『夏のはじまり、花盗人の残り香』
「ちょっと、あなた」
駅前のスーパーを出ようとしたところで呼び止められ、遠野十和子は怪訝そうに振り返った。
「……なんスか?」
こういうときは、決まってロクなことにならない。
特に、さっきレジで会ったばかりの店員が鼻息荒く自分の肩を鷲掴みにしているときなどは。
「まだ、会計が済んでいない商品がありますよね」
「はあ?」
意味が分からなかった。
会計が済んでいない商品、それはつまり棚に陳列されている商品のことで、
そんな物の有無を問われても「あります」としか言いようがないではないか。
「……じゃなくて、えーと、ああ。要するにあたしが店のなにかをパクったってこと?」
「いいから事務所まで来てもらえますか」
四十代半ばくらいの、自分の母親と同世代であろう店員に腕を握られ、
「ちょっと、やめてよ!」
反射的に振り払ってしまい、軽率だったかと思う。
「家で邪険にされているように、娘と同じくらいの子供に反抗された」というオーラをありありと出している店員は、
顔を真っ赤にしながらも態度だけは冷静を装って繰り返す。
「お手間は取らせませんから。いいですよね? 盗ってないのなら構わないでしょう?」
その木で鼻を括るような言い方に、十和子は反感を覚える。
クーラーの効いている店内からは身体半分以上はみ出しており、夏の高気圧と直射日光が半身を炙っている。
出口近くでは花屋のテナントが出展しており、そのごちゃごちゃした花の匂いと、
さっきから小さな向日葵を手にこちらをちらちら見ている客がいるのが不快だった。
刻々と上昇する不快指数に、目の前の店員の横顔を張り倒してしまうかという考えが頭の隅をかすめる。
だが、やってもないことで事務所に連行されるのは御免だった。
変に怒らせて心象を悪くするのは良くない。なんとか上手くこの場を取り繕わなければ。
そう判断した十和子は、頭のスイッチを切り替えてしおらしげに頭を下げる。
「ごめんなさい、いきなり言われたからびっくりしたんです。でも、本当にわたしなにも盗んでいません。
それに……わたし、今日は早く帰らなきゃいけないんです。
今日はママが遅番のお仕事で、わたしが弟と妹の分のご飯を作らなきゃいけないんです」
と、十和子は手にしたスーパーの袋を掲げて見せた。
もちろん丸っきりの嘘である。
「あら……弟さんと妹さんが……?」
店員の態度が少しだけ和らいだ。それを如実に見て取った十和子は内心でほくそ笑む。
この手のオバサンには、こういう「分かりやすい良い子」を演じるのが一番手っ取り早い。
「はい、ママがお仕事で大変だから、少しだけでも力になりたくて。下の子たちも手伝ってくれてるんです」
実のところ、遠野家は諸事情により両親不在であり、弟や妹なんてものは最初から存在していない、のだが。
「そう……」
店員は迷っていた。
もう一息か、と思った瞬間、十和子は危険な兆候が彼女の内面に沸き起こったことを察知する。
それは「決意」と「使命感」、そして「正義感」。
「でもね、だったら、なおさら分かるでしょ? 万引きなんてしたらお母さんがどれだけ悲しむかってこと」
十和子は内心で舌打ちした。店員の表層上の怒りや同情に惑わされて、その根底に流れているものを見逃していた。
(この人、確信してる──あたしが商品を盗んだということを、疑いを挟む余地のないレベルで確信している)
だが、見もしないことを、そもそもが盗んでいないことを、いったいどうやったらそこまで信じることができるのか。
さすがに疑念を禁じえない十和子だったが、店員の背後のさらに向こう、
クーラーで冷やされた風の流れる風上に、見知った顔が三つばかり並んでいるのに気が付いた。
それは、十和子の通う高校のクラスメートだった。
にやにやと意地汚い笑顔をこちらに向け、なにかの言葉を頻繁に交し合っていた。
声は聞こえないが、なんと言っているかは容易に理解できる。
駅前のスーパーを出ようとしたところで呼び止められ、遠野十和子は怪訝そうに振り返った。
「……なんスか?」
こういうときは、決まってロクなことにならない。
特に、さっきレジで会ったばかりの店員が鼻息荒く自分の肩を鷲掴みにしているときなどは。
「まだ、会計が済んでいない商品がありますよね」
「はあ?」
意味が分からなかった。
会計が済んでいない商品、それはつまり棚に陳列されている商品のことで、
そんな物の有無を問われても「あります」としか言いようがないではないか。
「……じゃなくて、えーと、ああ。要するにあたしが店のなにかをパクったってこと?」
「いいから事務所まで来てもらえますか」
四十代半ばくらいの、自分の母親と同世代であろう店員に腕を握られ、
「ちょっと、やめてよ!」
反射的に振り払ってしまい、軽率だったかと思う。
「家で邪険にされているように、娘と同じくらいの子供に反抗された」というオーラをありありと出している店員は、
顔を真っ赤にしながらも態度だけは冷静を装って繰り返す。
「お手間は取らせませんから。いいですよね? 盗ってないのなら構わないでしょう?」
その木で鼻を括るような言い方に、十和子は反感を覚える。
クーラーの効いている店内からは身体半分以上はみ出しており、夏の高気圧と直射日光が半身を炙っている。
出口近くでは花屋のテナントが出展しており、そのごちゃごちゃした花の匂いと、
さっきから小さな向日葵を手にこちらをちらちら見ている客がいるのが不快だった。
刻々と上昇する不快指数に、目の前の店員の横顔を張り倒してしまうかという考えが頭の隅をかすめる。
だが、やってもないことで事務所に連行されるのは御免だった。
変に怒らせて心象を悪くするのは良くない。なんとか上手くこの場を取り繕わなければ。
そう判断した十和子は、頭のスイッチを切り替えてしおらしげに頭を下げる。
「ごめんなさい、いきなり言われたからびっくりしたんです。でも、本当にわたしなにも盗んでいません。
それに……わたし、今日は早く帰らなきゃいけないんです。
今日はママが遅番のお仕事で、わたしが弟と妹の分のご飯を作らなきゃいけないんです」
と、十和子は手にしたスーパーの袋を掲げて見せた。
もちろん丸っきりの嘘である。
「あら……弟さんと妹さんが……?」
店員の態度が少しだけ和らいだ。それを如実に見て取った十和子は内心でほくそ笑む。
この手のオバサンには、こういう「分かりやすい良い子」を演じるのが一番手っ取り早い。
「はい、ママがお仕事で大変だから、少しだけでも力になりたくて。下の子たちも手伝ってくれてるんです」
実のところ、遠野家は諸事情により両親不在であり、弟や妹なんてものは最初から存在していない、のだが。
「そう……」
店員は迷っていた。
もう一息か、と思った瞬間、十和子は危険な兆候が彼女の内面に沸き起こったことを察知する。
それは「決意」と「使命感」、そして「正義感」。
「でもね、だったら、なおさら分かるでしょ? 万引きなんてしたらお母さんがどれだけ悲しむかってこと」
十和子は内心で舌打ちした。店員の表層上の怒りや同情に惑わされて、その根底に流れているものを見逃していた。
(この人、確信してる──あたしが商品を盗んだということを、疑いを挟む余地のないレベルで確信している)
だが、見もしないことを、そもそもが盗んでいないことを、いったいどうやったらそこまで信じることができるのか。
さすがに疑念を禁じえない十和子だったが、店員の背後のさらに向こう、
クーラーで冷やされた風の流れる風上に、見知った顔が三つばかり並んでいるのに気が付いた。
それは、十和子の通う高校のクラスメートだった。
にやにやと意地汚い笑顔をこちらに向け、なにかの言葉を頻繁に交し合っていた。
声は聞こえないが、なんと言っているかは容易に理解できる。
──やだ、ほんとに捕まってる。みっともない。
──いい気味よ。あーあ、濡れ衣を着せられた十和子ちゃんかわいそー。まー、着せたのはあたしらだけどさー。
──でも、遠野があそこでカバン開けてみせたらヤバくない?
──あ、だいじょぶだいじょぶ。さっきちゃーんとルージュとコットンとマスカラ、あいつのカバンに放り込んできたから。
──うっそ、マジで? さいあくー。
──余裕っしょ。なんかレジでもたもたしてから、さっと投げ込んでやったわ。これが動かぬ証拠ってやつ?
──いい気味よ。あーあ、濡れ衣を着せられた十和子ちゃんかわいそー。まー、着せたのはあたしらだけどさー。
──でも、遠野があそこでカバン開けてみせたらヤバくない?
──あ、だいじょぶだいじょぶ。さっきちゃーんとルージュとコットンとマスカラ、あいつのカバンに放り込んできたから。
──うっそ、マジで? さいあくー。
──余裕っしょ。なんかレジでもたもたしてから、さっと投げ込んでやったわ。これが動かぬ証拠ってやつ?
どきり、と心臓が跳ね上がる。無意識に身体が緊張し、握り拳に力が入る。
三人はそれからあーでもないこーでもないと囀り、どうやら高みの見物を決め込むようだった。
(なるへそ……あたしはハメられたってわけね)
その級友のことは良く知っていた。クラス内でソリが合わないやつにはそういうことをしそうな、陰険なやつらだ。
さて、どうしようか、と十和子は鼻で息をつく。いい晒し者だった。
「事務所で話し合いましょう? ね?」
ここはひとつ、黙って連行されるのも手かも知れない。
自分には『切り札』がある。こんな衆人観衆の前で使うのは憚られるが、密室内だったら思うさま使ってやれる。
「あの──」
これからの算段を練っていた十和子の思考を打ち切ったのは、向日葵を持った客だった。
「その人、万引きはしてないと思いますけど」
いきなりの闖入者に気分を害されたのか、店員は怪訝そうにそいつを見る。
そいつは、十和子と同じくらいの、私服の少女だった。
腰近くまで伸ばした十和子と違い、髪は肩で切りそろえられており、十和子とは頭一つ分くらい背丈が低い。
ついでに胸とか尻のボリュームも二回りほど控えめだった。
場の空気に怯えているらしく、言うべきか迷った末に意を決して、という少し頼りない態度だった。
なにより十和子の意識を惹いたのは、全身に漂う奇妙な雰囲気だった。
一言で言うなら、非現実的な、自分の知らない国から訪れたような、そんな感じの少女だった。
「あの三人は、この人がなにを盗んだと言っていましたか?」
それは「今朝のご飯はなんでした?」とでも言うように、あまりにもさらっとした口調だった。
それこそ最初から最後まで見ていないと分からないことである。
毒気を抜かれた店員がしどろもどろになるのへ、少女はさらに言う。
「ルージュ、コットン、マスカラ。違いますか」
そして、向日葵がどけられた掌の下には、それがあった。「ここに落ちてましたよ」と、店の内側の領域を指差す。
「店内にあったんですから、事情はどうあれまだ盗んだことにはなりませんよね」
店員も、遠くから見ていた三人も、そして十和子も、一言も無かった。
三人はそれからあーでもないこーでもないと囀り、どうやら高みの見物を決め込むようだった。
(なるへそ……あたしはハメられたってわけね)
その級友のことは良く知っていた。クラス内でソリが合わないやつにはそういうことをしそうな、陰険なやつらだ。
さて、どうしようか、と十和子は鼻で息をつく。いい晒し者だった。
「事務所で話し合いましょう? ね?」
ここはひとつ、黙って連行されるのも手かも知れない。
自分には『切り札』がある。こんな衆人観衆の前で使うのは憚られるが、密室内だったら思うさま使ってやれる。
「あの──」
これからの算段を練っていた十和子の思考を打ち切ったのは、向日葵を持った客だった。
「その人、万引きはしてないと思いますけど」
いきなりの闖入者に気分を害されたのか、店員は怪訝そうにそいつを見る。
そいつは、十和子と同じくらいの、私服の少女だった。
腰近くまで伸ばした十和子と違い、髪は肩で切りそろえられており、十和子とは頭一つ分くらい背丈が低い。
ついでに胸とか尻のボリュームも二回りほど控えめだった。
場の空気に怯えているらしく、言うべきか迷った末に意を決して、という少し頼りない態度だった。
なにより十和子の意識を惹いたのは、全身に漂う奇妙な雰囲気だった。
一言で言うなら、非現実的な、自分の知らない国から訪れたような、そんな感じの少女だった。
「あの三人は、この人がなにを盗んだと言っていましたか?」
それは「今朝のご飯はなんでした?」とでも言うように、あまりにもさらっとした口調だった。
それこそ最初から最後まで見ていないと分からないことである。
毒気を抜かれた店員がしどろもどろになるのへ、少女はさらに言う。
「ルージュ、コットン、マスカラ。違いますか」
そして、向日葵がどけられた掌の下には、それがあった。「ここに落ちてましたよ」と、店の内側の領域を指差す。
「店内にあったんですから、事情はどうあれまだ盗んだことにはなりませんよね」
店員も、遠くから見ていた三人も、そして十和子も、一言も無かった。
例の三人はさっさとトンズラし、店員はバツ悪そうに何度も謝った末に仕事へと戻っていった。
最後に残った十和子は、少女はなんとなく顔を見合わせ、少し笑った。
どちらからともなく歩き出す。歩調の広い十和子に追いつくように、少女は時折小走りになる。
「──いや、助かったわ」
十和子が片手を顔の前で立てて礼を言うと、少女は静かに首を振った。
「でもさ、なんであたしが盗ってないって分かったの?」
「……見てたから」
「あいつらがあたしのカバンに物を入れるところを?」
安堵で気の緩んでいた十和子は、自分が決定的なミスを犯していることに気が付かない。
「違うわ」
気付く。
「あなたがレジからお金を抜き取るところをよ」
やっぱりか、と十和子は天を仰いだ。直視できない陽光が、瞼を貫く。
そう、確かに自分は──店員の一瞬のスキをついて開きっぱなしのレジから万券を抜き取った。
今時、万券をドロアーの硬貨入れの底に隠しておかない、無用心な店など滅多になく、
その防犯意識の甘さに前々から目をつけていたのだった。
絶好の機会が訪れ、実行に移したその隙に、あの馬鹿どもに万引きをさせられていることまでは全くの予想外だったが。
「あなたと同じ制服の人たちが、あなたに対してなにかを仕組んでるって分かったのは、あなたが店員に捕まってからのこと。
……なんていうか、目線とか、雰囲気とかで。それに、万引きとレジ抜きを同時にやる人はなかなかいないと思うから。
連れて行かれることを嫌がったのも、そのことがバレると困るから……そうでしょう」
ぐうの音も出ないとはこのことだが、とりあえず白を切ってみる。
「……それ、見間違いなんじゃないの?」
「これでも?」
奇術師のように少女が片手を翻すと、そこには数枚の一万円札。
「あっ──!」
咄嗟に胸ポケットの生徒手帳を取り出しかけ、そこでカマに掛けられたと理解する。
「次にあなたは『引っ掛けたわね』と言うわ」
「ひ、引っ掛けたわね! ──あっ」
まんまと乗せられた十和子が歯噛みするのを横目に、別段勝ち誇った素振りもなく、少女はもう一度手を振って札を消した。
少女のバッグが揺れて、向日葵の匂いがした。
「ふーん。そこに隠したんだ。実はね、どこに隠したかまでは見えなかったんだ。……あ、今のはわたしのお金」
あんまりと言えばあんまりの展開に、十和子は噛み殺しても抑えきれない笑いがこみ上げてくる。
完敗だ。
だが一つ、疑問が残っていた。
「あんたさ、どうやってあたしのカバンから盗品を抜き取ったわけ? あれは本物のやつよね?」
盗みのために神経を一点に集中させていた瞬間ならいざしらず、店員に詰問されているときはそれなりに周囲に気を配っていた。
どれだけ気配を消していたところで、自分のすぐそばで動きがあれば察知できるはずだった。透明人間でもない限りは。
「ねえ、教えなさいよ」
だが、少女はそれとはおよそ関係ないと思えることを言った。
「そのお金、今からでもお店に返すつもりはないの? ──本当言うと、これだけを言いたくてここまで来たの。
万引きの疑いを晴らしたのもそのせい。こっそり返して、なかったことに出来るなら、それが一番いいと思うから」
肩透かしを食らった気分になりながらも、十和子は率直に言葉を返す。
「冗談。盗まれるほうが悪いのよ。それに、今さらどの面下げて返しに行けっていうの?」
「わたしならできる。誰にもバレないように返してこれる。あなたのカバンから証拠の品を取り除いたように」
話は関係なくなかった。十和子の質問に、少女は断片的ながらも答えていたのだ。
少女の内部からは「他の人には出来ないことだけれど、自分にはそれが出来る」という静かな自信が漲っていた。
少女は、真っ直ぐな目で十和子を見つめている。
いたたまれなくなった十和子が口を開こうとしたとき、
「あーっ!」
少女が唐突に素っ頓狂な声を上げた。
「お、お花盗んできちゃった!」
少女は片手に握った小さな向日葵を驚愕の表情で凝視していた。今の今まで気が付かなかったらしい。
「……え?」
「どうしよう、まだお会計済ませてないよ!」
実のところ、十和子はとっくに気が付いていた。気が付いていたが、会計は済ませてあると思っていたのだ。
人にどうのこうのと説教垂れてるやつが、そんな抜けた真似をするとは考えもしなかった。
「……あんた、馬鹿なの?」
「か、かか返してくる!」
「バレないように?」
「う、うん!」
十和子は呆れたように首を振り、「しょうがないな」という感じの溜息をついて生徒手帳を取り出した。
「それならこいつも頼むわ。くれぐれもバレないよーに」
差し出された五万円を受け取り、少女は初めて笑顔を見せた。
夏の風のように、爽やかな笑みだった。
ふと、少女は十和子の生徒手帳に目を落とす。その手帳と十和子の顔を見比べ、
「あれ? あなた、ぶどうヶ丘高校の生徒なの? あー、どっかで見覚えのある制服かと思ったら……」
「ら?」
「わたしのホームステイ先に届いたのと同じだった」
今度こそ意味不明だった。
「ホームステイ? 制服が届いた?」
「あ、わたし、明日からその学校に通うの。えーと、短期留学生として。
一応日本語ペラペラだけど、ニューヨーク育ちなのよ。生まれはここ、杜王町みたい」
さらになにかを言い募ろうとしたが、自分に課せられた重大な仕事を思い出したのか、わたわたと来た道を戻りだした。
それを見送りながら、ゆらゆら揺れる陽炎を吹き飛ばすように、十和子は大きな声で叫びかける。
「あたし、ここで待ってるからさ、さっさと返してきなよ」
「うん!」
その背中に、もう一度。
「ねえ、あんた名前はー!?」
訳もなく太陽を見上げた。真っ白な光が青い空に穴を開けている。
「──静! 静・ジョースター!」
目を戻すと、そこにはもう誰もいなかった。
香る向日葵は風に乗って十和子の側を通り過ぎてゆく。
照りつける日差しは夏の到来を告げていた。
最後に残った十和子は、少女はなんとなく顔を見合わせ、少し笑った。
どちらからともなく歩き出す。歩調の広い十和子に追いつくように、少女は時折小走りになる。
「──いや、助かったわ」
十和子が片手を顔の前で立てて礼を言うと、少女は静かに首を振った。
「でもさ、なんであたしが盗ってないって分かったの?」
「……見てたから」
「あいつらがあたしのカバンに物を入れるところを?」
安堵で気の緩んでいた十和子は、自分が決定的なミスを犯していることに気が付かない。
「違うわ」
気付く。
「あなたがレジからお金を抜き取るところをよ」
やっぱりか、と十和子は天を仰いだ。直視できない陽光が、瞼を貫く。
そう、確かに自分は──店員の一瞬のスキをついて開きっぱなしのレジから万券を抜き取った。
今時、万券をドロアーの硬貨入れの底に隠しておかない、無用心な店など滅多になく、
その防犯意識の甘さに前々から目をつけていたのだった。
絶好の機会が訪れ、実行に移したその隙に、あの馬鹿どもに万引きをさせられていることまでは全くの予想外だったが。
「あなたと同じ制服の人たちが、あなたに対してなにかを仕組んでるって分かったのは、あなたが店員に捕まってからのこと。
……なんていうか、目線とか、雰囲気とかで。それに、万引きとレジ抜きを同時にやる人はなかなかいないと思うから。
連れて行かれることを嫌がったのも、そのことがバレると困るから……そうでしょう」
ぐうの音も出ないとはこのことだが、とりあえず白を切ってみる。
「……それ、見間違いなんじゃないの?」
「これでも?」
奇術師のように少女が片手を翻すと、そこには数枚の一万円札。
「あっ──!」
咄嗟に胸ポケットの生徒手帳を取り出しかけ、そこでカマに掛けられたと理解する。
「次にあなたは『引っ掛けたわね』と言うわ」
「ひ、引っ掛けたわね! ──あっ」
まんまと乗せられた十和子が歯噛みするのを横目に、別段勝ち誇った素振りもなく、少女はもう一度手を振って札を消した。
少女のバッグが揺れて、向日葵の匂いがした。
「ふーん。そこに隠したんだ。実はね、どこに隠したかまでは見えなかったんだ。……あ、今のはわたしのお金」
あんまりと言えばあんまりの展開に、十和子は噛み殺しても抑えきれない笑いがこみ上げてくる。
完敗だ。
だが一つ、疑問が残っていた。
「あんたさ、どうやってあたしのカバンから盗品を抜き取ったわけ? あれは本物のやつよね?」
盗みのために神経を一点に集中させていた瞬間ならいざしらず、店員に詰問されているときはそれなりに周囲に気を配っていた。
どれだけ気配を消していたところで、自分のすぐそばで動きがあれば察知できるはずだった。透明人間でもない限りは。
「ねえ、教えなさいよ」
だが、少女はそれとはおよそ関係ないと思えることを言った。
「そのお金、今からでもお店に返すつもりはないの? ──本当言うと、これだけを言いたくてここまで来たの。
万引きの疑いを晴らしたのもそのせい。こっそり返して、なかったことに出来るなら、それが一番いいと思うから」
肩透かしを食らった気分になりながらも、十和子は率直に言葉を返す。
「冗談。盗まれるほうが悪いのよ。それに、今さらどの面下げて返しに行けっていうの?」
「わたしならできる。誰にもバレないように返してこれる。あなたのカバンから証拠の品を取り除いたように」
話は関係なくなかった。十和子の質問に、少女は断片的ながらも答えていたのだ。
少女の内部からは「他の人には出来ないことだけれど、自分にはそれが出来る」という静かな自信が漲っていた。
少女は、真っ直ぐな目で十和子を見つめている。
いたたまれなくなった十和子が口を開こうとしたとき、
「あーっ!」
少女が唐突に素っ頓狂な声を上げた。
「お、お花盗んできちゃった!」
少女は片手に握った小さな向日葵を驚愕の表情で凝視していた。今の今まで気が付かなかったらしい。
「……え?」
「どうしよう、まだお会計済ませてないよ!」
実のところ、十和子はとっくに気が付いていた。気が付いていたが、会計は済ませてあると思っていたのだ。
人にどうのこうのと説教垂れてるやつが、そんな抜けた真似をするとは考えもしなかった。
「……あんた、馬鹿なの?」
「か、かか返してくる!」
「バレないように?」
「う、うん!」
十和子は呆れたように首を振り、「しょうがないな」という感じの溜息をついて生徒手帳を取り出した。
「それならこいつも頼むわ。くれぐれもバレないよーに」
差し出された五万円を受け取り、少女は初めて笑顔を見せた。
夏の風のように、爽やかな笑みだった。
ふと、少女は十和子の生徒手帳に目を落とす。その手帳と十和子の顔を見比べ、
「あれ? あなた、ぶどうヶ丘高校の生徒なの? あー、どっかで見覚えのある制服かと思ったら……」
「ら?」
「わたしのホームステイ先に届いたのと同じだった」
今度こそ意味不明だった。
「ホームステイ? 制服が届いた?」
「あ、わたし、明日からその学校に通うの。えーと、短期留学生として。
一応日本語ペラペラだけど、ニューヨーク育ちなのよ。生まれはここ、杜王町みたい」
さらになにかを言い募ろうとしたが、自分に課せられた重大な仕事を思い出したのか、わたわたと来た道を戻りだした。
それを見送りながら、ゆらゆら揺れる陽炎を吹き飛ばすように、十和子は大きな声で叫びかける。
「あたし、ここで待ってるからさ、さっさと返してきなよ」
「うん!」
その背中に、もう一度。
「ねえ、あんた名前はー!?」
訳もなく太陽を見上げた。真っ白な光が青い空に穴を開けている。
「──静! 静・ジョースター!」
目を戻すと、そこにはもう誰もいなかった。
香る向日葵は風に乗って十和子の側を通り過ぎてゆく。
照りつける日差しは夏の到来を告げていた。