎。後姿に少々未練が感じられるが。
やがてその背が見えなくなった時……留美は倒れた。
「あ、浅井さんっ!? 浅井さん、しっかりして!」
「ぅ、う……ん。大丈夫、大丈夫だから」
そう言う留美の顔は蒼白もいいところ。血の気の失せきった青白い頬が、
冷たい汗と溢れ出た涙で濡れている。
刃牙に抱き起こされながら、留美は汗と涙を拭って訊ねた。
「それより範馬君。さっき、『親父』って言ってたよね。あの人、まさか」
「ああ、オレの親父。実の父親だよ。……その、実はオレは」
ストップ、と留美は人差し指を立てて刃牙の唇に当てた。
「謝るのはあたしよ。興味本位で範馬君に付きまとって、足手まといになって。
それであたし自身がどうなろうと自業自得だけど、範馬君まで危険に晒して
しまったんだもの。本当にごめんなさい」
済まなさそうに、留美は顔を伏せた。
「よく解ったわ。あたしが、何も解ってないってことが。範馬君は、実のお父さんと
まで戦わなきゃいけないような……重い宿命を、辛い過去を、深い思いを背負って
生きて来たのよね……それをあたしは、範馬君の気持ちも知らずに面白がって……」
留美の細い指に口を塞がれたまま、刃牙は黙っている。
「もう、範馬君の戦いに首を突っ込んだりしないわ。ただ、祈ってる。範馬君がこの先、
無事に戦い抜けることを」
そう言って、留美は立ちあがった。もう震えてはいないが、その代わりに止まったはずの
涙が、新たに溢れつつあった。
もちろんこれは、先ほどのような恐怖の涙ではない。
「さようなら……範馬君」
刃牙に背を向けて、留美は駆け出した。振り向くことなく、夕闇の中をまっすぐに。
その背が遠ざかっていくのを、刃牙は黙って見送った。
その後、時が流れて。
創作系美少年バトルものの同人界において、浅井留美の名は不動のものとなっていた。
特に、クラスメートに正体を隠して謎のモンスターと戦う主人公の少年が大人気。その
少年のファンとなった少女たちによる二次創作作品が、続々と留美に届けられる
有様である。
留美の、その少年に対する丁寧で情感溢れる描写には皆が感嘆の溜息をつき、
「もしかして、実在のモデルとかいるんですか?」
「紹介してくださいよぉ。凄く素敵な男の子なんでしょう?」
と何度も何度も言ってくるのだが、留美はそれについては何も答えなかったという。
創作系美少年バトルものの同人界において、浅井留美の名は不動のものとなっていた。
特に、クラスメートに正体を隠して謎のモンスターと戦う主人公の少年が大人気。その
少年のファンとなった少女たちによる二次創作作品が、続々と留美に届けられる
有様である。
留美の、その少年に対する丁寧で情感溢れる描写には皆が感嘆の溜息をつき、
「もしかして、実在のモデルとかいるんですか?」
「紹介してくださいよぉ。凄く素敵な男の子なんでしょう?」
と何度も何度も言ってくるのだが、留美はそれについては何も答えなかったという。
『あたしには何もできないけど……陰ながら応援してるからね、範馬君……♪』