ヌヌ行5年生。なりたての春。
4月か5月の出来事だった。
4月か5月の出来事だった。
3日間降り続けた雨もいまはやみ、空はどこまでも青く澄み渡っている。
まだ湿り気の残る風には青葉の残り香。きっと森を抜けてきたのだろう。
まだ湿り気の残る風には青葉の残り香。きっと森を抜けてきたのだろう。
遠くの橋をあずき色の電車が通り過ぎた。クラクションが鳴り響いたのは自分のせいだろうか。
濡れそぼる鉄の冷たさを裸のくるぶしで嫌というほど踏みしめながらヌヌ行は思った。
一線を超えるのは簡単なのだろうか? それとも難しいのだろうか?
小学生にはやや難しい課題である。
靴と靴下を脱ぎ橋の欄干を登り、ついにその外側に立ったヌヌ行である。そこまでは簡単だったから前者かも知れない。
今の体勢になって以降たっぷり10分そのままだから後者かも知れない。
今の体勢になって以降たっぷり10分そのままだから後者かも知れない。
すぐ足もとでは翠色の激流がごうごうとうねっている。県境にあるその大河川は3日前からの記録的豪雨によって大増水。
晴れ好き泣かせの気圧配置はやまぬ雨と堤防決壊の危機を街にもたらした。
いまヌヌ行のいる辺りから一望できる土手はほんの28時間前まで戦場だった。
65名の消防隊員と38名の市役所職員(防災課)、それから臨時派遣の自衛隊隊員9名とあと危機を聞き隣の市から駆
けつけてきたという物好きな若い男性1名、合計114名に不眠不休の土嚢積みを強いたのである。雨はもうやみ向こう一
週間の晴天が確定しているためもはや決壊の危機はないが……一般的な家庭人たちはこぞってこの河川に近付かぬよう
我が子に厳命している。
それほどの勢いだった。
ラクダのこぶのように水面に突き出た大岩を白いあぶくがとめどなく洗っている。やや青い顔で眼下の光景をながめた
ヌヌ行はつい数時間前帰りの会で貰ったプリントがいかに明敏なる筆致で警鐘していたか理解した。「川に近付かないよう
に」。足がすくんだ。もし落ちれば小さな女児など、この夏ようやく平泳ぎで12・4m泳げるようになった程度のヌヌ行などあっ
いうまに飲み込まれるだろう。再浮上はガスの蓄積を待たねばならぬらしい。そんなおぞましい情報さえ耳から耳を貫いた。
幻聴。わずかばかりの知識が引きとめている。
晴れ好き泣かせの気圧配置はやまぬ雨と堤防決壊の危機を街にもたらした。
いまヌヌ行のいる辺りから一望できる土手はほんの28時間前まで戦場だった。
65名の消防隊員と38名の市役所職員(防災課)、それから臨時派遣の自衛隊隊員9名とあと危機を聞き隣の市から駆
けつけてきたという物好きな若い男性1名、合計114名に不眠不休の土嚢積みを強いたのである。雨はもうやみ向こう一
週間の晴天が確定しているためもはや決壊の危機はないが……一般的な家庭人たちはこぞってこの河川に近付かぬよう
我が子に厳命している。
それほどの勢いだった。
ラクダのこぶのように水面に突き出た大岩を白いあぶくがとめどなく洗っている。やや青い顔で眼下の光景をながめた
ヌヌ行はつい数時間前帰りの会で貰ったプリントがいかに明敏なる筆致で警鐘していたか理解した。「川に近付かないよう
に」。足がすくんだ。もし落ちれば小さな女児など、この夏ようやく平泳ぎで12・4m泳げるようになった程度のヌヌ行などあっ
いうまに飲み込まれるだろう。再浮上はガスの蓄積を待たねばならぬらしい。そんなおぞましい情報さえ耳から耳を貫いた。
幻聴。わずかばかりの知識が引きとめている。
するな。
自殺などするな。
自殺などするな。
ヌヌ行は欄干の一部を掴んだ。彼女を現生に繋ぎとめているのはやや錆の浮いた格子である。水色の塗装のそれがもし
突如崩落したり……あるいはヌヌ行を目の敵にする例の土建屋の娘がきたりすれば命などあっという間に消えるだろう。
突如崩落したり……あるいはヌヌ行を目の敵にする例の土建屋の娘がきたりすれば命などあっという間に消えるだろう。
自殺。いじめられっ子の何割かが行き着く結論である。
ただしこの時点におけるヌヌ行の動機は少し違っていて──…
ただしこの時点におけるヌヌ行の動機は少し違っていて──…
ある日。帰宅すると。愛用のシステムデスクの上に奇妙な物が乗っていた。
女子らしくないブラウン色した机の上で鈍く輝くそれをヌヌ行は最初、”みやげもの”と思っていた。
彼女の両親ときたら3か月に一度かならず東南アジアの秘境に出向くのだ。そして帰ってくるたび家に名状しがたいオリエ
ンタルな品々──トーテムポールに似た奇妙な木彫りの像、アジャ・カティとかいうグネグネした剣など──が増えていく。
だからヌヌ行は疑いもなく机上のそれが東南アジア産の”珍しいが普通のもの”だとばかり思っていた。
しかし……。
”それ”は金属製の道具だった。
多くの戦場で多くの命を奪ってきた……純然たる『武器』であるコトをヌヌ行は知らなかった。
女子らしくないブラウン色した机の上で鈍く輝くそれをヌヌ行は最初、”みやげもの”と思っていた。
彼女の両親ときたら3か月に一度かならず東南アジアの秘境に出向くのだ。そして帰ってくるたび家に名状しがたいオリエ
ンタルな品々──トーテムポールに似た奇妙な木彫りの像、アジャ・カティとかいうグネグネした剣など──が増えていく。
だからヌヌ行は疑いもなく机上のそれが東南アジア産の”珍しいが普通のもの”だとばかり思っていた。
しかし……。
”それ”は金属製の道具だった。
多くの戦場で多くの命を奪ってきた……純然たる『武器』であるコトをヌヌ行は知らなかった。
何気なくとったそれが光を放った。
異常な音が鼓膜をひっかく中、無数の金属片が爆ぜ──…
ヌヌ行の部屋を、自宅を、かつてない衝撃で揺らがせた。
大抵のイジメには耐えるコトができた。
水泳の授業があるたび下着だけを隠される所業には耐えたし、理科の時間、ヌヌ行の持つフラスコの中で亜鉛が何か酸
性の液体に溶けたとき。ヌっと出てきたチャッカマンがあわや人体炎上未遂をやらかしても──誰がやったかなど前後の記
憶ともどもさだかではない──両手首やへそ周りでシクシクする痛みに耐え登校した。
学校が好きという訳ではない。
むしろ卒業までの日数が減れば減るほど嫌いになった。
毎朝見なれた校舎が見え始めるとそれだけでもう手近な側溝がドロドロになる。かかりつけの小児科医も深刻な顔だ。「こ
の歳のコに胃薬……」。ストレス性の疾患は深刻だ。熱いものも辛いものも食べられない。生ものはもっとダメだ。アマガエ
ルを思い出して──…。
なのにどうして通っていたのか。別に強い矜持があったわけではない。
ただ子供らしく「ある日突然みんなが優しくなってこの地獄から解放される」。
自分は優しいまま再びみんなと仲良くなれる。
そんな夢を見ていたからだ。
性の液体に溶けたとき。ヌっと出てきたチャッカマンがあわや人体炎上未遂をやらかしても──誰がやったかなど前後の記
憶ともどもさだかではない──両手首やへそ周りでシクシクする痛みに耐え登校した。
学校が好きという訳ではない。
むしろ卒業までの日数が減れば減るほど嫌いになった。
毎朝見なれた校舎が見え始めるとそれだけでもう手近な側溝がドロドロになる。かかりつけの小児科医も深刻な顔だ。「こ
の歳のコに胃薬……」。ストレス性の疾患は深刻だ。熱いものも辛いものも食べられない。生ものはもっとダメだ。アマガエ
ルを思い出して──…。
なのにどうして通っていたのか。別に強い矜持があったわけではない。
ただ子供らしく「ある日突然みんなが優しくなってこの地獄から解放される」。
自分は優しいまま再びみんなと仲良くなれる。
そんな夢を見ていたからだ。
自室の机上にあった金属の塊が夢の1つを壊した。
圧倒的な光。跳ね上がる鼓動。何もかもが粉砕された絶望感。
おぞましい、人の悪意というのをヌヌ行は知った。
おぞましい、人の悪意というのをヌヌ行は知った。
とてもとても巨大な悪意だった。
間髪入れず電話がかかってきた。例の土建屋の娘だった。
ちょっと来い。口早にまくし立て、人気のない場所を告げた。
呼び出したのは先日の恨みだろう。
いつものごとく3階の渡り廊下から捨てたヌヌ行のカバンの中身。運悪く剥き出しの彫刻刀が入っていて、それがたまたま
下を通りかかった1年生の女の子の頭頂部に刺さった。
もうあと1cm深く刺さっていれば死ぬまでベッドの上、管まみれの生活だったらしい。
おかげで土建屋の娘は放課後職員室でたっぷり絞られた。その日は5時から撮影──それも大手の雑誌の表紙──だっ
たが無論そちらに行く許可など出よう筈もなくだ。校長自ら断りの電話を入れ陳謝した。お説教が終わったのは実に午後9
時だが勤務先に悪行が知れ渡ったコトを考えれば実に些細な問題だ。
とにかくその怒りの矛先がヌヌ行に向いている。
だからカバンに注意書きを貼ってたのに。彼女は頭痛を覚えた。
「今日は高いところから捨てないで下さい。図工で使う彫刻刀(フタはないです。返してくれると嬉しいです)が入っています。
危ないので気をつけて」なる大書をつけておいたのに奴ときたらそれを忘れ……むしろそれで叱責を免れたヌヌ行を逆恨み
し──…
ちょっと来い。口早にまくし立て、人気のない場所を告げた。
呼び出したのは先日の恨みだろう。
いつものごとく3階の渡り廊下から捨てたヌヌ行のカバンの中身。運悪く剥き出しの彫刻刀が入っていて、それがたまたま
下を通りかかった1年生の女の子の頭頂部に刺さった。
もうあと1cm深く刺さっていれば死ぬまでベッドの上、管まみれの生活だったらしい。
おかげで土建屋の娘は放課後職員室でたっぷり絞られた。その日は5時から撮影──それも大手の雑誌の表紙──だっ
たが無論そちらに行く許可など出よう筈もなくだ。校長自ら断りの電話を入れ陳謝した。お説教が終わったのは実に午後9
時だが勤務先に悪行が知れ渡ったコトを考えれば実に些細な問題だ。
とにかくその怒りの矛先がヌヌ行に向いている。
だからカバンに注意書きを貼ってたのに。彼女は頭痛を覚えた。
「今日は高いところから捨てないで下さい。図工で使う彫刻刀(フタはないです。返してくれると嬉しいです)が入っています。
危ないので気をつけて」なる大書をつけておいたのに奴ときたらそれを忘れ……むしろそれで叱責を免れたヌヌ行を逆恨み
し──…
愚かにもほどがある。
.
ヌヌ行は本当に暗澹たる思いだった。
ヌヌ行は本当に暗澹たる思いだった。
芽生えた巨大な悪意はきっと生涯ついてまわる。
もう、逃げられない。
もう、逃げられない。
だからべそをかきながら下を見る。
激流に踊りこめば解放される。甘い誘惑がついに脳髄を痺れさせ──…
「ちょっと待ったーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
「はい?」
「はい?」
中空に舞い踊ったのと声が弾けたのは同時だった。
思わず振り返るヌヌ行は……確かに見た。
自分が靴を置いた地点から更に3mほど離れた欄干の上。
そこから猛獣のように飛びかかってくる若い男性を。
「え? え? えええ?」
目を白黒するうちにもう手は掴まれている。絹を裂くような叫び。ちらりと見た橋の上にはもう1人誰かが居て……。
水音。全身は一拍遅れの硬さに叩きつけられた。次の瞬間にはもう額まで沈んでいた。口に怒涛の勢いが流れ込み
たまらずカハリと泡を吹く。狂犬病患者の操るマリオネットかというぐらい全身がめちゃくちゃな方向めがけ踊り乱れる。
それでもかろうじて流されずに済んだのは男性が手を掴んでいたからだろう。
たまらずカハリと泡を吹く。狂犬病患者の操るマリオネットかというぐらい全身がめちゃくちゃな方向めがけ踊り乱れる。
それでもかろうじて流されずに済んだのは男性が手を掴んでいたからだろう。
やがて意識が薄れる中、彼女は見た。
「武装錬金!」
「エネルギー全・開! サンライトスラッシャー!!!」
飾り布。どこまでもどこまでも長い螺旋を描いている。それが青年とヌヌ行を取り巻くさまはまさに守護だった。ガボと驚愕
の泡1つ吹き出すヌヌ行の世界は次の瞬間地上の美しさを取り戻した。布から迸る山吹色の激しい光が暗緑色の激流をあっ
という間に消し飛ばしたのだ。次に発生したのは推進力。「しっかり捕まってて」。優しい囁きとは裏腹の激しいGがヌヌ行の
脳天からつま先を突き抜けた。激しい揺れ。落ち行く世界は輪郭さえ溶かしているようだった。舞い散る飛沫や蒸気はなぜか
宝石のようにキラキラ光っていた。ヌヌ行は高所に到達した。先ほど足を乗せていた欄干さえ遥か眼下の世界にあり先ほど
の列車が駅を出ていく姿さえ架線ごと見えた。ホームの屋根からわっと飛んだ無数の薄紫はドバトだろう。混乱。安堵。純
粋な高所への恐怖。混ぜこぜの感情がオーバーフローしいよいよ喪神するというときヌヌ行は──…
小振りな槍を。
青年の握る大いなる武器を目撃した。
の泡1つ吹き出すヌヌ行の世界は次の瞬間地上の美しさを取り戻した。布から迸る山吹色の激しい光が暗緑色の激流をあっ
という間に消し飛ばしたのだ。次に発生したのは推進力。「しっかり捕まってて」。優しい囁きとは裏腹の激しいGがヌヌ行の
脳天からつま先を突き抜けた。激しい揺れ。落ち行く世界は輪郭さえ溶かしているようだった。舞い散る飛沫や蒸気はなぜか
宝石のようにキラキラ光っていた。ヌヌ行は高所に到達した。先ほど足を乗せていた欄干さえ遥か眼下の世界にあり先ほど
の列車が駅を出ていく姿さえ架線ごと見えた。ホームの屋根からわっと飛んだ無数の薄紫はドバトだろう。混乱。安堵。純
粋な高所への恐怖。混ぜこぜの感情がオーバーフローしいよいよ喪神するというときヌヌ行は──…
小振りな槍を。
青年の握る大いなる武器を目撃した。
浮遊感と落下感。降り立つ時のかすかな重力な抵抗が無意識の中で心地よく響いた。
.
「気がついたか」
「気がついたか」
目が覚める。慌てて上体を起こす。そこは土手だった。右手の方、100mほど行ったところでは真新しい土嚢が山のよう
に積まれている。先日の戦場らしい。目を白黒とさせていると視界内で青い影がしゃがみ込んだ。
に積まれている。先日の戦場らしい。目を白黒とさせていると視界内で青い影がしゃがみ込んだ。
「介抱するのに都合が良かったからな。こっちに移動させて貰った」
そういってヌヌ行の靴や靴下を差し出したのは女性だった。落下直前見た橋の上の影は彼女なのだろう。
年のころは20代の半ばごろだろうか。直線的なショートボブで後ろ髪をわずかに括っている。いでたちは学生というより主
婦のそれだが、どこか狩人の匂いもするのはひどく凛とした眼差しや鼻柱と垂直に走る傷痕のせいだろう。化粧気こそない
がひどく美しい。
武藤斗貴子と名乗る彼女は見た目そのままの無駄のなさで自己紹介を終え「キミを助けたのは武藤カズキ。私の夫だ」と
だけ告げた。そこで言葉が途切れると流石に簡潔すぎると思ったのか
年のころは20代の半ばごろだろうか。直線的なショートボブで後ろ髪をわずかに括っている。いでたちは学生というより主
婦のそれだが、どこか狩人の匂いもするのはひどく凛とした眼差しや鼻柱と垂直に走る傷痕のせいだろう。化粧気こそない
がひどく美しい。
武藤斗貴子と名乗る彼女は見た目そのままの無駄のなさで自己紹介を終え「キミを助けたのは武藤カズキ。私の夫だ」と
だけ告げた。そこで言葉が途切れると流石に簡潔すぎると思ったのか
「この街に来たのはアレのせいだな」
と土嚢を指差した。聞けば先日隣の市から駆けつけてきたという物好きとはカズキのコトらしい。
「で、念のため見回りに来たらキミを見つけたという訳だ」
「はあ」
「はあ」
といわれてもよく分からない。
「あー。気付いた? 良かったー」
隣から聞こえてくる声は先ほどの男性のもの。
見ればどこから借りて来たのか、毛布にくるまりガタガタ震えている。
こちらは女性より1つか2つ年下の若い男性。
取り立てて特徴はないが笑顔の似合う男性だ。
見ればどこから借りて来たのか、毛布にくるまりガタガタ震えている。
こちらは女性より1つか2つ年下の若い男性。
取り立てて特徴はないが笑顔の似合う男性だ。
「ったく。人のコトを心配している場合か。キミの方こそ死にそうだぞ」
「ハハ。ごめんごめん。助けなきゃって思ったら体が勝手に……ブェックシ!」
「ハハ。ごめんごめん。助けなきゃって思ったら体が勝手に……ブェックシ!」
言葉半ばで大きく顔をしかめ洟水さえ飛ばした彼はすぐ元の笑顔を取り戻し、こう聞いた。
「で、何かあったの? オレなんかで良かったら話聞くよ?」
ヌヌ行が本音で語れない理由の一つに学校側の対応の良さがある。
真実を告げるたび彼らはまったく迅速に対応してくれた。例えば水泳の授業中下着がなくなったといえばそれを外部犯
の仕業と『意図的に勘違いし』『まったく的外れ』だが、新しく鍵付きのロッカーを導入するぐらいはした。もちろん着替え中
は同性の体育教師が「鍵は私にね私にね」といかにも鍵回収”だけ”やっている風に『皆を見ている』。下着の紛失がなく
なったのはいうまでもない。
だが逐一的確にヌヌ行を守る教師たちの姿勢はそれだけで益々の反感を買ってもいる。
イジメは影に日向にますます激しくなる。
真実を言えば解決代わりに恨みを買い、真実を書いても土建屋娘のような逆恨みが勃発する。
真実を告げるたび彼らはまったく迅速に対応してくれた。例えば水泳の授業中下着がなくなったといえばそれを外部犯
の仕業と『意図的に勘違いし』『まったく的外れ』だが、新しく鍵付きのロッカーを導入するぐらいはした。もちろん着替え中
は同性の体育教師が「鍵は私にね私にね」といかにも鍵回収”だけ”やっている風に『皆を見ている』。下着の紛失がなく
なったのはいうまでもない。
だが逐一的確にヌヌ行を守る教師たちの姿勢はそれだけで益々の反感を買ってもいる。
イジメは影に日向にますます激しくなる。
真実を言えば解決代わりに恨みを買い、真実を書いても土建屋娘のような逆恨みが勃発する。
ただ同時にヌヌ行は「大人特有の真実を語らないやり方」が好きになりつつもあった。
ロッカーの件などまったく見事ではないか。あまり解決の見込めぬ加害者探しなどさっさと放棄し、ウソに立脚している
にしろそのやり方はまったく実効的。
しかも加害者は論理的にいってそのウソを暴けない。暴かねばイジメに不適合な体制が解けない。だが暴けば糾弾され
再発すれば真っ先に疑われる。
何という仕組みだろうか。
ひょっとするとイジメられながらなお登校するのは時おり学校が見せる奇跡的な対応が見たいからなのかも知れない。
ロッカーの件などまったく見事ではないか。あまり解決の見込めぬ加害者探しなどさっさと放棄し、ウソに立脚している
にしろそのやり方はまったく実効的。
しかも加害者は論理的にいってそのウソを暴けない。暴かねばイジメに不適合な体制が解けない。だが暴けば糾弾され
再発すれば真っ先に疑われる。
何という仕組みだろうか。
ひょっとするとイジメられながらなお登校するのは時おり学校が見せる奇跡的な対応が見たいからなのかも知れない。
(体育教師の小芝居もまた素晴らしいんだ。ウソとか最高じゃないか! くぅー!!)
拳を固め全身を激しい感動に震わせるヌヌ行。
そんな彼女が、である。
いま初めて遭遇した青年──武藤カズキ──に本音を語れようか?
答えは、否である。
彼女はまだ自殺願望を捨てていなかった。
子供だが圧倒的な武力を手にした人間が何をするかぐらい知っている。
そしてそういう事実が自分にどれほど跳ね返りどれほど不幸にするかも──…
そしてそういう事実が自分にどれほど跳ね返りどれほど不幸にするかも──…
助かってからこそ感じる「惜しさ」。
あらゆる手管を尽くし自殺してなお助かった人間が思う「生きてみよう」、それとは真逆の想い。
失敗したがゆえの執着はいま確実に自殺に向かって伸びている。
あらゆる手管を尽くし自殺してなお助かった人間が思う「生きてみよう」、それとは真逆の想い。
失敗したがゆえの執着はいま確実に自殺に向かって伸びている。
自分は助かってはいけない人間なのだとヌヌ行は叫びだしたい気持ちだった。
いまも自宅のデスクの上に転がっているあの金属の塊。
手を伸ばしたそれがいったいどれほどの破壊力をヌヌ行の人生にもたらしたか!!
そして例の土建屋の娘の呼び出し。
幼い直感は告げている。つながっている。あのおぞましい金属の凶器といよいよモデルとしての商品価値が薄れ始めた
女帝。ヌヌ行の人生めがけ各個バラバラに転がり込んできたのではない。連関性がある。運命は明らかにそれらを結び
つけそしてか弱い羊に要求している。
ある意味、死より恐ろしいコトを。
いまも自宅のデスクの上に転がっているあの金属の塊。
手を伸ばしたそれがいったいどれほどの破壊力をヌヌ行の人生にもたらしたか!!
そして例の土建屋の娘の呼び出し。
幼い直感は告げている。つながっている。あのおぞましい金属の凶器といよいよモデルとしての商品価値が薄れ始めた
女帝。ヌヌ行の人生めがけ各個バラバラに転がり込んできたのではない。連関性がある。運命は明らかにそれらを結び
つけそしてか弱い羊に要求している。
ある意味、死より恐ろしいコトを。
……上記の思惑はやや具体性に欠けている。眼前の青年・武藤カズキに対し真実を述べるコトを躊躇わせたのはそう
いう「明らかにおかしい」自分の思惑のせいでもある。話したところでまずその内実を理解してもらえるかどうか……彼女
は内心で首を横に振った。よくある子供の戯言として処理されるだろう。例えば悪夢を見た子供が結局は「怖かったね
怖かったね」とペットにも通じる適当なあやしをされるように……。
そういう面倒をしょいこむ時間はもうないのだ。刻限が来たら最後ヌヌ行はどうあがいても土建屋の娘のいる場所へ
引き寄せられる。そういう『運命』なのだ。回避は不可能だった。その一事だけでも恐らく常人には理解してもらえない
だろう。自宅で鈍く光る金属の武器はそういう破壊をもたらすものだ。刻限まではあと2時間……腕時計など持っていない
が分かる。あと2時間もすれば呪われた運命が開始する。
だから死にたい。
そのためにはどうすればいいか? 子供とは時として大人以上に相手を見る。なぜなら彼らは大人が望むほど純朴では
ない。何を言えば怒られるかなど3歳にして把握できる。
優等生として。イジメの被害者として。多くの教員たちから常に厚意を受けてきたヌヌ行ならば尚である。
大人というやつが何に喜び何に怒るかなど十分すぎるほど分かっている。イジメという悪意が研ぎ澄ました感性は敏感
なのだ、そういうのに。
いう「明らかにおかしい」自分の思惑のせいでもある。話したところでまずその内実を理解してもらえるかどうか……彼女
は内心で首を横に振った。よくある子供の戯言として処理されるだろう。例えば悪夢を見た子供が結局は「怖かったね
怖かったね」とペットにも通じる適当なあやしをされるように……。
そういう面倒をしょいこむ時間はもうないのだ。刻限が来たら最後ヌヌ行はどうあがいても土建屋の娘のいる場所へ
引き寄せられる。そういう『運命』なのだ。回避は不可能だった。その一事だけでも恐らく常人には理解してもらえない
だろう。自宅で鈍く光る金属の武器はそういう破壊をもたらすものだ。刻限まではあと2時間……腕時計など持っていない
が分かる。あと2時間もすれば呪われた運命が開始する。
だから死にたい。
そのためにはどうすればいいか? 子供とは時として大人以上に相手を見る。なぜなら彼らは大人が望むほど純朴では
ない。何を言えば怒られるかなど3歳にして把握できる。
優等生として。イジメの被害者として。多くの教員たちから常に厚意を受けてきたヌヌ行ならば尚である。
大人というやつが何に喜び何に怒るかなど十分すぎるほど分かっている。イジメという悪意が研ぎ澄ました感性は敏感
なのだ、そういうのに。
だからもっともらしいウソをつけば武藤カズキもその妻も納得して去っていくだろう。
だからヌヌ行はやがて閻魔に抜かれるであろう味覚の器官を大いに振るい始めたのだが──…
「何だって!! 悪い組織にお父さんが改造されて冷酷無情な殺人マシーンに!?」
「はい……。私の顔ももう分からなくて……。止めたのに……止めたのに……30兆人も殺して」
「30兆人!!? 大変じゃないかそれは!!」
「おい、カズキ」
予想していたものとやや違うものになりつつあり、少々焦った。こうなったのは両親がこのテのウソを本当に心から信じる
せいだ。理科の実験中、水素爆発でひどい火傷を負った時だって「養殖モノのサラマンダーにやられた!」。その一言で済
ませたし、済んだ。ウソは突飛であればあるほど良かった。現実的な陰惨な話で両親を悲しませるのはイヤだったし、仇打ち
だとばかり一家総出で養殖モノのサラマンダーを探しにいくのは……馬鹿馬鹿しくはあったけど、それでもとても楽しかった。
ウソを吐く理由はそこにもあるのだと思う。目の前の純朴そうな青年を騙しているという罪悪感に一瞬大きな瞳を潤ませ
はしたけれど、それでも初対面なのだ。だいたい最初こそ「それらしい」重い話で躱すつもりだったけど、それだって引かせ
るのようで嫌だった。もし相手に解決能力がなければ無用に悩ませるコトにもなる。
だからこんなホラにも等しいウソでもいい。ウソもホラもいい側面があって自分は常にそればかり使っている。
そう確信するヌヌ行だから「肩を落として声を湿らす」哀切など朝飯前だ。
「犠牲になった方の家族に申し訳なくて、せめて、せめて私の命で償おうと……」
「気持ちは分かるけどダメだよそれじゃあ!!」
「カズキ」
「遺族の人だってそんなコト望んでないしお父さんだって冷酷無情な殺人マシーンのままだ!!」
「話を聞けカズキ」
「どうにかしてお父さんを止めなきゃ!! そうだ!! 戦団に連絡だ!! 大戦士長ならきっと──…」
「ああもういい加減気付け!! 気付いてくれ!!
とうとう「美人さん」が金切り声を上げた。軽く息を呑むヌヌ行。それも知らずハテナ顔の青年。
「どうしたの斗貴子さん。急に顔を赤くして。ラマーズ法の練習? は! まさか産気づいちゃった!?」
「どっちも違う!! そもそも出産予定日は来年1月……じゃなくて!! キミは本当に気付いてないのか!!」
「何を?」
「……今の世界人口はどれぐらいだ?」
「んー。どれぐらいだったかな。100億は行ってなかったと思うけど」
カズキは顎に手を当て上を見た。あどけなさたるやまるで高校生だ。
「……このコの父親が殺した人数は?」
「30兆!」
「なにか……気付いたコトは?」
「特に何も。あ。でも30兆っていうとなんか豆腐みたいだよね。豆腐がそれぐらいあったらどう数えるんだろ? 30兆丁?
蝶野が聞いたら喜ぶかも。電話しなきゃ」
カズキが携帯電話を取り出し斗貴子がひったくった。まるで夫婦漫才のようなテンポで、だからヌヌ行は少し笑った。
「パピヨンなんか喜ばせてやる義理はないしそもそも豆腐なのはキミの頭だ!! 桁数も分からないのか!!」
「ハハ。大胆だなあ斗貴子さん。こんなところでいきなり数学なんて」
「算数だ!! というか何がどう大胆なんだ!!」
「あ。そういえば兆って億の1000倍ぐらいだよね」
「ああ!! なら合わないだろ計算が! 何をどうやったら30兆の人間を殺せるんだ!!」
「そうだった!!」
「そうだった、じゃない!! 気付けそれぐらい最初に!! 要するにキミはこのコに騙されたんだ!!」
「でも良かったー。ウソで。なら誰も死んでないってコトだよね? てっきりオレお父さんがホムンクルスにでもされたのかと
思って心配で心配で」
毛布の中で青年が笑うと斗貴子は嘆息した。さりとて表情は柔らかい。
「キミは本当に底抜けのお人よしだな
「まま。仕方ないじゃない。これ位のコたちはとてもフクザツなんだ」
ね。とカズキはまた微笑んだ。とても毒気がなくだからこそヌヌ行はたじろいだ。
「それにほら、オレってまだこのコと逢ってそんな経ってないじゃない。というか初対面? そんな相手にさ、抱えているコトい
きなり全部言うのって結構勇気いると思うんだ。まひろみたいに速攻で馴染める方が凄いっていうか特別だし」
「まあみんなあのコのようになられても困るが……つまりウソをつかれてもいいという訳か」
「そ。それにいいじゃない。オレ、このコのウソ結構好きだよ。なんかさ、面白いじゃない?」
好き……。ウソをついているという罪悪感を持つヌヌ行にとってその発言は意外だった。
「ウソというかホラだろ。やれ自分は特異点だの次元のねじれがどうの12番目の官能基よ糸車となりて紡げ代数学の浮き
かすをだの……」
「カッコいいよね!」
「もういい。もう何も言いたくない」
「はい……。私の顔ももう分からなくて……。止めたのに……止めたのに……30兆人も殺して」
「30兆人!!? 大変じゃないかそれは!!」
「おい、カズキ」
予想していたものとやや違うものになりつつあり、少々焦った。こうなったのは両親がこのテのウソを本当に心から信じる
せいだ。理科の実験中、水素爆発でひどい火傷を負った時だって「養殖モノのサラマンダーにやられた!」。その一言で済
ませたし、済んだ。ウソは突飛であればあるほど良かった。現実的な陰惨な話で両親を悲しませるのはイヤだったし、仇打ち
だとばかり一家総出で養殖モノのサラマンダーを探しにいくのは……馬鹿馬鹿しくはあったけど、それでもとても楽しかった。
ウソを吐く理由はそこにもあるのだと思う。目の前の純朴そうな青年を騙しているという罪悪感に一瞬大きな瞳を潤ませ
はしたけれど、それでも初対面なのだ。だいたい最初こそ「それらしい」重い話で躱すつもりだったけど、それだって引かせ
るのようで嫌だった。もし相手に解決能力がなければ無用に悩ませるコトにもなる。
だからこんなホラにも等しいウソでもいい。ウソもホラもいい側面があって自分は常にそればかり使っている。
そう確信するヌヌ行だから「肩を落として声を湿らす」哀切など朝飯前だ。
「犠牲になった方の家族に申し訳なくて、せめて、せめて私の命で償おうと……」
「気持ちは分かるけどダメだよそれじゃあ!!」
「カズキ」
「遺族の人だってそんなコト望んでないしお父さんだって冷酷無情な殺人マシーンのままだ!!」
「話を聞けカズキ」
「どうにかしてお父さんを止めなきゃ!! そうだ!! 戦団に連絡だ!! 大戦士長ならきっと──…」
「ああもういい加減気付け!! 気付いてくれ!!
とうとう「美人さん」が金切り声を上げた。軽く息を呑むヌヌ行。それも知らずハテナ顔の青年。
「どうしたの斗貴子さん。急に顔を赤くして。ラマーズ法の練習? は! まさか産気づいちゃった!?」
「どっちも違う!! そもそも出産予定日は来年1月……じゃなくて!! キミは本当に気付いてないのか!!」
「何を?」
「……今の世界人口はどれぐらいだ?」
「んー。どれぐらいだったかな。100億は行ってなかったと思うけど」
カズキは顎に手を当て上を見た。あどけなさたるやまるで高校生だ。
「……このコの父親が殺した人数は?」
「30兆!」
「なにか……気付いたコトは?」
「特に何も。あ。でも30兆っていうとなんか豆腐みたいだよね。豆腐がそれぐらいあったらどう数えるんだろ? 30兆丁?
蝶野が聞いたら喜ぶかも。電話しなきゃ」
カズキが携帯電話を取り出し斗貴子がひったくった。まるで夫婦漫才のようなテンポで、だからヌヌ行は少し笑った。
「パピヨンなんか喜ばせてやる義理はないしそもそも豆腐なのはキミの頭だ!! 桁数も分からないのか!!」
「ハハ。大胆だなあ斗貴子さん。こんなところでいきなり数学なんて」
「算数だ!! というか何がどう大胆なんだ!!」
「あ。そういえば兆って億の1000倍ぐらいだよね」
「ああ!! なら合わないだろ計算が! 何をどうやったら30兆の人間を殺せるんだ!!」
「そうだった!!」
「そうだった、じゃない!! 気付けそれぐらい最初に!! 要するにキミはこのコに騙されたんだ!!」
「でも良かったー。ウソで。なら誰も死んでないってコトだよね? てっきりオレお父さんがホムンクルスにでもされたのかと
思って心配で心配で」
毛布の中で青年が笑うと斗貴子は嘆息した。さりとて表情は柔らかい。
「キミは本当に底抜けのお人よしだな
「まま。仕方ないじゃない。これ位のコたちはとてもフクザツなんだ」
ね。とカズキはまた微笑んだ。とても毒気がなくだからこそヌヌ行はたじろいだ。
「それにほら、オレってまだこのコと逢ってそんな経ってないじゃない。というか初対面? そんな相手にさ、抱えているコトい
きなり全部言うのって結構勇気いると思うんだ。まひろみたいに速攻で馴染める方が凄いっていうか特別だし」
「まあみんなあのコのようになられても困るが……つまりウソをつかれてもいいという訳か」
「そ。それにいいじゃない。オレ、このコのウソ結構好きだよ。なんかさ、面白いじゃない?」
好き……。ウソをついているという罪悪感を持つヌヌ行にとってその発言は意外だった。
「ウソというかホラだろ。やれ自分は特異点だの次元のねじれがどうの12番目の官能基よ糸車となりて紡げ代数学の浮き
かすをだの……」
「カッコいいよね!」
「もういい。もう何も言いたくない」
「とにかくさ。キミさえよかったら話してくれない? 別に本当のコトじゃなくてもいいからさ」
「誰かと話すだけでも辛さが和らぐってコト、結構あるよ。俺もそうだったし」
「ね?」
話していくうち本音を知られたのはヌヌ行自身の幼さのせいでもあるが──…
カズキの持つ話しやすさ。ウソを吐くと何となく申し訳ない気分になる……奇妙な人徳。
そして斗貴子の持つ洞察力。わずかな言葉尻から真実を見抜く眼力。
そして斗貴子の持つ洞察力。わずかな言葉尻から真実を見抜く眼力。
2人の持つ長所のせいでもあった。