『赤ん坊を待ちながら ⑤』
「ブギーポップが『よろしく』って言ってたよ、十和子」
翌日の通学途中、朝の挨拶を交わした直後にそう言ってやると、十和子は訝しげに首をひねった。
「ブギーポップって、あの伝説の? 誰からその話聞いたのよ」
てっきり「誰だよそいつ」というような答が返ってくるものと思っていたので、その返事はちょっと意外だった。
「あ、伝説なんだ」
「そーよ。女の子の間にしか伝わらない都市伝説。……で、なんでその殺し屋があたしに『よろしく』って言うワケ?」
「さて、なんででしょう?」
ブギーポップの意味不明系の冗談に加担していることがなんとなく嬉しくて、静はくつくつと笑う。
「まさか、そいつと会ったとか言うわけじゃないでしょーね」
「秘密」
「うわ、すげぇむかつくわこの子」
お仕置きよー、と叫ぶ十和子のデコピンをきゃーきゃー言いながらかわしていた静は、ふと足を止める。
「秋月くん!」
その呼びかけに、曲がり角の向こうから歩いてきていた、朝っぱらから冴えない顔をした男子がこちらを振り返った。
「あ……ジョースターさん、だっけ」
古ぼけたスーツケースを重そうに掲げる秋月貴也は、煮え切らない表情で会釈した。
「おはよう」
自宅を出る前に何度も練習した精一杯の笑顔を向けると、秋月はきょとんとした顔になる。
だが、すぐにその不可解な顔色も消えうせ、控えめながらも自然な笑みがそこに取って代わる。
それは昨日見たブギーポップの巌のような無表情とは似ても似つかなくて、
彼が『ブギーポップ』ではなく、今は『秋月貴也』なのだということを如実に物語っていた。
隣に寄って歩調を合わせると、彼はとても困った顔になった。
その怯えたような態度に、おそらく女の子と並んで歩くといった経験に乏しいのだろう、と、静はかなり失礼な想像をする。
「え、えーと……が、学校は慣れた?」
「うん、慣れた、かな。友達も出来たし」
「あ、そう……良かった」
「?」
「クラスに馴染めてないんじゃないか、って心配してたんだ。初佳さ……じゃなくて、五十嵐先生が。保健の」
なぜ担任でもなんでもない、それどころか顔も知らない教師が自分の心配をするのか、静はわずかに不審に思う。
その沈黙を別の意味に取ったのか、秋月は慌てて手を振る。
「あ、これは別に僕が君のことをまったく気にしていないということじゃなくて。気にはなっていたよ。
いやもちろん変な意味じゃない。ただのクラスメートとして、あー、ただのというのは失礼か。とにかくまあ、なんというか」
そこで言葉が弾切れを起こしたのか、彼は口を半開きのままで頭をかく。
そして場の空白を埋めるように弱々しく笑った。
弾の再装填は意外なところから行われた。
「あ・き・づ・き・く~ん」
音も立てずに背後から忍び寄っていた十和子が、秋月を羽交い絞めにしたのだった。
「ずいぶんとセーシュンしてるじゃないっすかー。んー? あたしの静と仲良くお喋りたぁ、いい度胸してるじゃーん」
「ちょ、遠野さん、放してくれよ」
「あたし昨日言ったわよー、『全力で阻止する』ってさー」
「せ、背中に当たってる! 当たってるって!」
「なにがぁ?」
「な、なにがじゃないだろう!? 分かっててやってるんだろ、ねえ、遠野さんってば!」
見ていて可哀想になるくらい、いいようにあしらわれていた。
顔を真っ赤にしてわたわたと両腕を振る彼をよそに、十和子は静へ向けてにやけた視線を投げかける。
「静も気をつけたほうがいいわよ。こいつ、見た目に反して学年内じゃ有名なタラシだから」
十和子のその発言に、秋月は金切り声ともいえる悲鳴を上げる。
「と、遠野さん!?」
「タラシって……なに?」
「えー、なんつったかな……そうそう、『womanizer』とかそんなん」
昨日の『slut』もそうだが……よくもまあそんな俗語まで知っているものだと静は半ば呆れながら感心するが、
目の前の人畜無害を絵に描いたような彼がその『タラシ』なのかと、秋月に対しても半ば感心しながら呆れる。
知らずしらずのうちに彼からわずかに離れて歩いている自分がいた。
その距離感の変化に気づいた秋月が慌てふためいて異論を唱える。
「ち、違うから。遠野さん、なんでそういう根も葉もないこと言うんだよ」
「あるぇー? 根も葉もあることじゃねーの? 学年中の女子に片っ端から告白しまくってたのはどこのどいつでしたっけ?」
「あ、秋月くん……そんなことしてたの?」
「そーなのよ、静。こいつは女と見れば見境のないやつなの。だからうっかり騙されちゃダメよ」
「いや、あれは世界のて……あー、えーと、とにかく離れてくれよ!」
じたばた暴れる秋月はついに身体のバランスを崩し、それを一瞬先に察知していた十和子が
彼を突き放すようにして背中から離れたために、いっそう重心を失って前のめりに倒れる。
地面に落ちそうになった彼を受け止めたのは、白いスーツに身を包んだ教師だった。
「おっとっとー。大丈夫かにゃー?」
そのホストかなにかみたいな出で立ちの教師は、片腕に秋月を抱えたままで静を見、にっこりと笑みを浮かべた。
「おはよー、静ちゃん」
「あ、おはようございます、ファイ先生。昨日はありがとうございました。……あの、黒鋼先生は?」
「んんー? 黒ぴんは授業の準備してるようー。なんだかんだ言いながら根が真面目だからねー、彼」
秋月を立たせたそいつは、静に「それじゃーねー」と気の抜けるような軽い調子で手を振り、校舎へと向かって行った。
十和子はそれを眺めながら、指先で静の肩を叩く。
「あの人、新任の教師でしょ? いつの間に知り合いになったのよ」
一言では説明しづらいことだったので、静は曖昧に言葉を濁す。
「うん。ちょっとね」
「なにそれ」
「後で話すよ」
十和子はそれでも少し納得のいかないような顔をしていたが、「ふん」と鼻を鳴らすと、急に思い出したように両手を合わせた。
「っと、いっけね、保健室行かなきゃ。昨日のゴタゴタがまだ片付いてないんだった。あたし先に行くわよ、静」
と駆け出しかけた十和子だったが、三歩進んだところで思い直したように戻ってきた。
「──あのさ、ここだけの話、秋月となんかあった?」
秋月を背中でブロックするようなかたちで静の肩に手を回し、十和子はそんなことをこっそり聞いてきた。
「な、なんで?」
「昨日よりもいい顔してるわよ、あんた。今までのおっかなびっくりな感じの作り笑いとはえらい違い」
他人からはそういうふうに見えていたのか、と静は目を見張る。
だが言われてみれば、思い当たる節はある。
心の中の鬱屈した感情を一人で抱え込んでいた自分は、さぞかし引き攣った顔をしていたのだろう。
「そんでそんで、なにがあったの? マジで告白されたとか?」
「え、秋月くんとは、別になにも」
これは嘘ではない、と思うが、じゃあ本当のことかと聞かれても少し困る。
「『とは』? 『とは』、ねえ。ふーん、ま、いいわ。後で根掘り葉掘り聞いてやるから。昼休み、覚悟しておきなさいよ」
十和子はにやりと片頬を吊り上げて、そして踵を返し再び走り出した。
──どうやら、昼休みまでに覚悟を決める必要があるようだった。
なんのための、そしてどういう類の覚悟なのかは、静自身にも今ひとつ判然としなかったが。
「仲、いいんだね」
十和子の後姿を見送る静のそばで、秋月は感心したように呟いた。
「──ありがとう」
なんの気なくそう言ってから、静はその言葉が自分の口からこぼれ出たことに驚く。
「あり、がとう……」
今度は意識して口の端に乗せてみた。意識している分さっきよりぎこちないが、それだけ自分の気持ちがこもっていると思う。
「え、どうしたの?」
秋月が不思議そうに静の顔を覗き込む。
「そうだ……わたし、あなたにお礼が言いたかったんだ……」
十和子にでもなくブギーポップにでもなく、なぜ秋月貴也にお礼が言いたいのか、
その辺りのことは自分でも理路整然とは説明できなかったが、
それでも、静は彼にお礼を言いたかったというその心だけは──はっきりと存在していた。
「ありがとう、秋月くん」
「僕、君になにかしたっけ?」
真面目くさってそう聞き返す秋月へ、静は晴々とした笑みとともに首を振る。
「ううん。なんでもない。ただ言ってみたかっただけ」
ふと、思う。
ブギーポップは笑わない。そして、世界を救うことも出来ないらしい。
とすれば、もしかしたら、世界を救うたった一つの方法とは──笑うことにあるのかも知れない、と。
翌日の通学途中、朝の挨拶を交わした直後にそう言ってやると、十和子は訝しげに首をひねった。
「ブギーポップって、あの伝説の? 誰からその話聞いたのよ」
てっきり「誰だよそいつ」というような答が返ってくるものと思っていたので、その返事はちょっと意外だった。
「あ、伝説なんだ」
「そーよ。女の子の間にしか伝わらない都市伝説。……で、なんでその殺し屋があたしに『よろしく』って言うワケ?」
「さて、なんででしょう?」
ブギーポップの意味不明系の冗談に加担していることがなんとなく嬉しくて、静はくつくつと笑う。
「まさか、そいつと会ったとか言うわけじゃないでしょーね」
「秘密」
「うわ、すげぇむかつくわこの子」
お仕置きよー、と叫ぶ十和子のデコピンをきゃーきゃー言いながらかわしていた静は、ふと足を止める。
「秋月くん!」
その呼びかけに、曲がり角の向こうから歩いてきていた、朝っぱらから冴えない顔をした男子がこちらを振り返った。
「あ……ジョースターさん、だっけ」
古ぼけたスーツケースを重そうに掲げる秋月貴也は、煮え切らない表情で会釈した。
「おはよう」
自宅を出る前に何度も練習した精一杯の笑顔を向けると、秋月はきょとんとした顔になる。
だが、すぐにその不可解な顔色も消えうせ、控えめながらも自然な笑みがそこに取って代わる。
それは昨日見たブギーポップの巌のような無表情とは似ても似つかなくて、
彼が『ブギーポップ』ではなく、今は『秋月貴也』なのだということを如実に物語っていた。
隣に寄って歩調を合わせると、彼はとても困った顔になった。
その怯えたような態度に、おそらく女の子と並んで歩くといった経験に乏しいのだろう、と、静はかなり失礼な想像をする。
「え、えーと……が、学校は慣れた?」
「うん、慣れた、かな。友達も出来たし」
「あ、そう……良かった」
「?」
「クラスに馴染めてないんじゃないか、って心配してたんだ。初佳さ……じゃなくて、五十嵐先生が。保健の」
なぜ担任でもなんでもない、それどころか顔も知らない教師が自分の心配をするのか、静はわずかに不審に思う。
その沈黙を別の意味に取ったのか、秋月は慌てて手を振る。
「あ、これは別に僕が君のことをまったく気にしていないということじゃなくて。気にはなっていたよ。
いやもちろん変な意味じゃない。ただのクラスメートとして、あー、ただのというのは失礼か。とにかくまあ、なんというか」
そこで言葉が弾切れを起こしたのか、彼は口を半開きのままで頭をかく。
そして場の空白を埋めるように弱々しく笑った。
弾の再装填は意外なところから行われた。
「あ・き・づ・き・く~ん」
音も立てずに背後から忍び寄っていた十和子が、秋月を羽交い絞めにしたのだった。
「ずいぶんとセーシュンしてるじゃないっすかー。んー? あたしの静と仲良くお喋りたぁ、いい度胸してるじゃーん」
「ちょ、遠野さん、放してくれよ」
「あたし昨日言ったわよー、『全力で阻止する』ってさー」
「せ、背中に当たってる! 当たってるって!」
「なにがぁ?」
「な、なにがじゃないだろう!? 分かっててやってるんだろ、ねえ、遠野さんってば!」
見ていて可哀想になるくらい、いいようにあしらわれていた。
顔を真っ赤にしてわたわたと両腕を振る彼をよそに、十和子は静へ向けてにやけた視線を投げかける。
「静も気をつけたほうがいいわよ。こいつ、見た目に反して学年内じゃ有名なタラシだから」
十和子のその発言に、秋月は金切り声ともいえる悲鳴を上げる。
「と、遠野さん!?」
「タラシって……なに?」
「えー、なんつったかな……そうそう、『womanizer』とかそんなん」
昨日の『slut』もそうだが……よくもまあそんな俗語まで知っているものだと静は半ば呆れながら感心するが、
目の前の人畜無害を絵に描いたような彼がその『タラシ』なのかと、秋月に対しても半ば感心しながら呆れる。
知らずしらずのうちに彼からわずかに離れて歩いている自分がいた。
その距離感の変化に気づいた秋月が慌てふためいて異論を唱える。
「ち、違うから。遠野さん、なんでそういう根も葉もないこと言うんだよ」
「あるぇー? 根も葉もあることじゃねーの? 学年中の女子に片っ端から告白しまくってたのはどこのどいつでしたっけ?」
「あ、秋月くん……そんなことしてたの?」
「そーなのよ、静。こいつは女と見れば見境のないやつなの。だからうっかり騙されちゃダメよ」
「いや、あれは世界のて……あー、えーと、とにかく離れてくれよ!」
じたばた暴れる秋月はついに身体のバランスを崩し、それを一瞬先に察知していた十和子が
彼を突き放すようにして背中から離れたために、いっそう重心を失って前のめりに倒れる。
地面に落ちそうになった彼を受け止めたのは、白いスーツに身を包んだ教師だった。
「おっとっとー。大丈夫かにゃー?」
そのホストかなにかみたいな出で立ちの教師は、片腕に秋月を抱えたままで静を見、にっこりと笑みを浮かべた。
「おはよー、静ちゃん」
「あ、おはようございます、ファイ先生。昨日はありがとうございました。……あの、黒鋼先生は?」
「んんー? 黒ぴんは授業の準備してるようー。なんだかんだ言いながら根が真面目だからねー、彼」
秋月を立たせたそいつは、静に「それじゃーねー」と気の抜けるような軽い調子で手を振り、校舎へと向かって行った。
十和子はそれを眺めながら、指先で静の肩を叩く。
「あの人、新任の教師でしょ? いつの間に知り合いになったのよ」
一言では説明しづらいことだったので、静は曖昧に言葉を濁す。
「うん。ちょっとね」
「なにそれ」
「後で話すよ」
十和子はそれでも少し納得のいかないような顔をしていたが、「ふん」と鼻を鳴らすと、急に思い出したように両手を合わせた。
「っと、いっけね、保健室行かなきゃ。昨日のゴタゴタがまだ片付いてないんだった。あたし先に行くわよ、静」
と駆け出しかけた十和子だったが、三歩進んだところで思い直したように戻ってきた。
「──あのさ、ここだけの話、秋月となんかあった?」
秋月を背中でブロックするようなかたちで静の肩に手を回し、十和子はそんなことをこっそり聞いてきた。
「な、なんで?」
「昨日よりもいい顔してるわよ、あんた。今までのおっかなびっくりな感じの作り笑いとはえらい違い」
他人からはそういうふうに見えていたのか、と静は目を見張る。
だが言われてみれば、思い当たる節はある。
心の中の鬱屈した感情を一人で抱え込んでいた自分は、さぞかし引き攣った顔をしていたのだろう。
「そんでそんで、なにがあったの? マジで告白されたとか?」
「え、秋月くんとは、別になにも」
これは嘘ではない、と思うが、じゃあ本当のことかと聞かれても少し困る。
「『とは』? 『とは』、ねえ。ふーん、ま、いいわ。後で根掘り葉掘り聞いてやるから。昼休み、覚悟しておきなさいよ」
十和子はにやりと片頬を吊り上げて、そして踵を返し再び走り出した。
──どうやら、昼休みまでに覚悟を決める必要があるようだった。
なんのための、そしてどういう類の覚悟なのかは、静自身にも今ひとつ判然としなかったが。
「仲、いいんだね」
十和子の後姿を見送る静のそばで、秋月は感心したように呟いた。
「──ありがとう」
なんの気なくそう言ってから、静はその言葉が自分の口からこぼれ出たことに驚く。
「あり、がとう……」
今度は意識して口の端に乗せてみた。意識している分さっきよりぎこちないが、それだけ自分の気持ちがこもっていると思う。
「え、どうしたの?」
秋月が不思議そうに静の顔を覗き込む。
「そうだ……わたし、あなたにお礼が言いたかったんだ……」
十和子にでもなくブギーポップにでもなく、なぜ秋月貴也にお礼が言いたいのか、
その辺りのことは自分でも理路整然とは説明できなかったが、
それでも、静は彼にお礼を言いたかったというその心だけは──はっきりと存在していた。
「ありがとう、秋月くん」
「僕、君になにかしたっけ?」
真面目くさってそう聞き返す秋月へ、静は晴々とした笑みとともに首を振る。
「ううん。なんでもない。ただ言ってみたかっただけ」
ふと、思う。
ブギーポップは笑わない。そして、世界を救うことも出来ないらしい。
とすれば、もしかしたら、世界を救うたった一つの方法とは──笑うことにあるのかも知れない、と。