装填が完了した。リップヴァーンの表情――それは先ほどまでとは違い、
禍々しさが抜けていた。彼女がただの一兵卒だった頃に戻ったようだった。
戦場の恐怖、狂気、それらにただ怯えていた頃の顔だった。じくりと、胸
がうずく。久しく感じていなかった、死への恐怖。遥か昔にしまいこんだはずの
ソレが、血液と共に流れ出てきたように感じた。
リップヴァーンは、震えを抑えることが出来なかった。彼女は怯えていた。
目の前に迫った死/敵に。
死――それは彼女が吸血鬼になって、克服したはずの虚無だった。戦場
を駆けてきた彼女は、戦争を楽しんでいたと同時に、死をとても怖れていた。
避けられぬ終焉。それは、いったいどのような姿で、この身に訪れるのだろう。
禍々しさが抜けていた。彼女がただの一兵卒だった頃に戻ったようだった。
戦場の恐怖、狂気、それらにただ怯えていた頃の顔だった。じくりと、胸
がうずく。久しく感じていなかった、死への恐怖。遥か昔にしまいこんだはずの
ソレが、血液と共に流れ出てきたように感じた。
リップヴァーンは、震えを抑えることが出来なかった。彼女は怯えていた。
目の前に迫った死/敵に。
死――それは彼女が吸血鬼になって、克服したはずの虚無だった。戦場
を駆けてきた彼女は、戦争を楽しんでいたと同時に、死をとても怖れていた。
避けられぬ終焉。それは、いったいどのような姿で、この身に訪れるのだろう。
笑いながら死んだ兵がいた。
泣きながら死んだ兵がいた。
呪詛を唱えながら死んだ兵がいた。
恋人の名前を繰り返しながら死んだ兵がいた。
何が起きたのかわからずに死んだ兵がいた。
すべてを受け入れた表情で死んだ兵がいた。
戦場にはいろいろな死が存在した。
泣きながら死んだ兵がいた。
呪詛を唱えながら死んだ兵がいた。
恋人の名前を繰り返しながら死んだ兵がいた。
何が起きたのかわからずに死んだ兵がいた。
すべてを受け入れた表情で死んだ兵がいた。
戦場にはいろいろな死が存在した。
戦場にうち捨てられていた死体を見るたび、背筋に悪寒が走った。私もい
つかこういう風に、道端の石ころ同然に見られながら、まるで物を扱うよう
に処分されて、いつか、すべての人の記憶から忘れ去られるんだ。夜、死を
思うたびに彼女は泣いた。意識がなくなり、体が朽ち果て、自分のすべてが
無に帰す……それはなんと恐ろしい想像だろう!
死は人を無価値にする。その人間がどんな人生を送ってこようとも、最終的には
奈落に落とされ、虚無になる。それは絶対にいやだった。藁のように、塵のよう
に、自分が無価値な存在とされるのがいやだった。彼女は死ぬのがいやだった。
つかこういう風に、道端の石ころ同然に見られながら、まるで物を扱うよう
に処分されて、いつか、すべての人の記憶から忘れ去られるんだ。夜、死を
思うたびに彼女は泣いた。意識がなくなり、体が朽ち果て、自分のすべてが
無に帰す……それはなんと恐ろしい想像だろう!
死は人を無価値にする。その人間がどんな人生を送ってこようとも、最終的には
奈落に落とされ、虚無になる。それは絶対にいやだった。藁のように、塵のよう
に、自分が無価値な存在とされるのがいやだった。彼女は死ぬのがいやだった。
そのまま時は流転する。死と隣り合わせに生きてきた彼女は、敵を殺し続けた。
平原で、街道で、雪山で、敵がいるのなら、あらゆる場所にいった。そして死を
生産し続けた。自分が無価値ではないと証明するには、それしかなかった。他人
に死を与えることで、彼女は虚無に抗い続けることが出来た。彼女にとって戦争
とは、愉悦と抵抗だった。絶えず抗い続ける彼女は、前進し続けた。それは血が
沸騰するような苛烈な旅だった。死はさまざまな形になって、彼女に襲い掛かっ
てきた。彼女は全霊を懸け、敵/死と戦い、それに勝利してきた。そしてその虚
無に抗う意思が、彼女に得がたい才能を与えた。
魔弾という、バケモノじみた業だった。
平原で、街道で、雪山で、敵がいるのなら、あらゆる場所にいった。そして死を
生産し続けた。自分が無価値ではないと証明するには、それしかなかった。他人
に死を与えることで、彼女は虚無に抗い続けることが出来た。彼女にとって戦争
とは、愉悦と抵抗だった。絶えず抗い続ける彼女は、前進し続けた。それは血が
沸騰するような苛烈な旅だった。死はさまざまな形になって、彼女に襲い掛かっ
てきた。彼女は全霊を懸け、敵/死と戦い、それに勝利してきた。そしてその虚
無に抗う意思が、彼女に得がたい才能を与えた。
魔弾という、バケモノじみた業だった。
ちょうどそのときだった。彼女にワルシャワ行きの指令が下ったのは。蜂起し
たポーランド抵抗軍/目前に迫るソヴィエト軍/攻囲中のドイツ軍。ワルシャワ
は激烈な三つ巴状態にあった。その魔女の釜の底で、彼女は悪魔に出会った。
悪魔は、彼女が母親から聞いていたような、鋭い爪や、尖った耳、禍々しい翼
を持ってはいなかった。小さく、余分な肉を纏った、ただの人間だった。
だが、その狂気は本物だった。狂気はその周囲にも伝播していた。ワルシャワ
は、まさしく悪魔の遊技場になっていた。人間を切り裂き、その尊厳を踏みにじ
る行為が、平然と行われていた。
それは吸血鬼を人工的に精製する過程だった。捕虜は実験のせいで肉腫の塊に
なっていたり、その不死性を確かめるべく吊るされていたりした。
悪魔は、彼岸の境を取り除こうとしていた。そのために死も生も、すべてが同
価値に扱われ、処理されていた。そこには一部の無駄もなかった。すべては、吸
血鬼を製造する、それだけに集約していた。
まあ、その実験体は吸血鬼といえるほど全うなシロモノではなく、肉腫の塊の
ような形をした失敗作ばかりであったが。
その有様はさながら奇形だらけのサーカスだった。
人間の戯画が闊歩する不思議の国。
悪魔はその国に君臨する王だった。
たポーランド抵抗軍/目前に迫るソヴィエト軍/攻囲中のドイツ軍。ワルシャワ
は激烈な三つ巴状態にあった。その魔女の釜の底で、彼女は悪魔に出会った。
悪魔は、彼女が母親から聞いていたような、鋭い爪や、尖った耳、禍々しい翼
を持ってはいなかった。小さく、余分な肉を纏った、ただの人間だった。
だが、その狂気は本物だった。狂気はその周囲にも伝播していた。ワルシャワ
は、まさしく悪魔の遊技場になっていた。人間を切り裂き、その尊厳を踏みにじ
る行為が、平然と行われていた。
それは吸血鬼を人工的に精製する過程だった。捕虜は実験のせいで肉腫の塊に
なっていたり、その不死性を確かめるべく吊るされていたりした。
悪魔は、彼岸の境を取り除こうとしていた。そのために死も生も、すべてが同
価値に扱われ、処理されていた。そこには一部の無駄もなかった。すべては、吸
血鬼を製造する、それだけに集約していた。
まあ、その実験体は吸血鬼といえるほど全うなシロモノではなく、肉腫の塊の
ような形をした失敗作ばかりであったが。
その有様はさながら奇形だらけのサーカスだった。
人間の戯画が闊歩する不思議の国。
悪魔はその国に君臨する王だった。
悪魔は、まるでいい悪戯を思いついたような笑顔で、彼女に契約を持ちかけ
た。死との決別、その代償は力と身体。まるで夢のような話。だが、悪魔の目
には偽りは見えなかった。
リップヴァーンは、その契約を結んだ。幾たびも踏み越えてきた戦場、そこ
で死んでいったものは、どれもこれも、哀れに見えた。すべて無価値の烙印を
押された者たちだった。私もいずれ彼の仲間入りを果たすのだろうか。果たす
のだろう。自分が人間である限り、生物である限り、エントロピーの呪縛から
は逃れられない。
だが。彼女は、それを認めなかった。認めたくなかった。自分が価値がない
と証明されるのが、この上なくいやだった。それを認めては、自分が虚無に
飲まれる。それは絶対的な敗北だった。その敗北を受け入れてしまえば、自分
はただの抜け殻になってしまうだろう。
だから、彼女は彼女たらしめるものを守るために、人間をやめることを肯定
した。不死を受け入れ、永久にこの世界を彷徨うかりそめの旅人になった。
彼女の心は一時の平穏を得た。これで死という虚無から逃れられた。もう
無様に震えて泣き叫ぶことはない。虚無に犯されることもない。
だがそこで、悪魔は呪いを残した。死から乖離された吸血鬼。それでも、
完全ではない。ルールが破れれば、不死の魔法は解けてしまう。その不死を
解呪する魔物に気をつけたまえ、と悪魔はいった。それと出会ってしまえば、
死はまぬがれない。名を魔王(ザミエル)。その言葉は心の深いところで、彼女
を縛り続けている。
た。死との決別、その代償は力と身体。まるで夢のような話。だが、悪魔の目
には偽りは見えなかった。
リップヴァーンは、その契約を結んだ。幾たびも踏み越えてきた戦場、そこ
で死んでいったものは、どれもこれも、哀れに見えた。すべて無価値の烙印を
押された者たちだった。私もいずれ彼の仲間入りを果たすのだろうか。果たす
のだろう。自分が人間である限り、生物である限り、エントロピーの呪縛から
は逃れられない。
だが。彼女は、それを認めなかった。認めたくなかった。自分が価値がない
と証明されるのが、この上なくいやだった。それを認めては、自分が虚無に
飲まれる。それは絶対的な敗北だった。その敗北を受け入れてしまえば、自分
はただの抜け殻になってしまうだろう。
だから、彼女は彼女たらしめるものを守るために、人間をやめることを肯定
した。不死を受け入れ、永久にこの世界を彷徨うかりそめの旅人になった。
彼女の心は一時の平穏を得た。これで死という虚無から逃れられた。もう
無様に震えて泣き叫ぶことはない。虚無に犯されることもない。
だがそこで、悪魔は呪いを残した。死から乖離された吸血鬼。それでも、
完全ではない。ルールが破れれば、不死の魔法は解けてしまう。その不死を
解呪する魔物に気をつけたまえ、と悪魔はいった。それと出会ってしまえば、
死はまぬがれない。名を魔王(ザミエル)。その言葉は心の深いところで、彼女
を縛り続けている。
ダメージの蓄積が、彼女から余裕を奪っていた。たった今起こった狙撃の損傷。
それは血液の不足を引き起こしていた。それは、人間にはいうにおよばず、吸血
鬼にも多大な枷になる。体が動かなくなるだけではない。避けられぬ吸血衝動が
襲うのだ。吸血鬼は、常にこの衝動に悩まされる。どんなに強靭な意識でも、そ
れを完全に抑えることは難しい。どんなに自分を律しようとも、最後にはその衝
動に身を任せてしまう。それは、彼女が考えることを放棄した、ただの獣に還る
ことを意味する。思考する獣は厄介だが、そうでない獣は狩ることが容易い。
リップヴァーンが吸血衝動に負けることは、この場において、彼女が負けること
につながる。敗北はすなわち死。死は、絶対に避けねばならない。だから、今は
まだ、吸血衝動に屈するわけにはいかない。
それは血液の不足を引き起こしていた。それは、人間にはいうにおよばず、吸血
鬼にも多大な枷になる。体が動かなくなるだけではない。避けられぬ吸血衝動が
襲うのだ。吸血鬼は、常にこの衝動に悩まされる。どんなに強靭な意識でも、そ
れを完全に抑えることは難しい。どんなに自分を律しようとも、最後にはその衝
動に身を任せてしまう。それは、彼女が考えることを放棄した、ただの獣に還る
ことを意味する。思考する獣は厄介だが、そうでない獣は狩ることが容易い。
リップヴァーンが吸血衝動に負けることは、この場において、彼女が負けること
につながる。敗北はすなわち死。死は、絶対に避けねばならない。だから、今は
まだ、吸血衝動に屈するわけにはいかない。
リップヴァーンは意識を外に向け、その範囲を広げた。
吸血鬼の目は、二つだけではない。形而上学的位置に、もう一つ有する。
その目を使うことで、吸血鬼は肉にとらわれることはなく、あらゆるものを見渡せた。
だからこうやって、壁に背を向けたまま、周囲の状況を知ることが出来る。
そしてリップヴァーンは知った。標的が、こちらに向かって走ってきているのを。
吸血鬼の目は、二つだけではない。形而上学的位置に、もう一つ有する。
その目を使うことで、吸血鬼は肉にとらわれることはなく、あらゆるものを見渡せた。
だからこうやって、壁に背を向けたまま、周囲の状況を知ることが出来る。
そしてリップヴァーンは知った。標的が、こちらに向かって走ってきているのを。
「――どうして、空中を走ることが出来るの?」
その疑問は、もっともだった。垂直の壁を歩行できる吸血鬼といえども、何もな
い空間を疾走することは無理だった。シグバールはそれを可能にする異能を持っ
ているのだが、リップヴァーンは知らない。リップヴァーンは、少しの間、あっけ
に取られた。だが、彼女とて戦場を踏み越えてきた百戦錬磨の軍人だ。想定外の事
態に、対処せずして、どうやって生き残ることが出来ただろうか。冷徹に、彼女は
断じた。あのスピードでは、ここに着く前に、魔弾で撃墜できる。いつものように
やれば、殺せる。
い空間を疾走することは無理だった。シグバールはそれを可能にする異能を持っ
ているのだが、リップヴァーンは知らない。リップヴァーンは、少しの間、あっけ
に取られた。だが、彼女とて戦場を踏み越えてきた百戦錬磨の軍人だ。想定外の事
態に、対処せずして、どうやって生き残ることが出来ただろうか。冷徹に、彼女は
断じた。あのスピードでは、ここに着く前に、魔弾で撃墜できる。いつものように
やれば、殺せる。
そのために、彼女は必死に、理性を繋ぎとめていた。
感覚を極限まで研ぎ澄ませていた。
イメージを結ぶ。魔弾が、相手を屠る光景を、心の上に投影する。
そして――――それは、なった。
天に向かって、マスケット銃をかまえた。
目を閉じて、ゆっくりと意識を拡張していった。
周囲の空間が、自分のものになっていくのがわかった。
この空間は、私の創った檻だ。
この空間の中では、私は無敵だ。誰も魔弾をかわすことは出来ない。
誰も逃がさない。
引き金にかかった指に意識を向ける。
音。
魔弾が解き放たれた音。
これで終わり。
私はもう一度死に勝つ。
何度でも勝ち続ける。
感覚を極限まで研ぎ澄ませていた。
イメージを結ぶ。魔弾が、相手を屠る光景を、心の上に投影する。
そして――――それは、なった。
天に向かって、マスケット銃をかまえた。
目を閉じて、ゆっくりと意識を拡張していった。
周囲の空間が、自分のものになっていくのがわかった。
この空間は、私の創った檻だ。
この空間の中では、私は無敵だ。誰も魔弾をかわすことは出来ない。
誰も逃がさない。
引き金にかかった指に意識を向ける。
音。
魔弾が解き放たれた音。
これで終わり。
私はもう一度死に勝つ。
何度でも勝ち続ける。