耳鳴りが、地響きとなって僕の体を揺すっている。
あのカミソリはなんだ? 「こちらへどうぞ」とは誰に向かって言っているのだ?
僕の体が椅子から降りてのそのそと歩く、呼ばれたのは僕なのか?
あのカミソリはなんだ? 「こちらへどうぞ」とは誰に向かって言っているのだ?
僕の体が椅子から降りてのそのそと歩く、呼ばれたのは僕なのか?
僕の心には初めて殺人鬼と出会った日の様な不安が満ちていた。
父を失った悲しみを覚える暇も無い、圧倒的な恐怖にベッドの下でガタガタと体を震わせていた。
だが、僕の体はもう僕の意思では動かない……あの時のような震えもなければ冷や汗だって流さない。
カミソリをもった店主に向かって操り人形のようにフラフラと歩いていく。
父を失った悲しみを覚える暇も無い、圧倒的な恐怖にベッドの下でガタガタと体を震わせていた。
だが、僕の体はもう僕の意思では動かない……あの時のような震えもなければ冷や汗だって流さない。
カミソリをもった店主に向かって操り人形のようにフラフラと歩いていく。
店主の顔からは笑みは消え、作業に没頭する機械を思わせる冷たい目をしていた。
その目でジッと見つめられると、筋に寒気が走り凍りつくような感覚に襲われた。
白いペースト状の液体を取り出し、筆のように先端のまとまった刷毛でペーストを良く混ぜる。
その目でジッと見つめられると、筋に寒気が走り凍りつくような感覚に襲われた。
白いペースト状の液体を取り出し、筆のように先端のまとまった刷毛でペーストを良く混ぜる。
「痛みや出血が見られないほど軽度デスが、出来かけの口内炎を見つけまシタ。
歯は磨かれているのでその他の原因であるビタミン、鉄分の不足分をチコリーとレモンで補充しマス」
歯は磨かれているのでその他の原因であるビタミン、鉄分の不足分をチコリーとレモンで補充しマス」
顔面にムズムズとした痒みが走る、頬がビクビクと痙攣して目が無理やり開閉させられ視界が歪む。
ピリピリとした痛みが鼻の下から頬へ、頬から顎へと伝わっていく。
ピリピリとした痛みが鼻の下から頬へ、頬から顎へと伝わっていく。
「そしてリンゴに含まれるカリウムがブルーチーズに含まれるカビによって化学反応を起こし増大。
筋肉、神経細胞を躍動させて口内の雑菌を皮膚から外に押出すのデス」
筋肉、神経細胞を躍動させて口内の雑菌を皮膚から外に押出すのデス」
店主が解説している様だが訳が判らない、ママの様な異常が僕に起こるのだろうという不安から目は開けたままだ。
そのせいでもっと異常なことを目の当たりにし、目だけではなく『感触』としてそれを感知すると叫び声を上げた。
そのせいでもっと異常なことを目の当たりにし、目だけではなく『感触』としてそれを感知すると叫び声を上げた。
「ひ、ひげ―――!」
異常な速度で、異常な物が僕の顔にビッシリと生えている、今の僕には無いはずの物が今も伸び続けている。
顔の半分を覆う無数に生える黒い線状の物体……僕の顔に、『ヒゲ』が生えていた。
テレビや小説、フィクションの世界ならこんな時にはズルズルと音をたてて毛が伸びていくのだろう。
だが、この異常な事態はフィクションであることを否定するように無音のまま進行していく。
顔の半分を覆う無数に生える黒い線状の物体……僕の顔に、『ヒゲ』が生えていた。
テレビや小説、フィクションの世界ならこんな時にはズルズルと音をたてて毛が伸びていくのだろう。
だが、この異常な事態はフィクションであることを否定するように無音のまま進行していく。
「チーズに含まれる豊富なタンパク質は構成するアミノ酸のバランスがよくスムーズに消化・吸収されマス。
そして、栄養価を搾り出されたタンパク質で擬似ケラチンを精製し内部を雑菌で固めて毛髪状にして外へ出すのデス」
そして、栄養価を搾り出されたタンパク質で擬似ケラチンを精製し内部を雑菌で固めて毛髪状にして外へ出すのデス」
店主が相変わらず有り得ない理論を述べているが、現実に僕の体に起こっている。
だが今は店主の理論に従ってこの怪奇現象が起きているのかを気にしている余裕はない。
ママ達に助けを求めるべく、首から上をママの方へと向ける。
だが今は店主の理論に従ってこの怪奇現象が起きているのかを気にしている余裕はない。
ママ達に助けを求めるべく、首から上をママの方へと向ける。
「マ、ママ! 僕にヒゲが……」
「新鮮なリンゴの甘さとアンディーヴの柔らかな苦味! 噛むとあふれ出す水分の爽やかさとがドッキング!」
「こんなに水々しいサラダなのに薄味の物足りなさが全くない! 激流に身を任せ同化している気分だ!」
「新鮮なリンゴの甘さとアンディーヴの柔らかな苦味! 噛むとあふれ出す水分の爽やかさとがドッキング!」
「こんなに水々しいサラダなのに薄味の物足りなさが全くない! 激流に身を任せ同化している気分だ!」
ママも殺人鬼も僕には目もくれず料理を口に運び続けている。
目は爛々と妖しく輝き、自分の意思など存在していないかのようだった。
目は爛々と妖しく輝き、自分の意思など存在していないかのようだった。
僕を助けてくれる人間は、もう居ない……。
力を持った人の悪意、欲望のままに蠢く闇を止められる人間はもう居ないのだ。
その力を前にして、僕に平穏は訪れないという事を改めて思い知らされる。
力を持った人の悪意、欲望のままに蠢く闇を止められる人間はもう居ないのだ。
その力を前にして、僕に平穏は訪れないという事を改めて思い知らされる。
「さっ、動かないで下サイ……手元が狂ってしまいマスからネ」
店主が僕へ睨むような鋭い視線を送ると、一瞬だけ動いた首が再び固定される。
蛇に睨まれた蛙のように僕の体は動かなくなり、店主にされるがまま顔に生暖かい液体を塗られる。
カミソリの刃が頬に当てられ、一瞬ひやりとするがペーストに暖められ金属の固さだけが肌に伝わるようになる。
ヌルりとした液体と一緒に体毛が削ぎ落とされていく、異物感が取り除かれる心地良さがあった。
同時に感じる、他人の手に握られた刃物が自分に押し当てられている恐怖。
僕の命は彼の手の内にあり、このカミソリを喉元に押し当てるだけで僕の意識は永遠に戻らない場所へ旅立つのだ。
蛇に睨まれた蛙のように僕の体は動かなくなり、店主にされるがまま顔に生暖かい液体を塗られる。
カミソリの刃が頬に当てられ、一瞬ひやりとするがペーストに暖められ金属の固さだけが肌に伝わるようになる。
ヌルりとした液体と一緒に体毛が削ぎ落とされていく、異物感が取り除かれる心地良さがあった。
同時に感じる、他人の手に握られた刃物が自分に押し当てられている恐怖。
僕の命は彼の手の内にあり、このカミソリを喉元に押し当てるだけで僕の意識は永遠に戻らない場所へ旅立つのだ。
永い時を彷徨う様な、終着点もなく歩いているような時間。
ヒゲはゆっくり確実に減っているのに終わりが見えない。
もしかしたら刈り取られるのはヒゲだけではなく、僕の命……。
ヒゲはゆっくり確実に減っているのに終わりが見えない。
もしかしたら刈り取られるのはヒゲだけではなく、僕の命……。
「ハイ、終わりましたよ」
「えっ?」
「えっ?」
頬へ触れる、生い茂る雑草のように蔓延っていたヒゲが綺麗に剃られていた。
つやつやもちもちとほっぺたが手の平に吸い付くような弾力を返してくる。
店主の意図を読めず困惑していると、何時の間にかヒゲを片付け終えた店主がママに料理を解説していた。
つやつやもちもちとほっぺたが手の平に吸い付くような弾力を返してくる。
店主の意図を読めず困惑していると、何時の間にかヒゲを片付け終えた店主がママに料理を解説していた。
「レモンの美肌効果は本物デスが、果汁を肌に直接塗ると汁は酸性なので刺激や皮膚炎のリスクを負います。
口から取り込んだ各種ビタミンをしっかりと体中に浸透させ肌へと伝わり効果が現れるのデス」
「言われてみると……なんだか肌が若返ったみたいにすべすべになったような気が………」
「ハハハ、ここの料理ならそんなにすぐに変わらないと判っていてもそんな気分にさせられるよ」
口から取り込んだ各種ビタミンをしっかりと体中に浸透させ肌へと伝わり効果が現れるのデス」
「言われてみると……なんだか肌が若返ったみたいにすべすべになったような気が………」
「ハハハ、ここの料理ならそんなにすぐに変わらないと判っていてもそんな気分にさせられるよ」
若返ったみたいに、その言葉にまさかと思いママを見て異変に気付く。
身体的特徴に大きな変化は見られない、それにママは元々若く見える方だ。
だが、生まれて一日たりともママの顔を見なかった日はない僕には判る。
写真でしか見たことのないママの顔、ママは十代後半まで若返っていた。
身体的特徴に大きな変化は見られない、それにママは元々若く見える方だ。
だが、生まれて一日たりともママの顔を見なかった日はない僕には判る。
写真でしか見たことのないママの顔、ママは十代後半まで若返っていた。
「マ……ママ! ホントに若くなってる!」
「やだぁ、早人ったらお世辞が上手いんだから」
「は~や~とぉ~……欲しいものがあるんだろ? ママに取り入ろうって魂胆かぁ~?」
「やだぁ、早人ったらお世辞が上手いんだから」
「は~や~とぉ~……欲しいものがあるんだろ? ママに取り入ろうって魂胆かぁ~?」
ママも殺人鬼も僕の言うことを冗談として受け流し、談笑を続け料理を堪能している。
そんな二人を見てか、店主の顔には再び笑みが戻っていた。
そんな二人を見てか、店主の顔には再び笑みが戻っていた。
「いえいえ、本当にお若くなっておられマス」
「フゥ~ム、言われて見ると本当に若くなったような……」
「まぁ! アナタったら調子がいいんだから、フフン♪」
「フゥ~ム、言われて見ると本当に若くなったような……」
「まぁ! アナタったら調子がいいんだから、フフン♪」
ありきたりなお世辞を残して厨房へと去る店主、そのお世辞が現実にママに起こっているとは。
僕の身に起きた変化、ママの凍る目と異常な若返り。
店主の目的は何なのか、命を取り留めた今では皆目検討がつかない。
僕の身に起きた変化、ママの凍る目と異常な若返り。
店主の目的は何なのか、命を取り留めた今では皆目検討がつかない。
「お待たせしまシタ。こちらがプリモ・ピアット、『タリアテッレ・ボロネーゼ』デス」
考えを纏める暇もないまま、次の料理が運ばれる。
プリモピアット(第一の皿)には主にパスタやスープが選ばれる。
店主が持ち出したのはパスタだった、見慣れない薄く延ばされた平べったい麺。
そこに細かく刻まれたニンジン、タマネギ、そしてひき肉たっぷりのミートソースが絡まっている。
プリモピアット(第一の皿)には主にパスタやスープが選ばれる。
店主が持ち出したのはパスタだった、見慣れない薄く延ばされた平べったい麺。
そこに細かく刻まれたニンジン、タマネギ、そしてひき肉たっぷりのミートソースが絡まっている。
「イタリア料理アカデミーでは牛肉を推奨していマスが、家庭的な物として出すなら豚挽肉が最適デス。
食通の自尊心を満足させるための高級料理では、料理による幸せは生まれませン。
幸せの原点……貧富に関わらず誰もが感じることのできる味、それが『家庭の味』デス」
食通の自尊心を満足させるための高級料理では、料理による幸せは生まれませン。
幸せの原点……貧富に関わらず誰もが感じることのできる味、それが『家庭の味』デス」
幸せ………彼が本当に僕達に幸せをもたらすとは、僕には信じられなくなっていた。
それに水、サラダ、これを口に含んだ僕とママには以上が起きたのに殺人鬼には何もない。
もしや、殺人鬼の仲間ではないのか……そんな疑問が僕の脳裏に浮かんだ。
そうだとしたらママを助けられるのは、僕しかいない。
それに水、サラダ、これを口に含んだ僕とママには以上が起きたのに殺人鬼には何もない。
もしや、殺人鬼の仲間ではないのか……そんな疑問が僕の脳裏に浮かんだ。
そうだとしたらママを助けられるのは、僕しかいない。
胸が激しく動悸する、ママのフォークがパスタを絡めとっていた。