齟齬の形は三角形のよう……玉城光はそう思う。緩やかな勾配が突然途切れる直角三角形。衝撃の中、肺腑から
全ての空気を絞り出しながら玉城はゆっくりと振り向いた。這いつくばった姿勢のまま、首だけを、ようやく。そして見た。直
角三角形の石を。走ってる最中それに足を取られた。だから速度が制御不能の浮遊感になった。直角三角形の勾配を全
力で登ってる最中不意に出てきた直角の断崖をどうする事も出来ずただただ加速の赴くまま身を投げるように。そして頭か
ら地面に突っ込んだ。無防備に叩きつけられ、肺腑は全体重と堅い大地のサンドイッチになって酸素も窒素も一切合切吐
きつくした。真空状態の肺は端と端の内壁が癒着しているようだった。息を吸おうにも肺は縮こまったまま動かない。だが
皮肉にもその窒息の苦しさが何分かぶりの正常意識を取り戻した。
全ての空気を絞り出しながら玉城はゆっくりと振り向いた。這いつくばった姿勢のまま、首だけを、ようやく。そして見た。直
角三角形の石を。走ってる最中それに足を取られた。だから速度が制御不能の浮遊感になった。直角三角形の勾配を全
力で登ってる最中不意に出てきた直角の断崖をどうする事も出来ずただただ加速の赴くまま身を投げるように。そして頭か
ら地面に突っ込んだ。無防備に叩きつけられ、肺腑は全体重と堅い大地のサンドイッチになって酸素も窒素も一切合切吐
きつくした。真空状態の肺は端と端の内壁が癒着しているようだった。息を吸おうにも肺は縮こまったまま動かない。だが
皮肉にもその窒息の苦しさが何分かぶりの正常意識を取り戻した。
件のアリス。完全な直撃を避けなければ転んでもなお悪夢に苛まれていたであろう。
とにかく齟齬は直角三角形のようだった。悪夢から覚めたての思考にはそればかりが鳴り響く。人は疲弊の極みや病熱
の中でガラクタのような論理を組み上げる。齟齬うんぬんもそれだった。脳が参っている。割れそうな頭に手を当てようとし
て肘から先が欠損しているのに気づいた。そもそも動かない。土の苦みをしばらく味わうほかない。
立ち上がるのに必要な酸素はまだ供給されず、じゃりじゃりした粒を吐くコトもままならない。地面に突っ伏したまま思考の
みが無意味に続く。
の中でガラクタのような論理を組み上げる。齟齬うんぬんもそれだった。脳が参っている。割れそうな頭に手を当てようとし
て肘から先が欠損しているのに気づいた。そもそも動かない。土の苦みをしばらく味わうほかない。
立ち上がるのに必要な酸素はまだ供給されず、じゃりじゃりした粒を吐くコトもままならない。地面に突っ伏したまま思考の
みが無意味に続く。
齟齬の集積は果てしなく巨大な直角三角形で、それに立脚し歩き続けるとすれば、あって当然と思っていた道がある日突
然途切れてしまう。積み上げられた齟齬の数だけ高い場所から落とされて、肺腑を絞られる事など比較にならぬ恐ろしい
目を見せられる。本当は齟齬の消し方は簡単で、それと真逆の形をした”何か”を当てればパズルゲームのようにかき消
える。しかし自分も父も母もそれをしなかった。青空の姿が家庭から消えたのはそのせいだと玉城は思った。自分たちの平
穏はずっとずっと青空への齟齬によって保たれていたのだ。
然途切れてしまう。積み上げられた齟齬の数だけ高い場所から落とされて、肺腑を絞られる事など比較にならぬ恐ろしい
目を見せられる。本当は齟齬の消し方は簡単で、それと真逆の形をした”何か”を当てればパズルゲームのようにかき消
える。しかし自分も父も母もそれをしなかった。青空の姿が家庭から消えたのはそのせいだと玉城は思った。自分たちの平
穏はずっとずっと青空への齟齬によって保たれていたのだ。
そこでようやく自発呼吸を再開した玉城は自分の醜態を嘆きながらゆっくりと立ち上がった。ホムンクルスの身でまるで
人間じみた窒息に苛まれるなど醜態以外の何者でもなかった。無防備に転び肺腑を痛打したのは悪夢の中で何も考えず
走りまわっていたせいだろう。
ひりついた熱と背中をぐっしょり濡らす汗の不快感に気だるさを感じながら、玉城はゆっくりと辺りを見回した。
そこは先ほどの山小屋の前だった。ようやく戻って来た思考力で現状を認識すると、今度はなぜ自分がここにいるかを
思い返す。
霧。光。アリス・イン・ワンダーランド。総角の放ったそれを懸命に避け崖を登った辺りから記憶がない。
代わりに青空の手紙を飛ばしてしまった時の悪夢を見ていた。
人間じみた窒息に苛まれるなど醜態以外の何者でもなかった。無防備に転び肺腑を痛打したのは悪夢の中で何も考えず
走りまわっていたせいだろう。
ひりついた熱と背中をぐっしょり濡らす汗の不快感に気だるさを感じながら、玉城はゆっくりと辺りを見回した。
そこは先ほどの山小屋の前だった。ようやく戻って来た思考力で現状を認識すると、今度はなぜ自分がここにいるかを
思い返す。
霧。光。アリス・イン・ワンダーランド。総角の放ったそれを懸命に避け崖を登った辺りから記憶がない。
代わりに青空の手紙を飛ばしてしまった時の悪夢を見ていた。
偶然ではなく、何かがそれを見せていたような気がした。
「今……のは?」
「師父のアリス・イン・ワンダーランド。貴様が見たのは忌まわしき記憶。それぞ彼のチャフが特性」
耳慣れない声に三つ編みを揺らめかしながら振り返る。
チワワがちょこんと座っていた。傍らに大きな手首を置いているのが気になったが、玉城はぼんやりとした声で「カワイイ」
とだけ呟いた。
「ビーフジャーキー……食べます?」
「食わぬわ!!」
しゃがみこんでポシェットをまさぐろうとする玉城に怒声を浴びせると、無銘は苛立たしげに呟いた。
「くそう。敵対特性を見舞ってやろうとしたが、ああも泣かれては気勢が削がれる!! 絶好の機会を逃したわ!!」
「ハイ?」
ここで玉城は肘から先がなくなっているのを再確認したらしい。「ビーフージャーキー、出せません」と謝った。
「そうではないわ!!! いいか!! 我は先ほどの一団の者! 貴様を倒すべく追撃した!」
「すー、すー」
「寝るなあ!!!」
「しもうた。ようけしゃんしゃんしたけん、つい」
「ようけしゃんしゃ……ええい!! 日本語で言え!!」
「伊予弁……です。でも……今のは忘れて……下さい」
うっすら頬を染めつつ玉城は首を捻った。
「でも……なんで…………チワワさん? どう見ても……戦闘向きでは……ありません」
チワワはキッと牙を剥いた。
「黙れ!! 我とて好き好んでこの図体に収まっている訳ではない!!」
「じゃあ……私と…………同じ……です」
ヒビ割れた肘がホムンクルスらしからぬチワワの頭をそっと撫でた。
「?」
「私は…………色んな鳥に変形……できます。でもその代償で……5倍速で……年を取ります。そうしたのは……お姉ちゃ
ん……です。とはいえ……仕方ないのかも…………知れません。お姉ちゃんが楽しみにしてた手紙を…………飛ばしたのは……
私……です」
「知るか! それより我と戦え!!」
「……少し…………休ませて……下さい……」
そう言ったきり、玉城は戦闘意欲を失くしたようだった。よろよろと山小屋に入っていくと、それきり静かになった。
「師父のアリス・イン・ワンダーランド。貴様が見たのは忌まわしき記憶。それぞ彼のチャフが特性」
耳慣れない声に三つ編みを揺らめかしながら振り返る。
チワワがちょこんと座っていた。傍らに大きな手首を置いているのが気になったが、玉城はぼんやりとした声で「カワイイ」
とだけ呟いた。
「ビーフジャーキー……食べます?」
「食わぬわ!!」
しゃがみこんでポシェットをまさぐろうとする玉城に怒声を浴びせると、無銘は苛立たしげに呟いた。
「くそう。敵対特性を見舞ってやろうとしたが、ああも泣かれては気勢が削がれる!! 絶好の機会を逃したわ!!」
「ハイ?」
ここで玉城は肘から先がなくなっているのを再確認したらしい。「ビーフージャーキー、出せません」と謝った。
「そうではないわ!!! いいか!! 我は先ほどの一団の者! 貴様を倒すべく追撃した!」
「すー、すー」
「寝るなあ!!!」
「しもうた。ようけしゃんしゃんしたけん、つい」
「ようけしゃんしゃ……ええい!! 日本語で言え!!」
「伊予弁……です。でも……今のは忘れて……下さい」
うっすら頬を染めつつ玉城は首を捻った。
「でも……なんで…………チワワさん? どう見ても……戦闘向きでは……ありません」
チワワはキッと牙を剥いた。
「黙れ!! 我とて好き好んでこの図体に収まっている訳ではない!!」
「じゃあ……私と…………同じ……です」
ヒビ割れた肘がホムンクルスらしからぬチワワの頭をそっと撫でた。
「?」
「私は…………色んな鳥に変形……できます。でもその代償で……5倍速で……年を取ります。そうしたのは……お姉ちゃ
ん……です。とはいえ……仕方ないのかも…………知れません。お姉ちゃんが楽しみにしてた手紙を…………飛ばしたのは……
私……です」
「知るか! それより我と戦え!!」
「……少し…………休ませて……下さい……」
そう言ったきり、玉城は戦闘意欲を失くしたようだった。よろよろと山小屋に入っていくと、それきり静かになった。
束の間の眠りが再び悪夢を呼び覚ます。
名前通り光の溢れた瞳を涙でくしゃくしゃにしながら、玉城光は窓際のビーンズテーブルを見た。
もうそこはすっかり埃を被っている。青空が失踪して1ヶ月。豆の形をした机は誰も触れないまま、そこにある。
あの日以来、窓は開けていない。また開ければ姉が愛用していた白い机さえ飛ばされそうで、怖かった。
趣味のプラモもやめた。あの日色を塗ったマジンガーZはとっくに捨てた。
いつからか光は、朝起きてすぐ小机を見るのが習慣になった。
自分が寝ている間に姉が戻ってきて、またそこに座っていたら……どんなにぶたれても怒られてもいい。
謝れといわれたら何度だって謝る。だから戻ってきて欲しい。そう願っていた。
もうそこはすっかり埃を被っている。青空が失踪して1ヶ月。豆の形をした机は誰も触れないまま、そこにある。
あの日以来、窓は開けていない。また開ければ姉が愛用していた白い机さえ飛ばされそうで、怖かった。
趣味のプラモもやめた。あの日色を塗ったマジンガーZはとっくに捨てた。
いつからか光は、朝起きてすぐ小机を見るのが習慣になった。
自分が寝ている間に姉が戻ってきて、またそこに座っていたら……どんなにぶたれても怒られてもいい。
謝れといわれたら何度だって謝る。だから戻ってきて欲しい。そう願っていた。
願わくばもう一度だけ、姉の作ったドーナツを食べたかった。
青空が家を出て数日後。
手がかりを求めファンクラブの会報を見ていた光は、「謝恩祭」と称したCougarのシークレットライブがあるコトに気付いた。
気付いた、というが厳密にいえばファンクラブの会報のどこにも開催場所は明記されていなかった。ただその号だけやたら
クロスワードパズルが多いのが気になった。問題はすべてCougarにまつわる問題だったが、青空がそれら全てを埋めてい
たため光は問題を解かなくて済んだ。だが解答の全て埋まったクロスワードパズルは奇妙だった。何の変哲もない場所に
四角の二重枠があったり、色が塗られていたり、稲妻のマークが番号付きで印刷されていた。
それらを番号順に並べた光はシークレットライブの存在を知った。二重枠は告知のお知らせ。色のある部分は開催場所。
稲妻のマークは開催日時……開催日時は翌日だった。事情を話すと父母はすぐさま事務所に電話した。
もしこういう風体の女の子が来ていたら保護してほしい、と。
気付いた、というが厳密にいえばファンクラブの会報のどこにも開催場所は明記されていなかった。ただその号だけやたら
クロスワードパズルが多いのが気になった。問題はすべてCougarにまつわる問題だったが、青空がそれら全てを埋めてい
たため光は問題を解かなくて済んだ。だが解答の全て埋まったクロスワードパズルは奇妙だった。何の変哲もない場所に
四角の二重枠があったり、色が塗られていたり、稲妻のマークが番号付きで印刷されていた。
それらを番号順に並べた光はシークレットライブの存在を知った。二重枠は告知のお知らせ。色のある部分は開催場所。
稲妻のマークは開催日時……開催日時は翌日だった。事情を話すと父母はすぐさま事務所に電話した。
もしこういう風体の女の子が来ていたら保護してほしい、と。
話はすぐさまトップに伝わった。cougerをスカウトしたという女社長がわざわざ応対してくれた。
「大丈夫。きっとお姉さんに会えるから」
いかにも大人という女社長の声。光は心から安堵した。
しかし翌日。、こんなニュースが各局を賑わすコトになる。
「Cougarのシークレットライブ中に謎の襲撃事件が発生。Cougarを含む129名が死亡」
列島を震撼させたその事件は不気味さと異常さを孕んでいた。彼らを殺したのは鈍器でも刃物でも機関銃でもなければ
糜爛性の毒ガスでもなかった。警察の公式見解では爪や牙というがそれさえも本当かどうか怪しかった。
観客とCougarは何かの猛獣に襲われたように『食い荒らされ』、骨を覗かせ内臓を剥き出しにして死んでいたという。
若い女性たちと国民的アイドルが惨たらしい死を遂げたセンセーショナルなこの事件は、その年ずっと報道され続けた。
糜爛性の毒ガスでもなかった。警察の公式見解では爪や牙というがそれさえも本当かどうか怪しかった。
観客とCougarは何かの猛獣に襲われたように『食い荒らされ』、骨を覗かせ内臓を剥き出しにして死んでいたという。
若い女性たちと国民的アイドルが惨たらしい死を遂げたセンセーショナルなこの事件は、その年ずっと報道され続けた。
光らは第一報を見た時、青空の死を覚悟した。もしかしたらCougarのライブに居たかもしれない彼女の末路を想像した。
だがDNA鑑定の結果、死体のどれもが青空ではないコトが判明した。
その場にいなかったのか、それとも謎の襲撃者が破片一つ残さぬほど完食したのか──…
だがDNA鑑定の結果、死体のどれもが青空ではないコトが判明した。
その場にいなかったのか、それとも謎の襲撃者が破片一つ残さぬほど完食したのか──…
事件前日、光と電話した女社長もまた事件の被害者だった。不眠不休で遺族たち総てに頭を下げて回った。
「本当に申し訳ありません」
光は当時の彼女を何回か見ている。ひどり有様だった。頬はやつれ眼の下がドス黒く染まりとても女性とは思えないしわ
れた声で何度も何度も謝るのだ。父母はそれを誠意とみなしたが、光だけは何かとてもおぞましい気がした。うまくはいえ
ないが、何か、別のモノに無理やり動かされているような──…
れた声で何度も何度も謝るのだ。父母はそれを誠意とみなしたが、光だけは何かとてもおぞましい気がした。うまくはいえ
ないが、何か、別のモノに無理やり動かされているような──…
青空は依然帰らぬままだった。
敵を見逃しては大変と追い掛けた無銘は、血まみれの部屋のなか横たわる玉城を見た。無防備に投げ出された白い
両足に目を奪われかけもしたが、そこは忠犬、すぐさまどうすべきか考え始めた。
(どうする? 今なら兵馬俑の手首を以て敵対特性を発動し、師父たちを有利にするコトもできるが──…)
しかし、と無銘の思案は続く。
(先ほどまでの様子からもしやと思っていたが、やはり彼奴は望まずしてホムンクルスになったらしい。背中の我に気付か
ず走っていた時もしきりに姉をよばっていた)
眠る玉城の唇がまた動いた。「お姉ちゃん」。哀切な響きに遅れてまなじりから涙がこぼれ落ちた。
両足に目を奪われかけもしたが、そこは忠犬、すぐさまどうすべきか考え始めた。
(どうする? 今なら兵馬俑の手首を以て敵対特性を発動し、師父たちを有利にするコトもできるが──…)
しかし、と無銘の思案は続く。
(先ほどまでの様子からもしやと思っていたが、やはり彼奴は望まずしてホムンクルスになったらしい。背中の我に気付か
ず走っていた時もしきりに姉をよばっていた)
眠る玉城の唇がまた動いた。「お姉ちゃん」。哀切な響きに遅れてまなじりから涙がこぼれ落ちた。
火の消えたような食卓を見て、青空の父は心から後悔した。
青空は手のかからない子だった。だから最初は自立心を育てるつもりでなるべく手を貸さなかった。それがただの放任に
なり放置にさえ成り変ったのはいつからだったか。記憶を手繰る内、青空と心の籠った対話をした記憶がないコトに気づき
彼はただと愕然とした。育児ノイローゼの果て獄中死した前妻ともそうだった。それに気づいた瞬間彼ははばかりも泣く泣
いた。つまるところ自分は家族に対する確固たる責任感などないと気付かされた。ただ家庭の明るい部分のみを欲してい
た。放送コードを通すべくマイルドに均された家族ドラマのように、解決可能な出来事ばかり起こるのだと思い込んでいた。
だからその思惑から離れた複雑でややこしげな薄暗い出来事が起こると逃げていた。それは青空の喉の問題だった。職
場でも同じだった。自分に相談を持ちかけてきた同僚や部下達と緊密な付き合いをした覚えはついぞない。彼らと本音をぶ
つけ合い、心から分かりあったという経験はなかった。相談には一般論。それだけだった。他の局面でもただ社会人として
の範疇を超えない無難な会話──飲み屋、或いは出張途中の新幹線や宿泊先で何十何百とした筈なのに内容をまったく
思い出せない──をしたにすぎない。だから彼らは決して心からの信頼を見せぬ。青空の失踪を知るや一丸となって探し
に行く……そんなドラマのような現象が起こらなかったのはいうまでもない。ただ彼らは大変そうですねという視線を送ったき
りそれぞれの生活を守るための仕事へ戻っていく。かつて相談を持ちかけられた自分がいかに親身にならなかったか。青
空の父は部下達の姿に痛感させられた。
職場ではそれでも良かった。彼の抱える事情がどうあれ職場の掲げる規範を守り社会の規範を外れぬよう計らえば成績
が上がり評された。だが家庭には規範はない。率いる彼が作らなかった。楽で明るくて無難でありさえすれば良かった。自分
の家庭への欲求が満たされればナァナァで過ごして過ごして過ごし続けてきた。そんな彼にとって今の妻は正に理想だった。
活発であるが故に何も貯め込まぬ彼女は前妻のような事件を決して起こさぬ人間。彼女を伴侶にした家庭生活は楽しかった。
青空との微妙な溝は気にしていたが、大人しくて分別のある娘だからいつかは分かってくれるだろう……と勝手に思っていた。
そして活発でレスポンスのいい光と妻とで楽しい家庭団欒を過ごしていた。彼女らは自分の些細な言葉で大きな反応を返
してくれたから、ついつい多くの言葉を投げかけてしまった。事あるごとに楽しいパーティをやった。青空やその母のように、
仕事で疲れた脳を更に疲れさせなければ的確な言葉を紡ぎだせない相手より──…端的にいえば楽だった。その癖彼女ら
は抜けている部分があって、楽な努力で補佐するコトができた。方向音痴の光を道案内するだけで感謝されたのだ。
だがそうやって楽を続けた結果、青空はいなくなった。
いなくなって初めて気付いたコトがある。
かつて食卓に存在していた静かな笑顔もまた自分にとっての団欒だったと。
暖かな笑顔。今は亡き妻に似た美しい笑顔。それは自分が維持するコトのできなかった前の家庭の輝かしい一片だったと。
守るべきだった。
あらゆる苦難と煩雑さを味わってでもその笑顔が消えないよう青空を守ってやるべきだった。
脳髄を疲れさせてでも彼女の煩悶を解き、彼女の欲する物を察してやり、そして光よりもたくさん褒めるべきだった。
子供というのは初めて遭遇する経験に悩み続けるものではないか。親はそれを緩和してやるべき物ではないか。
かつて子供だった父はそう悔み、心の底から泣いた。
青空は手のかからない子だった。だから最初は自立心を育てるつもりでなるべく手を貸さなかった。それがただの放任に
なり放置にさえ成り変ったのはいつからだったか。記憶を手繰る内、青空と心の籠った対話をした記憶がないコトに気づき
彼はただと愕然とした。育児ノイローゼの果て獄中死した前妻ともそうだった。それに気づいた瞬間彼ははばかりも泣く泣
いた。つまるところ自分は家族に対する確固たる責任感などないと気付かされた。ただ家庭の明るい部分のみを欲してい
た。放送コードを通すべくマイルドに均された家族ドラマのように、解決可能な出来事ばかり起こるのだと思い込んでいた。
だからその思惑から離れた複雑でややこしげな薄暗い出来事が起こると逃げていた。それは青空の喉の問題だった。職
場でも同じだった。自分に相談を持ちかけてきた同僚や部下達と緊密な付き合いをした覚えはついぞない。彼らと本音をぶ
つけ合い、心から分かりあったという経験はなかった。相談には一般論。それだけだった。他の局面でもただ社会人として
の範疇を超えない無難な会話──飲み屋、或いは出張途中の新幹線や宿泊先で何十何百とした筈なのに内容をまったく
思い出せない──をしたにすぎない。だから彼らは決して心からの信頼を見せぬ。青空の失踪を知るや一丸となって探し
に行く……そんなドラマのような現象が起こらなかったのはいうまでもない。ただ彼らは大変そうですねという視線を送ったき
りそれぞれの生活を守るための仕事へ戻っていく。かつて相談を持ちかけられた自分がいかに親身にならなかったか。青
空の父は部下達の姿に痛感させられた。
職場ではそれでも良かった。彼の抱える事情がどうあれ職場の掲げる規範を守り社会の規範を外れぬよう計らえば成績
が上がり評された。だが家庭には規範はない。率いる彼が作らなかった。楽で明るくて無難でありさえすれば良かった。自分
の家庭への欲求が満たされればナァナァで過ごして過ごして過ごし続けてきた。そんな彼にとって今の妻は正に理想だった。
活発であるが故に何も貯め込まぬ彼女は前妻のような事件を決して起こさぬ人間。彼女を伴侶にした家庭生活は楽しかった。
青空との微妙な溝は気にしていたが、大人しくて分別のある娘だからいつかは分かってくれるだろう……と勝手に思っていた。
そして活発でレスポンスのいい光と妻とで楽しい家庭団欒を過ごしていた。彼女らは自分の些細な言葉で大きな反応を返
してくれたから、ついつい多くの言葉を投げかけてしまった。事あるごとに楽しいパーティをやった。青空やその母のように、
仕事で疲れた脳を更に疲れさせなければ的確な言葉を紡ぎだせない相手より──…端的にいえば楽だった。その癖彼女ら
は抜けている部分があって、楽な努力で補佐するコトができた。方向音痴の光を道案内するだけで感謝されたのだ。
だがそうやって楽を続けた結果、青空はいなくなった。
いなくなって初めて気付いたコトがある。
かつて食卓に存在していた静かな笑顔もまた自分にとっての団欒だったと。
暖かな笑顔。今は亡き妻に似た美しい笑顔。それは自分が維持するコトのできなかった前の家庭の輝かしい一片だったと。
守るべきだった。
あらゆる苦難と煩雑さを味わってでもその笑顔が消えないよう青空を守ってやるべきだった。
脳髄を疲れさせてでも彼女の煩悶を解き、彼女の欲する物を察してやり、そして光よりもたくさん褒めるべきだった。
子供というのは初めて遭遇する経験に悩み続けるものではないか。親はそれを緩和してやるべき物ではないか。
かつて子供だった父はそう悔み、心の底から泣いた。
その日から彼は同僚や部下と本当の意味での会話をするよう心がけた。
身を呈して彼らの煩悶を解き、少しでも抱えている物が軽くなるよう努めた。
成績は下がった。仕事の能率もまた同じく。
だからといって彼ら全員が青空の捜索に手を貸すコトはなかったが、彼はそれでもよかった。決して多くない休日に地方
の駅でビラを配り青空の手がかりを求めるのは自分にのみ課せられた使命であり贖罪だと信じていた。
光と過ごす時間は以前よりかなり減った。だが会話の質は以前より上がるよう努力した。
しばらくすると。
タダ同然の料金でビラを印刷してくれる会社を部下が紹介してくれた。給料が欲しいからと休日出勤を肩代わりする同僚
も現れた。不自然に増えた有給休暇を上司に問い詰めると「規範通りだ」とだけ答えが来た。
青空を探すために休日も有給休暇も使い切った。それらしい人を見たという知らせがあれば真冬の東北地方の山奥に
だって駆け付けた。海外に行ったのも二度や三度ではない。
彼はとにかく青空の笑顔をもう一度見たかった。
再び会えたのなら二度と彼女が悲しまぬよう、話を聞いてやりたかった。
身を呈して彼らの煩悶を解き、少しでも抱えている物が軽くなるよう努めた。
成績は下がった。仕事の能率もまた同じく。
だからといって彼ら全員が青空の捜索に手を貸すコトはなかったが、彼はそれでもよかった。決して多くない休日に地方
の駅でビラを配り青空の手がかりを求めるのは自分にのみ課せられた使命であり贖罪だと信じていた。
光と過ごす時間は以前よりかなり減った。だが会話の質は以前より上がるよう努力した。
しばらくすると。
タダ同然の料金でビラを印刷してくれる会社を部下が紹介してくれた。給料が欲しいからと休日出勤を肩代わりする同僚
も現れた。不自然に増えた有給休暇を上司に問い詰めると「規範通りだ」とだけ答えが来た。
青空を探すために休日も有給休暇も使い切った。それらしい人を見たという知らせがあれば真冬の東北地方の山奥に
だって駆け付けた。海外に行ったのも二度や三度ではない。
彼はとにかく青空の笑顔をもう一度見たかった。
再び会えたのなら二度と彼女が悲しまぬよう、話を聞いてやりたかった。
我が子がぶたれるのを見た瞬間、生来の活発さが反射的に手を出させた。
光の母親にとってその軽薄さは悔やんでも悔やみきれないものだった。
姉妹の関係は傍目から見る分にはひどく良好だった。母が違うとは到底思えないほど彼女らは仲良く見えた。
土曜日の午後にドーナツを作り時には夕食さえ作る青空は、本当にただ面倒見のいいお姉さんだった。
彼女は面と向かって光の存在に不平を洩らすコトなどなかった。
妹が危殆に瀕したせいで自分が肺炎に倒れたという経緯を持っているのに、邪険にするコトはなかった。
考えるべきだった、と光の母は悔いた。
あれだけ仲が良かった妹をぶたざるを得なかったのだ。そうするに足る重大な背景があると察して、まずは話を聞いてや
るべきだった。にもかかわらず、ぶった。大好きなアイドルからの手紙。年頃の少女なら命より大事するかも知れない宝物
を不条理に奪われ打ちひしがれる青空の頬を…………有無も言わさずぶったのだ。
青空を憎んでいた訳ではない。発声練習を断られた件は時間の経過とともに「自分が悪かった」と思うようになった。連れ
子だからといって嫌がらせをしたかった訳ではない。家族になる以上、抱えている欠如が癒されるよう何らかの協力をした
かった。引っ込み思案のまま成長すればいつか社会の壁に当たってどうするコトもできなくなると心配していた。だから人と
話せるよう手助けをしたかった。実母に首を絞められたという辛い経験を忘れ、活発に生きて欲しかった。
それを断られた瞬間、光の母は青空に対しどう接すればいいか分からなくなった。活発すぎる性格だから活発な相手と
しか付き合った経験がなく、小声でしか話せない大人しめの少女の心の扉をどうすれば開いてやれるかなど、まったく見当
もつかなかった。だから青空と話す時はいつも戸惑っていた。本当にいま考えている言葉を聞かせていいのかと。その言葉
でまた青空を傷つけ活発さから遠ざけてしまったらどうしよう、と。そんな自分の振幅が名状しがたい雰囲気を生み、光や
青空に親として見せるべきでないモノを見せてしまったのはつくづく悔やまれた。
結婚前。今の夫に子供がいると聞いた瞬間。一歩引いた付き合いを心がけるべきだった。「後でどうとなる」と活発さの
赴くまま関係を進めたのは青空にとって不幸だったと初めて気付いた。もし自分が少女の時、見知らぬ女性が母ですよと
ばかり家庭に転がりこんできたらどういう気持ちがするか、それをまず考えるべきだった。目の前に転がる愛情の熱っぽさ
と甘さばかり追及すべきではなかった。そう思い、青空の感じた苦しさを思い、涙した。
複雑な事情と複雑な家庭環境を背負いながらも、不良にはならず、健やかに真面目に育ってくれた青空という少女は、
本当は強いコだったのだとも思った。何もいわず家事をこなしてくれる所は母の自分以上に母だった。将来はボランティア
に従事したいと小声で懸命に語った彼女には心の底から敬意を覚えていた。でも、いえなかった。頑張れといえばまた発声
練習の時のような重荷を背負わすようで怖かった。当時はまだ弱い少女として青空を見ていなかった。でも弱い少女として
見ているなら彼女が少しずつでも強くなれるよう協力するべきだった。ただ話を聞くだけでもいい。心に抱えた辛いコトを
何もいわず聞いてやり、そっと抱き抱えてやるだけでも良かった。
光の母親にとってその軽薄さは悔やんでも悔やみきれないものだった。
姉妹の関係は傍目から見る分にはひどく良好だった。母が違うとは到底思えないほど彼女らは仲良く見えた。
土曜日の午後にドーナツを作り時には夕食さえ作る青空は、本当にただ面倒見のいいお姉さんだった。
彼女は面と向かって光の存在に不平を洩らすコトなどなかった。
妹が危殆に瀕したせいで自分が肺炎に倒れたという経緯を持っているのに、邪険にするコトはなかった。
考えるべきだった、と光の母は悔いた。
あれだけ仲が良かった妹をぶたざるを得なかったのだ。そうするに足る重大な背景があると察して、まずは話を聞いてや
るべきだった。にもかかわらず、ぶった。大好きなアイドルからの手紙。年頃の少女なら命より大事するかも知れない宝物
を不条理に奪われ打ちひしがれる青空の頬を…………有無も言わさずぶったのだ。
青空を憎んでいた訳ではない。発声練習を断られた件は時間の経過とともに「自分が悪かった」と思うようになった。連れ
子だからといって嫌がらせをしたかった訳ではない。家族になる以上、抱えている欠如が癒されるよう何らかの協力をした
かった。引っ込み思案のまま成長すればいつか社会の壁に当たってどうするコトもできなくなると心配していた。だから人と
話せるよう手助けをしたかった。実母に首を絞められたという辛い経験を忘れ、活発に生きて欲しかった。
それを断られた瞬間、光の母は青空に対しどう接すればいいか分からなくなった。活発すぎる性格だから活発な相手と
しか付き合った経験がなく、小声でしか話せない大人しめの少女の心の扉をどうすれば開いてやれるかなど、まったく見当
もつかなかった。だから青空と話す時はいつも戸惑っていた。本当にいま考えている言葉を聞かせていいのかと。その言葉
でまた青空を傷つけ活発さから遠ざけてしまったらどうしよう、と。そんな自分の振幅が名状しがたい雰囲気を生み、光や
青空に親として見せるべきでないモノを見せてしまったのはつくづく悔やまれた。
結婚前。今の夫に子供がいると聞いた瞬間。一歩引いた付き合いを心がけるべきだった。「後でどうとなる」と活発さの
赴くまま関係を進めたのは青空にとって不幸だったと初めて気付いた。もし自分が少女の時、見知らぬ女性が母ですよと
ばかり家庭に転がりこんできたらどういう気持ちがするか、それをまず考えるべきだった。目の前に転がる愛情の熱っぽさ
と甘さばかり追及すべきではなかった。そう思い、青空の感じた苦しさを思い、涙した。
複雑な事情と複雑な家庭環境を背負いながらも、不良にはならず、健やかに真面目に育ってくれた青空という少女は、
本当は強いコだったのだとも思った。何もいわず家事をこなしてくれる所は母の自分以上に母だった。将来はボランティア
に従事したいと小声で懸命に語った彼女には心の底から敬意を覚えていた。でも、いえなかった。頑張れといえばまた発声
練習の時のような重荷を背負わすようで怖かった。当時はまだ弱い少女として青空を見ていなかった。でも弱い少女として
見ているなら彼女が少しずつでも強くなれるよう協力するべきだった。ただ話を聞くだけでもいい。心に抱えた辛いコトを
何もいわず聞いてやり、そっと抱き抱えてやるだけでも良かった。
「確かに声は小さいけれど、あなたはそれに負けないだけのいい部分も持っているのよ」
と励ましてあげるべきだった。
そう思うばかりで後悔は消えない。夫の同僚の伝手で部屋一杯分ぐらいきたビラを3日ばかりの不眠不休で配り終えた
時も、感動の再会を謳い文句にするテレビ番組で涙ながらに「会いたい」と語った時も、後悔はまるで消える気配はなかっ
た。
時も、感動の再会を謳い文句にするテレビ番組で涙ながらに「会いたい」と語った時も、後悔はまるで消える気配はなかっ
た。
青空がいなくなって2ヶ月後。
誰からともなくこういう提案が出た。
誰からともなくこういう提案が出た。
手紙を探そう。
小ぶりで真っ白なダイア封筒。封をしているのは稲妻輝く黒丸シール。
それを探そう。
それを探そう。
あれから何度雨が降り、幾陣の風が吹いたか。
それはみんな分かっていた。
手紙がどこにあるかは分からない。見つけたとして原形を保っている保証はない。
けれど青空に与えてしまった欠如をそのままにしておくコトはできなかった。
地方に行ける父親は青空探しと平行して手紙を探し。
母親は駅前でビラを配る傍ら手紙を探した。
登校時、下校時、遊びに行く時ヒマな時……光もまたあらゆる場所を探しまわった。
両親に内緒で校区外まで自転車を駈ったコトもあった。方向音痴だから迷いに迷って警察に保護されたが、そこでも手紙
を見なかったかお巡りさんに聞いた。
お年玉を全額はたいてなるたけ遠くの駅まで行って手紙を探したコトもあった。
それはみんな分かっていた。
手紙がどこにあるかは分からない。見つけたとして原形を保っている保証はない。
けれど青空に与えてしまった欠如をそのままにしておくコトはできなかった。
地方に行ける父親は青空探しと平行して手紙を探し。
母親は駅前でビラを配る傍ら手紙を探した。
登校時、下校時、遊びに行く時ヒマな時……光もまたあらゆる場所を探しまわった。
両親に内緒で校区外まで自転車を駈ったコトもあった。方向音痴だから迷いに迷って警察に保護されたが、そこでも手紙
を見なかったかお巡りさんに聞いた。
お年玉を全額はたいてなるたけ遠くの駅まで行って手紙を探したコトもあった。
更に8ヵ月近くが過ぎた頃、隣の隣のそのまたずっと隣の県まで行った母親が、喜び勇んで帰って来た。
手には小ぶりで真っ白なダイア封筒。封をしているのは稲妻輝く黒丸シール。
差出人の名はCougar。宛先は玉城青空。
木に引っかかっているのを偶然見つけたという。
すり傷と泥と腫れ(ハチの巣があったらしい)に彩られながらも、母親は何か月ぶりかの笑顔を浮かべていた。
幸い木陰に隠れて雨風は避けられたようだった。
あちこちがくすんで皺が寄っているが、中身は無事そうだった。
光はそれが自分の過失で4階から飛んでいった物だと心から信じた。
すり傷と泥と腫れ(ハチの巣があったらしい)に彩られながらも、母親は何か月ぶりかの笑顔を浮かべていた。
幸い木陰に隠れて雨風は避けられたようだった。
あちこちがくすんで皺が寄っているが、中身は無事そうだった。
光はそれが自分の過失で4階から飛んでいった物だと心から信じた。
それが本物だと、心の底から信じていた。
真偽が判明したのはしばらく後。
玉城青空が帰って来た、その夜──…
そろそろ無銘にも大まかな背景が理解できてきた。
(…………身内との確執、か。慕う者に虐げられるとは、哀れな)