控えめな速度でドアが開けられ、セピアが肩から上だけを部屋に差し入れる。
「お話、終わった?」
「ああ、終わったとも。これで失礼するよ。セピア、与えられた薬は毎日飲むんじゃぞ」
「な、なんのことでしょう、ドクター」
冷や汗垂らしながらとぼけるセピアを見て、レッドにもなんとなく事情が推察できた。
「副作用が辛いのは分かるが、飲んだ振りをしてトイレに流すのは感心できないと言っておる」
「……ごめんなさい」
素直に頭を下げたセピアだったが、まもなくがばっと顔を上げた。
その目の色は無闇にきらきらしていて、反省の色がまったくない。
「でもでも、ドクターはなんでもお見通しなんですね。すごいです」
「ワシは医学的にお前と接してるからの。血液成分を分析すればその程度は造作もないわい」
そう言っておいて、レッドに意味ありげな視線を送る。
いい加減でうんざりしたレッドは手首を振ってドクターを部屋から追い立てようとした。
ドクターはそれを特に気にすることもなく、ではな、手を軽く挙げて去っていった。
急に病室が静まり返ったような気がした。空調設備の軽い駆動音が、ひときわその沈黙を引き立てる。
セピアが軽く咳払いをし、ベッドの横にパイプ椅子を引きずり寄せて座る。椅子の足が床をこするのが、いやに響いた。
「ユーゴーはどうした?」
「え? あ、疲れて眠っちゃった。別にお部屋を用意してもらって、そこで寝てるわ。
……ずっと眠ってられたらいいのにね。目が覚めても、きっと辛いことしかないから」
しみじみと言ってから、慌てて口元を押さえる。心に隠していた本音をうっかり聞かれたときのように。
「あ、いや、そうじゃなくて、きっとお姉さまやグリーン兄さまがなんとかしてくれるわ。
──ああ、これも違う、これはその、レッドが頼りないとかそういうことを言いたいんじゃないの。本当よ」
本当だから、とセピアは何度も連呼した。見てるこっちがいたたまれなくなるくらいの必死さであった。
「気にしてねーよ」とでも言うべきなのだろうか。なにかが違う気がした。
ふと、試してみる気になる。
「セピア」
「え?」
「手を出せ」
言われたとおり、セピアは手を出した。ハロウィンにお菓子をねだる子供のように。
「そうじゃない」
その一言で即座に理解したのか、セピアは「あ」と短くつぶやいて握手の形に向きを直した。
自分とはえらい違いだな、とレッドはなんとなく思う。ドクターの言うとおり馬鹿なのかもしれない、と。
「あ──」
セピアの手を握るのはこれで二度目だった。
最初のときは、冷たく、すべすべしていて、陶器にでも触っている心持ちになったのを覚えている。
では今は? ──よく分からない。
ただ、あの時はまるで感じなかった肌の温かみを確かに感じ取った。
セピアは今初めてレッドに会ったかのように、不思議なものを見るような目で、レッドの瞳をまじまじと覗き込んでいる。
ややあって、そっと、レッドの手に触れるセピアの指に力が込められた。
無言の時間が流れた。廊下では誰かが早足で歩いていた。
「How are you?(どうしてる?)」
「Fine,Thank you(上々よ、ありがとう)」
それきり、さらに沈黙。
その永遠とも思える時間感覚のなかで、レッドは手を離したくて離したくてしょうがなかったのだが、手は繋がれたままだった。
セピアが万力のごとき握力でがっちりレッドの手を握り締めていたから──という訳では、もちろん全然ない。
不本意と言えば不本意な展開だったが、不本意ついでにさらなる光景がレッドの目の前で起こる。
セピアがもう片方の手でレッドの手首をつかみ、そのままゆっくりと持ち上げた。
それは非常に緩慢な動作で、羽毛でも持つような、なんの抵抗もないであろう軽やかな手つきだった。
そして、レッドの手の甲を自分の頬に押し当てる。
静かに瞳を閉じて、全身の感覚をその一点に集中させているように。
セピアの頬は、少し熱かった。
「お話、終わった?」
「ああ、終わったとも。これで失礼するよ。セピア、与えられた薬は毎日飲むんじゃぞ」
「な、なんのことでしょう、ドクター」
冷や汗垂らしながらとぼけるセピアを見て、レッドにもなんとなく事情が推察できた。
「副作用が辛いのは分かるが、飲んだ振りをしてトイレに流すのは感心できないと言っておる」
「……ごめんなさい」
素直に頭を下げたセピアだったが、まもなくがばっと顔を上げた。
その目の色は無闇にきらきらしていて、反省の色がまったくない。
「でもでも、ドクターはなんでもお見通しなんですね。すごいです」
「ワシは医学的にお前と接してるからの。血液成分を分析すればその程度は造作もないわい」
そう言っておいて、レッドに意味ありげな視線を送る。
いい加減でうんざりしたレッドは手首を振ってドクターを部屋から追い立てようとした。
ドクターはそれを特に気にすることもなく、ではな、手を軽く挙げて去っていった。
急に病室が静まり返ったような気がした。空調設備の軽い駆動音が、ひときわその沈黙を引き立てる。
セピアが軽く咳払いをし、ベッドの横にパイプ椅子を引きずり寄せて座る。椅子の足が床をこするのが、いやに響いた。
「ユーゴーはどうした?」
「え? あ、疲れて眠っちゃった。別にお部屋を用意してもらって、そこで寝てるわ。
……ずっと眠ってられたらいいのにね。目が覚めても、きっと辛いことしかないから」
しみじみと言ってから、慌てて口元を押さえる。心に隠していた本音をうっかり聞かれたときのように。
「あ、いや、そうじゃなくて、きっとお姉さまやグリーン兄さまがなんとかしてくれるわ。
──ああ、これも違う、これはその、レッドが頼りないとかそういうことを言いたいんじゃないの。本当よ」
本当だから、とセピアは何度も連呼した。見てるこっちがいたたまれなくなるくらいの必死さであった。
「気にしてねーよ」とでも言うべきなのだろうか。なにかが違う気がした。
ふと、試してみる気になる。
「セピア」
「え?」
「手を出せ」
言われたとおり、セピアは手を出した。ハロウィンにお菓子をねだる子供のように。
「そうじゃない」
その一言で即座に理解したのか、セピアは「あ」と短くつぶやいて握手の形に向きを直した。
自分とはえらい違いだな、とレッドはなんとなく思う。ドクターの言うとおり馬鹿なのかもしれない、と。
「あ──」
セピアの手を握るのはこれで二度目だった。
最初のときは、冷たく、すべすべしていて、陶器にでも触っている心持ちになったのを覚えている。
では今は? ──よく分からない。
ただ、あの時はまるで感じなかった肌の温かみを確かに感じ取った。
セピアは今初めてレッドに会ったかのように、不思議なものを見るような目で、レッドの瞳をまじまじと覗き込んでいる。
ややあって、そっと、レッドの手に触れるセピアの指に力が込められた。
無言の時間が流れた。廊下では誰かが早足で歩いていた。
「How are you?(どうしてる?)」
「Fine,Thank you(上々よ、ありがとう)」
それきり、さらに沈黙。
その永遠とも思える時間感覚のなかで、レッドは手を離したくて離したくてしょうがなかったのだが、手は繋がれたままだった。
セピアが万力のごとき握力でがっちりレッドの手を握り締めていたから──という訳では、もちろん全然ない。
不本意と言えば不本意な展開だったが、不本意ついでにさらなる光景がレッドの目の前で起こる。
セピアがもう片方の手でレッドの手首をつかみ、そのままゆっくりと持ち上げた。
それは非常に緩慢な動作で、羽毛でも持つような、なんの抵抗もないであろう軽やかな手つきだった。
そして、レッドの手の甲を自分の頬に押し当てる。
静かに瞳を閉じて、全身の感覚をその一点に集中させているように。
セピアの頬は、少し熱かった。
──三十分後、レッドはカリヨンタワーの最上階にいた。
相変わらず照明の足りない、この部屋の主の陰気さをうかがわせる明度だった。
傍らにはセピアがいて、少し離れた所にバイオレットとグリーンが鏡合わせのような位置関係で立っている。
そして、その奥には──。
「無事でなによりだ、レッド」
「ありがとよ、ブラック兄さん」
その言い草にグリーンがちょっと嫌な顔をするが、なにも言わなかった。
「シルバーにも手を焼かされる……困った弟だ。クリフ・ギルバートはエグリゴリにとって優秀な、
このまま殺すには忍びない逸材だというのに。しかし、あの負けん気の強さがあいつの良いところでもあるのだがな」
キース・ブラックの口調はどこまでも穏やかで、まるで本当に家庭内の問題を論じいるように聞こえる。
「僕はそう思わないな。旧人類の変異種ごときにここまで大それた真似をされて、黙って見過ごせと言うのかい?
そりゃ、シルバー兄さんの行動は少し度を越しているかもしれないけれど、それだって仕方ないよ。
僕等キースシリーズに逆らうほうが悪いんだ」
そのあまりにも屈託のない発言に、今度はバイオレットが眉をしかめる。
お坊ちゃん育ちが滲み出ているようなグリーンにふさわしい、どこまでも無邪気な言い分だった。
「グリーン。あなた、ブラック兄さんの決定に逆らうつもりなの?」
グリーンは心外そうに、大仰な身振りで肩をすくめた。
「そんなんじゃないさ。任務は任務、僕だってその辺はしっかりしてるつもりだよ。
ただ個人的な見解からシルバー兄さんを弁護しただけさ。なんならクリフ・ギルバートくんに同情してやってもいい」
頭越しに飛び交わされる会話に痺れを切らし、レッドが割り込む。
「ブラック、結局のところ、あんた、いったいどうやって片をつける気なんだよ」
それが話の本題だと言いたげに、ブラックが深く首を振る。
「そうだ、レッド。お前がその身をもって実証したように、クリフ・ギルバートは非常に危険な存在だ。
だがその一方で、私は彼という稀有な能力者を失うことを恐れている。だから、彼には特別な処置を講ずることにしたのだ」
特別な、という部分にアクセントをつけて、ブラックが言った。
「これよりグリーンとバイオレットには、『シルバーの無力化』と『クリフ・ギルバートの拿捕』という任務に就いてもらう。
シルバーは勿論のこと、クリフ・ギルバートを殺すことも許さない。
どちらも危険で困難な任務だが、お前たちなら私の期待に応えてくれると信じている」
その言葉に、グリーンが芝居掛かった仕草で重々しく頷いてみせる。
バイオレットは目を伏せており、その場の誰とも目を合わせないようにしていた。
「レッド、そしてセピア。お前たちはゆっくり休め。二人とも、不測の事態によく対処してくれた。
お前たちの働きで、被害を最小限に抑えることができたのだからな」
レッドの後ろで、セピアが安堵の溜息をつくのが聞こえる。だが、
「ちょっと待てよ、ブラック」
レッドはキース・ブラックという男を知っている。こいつがそんな生温い解決を望むような男ではないということを。
「話はよーく分かった。……それで? クリフをとっ捕まえた後はいったいどうするつもりなんだ?」
バイオレットが控えめに、いや、控えめという前提でなら露骨に身体を強張らせる。
ブラックは沈黙を守っていた。
レッドの質問に答えたのは、やはりそうした空気の読めないグリーンだった。
「『アサイラム』」
ほとんど無造作に放り投げられた単語に、レッドはその意味を受け取り損ねる。
「ああ?」
「エグリゴリが世界中から集めた特殊能力者を収容する監獄だよ。
本来ならプレーンな実験体しか収容しないんだけどね。彼には気の毒だけどそこで一生を送ってもらうのさ」
「あ、あの」
おずおずと、だが決然とした面持ちで、セピアがグリーンに問う。
「ユーゴーは……どうなるんですか?」
なんでそんな無関係なことを、と首を捻りながら、それでも懇切丁寧を顕わに答える。
「彼女は『危険な実験体』ではないだろう? そんな心配しなくても、これまで通りの天使の扱いさ」
レッドは背後に振り返る。能天気なグリーンの声に反して、セピアの顔面は蒼白だった。
わななく唇が、目じりに溜まった水滴が、今にも泣き出しそうになるのを必死で堪えていることを表していた。
「なにも問題ないよ、セピア。今回の件でユーゴー・ギルバートにとって不利に働くようなことは何一つないからね」
レッドの心の奥に、ある名状しがたい感情が沸き起こる。
それはいつも感じている、キースシリーズや敵に対して抱く憎悪に似ていたが、それとはまた少し違っていた。
例えるなら、それはルビーの──その最上の発色を示す──鳩の血(ピジョン・ブラッド)に似て澄み切った、純粋な怒りだった。
「人の心が分からない、か──は、はは」
知らず、レッドの口の隙間から細い笑いが漏れる。
「なんだよ。なにがおかしいんだ?」
「てめえの頭の中身がだよ」
「なんだと……」
身を乗り出しかけたグリーンによく見えるように、レッドは両腕を開いてみせた。
「──いや、お前の言う通りだぜ、グリーン」
話の文脈を見失ったグリーンが、虚を突かれて押し黙る。
「なにも問題ない、問題ないんだ」
努めて軽い口調で。慣れない笑顔も作ってみせた。
「レッド……?」
訝しげに、セピアが呼ぶ。バイオレットもまた、レッドの意図を掴みかねているようだった。
「そう、これは大した問題じゃない。問題ですらない。
あんたら『マッド・ティー・パーティー』が雁首揃えて思い悩むようなことじゃないんだ。……そうだろう、ブラック」
問いかける言葉の先には、ブラックがいた。両手の下から覗く口元は、微かに歪んでいるように見えた。
「あんたさっきこう言ったよな──『お前がその身をもって実証したように、クリフ・ギルバートは非常に危険な存在だ』、ってな。
合ってるよな?」
「間違いない。私は確かにそう言った」
ブラックの肯定に、レッドは意を得たとばかりに続ける。
「実は、よ──オレはあの時、油断してたんだ。あんなガキがサイコキノだなんて思ってもみなかった。
アラート42を聞いても、目の前のそいつが『そう』だなんて、どうしても信じられなかった。
そのせいで先手を取られて、一方的にノされちまったのさ」
丸っきりの嘘だった。レッドにとって、嘘をつくなどという行為はかなり新鮮な体験だった。
だからといってそれが面白いかと聞かれれば、まったく面白くなかった。
「……事実だとしたら、私は救いがたい話だと思うがな、レッド。
お前の危機管理能力はその程度だったのか、と、お前への評価を改めざるを得ないだろう」
グリーンが呆気に取られたようにレッドを見ていた。
こともあろうにキース・レッドが自分の非を認めるとは──そういう驚愕がありありと顔に浮かんでいた。
ドス黒い感情でレッドの目の前が真っ赤に染まり、だがそれも、なぜかすぐに霧散する。
「いや、悪かったと思ってるさ、ブラック。
オレが、その──不甲斐ないばっかりに、シルバーに圧倒的な悪条件下での戦闘を強いちまった。
これが屋外だったら、いや、もうちょっと広いスペースの施設だったら、一瞬で勝負はついてたろうさ」
言いながら、ここだけは多分嘘ではないとレッドも認めるしかなく、それがわずかに腹立たしかった。
「だからよ、オレにやらせてくれ。クリフはオレが捕まえる」
「……ん? おい、なにを勝手なことを言ってるんだよ。ブラック兄さんは僕にだね」
話の筋は見えていなかっただろうに、その言葉だけを聞き咎めたグリーンが異を唱えるが、
「黙りなさい、グリーン」
「え、でもバイオレット姉さんはさっき──」
「黙れと言っているのよ、坊や」
当事者の片割れであるバイオレットに制止されるとは思ってもみなかったらしく、目を白黒させながらも口を閉じる。
「……レッドよ。つまりお前はこう言いたいのか?
『クリフ・ギルバートはなんら危険視に値する存在ではなく、アサイラム送りは無用である』」
ブラックの発言を俯いて聞いていたセピアの首が、徐々に上を向く。
その表情は少しだけ明るくなっていた。今ここでなにが起きようとしているのか、その事態の変化をやっと察したようだった。
「『そして被害をいたずらに拡大させた責任を取るべく、単身で任務に赴き、情況を制圧する』──」
「──少し、違うな」
さすがにブラックがキナ臭い顔をするのへ、
「責任を取るのは二人だ。こいつもその場にいた。そのくせ、なにもしなかった」
レッドはセピアを一瞬だけ顧み、
「なにより、オレたちはツーマンセルのユニットだ。そうだろう? あんたが最初にそう命令したんだよな?」
「レッド……!」
セピアは小さく叫び、レッドの背に頭を押し付ける。レッドの陰になっているため、それはブラックには見えていないだろう。
「──なるほど。一応の筋は通っているな」
含むように、ブラックが笑う。
それはすべてを見透かしているような、癇に障る笑みだった。
「いいだろう。レッド、セピア。お前たちに任務を与える」
相変わらず照明の足りない、この部屋の主の陰気さをうかがわせる明度だった。
傍らにはセピアがいて、少し離れた所にバイオレットとグリーンが鏡合わせのような位置関係で立っている。
そして、その奥には──。
「無事でなによりだ、レッド」
「ありがとよ、ブラック兄さん」
その言い草にグリーンがちょっと嫌な顔をするが、なにも言わなかった。
「シルバーにも手を焼かされる……困った弟だ。クリフ・ギルバートはエグリゴリにとって優秀な、
このまま殺すには忍びない逸材だというのに。しかし、あの負けん気の強さがあいつの良いところでもあるのだがな」
キース・ブラックの口調はどこまでも穏やかで、まるで本当に家庭内の問題を論じいるように聞こえる。
「僕はそう思わないな。旧人類の変異種ごときにここまで大それた真似をされて、黙って見過ごせと言うのかい?
そりゃ、シルバー兄さんの行動は少し度を越しているかもしれないけれど、それだって仕方ないよ。
僕等キースシリーズに逆らうほうが悪いんだ」
そのあまりにも屈託のない発言に、今度はバイオレットが眉をしかめる。
お坊ちゃん育ちが滲み出ているようなグリーンにふさわしい、どこまでも無邪気な言い分だった。
「グリーン。あなた、ブラック兄さんの決定に逆らうつもりなの?」
グリーンは心外そうに、大仰な身振りで肩をすくめた。
「そんなんじゃないさ。任務は任務、僕だってその辺はしっかりしてるつもりだよ。
ただ個人的な見解からシルバー兄さんを弁護しただけさ。なんならクリフ・ギルバートくんに同情してやってもいい」
頭越しに飛び交わされる会話に痺れを切らし、レッドが割り込む。
「ブラック、結局のところ、あんた、いったいどうやって片をつける気なんだよ」
それが話の本題だと言いたげに、ブラックが深く首を振る。
「そうだ、レッド。お前がその身をもって実証したように、クリフ・ギルバートは非常に危険な存在だ。
だがその一方で、私は彼という稀有な能力者を失うことを恐れている。だから、彼には特別な処置を講ずることにしたのだ」
特別な、という部分にアクセントをつけて、ブラックが言った。
「これよりグリーンとバイオレットには、『シルバーの無力化』と『クリフ・ギルバートの拿捕』という任務に就いてもらう。
シルバーは勿論のこと、クリフ・ギルバートを殺すことも許さない。
どちらも危険で困難な任務だが、お前たちなら私の期待に応えてくれると信じている」
その言葉に、グリーンが芝居掛かった仕草で重々しく頷いてみせる。
バイオレットは目を伏せており、その場の誰とも目を合わせないようにしていた。
「レッド、そしてセピア。お前たちはゆっくり休め。二人とも、不測の事態によく対処してくれた。
お前たちの働きで、被害を最小限に抑えることができたのだからな」
レッドの後ろで、セピアが安堵の溜息をつくのが聞こえる。だが、
「ちょっと待てよ、ブラック」
レッドはキース・ブラックという男を知っている。こいつがそんな生温い解決を望むような男ではないということを。
「話はよーく分かった。……それで? クリフをとっ捕まえた後はいったいどうするつもりなんだ?」
バイオレットが控えめに、いや、控えめという前提でなら露骨に身体を強張らせる。
ブラックは沈黙を守っていた。
レッドの質問に答えたのは、やはりそうした空気の読めないグリーンだった。
「『アサイラム』」
ほとんど無造作に放り投げられた単語に、レッドはその意味を受け取り損ねる。
「ああ?」
「エグリゴリが世界中から集めた特殊能力者を収容する監獄だよ。
本来ならプレーンな実験体しか収容しないんだけどね。彼には気の毒だけどそこで一生を送ってもらうのさ」
「あ、あの」
おずおずと、だが決然とした面持ちで、セピアがグリーンに問う。
「ユーゴーは……どうなるんですか?」
なんでそんな無関係なことを、と首を捻りながら、それでも懇切丁寧を顕わに答える。
「彼女は『危険な実験体』ではないだろう? そんな心配しなくても、これまで通りの天使の扱いさ」
レッドは背後に振り返る。能天気なグリーンの声に反して、セピアの顔面は蒼白だった。
わななく唇が、目じりに溜まった水滴が、今にも泣き出しそうになるのを必死で堪えていることを表していた。
「なにも問題ないよ、セピア。今回の件でユーゴー・ギルバートにとって不利に働くようなことは何一つないからね」
レッドの心の奥に、ある名状しがたい感情が沸き起こる。
それはいつも感じている、キースシリーズや敵に対して抱く憎悪に似ていたが、それとはまた少し違っていた。
例えるなら、それはルビーの──その最上の発色を示す──鳩の血(ピジョン・ブラッド)に似て澄み切った、純粋な怒りだった。
「人の心が分からない、か──は、はは」
知らず、レッドの口の隙間から細い笑いが漏れる。
「なんだよ。なにがおかしいんだ?」
「てめえの頭の中身がだよ」
「なんだと……」
身を乗り出しかけたグリーンによく見えるように、レッドは両腕を開いてみせた。
「──いや、お前の言う通りだぜ、グリーン」
話の文脈を見失ったグリーンが、虚を突かれて押し黙る。
「なにも問題ない、問題ないんだ」
努めて軽い口調で。慣れない笑顔も作ってみせた。
「レッド……?」
訝しげに、セピアが呼ぶ。バイオレットもまた、レッドの意図を掴みかねているようだった。
「そう、これは大した問題じゃない。問題ですらない。
あんたら『マッド・ティー・パーティー』が雁首揃えて思い悩むようなことじゃないんだ。……そうだろう、ブラック」
問いかける言葉の先には、ブラックがいた。両手の下から覗く口元は、微かに歪んでいるように見えた。
「あんたさっきこう言ったよな──『お前がその身をもって実証したように、クリフ・ギルバートは非常に危険な存在だ』、ってな。
合ってるよな?」
「間違いない。私は確かにそう言った」
ブラックの肯定に、レッドは意を得たとばかりに続ける。
「実は、よ──オレはあの時、油断してたんだ。あんなガキがサイコキノだなんて思ってもみなかった。
アラート42を聞いても、目の前のそいつが『そう』だなんて、どうしても信じられなかった。
そのせいで先手を取られて、一方的にノされちまったのさ」
丸っきりの嘘だった。レッドにとって、嘘をつくなどという行為はかなり新鮮な体験だった。
だからといってそれが面白いかと聞かれれば、まったく面白くなかった。
「……事実だとしたら、私は救いがたい話だと思うがな、レッド。
お前の危機管理能力はその程度だったのか、と、お前への評価を改めざるを得ないだろう」
グリーンが呆気に取られたようにレッドを見ていた。
こともあろうにキース・レッドが自分の非を認めるとは──そういう驚愕がありありと顔に浮かんでいた。
ドス黒い感情でレッドの目の前が真っ赤に染まり、だがそれも、なぜかすぐに霧散する。
「いや、悪かったと思ってるさ、ブラック。
オレが、その──不甲斐ないばっかりに、シルバーに圧倒的な悪条件下での戦闘を強いちまった。
これが屋外だったら、いや、もうちょっと広いスペースの施設だったら、一瞬で勝負はついてたろうさ」
言いながら、ここだけは多分嘘ではないとレッドも認めるしかなく、それがわずかに腹立たしかった。
「だからよ、オレにやらせてくれ。クリフはオレが捕まえる」
「……ん? おい、なにを勝手なことを言ってるんだよ。ブラック兄さんは僕にだね」
話の筋は見えていなかっただろうに、その言葉だけを聞き咎めたグリーンが異を唱えるが、
「黙りなさい、グリーン」
「え、でもバイオレット姉さんはさっき──」
「黙れと言っているのよ、坊や」
当事者の片割れであるバイオレットに制止されるとは思ってもみなかったらしく、目を白黒させながらも口を閉じる。
「……レッドよ。つまりお前はこう言いたいのか?
『クリフ・ギルバートはなんら危険視に値する存在ではなく、アサイラム送りは無用である』」
ブラックの発言を俯いて聞いていたセピアの首が、徐々に上を向く。
その表情は少しだけ明るくなっていた。今ここでなにが起きようとしているのか、その事態の変化をやっと察したようだった。
「『そして被害をいたずらに拡大させた責任を取るべく、単身で任務に赴き、情況を制圧する』──」
「──少し、違うな」
さすがにブラックがキナ臭い顔をするのへ、
「責任を取るのは二人だ。こいつもその場にいた。そのくせ、なにもしなかった」
レッドはセピアを一瞬だけ顧み、
「なにより、オレたちはツーマンセルのユニットだ。そうだろう? あんたが最初にそう命令したんだよな?」
「レッド……!」
セピアは小さく叫び、レッドの背に頭を押し付ける。レッドの陰になっているため、それはブラックには見えていないだろう。
「──なるほど。一応の筋は通っているな」
含むように、ブラックが笑う。
それはすべてを見透かしているような、癇に障る笑みだった。
「いいだろう。レッド、セピア。お前たちに任務を与える」
カリヨンタワーの下層では、今も獣と機械が死闘を演じている。
自分はいったいどっちなのか。
獣か、機械か。
その答えを見つけるために、キース・レッドは再び地獄の底へ降りようとしていた。
自分はいったいどっちなのか。
獣か、機械か。
その答えを見つけるために、キース・レッドは再び地獄の底へ降りようとしていた。
第九話 『心』 了