第三の幕府、江戸幕府。その末期には坂本竜馬や新撰組、薩摩や長州が
己の信念と日本の未来を懸けて戦った。
第二の幕府、室町幕府。その末期には織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らが
己の野望と天下の覇権を懸けて戦った。
そして第一の幕府、鎌倉幕府。その末期、すなわち日本国史上最初の
「幕末の動乱期」においても、前述の坂本竜馬や織田信長たちに劣らぬ
英雄たちが激しい戦いを繰り広げた。
決して譲れぬ思いを胸に、己が信じる何かのために……
煌々と照る満月の明かりがなければ、伸ばした腕の先さえ見えないような深夜の闇。
虫や獣の声、川や滝の音以外は何も聞こえない深い山中。
だが今宵は特別、松明の明かりが辺りを照らし、男たちの争う声が響き渡り、
剣戟の音が満月に届けとばかりに響いている。その中心で、
「ぬんっ!」
剣戟、ではなく拳撃の音が響いた。腰を低く落とした男の拳が、鎧を打ち砕いたのだ。
砕かれた方の武者は、ひとたまりもなく尻餅をつく。そして粉々になった鎧の腹部を見て
冷や汗を流した。その鎧のすぐ下、自身の腹部が無傷なのは、鎧のおかげかそれとも、
「次は手加減しない。その弛んだ腹を貫き臓腑を抉るぞ」
……鎧のおかげではなかったらしい。月光を背負い、武者を見下ろして立つ
その男は、本当に鎧ごと人体を拳で貫くことができる。そう信じさせる気迫と
殺気を漲らせて、男は重く低い声で言った。
「どこの木っ端役人が知らんが、お前の主人に伝えよ。正規の税ならば我々も大人しく
納める。だがお前たちが私服を肥す為の無法徴収ならば、何度でも力ずくで奪い返すと」
さほど大柄ではないが、がっしりとした体躯に粗末な防具を身につけている。長い髪を
夜風になびかせ、意志の強さを現しているかのような鋭い目には闘志と知性が
同居しており、ただの盗賊団の頭とは思えぬ威厳がある。
武者は思い至って、震えながら男を指差した。
「さ、さてはお前か、お前らか! 最近、頻繁に出没する河内悪党(かわちあくとう)
とかいうふざけた連中は!」
「ふざけてなどいない。奪われたものを回収して、元々の持ち主に返しているだけだ」
「ふざけていないというなら賊だ、国賊だ! 畏れ多くも帝の任を受けている我らを……」
武者の言葉が止まった。いつの間にか、鼻の頭に男の拳が触れている。
「……え、拳? いつの間に」
と言った一瞬後、拳が起こした風が遅れて到着し、武者の顔を突き飛ばした。更に
その一瞬後、ぶっ、と音がして武者は鼻血を吹き出す。
「お前ら如き腐れ役人に、帝の名を語る資格などない。今度またそんなことを言って
みろ、頭蓋を壊して脳髄を掻き出すぞ」
「だ、だから、その、我らは、都の、畏れ多くも、みか」
「まだ言うかああぁぁっ!」
と叫び声を上げて憤怒の形相で襲い掛かってきた男に恐れをなし、
「ひいいいいいいいいぃぃっ!」
武者は、腰を抜かしたまま転がるようにして逃げ出した。
周囲で戦っていた双方の部下たちの趨勢も、それで決した。武者の部下たちは雪崩の
ように逃亡、男の部下たちは勝ち鬨を上げて戦利品の荷車に群がっていった。
これでまた、付近の村人たちが少しは救われるだろう。が、所詮は焼け石に水だ。今や、
日本中で腐敗役人たちの腐敗政治で民が苦しめられている。まるで後漢王朝の末期だ。
『とすると、我らは黄巾賊か? いずれ曹操や劉備のような英雄が我らを滅ぼし、
代わって天下を平和に治めてくれるならそれでもいいが……』
残念ながらそんな英雄に心当たりはないし、第一ここは日本だ。日本の主は天皇、つまり
帝であって曹操らのような武士ではない。武士でありながら政を掌握し天下を乱している
鎌倉幕府が滅んで、帝が直接国を治められるようになれば、きっと世は変わるであろうが。
「後醍醐帝は、都では聖王と称えられるほど徳の高いお方と聞く。……お前はどう思う?」
言いながら、男はそばにあった大木の幹に掌を当てた。と、大木の枝が一本残らず
大きく揺れて、無数の葉が千切れて舞い散った。その葉と一緒に、
「と、とっとっ、と!」
小柄な少年が降ってきた。器用に空中回転して、すとんと着地する。
歳は十七、八くらいであろうか。裾を絞った袴に、ゆったりとした白い道着。腰の後ろに、
鍔のない刀を横にして差している。武士ではなさそうだ。旅の武芸者か、あるいは……と
男はいろいろ推察するのだが、少年は何だか楽しそうに、ニコニコ笑っている。
「あはは。いやぁ、凄い技だねお兄さん。唐手(からて)かな?」
「そうだが。そういうお前は何者だ。幕府の手の者か」
「いやいや、そんなんじゃないよ。ただ、恩返しでお兄さんと戦わなきゃならなくてさ」
「何?」
「でも、何だかなぁ。お兄さんがこれほどの使い手だったとは。これじゃ恩返しどころか、
むしろ恩が重なってしまうというか。むむ」
ほりほりと頭を掻いて、少年は困った顔をしている。
「どういう意味だ? 恩返しで戦うだの、恩が重なるだの。話が見えんぞ」
「だからさ。お兄さんほどの使い手と戦うのは、オレにとって楽しいことなんだ……よっと!」
言うが早いか、少年の脚が跳ね上がった。間一髪、男は後退してその蹴りをかわす。間髪
入れず、少年が踏み込んできて拳を繰り出した。男は両腕を交差して受け止めるが、その
凄まじい力に体ごと突き飛ばされてしまう。
只者ではない。男はそう直感し、瞬時に気持ちを切り替えた。やらねばやられる相手だ。
二人の間に、陽炎のような闘気が揺らめく。男の部下たちが、その並々ならぬ気配に
気付いてそちらを見る、と、
「せいっ!」
「ぬんっ!」
男と少年の上段回し蹴りが激突した。強大な力と力がぶつかり合い、周囲につむじ風、
いや竜巻を起こして全てを吹き飛ばす! ……ように見えた。
「なんだ、あの小僧は?」
「お、おい! あいつ、頭と互角にやりあってるぞ!?」
男の部下たちは肝を潰して二人を見守るが、当の二人はそんなこと意に介さず、
「あはは、やっぱ凄いなぁお兄さん」
「お前こそ……な」
相変わらずニコニコしている少年に、男も薄笑いを浮かべて応じた。だがおそらく脛は
内出血している。今と同じ蹴り合いを二、三度やれば、もう立っていられる自信がない。
それなのに、なぜだろうか。この少年と向かい合っていると、妙に心が浮き立つ。乱れた
世も、国の行く末も、何もかも忘れて、このままこうしてずっと戦っていたいような……
「いくよっ、お兄さん!」
少年が、また踏み込んできた。男は素早く反応し、右の拳で迎え撃つ。少年はそれを
潜りながら男の腕を取って、捻り上げながら男に背を向けた。男の肘間接を極めて
肩に担いで、そのまま背負い投げへ。男の肘がミシリと軋んで靭帯が、
「ぬおおぉぉっ!」
男が跳んだ。右腕を取られたまま空中で側転して少年の頭上を越え、捻りを解いて
振りほどいた。着地、と同時に至近距離から左手で目突きを繰り出す! と少年は
上体を逸らして突きをかわしながら前蹴りを放ち、男は目突きを咄嗟に肘落としに
変えてそれを打ち落とした。
少年が後ろに跳んで、間合いを取る。仕切り直しだ。
「あはは……もう、ほんとに、言葉がないよ。想像以上だ、お兄さん」
「無駄口を叩くな。次で終わらせるぞ」
「だね。オレもそのつもりだよ」
これが瞬き二つほどの間、正に瞬間の攻防。二人の、人間離れした戦いを
男の部下たちは身じろぎもできずに見入っていた。
二人の間の空気が、陽炎が、ますます熱く濃く強くなる。互いに必勝必殺を決意し、
拳と脚に気を込めて大きく一歩を……
「そこまで!」
横合いから声が飛んだ。男の部下たちが、男が、少年が、そちらを見る。
「忘れたのか。私はその男の実力を測れといっただけで、殺せとは言ってないぞ」
「……あ、あはは。ごめん。つい」
少年が、一気に元に戻った。また困った顔になって、ほりほりと頭を掻いている。
茂みを掻き分けて出てきたのは、山伏姿の青年。とはいえ本物の山伏ではない
だろう。男には一目で判った。肌が白すぎるし、体格も華奢すぎる。どう見ても、
山野を駆け巡る山伏なんかではない。ただの村人以下、むしろ貴族か何か……貴族?
『まさか。こんな山奥に、お公家様が来られることなど』
「河内悪党の首領だな。私は検非違使長官、日野資朝(ひの すけとも)という」
『っ!? あの、名門の……?』
「お前たちの噂は、都まで響いている。そして勿体無くも帝のお耳に達し、いずれ
幕府打倒の蜂起の際には、ぜひ一軍として迎えたいとの仰せだ」
といって資朝は、一通の書状を広げて見せた。月明かりの下、男は目を凝らして
それを見る……間違いない、本物だ。ということはこのお方は本物の検非違使長官、
つまり帝の言葉、後醍醐天皇の言葉というのも事実!
「か、か、かしこまりましたっ!」
男は顔色を変えて平伏した。後ろにいた部下たちも慌ててそれに倣い、一同土下座。
「我らも、常日頃より現在の幕府のあり方に疑問を感じております! 帝が幕府を
討伐なさるというのであれば、この身命を賭して……たとえこの先百戦百敗しようとも、
この私が生きている限り、必ずや最後には帝に勝利を献じ奉るとお伝え下さい!」
「うむ。その言葉を聞けば、帝もさぞ喜ばれるであろう」
資朝が満足そうに頷いた。その袖をくいくいと引っ張って、少年が不満そうに言う。
「あのさ、盛り上がってるトコごめん。オレ、さっきの続きをしたいんだけど」
「……付き合ってやりたいのは山々だが、それはもうだめだ」
男が顔を上げて少年に答えた。
「帝の命を受けた以上、この命は帝の為にのみ使う道具。お前とやりあえば、おそらく
俺は死ぬまで戦いたくなってしまうだろう。だから、もうお前とはやらん」
「え~! そんなぁ」
「戦が終わり、幕府が倒れ、帝の治世が完成し、平和な世が訪れたら……その時にな」
「あ、それだったら、オレも手伝うよ。で一日も早く戦を終わらせる。いいだろ?」
少年が資朝に問いかけた。資朝は「もちろんだ」と頷く。
「よし、決まりっ」
「決まりって、お前は一体何者なんだ。資朝様の従者か何かか?」
その質問には、資朝が答えた。
「私が山中で大猪に襲われていたところを助けてくれてな。その時の、一撃で獣を
打ち倒した力を見込んで、お前を試す役目と私の護衛を命じたのだ」
「では、資朝様の恩人ということですか」
今度は少年が、ほりほりと頭を掻きつつ答えた。
「いやいや。ただオレは、腹減ってたから焼肉を食おうとしただけで。でも猪一頭じゃ
全然足りなくて、腹減りすぎで目が回って死にそうになってたら、この人が
弁当を分けてくれたんだ。だからオレの恩人。だから恩返しをしようとして、さ」
「うむ。この少年、腰を抜かしてた私の目の前で大猪を撲殺して焼いて食って、
それでも足りないと泣いて、その間ずっと私に気付かなかった様子でな」
「あはは。いやあ、それを言われると」
「……」
どうやらこの少年、馬鹿だ。それも並大抵ではない、かなりの大馬鹿だ。
「ま、まあいい。ではお前は、俺と共に幕府を相手に戦ってくれるというのか?
それはこちらとしては願ってもない、心強い話だが」
「もちろん! だからさ、ぱぱっと戦を終わらせて、もいっぺんやろう、お兄さん!」
少し背伸びして、ぽん、と男の肩を叩く少年の瞳は、無垢で無邪気で。つい先ほど、
修羅のような強さを見せつけたのが嘘のようだ。
あるいは、とんでもない大物なのかもしれない。あるいは、ただの大馬鹿かもしれない。
男は我知らず苦笑しながら、少年に言った。
「何はともあれ、これからよろしく……だな。俺の名は楠木正成。お前は?」
「オレは、やまと」
ほりほりと頭を掻きながら、少年は名乗った。
「陸奥大和だよ。よろしくっ」
己の信念と日本の未来を懸けて戦った。
第二の幕府、室町幕府。その末期には織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らが
己の野望と天下の覇権を懸けて戦った。
そして第一の幕府、鎌倉幕府。その末期、すなわち日本国史上最初の
「幕末の動乱期」においても、前述の坂本竜馬や織田信長たちに劣らぬ
英雄たちが激しい戦いを繰り広げた。
決して譲れぬ思いを胸に、己が信じる何かのために……
煌々と照る満月の明かりがなければ、伸ばした腕の先さえ見えないような深夜の闇。
虫や獣の声、川や滝の音以外は何も聞こえない深い山中。
だが今宵は特別、松明の明かりが辺りを照らし、男たちの争う声が響き渡り、
剣戟の音が満月に届けとばかりに響いている。その中心で、
「ぬんっ!」
剣戟、ではなく拳撃の音が響いた。腰を低く落とした男の拳が、鎧を打ち砕いたのだ。
砕かれた方の武者は、ひとたまりもなく尻餅をつく。そして粉々になった鎧の腹部を見て
冷や汗を流した。その鎧のすぐ下、自身の腹部が無傷なのは、鎧のおかげかそれとも、
「次は手加減しない。その弛んだ腹を貫き臓腑を抉るぞ」
……鎧のおかげではなかったらしい。月光を背負い、武者を見下ろして立つ
その男は、本当に鎧ごと人体を拳で貫くことができる。そう信じさせる気迫と
殺気を漲らせて、男は重く低い声で言った。
「どこの木っ端役人が知らんが、お前の主人に伝えよ。正規の税ならば我々も大人しく
納める。だがお前たちが私服を肥す為の無法徴収ならば、何度でも力ずくで奪い返すと」
さほど大柄ではないが、がっしりとした体躯に粗末な防具を身につけている。長い髪を
夜風になびかせ、意志の強さを現しているかのような鋭い目には闘志と知性が
同居しており、ただの盗賊団の頭とは思えぬ威厳がある。
武者は思い至って、震えながら男を指差した。
「さ、さてはお前か、お前らか! 最近、頻繁に出没する河内悪党(かわちあくとう)
とかいうふざけた連中は!」
「ふざけてなどいない。奪われたものを回収して、元々の持ち主に返しているだけだ」
「ふざけていないというなら賊だ、国賊だ! 畏れ多くも帝の任を受けている我らを……」
武者の言葉が止まった。いつの間にか、鼻の頭に男の拳が触れている。
「……え、拳? いつの間に」
と言った一瞬後、拳が起こした風が遅れて到着し、武者の顔を突き飛ばした。更に
その一瞬後、ぶっ、と音がして武者は鼻血を吹き出す。
「お前ら如き腐れ役人に、帝の名を語る資格などない。今度またそんなことを言って
みろ、頭蓋を壊して脳髄を掻き出すぞ」
「だ、だから、その、我らは、都の、畏れ多くも、みか」
「まだ言うかああぁぁっ!」
と叫び声を上げて憤怒の形相で襲い掛かってきた男に恐れをなし、
「ひいいいいいいいいぃぃっ!」
武者は、腰を抜かしたまま転がるようにして逃げ出した。
周囲で戦っていた双方の部下たちの趨勢も、それで決した。武者の部下たちは雪崩の
ように逃亡、男の部下たちは勝ち鬨を上げて戦利品の荷車に群がっていった。
これでまた、付近の村人たちが少しは救われるだろう。が、所詮は焼け石に水だ。今や、
日本中で腐敗役人たちの腐敗政治で民が苦しめられている。まるで後漢王朝の末期だ。
『とすると、我らは黄巾賊か? いずれ曹操や劉備のような英雄が我らを滅ぼし、
代わって天下を平和に治めてくれるならそれでもいいが……』
残念ながらそんな英雄に心当たりはないし、第一ここは日本だ。日本の主は天皇、つまり
帝であって曹操らのような武士ではない。武士でありながら政を掌握し天下を乱している
鎌倉幕府が滅んで、帝が直接国を治められるようになれば、きっと世は変わるであろうが。
「後醍醐帝は、都では聖王と称えられるほど徳の高いお方と聞く。……お前はどう思う?」
言いながら、男はそばにあった大木の幹に掌を当てた。と、大木の枝が一本残らず
大きく揺れて、無数の葉が千切れて舞い散った。その葉と一緒に、
「と、とっとっ、と!」
小柄な少年が降ってきた。器用に空中回転して、すとんと着地する。
歳は十七、八くらいであろうか。裾を絞った袴に、ゆったりとした白い道着。腰の後ろに、
鍔のない刀を横にして差している。武士ではなさそうだ。旅の武芸者か、あるいは……と
男はいろいろ推察するのだが、少年は何だか楽しそうに、ニコニコ笑っている。
「あはは。いやぁ、凄い技だねお兄さん。唐手(からて)かな?」
「そうだが。そういうお前は何者だ。幕府の手の者か」
「いやいや、そんなんじゃないよ。ただ、恩返しでお兄さんと戦わなきゃならなくてさ」
「何?」
「でも、何だかなぁ。お兄さんがこれほどの使い手だったとは。これじゃ恩返しどころか、
むしろ恩が重なってしまうというか。むむ」
ほりほりと頭を掻いて、少年は困った顔をしている。
「どういう意味だ? 恩返しで戦うだの、恩が重なるだの。話が見えんぞ」
「だからさ。お兄さんほどの使い手と戦うのは、オレにとって楽しいことなんだ……よっと!」
言うが早いか、少年の脚が跳ね上がった。間一髪、男は後退してその蹴りをかわす。間髪
入れず、少年が踏み込んできて拳を繰り出した。男は両腕を交差して受け止めるが、その
凄まじい力に体ごと突き飛ばされてしまう。
只者ではない。男はそう直感し、瞬時に気持ちを切り替えた。やらねばやられる相手だ。
二人の間に、陽炎のような闘気が揺らめく。男の部下たちが、その並々ならぬ気配に
気付いてそちらを見る、と、
「せいっ!」
「ぬんっ!」
男と少年の上段回し蹴りが激突した。強大な力と力がぶつかり合い、周囲につむじ風、
いや竜巻を起こして全てを吹き飛ばす! ……ように見えた。
「なんだ、あの小僧は?」
「お、おい! あいつ、頭と互角にやりあってるぞ!?」
男の部下たちは肝を潰して二人を見守るが、当の二人はそんなこと意に介さず、
「あはは、やっぱ凄いなぁお兄さん」
「お前こそ……な」
相変わらずニコニコしている少年に、男も薄笑いを浮かべて応じた。だがおそらく脛は
内出血している。今と同じ蹴り合いを二、三度やれば、もう立っていられる自信がない。
それなのに、なぜだろうか。この少年と向かい合っていると、妙に心が浮き立つ。乱れた
世も、国の行く末も、何もかも忘れて、このままこうしてずっと戦っていたいような……
「いくよっ、お兄さん!」
少年が、また踏み込んできた。男は素早く反応し、右の拳で迎え撃つ。少年はそれを
潜りながら男の腕を取って、捻り上げながら男に背を向けた。男の肘間接を極めて
肩に担いで、そのまま背負い投げへ。男の肘がミシリと軋んで靭帯が、
「ぬおおぉぉっ!」
男が跳んだ。右腕を取られたまま空中で側転して少年の頭上を越え、捻りを解いて
振りほどいた。着地、と同時に至近距離から左手で目突きを繰り出す! と少年は
上体を逸らして突きをかわしながら前蹴りを放ち、男は目突きを咄嗟に肘落としに
変えてそれを打ち落とした。
少年が後ろに跳んで、間合いを取る。仕切り直しだ。
「あはは……もう、ほんとに、言葉がないよ。想像以上だ、お兄さん」
「無駄口を叩くな。次で終わらせるぞ」
「だね。オレもそのつもりだよ」
これが瞬き二つほどの間、正に瞬間の攻防。二人の、人間離れした戦いを
男の部下たちは身じろぎもできずに見入っていた。
二人の間の空気が、陽炎が、ますます熱く濃く強くなる。互いに必勝必殺を決意し、
拳と脚に気を込めて大きく一歩を……
「そこまで!」
横合いから声が飛んだ。男の部下たちが、男が、少年が、そちらを見る。
「忘れたのか。私はその男の実力を測れといっただけで、殺せとは言ってないぞ」
「……あ、あはは。ごめん。つい」
少年が、一気に元に戻った。また困った顔になって、ほりほりと頭を掻いている。
茂みを掻き分けて出てきたのは、山伏姿の青年。とはいえ本物の山伏ではない
だろう。男には一目で判った。肌が白すぎるし、体格も華奢すぎる。どう見ても、
山野を駆け巡る山伏なんかではない。ただの村人以下、むしろ貴族か何か……貴族?
『まさか。こんな山奥に、お公家様が来られることなど』
「河内悪党の首領だな。私は検非違使長官、日野資朝(ひの すけとも)という」
『っ!? あの、名門の……?』
「お前たちの噂は、都まで響いている。そして勿体無くも帝のお耳に達し、いずれ
幕府打倒の蜂起の際には、ぜひ一軍として迎えたいとの仰せだ」
といって資朝は、一通の書状を広げて見せた。月明かりの下、男は目を凝らして
それを見る……間違いない、本物だ。ということはこのお方は本物の検非違使長官、
つまり帝の言葉、後醍醐天皇の言葉というのも事実!
「か、か、かしこまりましたっ!」
男は顔色を変えて平伏した。後ろにいた部下たちも慌ててそれに倣い、一同土下座。
「我らも、常日頃より現在の幕府のあり方に疑問を感じております! 帝が幕府を
討伐なさるというのであれば、この身命を賭して……たとえこの先百戦百敗しようとも、
この私が生きている限り、必ずや最後には帝に勝利を献じ奉るとお伝え下さい!」
「うむ。その言葉を聞けば、帝もさぞ喜ばれるであろう」
資朝が満足そうに頷いた。その袖をくいくいと引っ張って、少年が不満そうに言う。
「あのさ、盛り上がってるトコごめん。オレ、さっきの続きをしたいんだけど」
「……付き合ってやりたいのは山々だが、それはもうだめだ」
男が顔を上げて少年に答えた。
「帝の命を受けた以上、この命は帝の為にのみ使う道具。お前とやりあえば、おそらく
俺は死ぬまで戦いたくなってしまうだろう。だから、もうお前とはやらん」
「え~! そんなぁ」
「戦が終わり、幕府が倒れ、帝の治世が完成し、平和な世が訪れたら……その時にな」
「あ、それだったら、オレも手伝うよ。で一日も早く戦を終わらせる。いいだろ?」
少年が資朝に問いかけた。資朝は「もちろんだ」と頷く。
「よし、決まりっ」
「決まりって、お前は一体何者なんだ。資朝様の従者か何かか?」
その質問には、資朝が答えた。
「私が山中で大猪に襲われていたところを助けてくれてな。その時の、一撃で獣を
打ち倒した力を見込んで、お前を試す役目と私の護衛を命じたのだ」
「では、資朝様の恩人ということですか」
今度は少年が、ほりほりと頭を掻きつつ答えた。
「いやいや。ただオレは、腹減ってたから焼肉を食おうとしただけで。でも猪一頭じゃ
全然足りなくて、腹減りすぎで目が回って死にそうになってたら、この人が
弁当を分けてくれたんだ。だからオレの恩人。だから恩返しをしようとして、さ」
「うむ。この少年、腰を抜かしてた私の目の前で大猪を撲殺して焼いて食って、
それでも足りないと泣いて、その間ずっと私に気付かなかった様子でな」
「あはは。いやあ、それを言われると」
「……」
どうやらこの少年、馬鹿だ。それも並大抵ではない、かなりの大馬鹿だ。
「ま、まあいい。ではお前は、俺と共に幕府を相手に戦ってくれるというのか?
それはこちらとしては願ってもない、心強い話だが」
「もちろん! だからさ、ぱぱっと戦を終わらせて、もいっぺんやろう、お兄さん!」
少し背伸びして、ぽん、と男の肩を叩く少年の瞳は、無垢で無邪気で。つい先ほど、
修羅のような強さを見せつけたのが嘘のようだ。
あるいは、とんでもない大物なのかもしれない。あるいは、ただの大馬鹿かもしれない。
男は我知らず苦笑しながら、少年に言った。
「何はともあれ、これからよろしく……だな。俺の名は楠木正成。お前は?」
「オレは、やまと」
ほりほりと頭を掻きながら、少年は名乗った。
「陸奥大和だよ。よろしくっ」