SS暫定まとめwiki~みんなでSSを作ろうぜ~バキスレ 第006話 「時間も分からない暗闇の中で」 1-4


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 当事者 1

 香美、と名付けたネコはひどく体が弱かった。普通、子ネコというものは母ネコの初乳から免疫力を獲得(移行抗体)し、
1~2か月ほど様々な感染症から守られるものだ。
 が、香美は生後数か月の間、何度も何度も感染症にかかり生死の境を彷徨った。ひょっとするとだが、母ネコ自体が
免疫力を持っていなかった(または免疫力の薄れた状態だった)のかも知れない。

『僕が拾った時もそうだった! 担ぎこんだ病院で一晩に何度も死にかけた!』
「そう……ですか」



(でも生命力自体は強いという話だ!)
 いよいよ駄目だという時、貴信はケージの隙間からそっと前足を握ってやった。


* * * * * * * * * * * * * * * *


「先生! 僕は泊まり込んででもこの子の面倒を見てあげたい!」
 突拍子もない申し出に、獣医は面喰らったようだった。5年とか10年とか連れ添った相手ならばまだしも初対面の子猫
相手に……? ありありと浮かぶ機微に対し、貴信は全力の叫びをあげた。
「確かに僕とこの子の縁など偶然出会った程度の物でしかない! しかし! この子は訳も分からず捨てられていた! 何
も悪い事をしていないにも関わらずだ!! なのに獣医さんだけに看取られて死んでいくのは……あまりにも寂しすぎる!
だいいち僕自身、責任を丸投げしたようで気が引ける!」
 いかにも異相の青年である。レモン型の瞳が血走り、芥子粒のような小さな瞳が爛爛と光りを帯びている。それが喋るたび
ずずいと接近してくるから獣医は悲鳴を上げたくなった。貴信の歩幅に合わせ、後ずさる。
 なおかかる声は時おり耳障りな甲高さを帯び、驚いた入院室の患畜がひっきりなしに遠吠えし、絶叫し、そしてはばたく。。
 静謐であるべき診察室は貴信一人の乱入によってかつてない騒ぎに見舞われていた。
 獣医はとうとう部屋の隅に追い詰められ、そこにあった大型書類棚に背中をぶつけた。ガラス戸の内側で蒼いバインダーが
何冊か蝶のように羽ばたき落ちた。
「しかし」
 落ち着いて。遠慮がちに突き出した掌はしかしボディランゲージの効果がなかった。
 貴信は泣いた。異形の瞳を濡らしに濡らし、憚りもなく泣き始めた。言葉の節々で俯いては熱い水滴を拭い、叫びを継いだ。
「人が生きるのは繋がりを求めるからだ!! 鎖のような、強固で確かな! それはきっと動物だって例外じゃない! 親から
も飼い主からも見捨てられたこの子! もし助からないにしても、まったく無縁の僕が何らかの繋がりを与えてやらなければ……
この子の人生には孤独しか残らない! 孤独は何より辛い!! だから、ついていたい!」
(この子ぜってえトモダチいねえ! だから子ネコにさえ自己投影する自己満足な自己紹介に自己陶酔してやがる!)
 社交性のない人間が追い詰められた時の(常人には理解しがたき)爆発力。
(んで子ネコ救えば自分も救われるとか思ってる訳だ! やっべ! こーいう奴が一番やべえ!)
 獣医は負けた。
 付き添いを、許可した。

「ただし大声だすなよいやマジで。患畜が発作起こしたらカワイソーだし」


* * * * * * * * * * * * * * * *



 右前足を握られた子猫は、ネズミのような声で苦しそうに鳴いた。小型毛布に包まれた小さな体は果てしのない熱を帯び、
そこからはみ出た小さな顔が時おり、はあ、はあと大きな息さえ吐く。猫は基本的に鼻呼吸である。口呼吸はよほど危殆に
瀕さねばやらない。香美の様子からそんな豆知識を思い出すたび、貴信の胸は耐えがたい陰鬱な気持ちに痛んだ。
(辛い物だな……。痛みを肩代わりしてやれないのは)
 しょっぱい匂いが鼻先を付き、熱ぼったい液体がとめどなく頬を濡らす。喉が詰まる思いは父の葬儀以来久々だ。
(え、ええい。僕が泣いてどうする! 僕がキチっと見てあげるんだ!)
 慌てて肩で洟を拭う。握った前足──厳密にいえば人差し指と親指で肉球を摘む程度だった。ケージ越しにはそれが限
界だった──ゆっくりと撫ですさってやる。
 香美の息が少しだけ、和らいだ気がした。

(大丈夫! 大丈夫! きっと君は助かる!)
(あの後獣医さんが言っていた!)


「きっとこの子は病弱に育つでしょうが」

「兄弟たちがみんな死んでたのに、君が来るまで鳴き続けていた」

「だから」

「生命力だけは強いですよ。しぶとい、っていうんですかね」

「はは。失礼。要するに根性がある。女の子なのにね。どんなひどいコトになっても)


(「最後の一線の前では絶対に踏みとどまれる」!! 自分を信じて頑張るんだ! 香美!)


 当事者 2


















                                    暗い場所でやかましい声が聞こえた。

                                    ような、気がした。



 当事者 1

 2ヶ月後。

「さ! ココが今日から君の家だぞ!!」
 おっかなびっくりという様子でケージから出てきた香美は、いかにも恐る恐るという様子でその部屋を見渡した。
 ベッドが右にあり、正面奥には勉強机。左にはガラスの扉。どれも初めてみる物だから、怯えているだろう。
「ははっ! 2ヶ月も病院に居たからな! 外の世界には馴染みがないのだろう!」
 ふわふわとした長毛種の子猫が面喰らったように貴信を見上げた。
 体格は小さく、しかし毛は長い。座っているとふわふわとした毛質のせいでとてもとても丸く見える。
 それだけで貴信は(くうーっ!)と顔をしかめて壁をゴツゴツ殴った。
(可愛い! 飼い主がいうのもあれだが可愛い!!)
 正直いって妖精のようなネコだった。
 オーバーを着込んだようにむっくりとした体だ。太っているのではなく、柔らかく長い毛が全身を覆い、あたかもぬいぐるみ
のように可愛らしい。
 貴信自身「まさかこんな美人だとは」と驚くほどの子ネコだった。
 ぱっちりとした大きな瞳。形のいい鼻。桃色の血管が透けて見える三角の耳。
 顎や腹は雪が積もったように白く、それは足先も同じだった。しかも長毛のせいでどこまでも丸っこい。

 可愛らしさの極めつけはしっぽで、羽箒のようにもわもわとしている。
 獣医曰く『ノルウェージャン・フォレスト・キャット』の血が入っているのではないか? とのコトだった。

「『ノルウェージャン・フォレスト・キャット』?」
「そ。一説にはバイキング大暴れの11世紀ごろ、ピザンティン帝国からノルウェーに交易品としてやってきたネコちゃんだ
ね。ノルウェーの厳しい環境に適応して毛をムクムク伸び繁らせたせーで、いつしか「森の妖精」とまで呼ばれるようになっ
たネコちゃん。買えば高いし売れば高い」
「……売らないぞ!! この子はもう、僕の家族だ! いや、この子がそれを拒むなら話は別だけど!」
(そこで泣くなよ。3日徹夜で面倒見てくれた相手を拒むわきゃねーだろ。これだからトモダチの少ない奴は悲観的で嫌になる)
「何か?」
「(いや言ったらまた傷つくだろお前)。大丈夫。見たトコ雑種だねこのコ」
「雑種」
「うん。多分75%まではノルウェージャンだけど後の25%は別なネコ」
「だから捨てられたのか!! 可愛そうな香美! おぉ、よしよし!」
(よー分からんけどご主人がぎゅっとしてくれてる! 嬉しい、嬉しいじゃん!)
「香美いいいいいいいいいいいいい!!」
「(話聞けよ)。だいたいのノルウェージャンはブラウンクラシックタビーの毛色……あ、アメショーみたいな模様ね。あれが
多いけどこの子はなんか違う」
「というと?」
「お腹まっしろ。顎まっしろ。んで顎から鼻の頭の周りも白。そこはノルウェージャンだけど」
「けど?」
「毛色がヘン! 茶色はともかく!」

「うぐいす色の模様が入ってるなんてな!
 香美の毛色はネコにしては特殊だった。目の周りや耳裏、背中といった部分に縞模様が入っているが、どういう訳かうぐ
いす色と茶色という些か”エグい”色合いだった。ネコの毛色を決定づけるのは毛管内に沈着したユーメラニン色素だが
──この色素が球形ならブラック、卵形や楕円形ならばブラウン、シナモン──それがうぐいす色になるのは聞いたコトが
ない。獣医はそう何度もいい、しきりに首をひねった。(仮に突然変異だとしても、全身が真っ白になるかシナモンの毛が
生えるのが普通。それが獣医学的見地だった)

「もしかしたら君や兄弟たちは突然変異すぎたせいで捨てられたのかも知れないな!」
「うみゃあ?」
 良く分からない。そんな調子で一鳴きした香美はのんびりと毛づくろいを始めた。

 ひょっとしたらブリーダーの家で生まれ、毛色が奇妙すぎるが故に「売り物にならない」と捨てられた……貴信はそんな仮説
を立てたが、どうか。

「謎が……解けました」
『もしかしてだが鐶副長、香美の謎がわかったのか!?』
 はい、と鐶はゆっくりと頷いた。
「香美さんが語尾に”じゃん”をつけるのは……ノルウェージャン・フォレスト・キャットだから、です!」
 無表情ながらに力強く眉をいからす少女に、『そ、そうかもな! は、ははは!』と貴信は空笑いをした。
「ノルウェージャンだからじゃん……です。大発見、です。無銘くんに話したら……きっと、話が……弾みます。……うん」
 うつろな瞳の少女は俯き、気恥しげにはにかんだ。無銘の反応を期待しているらしい。
(こういう所はまだ子供だなあ!)

 とにかくどうにか退院し、貴信の自宅で暮らすようになった香美は……ちょっとしたきっかけでよく体を壊した。
 貴信は幼い彼女をなるべく外に出すまいと努力はした。が、出入りの際、家へ流れ込んでくる空気や外出中の貴信の衣
服に含まれるわずかばかりのウィルスに香美はやられ、何度も何度も感染症に見舞われた。(貴信は半ば本気で玄関へ
エアー室を設ける事を考えた)
 そういったコトがなくなって、跳んだり跳ねたり走り回ったりできるほど元気になっても。
 病弱は治らなかった。
 一晩徹夜でゴムボールを追いかけただけで発熱。睡眠不足と疲労が原因だろうと貴信は分析した。
 半日前に入れた水道水を飲んだだけで2日ほど水様性の便を垂れ流し続けたコトもあるし、ちょっとエサ皿を洗い忘れた
だけで食あたりし数時間吐き続けたコトも……。

「覚悟はしてたがこの子弱っ! 月曜退院した週の水曜に入院する患畜、初めてすぎるわ!」
「なのに回復は早い! 点滴打っただけでケージの中走り回ってる……!」
(なんか楽になったじゃん! 出すじゃん出すじゃん! あたしはご主人と遊びたい訳よ!)

 病院に行っては回復し、回復しては体調を崩し……。

 貴信が一番困惑したのは、やや蒸し暑い初夏、エアコンを軽くかけただけで一気に風邪をひきそのまま肺炎コースへ突入
された時だ。季節の変わり目にカゼを引くコトは誰しもよくあるが、香美の場合のそれはあまりにも極端過ぎた。
 かといって元気のない、物静かなネコではなかった。むしろ香美はメスであるのが信じられないほど活発なネコへと成長
した。ヒマさえあれば室内をドタドタと走りまわり、高いところに登っては貴信の頭や背中へ飛びかかり、彼に巨大な悲鳴を
上げさせた。そして着地しては部屋の隅っこで身を屈め、いかにも高級そうなしっぽごと腰をふりふりしながら貴信を凝視
する。
「遊ぶじゃん遊ぶじゃんご主人! ご主人ご主人大好きじゃん!」。
 まんまるくなった瞳孔は挑発的な光を振りまき、より刺激的な反応を求めているようだった。
 そこで制止の声を上げ、捕まえんと向かっていくと余計ひどい結果になる。貴信が香美を捉えんと身を屈め腕を伸ばす
頃にはもうすばしっこい子ネコは股ぐらの間をくぐり抜け、急ターンをし、足の裏側を樹木のごとくズルズル登っている。ま
だまだチャチいがそれなりに尖っている爪がズボンの繊維をプチプチ裂く感触! そして皮膚に走る痛覚! 貴信が恐怖
とともに呻くころ、登頂成功した香美が肩の上でグルグル喉を鳴らしている。
(ご主人! ご主人!)
 香美はよっぽど貴信が好きなようだった。彼は重病の飼いネコを幾度となく徹夜で看病していたが、もしかすると香美は
それを無意識のうちに理解しているのかも知れなかった。無邪気に喉を鳴らしては貴信の首筋や頬を舐める。ザラザラと
した感触で一生懸命愛情を表現しているのは明白だ。
 そうなると貴信はもうお手上げで、そっと香美を肩から剥がし、抱き抱え、座り、そっと膝の上に乗せてやるしかなかった。
 すると香美はますます嬉しそうに喉を鳴らし、「にゃー、にゃー!」と何度も貴信を見上げて鳴く。喉を撫でられたりすると
本当に心地良さそうに目を細め、いつしかカブト虫の幼虫のように丸くなって眠り込む。

 そんな姿を見るのが、貴信は何よりも嬉しかった。まっとうな人間関係が結べず、もしかすると自分はこの世の誰からも
必要とされないまま生涯を終えるのかとよく不安に打ち震える彼にとって、膝の上で屈託なく眠る香美の姿は本当に本当
に救いだった。

 だから、守りたい。他の何よりも、大事にしたい。

 心からそう思っていたし、香美がその生涯の中で幸せになってくれるコトを強く強く、願っていた。

 当事者 2

 か細い息をつくネズミが目の前に横たわっていた。全身のあちこちが裂け、血がフローリングを汚している。
 香美はちょこんと座ったまま「どうしていいか分からない」そういう顔で貴信を見た。
 彼はピンセットに挟んだ脱脂綿を慣れた手つきでネズミの傷口に当てている。香美の鼻を刺激臭が貫いた。それは体調
が悪くなるたび嗅ぐ匂いだ。人間的に説明すれば病院に漂っている薬の匂いだ。
「本能だからな。追いかけてしまうのは仕方ない。まだ子猫だから、怒ってもしょうがない」
 貴信はぽつりと呟き、チーズの破片をネズミの口の傍に置いた。幸いまだ息はあるらしい。すすけた色の原始哺乳類が
チぃチぃ鳴きながら食事をする。その様子に香美はなぜだかホッとした。
「いいか香美。ネズミを追いかけ回したい気持ちはわかる」
「うにゃ?」
 いつもと違う静かで厳粛な貴信の声に香美は首を傾げた。
「でも傷つけるのは駄目だ。痛いし苦しい。お前だって何度もそういう思いをしただろう?」
 言葉の意味はよく分からない。ただ、先ほどまで興奮して追っかけまわしていた「楽しい物体」が、自分の付けた爪痕から
ひどい臭いを放ち、グッタリしている様はとてもとても嫌な感じがした。
 それは。
 暗く湿った箱の中に居る時に。
 ひどく疲れた時に、生臭く痛んだ食物や水を摂った後に、暑いのと寒いのを同時に経験した後に。
 必ず襲ってくる「ゾッ」とする感覚に似ていた。
 激しく動いて衝動をかきたてる「楽しい物体」が自分を見上げる目。
 それは恐怖に満ち、助けを求めているようだった。
(あたしはただ……遊びたかっただけじゃん。でもさ、でもさ。何か、ちがう)
 貴信に飛びかかった後のような楽しさはそこにない。その理由は考えても分からないが、「楽しい物体」に過ぎなかった
物が苦しそうな声を上げ、必死に自分の視線から逃れようとしている様は……楽しいものではなかった。
 もこもこした毛の奥で胸がチクリと痛む。
 いつしか香美はネズミの傷口を舐めはじめていた。
(ごめん。ごめん。あたし、あんたにわるい事した。ごめん)
「そうだ香美。彼らは彼らなりに懸命に生きている」
「うみゃー」
「君が遊びのつもりでも向こうは死ぬ思いをしている」
「にゃ」
「死に瀕するのは辛い。君ならそれが……分かる筈だ。いいな」
「ふみゃ」
「弱い者いじめは、良くないぞ」

 3日後。
 ネズミは冷たくなって、動かなくなった。

(…………)

 裏庭で貴信が穴を掘り、「楽しい物体」を埋めるのを香美はケージの中からじっと眺めていた。
 貴信がスコップを振るうたび、「楽しい物体」に土がかかっていく。
 かつて自分が経験した、暗くて狭く、冷たい場所に行く。何となく、それが分かった。
 寂しい気持ちだった。
 ネズミは籠の外から何度か傷口を舐めるうち、食べかけのチーズをくれるようになった。だから香美も自分の煮干しをあ
げようと思った。そして咥えて持っていき。(籠の)隙間からねじ込んだ。「さ、あんたも食べるじゃん。おいしいじゃんそれ!」
だが、何の反応もなかった。チーズをくれた者はどこか満足したような表情で目を瞑ったまま、動かない。おかしい。鳴いて
貴信を呼ぶと、彼は少し驚いた顔で「楽しい物体」を撫でまわし、残念そうに首を振った。

(いー匂いのするあれ、あげたかったのにさ…………あたしのせーでああなったのに、いい匂いのもんくれたのにさ……)

 豊かなしっぽをパタパタと振りながら、どうすれば良かったかずっと考えていた。爪を立てなければ良かった。噛みついたり、
押さえつけたりしなければ良かった。そんな想いが頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 初めて見た小さな物体は、貴信が差し出すおもちゃとは違う刺激的な動きをしていた。面白そうだった。だから飛びかかった。
貴信や彼の持つおもちゃと同じようにしても大丈夫。根拠もなくそう信じ込んで、いつものように力いっぱい遊んでいた。ただ、
それだけだった。それだけなのに、辛い気持ちになり、悪寒が走り、気付けば体調不良の時御用達のヘンな臭いのする場
所(動物病院)で寝込んでいた。
 耳が熱ぼったく鼻が詰まって息苦しい。そういう時は決まってまどろむようにしている。
 寝れば何とかなる。辛い気持も、収まる。香美の意識が遠のいた。

 夢の中でネズミが怒ったり泣いたり、「気にするな」とチーズの破片を押し付けてきている気がした。そして今度こそ煮干しを
食べさせようとするとネズミはどこかへ消える。そして香美は貴信さえいない暗闇の中で煮干しを取り落としたまま鳴き喚く。
 誰も来ない。
 寒い。狭い。
 出れない。
 そんな怖い夢を、何度も見た。
 すると前足に懐かしい暖かさがやってきて、目を覚ますと貴信が心配そうにそこにいる。
 悪い夢を食べてくれるのは、いつも決まって貴信だった。

(ご主人、あたし、あたし……)
 芥子粒のような瞳の中で、子ネコがポロポロと涙を流した。


 退院してからも。

 外に出られるようになってからも。

 本当に悪いコトをした。「楽しい物体」が埋まっている場所を見るたび、香美は胸が痛んだ。


 当事者 1

 香美が外に行くようになってから。

「?」

 貴信は自宅の裏庭に行くたび首を傾げた。

 ネズミを埋めた場所にいつも決まって煮干しが落ちている。

(香美が供えたとか……!? いやでもネコって墓参りする生物だったか! 象の墓場だって密漁ハンターが捏造したアレだしなあ!)

 結局それは、家を出るまでも出てからも、謎のままだった。


 当事者 2

 話は前後する。
 生後4か月でようやく人並み(ネコ並)の免疫力を獲得した香美は、外へ遊びに行くようになった。
 きっかけはよくあるコトだ。貴信が帰ってきた時スルリとドアを抜け、脱走。3日ばかり行方不明になった。

(ご主人はいつもどこいっとるじゃん。それが知りたいじゃん)

 貴信はまったくメシが喉を通らなかった。3ケタほど刷った尋ねネコポスターをあちこちに貼ったり不眠不休で捜索したりした。
 幸いネコの常で3日もするとひょっこり帰ってきたが、以来彼女ときたら毎日毎日「外へ出すじゃん出すじゃん」と鳴き喚き
ドアをガリガリ引っ掻く始末。
 健康状態を慮る貴信だから生涯室内飼いを予定していたのはいうまでもない。
 他方外の世界の刺激がすっかり病みつきになった香美は外へ出たがる。要求開始からたった3日で円形脱毛をきたす
ほど「閉じ込められている」室内飼いはストレスフル……貴信は外へ出すべきか、悩んだ

「喧嘩してネコエイズに感染するのが心配? 大丈夫ですよ。メスだしあまりケンカはしないでしょう」

 獣医はそう太鼓判を押した。貴信はしぶしぶながら外飼いを決意した。
 だが。
 香美はよくケンカをした。

「あの! 香美はよく喧嘩するんですが!」
「おかしいなあ。基本的に温和で人懐っこいコなのに」
「そんなコトいって香美がネコエイズになったらどうするんだ!!」
「まあまあ。落ち着いて。実はネコエイズの新薬の研究が進んでいる」
「それなら……」
「まあアメリカの死刑囚に呑ましたら全身グリーンピースみたいな腫瘍だらけになって溶けて死んだけどな!」
「免疫不全より悪い結果の出る薬をッ! 人の家族に呑ませようとするなアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
「大丈夫だよ貴信君! 私は患畜は殺さない主義だ! もっとも人間のだクソ犯罪者どもは積極的に様々かつ危険極まる
臨床実験に使って駆逐すべきだという主義は曲げない! 人間とかなに醜っ! 全身の皮膚に柔らかーい毛が生えてねえ
段階ですでにもう論外! 仔人間の段階でもうダメ! うるせえわうぜえわ一番可愛い筈の時期さえクソだぜ!」
「仔人間とかいうな! 動物扱いするな!」
「おおおっと失礼! 動物様を人間ごときと同列に語っては失礼だねっ! 何しろ人間とかは可愛くねー時期が長すぎる! 
許せて受精直後の受精卵ぐらいだな! あれはふつーに丸くて可愛らしいが細胞分裂した辺りで一気にグロく、なりやがる!」
終始動物以下だぜ人間って奴ぁ! 死ねよフフヒャハアハハハーッ!」
「今までお世話になった! 病院を変えるので紹介状とカルテを出せ! 今すぐ!」
「まずぁ犯罪者どもから動物様のよりよい治療の実験の犠牲んなってクソみてえな図体滅ぼしなッ! おじさんは今日も人
間どもの屍エサにネコエイズの薬作るぜー!」
「あんたのお手製か! というか僕の話聞いてないし!」

(よーわからんけどさー。あたし、弱いモノイジメしてる奴みると許せんわけよ)
 子ネコが老ネコが、妊婦ネコが病気ネコが怪我ネコが、いじめられているのを見るとついカッとなってやってしまう。
 相手が百戦錬磨のコワモテネコだろうとボスネコだろうと体重80kg超のセントバーナードであろうと立ち向かい、頭を肉球
で一撃! 大抵の相手はそれで昏倒した。金持ちの家から脱走したドーベルマン6頭を同時に昏倒させたコトもある。

「まあ全部子犬だったんだが!」
「ですよねー」
 昏倒しない場合は「弱い物いじめはだーめでしょうがあああああ!」と連撃に次ぐ連撃。なまじ殺意や悪意のない、どこか
空回りしている連撃だからやられた方は怒るよりもつい唖然として──気迫に呑まれ──受け入れてしまう。そして連撃が
終わった後ようやく、相手が小さな子ネコだと気付く。
「いかん。だるい。疲れた。でも弱い物いじめはさせん。やるっつーならあたしが戦うし、どよ!」
(どうと言われても……)
 すっかりヘバって地面に突っ伏してる子ネコを倒してもなあ。総ての相手はこの妙な相手に毒気を抜かれ、ついつい弱いもの
いじめをやめてしまう。(ケンカというよりおまぬけで一人よがりな暴走か)

「この子はあれだね。ケンカを全力でやってるけど本気は出してないみたい」
「先生! 全力と本気はイコールなのでは!」
「いやいや。全部の力を出してはいるけど、ケンカそのものには本気になっていない」
「?」
「一回この子がケンカしているのを見た。何というか、弱い物イジメやめさせるのに必死だけど、相手を倒したり叩きのめしたりし
たいとかは考えていないようだ。そういう意味じゃ、本気でケンカはやっていない」
「なるほど! つまり持てる力の全部が仲裁に行ってるから、相手も香美も傷付かない訳だ!」
「そ。もし持てる力の全て相手を叩きのめすコトに費やしたら、相当強いと思うよこの子。だって仲裁する時ですら相手は結構
ダメージ追うからね」
「香美は優しいから、ケンカのためだけのケンカはしないと思う!」
「先生もそう思うよー。ご主人の教育の賜物だね。……もし、この子が本当に逆上して、ケンカのためだけのケンカ、本気で相手
を叩きのめすようなコトがあるとしたら。それは──…」
「それは!?」


「──────────────────」
「……え? いや、その、先生? 香美は犬じゃないから、そんなコトはない! ないと、思う!」


 この時は笑って流した言葉。
 それが現実となり香美を激しく突き動かすコトになるとは……。
 貴信はまったく想像もしていなかった。


 一方、香美。
 彼女は病気やケガで動けないネコを見つけると決まって自宅に連れ込んだ。子ネコが大人ネコの首を噛み、自宅まで引きずる
光景は近所の評判となった。

(ご主人! ご主人! あたしがだるい時にいくとこ連れてくじゃん! よくわからんけどあそこは治る! すごい!)
「いや香美、父さんの遺産だって無限じゃない! 本来無料で済む野良猫治療にいちいちお金を払う僕も僕だが! こうも
しょっちゅう野良猫をだな、全部見せる経済的余裕は……」
(なにいっとるかわからん。でも治る。治る。ご主人にこいつら見せたらきっと治る。ご主人はすごい!)
「ぐ………」
(はよ、はよ)
 キラキラと目を輝かせる香美を見るたび、貴信は半泣きで病院に電話をかけた。
「はいそうです。また。うう! また今月の食費削らないといけないのか!!」

「つかよ、電車に轢かれて両前足吹っ飛んだネコを3千円で五体満足に戻したりしてるんだぜ俺。十分良心的じゃね?」
 モアイのような顔の獣医は電話口でやれやれと肩を竦めた。

 そんなコトが何十回も続くうち、とうとう香美は自宅周辺を統べるボスネコになってしまった。
(姉御姉御!)
(姐さんだ姐さんだ)
(強い。綺麗。頼れる)
 なんだかんだで助けたネコども(あとインコやモグラやシロテテナガザルもいた)が勝手に祭り上げたという感じだが、そう
やって弱者どもが作り上げた権勢という奴は強者の腕力一つでは到底覆せない。
(ちっちゃい癖に生意気だぜクルァ!)
 いかにもいかつい傷だらけのブチネコが香美にケンカを売れば弱者どもがどっからか湧いてきて総攻撃を仕掛ける。
(ボスに手を出すな!)
(いつぞやの恩、姐さん逃げてくだせえ!)
 首に、背中に、しっぽに。たくさんのネコが1匹のネコに噛みつく様はスズメバチを蒸し殺すミツバチの群れに似ていた。
 本来連帯感に乏しいネコどもがまるでイヌ社会かサル社会のような仁義を見せるのはまったく特異だが、しかし香美もまた
特異な感性を持っていた。
(がああああ! いっぱいがちょっとにとびかかるのもアレじゃんアレ! やーめーるじゃん!!)
 味方である筈の弱者どもの頭を殴り、昏倒させ、悉くを蹴散らし。
 本来敵である筈のいかついネコを守るように立ちはだかる。
(しゃあーーーーーーーっ! なにやってるじゃんあんた!)
(何って俺ぁテメーにケンカ売りに)
(ここにいたらいっぱいがよってたかってあんたいじめるしさあ、さっさと逃げたらどよ。ねえ!)
(ダメだコイツ。本物の馬鹿だ!)
 香美この時4か月。要するに弱い物イジメを見ると後先考えられなくなる、アホであった。
 しかしアホほど祭り上げられ好意を浴びるのが社会である。それはネコ社会も同じらしく。
(さすが姐さん! 姐さん!)
(フクロはだめ、だめ)
(わかったあ)
 殴られ昏倒させられ蹴散らされた弱者どもはますます香美を尊敬した。
 ついには。
(頼むぜ若ぇの。ここらのシマはおめえに任せた)
 テレビで何度か取り上げられたほど伝説のボスネコ(30年は生きているらしい。子ネコのころ自分の右目を潰したカラス
を逆に喰い殺したそうな)がその席をついに譲った。

(よーわからん。なんでみんな集まるたびあたしをムリやりたかいとこのせるのさ?)

 ネコ集会の時はひまそーに突っ伏し自慢のしっぽを鞭のようにしならせる。
 そこへ下っ端や取り巻きどもが自助努力によって獲得したネコ草だのゴムマリだのを献上しにくる。
 それを面倒くさそうに一瞥しては目を逸らすのはいよいよ以て大物の風格であった。(当人はただひたすら面倒くさかった
だけだが)

「ボスになってる……。ははっ。はははは!」
 一度買い物帰りにその光景を見た貴信は思わず買い物袋を取り落とした。
「黙ってれば美人さんなのになあ! なんでボスになるんだろうなあ!」
 かくりと肩を落とし、盛大な溜息をつく。
(まだ早いけど、お婿さんがきたらもうちょっとおしとやかになると思うんだけどなあ! どうだろう)

 そんな香美は、歌が妙に好きでもあった。

 ある時貴信がヒマ潰しにこんな歌を聞いていた。

「きーみのこころに! しるしはあるかー♪」
「にゃーにゃー」
「たたかうためにえらばれーた」
「にゃあにゃあっ! にゃーにゃー! にゃあみゃみゃあー!」
 良く分からないが魂が反応して、香美は思わず鳴いた。
 すると貴信。
「ははは! なんだ香美は戦隊モノの歌が好きか! 僕はゲッターがそうだが!」
 ベストセクションのCD。それを買ってきて、香美と一緒に聞くようになった。

「きーみはぼくの、みらいだからー」
「にゃーにゃにゃ、にゃにゃみゃ、みゃにゃみにゃにゃなー」

 強きをくじき弱きを助ける。そんな勇ましいメロディーを何度も聞くうち、香美はすっかり覚えてしまった。

「なるほど……戦隊モノの歌をよく歌っているのは……そのせい、ですね」
『そうだ!』
「ちなみに私は……レオパルドンが……好き……です」
『戦隊物と微妙に違う上に渋っ!』