『迂回と焼菓 ⑦』
「あ、ああ……」
まるで意味を成さない、音だけの呻き声を上げて遠野は宙ぶらりんになっている。
掻き毟るように首の辺りを引っかいていた手も、ついにだらんと力なく垂れ下がった。
“『墓守』を生み出す『能力』が『ダーク・フューネラル』の『能力』だと思っていたのか……お生憎さまだな……”
そううそぶく『ダーク・フューネラル』の力が、徐々に強まっていた。
それは、そいつの腕を押さえつけている航の手を今すぐにでも弾き飛ばしてしまいそうなほどに膨れ上がっていた。
“あんなものはただの『食事』の副産物だ……この『ダーク・フューネラル』は……
遠隔操作型でありながらにして強大なパワーを得るために……ある『エネルギー』を外部から摂取している……”
ぱん、とひときわ大きな破裂音とともに、ホルマリン漬けのヤモリが飛び出した。
そこから連鎖反応のように、鳩が、蛙が、得体の知れない深海魚が……この生物室で深い眠りについていた、
ありとあらゆる『死体』が、次々に目覚めて蠢きはじめた。
“『死』と『怨念』だ……! 死せるものが生きるものへと向ける憎悪のエネルギー……いわば『呪詛』こそが……
『ダーク・フューネラル』を衝き動かす原動力なのだ……!”
ごとん、と遠野の身体が床に落ちる。糸の切れたように崩れる彼女は、乱れた衣服もそのままにひっそりと呼吸を止めていた。
顔面どころか全身が蒼白となった彼女の……その『死相』を見て、知らず、航は身震いした。
ぞっとするくらいに──死せる遠野十和子は美しかった。
この世から切り離された存在となった──少なくとも、その領域に近づきつつある──彼女には、永遠を思わせる輝きがあった。
“『ダーク・フューネラル』が死体を通じて『死』と『怨念』を吸収するとき……『そいつ』はもっとも美しい姿になる……。
なぜなら……『死』こそが完璧な状態だからだ……! ちょっと大きな視点で世界を見渡せばすぐに分かる……!
『死んでいる』ことが普通の状態で……『生きている』ことこそが異常な状態だとな……!”
ゾンビとなった生物標本どもが、わらわらと航の周囲に集ってくる。
その数が増えれば増えるだけ、『ダーク・フューネラル』により強い力が漲ってくる。
“その『完璧な死』を与えるのが、我が『真の能力』だ……。
『終わりの儀式(ファイナル・リチュアル)』はその名の通り、『死』の儀式……。
その臨終の儀式を身に受けたものは……暗黒の霧にその身を蝕まれ……すべからく『完璧な状態』を取り戻すのだ……!”
それを聞き、航は背筋の凍るような戦慄を覚えた。
こいつの言う『完璧な状態』とは取りも直さず『死ぬ』ということであって、つまり……こいつの『能力』は……。
(『必殺』……!)
“この女が完全に死に絶えたら、次はお前の番だ……。我が『隠し腕』より撒かれる暗黒の霧によって……お前も死んで『墓守』となる……!”
(俺の……『番』?)
恐怖によって停止していた航の思考が、その一言によって機能を復活させる。脳裏に一筋の閃光が走った。
「待てよ……」
つい、それを口に出していた。
「お前のその『必殺技』は……『順番』なのか? 遠野先輩が死ななきゃ、俺を殺せないのか?」
口にしてしまってから、そうとしか考えようがないことに気づく。
実際、『ダーク・フューネラル』は例の『隠し腕』を自分に使ってこないのだ。
二本の腕を押さえるのに手一杯で、他は隙だらけであるにも関わらず、である。
「い、いいところに気がついた、わね──」
足元から、そんなか細い声が聞こえてきた。
それは、遠野の声だった。
床に横たわる彼女は、弱々しくも──それでもはっきりと──『美しさ』とは程遠い、だが奇妙な魅力に満ちた、歪んだ笑みを頬に浮かべた。
「こ、こいつは、ね……小狼くんに使った、の、『能力』を……、一度に何人もの相手には、つ、つつ使えない、のよ……」
唇を動かすのも苦痛だろうに、それでも遠野は喘ぎあえぎに必死で言葉を紡いでいた。
「だって……それが出来るなら……あた、したち、は……で、出会い頭に、殺されていたはずで、でしょ、う?
最低でも……、一人くらいは殺しておかしくないはず……そうしなかった時点で、ね……『能力』の、地金は割れてんのよ……。
一度『能力』を使ったら……相手が完全に死ぬまでは新しく『能力』は使えない……。
だか、だから……あたし、は、『待つ』、だけだった……」
まるで意味を成さない、音だけの呻き声を上げて遠野は宙ぶらりんになっている。
掻き毟るように首の辺りを引っかいていた手も、ついにだらんと力なく垂れ下がった。
“『墓守』を生み出す『能力』が『ダーク・フューネラル』の『能力』だと思っていたのか……お生憎さまだな……”
そううそぶく『ダーク・フューネラル』の力が、徐々に強まっていた。
それは、そいつの腕を押さえつけている航の手を今すぐにでも弾き飛ばしてしまいそうなほどに膨れ上がっていた。
“あんなものはただの『食事』の副産物だ……この『ダーク・フューネラル』は……
遠隔操作型でありながらにして強大なパワーを得るために……ある『エネルギー』を外部から摂取している……”
ぱん、とひときわ大きな破裂音とともに、ホルマリン漬けのヤモリが飛び出した。
そこから連鎖反応のように、鳩が、蛙が、得体の知れない深海魚が……この生物室で深い眠りについていた、
ありとあらゆる『死体』が、次々に目覚めて蠢きはじめた。
“『死』と『怨念』だ……! 死せるものが生きるものへと向ける憎悪のエネルギー……いわば『呪詛』こそが……
『ダーク・フューネラル』を衝き動かす原動力なのだ……!”
ごとん、と遠野の身体が床に落ちる。糸の切れたように崩れる彼女は、乱れた衣服もそのままにひっそりと呼吸を止めていた。
顔面どころか全身が蒼白となった彼女の……その『死相』を見て、知らず、航は身震いした。
ぞっとするくらいに──死せる遠野十和子は美しかった。
この世から切り離された存在となった──少なくとも、その領域に近づきつつある──彼女には、永遠を思わせる輝きがあった。
“『ダーク・フューネラル』が死体を通じて『死』と『怨念』を吸収するとき……『そいつ』はもっとも美しい姿になる……。
なぜなら……『死』こそが完璧な状態だからだ……! ちょっと大きな視点で世界を見渡せばすぐに分かる……!
『死んでいる』ことが普通の状態で……『生きている』ことこそが異常な状態だとな……!”
ゾンビとなった生物標本どもが、わらわらと航の周囲に集ってくる。
その数が増えれば増えるだけ、『ダーク・フューネラル』により強い力が漲ってくる。
“その『完璧な死』を与えるのが、我が『真の能力』だ……。
『終わりの儀式(ファイナル・リチュアル)』はその名の通り、『死』の儀式……。
その臨終の儀式を身に受けたものは……暗黒の霧にその身を蝕まれ……すべからく『完璧な状態』を取り戻すのだ……!”
それを聞き、航は背筋の凍るような戦慄を覚えた。
こいつの言う『完璧な状態』とは取りも直さず『死ぬ』ということであって、つまり……こいつの『能力』は……。
(『必殺』……!)
“この女が完全に死に絶えたら、次はお前の番だ……。我が『隠し腕』より撒かれる暗黒の霧によって……お前も死んで『墓守』となる……!”
(俺の……『番』?)
恐怖によって停止していた航の思考が、その一言によって機能を復活させる。脳裏に一筋の閃光が走った。
「待てよ……」
つい、それを口に出していた。
「お前のその『必殺技』は……『順番』なのか? 遠野先輩が死ななきゃ、俺を殺せないのか?」
口にしてしまってから、そうとしか考えようがないことに気づく。
実際、『ダーク・フューネラル』は例の『隠し腕』を自分に使ってこないのだ。
二本の腕を押さえるのに手一杯で、他は隙だらけであるにも関わらず、である。
「い、いいところに気がついた、わね──」
足元から、そんなか細い声が聞こえてきた。
それは、遠野の声だった。
床に横たわる彼女は、弱々しくも──それでもはっきりと──『美しさ』とは程遠い、だが奇妙な魅力に満ちた、歪んだ笑みを頬に浮かべた。
「こ、こいつは、ね……小狼くんに使った、の、『能力』を……、一度に何人もの相手には、つ、つつ使えない、のよ……」
唇を動かすのも苦痛だろうに、それでも遠野は喘ぎあえぎに必死で言葉を紡いでいた。
「だって……それが出来るなら……あた、したち、は……で、出会い頭に、殺されていたはずで、でしょ、う?
最低でも……、一人くらいは殺しておかしくないはず……そうしなかった時点で、ね……『能力』の、地金は割れてんのよ……。
一度『能力』を使ったら……相手が完全に死ぬまでは新しく『能力』は使えない……。
だか、だから……あたし、は、『待つ』、だけだった……」
「君は……なぜ彼女と戦っているんだ? そんなに彼女を殺したくてたまらないのか?
違うだろう? 君には確固たる目的があって、小狼くんを『殺し』た。だが、彼女を決定的に敵対する理由はないはずだ。
この戦闘は、単なる行きがかり上の、もののついででしかないはずだ。──なら、なぜ君はそこまで必死になっているのだろうな?
ささやかなプライドや意地のせいで、手段が目的に摩り替わってはいないか?
その点、僕たちの目的ははっきりとしている──さっきから、そして今も、僕らの最優先は『小狼くんを蘇生させること』さ」
そのラウンダバウトの声は、今度こそ仮面の少年の耳には届いていなかった。
傍目にも一目瞭然な程に、そいつは呆然としていた。
違うだろう? 君には確固たる目的があって、小狼くんを『殺し』た。だが、彼女を決定的に敵対する理由はないはずだ。
この戦闘は、単なる行きがかり上の、もののついででしかないはずだ。──なら、なぜ君はそこまで必死になっているのだろうな?
ささやかなプライドや意地のせいで、手段が目的に摩り替わってはいないか?
その点、僕たちの目的ははっきりとしている──さっきから、そして今も、僕らの最優先は『小狼くんを蘇生させること』さ」
そのラウンダバウトの声は、今度こそ仮面の少年の耳には届いていなかった。
傍目にも一目瞭然な程に、そいつは呆然としていた。
「……そう、あたしは待っていた。こいつが、あたしに、その『能力』を使うときを……小狼くんへの『能力』を解除する、その瞬間、を──」
「小狼、こっちだよ! こっちに克巳がいるよ!」
この緊迫した場面にはまるで不釣合いな、幼い子供のような声が廊下に響き渡った。
仮面の少年は我に返って周囲を見回す。
今さっきまで自分を拘束していた、男なんだか女なんだかよく分からないやつの姿はいつの間にか消えていた。
「さて、僕はこれで失礼させてもらうよ。正直、彼女が心配で気もそぞろだったんだが、とにかくまあ僕の役目は済んだからね」
と、どこからか姿無き声が聞こえた。
「──とんでもない『回り道』だったけれど、これで状況は振り出しに戻った。
そう、この奇妙にして迂遠な状況の『最初』、すなわち……君と小狼くん以外は誰も知ることの無かった、そのファーストコンタクトに、ね」
風に乗って過ぎ去ったその声に促されるように、仮面の少年はある一点を見る。
ちかちかと瞬く蛍光灯に照らされて、がらんとした廊下の突き当たりに、一人の少年が立っていた。
小柄な少女に肩を借りながらも、そいつは真っ直ぐに仮面の少年を見据えていた。
「李小狼……」
仮面の少年がつぶやく一方で、そいつ──小狼は、良く通る澄み切った声を放った。
「『羽』を、返してくれ」
小狼は体重を預けていた少女から身を離し、慎重ともいえるゆっくりとした足取りで歩を前に進めた。
と、ぐらりと身が傾ぐ、慌ててそれを支えた少女が、なにごとかを小狼の耳に囁いた。
「大丈夫です、姫。あなたの『羽』は俺が取り戻します」
そして、再び歩き出す。
「必ず……この命に代えても」
揺ぎ無い足取りでこちらに向かってくる小狼の歩調は、少しずつ速くなっていた。
「『羽』はどこにある? 今も君が持っているのか?」
「……さあな。言うと思うか?」
「君は、あの『羽』がなんだか知ってるのか?」
「知っている。常識では測れないほどの強大な力を、この世界の姿を歪ませるほどの力を秘めた……、
手にしたものの望む世界を生み出す『世界の中心』、だ」
「違う!」
小狼は断固とした口調でそれを否定した。
次の瞬間、小狼は跳んでいた。
空中で振りかぶった脚が、仮面の少年目掛けて振り下ろされようとしていた。
『スタンド』を呼び戻して防御──出来ない。
『ダーク・フューネラル』は南方航の手によってがっちりと封じ込まれていた。
今や疑いようも無く、航は『スタンド力(パワー)』を発現させて『ダーク・フューネラル』の行動の自由を奪っていた。
懐からナイフを取り出して、眼前に迫る小狼の脚に突き立てる──が、小狼はそれに怯む様子も無く、そのまま全力で脚を振り切った。
横に薙ぐ蹴りを受けて、仮面の少年の身体が吹き飛ぶ。
遠のきかけた意識に、小狼の声が届く。
「あれは、サクラの……俺の大切な人の、記憶の欠片なんだ。だから、絶対に返してもらう」
ぱき、と不吉な音がした。
仮面の少年は咄嗟に顔に手をやる。
彼の顔を完璧に覆っていた仮面の一部が、蹴りの衝撃によって欠けていた。
その隙間から除く彼の素顔は……憤怒と恐怖と悲哀と……例えようも無い諸々の感情によって、ぐちゃぐちゃに歪んでいた。
「う、うああ……! 俺の仮面が……『死』の仮面が!」
半ば錯乱気味に仮面の欠けた部分を手で隠す彼は、きっ、と小狼を睨みつけた。
指の間から覗くその瞳は、憎悪によって爛々と光っていた。
「殺す……お前たち、いつか必ず殺してやる! この場にいる全員! この学校の全て! この世界の一人残らず!」
峻烈に迸る彼の声は、さっきまでの冷えた調子と打って変わって、剥き出しの感情が込められていた。
「殺してやる……! 『羽』は俺たちの物だ! 誰にも渡さない!」
そう言い捨て、欠けた仮面を後生大事に顔に押し付けたままの少年は、廊下の窓から身を乗り出して、そのまま落ちていった。
「待て!」
後を追って窓枠に手を掛けた小狼の背中に、軽く、そして柔らかいなにかがぶつかってきた。
「やめて、小狼くん」
「ですが、姫」
そう言いつつも、少女──サクラ──にすがりつかれた小狼の身体からは、これ以上の追跡を行おうという意思が消えていた。
「『羽』は明日も探せるわ……。この学校にあるのは分かったんだもの、きっと見つけられる。……でも」
と、サクラは身を屈め、ナイフが突き刺さったままの小狼の脚にそっと手を当てる。
慌ててそれを助け起こそうとする小狼とサクラの視線が、ふと交わる。
「あなただけがこんなふうに傷つくのは、とても見ていられない、から」
「姫……」
小狼は淡く眼を閉じ、それから頷いた。
「──分かりました。ありがとうございます」
「ううん。お礼を言わなきゃいけないのは、わたし。わたしのせいで、いつもあなたは傷ついている」
「いいんです。俺が望んでやっていることですから」
そうしてしばらく視線を重ねていた二人だったが──。
「ひゅーひゅー! 小狼とサクラ、見つめあってる! ちゅーするの!? ねえ、ちゅーするの!?」
いきなり飛び出してきて半畳を投げ入れた声に、二人の顔が一瞬で真っ赤になる。
その声の主は、白いふかふかのぬいぐるみ──みたいな姿をした魔法生命体『モコナ』だった。
「……と、とにかく手当てをしないと」
「……そ、そうですね」
と、どこかぎこちない調子で会話を交わす小狼とサクラだった。
この緊迫した場面にはまるで不釣合いな、幼い子供のような声が廊下に響き渡った。
仮面の少年は我に返って周囲を見回す。
今さっきまで自分を拘束していた、男なんだか女なんだかよく分からないやつの姿はいつの間にか消えていた。
「さて、僕はこれで失礼させてもらうよ。正直、彼女が心配で気もそぞろだったんだが、とにかくまあ僕の役目は済んだからね」
と、どこからか姿無き声が聞こえた。
「──とんでもない『回り道』だったけれど、これで状況は振り出しに戻った。
そう、この奇妙にして迂遠な状況の『最初』、すなわち……君と小狼くん以外は誰も知ることの無かった、そのファーストコンタクトに、ね」
風に乗って過ぎ去ったその声に促されるように、仮面の少年はある一点を見る。
ちかちかと瞬く蛍光灯に照らされて、がらんとした廊下の突き当たりに、一人の少年が立っていた。
小柄な少女に肩を借りながらも、そいつは真っ直ぐに仮面の少年を見据えていた。
「李小狼……」
仮面の少年がつぶやく一方で、そいつ──小狼は、良く通る澄み切った声を放った。
「『羽』を、返してくれ」
小狼は体重を預けていた少女から身を離し、慎重ともいえるゆっくりとした足取りで歩を前に進めた。
と、ぐらりと身が傾ぐ、慌ててそれを支えた少女が、なにごとかを小狼の耳に囁いた。
「大丈夫です、姫。あなたの『羽』は俺が取り戻します」
そして、再び歩き出す。
「必ず……この命に代えても」
揺ぎ無い足取りでこちらに向かってくる小狼の歩調は、少しずつ速くなっていた。
「『羽』はどこにある? 今も君が持っているのか?」
「……さあな。言うと思うか?」
「君は、あの『羽』がなんだか知ってるのか?」
「知っている。常識では測れないほどの強大な力を、この世界の姿を歪ませるほどの力を秘めた……、
手にしたものの望む世界を生み出す『世界の中心』、だ」
「違う!」
小狼は断固とした口調でそれを否定した。
次の瞬間、小狼は跳んでいた。
空中で振りかぶった脚が、仮面の少年目掛けて振り下ろされようとしていた。
『スタンド』を呼び戻して防御──出来ない。
『ダーク・フューネラル』は南方航の手によってがっちりと封じ込まれていた。
今や疑いようも無く、航は『スタンド力(パワー)』を発現させて『ダーク・フューネラル』の行動の自由を奪っていた。
懐からナイフを取り出して、眼前に迫る小狼の脚に突き立てる──が、小狼はそれに怯む様子も無く、そのまま全力で脚を振り切った。
横に薙ぐ蹴りを受けて、仮面の少年の身体が吹き飛ぶ。
遠のきかけた意識に、小狼の声が届く。
「あれは、サクラの……俺の大切な人の、記憶の欠片なんだ。だから、絶対に返してもらう」
ぱき、と不吉な音がした。
仮面の少年は咄嗟に顔に手をやる。
彼の顔を完璧に覆っていた仮面の一部が、蹴りの衝撃によって欠けていた。
その隙間から除く彼の素顔は……憤怒と恐怖と悲哀と……例えようも無い諸々の感情によって、ぐちゃぐちゃに歪んでいた。
「う、うああ……! 俺の仮面が……『死』の仮面が!」
半ば錯乱気味に仮面の欠けた部分を手で隠す彼は、きっ、と小狼を睨みつけた。
指の間から覗くその瞳は、憎悪によって爛々と光っていた。
「殺す……お前たち、いつか必ず殺してやる! この場にいる全員! この学校の全て! この世界の一人残らず!」
峻烈に迸る彼の声は、さっきまでの冷えた調子と打って変わって、剥き出しの感情が込められていた。
「殺してやる……! 『羽』は俺たちの物だ! 誰にも渡さない!」
そう言い捨て、欠けた仮面を後生大事に顔に押し付けたままの少年は、廊下の窓から身を乗り出して、そのまま落ちていった。
「待て!」
後を追って窓枠に手を掛けた小狼の背中に、軽く、そして柔らかいなにかがぶつかってきた。
「やめて、小狼くん」
「ですが、姫」
そう言いつつも、少女──サクラ──にすがりつかれた小狼の身体からは、これ以上の追跡を行おうという意思が消えていた。
「『羽』は明日も探せるわ……。この学校にあるのは分かったんだもの、きっと見つけられる。……でも」
と、サクラは身を屈め、ナイフが突き刺さったままの小狼の脚にそっと手を当てる。
慌ててそれを助け起こそうとする小狼とサクラの視線が、ふと交わる。
「あなただけがこんなふうに傷つくのは、とても見ていられない、から」
「姫……」
小狼は淡く眼を閉じ、それから頷いた。
「──分かりました。ありがとうございます」
「ううん。お礼を言わなきゃいけないのは、わたし。わたしのせいで、いつもあなたは傷ついている」
「いいんです。俺が望んでやっていることですから」
そうしてしばらく視線を重ねていた二人だったが──。
「ひゅーひゅー! 小狼とサクラ、見つめあってる! ちゅーするの!? ねえ、ちゅーするの!?」
いきなり飛び出してきて半畳を投げ入れた声に、二人の顔が一瞬で真っ赤になる。
その声の主は、白いふかふかのぬいぐるみ──みたいな姿をした魔法生命体『モコナ』だった。
「……と、とにかく手当てをしないと」
「……そ、そうですね」
と、どこかぎこちない調子で会話を交わす小狼とサクラだった。
ラウンダバウトが律儀に屋上から階下の窓へというルートを使って生物室へ入った頃には、十和子は完全に生気を取り戻していた。
床の上にあぐらをかいて、なにかの携帯ゲームに興じていた。
やや呆れながら彼女の前に立つと、「ハイ」と軽いノリで手を振ってきた。
「遠野さん、生きてますか? ……と訊くのも愚問のようですね」
「当たり前でしょ、と言いたいところだけど……はは、さすがに厳しかったわね。もうちょっとで死ぬとこだったかも知んない」
「まったく、無茶をして……」
「でも、あんたの『能力』のお陰よ。礼を言わなきゃならないわね」
「……なぜ、そこで僕の『能力』が?」
結果的に見て、ラウンダバウトが十和子に施した『処置』はほんの気休め程度にしかなっていないと思うのだが──。
その答は一瞬で閃いた。
「まさか、君……小狼くんの身に起こった現象の再現を狙っていたのか!? だから僕に『油断』の暗示を掛けさせたのか!?」
「だって、他に思いつかなかったんだもの。仮死状態とは言え、辛うじて『死んでない』っていう『実例』があったんだから、それに乗らない手はねーわよ」
「じゃあ、僕に言った『自分を追い詰める』うんぬんは!?」
「嘘」
「嘘、って……」
ラウンダバウトは言うべきを知らず、ただ口をぱくぱくさせていた。
「だって、じゃあ、『今からちょっくら死んでみるから協力しろ』って言ったらやってくれた?」
「す、する訳ないだろう!?」
「でしょう?」
ラウンダバウトは悩む。自分は怒るべきなのか、呆れるべきなのか、喜ぶべきなのか、と。
その考えはまだまとまりそうもなかったので、とりあえず、思いついたことを口にした。
「……なら、『目隠し』の意味はなんだったんだい? あれもやはり、自分を追い詰める意図によるものではないと?」
「当たり前でしょーが。なにが悲しくてわざわざ自分に不利なことをしなくちゃなんねーのよ。
いいこと、奈良崎ちゃん。『若いうちの苦労は買ってでもしろ』なーんてのは嘘っぱちなんだから。この世の苦労なんざ、しないに越したこたぁないの。
あれはね、そのままの意味よ。『目』を『隠し』てたの」
「目……? 『目線』かい?」
すると、十和子は黒板に板書きされた問題を解いてみせた生徒を褒めるような感じで、にっこり頷いた。
「そう」
整理すると、こうなる。
十和子は『ダーク・フューネラル』との戦闘に於いて、なにがしかの視覚情報を頼りにしていた。
そしてそれは、『ダーク・フューネラル』に感づかれるとまずいものでもある。
「分からないな……君はなにを『見て』戦っていたんだ?」
「目、よ」
誰のだよ、と突っ込みそうになるが、見るべき『目』を持つものは、あの場には一人しかいなかった。
「南方くんの『目』を見ていたと言うのか?」
「イエス。正確には、あの子の目線とか姿勢とか、その他諸々の反応を、だけどね。
別に攻撃する必要は無かったんだから、大体『どこらへんにいるか』ってことさえ掴んでれば良かった訳よ」
それまで黙って聞いていた航が口を挟む。
「え、するとなんすか。遠野先輩がギリギリの紙一重で避けてたのは、無駄な動きが全く無いからとかじゃなくて──」
「そりゃ、本当の意味でのギリギリ紙一重だったんでしょーね。あたしゃ塚原卜伝かっつーの。そんな器用な避け方出来ません。
つーかなに、そんなにヤバかった? まあ考えてみればそれも当然か。なんとなくの適当で避けてたんだから。
あはは、あたしも運が太いわ」
「あははじゃないだろう──って、ちょっと待ってくれ。今の、おかしくないか?」
「なにがよ?」
「だってそうだろう──目隠しをしたら、君は前が見えないじゃないか! 南方くんの目も姿勢も見える訳がない!」
ラウンダバウトがそう詰め寄ると、十和子は心底呆れ果てたように「はあっ」と息を吐く。
「ねえ奈良崎ちゃん。それマジで言ってんの?」
「そ、それはどういう意味だい?」
十和子は黙って手招きし、それに応じて身を屈めたラウンダバウトの顔にタイが押し付けられた。
次の瞬間、ラウンダバウトは絶句した。
「あんたね、やっぱたまには女の子の格好もしてみるべきだわ」
赤く靄のかかった視界の向こうで、少しだけ輪郭のぼやけた十和子がそう言うのを、ラウンダバウトは見た。
「透け……透けてるじゃないか!」
「そうね。薄い生地なのね」
「ああっ……これは酷い……なんてペテンだ……!」
なぜか、ラウンダバウトは逆上気味に叫んでいた。
その剣幕に、さしもの十和子もたじろぐ。
「な、なによう。そんな興奮しなくてもいいでしょうに」
「…………」
盛大に脱力したラウンダバウトはがっくり膝をつき溜息をもつく。
──だが、その一方では妙に納得していた。
遠野十和子という少女なら、きっと『それ』ができるのだろう、と。
自分の『油断』の暗示が彼女にはあまり効かなかったことを思い出す。
ラウンダバウトが『油断』の暗示を使うのは、それが相手にとって無理のない暗示だからだ。
だが、彼女にとって、『それ』はとても我慢のならないことなのだろう。
『油断』が彼女にとって苦痛や不快を伴うものならば、効き目が薄れるのも当然だった。
「『油断』も『隙』も無いとはまさにこのことだろうな」
そう呟くと、十和子は「?」という風にラウンダバウトを見た。
「いや……なんでもないよ」
「ところで気分はどう?」
意味が分からず、小首を傾げる。
「『正しいことをした』気分だよ」
ラウンダバウトは目を閉じて、その質問について考えてみた。
答えは一つしかないような気がする。
「正直言って……心臓に悪いね。どうやら僕には『正しいこと』が向いていないようだ」
「なに、すぐに慣れるわよ」
あっけらかんと言ってのける十和子に、ラウンダバウトは内心で首を振る。
(それはどうだろうね……ストーブの上に座り続けていたら、熱さに慣れるのか、という問題と同じ次元の話だと僕は思うが)
だがそれを言う気にはなれず、
「あ」
「なによ」
「最初に見たときからずっと思ってたんだが……君、誰かに似てると思ってたんだ」
「へえ、誰?」
「僕のマスターさ」
その「向かうところ敵なし」とでも思っているような無鉄砲さや、強烈を通り越して苛烈とでも言うべき意思の強さ、
それになにより、世界を敵に回しても動じなさそうなその瞳は、まるで彼女の主人たる──。
床の上にあぐらをかいて、なにかの携帯ゲームに興じていた。
やや呆れながら彼女の前に立つと、「ハイ」と軽いノリで手を振ってきた。
「遠野さん、生きてますか? ……と訊くのも愚問のようですね」
「当たり前でしょ、と言いたいところだけど……はは、さすがに厳しかったわね。もうちょっとで死ぬとこだったかも知んない」
「まったく、無茶をして……」
「でも、あんたの『能力』のお陰よ。礼を言わなきゃならないわね」
「……なぜ、そこで僕の『能力』が?」
結果的に見て、ラウンダバウトが十和子に施した『処置』はほんの気休め程度にしかなっていないと思うのだが──。
その答は一瞬で閃いた。
「まさか、君……小狼くんの身に起こった現象の再現を狙っていたのか!? だから僕に『油断』の暗示を掛けさせたのか!?」
「だって、他に思いつかなかったんだもの。仮死状態とは言え、辛うじて『死んでない』っていう『実例』があったんだから、それに乗らない手はねーわよ」
「じゃあ、僕に言った『自分を追い詰める』うんぬんは!?」
「嘘」
「嘘、って……」
ラウンダバウトは言うべきを知らず、ただ口をぱくぱくさせていた。
「だって、じゃあ、『今からちょっくら死んでみるから協力しろ』って言ったらやってくれた?」
「す、する訳ないだろう!?」
「でしょう?」
ラウンダバウトは悩む。自分は怒るべきなのか、呆れるべきなのか、喜ぶべきなのか、と。
その考えはまだまとまりそうもなかったので、とりあえず、思いついたことを口にした。
「……なら、『目隠し』の意味はなんだったんだい? あれもやはり、自分を追い詰める意図によるものではないと?」
「当たり前でしょーが。なにが悲しくてわざわざ自分に不利なことをしなくちゃなんねーのよ。
いいこと、奈良崎ちゃん。『若いうちの苦労は買ってでもしろ』なーんてのは嘘っぱちなんだから。この世の苦労なんざ、しないに越したこたぁないの。
あれはね、そのままの意味よ。『目』を『隠し』てたの」
「目……? 『目線』かい?」
すると、十和子は黒板に板書きされた問題を解いてみせた生徒を褒めるような感じで、にっこり頷いた。
「そう」
整理すると、こうなる。
十和子は『ダーク・フューネラル』との戦闘に於いて、なにがしかの視覚情報を頼りにしていた。
そしてそれは、『ダーク・フューネラル』に感づかれるとまずいものでもある。
「分からないな……君はなにを『見て』戦っていたんだ?」
「目、よ」
誰のだよ、と突っ込みそうになるが、見るべき『目』を持つものは、あの場には一人しかいなかった。
「南方くんの『目』を見ていたと言うのか?」
「イエス。正確には、あの子の目線とか姿勢とか、その他諸々の反応を、だけどね。
別に攻撃する必要は無かったんだから、大体『どこらへんにいるか』ってことさえ掴んでれば良かった訳よ」
それまで黙って聞いていた航が口を挟む。
「え、するとなんすか。遠野先輩がギリギリの紙一重で避けてたのは、無駄な動きが全く無いからとかじゃなくて──」
「そりゃ、本当の意味でのギリギリ紙一重だったんでしょーね。あたしゃ塚原卜伝かっつーの。そんな器用な避け方出来ません。
つーかなに、そんなにヤバかった? まあ考えてみればそれも当然か。なんとなくの適当で避けてたんだから。
あはは、あたしも運が太いわ」
「あははじゃないだろう──って、ちょっと待ってくれ。今の、おかしくないか?」
「なにがよ?」
「だってそうだろう──目隠しをしたら、君は前が見えないじゃないか! 南方くんの目も姿勢も見える訳がない!」
ラウンダバウトがそう詰め寄ると、十和子は心底呆れ果てたように「はあっ」と息を吐く。
「ねえ奈良崎ちゃん。それマジで言ってんの?」
「そ、それはどういう意味だい?」
十和子は黙って手招きし、それに応じて身を屈めたラウンダバウトの顔にタイが押し付けられた。
次の瞬間、ラウンダバウトは絶句した。
「あんたね、やっぱたまには女の子の格好もしてみるべきだわ」
赤く靄のかかった視界の向こうで、少しだけ輪郭のぼやけた十和子がそう言うのを、ラウンダバウトは見た。
「透け……透けてるじゃないか!」
「そうね。薄い生地なのね」
「ああっ……これは酷い……なんてペテンだ……!」
なぜか、ラウンダバウトは逆上気味に叫んでいた。
その剣幕に、さしもの十和子もたじろぐ。
「な、なによう。そんな興奮しなくてもいいでしょうに」
「…………」
盛大に脱力したラウンダバウトはがっくり膝をつき溜息をもつく。
──だが、その一方では妙に納得していた。
遠野十和子という少女なら、きっと『それ』ができるのだろう、と。
自分の『油断』の暗示が彼女にはあまり効かなかったことを思い出す。
ラウンダバウトが『油断』の暗示を使うのは、それが相手にとって無理のない暗示だからだ。
だが、彼女にとって、『それ』はとても我慢のならないことなのだろう。
『油断』が彼女にとって苦痛や不快を伴うものならば、効き目が薄れるのも当然だった。
「『油断』も『隙』も無いとはまさにこのことだろうな」
そう呟くと、十和子は「?」という風にラウンダバウトを見た。
「いや……なんでもないよ」
「ところで気分はどう?」
意味が分からず、小首を傾げる。
「『正しいことをした』気分だよ」
ラウンダバウトは目を閉じて、その質問について考えてみた。
答えは一つしかないような気がする。
「正直言って……心臓に悪いね。どうやら僕には『正しいこと』が向いていないようだ」
「なに、すぐに慣れるわよ」
あっけらかんと言ってのける十和子に、ラウンダバウトは内心で首を振る。
(それはどうだろうね……ストーブの上に座り続けていたら、熱さに慣れるのか、という問題と同じ次元の話だと僕は思うが)
だがそれを言う気にはなれず、
「あ」
「なによ」
「最初に見たときからずっと思ってたんだが……君、誰かに似てると思ってたんだ」
「へえ、誰?」
「僕のマスターさ」
その「向かうところ敵なし」とでも思っているような無鉄砲さや、強烈を通り越して苛烈とでも言うべき意思の強さ、
それになにより、世界を敵に回しても動じなさそうなその瞳は、まるで彼女の主人たる──。
「君はレインに似ている」
わずかに涼しくなった夏の夜の始め、まるで十和子に跪いているような姿勢で、ラウンダバウトはそっと呟いた。