「──さて、ヤコ。昨日のおさらいだ。
吾代の情報によれば、『辺境人(マージナル)』こと香織甲介がいわゆるアンダーグラウンドの世界の住人である可能性は低い。
つまり、貴様の出番が回ってきたという訳だ」
「……え? わたし?」
「そうだ。『表の世界』は貴様のフォロー範囲内だ。
先日、奴等と遭遇した場所を覚えているな? 貴様が意地汚くも飛鳥井全死のオゴリで昼食を貪っている間、
香織甲介とその連れの小娘──荻浦嬢瑠璃といったな──は飛鳥井全死を探して周囲の店舗に聞き込みを行ったフシがある」
「え、そうなんだ」
「豚のごとく目の前の料理に食らいついていた貴様は知らぬだろうが、香織甲介自身がそのように言っているのだ。
貴様はそこにさらに調査を被せろ。香織甲介が飛鳥井全死の足取りを追ったその道を逆に辿り、奴等の活動半径を突き止め──なんだアカネ。
今、我が輩はこの無能で指示待ち人間でイエスマンの下僕に命令を──」
朝っぱらから元気溌剌と、香織さんと全死さんを探し出すための会議(実際はネウロの独演会も同然だったけど)を始めたネウロだったが、
アカネちゃんが自慢の黒髪でちょいちょいとネウロの肩を突き、議事進行を中断させた。
「どうしたの、アカネちゃん」
アカネちゃんはデスクの上のパソコンを指差し──じゃなくて髪差していた。
その動作には、なにか慌しい雰囲気がある。
「まったく、なんだと言うのだ」
わたしとネウロは同時にパソコンの画面を覗き込み──わたしの表情は凍りついた。逆に、ネウロは晴々とした笑顔を浮かべた。
アカネちゃんはメーリングソフトを立ち上げていたのだが、その受信フォルダがこの三十分の間に送られたメールでパンクしていた。
なにかの凶悪なスプリクトでも使っているのだろうか、こうしている間にもどんどんメールが送られてくる。
空恐ろしいことに、ざっとリストを見る限りでは、その件名は一つ一つ異なっている。
そして、だが、件名の最後に付けられた署名はどれも同じだった。
──『飛鳥井全死』。
「な、なによ、これ……」
生理的な嫌悪感に思わず後ずさったわたしのポケットの中で、ケータイの着信を知らせるメロディが鳴る。
掛かってきたのは知らない番号からだった。
手の中でそれは不気味なまでの高音質でシューベルトの『魔王』を奏でている。多分これはネウロが勝手に設定をいじったのだろう。
猛烈に嫌な予感がするのだが、それをこらえて恐る恐る通話ボタンを押して耳に当てた。
「……も、もしもし?」
『あ、弥子ちゃん? わたしわたし』
「今さらオレオレ詐欺は流行遅れでしょう──ってツッコんでる場合じゃねえ! 全死さんですよね!? なんなんですか、あのメールの山!」
『あ、読んでくれた? 嬉しいな』
「いやいやいや、読んでませんよ!? あんな量を読める訳ないでしょ!?」
『そんなことよりどう、今から会わない?』
「そ、そんなことぉ!? そんな一言で片付けないでくださーい! 依頼のメールとか流れちゃってたらどうしてくれるんですか?」
『奢るよ。なんでも好きなもの食べさせてあげる』
「え、ホントですか? だったら最近噂のパスタ屋に──あぶねえぇー! 釣られるところだった!」
「フハハ、自ら餌に喰らいつく浅ましさはむしろ尊敬に値するな。さしもの我が輩もその方面では貴様に負ける」
わたしのケータイに変なコードを刺して通話を傍受するネウロがそんなことを言うが、とりあえず無視する。
「……と、とにかく、こんな変なことはもうしないでください! 怒りますよ!?」
『弥子ちゃんの怒った顔も見てみたいな。だったらもっと怒らせてみようかな?』
「あのですねえ!」
『冗談さ。それで、何時にどこで待ち合わせようか?』
(話……噛み合ってないや……)
ピ。
なんかもうやるせない気持ちになったわたしは、黙って通話を切った。
電話中にそういうことをするのはとても失礼だと分かってはいるが、相手が相手だし場合が場合だ。
(……あ、でも、ネウロの目的を考えるなら今の誘いに乗ったほうが良かったんだよね……)
わたしに食事を奢ることで向こうになんのメリットがあるのかはちょっと分からなかったが、
せっかくのチャンスをフイにしたことでネウロは怒るだろうか。
そう思って背後を振り返ると──ネウロはこの上なく上機嫌だった。
全死さんとのコネクションを断ち切ってしまって腹が立たないのか──そう言いかけたわたしだったが、すぐにその発想の愚かしさを悟る。
パソコンの画面では相変わらずのスピードでメールが舞い込んできていて、その前でアカネちゃんがおろおろしている。
そして再びケータイが『魔王』を鳴り響かせ、事務所の電話もけたたましくベルを鳴らし始めた。
彼女とのつながりは、これっぽちも断ち切れていない。飛鳥井全死との関係は現在進行形で発展中なのだ──。
実にうきうきとした口調で、それこそ歌うように朗々と述べるネウロの声がわたしの耳にこだました。
「ククク……フハハハハ! これは想像以上だ……実に面白いではないか!
こともあろうに『桂木弥子魔界探偵事務所』の営業を妨害するとは!」
「嬉しそうだね……」
ちなみにわたしは少しも嬉しくない。
だがネウロにはそんなことは関係ないようで、びしっと鋭い指先をわたしに突きつけた。
「ヤコよ、分かっているな? この魚を消して逃がすなよ。わざわざ探す手間が省けたのは貴様にとっても幸運だと言わざるを得ない」
……やっぱりこういう展開か。
「我が輩がこの女に世間の礼儀というものを教育してやる」
吾代の情報によれば、『辺境人(マージナル)』こと香織甲介がいわゆるアンダーグラウンドの世界の住人である可能性は低い。
つまり、貴様の出番が回ってきたという訳だ」
「……え? わたし?」
「そうだ。『表の世界』は貴様のフォロー範囲内だ。
先日、奴等と遭遇した場所を覚えているな? 貴様が意地汚くも飛鳥井全死のオゴリで昼食を貪っている間、
香織甲介とその連れの小娘──荻浦嬢瑠璃といったな──は飛鳥井全死を探して周囲の店舗に聞き込みを行ったフシがある」
「え、そうなんだ」
「豚のごとく目の前の料理に食らいついていた貴様は知らぬだろうが、香織甲介自身がそのように言っているのだ。
貴様はそこにさらに調査を被せろ。香織甲介が飛鳥井全死の足取りを追ったその道を逆に辿り、奴等の活動半径を突き止め──なんだアカネ。
今、我が輩はこの無能で指示待ち人間でイエスマンの下僕に命令を──」
朝っぱらから元気溌剌と、香織さんと全死さんを探し出すための会議(実際はネウロの独演会も同然だったけど)を始めたネウロだったが、
アカネちゃんが自慢の黒髪でちょいちょいとネウロの肩を突き、議事進行を中断させた。
「どうしたの、アカネちゃん」
アカネちゃんはデスクの上のパソコンを指差し──じゃなくて髪差していた。
その動作には、なにか慌しい雰囲気がある。
「まったく、なんだと言うのだ」
わたしとネウロは同時にパソコンの画面を覗き込み──わたしの表情は凍りついた。逆に、ネウロは晴々とした笑顔を浮かべた。
アカネちゃんはメーリングソフトを立ち上げていたのだが、その受信フォルダがこの三十分の間に送られたメールでパンクしていた。
なにかの凶悪なスプリクトでも使っているのだろうか、こうしている間にもどんどんメールが送られてくる。
空恐ろしいことに、ざっとリストを見る限りでは、その件名は一つ一つ異なっている。
そして、だが、件名の最後に付けられた署名はどれも同じだった。
──『飛鳥井全死』。
「な、なによ、これ……」
生理的な嫌悪感に思わず後ずさったわたしのポケットの中で、ケータイの着信を知らせるメロディが鳴る。
掛かってきたのは知らない番号からだった。
手の中でそれは不気味なまでの高音質でシューベルトの『魔王』を奏でている。多分これはネウロが勝手に設定をいじったのだろう。
猛烈に嫌な予感がするのだが、それをこらえて恐る恐る通話ボタンを押して耳に当てた。
「……も、もしもし?」
『あ、弥子ちゃん? わたしわたし』
「今さらオレオレ詐欺は流行遅れでしょう──ってツッコんでる場合じゃねえ! 全死さんですよね!? なんなんですか、あのメールの山!」
『あ、読んでくれた? 嬉しいな』
「いやいやいや、読んでませんよ!? あんな量を読める訳ないでしょ!?」
『そんなことよりどう、今から会わない?』
「そ、そんなことぉ!? そんな一言で片付けないでくださーい! 依頼のメールとか流れちゃってたらどうしてくれるんですか?」
『奢るよ。なんでも好きなもの食べさせてあげる』
「え、ホントですか? だったら最近噂のパスタ屋に──あぶねえぇー! 釣られるところだった!」
「フハハ、自ら餌に喰らいつく浅ましさはむしろ尊敬に値するな。さしもの我が輩もその方面では貴様に負ける」
わたしのケータイに変なコードを刺して通話を傍受するネウロがそんなことを言うが、とりあえず無視する。
「……と、とにかく、こんな変なことはもうしないでください! 怒りますよ!?」
『弥子ちゃんの怒った顔も見てみたいな。だったらもっと怒らせてみようかな?』
「あのですねえ!」
『冗談さ。それで、何時にどこで待ち合わせようか?』
(話……噛み合ってないや……)
ピ。
なんかもうやるせない気持ちになったわたしは、黙って通話を切った。
電話中にそういうことをするのはとても失礼だと分かってはいるが、相手が相手だし場合が場合だ。
(……あ、でも、ネウロの目的を考えるなら今の誘いに乗ったほうが良かったんだよね……)
わたしに食事を奢ることで向こうになんのメリットがあるのかはちょっと分からなかったが、
せっかくのチャンスをフイにしたことでネウロは怒るだろうか。
そう思って背後を振り返ると──ネウロはこの上なく上機嫌だった。
全死さんとのコネクションを断ち切ってしまって腹が立たないのか──そう言いかけたわたしだったが、すぐにその発想の愚かしさを悟る。
パソコンの画面では相変わらずのスピードでメールが舞い込んできていて、その前でアカネちゃんがおろおろしている。
そして再びケータイが『魔王』を鳴り響かせ、事務所の電話もけたたましくベルを鳴らし始めた。
彼女とのつながりは、これっぽちも断ち切れていない。飛鳥井全死との関係は現在進行形で発展中なのだ──。
実にうきうきとした口調で、それこそ歌うように朗々と述べるネウロの声がわたしの耳にこだました。
「ククク……フハハハハ! これは想像以上だ……実に面白いではないか!
こともあろうに『桂木弥子魔界探偵事務所』の営業を妨害するとは!」
「嬉しそうだね……」
ちなみにわたしは少しも嬉しくない。
だがネウロにはそんなことは関係ないようで、びしっと鋭い指先をわたしに突きつけた。
「ヤコよ、分かっているな? この魚を消して逃がすなよ。わざわざ探す手間が省けたのは貴様にとっても幸運だと言わざるを得ない」
……やっぱりこういう展開か。
「我が輩がこの女に世間の礼儀というものを教育してやる」
「ほんとにもう……全死さんは世間の礼儀というものを勉強したほうがいいと思いますよ」
「馬鹿。そんなもの、とっくに履修済みさ」
「とてもそうは見えませんけどね。スパムメールを送りつけるどの辺りが礼儀に適ってるんですか。それからイタ電も」
「なに、こんなのはただの威力偵察だ。これで相手の出方を見てから本格的に対策を練るんだよ」
「それならそれで、もう少し穏便にやったらいいんじゃないですか? これじゃ無駄に相手を警戒させるだけじゃないですか」
大学の教室で演劇史の授業のノートを取りながら、俺は全死の言葉に耳を傾けていた。
俺は真面目な学生なので、授業はきちんと受けている。全死の話はほぼ右から左である。
だから仮になにか意見を求められたら答えようがないのだが、全死は他人の意見を求めるような謙虚な人物ではないので、その心配は無用だった。
ついでに言うと全死はこの大学の学生ではない。ならなぜここにいるのか。その疑問に答えられる者はどこにもいない。
まあ、大学というものは全死みたいな不審人物すら許容できる懐の広さを持った機関であるということははっきりしている。
「全死さんはデリカシーという言葉を知ってますか」
「え? 知ってるよ? 珍味のことだろう?」
「それはデリカッセンです。──参考までにお聞きしますが、『役不足』の意味は把握していますか?」
「四飜縛りなのにタンピンドラ一でロンするような馬鹿のことだろ?」
「……はい、もう結構です」
「馬鹿。そんなもの、とっくに履修済みさ」
「とてもそうは見えませんけどね。スパムメールを送りつけるどの辺りが礼儀に適ってるんですか。それからイタ電も」
「なに、こんなのはただの威力偵察だ。これで相手の出方を見てから本格的に対策を練るんだよ」
「それならそれで、もう少し穏便にやったらいいんじゃないですか? これじゃ無駄に相手を警戒させるだけじゃないですか」
大学の教室で演劇史の授業のノートを取りながら、俺は全死の言葉に耳を傾けていた。
俺は真面目な学生なので、授業はきちんと受けている。全死の話はほぼ右から左である。
だから仮になにか意見を求められたら答えようがないのだが、全死は他人の意見を求めるような謙虚な人物ではないので、その心配は無用だった。
ついでに言うと全死はこの大学の学生ではない。ならなぜここにいるのか。その疑問に答えられる者はどこにもいない。
まあ、大学というものは全死みたいな不審人物すら許容できる懐の広さを持った機関であるということははっきりしている。
「全死さんはデリカシーという言葉を知ってますか」
「え? 知ってるよ? 珍味のことだろう?」
「それはデリカッセンです。──参考までにお聞きしますが、『役不足』の意味は把握していますか?」
「四飜縛りなのにタンピンドラ一でロンするような馬鹿のことだろ?」
「……はい、もう結構です」
演劇史の講義が終わると次の講義までは間があるので、在籍している思想インフラ研究会の部室で時間をつぶすことにした。
なんのつもりか、そこに全死ものこのこ付いて来た。俺としては一人で考え事に耽りたかったのだが、生憎俺には全死の行動を制限する能力がない。
しかしそれもある意味杞憂というか、無駄な思い煩いに終わった。
部室には嬢瑠璃が待ち構えていたからだ。
「どうした、ここは君みたいな中学生の来るところじゃないぞ」
「わたしはもう学校には通っていません」
「ああ……そうだったな。いつもセーラー服着てるから、たまにそのことを忘れるよ」
「これは全死さんの趣味です」
と、嬢瑠璃は胸元のタイをちょっと持ち上げてみせた。
趣味、ね。
無理やり学校を辞めさせたくせに未だに学生服を着せ続けているとは、まったくもってけしからんというかいい趣味をしていると思う。
「いい趣味してますね」
なにを勘違いしたのか、全死は得意そうに薄い胸を張った。
「だろう?」
「褒めてませんから。悪しからず。──で? 君はなんの用なんだ?
君も全死さんみたいに意味も無く人の生活エリアに土足で踏み込む遊びに目覚めたのか?」
俺が皮肉交じりにそう言ってやると、嬢瑠璃は不思議なものでも見るように首をわずかに傾けた。
「残念ですが、わたしもまだ全死さんのレヴェルには到達できていません。本日お伺いしたのは、貴方に情報をお持ちする為です」
「情報? もしかして、俺が殺した『人違い』の件か?」
「はい。ですが、もったいぶるほどの情報ではありません。一般的な社会人なら誰でも知りえるような内容です。
香織さんは新聞をお読みにならないんですか? すでに警察が被害者の名前を公表していますよ」
かすかに見下した色を瞳に宿らせ、嬢瑠璃は四つ折にした新聞を俺に差し出した。
「それはまあ読むけど、舐めるようには読まないから見落としだって当然あるさ。自分の殺人を新聞で確認する習慣はないしな」
弁解する必要はまるで感じないが、社交上の儀礼としてそんな言い訳を口に載せ、新聞を受け取る。
「結論から申し上げますと、貴方が殺したのはやはり有栖川健人ではありません。被害者は有栖川健人の双子の妹で、名は──」
なんのつもりか、そこに全死ものこのこ付いて来た。俺としては一人で考え事に耽りたかったのだが、生憎俺には全死の行動を制限する能力がない。
しかしそれもある意味杞憂というか、無駄な思い煩いに終わった。
部室には嬢瑠璃が待ち構えていたからだ。
「どうした、ここは君みたいな中学生の来るところじゃないぞ」
「わたしはもう学校には通っていません」
「ああ……そうだったな。いつもセーラー服着てるから、たまにそのことを忘れるよ」
「これは全死さんの趣味です」
と、嬢瑠璃は胸元のタイをちょっと持ち上げてみせた。
趣味、ね。
無理やり学校を辞めさせたくせに未だに学生服を着せ続けているとは、まったくもってけしからんというかいい趣味をしていると思う。
「いい趣味してますね」
なにを勘違いしたのか、全死は得意そうに薄い胸を張った。
「だろう?」
「褒めてませんから。悪しからず。──で? 君はなんの用なんだ?
君も全死さんみたいに意味も無く人の生活エリアに土足で踏み込む遊びに目覚めたのか?」
俺が皮肉交じりにそう言ってやると、嬢瑠璃は不思議なものでも見るように首をわずかに傾けた。
「残念ですが、わたしもまだ全死さんのレヴェルには到達できていません。本日お伺いしたのは、貴方に情報をお持ちする為です」
「情報? もしかして、俺が殺した『人違い』の件か?」
「はい。ですが、もったいぶるほどの情報ではありません。一般的な社会人なら誰でも知りえるような内容です。
香織さんは新聞をお読みにならないんですか? すでに警察が被害者の名前を公表していますよ」
かすかに見下した色を瞳に宿らせ、嬢瑠璃は四つ折にした新聞を俺に差し出した。
「それはまあ読むけど、舐めるようには読まないから見落としだって当然あるさ。自分の殺人を新聞で確認する習慣はないしな」
弁解する必要はまるで感じないが、社交上の儀礼としてそんな言い訳を口に載せ、新聞を受け取る。
「結論から申し上げますと、貴方が殺したのはやはり有栖川健人ではありません。被害者は有栖川健人の双子の妹で、名は──」
「被害者の名前は有栖川恵。十七歳。近辺の私立校に通う高校生だ」
笹塚衛士は警視庁捜査一課に所属する刑事である。
彼はつい先日発生した通り魔事件の捜査についての会議に出席していた。彼もこの事件を担当する捜査員に任じられたのだ。
そして今、捜査員の認識を統一するために説明を行っているのが、彼の上司であり本件の捜査本部を指揮する笛吹直大警視である。
「死亡推定時刻は深夜の二十三時頃から前後一時間。今のところ目撃証言は無い──聞いてるのか笹塚! 寝るな!」
「……起きてますし聞いてます。すいませんね、どうも徹夜明けはテンションが低くて」
すらりと伸びた腕を力なく振って答えると、笛吹はまだ不服そうに笹塚を睨んでいたが、咳払いをひとつして説明に戻った。
それらの情報をしっかりと記憶に刻み込む一方で、笹塚の脳は別のことをも考えていた。
(死亡推定時刻は二十三時頃、か……)
その一点が彼の意識に引っ掛かる。
それは、彼の知り合いであり、彼の良き協力者である『探偵』桂木弥子が不審な連絡を寄越した時刻と一致してた。
(まさかとは思うが……弥子ちゃん、事件現場に遭遇してるんじゃないだろーな……あの子、妙にトラブル体質だからな……)
可能性は低いだろうが、彼女のこれまでの行状を顧みるに、決して否定できない部分もある。
(ま、この会議がはけたら軽く電話してちょろっと探りを入れてみるか……)
そんなことを考えながら隣を見ると、後輩の石垣筍がなにかのプラモデルを鋭意製作中だった。
「…………」
こいつは近いうちにしばく必要がある。
とりあえずそのプラモデルは床に投げ捨てて踏み潰した。
「ああっ! 宇宙戦闘機(コスモファイター)『マバロハーレイ』があああぁぁっ! 酷いですよ先輩! 俺がなにをしたって言うんですか!?」
「いや……今はなにかしないとマズいだろ。メモとか」
大の男がプラモデルごときで涙目というのも情けない話だが、その男泣きに免じてそれ以上の折檻は止めておくことにする。
そうこうしているうちに、捜査会議も締めの段階に入っていた。
会議室の前方の壇上に立つ笛吹が捜査員に向かって檄を飛ばしていた。
笹塚はそういう熱いノリは嫌いではないが、いかんせん身体が受け付けない。
煙草に火をつけてそれを聞き流す。
窓の外はいい天気だった。
笹塚衛士は警視庁捜査一課に所属する刑事である。
彼はつい先日発生した通り魔事件の捜査についての会議に出席していた。彼もこの事件を担当する捜査員に任じられたのだ。
そして今、捜査員の認識を統一するために説明を行っているのが、彼の上司であり本件の捜査本部を指揮する笛吹直大警視である。
「死亡推定時刻は深夜の二十三時頃から前後一時間。今のところ目撃証言は無い──聞いてるのか笹塚! 寝るな!」
「……起きてますし聞いてます。すいませんね、どうも徹夜明けはテンションが低くて」
すらりと伸びた腕を力なく振って答えると、笛吹はまだ不服そうに笹塚を睨んでいたが、咳払いをひとつして説明に戻った。
それらの情報をしっかりと記憶に刻み込む一方で、笹塚の脳は別のことをも考えていた。
(死亡推定時刻は二十三時頃、か……)
その一点が彼の意識に引っ掛かる。
それは、彼の知り合いであり、彼の良き協力者である『探偵』桂木弥子が不審な連絡を寄越した時刻と一致してた。
(まさかとは思うが……弥子ちゃん、事件現場に遭遇してるんじゃないだろーな……あの子、妙にトラブル体質だからな……)
可能性は低いだろうが、彼女のこれまでの行状を顧みるに、決して否定できない部分もある。
(ま、この会議がはけたら軽く電話してちょろっと探りを入れてみるか……)
そんなことを考えながら隣を見ると、後輩の石垣筍がなにかのプラモデルを鋭意製作中だった。
「…………」
こいつは近いうちにしばく必要がある。
とりあえずそのプラモデルは床に投げ捨てて踏み潰した。
「ああっ! 宇宙戦闘機(コスモファイター)『マバロハーレイ』があああぁぁっ! 酷いですよ先輩! 俺がなにをしたって言うんですか!?」
「いや……今はなにかしないとマズいだろ。メモとか」
大の男がプラモデルごときで涙目というのも情けない話だが、その男泣きに免じてそれ以上の折檻は止めておくことにする。
そうこうしているうちに、捜査会議も締めの段階に入っていた。
会議室の前方の壇上に立つ笛吹が捜査員に向かって檄を飛ばしていた。
笹塚はそういう熱いノリは嫌いではないが、いかんせん身体が受け付けない。
煙草に火をつけてそれを聞き流す。
窓の外はいい天気だった。
「えー、さて……最後になってしまったが、諸君らに紹介しておきたい人物がいる」
(…………?)
五本目の煙草に火を付けようとしていた笹塚は、その手を止めて笛吹を注視する。
「特例ではあるが、今回は私の他に彼女が本件の指揮を取る」
(『彼女』ってことは女性か……)
「もちろん指揮権は私にある。捜査方針は全て私が決定する。だが、現場では彼女の指示に従ってもらいたい」
笛吹はそこで、少しばかり言葉を切った。まるでなにかを躊躇っているようだった。
そうした煮え切らなさは、切れ者で知られる彼には似つかわしくない態度だったので、笹塚は少しだけ訝しく感じる。
「ええい、くそ、なんで私が──紹介しよう、虚木藍警部補だ。……入りたまえ、虚木くん」
笛吹の声に応じて、会議室のドアが開け放たれた。
そこに現れた人物を見て、その場の捜査員のほぼ全員が「こいつはとんでもないやつがやってきた」という感想を抱く。
誰も一声も発しなかった。笹塚もぽかんと口を開け、くわえ煙草を落としそうになる。
その中で、空気の読めない石垣が、ありったけの、心からの歓声を上げた。
「うわー! すっげえー!!」
こつこつ、と靴音を響かせながら笛吹に近づく彼女へ、石垣は失礼にも興奮気味に指を差して叫ぶ。
「メイドさんだ!」
(お前、ストレートすぎるだろ!)
捜査員全員の内心での総ツッコミなど気にも留めず、石垣は「すげえすげえ」とはしゃいでいた。
しかし──その通りだった。
丈の短い黒のワンピースの下には過剰なレースで装飾された純白のシャツを着込み、
その上には見ていて恥ずかしいくらいフリフリのフリルエプロンを身にまとっている。
背中まで伸びるストレートヘアの天辺には、やはり過剰なフリルのカチューシャがちょこんと乗っかっていた。
どこからどう見てもメイドさんである。
「皆様、お初にお目にかかります。わたくし、虚木藍と申します」
そう名乗って、メイドさんは優雅にお辞儀をした。
さらに優雅な動作で身を起こした彼女は、見定めたように笹塚に視線を合わせた。
「あなたが笹塚さんですね? ご活躍はかねがね耳にしております」
いきなり名指しされて笹塚はちょっと驚くが、ご指名とあればシカトもできない。
だるさを訴える手足に活を入れてのっそりと立ち上がった。
「どーも、笹塚です。……あー、と……どこかの洋館に潜入捜査でもしてたんですかね?」
周囲の「服装にツッコめ!」という無言のプレッシャーに負け、笹塚は一応聞いてみた。
「いいえ。これは私服です」
「……そりゃ失礼」
さも当然のように堂々と答えられたので、笹塚にはそれ以上の追求が出来なかった。
「あ、そうそう。わたくし、貴方にお願いしたいことがあるのです」
虚木は胸の前でぽんと手を打ち合わせた。
タイトな服装に絞られて強調された彼女の胸が、その動きに合わせて大きく左右に揺れた。
「頼み……?」
笹塚はつい眉根を寄せる。
いくら階級が上で本件の指揮者で女性でおまけに美人でも、
初対面の相手になにかを頼まれて二つ返事で引き受けるほど、自分が男気に溢れた人間でないことは自覚していた。
「はい」
と、彼女は笹塚の耳元にまで口を寄せる。かすかに上品な香水の香りがした。
「あなたのお知り合いでいらっしゃる、可愛い探偵さんを是非ともご紹介いただきたいのです」
「なんだって……?」
問い返すと、虚木藍警部補はにこやかに微笑んだ。
「是非ともよしなに」
(…………?)
五本目の煙草に火を付けようとしていた笹塚は、その手を止めて笛吹を注視する。
「特例ではあるが、今回は私の他に彼女が本件の指揮を取る」
(『彼女』ってことは女性か……)
「もちろん指揮権は私にある。捜査方針は全て私が決定する。だが、現場では彼女の指示に従ってもらいたい」
笛吹はそこで、少しばかり言葉を切った。まるでなにかを躊躇っているようだった。
そうした煮え切らなさは、切れ者で知られる彼には似つかわしくない態度だったので、笹塚は少しだけ訝しく感じる。
「ええい、くそ、なんで私が──紹介しよう、虚木藍警部補だ。……入りたまえ、虚木くん」
笛吹の声に応じて、会議室のドアが開け放たれた。
そこに現れた人物を見て、その場の捜査員のほぼ全員が「こいつはとんでもないやつがやってきた」という感想を抱く。
誰も一声も発しなかった。笹塚もぽかんと口を開け、くわえ煙草を落としそうになる。
その中で、空気の読めない石垣が、ありったけの、心からの歓声を上げた。
「うわー! すっげえー!!」
こつこつ、と靴音を響かせながら笛吹に近づく彼女へ、石垣は失礼にも興奮気味に指を差して叫ぶ。
「メイドさんだ!」
(お前、ストレートすぎるだろ!)
捜査員全員の内心での総ツッコミなど気にも留めず、石垣は「すげえすげえ」とはしゃいでいた。
しかし──その通りだった。
丈の短い黒のワンピースの下には過剰なレースで装飾された純白のシャツを着込み、
その上には見ていて恥ずかしいくらいフリフリのフリルエプロンを身にまとっている。
背中まで伸びるストレートヘアの天辺には、やはり過剰なフリルのカチューシャがちょこんと乗っかっていた。
どこからどう見てもメイドさんである。
「皆様、お初にお目にかかります。わたくし、虚木藍と申します」
そう名乗って、メイドさんは優雅にお辞儀をした。
さらに優雅な動作で身を起こした彼女は、見定めたように笹塚に視線を合わせた。
「あなたが笹塚さんですね? ご活躍はかねがね耳にしております」
いきなり名指しされて笹塚はちょっと驚くが、ご指名とあればシカトもできない。
だるさを訴える手足に活を入れてのっそりと立ち上がった。
「どーも、笹塚です。……あー、と……どこかの洋館に潜入捜査でもしてたんですかね?」
周囲の「服装にツッコめ!」という無言のプレッシャーに負け、笹塚は一応聞いてみた。
「いいえ。これは私服です」
「……そりゃ失礼」
さも当然のように堂々と答えられたので、笹塚にはそれ以上の追求が出来なかった。
「あ、そうそう。わたくし、貴方にお願いしたいことがあるのです」
虚木は胸の前でぽんと手を打ち合わせた。
タイトな服装に絞られて強調された彼女の胸が、その動きに合わせて大きく左右に揺れた。
「頼み……?」
笹塚はつい眉根を寄せる。
いくら階級が上で本件の指揮者で女性でおまけに美人でも、
初対面の相手になにかを頼まれて二つ返事で引き受けるほど、自分が男気に溢れた人間でないことは自覚していた。
「はい」
と、彼女は笹塚の耳元にまで口を寄せる。かすかに上品な香水の香りがした。
「あなたのお知り合いでいらっしゃる、可愛い探偵さんを是非ともご紹介いただきたいのです」
「なんだって……?」
問い返すと、虚木藍警部補はにこやかに微笑んだ。
「是非ともよしなに」