SS暫定まとめwiki~みんなでSSを作ろうぜ~バキスレ 脳噛ネウロは間違えない 50-1


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【常】─I was Born to Kill─


 この世界は謎に満ちている、と思う。
 ──だからこそ、こいつはこの世界にやってきたのだから。

『ペロ……これは青酸カリ!』
 わたしの目の前に大迫力で展開された銀幕の向こう側の世界で、身体は子供頭脳は大人な名探偵が深刻そうな口調でそう告げていた。
「そんなもん舐めたら普通は死ぬんじゃない……?」
 わたしは膝に抱えたLLサイズのポップコーンを頬張りながら、たった一つの真実を求め真っ赤な蝶ネクタイが映える不審人物に向けて小声でツッコミを入れた。
 その次の瞬間、後頭部に常軌を逸した力が加えられた。
 なす術も無く、わたしの頭部は膝の上のバケツ並みの紙容器に押し込められ、顔面が満遍なく醤油バター味で味付けされた。
「はぶっ!?」
「黙れ」
 なおも万力のような怪力でわたしの頭を押さえつけながら、そいつはひどく涼しげに言った。
「貴様の下らぬさえずりのせいでせっかくの台詞を聞き逃したではないか」
 言っている間にも、わたしの首から上とポップコーンの器の底との距離がどんどん縮まってゆく。
 必然的にわたしの顔面と容器に詰め込まれたポップコーンは容赦なく押し潰されているわけだが、こいつはそんなことなどお構いなしのようだった。
「それに──青酸カリそれ自体は毒でもなんでもない。人間の胃酸と化学反応を起こすことによって、世にも恐ろしい猛毒となるのだ」
 せっかくのトリビアなのだが、正直言って、わたしはそれどころではなかった。
 ──だって、山盛りのポップコーンに顔を埋めて窒息死寸前だったのだから。
 悲鳴を上げようとしても、口の中にまでポップコーンが詰まってしまって声にならない。
(人生の最後は食べ物に囲まれて死ぬのが夢だけど乾き物オンリーっていうのは嫌だ! せめて飲み物をー!)
「むぐ、むー!」
 わたしは全身をばたばたさせて、今まさにわたしに引導を渡そうとしている相手に向かって窮状を訴えるが、
頭蓋骨をがっちりつかんだその手が緩む気配は無かった。
 身体中の力を振り絞ってその縛めに抗おうとしても、常識外れの圧力がわたしの頭を直径二〇センチの円筒形に押し込めてびくともしない。
 こいつに単純な力勝負を挑んでも勝ち目が無いのは、火を見るより明らかだった──なぜなら、『こいつ』は人間ではないのだから。
「ふむ? いきなり抵抗が失せたな。死んだのか? 憐れ、たかだか菓子ごときに生き埋めになるのが貴様の末路か。
まあ、貴様らしいと言えば貴様らしいな。安心しろ、墓には毎年ポップコーンとやらを供えてやる」
 などと、なんの悪びれもの無い言葉が頭上から響いてくる。
「誰が死ぬか! しかも死因の凶器をお供えするってどんだけの嫌がらせだよ!?」
 わたしは叫び、紙製の容器を引きちぎって一分三十秒ぶりに新鮮な空気を吸った。
「ほう、まさか自力で脱出するとはな。中身はどうした?」
「食べたさ! そりゃもう死にもの狂いでね!」
 膝にぱらぱらと落ちた食べ残しのポップコーンのカスを払い、乱暴に言い返す。
「もう! いきなりなにすんのよ、わたしがなにしたっての?」
 油でべたべたになった顔面をウェットティッシュで拭きながら恨めしさを込めて呟くと、
「おお、思い出した」
 そいつはぽんと手を打ち、
「さっきから騒々しいぞ。奴隷の分際で我が輩の芸術鑑賞を妨げるとは許しがたい」
 強烈なボディーブローをわたしのみぞおちに叩き込んだ。
 ぐぼごぼごほ、と変な呼吸をするその横で、そいつはもう何事も無かったかのように映画の世界に没頭している。
 わたしは釈然としない気持ちで、その横顔を睨みつけた。
(てゆーか、アンタが騒ぎを大きくしてるんじゃん……)

『そうか……分かったぞ! おっちゃん、ゴメン!』
 スクリーンの中ではすでにクライマックスシーンが始まっているようだった。
 陸の孤島となった洋館で起こった連続殺人の犯人を暴くべく、主人公の男の子が傀儡の探偵に麻酔銃を撃ち込んでいる。
(……なんか、身につまされる話だな)
 映画の内容にそんな感想を抱きながらふと横を見、思わず息を呑んだ。
 隣の『そいつ』は、いつもの怜悧な無表情をわずかに緩ませ、うっとりとしたような面持ちで銀幕に見入っていた。
 それだけならまだしも──そいつは口元から鋭い牙をのぞかせ、涎を垂らしていたのだ。
 それはそう、まるで、わたしがテレビの美食番組を見ているときにそうするように。
(ミステリのアニメを観てそんな風になるのは、世界広しと言えどアンタくらいなモンだろーけどね)
 やれやれ、と首を振り、遅ればせながらわたしも大人しく映画の世界に浸ることを決意する。
 そして、九十八個目のLLサイズのポップコーンを膝の上に置き、思い切り頬張った。
「おい、あの子まだ食べる気だぜ」「さっき売店のお姉さんが泣いてたぞ。『もう明日の分の在庫まで消えた』って」「くそう、気になって映画どころじゃねーよ」
 などといった囁きが背後の席から聞こえてきたような気がしないでもないが、理性の力で無視する。
『そう……犯人はあなたです!』
 ポップコーンの醤油バター味に舌鼓を打つわたしの目の前で、今、殺人事件の謎が解かれようとしている。
「見るがいい、ヤコ。虚構の産物と言えど、『謎』が解かれる瞬間を目の当たりにするのはやはり心が躍るものだな」
「興奮しすぎて正体を現さないでよ、ネウロ」

 『そいつ』の名前は脳噛ネウロ。
 人間ではない。人の世ならぬ魔界の住人であり、『謎』を主食とする極めて特異な存在である。
 魔界の『謎』を解き(たべ)尽くしてしまったネウロは、『謎』を求めて人間の世界へとやって来た。
 そして不運にもネウロとファーストコンタクトを果たしてしまったわたし、桂木弥子を傀儡の探偵と仕立て上げ、
自分はその助手に収まることで、数々の事件を解決に導いている。
 事件の『謎』を解くことで解放される『悪意』がネウロのエネルギー源であり、それを得るためにネウロは『謎』を解く。
 つまり、ネウロにとって『謎解き』とは『食事』と同義なのだ。
 もしもネウロがこの世界の『謎』をも解き(くい)尽くしてしまったら、そのときこの世界は一体どうなってしまうのだろうか。
 それは誰にも分からない。少なくとも、わたしには想像もつかない。
 ただ一つ言えることは、
 この世界は謎に満ちている──今は、まだ。


 この世界は謎に満ちている、と思う。
 だからなんだと訊かれても困る。それはただの感想であり、それ以上の意味はないからだ。
 謎を解くのは俺の仕事ではない。(かと言って俺が謎を解かなくてもいい理由にはならないが。解くか解かないかは単に個々人の意志の問題だ)

 初夏も半ばに差し掛かったある日の午後、退屈な大学の授業を終え帰宅したとき、ワンルームのドアノブが開錠されていることに気がついた。
 俺は出かける前にはちゃんと鍵をかける習慣がある。かけ忘れ、ということは有り得ない。こと『習慣』という行為に関して、俺は常に徹底している。
 つまり、俺以外の何者かが俺の意向を無視し、意図的に且つなんらかの手段で鍵を開けたということだ。
 そして、その条件に該当する可能性と言えば──ここまで考えて、面倒になったので思考を打ち切った。
 部屋に誰がいるか、そしてどんな意図と手段でもって不法侵入を果たしたのかは、中に入ればすぐに分かることだ。
 泥棒の可能性も考えないでもなかったし、部屋の住人の登場で空き巣が居直り強盗に進化を果たすということも十分にありそうな話だが、
もし仮にそうだとしても俺にとってはなんら脅威ではない。
 だから俺はなんの躊躇も無くドアを開いた。まず、隙間からひんやりとした空気がまず溢れ出してきた。
 図々しくも侵入者は冷房を付けているようだ。もちろんこれは俺が出かける前に空調を消す、という習慣に基づいた仮定だ。
 わずかに注意をみなぎらせてドアを全開にし、そして俺は大仰にため息を付いた。
 よりにもよってこいつが侵入者だとは──
ある程度予想の範囲内だが、まったくの話、泥棒のほうがまだしもましだった。警察でもなんでも呼んで追い返せるからだが。
「──全死さん。俺の部屋でなにをしているんですか」
 たいして広くも無いワンルームの中心に、そいつは腰に両手を当てて仁王立ちしていた。
「よう、辺境人(マージナル)。調子はどうだい?」
「さっきまで絶好調でしたが今は絶不調ですよ。とりあえず土足で部屋に上がるのは止めてくれませんか」
 ノンフレームの眼鏡の奥に光る凶悪な瞳に笑みを浮かべ、そいつ──飛鳥井全死は軽く肩をすくめた。
「なんだ、細かいことを気にするやつだな。そんなんじゃ出世できないぞ」
「俺は学生ですからね。出世とやらに興味はありません」
「ははあ、そうだろうよ。辺境人(マージナル)は考えない、謎を解かない、成長しない、変化しない、そして世界は総てあるがままで我が友──それがお前のモットーだもんな」
「勝手に俺に変なモットーを与えないでください。それから辺境人(マージナル)なんて珍妙な呼び方も」
「馬鹿言うんじゃないよ。わたしはただ、お前の生き様を言語化してるだけだ。
珍妙だと言うならお前の存在自体が珍妙なんだよ。なんならワシントン条約で保護してやってもいいぞ」
「なにを言ってるんですか、もう……」
 ──まったく、泥棒のほうがまだしもましだった。
 飛鳥井全死という女は魔女に似ている。
 内面の話ではない。外見の話だ。
 黒のノースリーブのキャミソールに、下は黒のフレアスカート、西部開拓時代のようなごついベルトを腰に巻いて、足には黒のバンプス、フェルトの鍔付き帽子も黒である。
 魔女と称するにはややワイルドな服装だが、このままワルプルギスの夜に出張してもなんら違和感は無いだろう。
全死のことだから一度や二度くらいはサバトに顔を出してるのかもしれない。(もちろんそんなことは有り得ないことだが)
 で、内面はというと……魔女よりタチが悪いのは確実だろう。
「全死さん、頼みますから靴を脱いでくださいよ。日本家屋の常識を知らないんですか」
「知ってるに決まってるだろうが。そんなことも分からないのか、この愚鈍」
「なら脱いでくださいよ」
「嫌だね」
「駄々をこねないでください。なんの意味があるんですか」
「意味のあることが全てじゃないだろう、辺境人(マージナル)」
「じゃあなんの意味もなく、俺の部屋に不法侵入した挙句勝手に冷房入れてあまつさえ土足だと言うんですか?
……あ、そうだ思い出した。全死さん、どうやってドアの鍵開けたんですか」
「内側からだ」
「はあ?」
「はあ? じゃないよ馬鹿。隣の部屋からベランダ伝いに入って内側から開けたんだよ」
「なんてことするんですか。無茶苦茶ですよ。隣にはなんて言い訳したんですか?」
「ええと……世を忍ぶ仲の恋人だと言ったな、確か」
 思わず天を仰ぐ。二重のリングをなす蛍光灯の一本が切れていた。
「どうしてそういう根も葉もないことを言うんですか」
「別にいいじゃないか。減るもんでもなし」
「俺の信用という隠しバロメータが減ってるんですよ。
全死さん、以前は管理人に妻だと言いましたよね。そして近所の人には俺の妹だとも詐称していたはずですよ」
「ああ……そんなこともあったっけか」
「まるで整合性が取れてないじゃないですか。どう話に折り合いをつけるんです。俺の近所付き合いを根絶させるつもりですか」
 俺の切実な訴えも全死にとってはどこ吹く風のようで、
「そんな瑣末の文脈なんぞどうでもいいだろ」
「どうでも良くないから言ってるんですよ。俺の平穏な日常を破壊しないで下さい」
「あー、うるさいな。話に筋道通せばいいんだろ」
 と全死は犬でも追い払うように手を振り、しばらくぶつぶつとうなった挙句に、
「オナニーだよ」
「は? なに脈絡の無いこと言ってるんですか」
 どうでも良いが、いくら四捨五入すれば三十路とは言え、(一応)若い女がそういう単語を平然と吐くのはどうかと思う。
 恥ずかしいのは俺ではなく全死なので、全死さえなんとも思わなければ別に構わないのだが。
「いやだからさ、あるだろ。語源だよ。えーと、思い出せないがなんか膣外射精がどうのこうのと」
 この際全死の臆面の無さには目を瞑ることにして、言葉の意味だけを掬い上げることに専念する。
「……ああ、『オナンは地に流した』ってやつですか。兄の亡き後に兄嫁を娶った男が、子供を作ることを拒否したって話ですよね」
「そうそれ。兄貴が死んだら、弟は兄貴の嫁さんをもらい受けて兄貴のために子供を作らなきゃいけないんだろ?」
「いわゆるレビテート婚ですね。それで?」
「その逆パターンだよ。お前も相当に鈍いな」
 しばしの時間を費やし、脳内の保存記憶に検索をかける。
「もしかして、ソロレート婚のことを言ってるんですか? 妻が死んだらその妹を娶るんでしたっけ?」
 俺が愚鈍で馬鹿で相当に鈍いことは敢えて否定しないが(もちろん俺は愚鈍でも馬鹿でも相当に鈍くもない)、
それでも全死のロジックラインがおぼろげに見えてきた。
「あー、と、つまり……俺と全死さんはソロレート婚で結ばれた夫婦だと」
「やっと分かったか」
 全死は満足そうに頷き、その凶眼を細めた。
 他の人なら恐怖なり反感を抱きそうな目つきだが、俺としてはそんなことよりさっさとバンプスを脱いで欲しかった。
「……ですが、それで妻と妹はフォローできますが、世を忍ぶってのはどうするつもりです?」
「それこそどうとでもなるだろうが。『お姉様の陰でずっとお慕い申し上げておりました』とかでいいだろ」
「でも、それ、事実無根の嘘ですよね」
「人間、真実だけじゃ生きていけないものさ」
 そう言って全死は薄く笑った。
 全死がこういう埒もない話をするのは機嫌の良い証拠だ。
 俺がその恩恵にまったく与れないというのは誠に遺憾であるが。機嫌が良いときくらい俺に迷惑をかけずにいてもらいたい。
全死の機嫌が悪いときにその被害を一身に受けるのは他ならぬ俺なのだから。
 なにより俺は全死ほど暇ではない。昼間っからそこらへんうろつき回ってる全死とは違い、俺には生活がある。
酔狂もいい加減にして欲しいものだが、言っても無駄だろう。
「……で、そろそろご用向きの程を教えていただきたいものですね」
 靴の件は諦めた。俺が全死に対して強制力を発揮できる状況など皆無だし、そもそも全死は人の言うことなどまったく聞かない。
「用? ああ、用ね。──なあ、いちゃいちゃしようぜ」
 それに対する答えは決まりきってるので即答する。
「嫌ですよ」
 その突き放したような態度(実際突き放しているわけだが)が気に入らないのか、全死はフローリングの床に唾を吐く。
 他人の家でどうしてそんな非常識な真似が出来るのか、ぜひその秘訣を教えて欲しいと思う。素直に感心した。
「なんでだよ。今日はお前の好みに合わせてやる。ホテルでも屋外でもいいぜ?」
「今日だろうが明日だろうがビルの屋上だろうが世界の果てだろうがお断りします。俺は真面目な学生なんです。用件はそれだけですか?」
 再度唾を吐き、全死は忌々しげに舌打ちした。
「ったく……この鈍色鮪が。その愚鈍さは一度死ななきゃ直らないか? まあいいや、残念なことにな、本題は別の所にあるんだよ」
「だったらそれをさっさと言ってください」
「嘆かわしいね。そんなに生き急いでも寿命は縮まないぞ。──辺境人(マージナル)、お前に仕事を頼みたいんだ」
「仕事、ですか。了解」

 時々思う、なぜ俺は、全死のような破滅的な人間と交流を持っているのかと。
 いや──答は分かりきっている。
 それがレギュラーだからだ。
 俺は習慣に忠実に生きている。レギュラーを好み、イレギュラーを遠ざけて日々を送っている。
 全死と付き合っているのも、それが既成事実として成立している習慣だからだ。
 全死の振る舞いや、全死が持ち込む難題はイレギュラーであるが、それを包括するレギュラーとして全死の存在がある。
 全死の奇行に頭を痛める日々も、それが定常化されればそれは単なるルーチンワークのレヴェルにまで落とし込める事象となる。
 そう──習慣に従って生きることで、俺は幸福に近づいていける。
 それはちょうど、飛鳥井全死が自動的に不幸へと直進しているのと同じ確実さで。


 映画館を出ると、月が空のてっぺんに昇っていた。
「あー、食べた食べた。あそこの映画館のポップコーンは知る人ぞ知る逸品なのよねー」
「ふむ……たまには他人が『謎』を解くところを観るのも気晴らしにはなるな」
 わたしとネウロの会話は思いっきり噛み合ってなかったが、満腹でご機嫌のわたしにはあまり気にならなかった。
 繁華街から一本離れた通りは人気がなく、どこかうら寂しい感じがする。
 夏の夜の熱気もここでは少しだけ和らいでいて、たまに涼しい風が頬を掠めている。
「──む?」
 ふと、ネウロが足を止めた。
「なによ、どうしたの?」
 ネウロは答えず、ただじっとビルとビルの隙間の路地を凝視していた。
「ヤコよ、『謎』の気配がするぞ」
 その表情が極めて極端な変化を見せていた。
 口元は裂けて耳まで届こうとしており、奇妙にねじくれた角が後頭部から二本のぞいている。
 普段は爽やかな好青年を装ってはいるが、実は人間以外の存在──魔人であるネウロが、その本性を剥き出しにしかけていた。
「ちょ、ちょっとネウロ! こんなところで!」
 こんな怪物そのまんまなネウロが人の目に付いたなら、きっととんでもない大騒ぎになるだろう。
「ネウロってば! アンタいい加減で通報ぐへぇ」
 小声で、だけど激しくネウロに詰め寄ったわたしのアゴに綺麗なクロスカウンターを決め、ネウロはぼそり呟いた。
「これは確かに上質な『謎』の気配だ……だが、しかしこれは……」
 アスファルトに横たわってこの身の不運を嘆くわたしの視界に、『なにか』が映った。
 ──それは、先ほどからネウロが注視している路地の中ほどにあった。
 二つの人影だった。
「…………?」
 もっとよく見ようと目を凝らしたわたしは、
「────っ!」
 二つの人影、その片方が、拳大の石のようなもので、もう片方の人影を──力いっぱい殴打していた。
 その直撃を受けた影は、頭部のシルエットが──月のように欠けていた。
 頭蓋骨が凹むほどのダメージを受けているようにしか見えない。
 そして、二発、三発。四発目が振り下ろされる前に、その無残な頭に成り果てた被害者は、糸の切れた人形のように地面に臥した。
「ひ──」
 思わず悲鳴を上げかけたわたしの口を、ネウロの手が強引に塞ぐ。
「黙るのだヤコ。今度こそ息一つ漏らしたらその場で目と耳と鼻と口を魔界のボンドで溶接してやるぞ」
(溶接ってボンドの仕事じゃねえ!)
 耳元で囁くネウロに内心でツッコみつつ、必死で息を殺す。
 ──わたしの目の前で、殺人が実行されていた。それは完璧なまでにシンプルで無駄のない殺人だった。
 『謎』の気配がする、とネウロは言った。
 おそらく、この瞬間から『謎』が発生するのだろう。
 人の『悪意』が自己防衛のために構築し、それに守られて高純度に圧縮される、『悪意』の揺籠である『謎』──。
(……あれ?)
 ここで、わたしはあることに気付く。
 加害者が今の殺人を隠蔽するためにトリックを施したところで、その一部始終をネウロが観察していては、
それはネウロにとって『謎』たりえるのか、という疑問に。
 口はネウロに塞がれているので(てゆーかネウロの指先がありえないくらいに尖っていて今にも頬を突き破りそうなのだが)、目顔でそのことを訊ねる。
 ネウロはわたしに一瞬視線をよこし、独り言なのかわたしに言ってるのかよく分からない調子で言う。
「実に奇妙だ……『謎』の気配はあれど、我々の目の前で発生した殺人事件に対して『謎』が発生する様子がない……」
 それはどういう意味なのだろうか。外界から『悪意』を保護する『謎』が発生しないということは、あの殺人者は自分の犯罪行為を隠すつもりがないのだろうか。
 ──いや、それとも、あの人には、もしかして……。
 きらきらと洩れ入るネオンの照り返しを受けて赤黒く光る石を投げ捨て、加害者は周囲を見回した。
 その視線が、わたしの視線とかち合った。それは錯覚だったかもしれない。錯覚だと思いたかった。
「──ふぅ」
 だが、殺人者はわたしに視点を合わせたままで、ため息をついた。まるで「見つかっちゃったか」とでも言いたげな調子で。
 わたしとネウロの背後を一台の車が通り過ぎる。そのライトに照らされて、殺人者の姿が一瞬だけ明るみに浮かび上がった。
 それはどうしようもないくらいに普通な感じの、どこにでもいそうな若い男性──おそらく大学生くらい──だった。
「まいったな。目撃されるのはイレギュラーだ」

 ……これが、『辺境人(マージナル)』こと香織甲介との初めての出会いであり、
 『域外者(アウトサイダー)』飛鳥井全死と出会う切っ掛けであり、
 彼女を巡る奇妙な『謎』の始まりだった。