『赤ん坊を待ちながら ①』
静がぶどうヶ丘学園に入学してから一週間が過ぎた。
外国人の自分が新しいクラスに馴染めるか当初は不安でしょうがなかったが、
血統的には純然たる日本人である静の大人なしめながらも愛嬌のある面立ちや、変に『外国かぶれ』した雰囲気のないこと、
ニューヨーク育ちでありながらも日本語が堪能なことが周囲に親しみやすさを感じさせおり、
静・ジョースターは『季節外れの転校生』としてクラスでおおむね好意的に迎え入れられていた。
だが、問題がないわけではなかった。
「ねえねえジョースターさーん、静ちゃんって呼んでいいかな?」
「あ、うん」
「『しずしず』とかは?」
「え、それはちょっと、どうだろう」
「今日はあたしたちと一緒にお昼しない? ほら、この学校のこと教えてあげたいし、アメリカの話も聞きたいし」
「うん、喜んで。あ、十和子とも約束してるから、一緒にでいいかな」
「……トワコって、トオノトワコだよね」
「そ、そうだけど」
「──あのさ、悪いこと言わないけど遠野とだけは付き合わないほうがいいよ」
「どうして?」
「どうしてって、それはその、ねえ?」
「……?」
「だってえ、遠野ってば変なことしか言わないし、ぜんっぜん協調性ないし、それに──」
外国人の自分が新しいクラスに馴染めるか当初は不安でしょうがなかったが、
血統的には純然たる日本人である静の大人なしめながらも愛嬌のある面立ちや、変に『外国かぶれ』した雰囲気のないこと、
ニューヨーク育ちでありながらも日本語が堪能なことが周囲に親しみやすさを感じさせおり、
静・ジョースターは『季節外れの転校生』としてクラスでおおむね好意的に迎え入れられていた。
だが、問題がないわけではなかった。
「ねえねえジョースターさーん、静ちゃんって呼んでいいかな?」
「あ、うん」
「『しずしず』とかは?」
「え、それはちょっと、どうだろう」
「今日はあたしたちと一緒にお昼しない? ほら、この学校のこと教えてあげたいし、アメリカの話も聞きたいし」
「うん、喜んで。あ、十和子とも約束してるから、一緒にでいいかな」
「……トワコって、トオノトワコだよね」
「そ、そうだけど」
「──あのさ、悪いこと言わないけど遠野とだけは付き合わないほうがいいよ」
「どうして?」
「どうしてって、それはその、ねえ?」
「……?」
「だってえ、遠野ってば変なことしか言わないし、ぜんっぜん協調性ないし、それに──」
「ねえ十和子」
「なーに、静」
「『ヤリマン』って、なに?」
静がそう訊くと、十和子はストローで啜ってた紙パックの牛乳を「ぶっ」と威勢良く噴き出した。
そのせいで乳白色の飛沫が膝の上の弁当箱にかかり、ヒジキの胡麻和えが濁った灰色になってしまう。
「……あんた、どこでそんな言葉覚えてきたの?」
二人が昼食を摂っているのは、学園敷地内の中央に位置する時計搭の内部、一般生徒は立ち入りできないはずの機関室だった。
そこが立入禁止だというのを説明してくれたのは十和子自身なのに、なぜ堂々と立ち入っているのかは甚だ疑問だったが。
真っ直ぐに伸ばした安全ピンとヘアピンで難なく鍵を開錠した十和子は、ドアに掛けられている「立禁止」という看板を指差して
「こいつは座って飯を食うぶんにはなんの問題もないってトンチなのよ」と説明してくれたが、
漢字に弱くトンチという概念も今イチ理解できていない静にはちょっと分からない話だった。
それはともかく、『その単語』を口にしたときの十和子の反応が予想外だったので、静はうろたえながら手元のサンドイッチに目を落とす。
「ど、どこでっていうか、ついさっきクラスで」
「はあん? 誰よ? ……あー、いいや。だいたい察しが付くから。あたしが『そう』だって言ってたワケね」
「……うん」
「ったく、あいつらロクなことを教えやがらないんだから」
十和子は苛立たしげに長い髪を掻き揚げる。
静にも『その単語』がなにか侮蔑的な言葉だということは薄々分かったが、十和子はそうした自分の評価に憤りを感じているというよりは、
静の口からそんな言葉を言わせたことが気に食わない、それはそんな感じの仕草だった。
十和子がそれ以上なにも言わないので、静も黙ったままサンドイッチを口に運ぶ。
下宿している広瀬宅の夫人が毎日持たせてくれる弁当は良く出来ていて、静にとって学校生活の楽しみの一部だったのだが、
今だけはとてもパサパサした口当たりでとても不味く感じた。
だが残すのも忍びないので、無理にオレンジジュースで喉に流し込む。
顎を手の甲に乗せて遠くを眺めていた十和子だったが、ややあって、ぽつりと口にする。
「さっきの意味ね」
「え?」
「エス・エル・ユー・ティー、よ」
それは非常に日本語訛りの強い発音で、静の言語中枢がそのスペルを単語として理解するにはわずかなタイムラグがあったが、
それだけに、その意味が脳内で結像したときは──強烈だった。
今度は静が飲みかけのオレンジジュースを噴き出してしまい、それどころか、気管に入って激しくむせてしまう。
「ああもう、なにやってのよ」
身体をくの字に折り曲げてごほごほと咳を繰り返す静の背中を撫でながら、
十和子はポケットから取り出したハンカチでジュースで汚れた口元まで拭ってやった。
「ご、ごめん。でも」
どちらかというと温室育ちの静にとって、それは映画やドラマの中にか存在しないある種の専門用語のようなもので、
実際にそうやって他人を辱めるために使われるのを聞いたのは生まれて初めてだった。
顔を紅潮させながらやっとのことで息を整えた静へ、十和子は呆れ半分の仕草で肩をすくめてみせた。
「あんたがそんなに驚いてどーすんのよ」
そう言う十和子の口調はどこか他人事のようだった。
まるで、自分とは関係のない『誰か』の悪口を言われているような。
「……十和子」
「うん?」
「悔しくないの?」
「べっつにー」
それは事実だからなのか、という考えが一瞬静の脳裏をよぎったが、口にするのは憚られた。
だが、
「言っておくけどね、あたし処女よ」
「だ、誰もそんなこと聞いてないもん」
「ダメよ。『カスタード・パイ』に嘘はつけないのよ、静。疑心暗鬼の匂いがぷんぷんするわ。青錆びた銅と腐葉土の匂い」
そして「なんでもお見通しだ」とでも言うように指を振る十和子を見て、静の胸中に名状しがたい苛立ちが沸き起こる。
「……でも、でも十和子、そんなひどいこと言われて平気なの? わたしだったらやっぱり怒ると思うし、十和子がそう言われてるのも、なんか嫌だよ」
口を尖らせて言い募る静へ、十和子は「ふ」と細く笑った。そしてがしがしと乱暴に静の髪を撫でる。というかくしゃくしゃにする。
それはまるで、他愛なくも微笑ましい子供の言い草を目の当たりにした母親のような微笑みと手つきだった。
「あんたは良い子だねえ、静」
「な、なによ馬鹿にして」
「いやいや、あんたがそう言ってくれんのは身に余る光栄ってやつさ。なんなら涙だばだば流して感謝してやってもいい。でもね──」
そっと、冷たい手のひらが静の頬を撫でる。
「どーだっていいのよ、そんなこたぁ──他人からどう思われるかってのは、本当にどうでもいい、あたしにとってはこれっぽちも価値のないことなの」
静はなんとはなしに寒気を感じた。それは十和子の手の冷たさだけではないような気がした。
「……ね、静」
「なに?」
「分かったとは思うけど、あたしってばクラスの嫌われもんなの。あたしとつるんでたら、あんたもクラスから孤立するわよ。
だからさ──あたしと話すのはほどほどにして、もっと別のやつと友達になるって選択肢もアリだと思う」
ふと、静は彼女の瞳に『なにか』を見た。
それは漠然としていてはっきりとは捉えられなかったが、この世界からたった一人ぼっちで切り離されたような『孤独』のようにも思えた。
「あ──」
静はなにかを言おうとしたが、それは喉に引っ掛かって言葉にならなかった。
そのことに我ながら驚いた次の瞬間には、なにを言おうとしていたのかが綺麗さっぱりと消えてなくなっていた。
「あの──」
十和子は静かに答えを待っていた。その佇まいは静謐すぎて逆に凄みを感じるような、刑の執行を待つ死刑囚の雰囲気にも似ていた。
どんどん身体が冷えていくような気がした。まるで自分の生命が、十和子の氷のような手を通じて向こうに流れているようでもあった。
永遠とも思える時間が過ぎ、十和子は再び「ふ」と微かに笑う。
「冗談よ。そりゃ、クラスの中には仲の悪いグループもいるけど、だからってあんたにとばっちりがいくほど険悪ってわけじゃあないわ。
上っ面のつきあいには違いないけど、それなりに上手く立ち回ってるから、ね」
十和子の細い指が静の頬を這い、唇をさっと撫でた。
やはり彼女の手は冷たくて、静はつい「ふぁ」と声を漏らしてしまう。
なんか釈然としない気持ちで、十和子の低い体温が残る唇を指でなぞる静だったが、
「──そこでなにをしている? ここは立入禁止のはずだ」
機関室の戸口に若い男性教師の一団が立っていた。
照明は切れっぱなしで採光の窓などもないその部屋では、一人ひとりの顔を判別することは出来なかった。
「うげ」
とあからさまに嫌そうな声を上げた十和子だったが、見ている静が呆然とするくらいの変わり身の早さで先頭の教師に頭を下げた。
「ご、ごめんなさい川尻先生! 転校生の人を案内してて、最初は入るつもりなんてなかったんですけど、鍵が開いてたからつい魔が差しちゃったんです!」
「おかしいな……鍵は閉まっていたはずだがな」
つい反射的に、静がそれに答えてしまう。
「あ、はい、閉まっ──」
「このバカ」
静はすぱーんと後頭部をはたかれるが、そっちを向くと満面の笑みを浮かべた虫も殺せないような美少女がそこにいるだけだった。
「ん? なにか言ったかね?」
「いいえ、誰もなにも言っていません」
涼やかな声音ではきはきと答える十和子へ、静は半眼で苦情を言い立てる。
「な、なんでぶつの?」
「あーら、なんのことですか?」
「いいから早く出なさい。その前に氏名とクラスを──まあいい、この暗がりだ。『見なかったこと』にしておこう」
手を振る教師に追い立てられるように、二人は戸口から足を踏み出す。
そのドアにちらりと目をやった十和子は、
「あ、前々から気になってたんですけど、どうしてこの看板『立禁止』なんですか? 普通は『立入禁止』ですよね?」
すると、薄闇の向こうから、なにかをひどく懐かしがるような声が返ってきた。
「ああ……それはこの学校のOB……私の先輩でもある方が『もういらない』と言うので学校に寄贈してくれたんだ。
確かに看板としては使い物にならないものではあるので、こうしてここに保管場所代わりに据え付けてあるんだ」
この教師も昔は学生であり少年だったはずであることが不意に思い起こされ、静はなんとなく不思議な気持ちになった。
自分も十年後、二十年後には、こうしてなにかを懐かしんで思い出に浸るのだろうか、と。
「かつてこの町には守護精霊がいたことの──その黄金の輝きを偲ばせる──記念品、さ」
「なーに、静」
「『ヤリマン』って、なに?」
静がそう訊くと、十和子はストローで啜ってた紙パックの牛乳を「ぶっ」と威勢良く噴き出した。
そのせいで乳白色の飛沫が膝の上の弁当箱にかかり、ヒジキの胡麻和えが濁った灰色になってしまう。
「……あんた、どこでそんな言葉覚えてきたの?」
二人が昼食を摂っているのは、学園敷地内の中央に位置する時計搭の内部、一般生徒は立ち入りできないはずの機関室だった。
そこが立入禁止だというのを説明してくれたのは十和子自身なのに、なぜ堂々と立ち入っているのかは甚だ疑問だったが。
真っ直ぐに伸ばした安全ピンとヘアピンで難なく鍵を開錠した十和子は、ドアに掛けられている「立禁止」という看板を指差して
「こいつは座って飯を食うぶんにはなんの問題もないってトンチなのよ」と説明してくれたが、
漢字に弱くトンチという概念も今イチ理解できていない静にはちょっと分からない話だった。
それはともかく、『その単語』を口にしたときの十和子の反応が予想外だったので、静はうろたえながら手元のサンドイッチに目を落とす。
「ど、どこでっていうか、ついさっきクラスで」
「はあん? 誰よ? ……あー、いいや。だいたい察しが付くから。あたしが『そう』だって言ってたワケね」
「……うん」
「ったく、あいつらロクなことを教えやがらないんだから」
十和子は苛立たしげに長い髪を掻き揚げる。
静にも『その単語』がなにか侮蔑的な言葉だということは薄々分かったが、十和子はそうした自分の評価に憤りを感じているというよりは、
静の口からそんな言葉を言わせたことが気に食わない、それはそんな感じの仕草だった。
十和子がそれ以上なにも言わないので、静も黙ったままサンドイッチを口に運ぶ。
下宿している広瀬宅の夫人が毎日持たせてくれる弁当は良く出来ていて、静にとって学校生活の楽しみの一部だったのだが、
今だけはとてもパサパサした口当たりでとても不味く感じた。
だが残すのも忍びないので、無理にオレンジジュースで喉に流し込む。
顎を手の甲に乗せて遠くを眺めていた十和子だったが、ややあって、ぽつりと口にする。
「さっきの意味ね」
「え?」
「エス・エル・ユー・ティー、よ」
それは非常に日本語訛りの強い発音で、静の言語中枢がそのスペルを単語として理解するにはわずかなタイムラグがあったが、
それだけに、その意味が脳内で結像したときは──強烈だった。
今度は静が飲みかけのオレンジジュースを噴き出してしまい、それどころか、気管に入って激しくむせてしまう。
「ああもう、なにやってのよ」
身体をくの字に折り曲げてごほごほと咳を繰り返す静の背中を撫でながら、
十和子はポケットから取り出したハンカチでジュースで汚れた口元まで拭ってやった。
「ご、ごめん。でも」
どちらかというと温室育ちの静にとって、それは映画やドラマの中にか存在しないある種の専門用語のようなもので、
実際にそうやって他人を辱めるために使われるのを聞いたのは生まれて初めてだった。
顔を紅潮させながらやっとのことで息を整えた静へ、十和子は呆れ半分の仕草で肩をすくめてみせた。
「あんたがそんなに驚いてどーすんのよ」
そう言う十和子の口調はどこか他人事のようだった。
まるで、自分とは関係のない『誰か』の悪口を言われているような。
「……十和子」
「うん?」
「悔しくないの?」
「べっつにー」
それは事実だからなのか、という考えが一瞬静の脳裏をよぎったが、口にするのは憚られた。
だが、
「言っておくけどね、あたし処女よ」
「だ、誰もそんなこと聞いてないもん」
「ダメよ。『カスタード・パイ』に嘘はつけないのよ、静。疑心暗鬼の匂いがぷんぷんするわ。青錆びた銅と腐葉土の匂い」
そして「なんでもお見通しだ」とでも言うように指を振る十和子を見て、静の胸中に名状しがたい苛立ちが沸き起こる。
「……でも、でも十和子、そんなひどいこと言われて平気なの? わたしだったらやっぱり怒ると思うし、十和子がそう言われてるのも、なんか嫌だよ」
口を尖らせて言い募る静へ、十和子は「ふ」と細く笑った。そしてがしがしと乱暴に静の髪を撫でる。というかくしゃくしゃにする。
それはまるで、他愛なくも微笑ましい子供の言い草を目の当たりにした母親のような微笑みと手つきだった。
「あんたは良い子だねえ、静」
「な、なによ馬鹿にして」
「いやいや、あんたがそう言ってくれんのは身に余る光栄ってやつさ。なんなら涙だばだば流して感謝してやってもいい。でもね──」
そっと、冷たい手のひらが静の頬を撫でる。
「どーだっていいのよ、そんなこたぁ──他人からどう思われるかってのは、本当にどうでもいい、あたしにとってはこれっぽちも価値のないことなの」
静はなんとはなしに寒気を感じた。それは十和子の手の冷たさだけではないような気がした。
「……ね、静」
「なに?」
「分かったとは思うけど、あたしってばクラスの嫌われもんなの。あたしとつるんでたら、あんたもクラスから孤立するわよ。
だからさ──あたしと話すのはほどほどにして、もっと別のやつと友達になるって選択肢もアリだと思う」
ふと、静は彼女の瞳に『なにか』を見た。
それは漠然としていてはっきりとは捉えられなかったが、この世界からたった一人ぼっちで切り離されたような『孤独』のようにも思えた。
「あ──」
静はなにかを言おうとしたが、それは喉に引っ掛かって言葉にならなかった。
そのことに我ながら驚いた次の瞬間には、なにを言おうとしていたのかが綺麗さっぱりと消えてなくなっていた。
「あの──」
十和子は静かに答えを待っていた。その佇まいは静謐すぎて逆に凄みを感じるような、刑の執行を待つ死刑囚の雰囲気にも似ていた。
どんどん身体が冷えていくような気がした。まるで自分の生命が、十和子の氷のような手を通じて向こうに流れているようでもあった。
永遠とも思える時間が過ぎ、十和子は再び「ふ」と微かに笑う。
「冗談よ。そりゃ、クラスの中には仲の悪いグループもいるけど、だからってあんたにとばっちりがいくほど険悪ってわけじゃあないわ。
上っ面のつきあいには違いないけど、それなりに上手く立ち回ってるから、ね」
十和子の細い指が静の頬を這い、唇をさっと撫でた。
やはり彼女の手は冷たくて、静はつい「ふぁ」と声を漏らしてしまう。
なんか釈然としない気持ちで、十和子の低い体温が残る唇を指でなぞる静だったが、
「──そこでなにをしている? ここは立入禁止のはずだ」
機関室の戸口に若い男性教師の一団が立っていた。
照明は切れっぱなしで採光の窓などもないその部屋では、一人ひとりの顔を判別することは出来なかった。
「うげ」
とあからさまに嫌そうな声を上げた十和子だったが、見ている静が呆然とするくらいの変わり身の早さで先頭の教師に頭を下げた。
「ご、ごめんなさい川尻先生! 転校生の人を案内してて、最初は入るつもりなんてなかったんですけど、鍵が開いてたからつい魔が差しちゃったんです!」
「おかしいな……鍵は閉まっていたはずだがな」
つい反射的に、静がそれに答えてしまう。
「あ、はい、閉まっ──」
「このバカ」
静はすぱーんと後頭部をはたかれるが、そっちを向くと満面の笑みを浮かべた虫も殺せないような美少女がそこにいるだけだった。
「ん? なにか言ったかね?」
「いいえ、誰もなにも言っていません」
涼やかな声音ではきはきと答える十和子へ、静は半眼で苦情を言い立てる。
「な、なんでぶつの?」
「あーら、なんのことですか?」
「いいから早く出なさい。その前に氏名とクラスを──まあいい、この暗がりだ。『見なかったこと』にしておこう」
手を振る教師に追い立てられるように、二人は戸口から足を踏み出す。
そのドアにちらりと目をやった十和子は、
「あ、前々から気になってたんですけど、どうしてこの看板『立禁止』なんですか? 普通は『立入禁止』ですよね?」
すると、薄闇の向こうから、なにかをひどく懐かしがるような声が返ってきた。
「ああ……それはこの学校のOB……私の先輩でもある方が『もういらない』と言うので学校に寄贈してくれたんだ。
確かに看板としては使い物にならないものではあるので、こうしてここに保管場所代わりに据え付けてあるんだ」
この教師も昔は学生であり少年だったはずであることが不意に思い起こされ、静はなんとなく不思議な気持ちになった。
自分も十年後、二十年後には、こうしてなにかを懐かしんで思い出に浸るのだろうか、と。
「かつてこの町には守護精霊がいたことの──その黄金の輝きを偲ばせる──記念品、さ」