『初めての友達、そして転校生 ③』
遠野十和子の放った缶コーヒーが宙を舞っていた。
(見えている……? 『透明になったわたし』が……?)
そのことに驚いていた静は空中で放物線を描くアルミ缶を受け取り損ねる。こつん、と頭に落ちた。
「ふぎゃ」
「なにやってんのよ、ドンくさいわね……」
十和子は重そうに転がる缶を拾い、タブを開ける。お金は払っていないはずだった。
彼女もその事実に気が付いたのか、首をすくめて言い訳した。
「慈善事業したんだから、こんくらいの報酬があってもいいでしょ」
「ねえ?」とレジカウンターの向こうで縮こまっている店員に声を掛けると、「は、はいい!」を上擦った返事が戻ってくる。
その答に満足したのか、十和子はにんまり笑うと缶に口を付け、一気に飲み干した。
それは見ていて惚れ惚れするくらいの飲みっぷりで、こくこくこく、と白い喉が忙しげに上下する。
ほんの五秒足らずで空き缶を一つ作り上げた十和子は、
「っはー。尊い労働の後の一杯は気持ちいいわー」
と、やけにおっさん臭い感想を述べた。
そして僅かに中身の残っている缶をちゃぷちゃぷ振り、舌を突き出して最後の一滴まで喉に流す。
「──で、あんたはいつまで隠れてるつもり?」
再び投げられた缶は、今度は寸分違わず静の胸元にすとんと落ちていった。
抱えていた赤ん坊から片手を離してそれを受け止めた静は、しぶしぶ『アクトン・ベイビー』の透明化を解く。
その表情は少しだけ歪んでいた、と思う。
正直、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
子供の頃のささやかないたずらが発覚したときの気分に似て、笑えばいいのか恥じればいいのか、
それとも申し訳なく思えばいいのか。そうしたない交ぜの感情が、静の表情筋を混乱の渦に陥れていたのだった。
だが、静の胸にもっとも強く去来した感情は──
(なんでわたしが見えてるのよ……おかしいよ……)
悔しさ、だった。
そう、静・ジョースターは、はっきりと悔しかった。
大富豪の娘として、それこそ「銀の匙をくわえて生まれてきた」ような扱いを受けてきた自分だったが、
(当たり前の話ではあるが)人生に於いて彼女の思い通りにならないことは山のようにあった。
そのなかで、静のスタンド能力『アクトン・ベイビー』だけは──静自身、静が触れたもの、静の視界にあるもの、
それら全てを自在に透明化する能力──だけは、誰にも覆すことのできない絶対的な権力だった。
別に大層な特権意識を抱いているわけではないが、それでも静にとっては自分自身を成す要素の一つだった。
この能力を血肉として、今までやってきたのだから。
それをいとも簡単に見破られたのだ。
しかも、訳の分からないうちに、である。
さっきの暴漢と違って、赤ん坊の声が十和子に位置を教えたわけではない。
でも、じゃあ、なぜ……?
「『なんでわたしの姿が見えてるのよう』ってツラしてるわね」
おどけた感じで十和子が言う。なんでもお見通しだ、とでも言いたげにウィンクまでしてみせた。
……なんか、腹が立った。
腹いせに、えいっとばかりに空き缶を十和子目掛けて軽く投げた。
それはほんの軽くだったし、軌道も受け取りやすい半円を描いていた。だが、
「あ、ねえねえ、ついでにアイスかなんかもらったらダメ?」
十和子は余所見をしていた。缶コーヒーに味を占めた彼女は、レジカウンターの方に思い切り振り返って、
さらなる報酬を得ようと店員に強請りを掛けていたのだ。
「あ──」
危ない、と静が言うより早く、十和子はそちらも見ずに顔面直撃コースの缶をしっかりキャッチした。
「ど、どうして……?」
今度ははっきりと口に出していた。
こんな奇妙な少女に出会ったのは生まれて初めてだった。
見えぬはずのものを見、取れるはずのないものを取る、それはまるで、
「十和子。もしかして、あなたも──」
その静の言葉は中断された。パトカーのサイレン音が聞こえたからだ。
それはどんどん近づいてきている。コンビニの店内にまで届くということは、かなり近くまで来ているのだろう。
「やべ」
いきなり、十和子がバネ仕掛けのようにぴんと背筋を伸ばした。
「逃げるわよ、静」
「え? な、なんで?」
自分が篭城犯だというならまだしも、それを倒した側が泡を食ったように逃げ出すというのは理解に苦しむ。
「いいから!」
「あ、でも赤ちゃんが」
いきなりの急展開に度を失っておろおろする静から赤ん坊を奪い取った十和子は、やはり急展開についていけず
店の片隅で目を瞬かせている二十台半ばの女性(おそらく出勤途中で事件に巻き込まれたのだろう)に赤ん坊を押し付けた。
「お姉さん、この子の面倒、よろしく。お巡りさんに引き渡してあげて」
その有無を言わせぬ口調に、お姉さんは戸惑いながらも「え、ええ」と快諾した。
それを見届けた十和子は店の裏口へ駆け出し、慌てて戻ってきて、
「早く来るのよ!」
ぼさっと突っ立ってた静の手を引いて脱兎のごとく駆け出した。
「な、なななんで?」
「あたしは警察が嫌いなの!」
(見えている……? 『透明になったわたし』が……?)
そのことに驚いていた静は空中で放物線を描くアルミ缶を受け取り損ねる。こつん、と頭に落ちた。
「ふぎゃ」
「なにやってんのよ、ドンくさいわね……」
十和子は重そうに転がる缶を拾い、タブを開ける。お金は払っていないはずだった。
彼女もその事実に気が付いたのか、首をすくめて言い訳した。
「慈善事業したんだから、こんくらいの報酬があってもいいでしょ」
「ねえ?」とレジカウンターの向こうで縮こまっている店員に声を掛けると、「は、はいい!」を上擦った返事が戻ってくる。
その答に満足したのか、十和子はにんまり笑うと缶に口を付け、一気に飲み干した。
それは見ていて惚れ惚れするくらいの飲みっぷりで、こくこくこく、と白い喉が忙しげに上下する。
ほんの五秒足らずで空き缶を一つ作り上げた十和子は、
「っはー。尊い労働の後の一杯は気持ちいいわー」
と、やけにおっさん臭い感想を述べた。
そして僅かに中身の残っている缶をちゃぷちゃぷ振り、舌を突き出して最後の一滴まで喉に流す。
「──で、あんたはいつまで隠れてるつもり?」
再び投げられた缶は、今度は寸分違わず静の胸元にすとんと落ちていった。
抱えていた赤ん坊から片手を離してそれを受け止めた静は、しぶしぶ『アクトン・ベイビー』の透明化を解く。
その表情は少しだけ歪んでいた、と思う。
正直、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
子供の頃のささやかないたずらが発覚したときの気分に似て、笑えばいいのか恥じればいいのか、
それとも申し訳なく思えばいいのか。そうしたない交ぜの感情が、静の表情筋を混乱の渦に陥れていたのだった。
だが、静の胸にもっとも強く去来した感情は──
(なんでわたしが見えてるのよ……おかしいよ……)
悔しさ、だった。
そう、静・ジョースターは、はっきりと悔しかった。
大富豪の娘として、それこそ「銀の匙をくわえて生まれてきた」ような扱いを受けてきた自分だったが、
(当たり前の話ではあるが)人生に於いて彼女の思い通りにならないことは山のようにあった。
そのなかで、静のスタンド能力『アクトン・ベイビー』だけは──静自身、静が触れたもの、静の視界にあるもの、
それら全てを自在に透明化する能力──だけは、誰にも覆すことのできない絶対的な権力だった。
別に大層な特権意識を抱いているわけではないが、それでも静にとっては自分自身を成す要素の一つだった。
この能力を血肉として、今までやってきたのだから。
それをいとも簡単に見破られたのだ。
しかも、訳の分からないうちに、である。
さっきの暴漢と違って、赤ん坊の声が十和子に位置を教えたわけではない。
でも、じゃあ、なぜ……?
「『なんでわたしの姿が見えてるのよう』ってツラしてるわね」
おどけた感じで十和子が言う。なんでもお見通しだ、とでも言いたげにウィンクまでしてみせた。
……なんか、腹が立った。
腹いせに、えいっとばかりに空き缶を十和子目掛けて軽く投げた。
それはほんの軽くだったし、軌道も受け取りやすい半円を描いていた。だが、
「あ、ねえねえ、ついでにアイスかなんかもらったらダメ?」
十和子は余所見をしていた。缶コーヒーに味を占めた彼女は、レジカウンターの方に思い切り振り返って、
さらなる報酬を得ようと店員に強請りを掛けていたのだ。
「あ──」
危ない、と静が言うより早く、十和子はそちらも見ずに顔面直撃コースの缶をしっかりキャッチした。
「ど、どうして……?」
今度ははっきりと口に出していた。
こんな奇妙な少女に出会ったのは生まれて初めてだった。
見えぬはずのものを見、取れるはずのないものを取る、それはまるで、
「十和子。もしかして、あなたも──」
その静の言葉は中断された。パトカーのサイレン音が聞こえたからだ。
それはどんどん近づいてきている。コンビニの店内にまで届くということは、かなり近くまで来ているのだろう。
「やべ」
いきなり、十和子がバネ仕掛けのようにぴんと背筋を伸ばした。
「逃げるわよ、静」
「え? な、なんで?」
自分が篭城犯だというならまだしも、それを倒した側が泡を食ったように逃げ出すというのは理解に苦しむ。
「いいから!」
「あ、でも赤ちゃんが」
いきなりの急展開に度を失っておろおろする静から赤ん坊を奪い取った十和子は、やはり急展開についていけず
店の片隅で目を瞬かせている二十台半ばの女性(おそらく出勤途中で事件に巻き込まれたのだろう)に赤ん坊を押し付けた。
「お姉さん、この子の面倒、よろしく。お巡りさんに引き渡してあげて」
その有無を言わせぬ口調に、お姉さんは戸惑いながらも「え、ええ」と快諾した。
それを見届けた十和子は店の裏口へ駆け出し、慌てて戻ってきて、
「早く来るのよ!」
ぼさっと突っ立ってた静の手を引いて脱兎のごとく駆け出した。
「な、なななんで?」
「あたしは警察が嫌いなの!」
コンビニエンスストア『オーソン』から猛ダッシュで脱出した二人は、とりあえず近くの緑地公園に辿り着いた。
水飲み場で喉を潤す十和子の背後から、静は一つの疑問を口にする。
それは、十和子に手を引かれて走らされている間中、考えていたことだった。
「ねえ、十和子」
「なに?」
「あなた……『スタンド使い』なの?」
「スタンド……使い……?」
十和子は訝しげに唇を突き出し、やがて「ああ」と漏らす。
「いや、多分そんなんじゃないと思うわ、『これ』」
『これ』、そう言った。
それはつまり、静の『アクトン・ベイビー』に比類する『なにか』を持っていることを暗に認めているわけである。
朝からなにか只者ではない言動に満ちていた十和子だったが、今こそ窺う余地は無かった。
それこそ、父の言葉を借りれば「コーラを飲んだ後にゲップが出るくらいに確実」なことである。
「でも、なにか……あるんでしょう? 他の人に無い才能、みたいなもの」
「かもね」
「あの男の人を倒したのもそうなの?」
「あれはただの空手だよ。あたし、空手十三階段なの。嘘だけど」
本当でなくて良かったと思う。リアクションに困るところだった。
「空き缶を見ないで取ったのは?」
「ありゃ、女のカンよ。あたしくらいいい女になると、そんくらいのカンが働かないと生きていけないのさ。これホント」
「『透明だったわたし』が見えたでしょう?」
「あっあー、見えたっつーかね、静ちゃんのいい匂いがしたんだよ。向日葵の匂いだったぜ」
「ま、真面目に答えてよ。人を食ったようなことばっかり言って」
馬鹿にされているような気分がして、ちょっとムキになっていた静が身を乗り出したその眼前に、十和子が人差し指をびしっと突きつけた。
「そうそれ」
「……え?」
意味を受け止め損ね、静はぽかんと口を開ける。
「だーかーらー、それよそれ。あたしは『人喰い』なの」
と、彼女は普通の人よりも伸びた犬歯が剥き出しになるまで口の端を広げ、笑った。
「意味が……良く、分からないんだけど」
言いながら、静は思い出す。
父が寝物語に語ってくれた、若き日の冒険のくさぐさを。
人を喰う化物と死闘を演じ、アメリカ、メキシコ、ヨーロッパと世界各地を駆け巡ったこと。
祖父の代からの因縁に決着をつけるため、吸血鬼を倒すために再び世界中を旅したこと。
「分かんないかな? はっきり『がおー、食べちゃうぞー』って言われなきゃ分からない?
あたしは人間を専門に捕食する怪物なの。だから、色んな能力を持ってるわ。
『美味い人間と不味い人間を嗅ぎ分ける能力』、『人間の死角に滑り込む能力』、『人間を切り刻む能力』」
父の話は半分以上が法螺話だと思っていた。
だが、父はジョークは大好きだが法螺を吹くような人間ではなかった。
──きっと、あれは本当の話だったのだ。
「あたしが好きなのはね……柔らかそうで、でも身が締まっていて、処女丸出しの女の子なのよ」
今や、十和子は笑っていなかった。
切れ長の目をいっそう細め、値踏みするように静の身体を眺め回していた。
嘘だ、と笑い飛ばしたかった。
だが、彼女の全身から発散される凄惨な空気が、それを許さなかった。
十和子の言っていることはまるで荒唐無稽だったが、疑いを挟むことを許さない響きがあった。
まるで、嘘偽りない真実を語っているかのように。
「目を逸らすな。こっちを見なさい」
いきなり命令され、静は怯える。背けていた顔が、自分の意志に反して十和子へと動いていた。
だめだ、見たらだめだ。
頭の中ではそんな声が最大ボリュームで鳴り響いているのに、身体はそれに逆らっていた。
「う、うう……」
そして、ついに静は十和子の瞳を見る──。
「冗談よ」
その瞳は、いたずらっぽく輝いていた。
「ふ、ふえ?」
「冗談だって。イッツアジョーク。あたしが人間なんてゲテモノ、食うわけないじゃーん。しっかし、あんたって本当にアレな子ね。
真に受けるかよフツー。百物語で泣き喚くタイプでしょ。クラスに一人はいるよね、場の空気読みすぎるやつ。
……ま、あんたも昨日、このあたしをペテンに掛けたんだからこれでおあいこってコトで」
「え? じゃあ今の、全部嘘なの?」
なにを当たり前のことを、と言ってから後悔した。十和子のペースに巻き込まれ、冷静な判断力すら麻痺していたらしい。
そういう意味では、確かに、彼女には『人を喰う』才能があった。
さっきまでの腹立ちは綺麗に消えていた。
恐怖から安堵への感情の切り替えで、その過負荷に精神が耐えられず反射的な防衛反応が起こったのか、
無性におかしくなった静は思わず吹き出してしまった。抑えこもうとしても腹の底から笑いがこみ上げてきていた。
「──やっと笑った」
静が「?」と疑問符を頭に浮かべるのへ、
「さっき、あたし無神経な質問しちゃったからさ、ずっと気になってたんだよ。
ほら──『なにをしにこの街に来たのか』って。もしかしたら言いたくないことだったかのも知れないのにね」
「あ、ううん、わたしこそ。留学だっていうのは嘘だったの。……ごめんね」
そこで静は思い出す。
「あれ? っていうことは、最初からわたしの嘘を見抜いていたってこと? じゃあやっぱり『スタンド使い』?」
十和子は鼻から息を漏らし、手馴れた仕草で肩をすくめた。どうやらこれが彼女の癖らしい。
「違うって。『スタンド使い』とやらじゃないってば。……でも、あながち全部嘘ってわけじゃあないのよ。
あたしね、人の心が読めるの。心を読む、ってのは正確じゃないな。その人の魂……というか本質を、匂いとして把握できる。
体臭とか現実の匂いの話じゃねーわよ、言っておくけど。例えば……そうね、さっきのヤク中」
十和子は公園の隅のブランコに手を触れさせ、ゆっくりと左右に振る。
「あいつから匂ってきたのは鉄錆と枯葉の匂い、それからレモングラスの匂い。
どうしようもねーくらいに疲れきった匂いだけど、心の奥底ではまだ瑞々しい青春の残り香を大事に抱えている。
そんな匂いだったわ」
なんか思いっきり適当なことを言ってるだけのような気もするが、言われてみればそんな感じがする風体ではあった。
「……それが、あなたの『能力』?」
「そゆこと。それを応用して、相手の匂いの鈍感な部分を突いたり、そいつが嫌いそうな匂いを演出して追い込んだり、とかが得意技かな。
お菓子作りみたいなモンよ。目分量ざっくりで相手をこね回して、『上手くできたかな?』って匂いで確かめながら修正を加えて。
それがあたしの『人を喰う能力』ってワケさ」
分かるようで、よく分からなかった。
そもそも彼女はスタンド使いではないのだろうか?
静自身が出会ったスタンド使いなど片手で数えられるくらいで、スタンドのことについてさほどの理解は無いが、
そういう能力を持ったスタンドがいてもいいような気がする。
自分のスタンドがヴィジョンを持ったスタンドだったら、それが見えるか見えないかで、
つまり『スタンドのヴィジョンが見えるのはスタンド使いだけ』というルールを逆利用して、
十和子がスタンド使いなのかどうか簡単に判別できるのだが、
あいにく『アクトン・ベイビー』はヴィジョンの無いスタンドだった。
『消える』スタンドなのだから、それも当然かも知れないが。
そんな着地点の見えない思考の果てに、静の脳裏にある一つの事柄が唐突に浮かび上がった。
『それ』を今まで失念していたなんて、どうかしているとしか思えなかった。
「あ、あの!」
いきなり大声を上げた静に、十和子は驚いてブランコを揺らす手を止める。
「な、なによ」
「あり、ありありありがとう」
「……なにが」
本気で分かっていないようだった。
「いやだから、その、助けに来てくれて。『泥棒』とかとても酷いこと言ったのに」
「まあ事実泥棒だしね。……なに、それだけ? だったら、わざわざ礼を言うこっちゃねーわよ。好きでやったんだから。
あたし、馬鹿なのよ。あんたと同じで、ね」
そう言う十和子は、それでも少し面映そうにしていた。
初夏の朝の日差しは二人の頭上に降り注いでいた。
静と十和子が現在時刻を思い出し、『遅刻』という揺るぎない現実を認識するのは、もう少し先のことだった。
水飲み場で喉を潤す十和子の背後から、静は一つの疑問を口にする。
それは、十和子に手を引かれて走らされている間中、考えていたことだった。
「ねえ、十和子」
「なに?」
「あなた……『スタンド使い』なの?」
「スタンド……使い……?」
十和子は訝しげに唇を突き出し、やがて「ああ」と漏らす。
「いや、多分そんなんじゃないと思うわ、『これ』」
『これ』、そう言った。
それはつまり、静の『アクトン・ベイビー』に比類する『なにか』を持っていることを暗に認めているわけである。
朝からなにか只者ではない言動に満ちていた十和子だったが、今こそ窺う余地は無かった。
それこそ、父の言葉を借りれば「コーラを飲んだ後にゲップが出るくらいに確実」なことである。
「でも、なにか……あるんでしょう? 他の人に無い才能、みたいなもの」
「かもね」
「あの男の人を倒したのもそうなの?」
「あれはただの空手だよ。あたし、空手十三階段なの。嘘だけど」
本当でなくて良かったと思う。リアクションに困るところだった。
「空き缶を見ないで取ったのは?」
「ありゃ、女のカンよ。あたしくらいいい女になると、そんくらいのカンが働かないと生きていけないのさ。これホント」
「『透明だったわたし』が見えたでしょう?」
「あっあー、見えたっつーかね、静ちゃんのいい匂いがしたんだよ。向日葵の匂いだったぜ」
「ま、真面目に答えてよ。人を食ったようなことばっかり言って」
馬鹿にされているような気分がして、ちょっとムキになっていた静が身を乗り出したその眼前に、十和子が人差し指をびしっと突きつけた。
「そうそれ」
「……え?」
意味を受け止め損ね、静はぽかんと口を開ける。
「だーかーらー、それよそれ。あたしは『人喰い』なの」
と、彼女は普通の人よりも伸びた犬歯が剥き出しになるまで口の端を広げ、笑った。
「意味が……良く、分からないんだけど」
言いながら、静は思い出す。
父が寝物語に語ってくれた、若き日の冒険のくさぐさを。
人を喰う化物と死闘を演じ、アメリカ、メキシコ、ヨーロッパと世界各地を駆け巡ったこと。
祖父の代からの因縁に決着をつけるため、吸血鬼を倒すために再び世界中を旅したこと。
「分かんないかな? はっきり『がおー、食べちゃうぞー』って言われなきゃ分からない?
あたしは人間を専門に捕食する怪物なの。だから、色んな能力を持ってるわ。
『美味い人間と不味い人間を嗅ぎ分ける能力』、『人間の死角に滑り込む能力』、『人間を切り刻む能力』」
父の話は半分以上が法螺話だと思っていた。
だが、父はジョークは大好きだが法螺を吹くような人間ではなかった。
──きっと、あれは本当の話だったのだ。
「あたしが好きなのはね……柔らかそうで、でも身が締まっていて、処女丸出しの女の子なのよ」
今や、十和子は笑っていなかった。
切れ長の目をいっそう細め、値踏みするように静の身体を眺め回していた。
嘘だ、と笑い飛ばしたかった。
だが、彼女の全身から発散される凄惨な空気が、それを許さなかった。
十和子の言っていることはまるで荒唐無稽だったが、疑いを挟むことを許さない響きがあった。
まるで、嘘偽りない真実を語っているかのように。
「目を逸らすな。こっちを見なさい」
いきなり命令され、静は怯える。背けていた顔が、自分の意志に反して十和子へと動いていた。
だめだ、見たらだめだ。
頭の中ではそんな声が最大ボリュームで鳴り響いているのに、身体はそれに逆らっていた。
「う、うう……」
そして、ついに静は十和子の瞳を見る──。
「冗談よ」
その瞳は、いたずらっぽく輝いていた。
「ふ、ふえ?」
「冗談だって。イッツアジョーク。あたしが人間なんてゲテモノ、食うわけないじゃーん。しっかし、あんたって本当にアレな子ね。
真に受けるかよフツー。百物語で泣き喚くタイプでしょ。クラスに一人はいるよね、場の空気読みすぎるやつ。
……ま、あんたも昨日、このあたしをペテンに掛けたんだからこれでおあいこってコトで」
「え? じゃあ今の、全部嘘なの?」
なにを当たり前のことを、と言ってから後悔した。十和子のペースに巻き込まれ、冷静な判断力すら麻痺していたらしい。
そういう意味では、確かに、彼女には『人を喰う』才能があった。
さっきまでの腹立ちは綺麗に消えていた。
恐怖から安堵への感情の切り替えで、その過負荷に精神が耐えられず反射的な防衛反応が起こったのか、
無性におかしくなった静は思わず吹き出してしまった。抑えこもうとしても腹の底から笑いがこみ上げてきていた。
「──やっと笑った」
静が「?」と疑問符を頭に浮かべるのへ、
「さっき、あたし無神経な質問しちゃったからさ、ずっと気になってたんだよ。
ほら──『なにをしにこの街に来たのか』って。もしかしたら言いたくないことだったかのも知れないのにね」
「あ、ううん、わたしこそ。留学だっていうのは嘘だったの。……ごめんね」
そこで静は思い出す。
「あれ? っていうことは、最初からわたしの嘘を見抜いていたってこと? じゃあやっぱり『スタンド使い』?」
十和子は鼻から息を漏らし、手馴れた仕草で肩をすくめた。どうやらこれが彼女の癖らしい。
「違うって。『スタンド使い』とやらじゃないってば。……でも、あながち全部嘘ってわけじゃあないのよ。
あたしね、人の心が読めるの。心を読む、ってのは正確じゃないな。その人の魂……というか本質を、匂いとして把握できる。
体臭とか現実の匂いの話じゃねーわよ、言っておくけど。例えば……そうね、さっきのヤク中」
十和子は公園の隅のブランコに手を触れさせ、ゆっくりと左右に振る。
「あいつから匂ってきたのは鉄錆と枯葉の匂い、それからレモングラスの匂い。
どうしようもねーくらいに疲れきった匂いだけど、心の奥底ではまだ瑞々しい青春の残り香を大事に抱えている。
そんな匂いだったわ」
なんか思いっきり適当なことを言ってるだけのような気もするが、言われてみればそんな感じがする風体ではあった。
「……それが、あなたの『能力』?」
「そゆこと。それを応用して、相手の匂いの鈍感な部分を突いたり、そいつが嫌いそうな匂いを演出して追い込んだり、とかが得意技かな。
お菓子作りみたいなモンよ。目分量ざっくりで相手をこね回して、『上手くできたかな?』って匂いで確かめながら修正を加えて。
それがあたしの『人を喰う能力』ってワケさ」
分かるようで、よく分からなかった。
そもそも彼女はスタンド使いではないのだろうか?
静自身が出会ったスタンド使いなど片手で数えられるくらいで、スタンドのことについてさほどの理解は無いが、
そういう能力を持ったスタンドがいてもいいような気がする。
自分のスタンドがヴィジョンを持ったスタンドだったら、それが見えるか見えないかで、
つまり『スタンドのヴィジョンが見えるのはスタンド使いだけ』というルールを逆利用して、
十和子がスタンド使いなのかどうか簡単に判別できるのだが、
あいにく『アクトン・ベイビー』はヴィジョンの無いスタンドだった。
『消える』スタンドなのだから、それも当然かも知れないが。
そんな着地点の見えない思考の果てに、静の脳裏にある一つの事柄が唐突に浮かび上がった。
『それ』を今まで失念していたなんて、どうかしているとしか思えなかった。
「あ、あの!」
いきなり大声を上げた静に、十和子は驚いてブランコを揺らす手を止める。
「な、なによ」
「あり、ありありありがとう」
「……なにが」
本気で分かっていないようだった。
「いやだから、その、助けに来てくれて。『泥棒』とかとても酷いこと言ったのに」
「まあ事実泥棒だしね。……なに、それだけ? だったら、わざわざ礼を言うこっちゃねーわよ。好きでやったんだから。
あたし、馬鹿なのよ。あんたと同じで、ね」
そう言う十和子は、それでも少し面映そうにしていた。
初夏の朝の日差しは二人の頭上に降り注いでいた。
静と十和子が現在時刻を思い出し、『遅刻』という揺るぎない現実を認識するのは、もう少し先のことだった。
──それはそれとして、静は思う。
遠野十和子という奇妙な少女と、友達になりたいと。
彼女に自分のことを知って欲しかった。『アクトン・ベイビー』のこと、本当の両親を探しにきたこと。
そして、彼女の色々なことを、『魂の匂いを嗅ぐ』その奇妙な能力についても、深く知りたいと思った。
遠野十和子という奇妙な少女と、友達になりたいと。
彼女に自分のことを知って欲しかった。『アクトン・ベイビー』のこと、本当の両親を探しにきたこと。
そして、彼女の色々なことを、『魂の匂いを嗅ぐ』その奇妙な能力についても、深く知りたいと思った。
「ねえ十和子」
「なーに、静」
「あなたのその『能力』……名前はあるの?」
ちょっとだけ間を置き、十和子は答える。
「なーに、静」
「あなたのその『能力』……名前はあるの?」
ちょっとだけ間を置き、十和子は答える。
「──『カスタード・パイ』」