その日を、その時を、その人を、瞬は決して忘れはしないだろう。
瞬は、拳を固める事にすら嫌悪を示した時期がある。
兄という巨大な傘の下にいた頃は、それでよかった、
だが、彼は怠惰な気性ではなかった。
彼にとって、兄は英雄だったのだから。
人は、英雄を求める。
だが、人は英雄になりたいと研鑽を積み上げたとしても、挫折し、涙し、諦観してしまう。
それでも生きていけるからこそ、人間という生き物は強いのだが。
挫折を乗り越え、涙を呑んで、諦観を踏み越える事のできる者も稀に存在する。
それが、明日の勇者となるもの達だ。
瞬は、その明日の勇者の一人だったのである。
城戸家に引き取られ、虐待じみたトレーニングに嗚咽をかみ殺した日々を重ね、
ある時彼らは一つの事実を知らされる。
自分たちは城戸光政の娯楽のための生贄なのだ、と。
自分たちは、聖闘士という、
その存在すら疑われるようなものになる為に全国の児童養護施設から引き取られたのだと言う。
瞬は、心底呆れ、驚いた。
だが、憎むことはしなかった。
その瞬が、憎悪に身を焦がした相手が只一人だけ存在する。
先代の魚座・ピスケスの聖闘士アフロディーテその人である。
故に、最大必殺技をもって葬った、否、殺したのだ。
師・ケフェウスのダイダロスに認められ、聖闘士となった時には、
瞬は、既に小宇宙の究極・セブンセンシズに指をかけており、白銀聖衣を粉砕してのけた。
そして、数々の戦いを経て完全にセブンセンシズを眠りから覚ました上での戦闘だ。
例え相手が天下無双の黄金聖闘士であろうとも、彼に殺せぬ道理はない。
その領域に至ってしまった以上、戦いにはならない。ただの殺戮だ。
聖闘士史上類をみない天才の繚乱時代であるサガの乱期において、
彼の実兄・フェニックス一輝同様、 超常の領域の天才である瞬にとって、
拳を固めるという事は、恐怖以外の何物でもなかった。
殺してしまう、命を奪ってしまう、壊してしまう。
常にその恐怖が彼にまとわり付いていた。
だが、しかし、大恩ある師匠の仇ともあれば話は別だ。
瞬自身、わずか十七年の生涯の中で後にも先にも、
あそこまで憎悪に、殺意に、赫怒に身を委ねたことはない。
「先ずは君からだ。
フッ…死ぬ順番が変わっただけの事」
瞬の目の前に立つ茨の男。
麗人といわれても、すんなりと信じてしまいそうな出で立ちの彼は、
その秀麗な顔立ちに反してこの黄金十二宮最後の守護者なのだ。
同時に、瞬の、ジュネの大恩ある師・ケフェウスのダイダロスを殺した仇敵でもある。
「アフロディーテ、貴方に一つだけ尋ねたい事があります」
何かな、と返す彼の言葉を待って、瞬は尋ねた。
「貴方は、教皇が偽者だと知っていて、従っているのですか?」
沈黙は無かった。
「当然だ。
他の者は知らないが私とデスマスク、
そしてシュラは教皇の業を知った上で従っている」
やや芝居がかって、質問はそれだけか、ととじたアフロディーテの明朗とした答えは、
瞬の怒りの呼び水となった。
瞬間、大気は嚇怒に震えた。
瞬の右拳から攻撃を司るスクエア・チェーンが雷を模して襲い掛かる。
が、アフロディーテはかわしもしない。
否、彼が左手にそっと摘ん黒薔薇によって受け止められ、
同時に銀河の鎖は両方とも星屑のように砕け散った。
物質の最小構成単位、原子を破壊する事は聖闘士の戦闘の基本だ。
だが、それが黄金の小宇宙によって成されるのであれば、破壊の奇跡を呼ぶ。
瞬の強靭な意志の込められたネビュラ・チェーンはしかし、
黄金の甲冑魚の顎によって食いちぎられたのだ。
「君、もしや私をこの程度で倒せるとでも思っていたのか?
だとしたら思い上がりも甚だしい」
瞬のみぞおちに突き刺さる茨の魔人の膝蹴り。
その衝撃が瞬の聖衣を粉砕し、臓器を思うまま引っ掻き回した後、
ようやく彼の声が瞬の耳に届いた。
「この不沈の十二宮を此処まで上ってきたのだから、
喩え青銅のヒヨッコであったとしても」
血反吐を撒き散らし、双魚宮の石柱を数本纏めて砕きながら地面と並行に飛ぶ瞬だったが、
茨の魔人はまさしく一瞬で間をつめる。
彼の光速の貫手突きが冗談のように瞬の聖衣の胸部装甲を打ち抜き、
肋骨を三本まとめて粉砕し、胸に穴をあける。
底意地の悪い事に、直ぐには死なないように加減した上でだ。
だが、それでも手を引く際に肋骨を三本ほど抉り取るという極悪さをもっていた。
「力はある、と思っていたのだがな」
撃墜。
そう呼んでしかるべき衝撃で地面に叩きつけられた瞬は、刹那の間意識を手放した。
だが魔人の攻撃に間断はなく、瞬の頭に踵落としが決まる。
双魚宮の磨きぬかれた大理石のタイルが放射状にひび割れ、
瞬の聖衣のヘッドパーツもまた、粉と散った。
つい数十時間前、ムウによって修復された聖衣が、まるで役に立っていない。
小宇宙の差は、そこまで大きいのだ。
「ケフェウスのダイダロスは、これで死んだが。
君はどうだ?」
みしり、と瞬の頭蓋骨が軋んだ。
「ああ、安心したまえ。頭を踏み砕いて殺してなどいないよ。
白銀聖闘士にその人有りと言われたケフェウスのダイダロスを、
そのように殺しては些か勿体無い。
英傑には英傑の死に様というのが必要だろう」
瞬の髪の毛を左手で掴むと、魔人はそのまま彼を吊り上げる。
「くびり殺してやったのだ」
髪の毛を離すと同時に、彼は右手で瞬の細い首を締め上げる。
「かつて英雄ヘラクレスは、ポセイドンの子アンタイオスを大地から引き離してくびり殺したのだ。
英雄の殺した化け物になぞらえた死に様、実に相応しかろう」
つつつぅっと、瞬の額が朱に染まる。
頭皮か、額の何処かを切ったのだろう、だがそれは同時に、瞬自身が恐れる魔を呼び起こしていた。
嚇怒、憎悪、敵意、殺意、あらゆる負の感情が込められた瞳が、
亜麻色の髪の中からアフロディーテを貫いていた。
澱のように積み重なった悪意の群れは、只一つの色に成り果てる。
泥のような、黒。
「僕は…」
血で咽(むせ)て、ややくぐもった瞬の声、しかし、諦観はない。
敵愾心を剥き出しにした、獣の如き顔の瞬。
「僕は…ッ!」
毒蛇が得物を捕らえるが如き動作で、瞬の手はアフロディーテの右手を掴んでいた。
みしりと軋んだのは、瞬の頸(くび)ではなく、アフロディーテの、ピスケスの聖衣だった。
だがそれでも、茨の魔人は怯まない。
「私の聖衣を軋ませるか」
黄金聖闘士随一の剛力を誇るアルデバランといえども、黄金聖衣を粉砕する事はできない。
単純な腕力では、黄金聖衣は壊れない。
神の領域まで高めた小宇宙でなくば、この奇跡の聖衣は傷つく事すらないのだ。
「君はどうやら、爪を隠していたようだな。
舐められたものだ、このピスケスのアフロディーテも」
そこで初めて、アフロディーテは相貌に憤怒を滲ませた。
誇り高き黄金十二人最後の一人、ピスケスのアフロディーテの誇りを、瞬は踏みにじったのだ。
本気を出したまえ、そう言って瞬の体は放りだされた。
同時に、逆袈裟に切り裂かれる。
先ほど瞬のネビュラ・チェーンを打ち砕いたものと同じ、漆黒の薔薇ピラニアン・ローズだ。
粉砕されたとはいえ聖衣を装着した聖闘士、
それを薔薇で切り裂いた彼は、やはり魔人なのだ。
「僕は、人を傷つけたくない…」
自分の血で咽ながら、それでも瞬は立ち上がる。
黒い感情を押さえ込みながら、それでも瞬は立ち向かう。
「優しい事だな。
だが、その優しさだけでは人を救えない。
地獄への道は、善意で舗装されているそうだが、
おそらくは君のような優しい善人が精魂込めて舗装しているのだろうな」
小宇宙が、広がる。
黄金の小宇宙に呼応するかのように、瞬の小宇宙が大きくなる。
「アフロディーテ、貴方が、もし一かけらでも省みる意思があるなら、
僕は貴方を殺さない」
その言葉で、今度こそアフロディーテは吼えた。
「言うか小僧!
私は己の意志で殺し、己の意思で奪い、己の意思で守ってきたのだ!
今ここで、私が省みてしまったのなら、私が懺悔してしまったのなら、
私が踏みにじってきた者たちはどうなる?
私が守ってきた者たちはどうなる!
それこそ全くなんの意味もなくなってしまうではないか!
だから私は省みない。この生涯が終るまではな!
外道も貫けば世の華だ!
さぁアンドロメダ、おしゃべりは終わりだ。」
アフロディーテは構えた。
彼の右手の中には魔法のように純白の薔薇が現れていた。
すると、対応するかのように瞬もまた構えた。
「この白薔薇は、放たれたが最後、必ず君の心臓を穿つ。
逃れられる術はないぞ?
さぁ、これでも君は問答を続ける気かな」
ふらり、と幽鬼のように瞬は、アフロディーテに向かって掌を突き出す。
「…、僕は初めて拳を握る」
瞬は全身の力を込めて、軋ませながら拳を握り締めた。
そして、大気は瞬に掌握された。
「…ッ!
アンドロメダ!何をした?!」
驚愕。
アフロディーテは、縫いとめられたかのように動けなくなっていた。
大気を支配する瞬の最大必殺技の前段階だ。
瞬の巨大な小宇宙によって大気を、空気を制御下に布き、敵の五体を完膚なきまでに封じる技である。
無論、この技をかけなくとも最大必殺技を放つことは出来る。
だが、あえて瞬は猶予を与えたのだ。
「ネビュラ・ストリーム…。
無理に動こうとすれば、五体はばらばらに引きちぎれます。
お願いです、アフロディーテ。ここで懺悔してください。
己の行いを省みてさえくれれば、僕は貴方を殺さない。」
憎悪を押し殺し、降伏を勧告する瞬。
それは己との戦いだったのだろう。
そんな瞬を、アフロディーテは一笑に付した。
「馬鹿め。
そんな事では更に被害が増すだけだ!
非情になれ、アンドロメダ!殺す覚悟を決めろ、殺される覚悟を決めろ!
今ここで私を殺さなければペガサスは死に、さらに死人が増えるだけだぞ!」
それにな、と一言。
「この程度で私を完全に封じることはできない
馬鹿は死なねば治らないというだろう?」
体中を軋ませながら、アフロディーテは再び白薔薇を構えた。
その姿に、懺悔も自責もなく、只ひたすらに己の道を貫き通す傲然とした意思があった。
それは不思議な美しさをもって瞬の胸を打った。
「アンドロメダ。所詮この世は力が全てだ。
力無き正義は無力…。勝てば官軍…。
アテナに、城戸沙織に本当に力があったのなら、
十三年前に己の身を守ったアイオロスを、殺させるような真似はしなかっただろうよ!
私はそんな小娘の為に負けてやるつもりは無い!」
正義のために散ったアイオロスを、アテナを侮辱するかのような言葉に、瞬は嚇怒した。
故に瞬は、アフロディーテが胸中でほくそ笑んだことを知らない。
己を貫いているが故に、己を否定できなくなった哀れな男の唯一の望みを、瞬は知らない。
正義に敗れる悪である為、敢えて瞬を挑発したアフロディーテの哀しさを知らない。
「この分からず屋!
もうどうなっても知らないぞ!」
もはや決した、瞬はそう断じて小宇宙を爆裂させるべく最後の挙動へと移る。
もうこうなれば、瞬ですら止める術はない。
「この世に生れ落ちて二十と二年。そこまで立てば十二分に頑固者になるさ!
さらばだアンドロメダ!」
ヘルメスは、風の神であると同時に英雄の魂の運び手でもある。
彼によって導かれた魂は、冥府の主の元へと集う。
今、茨の魔人の魂はヘルメスへと委ねられた。
ぎしり、と軋んだのは一体なんだったのだろうか。
瞬の理性か、
冥府の主の歓喜か、
アフロディーテの良心か、
アドニスの慟哭か、
黄金の聖衣たちか、
薔薇の群れか、
大気か、
双魚宮か、
それとも不沈不落を謳った黄金十二宮か、
同士討ちを悲しんだアテナの心か、
だが、それを知る術は彼らにはない。
「ネビュラッ!ストォオオオオムッ!」
黄金の薔薇は、妖しくおぞましく美しく咲いて。
「ブラッディイイイイィ・ロォオオオオオォォオォォォズッ!」
気高く、散る。
銀河の気流は嵐となり、嵐は茨を舞い散らす。
風に舞う一片の花弁の如く、アフロディーテは宙に舞い、固い大理石の床に叩きつけられた。
その一撃は、金色の聖衣を浸透し、確実に人を殺害せしめる究極の一打。
最も心優しい聖闘士が得た、モイライ(運命を司る三人の老婆神)の皮肉ともいうべき究極の拳撃。
銀河の嵐は、たとえ聖闘士の究極たる黄金聖闘士の命といえども、容易に刈り取る。
ここに不沈を謳った黄金十二宮は陥落したのだ。
そして、瞬もまた心の臓腑に赤い薔薇を咲かせていた。
幸いにして、一命を取りとめ、瞬はこうして今生きている。
アフロディーテはあれほどまでに憎んだ相手だが、
不思議といまはそういった感情が枯渇していた。
敵として合い争い、干戈を交えた相手であっても、
瞬は相手の良心の疼きを感じ取ってしまう。
あの時の事を思い返せば思い返すほど、アフロディーテという人間が良く分からなくなる。
こちらを挑発するかのような言葉、
戦闘を望む類の人間ならばそれで得心がいったろうが、彼はそういった人間ではなく、
むしろ典雅優美な面持ちを崩さなかった人間だったらしい。
アドニスの話を聞いても、あの時の彼とは繋がらないのだ。
そして、同時に瞬とジュネの大恩ある師・ダイダロスを討った仇でもあるのだから、
ますます分からなくなる。
瞬がほんの少しばかり力を入れれば、人は容易く壊れる。
だからこそ壊してしまいたくはなかった。
人は、美しい。
人は、醜い。
人は、素晴らしい。
人は、おぞましい。
だからこそ人なのだ。
愛し、憎み、慈しみ、争い、笑い、涙し、生まれ、老いて朽ち果てる。
瞬きのような生涯を、彼は壊してしまいたくはなかった。
瞬に兄が、ジュネが、弟子たちが、兄弟たちが居るように、どんな悪党にも想う人は居るのだと信じていたから。
思えば、アフロディーテにもそういった相手がいたのだ。今は自分の弟子となったあの少年が。
だからこそ、瞬は憎しみに駆られる事を殊更忌避して生きてきた。
どんなに理不尽な扱いを受けても、どんなに殴られても、どんなに疎まれても。
それ故、今となっては、あの冥府の主に対しても、ある種の憐みに似た感情を持っている。
彼の思考を知ることができたのは、今もって尚、瞬を複雑な感情に陥れる。
余りにも深い悲しみが、冥府の主の心を支配していた。
愛おしいと、思ったのだ、冥府の主は。
慈しみ、愛で、穏やかな微笑みを浮かべる彼女の姿を、彼は求めていた。
天主のように権勢に任せて抱ける地位にはなく、海皇のように情熱に身を任せて抱ける事も出来ず、
懊悩を重ねた彼は、愛した女の娘をさらい妻に据えた。だが、彼女を愛する事は出来無かった。
娘を通じて、その母を見ていたのだ。
なんと愚かでなんと哀しい男だったのだろう、冥府の主は。
例えその愛した女から憎まれ疎まれようとも、彼はたしかに愛していたのだ。
そして、彼女が暴龍神との戦いで死んでしまった事が、彼を狂わせた。
愛した女が消えた地上を、消してしまいたかったのだ、彼は。
神々でさえも、モイライの糸車からは逃げられないのだ。
何時しか自分にもモイライの糸車の音が聞こえるのだろう。
だが、甘んじて受けてやるつもりは無かった、死にも神にも屈しなかった兄や兄弟たちのように、抗ってみせよう。
それが冥府の主に対して己が出来る唯一の餞(はなむけ)だと信じているから。
あともう少しで戦友のまつドイツへと瞬たちの乗った飛行機は到着する。
新たな戦の予感に、瞬は、すこし、高揚していた。
瞬は、拳を固める事にすら嫌悪を示した時期がある。
兄という巨大な傘の下にいた頃は、それでよかった、
だが、彼は怠惰な気性ではなかった。
彼にとって、兄は英雄だったのだから。
人は、英雄を求める。
だが、人は英雄になりたいと研鑽を積み上げたとしても、挫折し、涙し、諦観してしまう。
それでも生きていけるからこそ、人間という生き物は強いのだが。
挫折を乗り越え、涙を呑んで、諦観を踏み越える事のできる者も稀に存在する。
それが、明日の勇者となるもの達だ。
瞬は、その明日の勇者の一人だったのである。
城戸家に引き取られ、虐待じみたトレーニングに嗚咽をかみ殺した日々を重ね、
ある時彼らは一つの事実を知らされる。
自分たちは城戸光政の娯楽のための生贄なのだ、と。
自分たちは、聖闘士という、
その存在すら疑われるようなものになる為に全国の児童養護施設から引き取られたのだと言う。
瞬は、心底呆れ、驚いた。
だが、憎むことはしなかった。
その瞬が、憎悪に身を焦がした相手が只一人だけ存在する。
先代の魚座・ピスケスの聖闘士アフロディーテその人である。
故に、最大必殺技をもって葬った、否、殺したのだ。
師・ケフェウスのダイダロスに認められ、聖闘士となった時には、
瞬は、既に小宇宙の究極・セブンセンシズに指をかけており、白銀聖衣を粉砕してのけた。
そして、数々の戦いを経て完全にセブンセンシズを眠りから覚ました上での戦闘だ。
例え相手が天下無双の黄金聖闘士であろうとも、彼に殺せぬ道理はない。
その領域に至ってしまった以上、戦いにはならない。ただの殺戮だ。
聖闘士史上類をみない天才の繚乱時代であるサガの乱期において、
彼の実兄・フェニックス一輝同様、 超常の領域の天才である瞬にとって、
拳を固めるという事は、恐怖以外の何物でもなかった。
殺してしまう、命を奪ってしまう、壊してしまう。
常にその恐怖が彼にまとわり付いていた。
だが、しかし、大恩ある師匠の仇ともあれば話は別だ。
瞬自身、わずか十七年の生涯の中で後にも先にも、
あそこまで憎悪に、殺意に、赫怒に身を委ねたことはない。
「先ずは君からだ。
フッ…死ぬ順番が変わっただけの事」
瞬の目の前に立つ茨の男。
麗人といわれても、すんなりと信じてしまいそうな出で立ちの彼は、
その秀麗な顔立ちに反してこの黄金十二宮最後の守護者なのだ。
同時に、瞬の、ジュネの大恩ある師・ケフェウスのダイダロスを殺した仇敵でもある。
「アフロディーテ、貴方に一つだけ尋ねたい事があります」
何かな、と返す彼の言葉を待って、瞬は尋ねた。
「貴方は、教皇が偽者だと知っていて、従っているのですか?」
沈黙は無かった。
「当然だ。
他の者は知らないが私とデスマスク、
そしてシュラは教皇の業を知った上で従っている」
やや芝居がかって、質問はそれだけか、ととじたアフロディーテの明朗とした答えは、
瞬の怒りの呼び水となった。
瞬間、大気は嚇怒に震えた。
瞬の右拳から攻撃を司るスクエア・チェーンが雷を模して襲い掛かる。
が、アフロディーテはかわしもしない。
否、彼が左手にそっと摘ん黒薔薇によって受け止められ、
同時に銀河の鎖は両方とも星屑のように砕け散った。
物質の最小構成単位、原子を破壊する事は聖闘士の戦闘の基本だ。
だが、それが黄金の小宇宙によって成されるのであれば、破壊の奇跡を呼ぶ。
瞬の強靭な意志の込められたネビュラ・チェーンはしかし、
黄金の甲冑魚の顎によって食いちぎられたのだ。
「君、もしや私をこの程度で倒せるとでも思っていたのか?
だとしたら思い上がりも甚だしい」
瞬のみぞおちに突き刺さる茨の魔人の膝蹴り。
その衝撃が瞬の聖衣を粉砕し、臓器を思うまま引っ掻き回した後、
ようやく彼の声が瞬の耳に届いた。
「この不沈の十二宮を此処まで上ってきたのだから、
喩え青銅のヒヨッコであったとしても」
血反吐を撒き散らし、双魚宮の石柱を数本纏めて砕きながら地面と並行に飛ぶ瞬だったが、
茨の魔人はまさしく一瞬で間をつめる。
彼の光速の貫手突きが冗談のように瞬の聖衣の胸部装甲を打ち抜き、
肋骨を三本まとめて粉砕し、胸に穴をあける。
底意地の悪い事に、直ぐには死なないように加減した上でだ。
だが、それでも手を引く際に肋骨を三本ほど抉り取るという極悪さをもっていた。
「力はある、と思っていたのだがな」
撃墜。
そう呼んでしかるべき衝撃で地面に叩きつけられた瞬は、刹那の間意識を手放した。
だが魔人の攻撃に間断はなく、瞬の頭に踵落としが決まる。
双魚宮の磨きぬかれた大理石のタイルが放射状にひび割れ、
瞬の聖衣のヘッドパーツもまた、粉と散った。
つい数十時間前、ムウによって修復された聖衣が、まるで役に立っていない。
小宇宙の差は、そこまで大きいのだ。
「ケフェウスのダイダロスは、これで死んだが。
君はどうだ?」
みしり、と瞬の頭蓋骨が軋んだ。
「ああ、安心したまえ。頭を踏み砕いて殺してなどいないよ。
白銀聖闘士にその人有りと言われたケフェウスのダイダロスを、
そのように殺しては些か勿体無い。
英傑には英傑の死に様というのが必要だろう」
瞬の髪の毛を左手で掴むと、魔人はそのまま彼を吊り上げる。
「くびり殺してやったのだ」
髪の毛を離すと同時に、彼は右手で瞬の細い首を締め上げる。
「かつて英雄ヘラクレスは、ポセイドンの子アンタイオスを大地から引き離してくびり殺したのだ。
英雄の殺した化け物になぞらえた死に様、実に相応しかろう」
つつつぅっと、瞬の額が朱に染まる。
頭皮か、額の何処かを切ったのだろう、だがそれは同時に、瞬自身が恐れる魔を呼び起こしていた。
嚇怒、憎悪、敵意、殺意、あらゆる負の感情が込められた瞳が、
亜麻色の髪の中からアフロディーテを貫いていた。
澱のように積み重なった悪意の群れは、只一つの色に成り果てる。
泥のような、黒。
「僕は…」
血で咽(むせ)て、ややくぐもった瞬の声、しかし、諦観はない。
敵愾心を剥き出しにした、獣の如き顔の瞬。
「僕は…ッ!」
毒蛇が得物を捕らえるが如き動作で、瞬の手はアフロディーテの右手を掴んでいた。
みしりと軋んだのは、瞬の頸(くび)ではなく、アフロディーテの、ピスケスの聖衣だった。
だがそれでも、茨の魔人は怯まない。
「私の聖衣を軋ませるか」
黄金聖闘士随一の剛力を誇るアルデバランといえども、黄金聖衣を粉砕する事はできない。
単純な腕力では、黄金聖衣は壊れない。
神の領域まで高めた小宇宙でなくば、この奇跡の聖衣は傷つく事すらないのだ。
「君はどうやら、爪を隠していたようだな。
舐められたものだ、このピスケスのアフロディーテも」
そこで初めて、アフロディーテは相貌に憤怒を滲ませた。
誇り高き黄金十二人最後の一人、ピスケスのアフロディーテの誇りを、瞬は踏みにじったのだ。
本気を出したまえ、そう言って瞬の体は放りだされた。
同時に、逆袈裟に切り裂かれる。
先ほど瞬のネビュラ・チェーンを打ち砕いたものと同じ、漆黒の薔薇ピラニアン・ローズだ。
粉砕されたとはいえ聖衣を装着した聖闘士、
それを薔薇で切り裂いた彼は、やはり魔人なのだ。
「僕は、人を傷つけたくない…」
自分の血で咽ながら、それでも瞬は立ち上がる。
黒い感情を押さえ込みながら、それでも瞬は立ち向かう。
「優しい事だな。
だが、その優しさだけでは人を救えない。
地獄への道は、善意で舗装されているそうだが、
おそらくは君のような優しい善人が精魂込めて舗装しているのだろうな」
小宇宙が、広がる。
黄金の小宇宙に呼応するかのように、瞬の小宇宙が大きくなる。
「アフロディーテ、貴方が、もし一かけらでも省みる意思があるなら、
僕は貴方を殺さない」
その言葉で、今度こそアフロディーテは吼えた。
「言うか小僧!
私は己の意志で殺し、己の意思で奪い、己の意思で守ってきたのだ!
今ここで、私が省みてしまったのなら、私が懺悔してしまったのなら、
私が踏みにじってきた者たちはどうなる?
私が守ってきた者たちはどうなる!
それこそ全くなんの意味もなくなってしまうではないか!
だから私は省みない。この生涯が終るまではな!
外道も貫けば世の華だ!
さぁアンドロメダ、おしゃべりは終わりだ。」
アフロディーテは構えた。
彼の右手の中には魔法のように純白の薔薇が現れていた。
すると、対応するかのように瞬もまた構えた。
「この白薔薇は、放たれたが最後、必ず君の心臓を穿つ。
逃れられる術はないぞ?
さぁ、これでも君は問答を続ける気かな」
ふらり、と幽鬼のように瞬は、アフロディーテに向かって掌を突き出す。
「…、僕は初めて拳を握る」
瞬は全身の力を込めて、軋ませながら拳を握り締めた。
そして、大気は瞬に掌握された。
「…ッ!
アンドロメダ!何をした?!」
驚愕。
アフロディーテは、縫いとめられたかのように動けなくなっていた。
大気を支配する瞬の最大必殺技の前段階だ。
瞬の巨大な小宇宙によって大気を、空気を制御下に布き、敵の五体を完膚なきまでに封じる技である。
無論、この技をかけなくとも最大必殺技を放つことは出来る。
だが、あえて瞬は猶予を与えたのだ。
「ネビュラ・ストリーム…。
無理に動こうとすれば、五体はばらばらに引きちぎれます。
お願いです、アフロディーテ。ここで懺悔してください。
己の行いを省みてさえくれれば、僕は貴方を殺さない。」
憎悪を押し殺し、降伏を勧告する瞬。
それは己との戦いだったのだろう。
そんな瞬を、アフロディーテは一笑に付した。
「馬鹿め。
そんな事では更に被害が増すだけだ!
非情になれ、アンドロメダ!殺す覚悟を決めろ、殺される覚悟を決めろ!
今ここで私を殺さなければペガサスは死に、さらに死人が増えるだけだぞ!」
それにな、と一言。
「この程度で私を完全に封じることはできない
馬鹿は死なねば治らないというだろう?」
体中を軋ませながら、アフロディーテは再び白薔薇を構えた。
その姿に、懺悔も自責もなく、只ひたすらに己の道を貫き通す傲然とした意思があった。
それは不思議な美しさをもって瞬の胸を打った。
「アンドロメダ。所詮この世は力が全てだ。
力無き正義は無力…。勝てば官軍…。
アテナに、城戸沙織に本当に力があったのなら、
十三年前に己の身を守ったアイオロスを、殺させるような真似はしなかっただろうよ!
私はそんな小娘の為に負けてやるつもりは無い!」
正義のために散ったアイオロスを、アテナを侮辱するかのような言葉に、瞬は嚇怒した。
故に瞬は、アフロディーテが胸中でほくそ笑んだことを知らない。
己を貫いているが故に、己を否定できなくなった哀れな男の唯一の望みを、瞬は知らない。
正義に敗れる悪である為、敢えて瞬を挑発したアフロディーテの哀しさを知らない。
「この分からず屋!
もうどうなっても知らないぞ!」
もはや決した、瞬はそう断じて小宇宙を爆裂させるべく最後の挙動へと移る。
もうこうなれば、瞬ですら止める術はない。
「この世に生れ落ちて二十と二年。そこまで立てば十二分に頑固者になるさ!
さらばだアンドロメダ!」
ヘルメスは、風の神であると同時に英雄の魂の運び手でもある。
彼によって導かれた魂は、冥府の主の元へと集う。
今、茨の魔人の魂はヘルメスへと委ねられた。
ぎしり、と軋んだのは一体なんだったのだろうか。
瞬の理性か、
冥府の主の歓喜か、
アフロディーテの良心か、
アドニスの慟哭か、
黄金の聖衣たちか、
薔薇の群れか、
大気か、
双魚宮か、
それとも不沈不落を謳った黄金十二宮か、
同士討ちを悲しんだアテナの心か、
だが、それを知る術は彼らにはない。
「ネビュラッ!ストォオオオオムッ!」
黄金の薔薇は、妖しくおぞましく美しく咲いて。
「ブラッディイイイイィ・ロォオオオオオォォオォォォズッ!」
気高く、散る。
銀河の気流は嵐となり、嵐は茨を舞い散らす。
風に舞う一片の花弁の如く、アフロディーテは宙に舞い、固い大理石の床に叩きつけられた。
その一撃は、金色の聖衣を浸透し、確実に人を殺害せしめる究極の一打。
最も心優しい聖闘士が得た、モイライ(運命を司る三人の老婆神)の皮肉ともいうべき究極の拳撃。
銀河の嵐は、たとえ聖闘士の究極たる黄金聖闘士の命といえども、容易に刈り取る。
ここに不沈を謳った黄金十二宮は陥落したのだ。
そして、瞬もまた心の臓腑に赤い薔薇を咲かせていた。
幸いにして、一命を取りとめ、瞬はこうして今生きている。
アフロディーテはあれほどまでに憎んだ相手だが、
不思議といまはそういった感情が枯渇していた。
敵として合い争い、干戈を交えた相手であっても、
瞬は相手の良心の疼きを感じ取ってしまう。
あの時の事を思い返せば思い返すほど、アフロディーテという人間が良く分からなくなる。
こちらを挑発するかのような言葉、
戦闘を望む類の人間ならばそれで得心がいったろうが、彼はそういった人間ではなく、
むしろ典雅優美な面持ちを崩さなかった人間だったらしい。
アドニスの話を聞いても、あの時の彼とは繋がらないのだ。
そして、同時に瞬とジュネの大恩ある師・ダイダロスを討った仇でもあるのだから、
ますます分からなくなる。
瞬がほんの少しばかり力を入れれば、人は容易く壊れる。
だからこそ壊してしまいたくはなかった。
人は、美しい。
人は、醜い。
人は、素晴らしい。
人は、おぞましい。
だからこそ人なのだ。
愛し、憎み、慈しみ、争い、笑い、涙し、生まれ、老いて朽ち果てる。
瞬きのような生涯を、彼は壊してしまいたくはなかった。
瞬に兄が、ジュネが、弟子たちが、兄弟たちが居るように、どんな悪党にも想う人は居るのだと信じていたから。
思えば、アフロディーテにもそういった相手がいたのだ。今は自分の弟子となったあの少年が。
だからこそ、瞬は憎しみに駆られる事を殊更忌避して生きてきた。
どんなに理不尽な扱いを受けても、どんなに殴られても、どんなに疎まれても。
それ故、今となっては、あの冥府の主に対しても、ある種の憐みに似た感情を持っている。
彼の思考を知ることができたのは、今もって尚、瞬を複雑な感情に陥れる。
余りにも深い悲しみが、冥府の主の心を支配していた。
愛おしいと、思ったのだ、冥府の主は。
慈しみ、愛で、穏やかな微笑みを浮かべる彼女の姿を、彼は求めていた。
天主のように権勢に任せて抱ける地位にはなく、海皇のように情熱に身を任せて抱ける事も出来ず、
懊悩を重ねた彼は、愛した女の娘をさらい妻に据えた。だが、彼女を愛する事は出来無かった。
娘を通じて、その母を見ていたのだ。
なんと愚かでなんと哀しい男だったのだろう、冥府の主は。
例えその愛した女から憎まれ疎まれようとも、彼はたしかに愛していたのだ。
そして、彼女が暴龍神との戦いで死んでしまった事が、彼を狂わせた。
愛した女が消えた地上を、消してしまいたかったのだ、彼は。
神々でさえも、モイライの糸車からは逃げられないのだ。
何時しか自分にもモイライの糸車の音が聞こえるのだろう。
だが、甘んじて受けてやるつもりは無かった、死にも神にも屈しなかった兄や兄弟たちのように、抗ってみせよう。
それが冥府の主に対して己が出来る唯一の餞(はなむけ)だと信じているから。
あともう少しで戦友のまつドイツへと瞬たちの乗った飛行機は到着する。
新たな戦の予感に、瞬は、すこし、高揚していた。