【翌日。銀成学園地上1F。廊下】
「感謝する」
「何がよ?」
ヴィクトリアは怪訝な顔をした。目の前には秋水がいて深々と頭を下げている。地上に戻るなりそれだ。まったく訳がわか
らない、愛らしい顔つきを不快に歪め詰問する。
「相談に乗ってくれたのだろう。ありがとう」
「確かにそうだけど、なんでアナタが礼をいうの?」
武藤姓でもないクセに。からかうように笑うと瞳の光が揺らめいた。
辺りには人気がない。いくつかある校舎のうち一番南側の更に隅っこというところだ。敷地的にも辺境らしく窓の外には
フェンスがある。錆やほつれの編み目を縫うように広がる裏道を一台、豆腐販売の車が通った。うら寂しい笛の音は訳も
なくヴィクトリアの感傷を誘った。フェンスから校舎までは3mほどあり、薄い黄土色の校庭にはコーンやバレーボールが無
造作に転がっている。いずれも乾いた泥や埃の洗礼をたっぷり受けており新品とは言い難い。ゴミ置場かも知れない。
内外ともよほど人が近づかない場所なのは確かだった。
廊下の行きどまりにあるのは第三視聴覚室。それを背に見る教室の群れと来たらパっとしないものばかりだ。プレートを
見るだにゲンナリする。美術準備室、多目的教室A、同B……少子化で不要になった教室どもの墓場だった。
(こんなにあるなら部室ぐらいくれてもいいでしょ)
なぜか練習場所の定まらぬ演劇部だ。いまは専らまひろたちのクラス(1-A)を拠点に活動中。なのにどうして……学校
生活につきまといがちな不合理に軽く瞳を尖らせていると背後から黒い声が掛った。
「確かに遊ばせておくのは惜しいな。理事長とやらに掛け合ってみるか」
「だ、だよね~! 部室ある方がみんなヨロコブだろうし!」
どこかわざとらしい声はまひろのものだ。秋水と並び立ちながらも露骨に横を向いている。そして真赤な顔に引き攣った
笑みを浮かべている。ボリュームだけはでかい上ずった声で話しかけているのは美術準備室に取り残された作りかけの顔
面石膏像だった。
尋常ならざる様子だ。秋水が心配そうに話しかけた。すると赤道直下のまひろフェイスに熱帯低気圧顔負けの渦が生ま
れた。澄みわたる瞳の黒が線となりぐるぐるぐるぐる廻り始めた。それが最高速に達するまでに乱れ放たれた言葉は少な
くても英語圏で生まれ育ち日本語圏で長く過ごしたヴィクトリアにはまったく翻訳不可能なもの言語だった。もはや少女特
有の柔らかさと甘ったるさとまっすぐな明るさだけが取り柄のオノマトペだった。頭から星型した色とりどりのガラクタをばら
撒きながらとにかくまひろは言葉を放ち、放ち──…まったく要領を得ない。
(そんなに恥ずかしいなら離れればいいのに)
やれやれね。笑いを一齣(ひとくさり)かみ殺し助け船を──好意を示すというより自らの優位性を保つため──出す。
「私の後ろにでも立つ? そこじゃいろいろやり辛いでしょ?」
「……いいよ。ココで」
柄にもなく静かな声だ。ココとはつまり相変わらずの秋水の横。俯き加減で瞳を熱く潤ませている。
「そう。で、ソコで満足してるのはどうして? 早坂秋水のコトが好きだから?」
返事は来なかった。代わりにぼっという音がまひろの顔から弾けとび炬燵よりも赤熱した。同時に狭い肩が窄まりか細い
首が埋没した。蒸着した前髪が双眸を覆い隠したせいで表情は見えない。唯一見える桜色の唇が切なげに開きわなないた。
「──」「──」「──」。声というより甘い吐息だった。耳を欹(そばだ)て聴覚経由で言語化したヴィクトリアは色素の薄い唇
を一瞬開けかけ……そして閉じた。代わりにエメラルドのようだと友人一同から大好評の瞳を悪戯っぽく左に振るとすぐさま
ある人物へ視線を移した。
「なんていったのそのコ?」
驚いたのは秋水である。この欧州少女の声は時おり外耳道や鼓膜にねっとりこびりつく蜂蜜のような魔性を見せるが彼は
一切の悩乱を見せなかった。代わりに息を呑み瞳孔を収縮させゆっくりと「キミ(ホムンクルス)なら聞こえたはずだろう」とだけ
呟いた。
「どうかしらね。ホムンクルスだからって感覚まで強化されるとは限らない。……で、そのコは何て?」
小悪魔のような冷たい微笑を浴びせかけると秋水は観念した。うっすらと汗ばみながらゆっくりと、文節を区切りながら、
代弁した。
「俺の事については好きかも知れないというだけで確定はしていない。そう言ったのだが」
「ででででも私なんかのために何も考えず地下に飛び込んでくれたのは嬉しいよ。その、ね。……ありがとう」
うっすら頬を染めて上目遣いを送るまひろを秋水は困ったように眺めた。
「へえ。良かったじゃない」
「…………」
秋水はやや恨めし気にヴィクトリアを見た。パピヨンは、不思議そうに呟いた。
「なんだ。貴様ひょっとして女運がないのか。哀れだな」
「本当ね。でもアナタに言われたくないわよ。むかし財産目当ての家庭教師に誑かされた癖に」
「!!?」
なぜ知っている。珍しく驚愕を浮かべるパピヨンをよそにヴィクトリアは薄ら笑いを浮かべた。
「ところでアナタ、戦士たちに合流しなくていいの? ガスマスクの戦士がしきりに気にしてたようだけど」
端正な顔がにわかに引き締まった。そんな秋水にまひろは向きなおった。向きなおったといっても俯きがちなのはそのま
まで、かろうじて正中線をさらけ出したという感じだ。
「ゴメン秋水先輩。忙しいのに邪魔しちゃって……」
「大丈夫だ。戦士長からは不参加でもいいと言われている。それに──…」
大きな手が肩に乗った瞬間、まひろは小さな肢体をぴくりと震わせた。そうして恐る恐る息を吐きながら顔を上げた。
「俺自身、必要だと思ったから優先した。それだけだ。君が気に病む事はない」
蒼い光の宿る切れ長の瞳に射すくめられたように少女の時が一瞬止まった。彼女はその容貌からあらゆる強張りを
解き放ちただただ無防備にあどけなく秋水を見た。やがて大きな瞳を少し嬉しげに蕩かせるとそれを細め、射線を外した。
「ありがとう」。切なげな小声を聞きながらヴィクトリアは腰に手を当てた。なだらかな鼻梁を通り抜けた吐息は呆れと安堵
が半々だった。そっと手を離した秋水はその挙動が良かったものかやや逡巡しているようだった。そんな2人はまるで遠い
昔たしかに自宅に居た2つの大きな存在で、悲しみの向こうにある大切な懐かしさの具現だった。自分が何を目指し何を
大事にすべきか示してくれるのはこの無言の蚊帳の外だった。
もっとも世界というのは常に誰かの心地よさを奪いにくるものらしい。
美しくも毒を秘めた声が静寂を破いた。
「ところでそろそろ足元を気にしたらどうだ」
「何が言いたい?」
鼻で余裕たっぷりに笑いながら蝶々覆面、一歩踏み出した。漆黒の棒の先で飾り布が翻る。紫の爪の照準が美剣士に合わ
さった。
「誤魔化すなよ。右足首を捻挫しているんだろ」
急に話題が変わった。まひろは円らな瞳を白黒させた。
「え? なに? なに? どういうコトなのびっきー」
「あの時。アナタに会うため何も考えず地下へ飛び込んだのよ。人がせっかく作ってあげたハシゴも無視してね。穴は相当
深かった。ホムンクルスならいざ知らずただの人間が着地して無事でいられるかどうか」
秋水の頬に汗が浮かんだ。その瞳は後悔をもたらす過去を眺めているようだった。
「大方、奴に仕出かした所業のせいでそいつに負い目を抱いているんだろうが生憎俺は貴様ほどお優しくないんでね。下ら
ん逃げを打った結果なにを招いてしまったか。ちゃあんと教えてやるのさ」
秋水はまひろを見た。彼の映る瞳のガラスは申し訳なさという液体でぶわりと滲んでいた。
「……君は彼女をどうしたいんだ」
「さあね。というか貴様こそどうするつもりだ? 女を追い回した挙句ケガとはまあ随分情けない話じゃないか」
「集合場所はたぶん屋上ってところね。いけるかしら? 歩いて」
「屋上……!! いったいどれほどの苦難が秋水先輩を襲うの……!」
「拳固めてヘンな顔しないの。誰のせいだと思ってるの」
それは私だよね。まひろはしゅんと頭を垂れた。歌舞伎役者も真っ青の勢いだった。栗色の髪がぶぅんと振り乱れかぐわ
しい匂いを振りまいた。
「重ねがさねゴメンね秋水先輩。私なんかのせいで足を……。劇の練習、斗貴子さんとあんなにすごいアクションしてたのに
…………きっといっぱいいっぱい練習したのに私のせいで……」
「その辺りに支障はない。それに何度もいうが俺が必要だと思ったから優先しただけで……」
(歩かなかったのはこういう気遣いをさせたくなかったからでしょうね)
一緒にいるだけで顔面筋肉がみるみると解されていくようだ。秋水は、まひろと。平素は謹厳極まる表情の美丈夫が年
相応の揺らぎを大いに浮かべている。聞いたコトもないやや高の声さえ喉から漏らしている。
「本当アナタ必死ね。もう確定じゃないの? 早坂秋水への感情」
「ちちち違うよ! 秋水先輩が好きかも知れないからとかそーいうのじゃなくて!!」
.
眉毛を額の肉ごと切なげに漏り上げながらまひろはぽつりと呟いた。
「何がよ?」
ヴィクトリアは怪訝な顔をした。目の前には秋水がいて深々と頭を下げている。地上に戻るなりそれだ。まったく訳がわか
らない、愛らしい顔つきを不快に歪め詰問する。
「相談に乗ってくれたのだろう。ありがとう」
「確かにそうだけど、なんでアナタが礼をいうの?」
武藤姓でもないクセに。からかうように笑うと瞳の光が揺らめいた。
辺りには人気がない。いくつかある校舎のうち一番南側の更に隅っこというところだ。敷地的にも辺境らしく窓の外には
フェンスがある。錆やほつれの編み目を縫うように広がる裏道を一台、豆腐販売の車が通った。うら寂しい笛の音は訳も
なくヴィクトリアの感傷を誘った。フェンスから校舎までは3mほどあり、薄い黄土色の校庭にはコーンやバレーボールが無
造作に転がっている。いずれも乾いた泥や埃の洗礼をたっぷり受けており新品とは言い難い。ゴミ置場かも知れない。
内外ともよほど人が近づかない場所なのは確かだった。
廊下の行きどまりにあるのは第三視聴覚室。それを背に見る教室の群れと来たらパっとしないものばかりだ。プレートを
見るだにゲンナリする。美術準備室、多目的教室A、同B……少子化で不要になった教室どもの墓場だった。
(こんなにあるなら部室ぐらいくれてもいいでしょ)
なぜか練習場所の定まらぬ演劇部だ。いまは専らまひろたちのクラス(1-A)を拠点に活動中。なのにどうして……学校
生活につきまといがちな不合理に軽く瞳を尖らせていると背後から黒い声が掛った。
「確かに遊ばせておくのは惜しいな。理事長とやらに掛け合ってみるか」
「だ、だよね~! 部室ある方がみんなヨロコブだろうし!」
どこかわざとらしい声はまひろのものだ。秋水と並び立ちながらも露骨に横を向いている。そして真赤な顔に引き攣った
笑みを浮かべている。ボリュームだけはでかい上ずった声で話しかけているのは美術準備室に取り残された作りかけの顔
面石膏像だった。
尋常ならざる様子だ。秋水が心配そうに話しかけた。すると赤道直下のまひろフェイスに熱帯低気圧顔負けの渦が生ま
れた。澄みわたる瞳の黒が線となりぐるぐるぐるぐる廻り始めた。それが最高速に達するまでに乱れ放たれた言葉は少な
くても英語圏で生まれ育ち日本語圏で長く過ごしたヴィクトリアにはまったく翻訳不可能なもの言語だった。もはや少女特
有の柔らかさと甘ったるさとまっすぐな明るさだけが取り柄のオノマトペだった。頭から星型した色とりどりのガラクタをばら
撒きながらとにかくまひろは言葉を放ち、放ち──…まったく要領を得ない。
(そんなに恥ずかしいなら離れればいいのに)
やれやれね。笑いを一齣(ひとくさり)かみ殺し助け船を──好意を示すというより自らの優位性を保つため──出す。
「私の後ろにでも立つ? そこじゃいろいろやり辛いでしょ?」
「……いいよ。ココで」
柄にもなく静かな声だ。ココとはつまり相変わらずの秋水の横。俯き加減で瞳を熱く潤ませている。
「そう。で、ソコで満足してるのはどうして? 早坂秋水のコトが好きだから?」
返事は来なかった。代わりにぼっという音がまひろの顔から弾けとび炬燵よりも赤熱した。同時に狭い肩が窄まりか細い
首が埋没した。蒸着した前髪が双眸を覆い隠したせいで表情は見えない。唯一見える桜色の唇が切なげに開きわなないた。
「──」「──」「──」。声というより甘い吐息だった。耳を欹(そばだ)て聴覚経由で言語化したヴィクトリアは色素の薄い唇
を一瞬開けかけ……そして閉じた。代わりにエメラルドのようだと友人一同から大好評の瞳を悪戯っぽく左に振るとすぐさま
ある人物へ視線を移した。
「なんていったのそのコ?」
驚いたのは秋水である。この欧州少女の声は時おり外耳道や鼓膜にねっとりこびりつく蜂蜜のような魔性を見せるが彼は
一切の悩乱を見せなかった。代わりに息を呑み瞳孔を収縮させゆっくりと「キミ(ホムンクルス)なら聞こえたはずだろう」とだけ
呟いた。
「どうかしらね。ホムンクルスだからって感覚まで強化されるとは限らない。……で、そのコは何て?」
小悪魔のような冷たい微笑を浴びせかけると秋水は観念した。うっすらと汗ばみながらゆっくりと、文節を区切りながら、
代弁した。
「俺の事については好きかも知れないというだけで確定はしていない。そう言ったのだが」
「ででででも私なんかのために何も考えず地下に飛び込んでくれたのは嬉しいよ。その、ね。……ありがとう」
うっすら頬を染めて上目遣いを送るまひろを秋水は困ったように眺めた。
「へえ。良かったじゃない」
「…………」
秋水はやや恨めし気にヴィクトリアを見た。パピヨンは、不思議そうに呟いた。
「なんだ。貴様ひょっとして女運がないのか。哀れだな」
「本当ね。でもアナタに言われたくないわよ。むかし財産目当ての家庭教師に誑かされた癖に」
「!!?」
なぜ知っている。珍しく驚愕を浮かべるパピヨンをよそにヴィクトリアは薄ら笑いを浮かべた。
「ところでアナタ、戦士たちに合流しなくていいの? ガスマスクの戦士がしきりに気にしてたようだけど」
端正な顔がにわかに引き締まった。そんな秋水にまひろは向きなおった。向きなおったといっても俯きがちなのはそのま
まで、かろうじて正中線をさらけ出したという感じだ。
「ゴメン秋水先輩。忙しいのに邪魔しちゃって……」
「大丈夫だ。戦士長からは不参加でもいいと言われている。それに──…」
大きな手が肩に乗った瞬間、まひろは小さな肢体をぴくりと震わせた。そうして恐る恐る息を吐きながら顔を上げた。
「俺自身、必要だと思ったから優先した。それだけだ。君が気に病む事はない」
蒼い光の宿る切れ長の瞳に射すくめられたように少女の時が一瞬止まった。彼女はその容貌からあらゆる強張りを
解き放ちただただ無防備にあどけなく秋水を見た。やがて大きな瞳を少し嬉しげに蕩かせるとそれを細め、射線を外した。
「ありがとう」。切なげな小声を聞きながらヴィクトリアは腰に手を当てた。なだらかな鼻梁を通り抜けた吐息は呆れと安堵
が半々だった。そっと手を離した秋水はその挙動が良かったものかやや逡巡しているようだった。そんな2人はまるで遠い
昔たしかに自宅に居た2つの大きな存在で、悲しみの向こうにある大切な懐かしさの具現だった。自分が何を目指し何を
大事にすべきか示してくれるのはこの無言の蚊帳の外だった。
もっとも世界というのは常に誰かの心地よさを奪いにくるものらしい。
美しくも毒を秘めた声が静寂を破いた。
「ところでそろそろ足元を気にしたらどうだ」
「何が言いたい?」
鼻で余裕たっぷりに笑いながら蝶々覆面、一歩踏み出した。漆黒の棒の先で飾り布が翻る。紫の爪の照準が美剣士に合わ
さった。
「誤魔化すなよ。右足首を捻挫しているんだろ」
急に話題が変わった。まひろは円らな瞳を白黒させた。
「え? なに? なに? どういうコトなのびっきー」
「あの時。アナタに会うため何も考えず地下へ飛び込んだのよ。人がせっかく作ってあげたハシゴも無視してね。穴は相当
深かった。ホムンクルスならいざ知らずただの人間が着地して無事でいられるかどうか」
秋水の頬に汗が浮かんだ。その瞳は後悔をもたらす過去を眺めているようだった。
「大方、奴に仕出かした所業のせいでそいつに負い目を抱いているんだろうが生憎俺は貴様ほどお優しくないんでね。下ら
ん逃げを打った結果なにを招いてしまったか。ちゃあんと教えてやるのさ」
秋水はまひろを見た。彼の映る瞳のガラスは申し訳なさという液体でぶわりと滲んでいた。
「……君は彼女をどうしたいんだ」
「さあね。というか貴様こそどうするつもりだ? 女を追い回した挙句ケガとはまあ随分情けない話じゃないか」
「集合場所はたぶん屋上ってところね。いけるかしら? 歩いて」
「屋上……!! いったいどれほどの苦難が秋水先輩を襲うの……!」
「拳固めてヘンな顔しないの。誰のせいだと思ってるの」
それは私だよね。まひろはしゅんと頭を垂れた。歌舞伎役者も真っ青の勢いだった。栗色の髪がぶぅんと振り乱れかぐわ
しい匂いを振りまいた。
「重ねがさねゴメンね秋水先輩。私なんかのせいで足を……。劇の練習、斗貴子さんとあんなにすごいアクションしてたのに
…………きっといっぱいいっぱい練習したのに私のせいで……」
「その辺りに支障はない。それに何度もいうが俺が必要だと思ったから優先しただけで……」
(歩かなかったのはこういう気遣いをさせたくなかったからでしょうね)
一緒にいるだけで顔面筋肉がみるみると解されていくようだ。秋水は、まひろと。平素は謹厳極まる表情の美丈夫が年
相応の揺らぎを大いに浮かべている。聞いたコトもないやや高の声さえ喉から漏らしている。
「本当アナタ必死ね。もう確定じゃないの? 早坂秋水への感情」
「ちちち違うよ! 秋水先輩が好きかも知れないからとかそーいうのじゃなくて!!」
.
眉毛を額の肉ごと切なげに漏り上げながらまひろはぽつりと呟いた。
「私のせいで捻挫しちゃったんだよ。放ってなんかおけないよ……」
彼女を除く全員がほぼ同時に息を呑んだ。秋水はやや感嘆したらしい。パピヨンは黒い笑みを大いに浮かべた。
(馬鹿ね。放っておく方がいい場合もあるのよ。今がそれ)
なのに愚直にも助力を考えている。だがそのひた向きさはこの場の男どもの琴線に触れて仕方ないものらしい。
(……羨ましいわね)
パピヨンが異性の挙動に心くすぐられ笑っている。でもそれを成したのは自分ではない。まひろを見る。いかにも困惑の
極みで自分は無力だという雰囲気にしょげかえっている。いまどれほどスゴいコトをしたかなどちっとも知らないのだろう。
それがやれないコトに無念を覚える者がすぐ傍に居るとは、知らないのだろう。
「…………」
自らの周囲だけ暗くなっていく錯覚。それがヴィクトリアを襲った。過去何度か味わった苦さ、結局何をやっても報われない
のだという絶望的な感覚。やや形を変えたそれが肌を寒くしていく。
(いつまで経っても進歩がないわね私。本当、嫌になる)
それを繰り返してもどうにもならない。俯きかけた首をしかし意志の力で立て直し、力強くまひろを見る。ポケットから「ある物」
を引き抜き披歴したのはつまり矜持だった。相談相手を全うする。そうするコトでしか心痛に耐えられそうになかった。
「大丈夫よ捻挫ぐらい。コレ当てておけば治るから」
まひろの目が点になった。「何それ?」。視線が吸いついたのは六角形の金属片だった。
「核鉄。私の地下壕とか早坂秋水の日本刀とか」
「この俺、パピ・ヨン! のニアデスハピネス!」
「を発動する道具よ。これ当てておけば治癒力が高まるの。捻挫自体軽そうだし、何とかなるでしょうね」
思わぬ助け船に秋水は「そうだ」と自分のものを取り出した。だから心配には及ばない。訥々とした説明に(よく分からな
いながらも)まひろは納得し語気をやや弱めた。
「そうだ。俺も核鉄を持っている。自分でどうにかできる。君が気に病む方が辛い。処置は俺に任せてくれ」
「そ、そういうコトなら」
しぶしぶという調子だがまひろは自説を引っ込めるコトにしたようだ。
総ては丸く収まる。ヴィクトリアが確信しかけた時、それは起こった。
「まあ核鉄の治癒力などという物は生命力を強制変換しているだけに過ぎんがな」
(ちょっと)
小声で抗議するヴィクトリアもなんのその、パピヨンは実に楽しげにまひろを指差した。
「命を削って無理やり治しているだけだ。平たく言えばその男の寿命は縮む!」
ええー!! びっくり仰天のまひろをよそに秋水は颯爽とパピヨンに駆け寄った。軽いとはいえ捻挫は捻挫らしく右足
を振り下ろすたび顔をゆがめるのが印象的だった。そして近づくやいなやぬっと顔を近づけ困惑しきりで詰問した。
「また君は。なぜそれを今言うんだ」
「人に命を削らせておきながら自分だけはぬくぬくと過ごす。そういう奴が俺は大嫌いでね」
「構わない。俺は納得しているんだ。なのにどうして……!」
「がなるなよ。ただでさえ短い寿命の浪費.を防いでやったんだ。感謝されこそすれ抗議される謂れはない」
「だが」。胸倉を掴まんばかりの勢いで距離を詰めた秋水だがこの口達者な享楽主義者には何を言っても無駄と気付いた
のだろう。頬を波打たせながら息を吐きこう述べた。
「ならば保健室で手当てを受ける」
「いい提案だけどきっとさっきのガス騒ぎで満員よ? 私なんか華道部で寝てたぐらいだし」
(毒島……!!)
まひろがどういう申し出をするか気付いたのだろう。
秋水はその美しさが台無しになるほど暗澹とした表情で俯いた。
そしてその袖が引かれた。振り返ればまひろが居た。子犬のように瞳を濡れそぼらせ、とてもはにかんだ様子で、おずお
ずと呟いた。
(馬鹿ね。放っておく方がいい場合もあるのよ。今がそれ)
なのに愚直にも助力を考えている。だがそのひた向きさはこの場の男どもの琴線に触れて仕方ないものらしい。
(……羨ましいわね)
パピヨンが異性の挙動に心くすぐられ笑っている。でもそれを成したのは自分ではない。まひろを見る。いかにも困惑の
極みで自分は無力だという雰囲気にしょげかえっている。いまどれほどスゴいコトをしたかなどちっとも知らないのだろう。
それがやれないコトに無念を覚える者がすぐ傍に居るとは、知らないのだろう。
「…………」
自らの周囲だけ暗くなっていく錯覚。それがヴィクトリアを襲った。過去何度か味わった苦さ、結局何をやっても報われない
のだという絶望的な感覚。やや形を変えたそれが肌を寒くしていく。
(いつまで経っても進歩がないわね私。本当、嫌になる)
それを繰り返してもどうにもならない。俯きかけた首をしかし意志の力で立て直し、力強くまひろを見る。ポケットから「ある物」
を引き抜き披歴したのはつまり矜持だった。相談相手を全うする。そうするコトでしか心痛に耐えられそうになかった。
「大丈夫よ捻挫ぐらい。コレ当てておけば治るから」
まひろの目が点になった。「何それ?」。視線が吸いついたのは六角形の金属片だった。
「核鉄。私の地下壕とか早坂秋水の日本刀とか」
「この俺、パピ・ヨン! のニアデスハピネス!」
「を発動する道具よ。これ当てておけば治癒力が高まるの。捻挫自体軽そうだし、何とかなるでしょうね」
思わぬ助け船に秋水は「そうだ」と自分のものを取り出した。だから心配には及ばない。訥々とした説明に(よく分からな
いながらも)まひろは納得し語気をやや弱めた。
「そうだ。俺も核鉄を持っている。自分でどうにかできる。君が気に病む方が辛い。処置は俺に任せてくれ」
「そ、そういうコトなら」
しぶしぶという調子だがまひろは自説を引っ込めるコトにしたようだ。
総ては丸く収まる。ヴィクトリアが確信しかけた時、それは起こった。
「まあ核鉄の治癒力などという物は生命力を強制変換しているだけに過ぎんがな」
(ちょっと)
小声で抗議するヴィクトリアもなんのその、パピヨンは実に楽しげにまひろを指差した。
「命を削って無理やり治しているだけだ。平たく言えばその男の寿命は縮む!」
ええー!! びっくり仰天のまひろをよそに秋水は颯爽とパピヨンに駆け寄った。軽いとはいえ捻挫は捻挫らしく右足
を振り下ろすたび顔をゆがめるのが印象的だった。そして近づくやいなやぬっと顔を近づけ困惑しきりで詰問した。
「また君は。なぜそれを今言うんだ」
「人に命を削らせておきながら自分だけはぬくぬくと過ごす。そういう奴が俺は大嫌いでね」
「構わない。俺は納得しているんだ。なのにどうして……!」
「がなるなよ。ただでさえ短い寿命の浪費.を防いでやったんだ。感謝されこそすれ抗議される謂れはない」
「だが」。胸倉を掴まんばかりの勢いで距離を詰めた秋水だがこの口達者な享楽主義者には何を言っても無駄と気付いた
のだろう。頬を波打たせながら息を吐きこう述べた。
「ならば保健室で手当てを受ける」
「いい提案だけどきっとさっきのガス騒ぎで満員よ? 私なんか華道部で寝てたぐらいだし」
(毒島……!!)
まひろがどういう申し出をするか気付いたのだろう。
秋水はその美しさが台無しになるほど暗澹とした表情で俯いた。
そしてその袖が引かれた。振り返ればまひろが居た。子犬のように瞳を濡れそぼらせ、とてもはにかんだ様子で、おずお
ずと呟いた。
「私なんかでよかったら……肩、貸すよ?」
「普通に歩いた方が早そうね」
のろのろと角を曲って見えなくなった2人めがけ皮肉をこぼしながらヴィクトリアは嘆息した。
「で、貴様は何をしている?」
携帯電話を忙しく叩くヴィクトリアを不思議そうにパピヨンは見た。
「メール。早坂桜花に事の顛末を教えてあげるのよ。だって面白くなりそうだし」
「貴様も物好きだな」
「アイツが悪いのよ。私はすっかり早坂桜花を忘れてたのに去り際」
のろのろと角を曲って見えなくなった2人めがけ皮肉をこぼしながらヴィクトリアは嘆息した。
「で、貴様は何をしている?」
携帯電話を忙しく叩くヴィクトリアを不思議そうにパピヨンは見た。
「メール。早坂桜花に事の顛末を教えてあげるのよ。だって面白くなりそうだし」
「貴様も物好きだな」
「アイツが悪いのよ。私はすっかり早坂桜花を忘れてたのに去り際」
(姉さんにだけは言わないでくれ)
「なんて小声で釘を刺すから。墓穴ね。アナタの言う通り女運がないみたい。……さて、送信しようかしら?」
などと冷笑を浮かべつつも内心良心とやらが葛藤しているのにも気付いているヴィクトリアだ。
客観的にいえば秋水には恩がある。戦士だが、人格そのものはさほど嫌いではない。
(やめてあげようかしら? そっちの方が恩を売れそうだし)
黙っておくのが義理だろう。人として行くべき道だろう。
なので。
「えい」
ヴィクトリアは送信ボタンを押した。
(だって私ホムンクルスだし)
桜花という悪魔がこの事実をどう悪用し秋水を困らせるか。
想像したヴィクトリアはとてもとても晴れやかな笑顔を浮かべた。
「非道いコトを嬉々としてよくもまあ。もっともああいう奴らは不様にからかわれる方がお似合いだがな」
瞳を濁らせ呵呵大笑のパピヨンはさしものヴィクトリアさえ軽く背筋に寒気を覚えるほど狂的だった。半ば呆れながらも笑
みを浮かべたのは彼が心から嬉しさや喜びを感じているのが分かったからだ。そんな顔を見るだけで微かな幸福感が
全身をよくしていくようだった。
「本当、珍しいわね。アナタが他人を気に掛けるなんて」
「気に掛けてなどいないさ。動ける癖に動こうともしない……そんな奴が俺は大嫌いでね。周りが必死に保護しているなら
尚更だ」
「要するに逃げているあのコが気にいらなかった訳ね」
「そ。奴ならば希望しか信じない。結局それを理解しているのはこの俺パピヨンだけという訳だ」
(奴? ……ああ、武藤カズキの。つまり妹なのに分かってないから)
厳しく当たった。恩人の妹として礼を尽くし厚遇している秋水とはまったく正反対だ。
(でも根っこは同じ)
まひろを正しい道にやろうとする作用がある。秋水の場合それはあくまで優しく卵でも扱うようにおっかなびっくりだが、
パピヨンはもうまったくの無遠慮。傷つけてでも首根っこを掴み向かうべきものに直面させようとする気迫がある。
決して優しさだけではない。けれども抱いた敬意を何一つ妥協せず貫こうとする誇り高さがある。それは時に単なる優しさ
よりも励ましとなり人を立たせていくだろう。
(武藤カズキの妹だもの)
多少の手心があるに違いない。そう思うとき桜色した薄い胸の奥がきりきりと痛んでしまう。払拭した筈のまひろへの劣等感が
違う形で全身に広がるのだ。自分がパピヨンに抱いている仄かな想いなど遥かに飛び越えた深い絆があるような気がした。
(私もあのコと同じなのに)
軽く目を伏せる。
大事な存在が月に居る、という点ではまひろと変わらぬヴィクトリアだ。
なのに彼はまひろにだけ特等の対処をしているのだ。
(馬鹿ね。パパとアイツは喋ったコトさえあるかどうか分からないのに)
月に大事な存在がいる。その程度の大雑把な共通項でパピヨンの歓心を求めている。そんな感傷など侮辱にしかならないのに。
自分の弱みがたまらなく嫌だった。
(…………)
自分はしょせん最近出会っただけの存在で、母の研究成果がなければ共にいる価値さえないという自虐さえ湧いてくる。
長年暗いところにいた精神の悪い癖。分かりながらも落ち込んでいくコトを止められない。砂を噛むような無力感とはまた
別の、むしろそれを乗り越えたからこそ蘇った生々しい1世紀遅れの感傷が心を大きくいじめている。
などと冷笑を浮かべつつも内心良心とやらが葛藤しているのにも気付いているヴィクトリアだ。
客観的にいえば秋水には恩がある。戦士だが、人格そのものはさほど嫌いではない。
(やめてあげようかしら? そっちの方が恩を売れそうだし)
黙っておくのが義理だろう。人として行くべき道だろう。
なので。
「えい」
ヴィクトリアは送信ボタンを押した。
(だって私ホムンクルスだし)
桜花という悪魔がこの事実をどう悪用し秋水を困らせるか。
想像したヴィクトリアはとてもとても晴れやかな笑顔を浮かべた。
「非道いコトを嬉々としてよくもまあ。もっともああいう奴らは不様にからかわれる方がお似合いだがな」
瞳を濁らせ呵呵大笑のパピヨンはさしものヴィクトリアさえ軽く背筋に寒気を覚えるほど狂的だった。半ば呆れながらも笑
みを浮かべたのは彼が心から嬉しさや喜びを感じているのが分かったからだ。そんな顔を見るだけで微かな幸福感が
全身をよくしていくようだった。
「本当、珍しいわね。アナタが他人を気に掛けるなんて」
「気に掛けてなどいないさ。動ける癖に動こうともしない……そんな奴が俺は大嫌いでね。周りが必死に保護しているなら
尚更だ」
「要するに逃げているあのコが気にいらなかった訳ね」
「そ。奴ならば希望しか信じない。結局それを理解しているのはこの俺パピヨンだけという訳だ」
(奴? ……ああ、武藤カズキの。つまり妹なのに分かってないから)
厳しく当たった。恩人の妹として礼を尽くし厚遇している秋水とはまったく正反対だ。
(でも根っこは同じ)
まひろを正しい道にやろうとする作用がある。秋水の場合それはあくまで優しく卵でも扱うようにおっかなびっくりだが、
パピヨンはもうまったくの無遠慮。傷つけてでも首根っこを掴み向かうべきものに直面させようとする気迫がある。
決して優しさだけではない。けれども抱いた敬意を何一つ妥協せず貫こうとする誇り高さがある。それは時に単なる優しさ
よりも励ましとなり人を立たせていくだろう。
(武藤カズキの妹だもの)
多少の手心があるに違いない。そう思うとき桜色した薄い胸の奥がきりきりと痛んでしまう。払拭した筈のまひろへの劣等感が
違う形で全身に広がるのだ。自分がパピヨンに抱いている仄かな想いなど遥かに飛び越えた深い絆があるような気がした。
(私もあのコと同じなのに)
軽く目を伏せる。
大事な存在が月に居る、という点ではまひろと変わらぬヴィクトリアだ。
なのに彼はまひろにだけ特等の対処をしているのだ。
(馬鹿ね。パパとアイツは喋ったコトさえあるかどうか分からないのに)
月に大事な存在がいる。その程度の大雑把な共通項でパピヨンの歓心を求めている。そんな感傷など侮辱にしかならないのに。
自分の弱みがたまらなく嫌だった。
(…………)
自分はしょせん最近出会っただけの存在で、母の研究成果がなければ共にいる価値さえないという自虐さえ湧いてくる。
長年暗いところにいた精神の悪い癖。分かりながらも落ち込んでいくコトを止められない。砂を噛むような無力感とはまた
別の、むしろそれを乗り越えたからこそ蘇った生々しい1世紀遅れの感傷が心を大きくいじめている。
──「あまり不安がっても仕方ないさ。悪い考えなんてのは願望に似ている。心配が見せるのは一番叶って欲しいコトの対極さ」
声が蘇る。いつか聞いた総角の。頭では理解できている筈なのに、感情が納得を妨げる。
(どうして縋ろうとしてるのよ。大嫌いなホムンクルスの言葉なのよ。なのに……どうして)
「オイ」
少女特有の世界が振動によって打ち砕かれた。まずヴィクトリアが知悉したのはむにゅりと歪む背中だった。訳も分からぬ
という顔で横目を這わす。窓ガラスがあった。土色した雑巾汚れがタイヤ痕のように乱舞する透明にヴィクトリアは自分が窓
際に追いやられたのだと気付いた。輪のついた細い両腕──輪はアクセサリーだった。自分でさえ時々つけているコトを忘れて
しまうそれが白いブラウスの半袖に2つして軽く潜り込んでいた──は艶やかな金髪よりはるか上に高々と掲げられていた。
目の前にはパピヨン。痩せながらも男性らしくコツコツとした大きな手がヴィクトリアの両手を軽くねじあげていた。
「~~~~~~~~~~~!!!」
翠色の双眸を大きく見開きながらヴィクトリアはパピヨンを見た。相変わらずの仏頂面で感情は読めない。少なくても怒って
いないコトは乱暴のなさから分かったが、それでも鼓動を早めざるを得ない姿勢だった。ひんやりした手は真白な手を造作
もなく拘禁している。辺りときたらまったく人気がない。惑乱に混沌とする脳髄を不安と期待が半々で走り抜けた。反射的に
白い大腿を擦り体を捩らせる。だが逃れられない。男性らしい逞しい力の前では無駄な話だった。もっと拒絶を爆発させれば
スカートから核鉄を引き抜くぐらいはできるだろう。さればすぐにでも地下壕を発現し逃げられるというのに、それをも忘れじ
つと赤い顔で見上げていた。
「な、なによ。いきなり暴力? 乱暴ね」
かろうじて毒舌を飛ばしてみるがいまいち勢いがない。むしろ声の上ずりを感づかれたような気がした。慌てて口をつぐみ
視線を外す。その挙措がいささか艶めかしい気がしてますます気まずいヴィクトリアだ。視線は揺れ動きながら遂に左爪先の
大外へ落ちた。すると細長くまとめた金髪が2房、さらりと擦れ悲鳴を上げた。ヘアバンチの硬質な打ち合いはそれだけで
ドキリとする余韻だった。パピヨンは直立不動のままだった。遠くから聞こえてくる野球部やサッカー部の掛け声が時間の止
まった世界を唯一現実のものと見せていた。流れ込んでくる昼の青い光は場違いなほど爽やかだった。
(顔、顔……!)
うひゃあと叫びたい気分──学校生活で猫を被っている時はよく上げるが流石にいまは憚られた──を必死に抑えながら
接近対象を横目で見た。パピヨンは上体を屈め毒々しい覆面ごとその眼差しを近づけてくる。距離が縮むたびもともと大きな
瞳がますます見開かれる一方だ。いよいよ鼓動は章印ごと胸部を張り裂きそうだった。口の細いボトルで注ぐほど大きく激し
かった。軽く後じさる頭。ひくつく口周りの筋肉。自分の白い頬はいま緊張性の汗をまぶしている。鼻先が髪にかかった。き
のう洗髪しておけば良かった。てんでバラバラの役にも立たない知覚をショートした思考回路にブチ込むうちとうとうヴィク
トリアは両目をぎゅうと閉じた。パピヨンの顔は本当にすぐ間近だった。
「こんな時期に戦士どもが打ち合わせをする以上、大戦士長とやらの救出作戦は近い」
「え?」
覚悟を決めたように両目を見開くと、面白くもなさそうな顔が洞察結果を淡々と出力していた。
「? どうした? 何をそんなに落胆している?」
「べ、別に……。アナタがいう割にはつまらないコトだなって思って」
少女らしい声に憮然と失望とちょっぴりの安心感をブレンドしながらヴィクトリアは反問した。
「分かってるわよアナタのいいたいコトぐらい。転入してきた音楽隊と特訓するんでしょうね。戦士は。でも津村斗貴子と早
坂秋水はアナタに演劇部を渡したくない。だから残留する。そうすると」
「戦士は連中ともども入部する。練習に託(かこつ)けて戦闘訓練をやるつもりだろう」
「で、私に何をやらせたいの?」
「フム。結論からいってやろう。演劇部のタガは貴様が締めろ」
とここでようやくパピヨンはヴィクトリアの両腕を解放した。重心の崩れを幸いと身を泳がしさりげなく距離を取るヴィクトリア。
彼女に対し蝶人はとうとう理由を述べ始めた。歌劇でも送り出すような調子だった。
「新し物好きの部員どもだ。音楽隊連中の自己紹介やら自己主張が来れば雰囲気が緩む、劇までもう72時間もないのにな」
「それを引き締めればいいのね。いいわよ。やってあげる。でも顧問でもない新入部員の私がそんなコトしていいのかしら?」
「特別に委任状を認(したた)めてやる」
そういうなりパピヨンは黒いスーツのとある一か所に手を突っ込んだ。
腰のあたりだった。両足が骨盤によって合流するデルタ地帯だった。そこに手を突っ込み当たり前のようにガサゴソとまさ
ぐり始めた。「ちょ。何を」。1世紀以上生きているとはいえいまだ精神は乙女のヴィクトリアだ。思わず顔を赤らめるのと同時
にA4用紙がぬらりと現出した。どう入っていたのか考えたくもない。それをパシリと振って広げるとまたも手を突っ込み今度
はボールペンを取り出した。
その先端を青紫の下でペロリと舐めたコトについてかなり様々な指摘をしたかったがどうせしても無駄だと諦め黙認する。
やがて何事か書き終えたパピヨンは筒と丸めた委任状を投げてよこした。ヴィクトリアのその後続く遠大な人生にメガトン
級の後悔が発生したのは直後だった。思わず手を伸ばしキャッチしてしまった。えもいわれぬ生暖かさが紅葉のような白い
手を這い上がってきた瞬間彼女は自分がしてしまった大失策を怖気とともに痛感した。爬虫類のように酷薄な瞳をこのとき
ばかりは情けなく半円に貶め……力なくその場にくずおれた。
「取ってしまった。取ってしまった……」
ドス黒い靄が全身から立ち上った。押しつけるように両手をつけ横ずわりするその顔は果てしなく地下を見ていた。
一方パピヨンはといえばその背後で腰に手をあて高らかに佇んでいた。心なしか腰をくねらせデルタ地帯を押し付けてきて
いるような気がしてヴィクトリアは涙した。いかに好意があれど許容できない行為もあるのだ。
「感動のあまり涙さえでないようだな」
(泣いてるわよ。いますごく泣いてるわよ。私)
後ろのパピヨンはヴィクトリアの表情が分からないらしい。気楽な調子でこう続けた。
「もしそれで効果がなければ人を使え」
使う、といわれても総角とは違い組織を持っていないヴィクトリアだ。その辺りを問うとパピヨンは「居るじゃないか」とだけ
呟き笑みを浮かべた。
「オトモダチにでも頼め。武藤の妹がそうだろう」
「あのコはただの知り合いよ。トモダチなんかじゃないわ。下の名前なんか”素”で呼んだコトなんてないし」
そこまで呟いてからヴィクトリアはふと考え込む仕草をした。はたして自分と彼女の間柄はなんなのだろう。
好きかどうかと問われればむしろ千里の顔こそ浮かぶ。取っつきやすさでは(『本物』と出会って間はないが)沙織の方が
まだマシだ。むしろまひろに対しては苦手意識や鬱陶しさ、種々様々の劣等感さえ覚えている。
にも関わらず関係性を壊そうと思ったコトは──秋水と2人しての説得を受けて以来──ない。ああいう人間だという割り
切りの下つかず離れずなのだ。
(……なのに何なのよこの不安感)
近々彼女との関係が大きく変わっていきそうな予感があった。先ほどから身の中を通り過ぎる『変化の数々』。それがやが
て未知なる激しい感情へ帰結してしまいそうな。漠然とした胸騒ぎが起こり始めた。
「オイ」
少女特有の世界が振動によって打ち砕かれた。まずヴィクトリアが知悉したのはむにゅりと歪む背中だった。訳も分からぬ
という顔で横目を這わす。窓ガラスがあった。土色した雑巾汚れがタイヤ痕のように乱舞する透明にヴィクトリアは自分が窓
際に追いやられたのだと気付いた。輪のついた細い両腕──輪はアクセサリーだった。自分でさえ時々つけているコトを忘れて
しまうそれが白いブラウスの半袖に2つして軽く潜り込んでいた──は艶やかな金髪よりはるか上に高々と掲げられていた。
目の前にはパピヨン。痩せながらも男性らしくコツコツとした大きな手がヴィクトリアの両手を軽くねじあげていた。
「~~~~~~~~~~~!!!」
翠色の双眸を大きく見開きながらヴィクトリアはパピヨンを見た。相変わらずの仏頂面で感情は読めない。少なくても怒って
いないコトは乱暴のなさから分かったが、それでも鼓動を早めざるを得ない姿勢だった。ひんやりした手は真白な手を造作
もなく拘禁している。辺りときたらまったく人気がない。惑乱に混沌とする脳髄を不安と期待が半々で走り抜けた。反射的に
白い大腿を擦り体を捩らせる。だが逃れられない。男性らしい逞しい力の前では無駄な話だった。もっと拒絶を爆発させれば
スカートから核鉄を引き抜くぐらいはできるだろう。さればすぐにでも地下壕を発現し逃げられるというのに、それをも忘れじ
つと赤い顔で見上げていた。
「な、なによ。いきなり暴力? 乱暴ね」
かろうじて毒舌を飛ばしてみるがいまいち勢いがない。むしろ声の上ずりを感づかれたような気がした。慌てて口をつぐみ
視線を外す。その挙措がいささか艶めかしい気がしてますます気まずいヴィクトリアだ。視線は揺れ動きながら遂に左爪先の
大外へ落ちた。すると細長くまとめた金髪が2房、さらりと擦れ悲鳴を上げた。ヘアバンチの硬質な打ち合いはそれだけで
ドキリとする余韻だった。パピヨンは直立不動のままだった。遠くから聞こえてくる野球部やサッカー部の掛け声が時間の止
まった世界を唯一現実のものと見せていた。流れ込んでくる昼の青い光は場違いなほど爽やかだった。
(顔、顔……!)
うひゃあと叫びたい気分──学校生活で猫を被っている時はよく上げるが流石にいまは憚られた──を必死に抑えながら
接近対象を横目で見た。パピヨンは上体を屈め毒々しい覆面ごとその眼差しを近づけてくる。距離が縮むたびもともと大きな
瞳がますます見開かれる一方だ。いよいよ鼓動は章印ごと胸部を張り裂きそうだった。口の細いボトルで注ぐほど大きく激し
かった。軽く後じさる頭。ひくつく口周りの筋肉。自分の白い頬はいま緊張性の汗をまぶしている。鼻先が髪にかかった。き
のう洗髪しておけば良かった。てんでバラバラの役にも立たない知覚をショートした思考回路にブチ込むうちとうとうヴィク
トリアは両目をぎゅうと閉じた。パピヨンの顔は本当にすぐ間近だった。
「こんな時期に戦士どもが打ち合わせをする以上、大戦士長とやらの救出作戦は近い」
「え?」
覚悟を決めたように両目を見開くと、面白くもなさそうな顔が洞察結果を淡々と出力していた。
「? どうした? 何をそんなに落胆している?」
「べ、別に……。アナタがいう割にはつまらないコトだなって思って」
少女らしい声に憮然と失望とちょっぴりの安心感をブレンドしながらヴィクトリアは反問した。
「分かってるわよアナタのいいたいコトぐらい。転入してきた音楽隊と特訓するんでしょうね。戦士は。でも津村斗貴子と早
坂秋水はアナタに演劇部を渡したくない。だから残留する。そうすると」
「戦士は連中ともども入部する。練習に託(かこつ)けて戦闘訓練をやるつもりだろう」
「で、私に何をやらせたいの?」
「フム。結論からいってやろう。演劇部のタガは貴様が締めろ」
とここでようやくパピヨンはヴィクトリアの両腕を解放した。重心の崩れを幸いと身を泳がしさりげなく距離を取るヴィクトリア。
彼女に対し蝶人はとうとう理由を述べ始めた。歌劇でも送り出すような調子だった。
「新し物好きの部員どもだ。音楽隊連中の自己紹介やら自己主張が来れば雰囲気が緩む、劇までもう72時間もないのにな」
「それを引き締めればいいのね。いいわよ。やってあげる。でも顧問でもない新入部員の私がそんなコトしていいのかしら?」
「特別に委任状を認(したた)めてやる」
そういうなりパピヨンは黒いスーツのとある一か所に手を突っ込んだ。
腰のあたりだった。両足が骨盤によって合流するデルタ地帯だった。そこに手を突っ込み当たり前のようにガサゴソとまさ
ぐり始めた。「ちょ。何を」。1世紀以上生きているとはいえいまだ精神は乙女のヴィクトリアだ。思わず顔を赤らめるのと同時
にA4用紙がぬらりと現出した。どう入っていたのか考えたくもない。それをパシリと振って広げるとまたも手を突っ込み今度
はボールペンを取り出した。
その先端を青紫の下でペロリと舐めたコトについてかなり様々な指摘をしたかったがどうせしても無駄だと諦め黙認する。
やがて何事か書き終えたパピヨンは筒と丸めた委任状を投げてよこした。ヴィクトリアのその後続く遠大な人生にメガトン
級の後悔が発生したのは直後だった。思わず手を伸ばしキャッチしてしまった。えもいわれぬ生暖かさが紅葉のような白い
手を這い上がってきた瞬間彼女は自分がしてしまった大失策を怖気とともに痛感した。爬虫類のように酷薄な瞳をこのとき
ばかりは情けなく半円に貶め……力なくその場にくずおれた。
「取ってしまった。取ってしまった……」
ドス黒い靄が全身から立ち上った。押しつけるように両手をつけ横ずわりするその顔は果てしなく地下を見ていた。
一方パピヨンはといえばその背後で腰に手をあて高らかに佇んでいた。心なしか腰をくねらせデルタ地帯を押し付けてきて
いるような気がしてヴィクトリアは涙した。いかに好意があれど許容できない行為もあるのだ。
「感動のあまり涙さえでないようだな」
(泣いてるわよ。いますごく泣いてるわよ。私)
後ろのパピヨンはヴィクトリアの表情が分からないらしい。気楽な調子でこう続けた。
「もしそれで効果がなければ人を使え」
使う、といわれても総角とは違い組織を持っていないヴィクトリアだ。その辺りを問うとパピヨンは「居るじゃないか」とだけ
呟き笑みを浮かべた。
「オトモダチにでも頼め。武藤の妹がそうだろう」
「あのコはただの知り合いよ。トモダチなんかじゃないわ。下の名前なんか”素”で呼んだコトなんてないし」
そこまで呟いてからヴィクトリアはふと考え込む仕草をした。はたして自分と彼女の間柄はなんなのだろう。
好きかどうかと問われればむしろ千里の顔こそ浮かぶ。取っつきやすさでは(『本物』と出会って間はないが)沙織の方が
まだマシだ。むしろまひろに対しては苦手意識や鬱陶しさ、種々様々の劣等感さえ覚えている。
にも関わらず関係性を壊そうと思ったコトは──秋水と2人しての説得を受けて以来──ない。ああいう人間だという割り
切りの下つかず離れずなのだ。
(……なのに何なのよこの不安感)
近々彼女との関係が大きく変わっていきそうな予感があった。先ほどから身の中を通り過ぎる『変化の数々』。それがやが
て未知なる激しい感情へ帰結してしまいそうな。漠然とした胸騒ぎが起こり始めた。
一度は1世紀近くいた地下を捨て寄宿舎という日常を選んだヴィクトリア。
彼女がようやく手に入れた筈の幸福な日常と決別するのは──千里に自らの正体を曝け出し、秋水たちとの対立を選ぶ
のは──もう少し先の話である。
彼女がようやく手に入れた筈の幸福な日常と決別するのは──千里に自らの正体を曝け出し、秋水たちとの対立を選ぶ
のは──もう少し先の話である。
パピヨンは、鼻を鳴らした。
「どうだろうと知ったコトじゃないね。文句があるなら自分にいえ。まったく貴様と武藤の妹の道楽に何分付き合わされたと
思っている? 時間切れだ。息抜きに振り分けるつもりだった時間はもうない。今から研究に戻らなくちゃいけない」
「……意外。時間配分とか気にするタイプだったのアナタ」
「? 何をそんな不思議そうにしているんだ? 遊びは遊び、仕事は仕事。ケジメをつける。至極当然のコトじゃないか」
ヴィクトリアはぽかんと口を開けたままパピヨンを見た。
「大丈夫なの? 熱でもあるの? アナタがまともなコトをいうなんて」
「至って真剣! そもそも演劇など研究の間の息抜きにすぎん。白い核鉄の研究こそ本命!」
そういいながら彼は窓をガラリと開け飛び立った。
「という訳だ。残りの雑事は貴様が片づけておけ!」
「ハイハイ」
重力から解放され蒼穹へ向かうパピヨンに溜息をつきながら窓を閉める。
(やってあげるわよ)
勝手な言い分に呆れながらも何故か頬は緩んでいる。雑事とはいえまひろにではなく自分に振ってくれるのは嬉しかった。
そこには”見切り”というものがないように思えた。少なくても『貴様には無理だろう』という判断はない。あればそもそもあの
頭だけはいい合理主義者は言い出すコトさえしない。
「どうだろうと知ったコトじゃないね。文句があるなら自分にいえ。まったく貴様と武藤の妹の道楽に何分付き合わされたと
思っている? 時間切れだ。息抜きに振り分けるつもりだった時間はもうない。今から研究に戻らなくちゃいけない」
「……意外。時間配分とか気にするタイプだったのアナタ」
「? 何をそんな不思議そうにしているんだ? 遊びは遊び、仕事は仕事。ケジメをつける。至極当然のコトじゃないか」
ヴィクトリアはぽかんと口を開けたままパピヨンを見た。
「大丈夫なの? 熱でもあるの? アナタがまともなコトをいうなんて」
「至って真剣! そもそも演劇など研究の間の息抜きにすぎん。白い核鉄の研究こそ本命!」
そういいながら彼は窓をガラリと開け飛び立った。
「という訳だ。残りの雑事は貴様が片づけておけ!」
「ハイハイ」
重力から解放され蒼穹へ向かうパピヨンに溜息をつきながら窓を閉める。
(やってあげるわよ)
勝手な言い分に呆れながらも何故か頬は緩んでいる。雑事とはいえまひろにではなく自分に振ってくれるのは嬉しかった。
そこには”見切り”というものがないように思えた。少なくても『貴様には無理だろう』という判断はない。あればそもそもあの
頭だけはいい合理主義者は言い出すコトさえしない。
「さて。どう言い出すべきかしら。適当にネコ被って『なんでか押し付けられちゃった』ともいえばみんな納得するでしょうけど」
一人ごちながら演劇部に向かいはじめた。
脳裏に浮かぶのは千里だった。どこか母の面影のある少女だった。
(髪。また梳いて欲しいな)
ヴィクトリアは歩いていく。待ち受ける運命を知らぬまま。