SS暫定まとめwiki~みんなでSSを作ろうぜ~バキスレ 女か虎か(電車魚さま)  16: HOWLING


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 葛西に火傷を負わされた蛭の頬は、時間が経つにしたがい引き攣れて痛み出した。
 浅達性の第Ⅱ度熱傷。一見派手に発赤してはいるが、真皮にまでは達していない。新陳代謝の早い
若い体なら、跡も残らず一週間程度で完治するものだ。
 もっとも今の蛭にとって、火傷の程度などどうでもいいことだった。
 面積の広い眉間に、刻印のごとく深い皺。普段は利発さと気の弱さを半分ずつ覗かせる黒瞳は、
今は鋭く研ぎ澄まされて一枚の紙片に吸い寄せられている。
 白い無地の便箋だった。惚れ惚れするような見事な筆跡で、万年筆による文章が並んでいる。
 文字サイズも字間も完璧そのもの、市販の仮名手本とまごわんばかりだ。だが注意深く観察すれば、
跳ねや払いといった細かい部分に微少なブレが見てとれる。筆記者の手の震えによるものに相違ない。
 アイの字だった。

『蛭へ
 あなたがこれを目にするとき、私は既にこの世にいないか、
 サイの命によって彼の元を去った後かのいずれかでしょう。
 いずれにせよ、今後私が彼の力になることは極めて困難であると予想します』

 字が乾ききる前に折り畳まれたものと見え、青いインクは随所で掠れている。相当に急いで
書かれたものと容易に知れた。
 恐らくはアジトに戻ってきてから、サイが帰還するまでの短時間に記されたもの。

『上記の予想を踏まえた上で、あなたに託さなければならないことが幾つかあります。
 身勝手と憤られるかもしれませんが、志潰えた哀れな女の最後の願いと、
 寛大な心をもって聞き届けていただければ幸いです』

 ここで一行、行間が空く。

『私はあなたが思っている以上に、あなたを高く評価しています。
 単純に能力や技術のみをいえば、あなたを遥かに上回る協力者は少なくありません。
 ですがあなたには、それを補って余りあるだけのサイへの忠誠があります。
 あなたなら決してサイを裏切らない、そう確信するからこその今回のお願いです』

 目で追う文章は脳内で、耳元に語りかける声となって再生される。
 イントネーション、単語と単語の切れ目、息遣いまでリアルに感じられる。

『サイの傍を離れないでください。
 彼の杖となって彼を支え、盾となって彼を守ってください。
 彼は無限の可能性を秘めてはいますが、決して無敵の存在ではありません。
 悩みも傷つきも倒れもする一人の人間です。
 彼に与する協力者たちの大半は、この単純な事実を知らず、
 誇張された偶像としての≪怪盗X≫を崇拝しています。
 彼の真の姿を目の当たりにすれば、彼らは失望して離れていくでしょう。
 最悪の場合は反逆すら試みるかもしれません。
 精神状態が極めて不安定な今の彼に、それを抑えることは極めて困難です。
 忘れないでください。
 今この状況でサイを支えられる人間は、世界にあなた一人しかいないということを』

 また一行、空行。

『≪我鬼≫の一件で荒れたサイが、こちらの思いもよらぬ行動に出るかもしれません。
 葛西の動向も同様に気にかかります。
 この先何が起こったとしても動じず、サイの傍に控え、彼を守ってくださるようお願いします。
 そのために必要と思われるものを託します。
 齧りついてでもその場所を手放さないでいてください。
 私の分まで、サイのことを宜しくお願い致します』

 最後の一行は特に急いていたらしく、ほとんど走り書きに近い状態だった。
「これって……」
 サイに殺されるおそれを織り込んだに留まらない。破れた夢を前に彼女はこれを書いたのだ。
 この文章は蛭に宛てたメッセージであると同時に、ある種の訣別文でもある。
 サイの元で彼の望みを共に追い続けた、自分自身への離別の手紙だった。
 受け止めるべき、なのだろう。本来は。涙を拭いて奮い立ち、この文面にある通りアイの分まで
サイを支えると、心に誓うのがあるべき姿だろう。しかし今の蛭にはそれができなかった。
 アイの意思自体は理解できる。
 だがサイに仕えていられる時間がほとんど残されていない今の自分が、彼女の期待にどれだけ
応えられるというのか。
 蛭は奥歯を食いしばった。
 節くれだった無骨な手に力がこもり、白の便箋に縒れを作った。

 深淵に沈むサイの精神を浮上させたのは、風の唸りにも似た遠い吼え声だった。

 るぉぉおぉぉぉん
 るぉぉぉぉおおぉぉおん

 大きくはない。耳を塞げばそれで遮断できる程度の声音だ。遠吠えの主は力の限り吼えているに
違いないが、隔たる距離が大気の震えを微細なものにしている。
 それでもなお咆哮はサイの神経を逆撫でした。
 ある種の肉食獣を想起させるこの遠吼えは、今の彼が最も聞きたくないものだった。
 やかましい。
 俺にその声を聞かせるな。
 苛立ちが湧き上がる。心臓の激痛がいつの間にか消えたことも、腹から胸へ、胸から喉へと
せりあがっていた嘔吐感の消滅も、じわじわと沸点に迫る意識が掻き乱してうやむやにしてしまう。
「黙れ……」
 低く呻く。
 サイの都合などおかまいなしに、遠きにありて吼えるなにかは更に高々と咆哮する。

 るぉぉん
 るぉぉおぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉん

「黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れっ!」
 跳ね起きると同時の絶叫は、闇に閉ざされた空間に残響とともに響きわたった。
 空気が振動した。肺の酸素を全て吐ききったとき、冷えきった見えざる手が顔を撫でた。周囲の
温度は明らかに、日本の冬の平均気温をはるかに下回っていた。
 その低すぎるまでの気温が、逆上しきったサイを我に返らせた。
 おかしい。
 この尋常でない寒さは何だ。まるで北の異国にいるような。
 全身の神経を研ぎ澄ませながら、サイはもうひとつの違和感に思い至った。
 何も見えないことだ。
 常識を超えた知覚を持つ彼に、暗闇は何の障害にもならない。≪我鬼≫との戦闘においてそうだった
ように、夜の底でも昼同然の視界が得られる。本来であれば。
 しかし今眼前に広がっているのは暗黒だった。
「何、これ……何、が」
 細胞の異常が続いているのか、それとも。
 分からない。何ひとつとして理解できない。
 身を強張らせるサイの耳に、さっきの咆哮が再び届いた。
 聴覚への刺激は、視覚をシャットアウトされた脳をひときわ激しく揺さぶる。

 るぉぉぉぉん
 るぉぉおぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉおおん……

 恐慌がまた襲ってきた。耳を塞いで声の限りに喚いた。
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさいっ!」
 しかし耳朶をなぶる遠吼えは、次第に変化を呈しはじめた。

 るぉ……おおぉん
 おぉぉぉぉおおおおおん

 おおおおぉぉおおぁあああぁああん
 あぁぁあ………ぁぁん
 ああぁあぁああぁぁぁぁあぁあああぁぁぁぁぁん

 咽喉を噴き上がり響く力強い咆哮が、すすり泣くような声へと変じていく。
 横隔膜を痙攣させ、涙と鼻水を垂れ流しながら泣きじゃくる人間のそれへと。ドップラー効果に
しては異様すぎる変化。
 耳を塞ぐ手を放し、サイは周囲の気配をまさぐる。
 視界が明るく開けたのはそのときだった。
 毛の短い絨毯のような、朱金色の野が目の前に広がった。
 夕日を浴びて赤く輝く、刈り込まれたあとの麦畑。

 あああぁぁああぁん
 あぁぁん……
 ああーん……
 あーん……

 弾かれたように振り返る。
 子供がそこにいた。
 まだ十にもなるまい薄汚れた少年が、地に置かれた棺に取りすがり、全身全霊で泣きじゃくっていた。
 ――これは?
 神経を尖らせるサイの脇に、フッと新たな気配が湧く。
 霧のように浮かび上がるのは、一様に純白の服を着た、十数人の人の群れ。

『かわいそうに』
『人食い虎に襲われるなんて……まだ冬にもなっていないのに』
『骨しか残らなかったって話だぞ』
『あの家の息子、確かまだ八つでしょう? これからどうするのかしら』
『どうも何も……誰かが引き取るしかないだろう』
『誰かって誰よ。どこの家もそんな余裕ないわよ……』

 しばらく日本を拠点に活動していたせいで、脳が日本語漬けになっていた。そのため彼らが囁きあう
言葉が何語か、把握するのに数秒を要した。
 中国語、それも東北官話と呼ばれる北東部の方言。
 サイは顔をしかめた。
 何かと思えばくだらない、ただの夢か。
 よくあることだ。他人の中身を覗くことでトレースした彼らの断片が、おもむろに浮かび上がって
脳の一部を占拠する。恐れることも懸念することもない。いずれ脳細胞とともに変異し崩れて
消し尽くされる情景だ。
 さて、これは誰の中身だろう。
 記憶の主とおぼしき泣き喚く子供を、サイは観察者の目で注視した。
 汚らしく涙と鼻汁にまみれた顔は、よく見れば日焼けと垢とで黒々としている。骨格にそって
健康的に肉がつけば、それなりに愛らしい少年であるに違いない。だが悲しいかな栄養不足でこけた
頬が、その顔から愛嬌を奪っていた。

 ――貧乏農家の倅(せがれ)か。たぶん、黒竜江省か吉林省あたりの。
 ――あの白服は中国の喪服……早死にした親の葬式ってとこだな。

 本人の容貌、周囲の状況、そしてさっき耳にした会話から、サイはそう結論を下した。
 彼の記憶の中にそのプロフィールに合致する人物はいなかったが、どうでもいいことを忘れてしまうのは
いつものことだ。

 ――誰だっけ、本当。全然思い出せない……
 そう考えたとき自嘲の笑みがこみ上げた。
 ――はッ、馬鹿馬鹿しい。こんなこと思い出そうとしてどうなるっていうんだ。
 ――どうせいずれ全部忘れてしまうのに。
 ――忘れて化物になり果てるのに。

 白の喪服の群れの中に一人ぶかぶかの貫頭衣で立つサイは、普通に考えれば相当目立つはずだが、
気に留めるそぶりを見せる者はない。
 誰の目にも映らぬ傍観者。それがこの場におけるサイの立場らしい。

 棺にすがりつく少年を冷めた目で見つめていると、 
『新生(シンシェン)!』
 白喪服の林をかき分けて、小さな影が走り出た。
『新生、新生、なかないで。かおをあげて』
 現れたのは少女だった。
 泣きじゃくる少年とさして変わらぬ年の。
『ほら、なみだをふいて。ね、てぬぐいをあげるから。かおをふいたらわたしをみて、新生。
 わたしのめをみて』
 この退屈な情景は、いつになったら終わるのだろう。
 ため息をついたサイは何の気なしに少女の顔に視線を投げ、そして息を呑んだ。

 ――アイ。

 似ていた。あの女に。
 体のわりには長くすらりと伸びた手足。決して派手でも華やかでもないが、パーツひとつひとつが
精緻に造形され、バランスよく整えられた品のよい顔。まだ幼いが、もう二十年ほど待ちさえすれば、
彼女によく似た涼しげな印象の美女ができあがるだろう。
 硬直するサイを尻目に、少女は言葉を続ける。
『だいじょうぶよ、新生。なかなくても。だって新生はひとりじゃない。わたしがいるわ』
 脂気がなくぱさついた少年の髪を、この上なく愛おしいもののように少女は梳いた。
『わたし、新生のそばにいる。なにがあってもずっとずっと、ずうっと新生のそばにいるわ。
 だから新生、ないちゃだめ』
 涙と鼻水で汚れた少年の顔を、少女は手にした布で何の気後れもなく拭った。
『わたしは、月亮(ユエリャン)。新生のそばの月亮よ。いままでも、これからも、ずっと……』
 少年の体をきつく抱き締める、アイによく似た少女。
 サイは呆然と立ち尽くしたまま、目の前の光景をただ眺めていた。

『――それは面白いことになったね葛西』
 携帯の通話口から漏れる声が、クク、と低い笑いを漏らした。
『この目でその光景を見られないのが残念だよ。隠しカメラでも預けておけばよかった』
「どうですかねえ、お預けいただいても満足いただける画(え)が撮れたかどうか。
 ビデオ撮影しながら猫かぶれるほど、俺ぁ器用じゃないもんで」
『やってやれないことはないだろうさ』
 軽く言い放つ電話相手に、葛西は小さくため息をつく。
 好き勝手言いやがって、こっちの苦労も知らないで。
 吐く息に滲んだ疲労は、幸いにも主人の耳には届かなかった。あるいは届いたにもかかわらず
無視された。唇の間に覗く白い歯が、ありありと思い浮かぶような声で主人は続けた。
『随分と悪あがきを重ねてきたようだが、これで≪あの子≫も思い知るだろう。自分が一匹の怪物に
 他ならないとね』
「また突き放したことを仰いますねえ、ご自分のお子様に向かって」
『突き放すも何も事実だからね。≪あの子≫は元々そういう存在として産み出されたんだ、本来の
 自分の正体(なかみ)を悟るだけのことさ。如何ともしがたい現実を受け容れるのは、子供が大人に
 なるのに必要な儀式だよ』
「ひっでぇ父親だ」
『厳格な教育方針と言ってもらいたいね』
 お子様と葛西は口にしたが、厳密には≪改造を施したクローン体≫だ。つまり電話口の向こうに
いる男と、子供じみた癇癪で周囲を振り回すあの少年は、この世で最も互いに近しい存在といえる。
 しかし両者を比べてのこの違いはどうだ。
 ――DNAってのは当てにならないねぇ全く。
 携帯を耳に押し当てながら、葛西は肩を竦める。
「……お子様の確保に関しては、これで障害は無くなったと考えていいと思います。もともとあの女さえ
 いなけりゃ楽に運んだはずの任務でしたからね。で、どうなさいます? 何なら例の虎モドキの
 始末より、そっちを優先するって手もありますが……」
『いや、≪あの子≫の捕獲は後回しでいい』
 声は言下に否定した。
 その即断ぶりに葛西は瞬く。
「虎モドキの処理が最優先ってことですか。まさかとは思いますが焦ってらっしゃるんですか?
 あなたらしくもない……」
『そういうわけでもないんだがね』
 ククク、とまた笑い声。
『今は泳がせておいた方が、あの子が苦しむ様をより長く楽しめるじゃないか』
 葛西は思わず携帯を耳から離した。受話口から何かが溢れ出してくる錯覚にとらわれたからだった。
 どす黒いもの。どろどろと粘っこく、耳から侵入して内側から蝕むもの。
『どうした、葛西?』
「いえ」
 知らず知らずのうちに唇が歪んでいた。携帯を再び耳に押し当て、湧き上がる喜びを率直に言葉で示した。
「今改めて思ったんですが……俺ぁ本当に、あなたってお人について来て良かったですよ」
『それは良かった』
 当然のように、声。

 怪盗"X"のようなまがいものとは違う。この男こそは真の悪。
 磨かれた吐き気を催す思考回路。いかなることにも揺らがぬ黒い脳細胞。
 死に場所を探していた自分に、生まれて初めて心から『生きたい』と思わせた男。

『ところで葛西。話は変わるがね』
「は……」
 名前を呼ばれて我に返った。
『そちらに戻ってから、≪あの子≫の様子に何か変化はないかい?
 何でもいい、どんな些細なことでも構わない』
「変化?」
 思い当たらない。普段以上に激しく怒りを爆発させてはいたが、それも所詮そこまでのことでしか
ない。あの怪盗の不安定な精神を思えば充分に想定可能な範囲だ。
『そうか。いや、≪あの子≫が≪あれ≫の細胞を取り込んだと聞いてね』
「取り込んだっつうか潜り込まれたって感じですけどね。それがどうかしましたか?」
『拒否反応だよ』
 声が答えた。
『二種類の異なる強化細胞が同一肉体内で接触すると、激しく反発しあって互いを拒絶する。反応は
 一方がもう一方を制するまで続き、決して共存しあうことはない。少なくとも、実験によれば
 そういうデータが出ている』
 葛西は首をかしげた。彼は火の扱いには卓越しているが、こうした方面には門外漢の域を出ない。
そもそも強化細胞自体にまるで興味がないから尚更だ。
「はぁ。どうもよく分かりませんが……俺が見た限りは全く」
『ふむ、残念だ。興味があったんだがね』
 髭の生えた顎を撫でさすったらしい間があった。
『怪物として生を享けた細胞同士、果たしてどちらが勝つのか……』