SS暫定まとめwiki~みんなでSSを作ろうぜ~バキスレ 未来のイヴの消失 1 (ハシさま)


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    第25巻、34頁――

    混沌の名を冠した異形都市で紡がれるひとつめの物語

    不思議で不条理な街に生きる少年と少女の物語

    不思議で不条理な街に生きる少年とドールの物語


    「未来のイヴの消失」


 異形都市〈ケイオス・ヘキサ〉下層。無限雑踏街。
 昼も夜も灯りが絶えない、不夜城と呼ばれる区画。狭い空間に建築物
を限界まで押し込めたような、雑多で、閉塞感に満ちた場所。可聴領域
ぎりぎりで祈り続ける祈祷塔、排煙を噴き上げる機関工場群、レッド
ゾーンを振り切った残留思念濃度計(ラルヴァカウンター)、路地のそ
こかしこに備え付けられ自縛霊が群がる霊走路(ケーブル)と、各層に
分配される機関エネルギーが流れる導力菅。

 異形都市〈ケイオス・ヘキサ〉下層。無限雑踏街。
 そこは常に灯りに満ちている。そして猥雑な活気で溢れている。合成
食品が使われた調理品を販売する屋台から怒声のような呼び込みの声が
あがり、ハードロック調にアレンジされた祝詞や心霊去勢者(カストラー
ト)によるテクノポップ風の賛美歌などが狂ったように大音量で鳴り響く。

 まるで祭りのような雰囲気だ。昼も夜も、この無限雑踏街で、その祭
りは行われている。なにかを怖れるように。暗がりとそこに棲むものを
怖れるように。

 そしてその祭りの中にいるのは異形のものどもだ。醜悪な顔立ちのト
ロール。見目麗しいエルフ。二本足で歩行する蟻型の《虫蟲》。兎耳を
生やした小柄なプーカ。下半身が馬である《蹄馬》。道端で客寄せをし
ている《猫虎》の娼婦。それに引っかかった〈長足族(フロッギー)〉
の若者。

 かつては人間だった者たち。異形都市〈ケイオス・ヘキサ〉下層の住人たち。
 あの怖ろしい《復活》の日を境に異形の存在に変異した人間たち。
 彼らは、日々を生きている。怖ろしい変異を経て、異形の存在に成り
果てながらも。慢性的な貧困にあえぎ、都市に蔓延する奇病に苛まれな
がらも。終わりが待ち受ける明日に怯えながらも。
 彼らは強く強く今日という日を生きている。
 そして彼と彼女もまた今日という日を生きていた。
 少年と少女。
 少年とドールもまた同じく。


†††


 無限雑踏街から少し離れた場所に、そのホテルはある。
 下層では珍しい高層ホテルだ。高級感あふれる豪華な内装が売りで、
滞在にはそれなりに高額の代金が要求される。一泊するだけで下層の住
人が一年に稼ぐ金が残らず吹き飛ぶくらいの額が。

 だからそのホテルを使用するのは、貧困層が多い下層の住人ではな
く、それ以外の層の人間だ。〈ヘキサ〉の中でも変異の度合いが著しい
人間、そして貧困に苛まれる人間が集まる下層以外の層に住む人間。

 たとえば、大企業のビルディングが聳える中層に住む、見た目は普通
でそれなりに裕福な人間であるとか。たとえば、文化委託政策が進めら
れ旧世界の文明文化が保存されている上層に住む、怖ろしい変異を免れ
た『完全な人間』であるとか。

 変異した人間を嫌う上層の住民は滅多なことがない限り、他の層に比
べて格段に治安が悪い下層に来ることはない。反対によく下層を訪れる
のが、中層の大企業群の企業戦士たちだ。

 麻薬の売買、暴力、売春が横行する治安の悪い下層は、中層の大企業
が都市行政の目を欺き、非合法な商談や魔導実験を行える唯一の場所
だった。
 都市法が完全に意味を成さなくなった最下層は、危険な幻想生物や
〈深淵の者〉が率いる覚醒者の群れ、機械生命体『ファイレクシア』が
巣食う地獄であるため、下層の人間すら立ち寄らない。

 そのため、中層の大企業は自分の欲望を満たすために下層の住人を利
用する。その逆も然りだ。

 とどのつまりこのホテルは、非合法な商談あるいは魔導実験を行うた
めに下層を訪れる中層出身の企業戦士が、つかの間の滞在場所に選ぶ場
所だった。
 仮に下層と中層の住人の間で揉め事が起こっても、ここには数秘機関
を身体に埋め込み生体機能を強化した警備員がいるし、すぐに公安に連
絡がゆき、数分もしないうちに都市最強の魔導特捜官ブラックロッドが
鎮圧にやってくる。

 だからトラブルに巻き込まれ凶悪な犯罪者に追われることになっても、
このホテルへ逃げ込むことさえできれば、いのちの保障はされるという
わけだ。

 だが――
 どんなとき、どんな場所でも、破ってはならないというルールがあ
る。これから不運な運命を辿る男は、そのルールを破ってしまったの
だ。ルールを破ったものには制裁を。それが〈ヘキサ〉下層で唯一絶対
の法であり、下層と中層の緩衝地帯でもあるこのホテルにおいても、例
外ではなかった。


†††


 ホテルの正面玄関の自動ドアが開き、その向こうからふたりの人影が
歩いてきた。ひとりは白人(ファラン)の少年。もうひとりはティーン
の少女だった。

 少年はごく普通の格好をしていた。下層に住む10代のお手本のよう
な個性のない服装だった。反対に少女は華美に自分を着飾っていた。少
女の服装は清楚さと猥雑さが奇妙に同居していた。

 ディオールの漆黒のショートドレス=ダーマプラスティック製/その
殺人的に短いスカートからのぞく陶磁器のように白く細い足/胸元で輝
く真紅の模造宝石/妖狐の毛皮で仕立てられた豪奢な白いコート/拘束
具のようなコルセットとファッションベルト/過剰な装飾と極端にタイ
トなシルエット。

 ふたりはフロントで手続きもせずにエレベータへと向かった。行き先
は最上階。不審に思ったベルボーイがふたりに近づこうとしたが、ふい
にその足を止めた。ベルボーイは少女に釘付けになっていた。正確に
は、少女の髪の色と瞳の色にだ。

「わたしになにかご用?」

 少女はベルボーイに向けて笑みを浮かべた。破滅的な女(ファムファ
タール)という形容がこれほど似合う表情もあるまい。まだ幼い顔立
ちに浮かぶ大人の笑顔。男を破滅させる危険な表情。

 ベルボーイは少女の、少し黒く脱色した金色の髪と緑色の瞳を凝視して
いた。そして、目を見開き、恐怖に震えながら、ゆっくりとベルボーイは後ずさる。
少しずつ、少しずつ。顔をひきつらせながら。けれど少女から決して目を離さずに。
 ベルボーイは恐怖を憶えていた。少女の髪と瞳の色の意味するところを理解したから。
 それは怪物の証。たとえ姿かたちは美しい少女であろうとも。彼女は危険な怪物だった。
 だが、どうしても少女から視線を逸らすことができなかった。
 不思議な魔力が彼のすべてを支配していた。決して抗えない魔性の魅力だった。

 そのとき、ベルボーイのインカムに、フロントからの指示が届いた。
とっとと元の位置に戻れというものだった。そこで彼は正気を取り戻した。
頭にかかっていた靄が急に晴れたような感覚だった。

 改めてベルボーイは不審なふたりのことをフロントに伝えようとした
が――そこで異常に気がついた。
 他のホテルの従業員が、明らかに不審なふたりに対して完全に無関心
を装っていたのだ。揉め事には極力目を背けていたいというように。そ
してこれから起こることをすべて知っているかのように。

 すると、エレベータを待っていた白人の少年が、フロントにいる人間
に向けて目配せした。了承を示す頷きが帰ってきた。改めてベルボーイ
のインカムに指示が下る。先ほどと同じものだ。

 ちん、という音がした。エレベータの扉が開かれる。その中に足を踏
み入れるふたり。少年がボタンを押す。ゆっくりと閉まる扉。

「お仕事がんばってね」

 その少女の言葉とともに、扉は完全に閉まり、少女とベルボーイの繋
がりは永遠に絶たれた。


†††


「いやらしい目で見ていたわね、あの人間(ヒューマンボーイ)。あな
たと同じドールジャンキーかもね、イギー」
「このホテルは中層の企業が経営してるんだ。社員の教育は徹底されて
いるはずだよ。リリムは危険な怪物で、決して近づいちゃいけないってね」

 ――ハンドバックから手鏡を取り出して口紅を直す少女と。
 ――それに気の無い返事をする白人の少年。

「でもとってもいやらしい視線だったわ。まるでつま先から頭のてっぺ
んまですべて舐めまわすような視線だったわ。絶対に素質があるわね」

 そして耳の裏にお気に入りの香水『殉教の処女』をつけ、少女は少年
に言った。 

「あなたみたいなドールジャンキー、リリムの見せるつかの間の蠱惑
(アルーア)に耽溺する素質が。そう思わない? イギー」

 少女の言葉と笑み。先ほどベルボーイに向けたものとは違う、もっと
危険で、もっと魅力的な笑みだった。その先に待ち受ける破滅を予感しながらも
決して抗えない、魔性の魅惑を宿した表情だった。

 彼女は人間ではなかった。見た目は普通の人間の少女だったが、もっ
と美しく、もっと危険なものだった。

 思春期を迎えた少女を、ただの人間から、陶器の人形(ドール)に変異
させてしまうナノマシンを子宮(マトリックス)の中に宿し、吸血あるいは
性交によってナノマシンを人間に植付け仲間を増やす、〈ヘキサ〉全域において、
吸血鬼と並びもっとも危険な種族に数えられるものたち。リリム。

 あるいは異種間雑種。
 あるいはカルティエドール。
 あるいはガイノイド。
 あるいはデッドガール。

 白人の少年はさまざまな名前で呼ばれる魔物の少女に対して肩をすく
めてみせた。彼は少女の言うことについて議論するつもりはなかった。
無意味なことだし、彼女の言葉が――少なくとも自分に関しては――真
実だったからだ。つまりは自分がこれ以上ないほどにドールにのめり込
んでいる、どうしようもない偏執狂だということ。

「そんなことより、プリマヴェラ。仕事の確認をしよう」

 だから彼女の話につきあうより、もっと建設的な話をするべきだっ
た。そう、たとえば――

「ぼくらの、殺しの仕事の」

 少女=デッドガールの名は、プリマヴェラ・ボビンスキ。
 白人の少年=ドールジャンキーの名は、イグナッツ・ズワクフ。
 過酷な環境の下層において暗殺の仕事を請け負っているふたり。
 少年と少女。
 危険な少年と危険なドールだった。


†††


 エレベータが最上階につくまでそれなりに時間があった。プリマヴェ
ラとイグナッツが仕事の内容を簡単に確認できる程度には。

 イグナッツは機関電信(エンジンフォン)を取り出し、ディスプレイ
のメール受信BOXをクリック。仕事の内容が書かれたメールを閲覧する。
そのメールにはふたりの上司、オールドタウン=ドール自治区の支配
者、マダム・マルチアーノから依頼された殺しの標的の経歴が書かれて
いた。

 ふたりの標的は中層に本社を置く『メルモフレーム』の社員だった。
魔術兵器ゴーレムの制御する自動人形オルゴーレを製造する、国連と特
別契約を結んだ大企業だ。

 オルゴーレはその機械仕掛けの美しい歌声で、ゴーレムたちを鼓舞
し、多くの〈眷属邪神群〉を滅ぼした。すでに一線を退いたゴーレムととも
に彼女らの生産量は徐々に減ってきてはいるが、一部の好事家=ドール
ジャンキーからの需要が大きく、軍事用に比べ機能をデチューンしたシ
リーズが若干数だが一般販売されている。
 それでも下層の住人にはとても手が届かないほど高価ではあった。
最近ではさらに安価になった『VOCALOID』シリーズが発売されているら
しいが、下層ではまだ出回ってはいない。

 男は他の中層の企業戦士と同じく、下層での商談を専門としている人
間だった。オールドタウン=ドール自治区で商談を行う人間。ドールが
生きていくために必要な商品を売りさばく人間だった。

 イグナッツが標的の経歴をざっと述べている間、プリマヴェラは、退
屈そうに髪の毛をいじっていた。彼女は、自分が主人公ではない物語に
はすぐ飽きてしまう性質なのだ。

 どうせこの確認は形式的なものだ。イグナッツもそれほど重要ではな
いと考えていた。だから特別プリマヴェラに注意することもせず、ひと
りで話を続ける。
 しかし――
 経歴を確認すればするほど自分たちとはまったく違う、恵まれた人間
だとイグナッツは思った。なぜ、そんな恵まれた人間が殺されなければ
いけないのか。このゴミ溜めのような下層で生きる自分たちふたりに。

「変なやつよね。どうしてドールの誘拐なんてしたのかしら。しかも
オールドタウンのアンティークを。結果なんてわかりきってるのにね」

 よかった、とイグナッツは思った。興味がない素振りをしながらも、
彼女は話を聞いてくれていた。

 プリマヴェラの言葉通りだった。彼がいまからいのちを奪われる理由
は、下層のオールドタウン=ドール自治区から一体のアンティークドー
ルを誘拐したからだった。

 ドールの誘拐――それは都市行政に対する明確な反逆行為だった。人
間をドール化させるナノマシンを持つリリムは、下層のごく一部の区画
でのみ生きることを許されている。これ以上都市にドール病の感染者を
増やすわけにはいかないからだ。だから、リリム(たとえそうでない
ドールでも)を下層以外の層に持ち出すことは、都市法で禁止されてい
る。都市法を破ったものには厳重な処分がなされるが、ドールの持ち出
しはもっとも罪が重く、その罪状が明らかになった時点で上層兵による
無裁判処刑が執り行われる。

 中層の企業戦士である男がそのことを知らないはずがない。なにを
思ってドールの誘拐などたくらんだのか。それはふたりが考えることで
はなかったし、ふたりにとってもどうでもいいことだった。自分たちは
自分たちの仕事をするだけだ。

 すでにこのホテルの支配人には話をつけている。事がすべて終わった
あとの処理も。準備は自分らがここに足を踏み入れた時点ですべて終わっ
ている。あとはルールを破った愚か者に制裁をするのみ。

 エレベータが最上階へとついた。ちん、という音とともに、扉が開かれる。
 プリマヴェラが外に出る。イグナッツがそれに続く。
 そしてふたりは互いに顔を見た。さあ、仕事の時間だ。


†††


 部屋番号300=標的のいる部屋のドアをいきなり蹴破り、プリマヴェラ
は中に踏み込んだ。標的はテレビを見ていたようだった。テーブルの上には
黄金色の酒がそそがれたグラスといくつかの錠剤が乗っていた。おそらく
多幸剤(ヒロイック・ピル)だ。

 突然の闖入者に愕然とする男。年齢は30代前半、外見には特に変異
は見られない。おそらく内臓器官か脳神経系が変異しているのだろう。

「こんにちは、ヒューマンボーイ。ああ、そして、さようなら」

 そう言ってプリマヴェラはかわいらしく微笑んだ。彼女は殺しをする
ときはいつだってそんなかわいらしい表情を浮かべるのだ。

 自分の置かれた状況を理解した男は憤然とプリマヴェラに襲い掛かっ
た。素手で。それは悪手だ。リリムであるプリマヴェラにただの人間
(そうでなくても)が白兵戦を挑むのは自殺行為だ。彼女の細腕はコン
クリ壁を一撃で破壊する。人間など紙切れに等しい。イグナッツは、プリ
マヴェラが男を細切れにして、それでおしまいだろうと思っていた。
 だが結果は違った。男の動きが急に加速した。人間の動きではなかっ
た。少なくともイグナッツの目には捉えられなかった。しかしプリマ
ヴェラは別だった。彼女は咄嗟の判断で床を蹴って後ろに飛んだ。大き
な音が響いた。男の拳が部屋の床にめり込んでいた。人間の力ではない
――おそらく、数秘機関を埋め込んで生体機能を強化しているのだろ
う。サイバネティクス=〈ヘキサ〉ではありふれた、そして外の世界で
は稀少とされる技術のひとつだ。

「殴り合いをお望み? ええ、いいわよ。受けてたってあげるわ」

 プリマヴェラが最後まで言い終わらないうちに男は殴りかかってい
た。なかなかに年季の入った身のこなし方だった。従軍経験があるのか
もしれない。〈人間戦線〉と〈クトゥルー眷属邪神群〉との殲滅戦に従軍し
た軍人崩れ。あの素晴らしき人間の文明を守るというお題目で始められ、
結局はヨーロッパの大地を死滅させたあの大戦争の片棒を担った男たち。

 それならばリリムであるプリマヴェラといい勝負が出来ても不思議で
はない。けれどこの程度の技量は下層においては平均点だ。そしてプリ
マヴェラの技量は平均点を遥かに超えていた。

 プリマヴェラは男の右ストレートを軽くいなした。カウンターで相手
の顎を狙うがこれはかわされた。プリマヴェラの右ふくらはぎに放たれ
る男のローキック。しかしそれよりも早くプリマヴェラの上段蹴りが男
の延髄に炸裂した。呻き声を上げて膝をつく男。不敵な笑みを浮かべる
プリマヴェラ。

「もうお寝んね?」

 プリマヴェラの嘲笑。男は必死に立ち上がろうとしていたが、思った
よりもダメージが大きいらしい。それも無理のないことだった。なにせ
リリムの蹴りを喰らったのだ、いくら数秘機関の埋め込みで強化してい
るとはいえ、男の意識はもはやばらばらに違いない。いますぐ床に倒れ
伏して、そのままいつまでも寝ていたいという奴だ。だが男は闘志を奮
い立たせて立ち上がった。

 ドアの近くで戦いを見守っていたイグナッツは心中で男に喝采を送っ
た。だがそれまでだろうと思った。数秘機関を埋め込んだ程度の強化で
はリリムであるプリマヴェラに勝てるはずが無い。

 実際イグナッツの思ったとおりになった。両者が拮抗していたのはほ
んの数秒で、あとは一方的な戦いになった。かわいらしく笑うプリマ
ヴェラ。顔を歪める男。獲物を痛めつけるプリマヴェラ。サンドバック
になる男。無傷のプリマヴェラ。全身傷だらけの男。

 だが男はまだ致命的な一撃は受けていなかった。それはプリマヴェラ
が遊んでいるからだった。わざと手を抜いて相手の抵抗を楽しんでいる
のだ。なにせ彼女は最近ずっと殺しをしていなかったから。ひさしぶり
の獲物をじっくりといたぶり、堪能して、それから殺す気らしい。

 そしてプリマヴェラの蹴りが男のみぞおちに沈んだ。げえっ、と男は
もんどりうちながら厨房の方へと転がっていった。悠然と、たっぷりと
余裕をもってプリマヴェラはその後を追った。そして立ち上がり、刃渡
り20cmのナイフをにぎって自分を睨みつける男を見つけた。

「あら、物騒なものをもってるじゃない。そんな"大きくてご立派なもの"で、
わたしをどうするつもりかしら? 他のドールにやったのと同じように、無
理やりいうことをきかせる気?」

 答えは決まっていた。男はナイフを振りかぶりプリマヴェラ目掛けて
投げつけた。数秘機関で強化された筋肉が放つ投擲だ。ナイフは拳銃か
ら放たれる銃弾に迫るほどの速度でプリマヴェラに襲い掛かった。

 だが彼女はまったく慌てなかった。相手の神経を逆撫でするように、
これ見よがしに上品な仕草で、投擲されたナイフを、二本の指で挟んで止め
た。男はさらにナイフを投げつけたが結果は同じだった。

 そして最後の一本を投げつけようとした男の手が止まった。ナイフが
真っ赤な花=薔薇の花束に変貌していたからだ。まるで手品だ。
 量子の魔法――リリムの子宮(マトリックス)が起こす奇跡。
 現実を侵食する少女たちの悪戯。それは物質の在り様さえ変えてしまう。

「あなたってけっこう気障なのね。でも趣味が悪いわ」

 初めて男の顔に恐怖の色が浮かんだ。敵対者=プリマヴェラの正体を
知ったからだ。リリムはヨーロッパの死滅の一端を担った種族だ。自動
人形を製造するメルモフレームの人間なら、彼女らに宿る力は身にしみ
て理解しているに違いない。またライバル会社の製品=カルティエ
ドール=リリムの怖ろしさも。

 男は恐慌状態に陥り、プリマヴェラから逃げようとした。だがすべて
が遅かった。男が取るべき最良の方法はプリマヴェラが来訪したときに
どんな手段を使ってでも逃げることだった。だが彼はそれを理解してい
なかった。彼女がどういう存在なのかを理解していなかった。

 男の必死の逃走は無意味だった。本気になれば銃弾にも追いつけるリ
リムの脚力で、プリマヴェラは厨房の奥にある隠し扉に逃げ込もうとし
た男の前に先回りし、「ばあ」と舌を出して驚かせた。
 そしてプリマヴェラは驚愕でかたまった男の首根っこを掴み、そのま
ま床に叩きつけた。

「最後に聞くわ。あなたがさらったドールはどこ?」
 男は震える指先でクローゼットを示した。まるでそうすればいのちが
助かるとでもいう様に。けれど男の希望的観測は裏切られる。絶対的強
者に飽きられた弱者の末路はいつだって決まっている。

「ありがと、ヒューマンボーイ。じゃあね」

 耳元でそう囁き、プリマヴェラは男を持ち上げ、窓に向かって投げつ
けた。派手な音を立ててガラスが割れた。宙に投げ出される男。そして
地面に向けて落下する。絶叫をひとつ残して。

 地上の方から何かが潰れたような音が聞こえた。そして次々に悲鳴が
あがった。プリマヴェラは結果よりも過程を重視する性質だったから、
地上の様子を確認したりはしなかった。

 彼女はクローゼットの方に行き、すでにその中を調べていた相棒に語
りかけた。

「悪い大人についていっちゃった悪い子の様子はどう? イギー」

「問題ないよプリマヴェラ。彼女は無事さ。薬で眠らされているだけだよ」

 イグナッツはクローゼットの中に隠されていたトランクケースの中身
を彼女に見せた。

 トランクケースの中には少女がひとり入っていた。まばゆいブロンド
が波うち、ゴシックロリータ風のドレスを纏った少女。華奢な手足を丁
寧に折り曲げられ、ケースの中にすっぽりと収まっている少女。

 少女は人間にしか見えなかったが、人間ではなかった。陶磁器のよう
に白い肌。なめらかな球体関節(ポールジョイント)。

 彼女もプリマヴェラと同じくドールだった。もっとも彼女は人間から変
異したリリムではなく、生まれたときから人形であるアンティークであった
のだが。

「まったく、しつけがなってない子どもは困るわ。迷惑ばかりかけて」

「それをきみが言うのかい、プリマヴェラ」

 イグナッツは苦笑した。彼にしてみれば、このふたりのドールはどっ
ちもどっちだった。けれどこれ以上刺激すると藪蛇になりそうなので、
イグナッツはそれ以上言葉を続けるのをやめた。

「ともかく、帰ろう。僕らのホームへ。彼女――メディスン・メランコリーといっしょにね」