異形都市〈ケイオス・ヘキサ〉下層。高層ホテル前。
……プリマヴェラによって窓から放り投げられ、地上に落下して死んだと
思われた男は、驚くべきことにまだ生きていた。しかし、その命はもはや風
前の灯だった。落下の衝撃で内臓器官のことごとくが破裂し、骨という骨が
砕け、身体に埋め込まれた数秘機関が次々に機能を停止していく。
だが男はまだ生きていた。必死に死の影から逃れようとしていた。
……プリマヴェラによって窓から放り投げられ、地上に落下して死んだと
思われた男は、驚くべきことにまだ生きていた。しかし、その命はもはや風
前の灯だった。落下の衝撃で内臓器官のことごとくが破裂し、骨という骨が
砕け、身体に埋め込まれた数秘機関が次々に機能を停止していく。
だが男はまだ生きていた。必死に死の影から逃れようとしていた。
激痛で何度も意識が飛びそうになる。だがここで意識を失ってしまえば、
自分は永遠に目覚めることはないだろう。まだ動作している数秘機関の全機
能を生命維持にあてる。だがそれも焼け石に水だった。組織再生が追いつか
ない。血が止まらない。力が抜けていく。視界が薄れていく。
自分は永遠に目覚めることはないだろう。まだ動作している数秘機関の全機
能を生命維持にあてる。だがそれも焼け石に水だった。組織再生が追いつか
ない。血が止まらない。力が抜けていく。視界が薄れていく。
「……俺は……死なない……」
そう苦しげに言う男の周囲には、人だかりが出来ていた。下層の住人たち。
だが彼らは男のことを助けようとはしなかった。手を差し伸べようとはしな
かった。彼らの中に渦巻いているのは暗い悦びだ。貧困に苦しむ自分たちと
は違い、恵まれた生活を享受している中層の人間が死に瀕している。
ざまあみろ。ざまあみろ。彼らはそう思っていた。
だから男が苦しむさまを見て喜びはすれど、助けることなど論外だった。
中には機関電信(エンジン・フォン)の写真機能を起動させておもしろそうに
男の様子を撮影している者すらいる。
だが彼らは男のことを助けようとはしなかった。手を差し伸べようとはしな
かった。彼らの中に渦巻いているのは暗い悦びだ。貧困に苦しむ自分たちと
は違い、恵まれた生活を享受している中層の人間が死に瀕している。
ざまあみろ。ざまあみろ。彼らはそう思っていた。
だから男が苦しむさまを見て喜びはすれど、助けることなど論外だった。
中には機関電信(エンジン・フォン)の写真機能を起動させておもしろそうに
男の様子を撮影している者すらいる。
自分を助けるものはいない。このままでは自分は死んでしまう。
だが、男は諦めなかった。必死に地面を這って前に進む。
一体何が、彼をそこまで駆り立てるのか。
それは――
だが、男は諦めなかった。必死に地面を這って前に進む。
一体何が、彼をそこまで駆り立てるのか。
それは――
「俺は……この都市から……生きて出るんだ……」
血を吐き出しながら、男はもがく。
「俺は……生きる……この都市から、この地獄から……逃げてみせる……!」
――すべてはそのために。この異形都市から脱出するために、自分はあの
アンティークドールを誘拐したのだ。
アンティークドールを誘拐したのだ。
この異形都市は地獄だ。此処は世界の果てだ。
危険な妖怪魔物が蔓延り、人間の枠外を越えた魔人どもが跋扈する。
都市では比較的治安がよいとされている中層でさえ、かつての常識からは
考えられない犯罪――ギアスユーザーや契約者による凶悪な犯罪が多発して
いる。
危険な妖怪魔物が蔓延り、人間の枠外を越えた魔人どもが跋扈する。
都市では比較的治安がよいとされている中層でさえ、かつての常識からは
考えられない犯罪――ギアスユーザーや契約者による凶悪な犯罪が多発して
いる。
それだけではない。彼がこの都市の脱出を決意した理由は、決して犯罪が
多い危険極まりない場所だからだけではないのだ。
この都市の存在理由、どうしてこの異形都市〈ケイオス・ヘキサ〉が、再
び建造されるに至ったのか。彼はそれを知ってしまったのだ。
多い危険極まりない場所だからだけではないのだ。
この都市の存在理由、どうしてこの異形都市〈ケイオス・ヘキサ〉が、再
び建造されるに至ったのか。彼はそれを知ってしまったのだ。
――あのおぞましい真相を知れば、誰もがこの都市から逃げ出そうと決心
するに違いない。初めて〝それ〟を知ったとき、彼は恐怖で動けなくなった。
〝それ〟が成就したとき、この都市がどうなるのかを想像しただけで、気が
狂いそうになった。
だから彼は逃げると決めた。自分のほかのなにもかもを犠牲にしてでも、
この地獄から逃げようと決心したのだ。
するに違いない。初めて〝それ〟を知ったとき、彼は恐怖で動けなくなった。
〝それ〟が成就したとき、この都市がどうなるのかを想像しただけで、気が
狂いそうになった。
だから彼は逃げると決めた。自分のほかのなにもかもを犠牲にしてでも、
この地獄から逃げようと決心したのだ。
「そのために俺は契約した……あの怖ろしい赫眼の魔人どもと……《結社》
の魔人どもの話に乗ったんだ。ああ、怖ろしい、俺は怖ろしい。あの《結社
》の魔人どもが。奴らがこの都市でしようとしていることが、怖ろしくてた
まらない。ああ、助けてくれ、助けてくれ、俺の救い主、黒の列車よ! 俺
をこの地獄から連れ出してくれ!」
の魔人どもの話に乗ったんだ。ああ、怖ろしい、俺は怖ろしい。あの《結社
》の魔人どもが。奴らがこの都市でしようとしていることが、怖ろしくてた
まらない。ああ、助けてくれ、助けてくれ、俺の救い主、黒の列車よ! 俺
をこの地獄から連れ出してくれ!」
男は必死に手を伸ばした。だが、彼に手を差し伸べる誰かは、此処にはい
ない。男を取り囲む人間たちは、みな嘲りながら哀れみの視線を向けるのみ。
自分を助けるものはいない。その事実に絶望し、同時に胸のうちに沸いた
怒りを原動力にして、彼は這う。這って、生きようと懸命に前へと進む。
ない。男を取り囲む人間たちは、みな嘲りながら哀れみの視線を向けるのみ。
自分を助けるものはいない。その事実に絶望し、同時に胸のうちに沸いた
怒りを原動力にして、彼は這う。這って、生きようと懸命に前へと進む。
しかし、ああ、彼にはもう先はない。
運命が彼に追いついた。死神の手が彼の心臓をとらえたのだ。
生と死の境目を歪め、それらを弄ぶ魔人のひとりが、いままさに彼の命を
刈り取ろうと――
運命が彼に追いついた。死神の手が彼の心臓をとらえたのだ。
生と死の境目を歪め、それらを弄ぶ魔人のひとりが、いままさに彼の命を
刈り取ろうと――
「おめでとうございます」
声、そして言葉――
それは、地を這う哀れな男に向けられた声だった。
男は顔を上げた。誰だ、俺に声をかけたのは誰だ。
失血によってぼんやりとした男の視界にうつる、誰かの細身のシルエット。
それは、地を這う哀れな男に向けられた声だった。
男は顔を上げた。誰だ、俺に声をかけたのは誰だ。
失血によってぼんやりとした男の視界にうつる、誰かの細身のシルエット。
――美しい女性が佇んでいた。気品あるかんばせには慈愛の笑みが溢れて
おり、閉じられた瞼からは静かな知性が感じられる。
余談だが、盲人というのは、聾唖よりも賢者のように見えるのだという。
彼女は盲人ではなかったが、ともかく、誰かに危害を加えるような女性に
はとても見えない。
だが、男は、心の底から震え上がった。
おり、閉じられた瞼からは静かな知性が感じられる。
余談だが、盲人というのは、聾唖よりも賢者のように見えるのだという。
彼女は盲人ではなかったが、ともかく、誰かに危害を加えるような女性に
はとても見えない。
だが、男は、心の底から震え上がった。
「ジュスティーヌ……!」
「おめでとうございます」
恐怖に満ちた男の声を、ジュスティーヌと呼ばれた女性は言葉の繰り返し
によって切って捨てた。
男の言葉など最初から聞く気がないのだろう。
によって切って捨てた。
男の言葉など最初から聞く気がないのだろう。
そして男は、周囲の異常に気がついた。自分を囲んでいた人間の群れが、
一斉に動きを止めていたのだ。まるでこの空間だけ時間が止まったかのよう
だった。男はこの現象が如何なるものかを知っていた。それは神や悪魔など
の、御伽噺の存在がもたらす奇跡ではない。この現象は、すべて、ひとの手
によってなされたものだ。
一斉に動きを止めていたのだ。まるでこの空間だけ時間が止まったかのよう
だった。男はこの現象が如何なるものかを知っていた。それは神や悪魔など
の、御伽噺の存在がもたらす奇跡ではない。この現象は、すべて、ひとの手
によってなされたものだ。
時間牢獄――時間と空間を操る大いなる技にして、ジュスティーヌが現在
所属する、《結社》と呼ばれる組織が有する叡智のほんの一欠片。
所属する、《結社》と呼ばれる組織が有する叡智のほんの一欠片。
広域犯罪組織《結社》。別名を《西インド会社》。
あらゆる犯罪を操ると同時に、優秀な碩学を数多く擁し、人間妖物の区別
なく、多くの秘密結社を支配下におき、人類文明におけるほぼすべての闇と
知識とを支配するとさえ囁かれる巨大組織である。
あらゆる犯罪を操ると同時に、優秀な碩学を数多く擁し、人間妖物の区別
なく、多くの秘密結社を支配下におき、人類文明におけるほぼすべての闇と
知識とを支配するとさえ囁かれる巨大組織である。
彼らの力は、人類の守護者を自称する〈人間戦線〉や、ナチ残党が結集し
て組織された〈総統の子ら〉、英国王室の背後にいるエデンバイタル教団に
も深く浸透しているという。
異形都市中層にある大企業群についても然りだ。この都市に本社を置く大
企業のほとんどが、大なり小なり《結社》の影響を受けている。
彼らは恐怖と狂気を生み出し、そのふたつによって、森羅万象あらゆるも
のを操るのだ。
て組織された〈総統の子ら〉、英国王室の背後にいるエデンバイタル教団に
も深く浸透しているという。
異形都市中層にある大企業群についても然りだ。この都市に本社を置く大
企業のほとんどが、大なり小なり《結社》の影響を受けている。
彼らは恐怖と狂気を生み出し、そのふたつによって、森羅万象あらゆるも
のを操るのだ。
そして自分もまた、《結社》によって運命を弄ばれた。
そう、目の前に現れたこの女。そして、彼女が唯一崇拝する、異形都市上
層に設置された〝静謐なる知識の間〟に座し、異形都市全域で展開されてい
る《結社》の謀略のすべてを統括するという、人体の神秘すべてを解き明か
した碩学にして、永久不滅の肉体と生命を有する赫眼の魔人に。
そう、目の前に現れたこの女。そして、彼女が唯一崇拝する、異形都市上
層に設置された〝静謐なる知識の間〟に座し、異形都市全域で展開されてい
る《結社》の謀略のすべてを統括するという、人体の神秘すべてを解き明か
した碩学にして、永久不滅の肉体と生命を有する赫眼の魔人に。
このふたりの魔人の依頼によって、彼はメディスン・メランコリーを誘拐
したのだった。この異形都市から脱出する鍵――黒の切符を、依頼完遂の暁
に自分に与えるという条件に、魔人の手を取ったのだ。
だがその所為で自分は死に瀕している。
そしてこの女は、依頼をしくじった自分を嘲笑っている。
それがとても悔しい。その綺麗な顔に拳を突き立てたい、そう思うものの、
身体は言うことをきいてくれない。
したのだった。この異形都市から脱出する鍵――黒の切符を、依頼完遂の暁
に自分に与えるという条件に、魔人の手を取ったのだ。
だがその所為で自分は死に瀕している。
そしてこの女は、依頼をしくじった自分を嘲笑っている。
それがとても悔しい。その綺麗な顔に拳を突き立てたい、そう思うものの、
身体は言うことをきいてくれない。
「ああ、どうして――」
死に瀕した羽虫を愛でるような笑顔を浮かべて、ジュスティーヌは言う。
「嗚呼、なぜそんな顔をするのですか? あなたの命は有効利用された。あ
なたの献身によって、博士の計画は次の段階に進む。嗚呼、素晴らしい、素
晴らしいことです。これで汚らわしい吸血人形(デッドガール)はこの都市か
ら一掃される。どうか誇りに思ってください、博士の理想の礎になられたこ
とを。あなたの勇気ある行動を、博士はとても評価なさっているのですよ?」
なたの献身によって、博士の計画は次の段階に進む。嗚呼、素晴らしい、素
晴らしいことです。これで汚らわしい吸血人形(デッドガール)はこの都市か
ら一掃される。どうか誇りに思ってください、博士の理想の礎になられたこ
とを。あなたの勇気ある行動を、博士はとても評価なさっているのですよ?」
「なら……俺によこせ、黒の列車の乗車権利を、お前たちが所持している黒
の切符を!」
の切符を!」
「ああ、それは――」
ジュスティーヌは困ったように小首を傾げた。
「残念です。私はあなたの献身に応えたいと思う。ですが、あなたはもう限
界のようです。あなたからは色濃い死相が見える。もう数分もせずにあなた
は死ぬでしょう。これでは、非常に貴重な黒の切符を与えることはできませ
ん」
界のようです。あなたからは色濃い死相が見える。もう数分もせずにあなた
は死ぬでしょう。これでは、非常に貴重な黒の切符を与えることはできませ
ん」
「ならば、お前たちの技術で、俺を治せ! お前たちならばできるはずだ!」
「ああ、確かに。博士の叡智の前には、如何なる致命傷も意味を失くします
が――」
が――」
顎に手を当てて、ジュスティーヌは思案する。
まだ助かるチャンスはある。彼女と彼女が所属する組織は、人間の生と死
を思うがままに操る叡智を保有している。ここで彼女に哀願すれば、自分は
助かるかもしれない。
男は最後の力を振り絞って言葉を吐き出す。僅かな可能性にすがる。その
様子はまるで、残り僅かになった蝋燭の火が放つ最後の閃光のようだった。
まだ助かるチャンスはある。彼女と彼女が所属する組織は、人間の生と死
を思うがままに操る叡智を保有している。ここで彼女に哀願すれば、自分は
助かるかもしれない。
男は最後の力を振り絞って言葉を吐き出す。僅かな可能性にすがる。その
様子はまるで、残り僅かになった蝋燭の火が放つ最後の閃光のようだった。
「俺はお前らに言われたすべてのことをやった。オールドタウンからあのドー
ルを誘拐し、お前たちから渡された装置で、あの小娘に希死願望を刺激する
人造心理を埋めこんだ。
それにな、俺は知っているぞ、調べたんだ、お前たちのことを。お前らの
経歴、お前らがかつて所属していた組織がなにをしていたのか。そしてお前
たちの上に君臨する――あの赫眼備えし魔人がこれまでしてきたおぞましい
所行についても! 死者の安息を破り、呪われた人造人間として蘇らせ、吸
血鬼どもと暗闘を繰り返してきた――《復活》前なら、俺だってこんなオカ
ルト話なんぞ信じなかったさ。だがいまは、ご覧の通りこの世界は迷信深い
場所に変わった。
いまならどんなことだって信じられる。お前らが崇拝するあの男――ああ、
口にするのも怖ろしくおぞましい――《結社》最高幹部のひとり《三博士》
ヴィクトル・フランケンシュタインが、どんな致命傷を癒すことも、死者
を蘇らせることすら可能なんだってことも!
なあ頼むよお願いだ、俺は仕事を果たしたお前たちの望むことをすべてし
たんだ! さあ、俺に黒の切符を、俺を助けてくれ! はやく、はやくしろ!
はやくしないと、ああ、俺は死んでしまう! 死んでからじゃ遅いんだ!
俺は人造人間になんかなりたくない! あんな呪われた存在にはなりたくな
い! ああ、だからはやくはやくはやくはやく――」
ルを誘拐し、お前たちから渡された装置で、あの小娘に希死願望を刺激する
人造心理を埋めこんだ。
それにな、俺は知っているぞ、調べたんだ、お前たちのことを。お前らの
経歴、お前らがかつて所属していた組織がなにをしていたのか。そしてお前
たちの上に君臨する――あの赫眼備えし魔人がこれまでしてきたおぞましい
所行についても! 死者の安息を破り、呪われた人造人間として蘇らせ、吸
血鬼どもと暗闘を繰り返してきた――《復活》前なら、俺だってこんなオカ
ルト話なんぞ信じなかったさ。だがいまは、ご覧の通りこの世界は迷信深い
場所に変わった。
いまならどんなことだって信じられる。お前らが崇拝するあの男――ああ、
口にするのも怖ろしくおぞましい――《結社》最高幹部のひとり《三博士》
ヴィクトル・フランケンシュタインが、どんな致命傷を癒すことも、死者
を蘇らせることすら可能なんだってことも!
なあ頼むよお願いだ、俺は仕事を果たしたお前たちの望むことをすべてし
たんだ! さあ、俺に黒の切符を、俺を助けてくれ! はやく、はやくしろ!
はやくしないと、ああ、俺は死んでしまう! 死んでからじゃ遅いんだ!
俺は人造人間になんかなりたくない! あんな呪われた存在にはなりたくな
い! ああ、だからはやくはやくはやくはやく――」
「よくまわる舌ですね」
「ぐげ、がぁッ!?」
突然の激痛に男は悶絶した。
伸びきった男の舌を、ジュスティーヌのハイヒールが突き刺したのだ。
伸びきった男の舌を、ジュスティーヌのハイヒールが突き刺したのだ。
「確かに、かつて私どもは、〈F機関〉という秘密結社を結成し、人類の刃
たる人造人間を生み出し、人類の天敵たる吸血鬼(モントリヒト)を狩り続け
て来ました。いまは博士とともに《結社》の一員になりはしましたが――人
体の神秘すべてを掌握した博士の叡智はいまだ健在です。あなたを死の淵か
ら救うこともできるでしょう。人造人間を厭う気持ちも理解できます。です
が、しかし」
ぎりぎり、とジュスティーヌはハイヒールに体重をかける。
たる人造人間を生み出し、人類の天敵たる吸血鬼(モントリヒト)を狩り続け
て来ました。いまは博士とともに《結社》の一員になりはしましたが――人
体の神秘すべてを掌握した博士の叡智はいまだ健在です。あなたを死の淵か
ら救うこともできるでしょう。人造人間を厭う気持ちも理解できます。です
が、しかし」
ぎりぎり、とジュスティーヌはハイヒールに体重をかける。
「あなたは口にしてはならぬことを口にした」
聞いた人間の心胆を凍りつかせる冷ややかな声。
「全人類の救済のため、吸血鬼との聖戦を始めた博士を、よりによっておぞ
ましいなどと――私、人選を誤まりました。あなたの決意、あなたの献身、
あなたの勇気ある行動、すべては博士の理想に共鳴してのことだと思ってい
たのですが、ただ自分が助かりたかっただけなのですね。汚らわしい、もう
あなたは必要ありません」
ましいなどと――私、人選を誤まりました。あなたの決意、あなたの献身、
あなたの勇気ある行動、すべては博士の理想に共鳴してのことだと思ってい
たのですが、ただ自分が助かりたかっただけなのですね。汚らわしい、もう
あなたは必要ありません」
そう言ってジュスティーヌは右手を伸ばす。
それは、人体の神秘のすべてを解き明かしたひとりの碩学に授けられた力
宿りし右手。森羅万象あらゆるものの死を理解し、その絶対なる幕引きを脆
く儚き人間にもたらす権能秘めし右手だ。
それは、人体の神秘のすべてを解き明かしたひとりの碩学に授けられた力
宿りし右手。森羅万象あらゆるものの死を理解し、その絶対なる幕引きを脆
く儚き人間にもたらす権能秘めし右手だ。
「あ、が……!」
突然、男は胸を押さえて呻いた。
彼は自分に伸ばされる右手の力を本能で理解した。
死ぬ、自分は、死ぬ――
彼は自分に伸ばされる右手の力を本能で理解した。
死ぬ、自分は、死ぬ――
いやだ、俺は生きていたい生きていたい生きていたい――
いやだ、俺は死にたくない死にたくない死にたくない――
いやだ、俺は死にたくない死にたくない死にたくない――
「さあ、諦めるときです」
その言葉とともに――ジュスティーヌの右手が男の額に触れた。
その瞬間、男の心臓が停止した。その瞳から光が消えた。
……この都市のおぞましい存在理由を知り、プリマヴェラによって致命傷
を負い、《結社》に運命を弄ばれた哀れな男は、いまここに惨死という結末
をもって、物語の表舞台から永久に姿を消した。
その瞬間、男の心臓が停止した。その瞳から光が消えた。
……この都市のおぞましい存在理由を知り、プリマヴェラによって致命傷
を負い、《結社》に運命を弄ばれた哀れな男は、いまここに惨死という結末
をもって、物語の表舞台から永久に姿を消した。
「――さて」
ジュスティーヌは満足そうに頷いた。すべては計画通りに進んでいる。
哀れなるアンティークドールを誘拐することも、そして彼女がオールドタ
ウンの住人に奪還されることも……愚かにも自分のあるじを侮辱した男が死
ぬことも、すべて、すべてこちらの手の内だ。
哀れなるアンティークドールを誘拐することも、そして彼女がオールドタ
ウンの住人に奪還されることも……愚かにも自分のあるじを侮辱した男が死
ぬことも、すべて、すべてこちらの手の内だ。
「タイガーリリィ。時間牢獄の解除を。それから、影人間数体を此処に寄越
しなさい。目撃者の記憶を削除するために、MEを装備させるのを忘れずに」
しなさい。目撃者の記憶を削除するために、MEを装備させるのを忘れずに」
『了解した』
ジュスティーヌの言葉に応え、機械式合成音声が鳴り響いた。
ジュスティーヌの傍に人影はない。少なくとも、彼女の言葉に答えられる
人間は、此処にはいない。ジュスティーヌ以外の人間は、時間牢獄に囚われ
て、肉体も精神も凍りついているからだ。
ジュスティーヌの傍に人影はない。少なくとも、彼女の言葉に答えられる
人間は、此処にはいない。ジュスティーヌ以外の人間は、時間牢獄に囚われ
て、肉体も精神も凍りついているからだ。
ならばその声は、いったい何処から発せられたものなのか。
それはジュスティーヌの左手から。その掌の上には、人間の眼球がひとつ
あった。その眼球はかすかに振動していた。その振動は人間の声の波長と同
一のものだった。人間の声と同じの波長を発することにより、その眼球は、
人間の発声器官の代わりを果たしているのだろう。
それはジュスティーヌの左手から。その掌の上には、人間の眼球がひとつ
あった。その眼球はかすかに振動していた。その振動は人間の声の波長と同
一のものだった。人間の声と同じの波長を発することにより、その眼球は、
人間の発声器官の代わりを果たしているのだろう。
この眼球は、タイガーリリィという人造人間が有する機能の一部。
都市全域を監視下に置く広域フラグメント監視網"システム・ウォレス"の
基幹ユニットとして稼動しているタイガーリリィの無数ある瞳のひとつであ
り、いまは最下層の《機関回廊》に在る本体の代わりに、あるじであるジュ
スティーヌとの意思伝達機能を有している。
都市全域を監視下に置く広域フラグメント監視網"システム・ウォレス"の
基幹ユニットとして稼動しているタイガーリリィの無数ある瞳のひとつであ
り、いまは最下層の《機関回廊》に在る本体の代わりに、あるじであるジュ
スティーヌとの意思伝達機能を有している。
「タイガーリリィ。献体Mの監視状況を報告なさい」
『……献体Mは現在、プリマヴェラ・ボビンスキとイグナッツ・ズワクフと
ともにオールドタウンに向けて移動中。既に意識を回復。希死願望を刺激す
る《結社》製人造心理も、献体Mの精神に馴染みつつあるようだ』
ともにオールドタウンに向けて移動中。既に意識を回復。希死願望を刺激す
る《結社》製人造心理も、献体Mの精神に馴染みつつあるようだ』
「結構。嗚呼、素晴らしい。彼女の涙と悲しみは、やがて疫病と荒廃を導く
黒の希死願望(スーサイド・ブラック)へと成長する。博士もお喜びになられ
るでしょう。
そして、タイガーリリィ。《機関回廊》と接続し、広域監視網〝システム・
ウォレス〟の基幹ユニットとして機能するよう博士に再改造されたあなたは、
かつての空間認識能力を遥かに凌駕するほどに機能が上昇した。どうですか、
素晴らしいでしょう、博士の叡智は。そして誇りなさいな、博士にじかに触
れられ、博士の理想に殉じることができる名誉を」
黒の希死願望(スーサイド・ブラック)へと成長する。博士もお喜びになられ
るでしょう。
そして、タイガーリリィ。《機関回廊》と接続し、広域監視網〝システム・
ウォレス〟の基幹ユニットとして機能するよう博士に再改造されたあなたは、
かつての空間認識能力を遥かに凌駕するほどに機能が上昇した。どうですか、
素晴らしいでしょう、博士の叡智は。そして誇りなさいな、博士にじかに触
れられ、博士の理想に殉じることができる名誉を」
『…………』
無言。
無言。
タイガーリリィと呼ばれた、いまは姿が見えず、そして声音から女性であ
ると予測される人物は、ジュスティーヌの言葉に答えない。
無言。
タイガーリリィと呼ばれた、いまは姿が見えず、そして声音から女性であ
ると予測される人物は、ジュスティーヌの言葉に答えない。
「……まあ、いいでしょう。あなたの本心がどうであれ、博士の計画は進む。
博士が組み上げた絶対なる恐怖の機構からは、誰ひとりとして逃れることは
できないのですから」
博士が組み上げた絶対なる恐怖の機構からは、誰ひとりとして逃れることは
できないのですから」
そう言ってジュスティーヌは微笑んだ。
この都市に生きるものすべてが、《結社》の計画の構成要素だ。
プリマヴェラ・ボビンスキも、イグナッツ・ズワクフも、メディスン・メ
ランコリーも、オールドタウンの住人(ドール)どもも、このタイガーリリィ
も、異形都市の上層中層下層最下層に住むすべての生命あるものも……そし
て自分さえもが、いずれは《結社》最高幹部《三博士》ヴィクトル・フラン
ケンシュタインに捧げられる供物なのだ。
プリマヴェラ・ボビンスキも、イグナッツ・ズワクフも、メディスン・メ
ランコリーも、オールドタウンの住人(ドール)どもも、このタイガーリリィ
も、異形都市の上層中層下層最下層に住むすべての生命あるものも……そし
て自分さえもが、いずれは《結社》最高幹部《三博士》ヴィクトル・フラン
ケンシュタインに捧げられる供物なのだ。
かつて魔界都市ロンドンの地下奥深くに隠され、ここ異形都市最下層に密
かに再建造された《機関回廊》にて、現在最終調整中の《抹殺者》について
も然り。あの機械仕掛けの巨影、森羅万象あらゆるものに疫病と荒廃をもた
らす悪鬼が立ち上がるときこそ、自分たちの渇望が成就する。
すなわち、人類の天敵、吸血人形(デッドガール)と吸血鬼(モントリヒト)
の完全根絶。この都市に蔓延する人の姿かたちをした疫病は、さらなる疫病
と荒廃によって残り余さず消え去るだろう。
その瞬間を想像して、ジュスティーヌは笑みを浮かべる。
――計画が完遂されれば下層の住人はすべて死に絶えるだろうが、構うこ
とはない。彼女にとって、ヴィクトル・フランケンシュタインの言葉は絶対
だった。逆らうことなどありえない。
かに再建造された《機関回廊》にて、現在最終調整中の《抹殺者》について
も然り。あの機械仕掛けの巨影、森羅万象あらゆるものに疫病と荒廃をもた
らす悪鬼が立ち上がるときこそ、自分たちの渇望が成就する。
すなわち、人類の天敵、吸血人形(デッドガール)と吸血鬼(モントリヒト)
の完全根絶。この都市に蔓延する人の姿かたちをした疫病は、さらなる疫病
と荒廃によって残り余さず消え去るだろう。
その瞬間を想像して、ジュスティーヌは笑みを浮かべる。
――計画が完遂されれば下層の住人はすべて死に絶えるだろうが、構うこ
とはない。彼女にとって、ヴィクトル・フランケンシュタインの言葉は絶対
だった。逆らうことなどありえない。
「汚らわしいものどもが一掃された世界は、かつての栄光を取り戻し、輝か
しいものへと変わるでしょう。素晴らしいことです、半世紀前には果たせな
かった博士の悲願、それがもうすぐ叶う……素晴らしい、嗚呼、素晴らしい。
……あなたも、そう思うでしょう?」
しいものへと変わるでしょう。素晴らしいことです、半世紀前には果たせな
かった博士の悲願、それがもうすぐ叶う……素晴らしい、嗚呼、素晴らしい。
……あなたも、そう思うでしょう?」
ジュスティーヌは己の背後に向けて言葉をかけた。
「ええ。実に素晴らしいことですわ」
声、そして言葉――
それは、女の声だった。
それは、女の声だった。
ジュスティーヌの背後に、ひとりの女性が佇んでいた。
その豊満な肉体には、男を惑わしてやまない色香が漂っている。胸元から
腹部までざっくりと開いた淫靡なコスチュームは、精気を啜る淫魔を思い起
こさせる。
その豊満な肉体には、男を惑わしてやまない色香が漂っている。胸元から
腹部までざっくりと開いた淫靡なコスチュームは、精気を啜る淫魔を思い起
こさせる。
彼女の名は、F05(エフ・フュンフ)。
生前の名は、マリー・マドレーヌ・ドルー・ドブレー。
生前の名は、マリー・マドレーヌ・ドルー・ドブレー。
かつて、幻影都市パリを恐怖に陥れた毒殺魔にして――精鋭人造人間部隊
〈装甲戦闘死体〉のひとりとして蘇り、あるじであるヴィクトル・フランケ
ンシュタインのもと、世界にさらなる恐怖と狂気をもたらす魔人である。
〈装甲戦闘死体〉のひとりとして蘇り、あるじであるヴィクトル・フランケ
ンシュタインのもと、世界にさらなる恐怖と狂気をもたらす魔人である。
「F05さん。あなたに使命と試練を課します。あなたがまだ博士の理想と
悲願に殉じる決意があるのなら、そして一度敗北したあなたを死の淵から救
った博士の慈悲に報いる覚悟があるのなら、その期待に見事応えてみせなさ
い」
悲願に殉じる決意があるのなら、そして一度敗北したあなたを死の淵から救
った博士の慈悲に報いる覚悟があるのなら、その期待に見事応えてみせなさ
い」
「ご安心なさってくださいな、ジュスティーヌ」
妖艶な笑みを浮かべながら、F05は言う。
「哀れなる毒人形メディスン・メランコリーと、比類なき荒廃と疫病の王の
尖兵たる《抹殺者》を用いた、博士の悲願、我らの渇望の成就を導くもの。
――すなわち、この都市においては二度目の現象数式実験。
わたくしが必ずや成功させてご覧に入れましょう」
尖兵たる《抹殺者》を用いた、博士の悲願、我らの渇望の成就を導くもの。
――すなわち、この都市においては二度目の現象数式実験。
わたくしが必ずや成功させてご覧に入れましょう」