教室に小さな湖ができた。あえて名づけるならば“剛田湖”などが適当だろうか。
体液を主成分として形成された、半径二メートルほどの湖。中心部では号泣し尽くした
ジャイアンが抜け殻のようになって佇んでいる。脱水症状を起こし乾ききった手足はぴく
りともしない。
さて、始終を目撃していたドラえもん。ついに最後まで状況について行けなかった彼だ
が、今となっては唯一の生き証人だ。
「の、のび太君が……勝っちゃった」
大金星を挙げた友は、まだ立ち尽くしている。駆けつけて祝福してやらねば。
「やったじゃないか! あのジャイアンを君がやっつけたんだよ!」
ところが、なぜか返事が来ない。
「あれ……どうしたの?」
揺さぶっても反応はない。
生気を宿さぬ両目──のび太は立ったまま気を失っていた。
「のび太君っ!」
気を動転させるドラえもん。治療のためにポケットを探るが、あわてているためか、ろ
くな道具が出てこない。
「どっ、どうしよう、早くしないと!」
「落ちつくんだ、ドラえもん君」
「あっ! 君は……」
声をかけてきたのは出木杉であった。全身の骨を折られた重傷にもかかわらず、みごと
に両足だけで立っている。
「眼球運動から判断するに、野比君は気絶しているだけさ。怪我もないようだし、心配い
らないよ」
「よかった……」
ひとまずドラえもんは胸をなで下ろす。
「でも、君こそ大丈夫なの?」
「どうにかね。折られたらまずい箇所はかわしていたから、歩行に関しては問題ないよ」
「す、すごい……さすがだなぁ」
まさしく天才。たとえ敗れても、魅せるところは魅せる。
だが続いて、出木杉は予想だにしないことを口走る。
「つまり……君と野比君を葬って、ナンバーワンになるくらいの力は残してあるという
ことさ」
彼はのび太の勝利を知っていた。
再燃する野望。理不尽な腕力によって一度は消し飛ばされた炎が、出木杉の中に復活し
てしまった。
「さ、さっきは助けてくれたのに……どういうことさ!」
「状況が変われば、対応も変わるさ。さっきまでの君たちは不幸にも戦場に迷い込んでし
まった罪なき一般人──でも、今はちがう。剛田君を倒してしまった以上、君らはもうぼ
くらと同じ土俵に立ったということになる」
骨折などまるで感じさせない足取りで、ドラえもんとのび太に近づく出木杉。対するド
ラえもんも覚悟を決め、ポケットからショックガンを抜く。
「くっ……来るなら来い! のび太君はこんなになるまで戦ったんだ、ぼくだって……!」
すると、出木杉はいきなり足を止めた。
「──なんてね。冗談だよ、冗談」
「えっ!?」
「ごめんごめん。ちょっとからかってみたかったんだ」
先ほどまでの殺気が嘘のように、温和な面立ちになる出木杉。大きく息を吐き、またし
ても安堵するドラえもん。
「君も人が悪いなあ。てっきり本気で向かってくるのかと……」
「ハハハ、ぼくだって分別はわきまえているよ。でも、長居はしない方がいい」
「うん。ありがとう、出木杉君」
ドラえもんは気絶したのび太を抱えると、どこでもドアで自宅に帰っていった。
さて、ひとり残された出木杉だったが──。廊下がにわかに騒がしくなる。
「おいおい、ジャイアンと出木杉が弱ってるってよ!」
「うちのクラスがトップに立つチャンスだな……出撃ィッ!」
「二人まとめて討ち取ってくれるわッ! 天下は我がクラスが頂くッ!」
のび太の教室を取り囲む大軍勢。二大巨頭の敗北を知った他のクラスの面々だ。
「野比君……ありがとう。嫉妬さえ感じてしまうよ。これまでぼくたちは、カルシウムと
タンパク質でしか強さを考えられなかった。でも君が示してくれた心の強さから学んで、
ぼくらはもっともっと強くなれるだろう。もっともっと戦いは激しくなるだろう」
押し寄せる大軍に呼応するように、一敗地にまみれたファイターたちがよみがえる。
続々と起き上がるクラスメイト。屋上から舞い戻る骨川スネ夫、のび太によって守られ
た源静香、初めての敗北を克服せんとする剛田武。
──戦いは、終わらない。
のび太を部屋に連れ帰ったドラえもんは、大急ぎで彼をお医者さんカバンで治療する。
幸い脳に異常はなく、カバンから出された未来の湿布を頭に貼るだけでのび太は元気一
杯で目を覚ました。
「……あっ、ドラえもん!」
「もう大丈夫だよ、のび太君。家に戻ってきたから」
「ありがとう……。でも、ぼくはどうなったんだっけ……?」
「え?」
「ジャイアンに向かって飛び出したところまでは覚えてるんだけど……よく助かったなぁ。
ドラえもんが助けてくれたの?」
なんと、のび太は自らが生んだ劇的な決着をすっかり忘れていた。元々夢遊病に近い状
態だったのかもしれない。
ドラえもんの中に二択が出現する。話すべきか、否か。
結論はまもなく出た。
「いや、ぼくはなんにもしてないよ。ジャイアンは、君を倒して満足したのか教室を出て
行っちゃったんだ」
「なあんだ、ぼくがムチャクチャ強くなっててやっつけたんじゃないのか」
「あるわけないでしょ、そんな夢みたいな話」
「だね、アハハハ」
なにも知らず無邪気に笑うのび太に、心の中であやまるドラえもん。
真実を打ち明けなかった理由はふたつ。ひとつは、話しても結局はのび太を調子に乗らせ
るだけだと判断したためだ。ヒーローに祭り上げるよりも、もしもボックスを軽はずみに使
うとどれだけ危険であるかを教訓とした方が今後のためになる。友人であり教育係でもある
彼ならではの決断であった。
そして、もうひとつは──。
「お待たせしました。メンテナンスが終了した道具をお届けに参りました」
石ころ帽子に透明マントという念の入れようで、どうにか夜まで生き延びたのび太たち。
タイムワープで未来へと戻る業者を見送ると、さっそくドラえもんはタイムふろしきでも
しもボックスを修理した。
「じゃあ、のび太君」
ドラえもんに促され、のび太は約一日ぶりに受話器を手に取った。
「なにもかも元に戻して!」
ドラえもんの手で、四次元ポケットに吸い込まれるもしもボックス。
一方のび太はまだ不安が消えていない様子だ。
「これで……元通りになったんだよね?」
「うん。なにもかも戻ったはずだよ」
とはいっても、なかなか実感はわいてこない。実はタイムふろしきでも直らなかったの
ではないか、とマイナス思考ばかりが浮かび上がる。
すると、タイミングよく一階から呼びかける声があった。
「のびちゃん、ドラちゃん。ご飯よ~!」
ドキッとするのび太。
昨夜の食卓が嫌でも頭に上ってくる。もしまた、テーブルに注射器や生肉が並んでいた
ら、ボディビルダーのような両親が居座っていたら、どうしよう。
だが、心配は無用であった。
おそるおそる入った台所には、およそ筋肉とは無縁ないつもの父と母が座っていた。夕
飯も、どれもこれも普通のメニューばかり。
感動のあまり、とめどなく涙があふれてくる。
「ママが細いっ! パパも細いっ!!」
いきなり泣きながら意味不明な叫びを上げる息子に、すっかり困惑する二人。
「あらやだ、なにいってるのよ」
密かに実行していたダイエットの成果が出たのかしら、と内心でガッツポーズする玉子。
「の、のび太、いったいどうしたんだ」
なにがなにやらチンプンカンプンなのび助。
奇行は止まらない。今度は笑いながら、
「軽いっ! 軽いよっ!」
と、のび太は椅子を天井高くまで持ち上げてみせた。
この後、ありふれたご飯やおかずを実に美味そうに平らげたことはいうまでもない。
そんなのび太を、ドラえもんは半ば呆れながら見つめていた。
だが、世界が元通りになってしまった今、彼だけは知っている。本人ですら知らない野
比のび太の最強を知っている。親友のホットな秘密を独り占め。わざわざ二十世紀まで来
ているのだ、これぐらいのことをしてもバチは当たるまい。
これが、もうひとつの理由である。
お わ り
1
体液を主成分として形成された、半径二メートルほどの湖。中心部では号泣し尽くした
ジャイアンが抜け殻のようになって佇んでいる。脱水症状を起こし乾ききった手足はぴく
りともしない。
さて、始終を目撃していたドラえもん。ついに最後まで状況について行けなかった彼だ
が、今となっては唯一の生き証人だ。
「の、のび太君が……勝っちゃった」
大金星を挙げた友は、まだ立ち尽くしている。駆けつけて祝福してやらねば。
「やったじゃないか! あのジャイアンを君がやっつけたんだよ!」
ところが、なぜか返事が来ない。
「あれ……どうしたの?」
揺さぶっても反応はない。
生気を宿さぬ両目──のび太は立ったまま気を失っていた。
「のび太君っ!」
気を動転させるドラえもん。治療のためにポケットを探るが、あわてているためか、ろ
くな道具が出てこない。
「どっ、どうしよう、早くしないと!」
「落ちつくんだ、ドラえもん君」
「あっ! 君は……」
声をかけてきたのは出木杉であった。全身の骨を折られた重傷にもかかわらず、みごと
に両足だけで立っている。
「眼球運動から判断するに、野比君は気絶しているだけさ。怪我もないようだし、心配い
らないよ」
「よかった……」
ひとまずドラえもんは胸をなで下ろす。
「でも、君こそ大丈夫なの?」
「どうにかね。折られたらまずい箇所はかわしていたから、歩行に関しては問題ないよ」
「す、すごい……さすがだなぁ」
まさしく天才。たとえ敗れても、魅せるところは魅せる。
だが続いて、出木杉は予想だにしないことを口走る。
「つまり……君と野比君を葬って、ナンバーワンになるくらいの力は残してあるという
ことさ」
彼はのび太の勝利を知っていた。
再燃する野望。理不尽な腕力によって一度は消し飛ばされた炎が、出木杉の中に復活し
てしまった。
「さ、さっきは助けてくれたのに……どういうことさ!」
「状況が変われば、対応も変わるさ。さっきまでの君たちは不幸にも戦場に迷い込んでし
まった罪なき一般人──でも、今はちがう。剛田君を倒してしまった以上、君らはもうぼ
くらと同じ土俵に立ったということになる」
骨折などまるで感じさせない足取りで、ドラえもんとのび太に近づく出木杉。対するド
ラえもんも覚悟を決め、ポケットからショックガンを抜く。
「くっ……来るなら来い! のび太君はこんなになるまで戦ったんだ、ぼくだって……!」
すると、出木杉はいきなり足を止めた。
「──なんてね。冗談だよ、冗談」
「えっ!?」
「ごめんごめん。ちょっとからかってみたかったんだ」
先ほどまでの殺気が嘘のように、温和な面立ちになる出木杉。大きく息を吐き、またし
ても安堵するドラえもん。
「君も人が悪いなあ。てっきり本気で向かってくるのかと……」
「ハハハ、ぼくだって分別はわきまえているよ。でも、長居はしない方がいい」
「うん。ありがとう、出木杉君」
ドラえもんは気絶したのび太を抱えると、どこでもドアで自宅に帰っていった。
さて、ひとり残された出木杉だったが──。廊下がにわかに騒がしくなる。
「おいおい、ジャイアンと出木杉が弱ってるってよ!」
「うちのクラスがトップに立つチャンスだな……出撃ィッ!」
「二人まとめて討ち取ってくれるわッ! 天下は我がクラスが頂くッ!」
のび太の教室を取り囲む大軍勢。二大巨頭の敗北を知った他のクラスの面々だ。
「野比君……ありがとう。嫉妬さえ感じてしまうよ。これまでぼくたちは、カルシウムと
タンパク質でしか強さを考えられなかった。でも君が示してくれた心の強さから学んで、
ぼくらはもっともっと強くなれるだろう。もっともっと戦いは激しくなるだろう」
押し寄せる大軍に呼応するように、一敗地にまみれたファイターたちがよみがえる。
続々と起き上がるクラスメイト。屋上から舞い戻る骨川スネ夫、のび太によって守られ
た源静香、初めての敗北を克服せんとする剛田武。
──戦いは、終わらない。
のび太を部屋に連れ帰ったドラえもんは、大急ぎで彼をお医者さんカバンで治療する。
幸い脳に異常はなく、カバンから出された未来の湿布を頭に貼るだけでのび太は元気一
杯で目を覚ました。
「……あっ、ドラえもん!」
「もう大丈夫だよ、のび太君。家に戻ってきたから」
「ありがとう……。でも、ぼくはどうなったんだっけ……?」
「え?」
「ジャイアンに向かって飛び出したところまでは覚えてるんだけど……よく助かったなぁ。
ドラえもんが助けてくれたの?」
なんと、のび太は自らが生んだ劇的な決着をすっかり忘れていた。元々夢遊病に近い状
態だったのかもしれない。
ドラえもんの中に二択が出現する。話すべきか、否か。
結論はまもなく出た。
「いや、ぼくはなんにもしてないよ。ジャイアンは、君を倒して満足したのか教室を出て
行っちゃったんだ」
「なあんだ、ぼくがムチャクチャ強くなっててやっつけたんじゃないのか」
「あるわけないでしょ、そんな夢みたいな話」
「だね、アハハハ」
なにも知らず無邪気に笑うのび太に、心の中であやまるドラえもん。
真実を打ち明けなかった理由はふたつ。ひとつは、話しても結局はのび太を調子に乗らせ
るだけだと判断したためだ。ヒーローに祭り上げるよりも、もしもボックスを軽はずみに使
うとどれだけ危険であるかを教訓とした方が今後のためになる。友人であり教育係でもある
彼ならではの決断であった。
そして、もうひとつは──。
「お待たせしました。メンテナンスが終了した道具をお届けに参りました」
石ころ帽子に透明マントという念の入れようで、どうにか夜まで生き延びたのび太たち。
タイムワープで未来へと戻る業者を見送ると、さっそくドラえもんはタイムふろしきでも
しもボックスを修理した。
「じゃあ、のび太君」
ドラえもんに促され、のび太は約一日ぶりに受話器を手に取った。
「なにもかも元に戻して!」
ドラえもんの手で、四次元ポケットに吸い込まれるもしもボックス。
一方のび太はまだ不安が消えていない様子だ。
「これで……元通りになったんだよね?」
「うん。なにもかも戻ったはずだよ」
とはいっても、なかなか実感はわいてこない。実はタイムふろしきでも直らなかったの
ではないか、とマイナス思考ばかりが浮かび上がる。
すると、タイミングよく一階から呼びかける声があった。
「のびちゃん、ドラちゃん。ご飯よ~!」
ドキッとするのび太。
昨夜の食卓が嫌でも頭に上ってくる。もしまた、テーブルに注射器や生肉が並んでいた
ら、ボディビルダーのような両親が居座っていたら、どうしよう。
だが、心配は無用であった。
おそるおそる入った台所には、およそ筋肉とは無縁ないつもの父と母が座っていた。夕
飯も、どれもこれも普通のメニューばかり。
感動のあまり、とめどなく涙があふれてくる。
「ママが細いっ! パパも細いっ!!」
いきなり泣きながら意味不明な叫びを上げる息子に、すっかり困惑する二人。
「あらやだ、なにいってるのよ」
密かに実行していたダイエットの成果が出たのかしら、と内心でガッツポーズする玉子。
「の、のび太、いったいどうしたんだ」
なにがなにやらチンプンカンプンなのび助。
奇行は止まらない。今度は笑いながら、
「軽いっ! 軽いよっ!」
と、のび太は椅子を天井高くまで持ち上げてみせた。
この後、ありふれたご飯やおかずを実に美味そうに平らげたことはいうまでもない。
そんなのび太を、ドラえもんは半ば呆れながら見つめていた。
だが、世界が元通りになってしまった今、彼だけは知っている。本人ですら知らない野
比のび太の最強を知っている。親友のホットな秘密を独り占め。わざわざ二十世紀まで来
ているのだ、これぐらいのことをしてもバチは当たるまい。
これが、もうひとつの理由である。
お わ り
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