【9月6日】
闇の中に無数の根が這っていた。太いのもあれば細いのもある。それらは雑然と曲がりくねり、或いは絡まり合いながら
闇に向かって這っている。根は多いが辺り一面埋めつくしているというほどでもなく、1つ1つの隙間から白い地面が見えた。
厳密にいえば地面は何かの鉱物を切磋したものらしい。床。どこからか差し込む紫の光を淡く跳ね返しながら闇と根の間
をくぐり抜け、果てしなく広がっている。
根が生えているのは人口建造物の内部のようだった。
不思議なことに”根”の密集地帯の近くには必ずといっていいほど『機械』があった。巨大なラジエーター型の機械もあれ
ば机付きのパソコンもある。一番多いのはガラス張りの円筒とシリンダーとパイプを雑然と組み合わせた名称不明の機械
で、それは薄暗い部屋の中で時おり蒸気を吹いてもいる。丸太ほどある丸いガラスケースの中では色のついた液体──
赤、青、緑。いずれも強烈な色彩だ。闇の中でさえ際立つほどの──が静かに泡を立てている。
煮えたぎっているのか、或いは何かの気体を流し込まれているのか。とにかく機械によって色の違う液体たちは闇の中で
静かに”あぶく”を立てている。泡立つ響きは加熱音ともポンプ音とも取れる駆動音と混じり合い、暗い空間に嫋々(じょうじょう)
たる余韻を与えてもいる。地面を這う太い根をよく見ると透明で、中では色のついた液体がさらさらと流れている。どうやら各
種様々の機械にそれを提供しているらしい。
つまり”根”は、パイプだった。
そしてその中の一本──闇の中でひたすら曲がりくねるそれ──を追っていくと、もしくは床を淡く照らす光を追っていくと
ひときわ巨大なフラスコに行きあたった。
部屋の隅にあるそれは大人7人が横に全開した手と手を取ってようやく包囲できるほど巨大だった蕪や大蒜(にんにく)の
ように上が尖り下が太い。さらに到る所から”根”に似たパイプが生え(いや、むしろパイプたちが望んで接続しているのか
も知れなかった。茎が最終的に果実を育むように)、てっぺんには電球のソケットに似た重厚な接続端子さえついていた。更
に底からは紫ばんだ光が立ち上っている。どうやらライトアップ用らしい。闇に包まれた部屋の中でフラスコの周りだけが妖し
げなモーブの光にくっきりと炙り出されていた。。
しかし特筆すべきはその巨大なフラスコではない。中にいる人影である。
フラスコの外装は多分にもれずガラス系統の透明材質だが、そこから透けて見える人影は奇妙な状況に置かれていた。
椅子に腰掛け、足を組み、腰のあたりで本を広げている。それ自体は「フラスコの中で」という特殊性を差し引けば概ね
普通だ。
しかし。
フラスコ内部は、液体に満たされていた。人影はゆらゆらとたゆたい、泡沫と共にいた。
滾々(こんこん)と循環する──パイプがひっきりなしに送り込み、または排水しているらしい──液体の中で人影は悠然
と本を読んでいた。
にも関わらず人影にさほど苦しむ様子はない。死んでいるのか? ホルマリン漬けのごとく……。
いや、人影は確かに生きていた。恐ろしく濁った瞳。本に落ちるそれはゆっくりとだが確かに上下に動いている。
機械人形でない証拠に瞳の奥には確かな理性の光が灯り、時折ふと考え込むような仕草さえ取り、やがて得心がいった
という風に頷いては爪の長い指でページをめくっていく。
服も奇妙。中世のおとぎ話に出てくる貴族か王子が舞踏会に着ていくようなスーツ。
傍らには本を山積みにした小机さえ置いてあり、彼にとってこの異様な光景がいかに日常的一幕に過ぎないかを雄弁に
物語っていた。
人影は男らしかった。らしい、というのは素顔が見えないせいである。人影の顔には毒々しくも美しい蝶々の覆面が止まり、
その素顔をまったく永遠の謎の物としていた。ただし彼の細く引き締まった長身はまぎれもなく男性の物であった。少なくても
女性らしい丸みというのは健康的な筋肉もろともどこかへ削ぎ落ちてしまっているようだった。羸馬(るいば)がごとき窶れ
枯れ果てた病的な体を黒い情熱一つでようやく現世に留めている、そんな男だった。
彼の通称を、パピヨンという。
本名は蝶野攻爵。不治の病に冒され死から逃れるため錬金術──不老不死の法──に手を出した男である。
やがて彼は様々な経緯の末、人間をやめ、武藤カズキという少年に格段の経緯を払うようになった。
この点、元信奉者として剣を交え、その果てで敬意と罪悪を覚えるようになった秋水と似ていなくもない。
もっとも、良くも悪くも生真面目で実直な秋水とは真逆の道を行ってもいるが。
闇に向かって這っている。根は多いが辺り一面埋めつくしているというほどでもなく、1つ1つの隙間から白い地面が見えた。
厳密にいえば地面は何かの鉱物を切磋したものらしい。床。どこからか差し込む紫の光を淡く跳ね返しながら闇と根の間
をくぐり抜け、果てしなく広がっている。
根が生えているのは人口建造物の内部のようだった。
不思議なことに”根”の密集地帯の近くには必ずといっていいほど『機械』があった。巨大なラジエーター型の機械もあれ
ば机付きのパソコンもある。一番多いのはガラス張りの円筒とシリンダーとパイプを雑然と組み合わせた名称不明の機械
で、それは薄暗い部屋の中で時おり蒸気を吹いてもいる。丸太ほどある丸いガラスケースの中では色のついた液体──
赤、青、緑。いずれも強烈な色彩だ。闇の中でさえ際立つほどの──が静かに泡を立てている。
煮えたぎっているのか、或いは何かの気体を流し込まれているのか。とにかく機械によって色の違う液体たちは闇の中で
静かに”あぶく”を立てている。泡立つ響きは加熱音ともポンプ音とも取れる駆動音と混じり合い、暗い空間に嫋々(じょうじょう)
たる余韻を与えてもいる。地面を這う太い根をよく見ると透明で、中では色のついた液体がさらさらと流れている。どうやら各
種様々の機械にそれを提供しているらしい。
つまり”根”は、パイプだった。
そしてその中の一本──闇の中でひたすら曲がりくねるそれ──を追っていくと、もしくは床を淡く照らす光を追っていくと
ひときわ巨大なフラスコに行きあたった。
部屋の隅にあるそれは大人7人が横に全開した手と手を取ってようやく包囲できるほど巨大だった蕪や大蒜(にんにく)の
ように上が尖り下が太い。さらに到る所から”根”に似たパイプが生え(いや、むしろパイプたちが望んで接続しているのか
も知れなかった。茎が最終的に果実を育むように)、てっぺんには電球のソケットに似た重厚な接続端子さえついていた。更
に底からは紫ばんだ光が立ち上っている。どうやらライトアップ用らしい。闇に包まれた部屋の中でフラスコの周りだけが妖し
げなモーブの光にくっきりと炙り出されていた。。
しかし特筆すべきはその巨大なフラスコではない。中にいる人影である。
フラスコの外装は多分にもれずガラス系統の透明材質だが、そこから透けて見える人影は奇妙な状況に置かれていた。
椅子に腰掛け、足を組み、腰のあたりで本を広げている。それ自体は「フラスコの中で」という特殊性を差し引けば概ね
普通だ。
しかし。
フラスコ内部は、液体に満たされていた。人影はゆらゆらとたゆたい、泡沫と共にいた。
滾々(こんこん)と循環する──パイプがひっきりなしに送り込み、または排水しているらしい──液体の中で人影は悠然
と本を読んでいた。
にも関わらず人影にさほど苦しむ様子はない。死んでいるのか? ホルマリン漬けのごとく……。
いや、人影は確かに生きていた。恐ろしく濁った瞳。本に落ちるそれはゆっくりとだが確かに上下に動いている。
機械人形でない証拠に瞳の奥には確かな理性の光が灯り、時折ふと考え込むような仕草さえ取り、やがて得心がいった
という風に頷いては爪の長い指でページをめくっていく。
服も奇妙。中世のおとぎ話に出てくる貴族か王子が舞踏会に着ていくようなスーツ。
傍らには本を山積みにした小机さえ置いてあり、彼にとってこの異様な光景がいかに日常的一幕に過ぎないかを雄弁に
物語っていた。
人影は男らしかった。らしい、というのは素顔が見えないせいである。人影の顔には毒々しくも美しい蝶々の覆面が止まり、
その素顔をまったく永遠の謎の物としていた。ただし彼の細く引き締まった長身はまぎれもなく男性の物であった。少なくても
女性らしい丸みというのは健康的な筋肉もろともどこかへ削ぎ落ちてしまっているようだった。羸馬(るいば)がごとき窶れ
枯れ果てた病的な体を黒い情熱一つでようやく現世に留めている、そんな男だった。
彼の通称を、パピヨンという。
本名は蝶野攻爵。不治の病に冒され死から逃れるため錬金術──不老不死の法──に手を出した男である。
やがて彼は様々な経緯の末、人間をやめ、武藤カズキという少年に格段の経緯を払うようになった。
この点、元信奉者として剣を交え、その果てで敬意と罪悪を覚えるようになった秋水と似ていなくもない。
もっとも、良くも悪くも生真面目で実直な秋水とは真逆の道を行ってもいるが。
【9月6日】
発端は9月6日の夜というから、戦士一同のあれやこれやよりかなり前の話になる。
秋水が病室でまひろと空気の読み方を模索した(9月7日)よりも、剛太が桜花に呼ばれたメイドカフェで仮面の戦士たち
と共闘したり斗貴子が殺し屋一同と残党を殲滅した日(9月10日)よりも、前。
秋水が病室でまひろと空気の読み方を模索した(9月7日)よりも、剛太が桜花に呼ばれたメイドカフェで仮面の戦士たち
と共闘したり斗貴子が殺し屋一同と残党を殲滅した日(9月10日)よりも、前。
その日彼──パピヨンはいつものごとく塒(ねぐら)たる研究室で本を読んでいた。
読書は人間だった頃からの慣習である。かつて不治の病に冒され、自ら命を救うべく錬金術に手を出した頃から──自宅
の蔵で曾祖父の残した研究資料を見つけた時から──ヒマさえあれば本を読んでいる。
ちなみにパピヨンが入っているフラスコは「修復フラスコ」といい、ホムンクルス以上の存在を修復する何とも都合のいい
液体が満ちている。中にいるにも関わらず呼吸ができるのもまたこのテの液体の常であろう。
それはさておき、研究室の空気はひどく淀んでいた。
カビ臭く、埃が立ち込め、機械達が無遠慮にぶっ放す正体不明の蒸気が混じり込み、薬品の刺激臭さえ満ちている。
ラジエーターに似た機械もまた黒こげた微細な粒子を絶え間なく巻き上げており、目下研究室の空気は汚染の一途を辿っ
ているとしかいいようがない。とても深刻な状況だ。このままいけばフラスコ周りで埃に立つ無数の紫の帯がスモッグに転
嫁する日もそう遠くない。
これでパピヨンの読む本が「大気汚染改善法」ならばまだ救いもあるが、現実とは常に救いのない方へと傾くものだ。
「核鉄~その起源と用法について~」。邦訳すればそんなタイトルの本からパピヨンはまったく目を離さない。
そして研究室ではカビが増殖を続け埃が舞い、時折機械どもがぶっ放す有害そうな蒸気が苦い匂いの黒粒子と混じって
いく……。空気はそろそろ活火山付近並の有毒性を帯び始めていた。
そもそも部屋に換気装置というものはなかった。
ファンはおろか窓の一つさえ、この部屋には存在していない。もしかすると研究室は地下にあるのかも知れない。
とにかく。
パピヨンの周囲360度あらゆる先に窓はない。壁という壁が本棚に覆い隠され、その本棚ときたら隅々までぶ厚い古書
に埋め尽くされている。金箔で押された洒脱な題名がすっかり黒ずんでる奴もあれば緑の装丁にすっかりシミのういた奴
もある。ほぼほとんどの物にバーコードはなく、20~21世紀の流通形態で仕入れた物でない事は明白だった。まるでそれ
を示すかのように羊皮紙を板で挟んだだけの物が本棚の所々を彩っていた。ひょっとしたら昭和どころか大正明治、或い
は幕末以前に海外から買い付けたのかも知れない。本の題名のほとんどは英語かドイツ語で、日本語で記された物は極
端に少なかった。これら3つ以外にも雑多さまざまの言語がひしめきあい、本棚は正に古今東西万国共通、載籍浩瀚(さい
せきこうかん)の様相を呈していた。
パピヨンが読んでいたぶ厚い本──表紙と裏表紙に銀箔付きの茨のレリーフが施された、なかなか豪華な──もその一
冊である。図書館顔負けの神経質で高さ厚さ巻数順中に揃えられた古書たちの中の一冊。それを「それなりに面白いじゃ
あないか。特別に覚えておいてやる」とでも言いたげな、集中力と好奇心充足と些かの上から目線が入り混じった満足度5
8/100位の表情で読むパピヨンは──…やがてぽつりと呟いた。
「御苦労」
フラスコ越しにくぐもった声が薄暗い部屋に木霊した。
誰にいっているか分からないが、例え誰が相手でも心底ねぎらうつもりはないらしい。「御苦労」。事務的で高慢な声を
一発漏らしたらきり彼は活字世界へ再没入した。
「あなた結局最後まで手伝わなかったわね」
ぼんやりとした人影がパピヨンの遥か向こうで肩を竦めた。もしかしたら部屋の空気のあまりの汚さに呆れているのかも
知れない。
「当然。肉体労働は昔からキライなんでね」
「ああそう」
これもまた事務的で高慢な声だ。いや、無愛想と棘棘しい怒りを孕んでいる分パピヨンよりひどい。耳をそばだてよく
聴けば少女らしい甘さと可憐さを秘めた愛らしい声なのだが、その良さは感情の引き攣りでだいぶ減免されているらしい。
パピヨンのはるか向こうで扉が閉じる音がした。続いてやや乱暴な足音が近づいてくる。黒い靴下に覆われた細い脚は
時おり床に広がるパイプに躓きかけ、その度いよいよ苛立ちを高めているようだった。「片付けなさいよ」。聴かせるため
に吐いている独り言──女性がよくやるアレだ。応じれば「何?」といよいよ喧嘩腰の応対が飛び出し、無視しつづければ
これまた「聴かせるため」の苛立たしい溜息が飛び出す──が足音とともに近付いてくるが、しかしパピヨンは取り立てて
気にする様子もない。ただひたすら本を読み続けている。心底どうでもいい。そんな様子だった。
ご多分に漏れず、溜息が洩れた。聴かせるための。「私の文句を無視する訳ね。アナタそれでも男なの?」そういう糾弾
の混じった溜息。しかし糾弾を以て男性諸氏の情けなさを抉りだす溜息。どこかに勝利宣言を帯びた(ただし物事の根本
的解決は何ら進んでいない、感情的なだけの)溜息である。
読書は人間だった頃からの慣習である。かつて不治の病に冒され、自ら命を救うべく錬金術に手を出した頃から──自宅
の蔵で曾祖父の残した研究資料を見つけた時から──ヒマさえあれば本を読んでいる。
ちなみにパピヨンが入っているフラスコは「修復フラスコ」といい、ホムンクルス以上の存在を修復する何とも都合のいい
液体が満ちている。中にいるにも関わらず呼吸ができるのもまたこのテの液体の常であろう。
それはさておき、研究室の空気はひどく淀んでいた。
カビ臭く、埃が立ち込め、機械達が無遠慮にぶっ放す正体不明の蒸気が混じり込み、薬品の刺激臭さえ満ちている。
ラジエーターに似た機械もまた黒こげた微細な粒子を絶え間なく巻き上げており、目下研究室の空気は汚染の一途を辿っ
ているとしかいいようがない。とても深刻な状況だ。このままいけばフラスコ周りで埃に立つ無数の紫の帯がスモッグに転
嫁する日もそう遠くない。
これでパピヨンの読む本が「大気汚染改善法」ならばまだ救いもあるが、現実とは常に救いのない方へと傾くものだ。
「核鉄~その起源と用法について~」。邦訳すればそんなタイトルの本からパピヨンはまったく目を離さない。
そして研究室ではカビが増殖を続け埃が舞い、時折機械どもがぶっ放す有害そうな蒸気が苦い匂いの黒粒子と混じって
いく……。空気はそろそろ活火山付近並の有毒性を帯び始めていた。
そもそも部屋に換気装置というものはなかった。
ファンはおろか窓の一つさえ、この部屋には存在していない。もしかすると研究室は地下にあるのかも知れない。
とにかく。
パピヨンの周囲360度あらゆる先に窓はない。壁という壁が本棚に覆い隠され、その本棚ときたら隅々までぶ厚い古書
に埋め尽くされている。金箔で押された洒脱な題名がすっかり黒ずんでる奴もあれば緑の装丁にすっかりシミのういた奴
もある。ほぼほとんどの物にバーコードはなく、20~21世紀の流通形態で仕入れた物でない事は明白だった。まるでそれ
を示すかのように羊皮紙を板で挟んだだけの物が本棚の所々を彩っていた。ひょっとしたら昭和どころか大正明治、或い
は幕末以前に海外から買い付けたのかも知れない。本の題名のほとんどは英語かドイツ語で、日本語で記された物は極
端に少なかった。これら3つ以外にも雑多さまざまの言語がひしめきあい、本棚は正に古今東西万国共通、載籍浩瀚(さい
せきこうかん)の様相を呈していた。
パピヨンが読んでいたぶ厚い本──表紙と裏表紙に銀箔付きの茨のレリーフが施された、なかなか豪華な──もその一
冊である。図書館顔負けの神経質で高さ厚さ巻数順中に揃えられた古書たちの中の一冊。それを「それなりに面白いじゃ
あないか。特別に覚えておいてやる」とでも言いたげな、集中力と好奇心充足と些かの上から目線が入り混じった満足度5
8/100位の表情で読むパピヨンは──…やがてぽつりと呟いた。
「御苦労」
フラスコ越しにくぐもった声が薄暗い部屋に木霊した。
誰にいっているか分からないが、例え誰が相手でも心底ねぎらうつもりはないらしい。「御苦労」。事務的で高慢な声を
一発漏らしたらきり彼は活字世界へ再没入した。
「あなた結局最後まで手伝わなかったわね」
ぼんやりとした人影がパピヨンの遥か向こうで肩を竦めた。もしかしたら部屋の空気のあまりの汚さに呆れているのかも
知れない。
「当然。肉体労働は昔からキライなんでね」
「ああそう」
これもまた事務的で高慢な声だ。いや、無愛想と棘棘しい怒りを孕んでいる分パピヨンよりひどい。耳をそばだてよく
聴けば少女らしい甘さと可憐さを秘めた愛らしい声なのだが、その良さは感情の引き攣りでだいぶ減免されているらしい。
パピヨンのはるか向こうで扉が閉じる音がした。続いてやや乱暴な足音が近づいてくる。黒い靴下に覆われた細い脚は
時おり床に広がるパイプに躓きかけ、その度いよいよ苛立ちを高めているようだった。「片付けなさいよ」。聴かせるため
に吐いている独り言──女性がよくやるアレだ。応じれば「何?」といよいよ喧嘩腰の応対が飛び出し、無視しつづければ
これまた「聴かせるため」の苛立たしい溜息が飛び出す──が足音とともに近付いてくるが、しかしパピヨンは取り立てて
気にする様子もない。ただひたすら本を読み続けている。心底どうでもいい。そんな様子だった。
ご多分に漏れず、溜息が洩れた。聴かせるための。「私の文句を無視する訳ね。アナタそれでも男なの?」そういう糾弾
の混じった溜息。しかし糾弾を以て男性諸氏の情けなさを抉りだす溜息。どこかに勝利宣言を帯びた(ただし物事の根本
的解決は何ら進んでいない、感情的なだけの)溜息である。
やがてフラスコの前についた影──座っているパピヨンとそう変わらない、小柄な──が棘のある声を漏らした。
「私は横浜からここまで必要な機材を運んで来たのよ」
「貴様の所有物だろ。貴様が持ってくるのは当然さ」
「1つだけじゃなかったのよ。どれだけあったと思うの?」
「フン。途中から”例の避難壕の応用で大分楽に運べるようになった”と楽しそうに報告していたのはどこの誰だ?」
「なっ……」
「確か床を一旦傾け、地下に滑らせた上で内装を上へとせり上げる……だったな。大発見じゃないか。貴様自身、らしくも
なく目を輝かせていたじゃないか」
「輝かせちゃ悪い」
人影の額に青筋が浮かんだ。怒りのオーラも巻き起こる。
「別に。だからやらせてやったのさ。そもそも100年来の引きこもりにはドロ臭い肉体労働がお似合いだ」
「…………」
戯画的な怒りのマークが1つ、人影の右即頭部に追加された。
「そもそもあの作業を楽しんでおきながらこの俺にまで手伝わさんとするのは傲慢も甚だしい」
大気が凍る音がした。同時に十字路に似た憤怒の烙印が人影の頭や顔のそこかしこに押されていく。音も烙印もパピヨ
ンが喋るたび増えていく。人影が彼の言葉に耐えがたい不快感を覚えているのは明らかだった。
「だいたい、貴様の母の手持ちの機材をこちらへと合流させ『例の研究』を進めたいと持ちかけたのは貴様の方だろ」
超特大の烙印が人影の背後いっぱいに押された。人影の両眉がビキリと跳ねあがり、右頬は激しい怒りのもたらす痙攣
に打ち震えているいるようだった。
「ならば貴様がこの俺のための身を砕くのは当然のコト。これからもせいぜい従え。俺の為だけに動け」
それきりパピヨンは会話を一方的に打ち切り、あらゆるリソースを本にのみ向け始めた。
(イヤな奴。道理でママが妙に冷たくあしらっていた訳ね)
修復フラスコの前で声の主──ヴィクトリア=パワード──はただでさえ冷たい瞳を更に冷たく細めた。
輝くような金髪の少女である。長い髪を緑のヘアバンチ(筒状のヘアアクセサリ)で幾房に分けているところはいかにも
人形のような愛らしさを振りまいているが、表情や仕草にいちいち刺々しさがあるのが珠に瑕である。日の光など知らない
ような白い肌。欧米人らしくすらりと通った鼻梁。113年以上の生涯をまるで伺わせぬ少女らしい細やかな肢体。どれ1つ
とっても銀成学園生徒の歓心を買うに十分である。(特に武藤まひろなどは積極的にスキンシップを図る)
そんなヴィクトリアの唇はやや血色が褪せてはいるが瑞々しく、今は柔らかげにきゅっと結ばれている。
不機嫌の兆候だ。
心にゆとりのある大人──たとえば寄宿舎管理人かつ戦士長の防人衛や、ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズのリーダ
ーたる総角主税──が見れば「ああ、ぐずってるぐずってる」と苦笑混じりに見逃せるほど他愛もない怒りだが、本人(ヴィク
トリア)は子供が全力で駄々をこね始める1分前のように我慢ができないでいる。
ゆらいヴィクトリアは気難しく、短気で、そして狭量の気配がある。もっとも秋水やまひろの説得で寄宿舎へ戻った時から
頑なな心は少しずつ開放へと傾いているが、しかし100年の地下生活の鬱屈とそれが齎した屈折はそう簡単に治る物で
はない。
やっぱり、ホムンクルス(錬金術の産物)はキラい。
そんな思いがまず去来し、「ホムンクルスだからこの男は嫌な奴だ」というすり替えが頭の中にやってきた。
次に秋水やまひろといった連中の顔が浮かび、彼らとそれなりの関係を築けているのは彼らが人間(錬金術の産物では
ない)だからという考えも浮かんだ。
もっとも突き詰めればそれは自己弁護でもある。
考えてもみよ。そもそも秋水にしろまひろにしろ、ヴィクトリアの抱く第一印象は全くもって良くなかった。それが今日(こん
にち)、やや良好な協力関係を締結できているのは彼らと交流を持ち、ヴィクトリアが彼らを受け入れる決意をしたからであ
ろう。
理論的にいえば、である。「秋水たちにした”それ”」をやればパピヨンとも良好な関係を築けるかも知れない。にも関わら
ずそれを放棄しているのはパピヨンに対する腹立たしさを年上らしく、寛容に──ヴィクトリアはパピヨンより約1世紀長く
生きている──流せていないせいだ。
単に流したくないだけともいえる。
そして「パピヨンとは仲良くしたくない」という子供じみた怒りを「彼がホムンクルスだから仲良くする必要はない」という訳の
わからぬ感情論にすげ替え、秋水・まひろとの成功例を「彼らが人間だから上手くいった」という二重基準で棚上げ(本当は
誰が相手でも同じコトができるにも関わらず、”腹が立つからやりたくない”で放棄)している。
という自分の微細な感情の流れには薄々気付いてもいるヴィクトリアだが、ああしかしパピヨンという傲慢の塊と直接
交渉する事の腹立たしさ。初対面という訳ではない。かつてニュートンアップルという女学院の礼拝堂や地下で接触したコ
トもあるがその時は「押しかけてきた大勢の中の1人」として軽く応対したにすぎない。(話が佳境に入る前にヴィクトリアが
退室したというのもある)。
だがその時はまさかここまで腹の立つ男だとは思いも寄らなかった。
少なくても横浜から埼玉まで何往復もさせたくさんの重い機材を運ばせるような男だとは……。
(ちょっとオシャレだからって偉そうに)
無言で本を読むパピヨンの全身をねめつける。毒々しい色の蝶々覆面も袖にヒラヒラがついて胸がはだけた黒スーツも
まったくヴィクトリアにとっては可憐で麗しい格好だった。
初めて見た時思った。天使、だと。
それは母もまったく同じで、かつての女学院地下での質疑応答の後、母子二人して「オシャレだったわね」と頷き合って軽
く笑ったコトもある。(母は脳みそだけの存在だからよく分からないが雰囲気は笑っていた)。だが嫉妬憤怒の炎は相手に
圧倒的な美点があればあるほどそれを地上へ叩き落とさんと激しく燃えあがる物である。
「もういいわ。今日は疲れたの。もう帰る」
踵を返すが背後から声はかからない。それがまた、腹立たしい。
振り返りがてらまだ幼さの残る横眼できっと睨みつける。
(止めなさいよ)
自分は共同研究者なのだ。持ってきた機材の使い方だって自分の説明がなければ決して分からない。第一横浜から苦
労して運んできた機材たちはまだ部屋の外に置かれている。設置さえまだしていない。レイアウトの相談や地面をのたくる
鬱陶しいパイプどもとの兼ね合い(または接続の)打ち合わせもした覚えがない。
(やるべきコトはまだ山積みじゃない)
にも関わらずパピヨンときたら本に没頭し、大事なコトを何一つ話そうとしない。彼のやる気さえヴィクトリアは疑った。
だいたい引きとめられないのは屈辱だ。
「私は横浜からここまで必要な機材を運んで来たのよ」
「貴様の所有物だろ。貴様が持ってくるのは当然さ」
「1つだけじゃなかったのよ。どれだけあったと思うの?」
「フン。途中から”例の避難壕の応用で大分楽に運べるようになった”と楽しそうに報告していたのはどこの誰だ?」
「なっ……」
「確か床を一旦傾け、地下に滑らせた上で内装を上へとせり上げる……だったな。大発見じゃないか。貴様自身、らしくも
なく目を輝かせていたじゃないか」
「輝かせちゃ悪い」
人影の額に青筋が浮かんだ。怒りのオーラも巻き起こる。
「別に。だからやらせてやったのさ。そもそも100年来の引きこもりにはドロ臭い肉体労働がお似合いだ」
「…………」
戯画的な怒りのマークが1つ、人影の右即頭部に追加された。
「そもそもあの作業を楽しんでおきながらこの俺にまで手伝わさんとするのは傲慢も甚だしい」
大気が凍る音がした。同時に十字路に似た憤怒の烙印が人影の頭や顔のそこかしこに押されていく。音も烙印もパピヨ
ンが喋るたび増えていく。人影が彼の言葉に耐えがたい不快感を覚えているのは明らかだった。
「だいたい、貴様の母の手持ちの機材をこちらへと合流させ『例の研究』を進めたいと持ちかけたのは貴様の方だろ」
超特大の烙印が人影の背後いっぱいに押された。人影の両眉がビキリと跳ねあがり、右頬は激しい怒りのもたらす痙攣
に打ち震えているいるようだった。
「ならば貴様がこの俺のための身を砕くのは当然のコト。これからもせいぜい従え。俺の為だけに動け」
それきりパピヨンは会話を一方的に打ち切り、あらゆるリソースを本にのみ向け始めた。
(イヤな奴。道理でママが妙に冷たくあしらっていた訳ね)
修復フラスコの前で声の主──ヴィクトリア=パワード──はただでさえ冷たい瞳を更に冷たく細めた。
輝くような金髪の少女である。長い髪を緑のヘアバンチ(筒状のヘアアクセサリ)で幾房に分けているところはいかにも
人形のような愛らしさを振りまいているが、表情や仕草にいちいち刺々しさがあるのが珠に瑕である。日の光など知らない
ような白い肌。欧米人らしくすらりと通った鼻梁。113年以上の生涯をまるで伺わせぬ少女らしい細やかな肢体。どれ1つ
とっても銀成学園生徒の歓心を買うに十分である。(特に武藤まひろなどは積極的にスキンシップを図る)
そんなヴィクトリアの唇はやや血色が褪せてはいるが瑞々しく、今は柔らかげにきゅっと結ばれている。
不機嫌の兆候だ。
心にゆとりのある大人──たとえば寄宿舎管理人かつ戦士長の防人衛や、ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズのリーダ
ーたる総角主税──が見れば「ああ、ぐずってるぐずってる」と苦笑混じりに見逃せるほど他愛もない怒りだが、本人(ヴィク
トリア)は子供が全力で駄々をこね始める1分前のように我慢ができないでいる。
ゆらいヴィクトリアは気難しく、短気で、そして狭量の気配がある。もっとも秋水やまひろの説得で寄宿舎へ戻った時から
頑なな心は少しずつ開放へと傾いているが、しかし100年の地下生活の鬱屈とそれが齎した屈折はそう簡単に治る物で
はない。
やっぱり、ホムンクルス(錬金術の産物)はキラい。
そんな思いがまず去来し、「ホムンクルスだからこの男は嫌な奴だ」というすり替えが頭の中にやってきた。
次に秋水やまひろといった連中の顔が浮かび、彼らとそれなりの関係を築けているのは彼らが人間(錬金術の産物では
ない)だからという考えも浮かんだ。
もっとも突き詰めればそれは自己弁護でもある。
考えてもみよ。そもそも秋水にしろまひろにしろ、ヴィクトリアの抱く第一印象は全くもって良くなかった。それが今日(こん
にち)、やや良好な協力関係を締結できているのは彼らと交流を持ち、ヴィクトリアが彼らを受け入れる決意をしたからであ
ろう。
理論的にいえば、である。「秋水たちにした”それ”」をやればパピヨンとも良好な関係を築けるかも知れない。にも関わら
ずそれを放棄しているのはパピヨンに対する腹立たしさを年上らしく、寛容に──ヴィクトリアはパピヨンより約1世紀長く
生きている──流せていないせいだ。
単に流したくないだけともいえる。
そして「パピヨンとは仲良くしたくない」という子供じみた怒りを「彼がホムンクルスだから仲良くする必要はない」という訳の
わからぬ感情論にすげ替え、秋水・まひろとの成功例を「彼らが人間だから上手くいった」という二重基準で棚上げ(本当は
誰が相手でも同じコトができるにも関わらず、”腹が立つからやりたくない”で放棄)している。
という自分の微細な感情の流れには薄々気付いてもいるヴィクトリアだが、ああしかしパピヨンという傲慢の塊と直接
交渉する事の腹立たしさ。初対面という訳ではない。かつてニュートンアップルという女学院の礼拝堂や地下で接触したコ
トもあるがその時は「押しかけてきた大勢の中の1人」として軽く応対したにすぎない。(話が佳境に入る前にヴィクトリアが
退室したというのもある)。
だがその時はまさかここまで腹の立つ男だとは思いも寄らなかった。
少なくても横浜から埼玉まで何往復もさせたくさんの重い機材を運ばせるような男だとは……。
(ちょっとオシャレだからって偉そうに)
無言で本を読むパピヨンの全身をねめつける。毒々しい色の蝶々覆面も袖にヒラヒラがついて胸がはだけた黒スーツも
まったくヴィクトリアにとっては可憐で麗しい格好だった。
初めて見た時思った。天使、だと。
それは母もまったく同じで、かつての女学院地下での質疑応答の後、母子二人して「オシャレだったわね」と頷き合って軽
く笑ったコトもある。(母は脳みそだけの存在だからよく分からないが雰囲気は笑っていた)。だが嫉妬憤怒の炎は相手に
圧倒的な美点があればあるほどそれを地上へ叩き落とさんと激しく燃えあがる物である。
「もういいわ。今日は疲れたの。もう帰る」
踵を返すが背後から声はかからない。それがまた、腹立たしい。
振り返りがてらまだ幼さの残る横眼できっと睨みつける。
(止めなさいよ)
自分は共同研究者なのだ。持ってきた機材の使い方だって自分の説明がなければ決して分からない。第一横浜から苦
労して運んできた機材たちはまだ部屋の外に置かれている。設置さえまだしていない。レイアウトの相談や地面をのたくる
鬱陶しいパイプどもとの兼ね合い(または接続の)打ち合わせもした覚えがない。
(やるべきコトはまだ山積みじゃない)
にも関わらずパピヨンときたら本に没頭し、大事なコトを何一つ話そうとしない。彼のやる気さえヴィクトリアは疑った。
だいたい引きとめられないのは屈辱だ。
”機材の使い方を知っている”
”母のもとでずっと研究に携わっていた”
”その研究はパピヨンの目的達成に不可欠”
”母のもとでずっと研究に携わっていた”
”その研究はパピヨンの目的達成に不可欠”
ときたらつまりそれなりの価値が自分にはある……と思うのが普通だろう。にも関わらず「帰る」と告げて引きとめの一つさ
えない。密かに抱えた矜持みたいな物が崩されるようでパピヨンの無視は腹立たしい。もしかしたら説明なしで全ての機材
を使いこなし、レイアウトやパイプ接続をこなす自信が彼にはあるのだろうか。
「どうした。帰らないのか」
ここでようやくパピヨンは顔を上げた。その顔はくつくつと意地の悪い笑みを浮かべていた。「貴様の考えなどお見通しだ」
そう言いたげだった。
一方ヴィクトリアは「しまった」という顔で慌てて眼を逸らした。俯き、紫の光を帯びる床を始末が悪そうに眺める。
振り返ったのは露骨すぎた。何かを求めているようで……。失態を演じたという思いが白い顔をうっすら上気させている
のを痛感した。以前の自分ならまずそういう反応は出なかっただろうが、あいにく秋水・まひろと関わるうちおかしな影響を
受けてしまっているらしい。
以前の私の鉄面皮の方が良かった。絶対。そう後悔すると羞恥はますます加速するようだ。
とりあえず顔を上げる。大丈夫。紫の証明のせいで顔の赤さは分からない。そう言い聞かせる。
「明日は来るわよ。来なければ研究進まないでしょ」
繕いになっているのかどうか。仄かに赤い頬の上の瞳を務めて冷淡に細め、ヴィクトリアはパピヨンの横を指差した。
「私はパパを、アナタは武藤カズキを。それぞれ人間に戻したい。だから手を組んだんじゃない」
「フム」
パピヨンもヴィクトリアの指を横眼で追った。本が山積みになった小机の上には──…
黄色い核鉄も乗っていた。
もう1つの調整体。
かつてそれを求め、戦士たちとザ・ブレーメンタウンミュージシャンズという共同体が激突したのは記憶に新しい。
「そしてアナタが戦いの最後の最後で乱入し手に入れた。もう話したけどそれを使えば」
「白い核鉄の精製が可能、か。確かにご先祖様の研究資料とあののーみその研究資料を突き合わせればそうなるようだが」
「その”のーみそ”っていうのやめなさいよ。ママに失礼でしょ」
「粋がるなよ。所詮のーみそはのーみそに過ぎん。しかし──…」
ヴィクトリアがたじろいだのは明らかな蔑みを感じたからだ。蝶々覆面から覗くドス黒い瞳は確かにヴィクトリアを見下して
いた。顔が赤いの気付かれてたらどうしよう……ひどく少女らしい怯えに息を呑む。発見だった。らしくもない瑞々しさが蘇り
つつあるという発見だった。
「何よ」
「疲れたから帰る? フン、成功すれば貴様の父が人間に戻ると知りながら、たかだか横浜埼玉間を往復した疲れ程度で
貴様は研究を諦めるという訳だ。つまり貴様にとって父の再人間化などその程度の物!」
「何よ。1日ぐらい──…」
「怠け者は常々そういう」
パピヨンは立ち上がり、いささか芝居じみた仕草でヴィクトリアを指差した。本はすでに両手で畳まれ小机の上に放り出さ
れている。早業。ずっとパピヨンを凝視していたヴィクトリアでさえ気付けなかった。
……そして彼が嘲笑混じりに放った次の言葉が彼女に居残りを決意させた。
「そうやって1日ぐらい1日ぐらいと先延ばしを続けてきた結果、貴様は100年も地下で引き籠っていたんだろ?」
えない。密かに抱えた矜持みたいな物が崩されるようでパピヨンの無視は腹立たしい。もしかしたら説明なしで全ての機材
を使いこなし、レイアウトやパイプ接続をこなす自信が彼にはあるのだろうか。
「どうした。帰らないのか」
ここでようやくパピヨンは顔を上げた。その顔はくつくつと意地の悪い笑みを浮かべていた。「貴様の考えなどお見通しだ」
そう言いたげだった。
一方ヴィクトリアは「しまった」という顔で慌てて眼を逸らした。俯き、紫の光を帯びる床を始末が悪そうに眺める。
振り返ったのは露骨すぎた。何かを求めているようで……。失態を演じたという思いが白い顔をうっすら上気させている
のを痛感した。以前の自分ならまずそういう反応は出なかっただろうが、あいにく秋水・まひろと関わるうちおかしな影響を
受けてしまっているらしい。
以前の私の鉄面皮の方が良かった。絶対。そう後悔すると羞恥はますます加速するようだ。
とりあえず顔を上げる。大丈夫。紫の証明のせいで顔の赤さは分からない。そう言い聞かせる。
「明日は来るわよ。来なければ研究進まないでしょ」
繕いになっているのかどうか。仄かに赤い頬の上の瞳を務めて冷淡に細め、ヴィクトリアはパピヨンの横を指差した。
「私はパパを、アナタは武藤カズキを。それぞれ人間に戻したい。だから手を組んだんじゃない」
「フム」
パピヨンもヴィクトリアの指を横眼で追った。本が山積みになった小机の上には──…
黄色い核鉄も乗っていた。
もう1つの調整体。
かつてそれを求め、戦士たちとザ・ブレーメンタウンミュージシャンズという共同体が激突したのは記憶に新しい。
「そしてアナタが戦いの最後の最後で乱入し手に入れた。もう話したけどそれを使えば」
「白い核鉄の精製が可能、か。確かにご先祖様の研究資料とあののーみその研究資料を突き合わせればそうなるようだが」
「その”のーみそ”っていうのやめなさいよ。ママに失礼でしょ」
「粋がるなよ。所詮のーみそはのーみそに過ぎん。しかし──…」
ヴィクトリアがたじろいだのは明らかな蔑みを感じたからだ。蝶々覆面から覗くドス黒い瞳は確かにヴィクトリアを見下して
いた。顔が赤いの気付かれてたらどうしよう……ひどく少女らしい怯えに息を呑む。発見だった。らしくもない瑞々しさが蘇り
つつあるという発見だった。
「何よ」
「疲れたから帰る? フン、成功すれば貴様の父が人間に戻ると知りながら、たかだか横浜埼玉間を往復した疲れ程度で
貴様は研究を諦めるという訳だ。つまり貴様にとって父の再人間化などその程度の物!」
「何よ。1日ぐらい──…」
「怠け者は常々そういう」
パピヨンは立ち上がり、いささか芝居じみた仕草でヴィクトリアを指差した。本はすでに両手で畳まれ小机の上に放り出さ
れている。早業。ずっとパピヨンを凝視していたヴィクトリアでさえ気付けなかった。
……そして彼が嘲笑混じりに放った次の言葉が彼女に居残りを決意させた。
「そうやって1日ぐらい1日ぐらいと先延ばしを続けてきた結果、貴様は100年も地下で引き籠っていたんだろ?」
まったく、腹が立つ。
寄宿舎に戻ったヴィクトリアは寝てからなお夢の中で毒舌三千連発をパピヨンに浴びせるほど憤っていた。
友人たちとの何気ない談話の中でも怒りはどこかに覚えていて、まったく落ち着かない気分だった。
しかも。そういう時に限って。
寄宿舎に戻ったヴィクトリアは寝てからなお夢の中で毒舌三千連発をパピヨンに浴びせるほど憤っていた。
友人たちとの何気ない談話の中でも怒りはどこかに覚えていて、まったく落ち着かない気分だった。
しかも。そういう時に限って。
「びっきーの髪ってたこに似てるよね」
などとまひろが言い放つからたまらない。
(たこ……)
頬が引き攣り一瞬叫びだしたくなった。内心不快に煮えたぎっている時に「たこ」はない。ヴィクトリアは本当もうこの天然
少女を頭からバックリやってやろうかと(食べはしないが。歯型の一つでもつけてやり「私はホムンクルスよ。アナタは格下」
とばかり生物的優位性がどちらにあるかはっきり思い知らせてやるべき)思った。……もっとも踏んでも踏んでもまひろは懲
りず、結局ヴィクトリアの惨敗に終わったのは091話のごとくである。
(たこ……)
頬が引き攣り一瞬叫びだしたくなった。内心不快に煮えたぎっている時に「たこ」はない。ヴィクトリアは本当もうこの天然
少女を頭からバックリやってやろうかと(食べはしないが。歯型の一つでもつけてやり「私はホムンクルスよ。アナタは格下」
とばかり生物的優位性がどちらにあるかはっきり思い知らせてやるべき)思った。……もっとも踏んでも踏んでもまひろは懲
りず、結局ヴィクトリアの惨敗に終わったのは091話のごとくである。