SS暫定まとめwiki~みんなでSSを作ろうぜ~バキスレ 女か虎か(電車魚さま)  15: BYE BYE BEAUTIFUL (2 > 2)


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

 部屋を出たアイは立ち止まらなかった。あくまで音を立てずひそやかに、玄関へと続く細い廊下を
足早に歩いた。
 もともとサイに付き従い、国から国へ街から街へ飛び歩いていた流浪の身だ。よって私物は皆無に等しい。
彼から下げ渡された品はすべて置いて去るつもりでいるから尚更だった。
「惨めだな。主人からの三行半とは」
 耳に届いた低い呼びかけは微量の毒を孕んでいた。
 行く手を阻むように壁に背を預けこちらを睥睨する長身に、アイはわずかに目を細めて足を止めた。
「早坂久宜」
 朝日が昇ってだいぶ経つが、廊下には灯かり取りの窓もなく薄暗い。男を包んでわだかまる闇は、
外で輝く太陽など知ったことではないとでも言いたげに、サングラスの向こうの表情を読み取ることを
拒否している。
「聞いていらしたのですか」
「勘違いするな、聞こうと思って聞いたわけじゃない。恨むなら声の大きいお前の主人と、壁の薄い
 アジトを選んだお前自身を恨むんだな」
「恨んだつもりで申し上げたわけではありません。今日は何かと発言を悪意に解釈されやすい日のようです」
 聞かれて都合の悪いことがあるわけではない。先日アイによって絞首刑に処されかかったこの男は、
彼女が今置かれた状況を見て勝手に溜飲を下げているかもしれないが、それは彼女にとってプラスにも
マイナスにもならないニュートラルな事実だ。
 アイはさっと視線を走らせた。男の弟であり部下である暗器使いは、彼から数メートル離れた廊下の
向こうからこちらを見ていた。
 このまま二人を無視して出て行ったとしても何の痛痒も覚えなかったが、一応は彼女が引き入れた
連中である。二度と戻ってくることもないこの場所を辞す前に、彼女自身の口からこれを伝えておくのが
礼儀だろう。
「――あなた方の今後のことですが」
 サングラスの向こうの目が光った気がした。
「ご承知の通り、私は主人に……先ほどまで主人であった人に暇を出されました。今までは私が彼の
 代理人としてあなた方に指示を出していましたが、今後は彼本人の命令に従い動いていただくことに
 なります。昨夜はお互いに色々とありましたが、≪我鬼≫という共通の敵を持つ者同士、深い理解と
 度量を持って対処いただければ幸いです」
 早坂と弟の唇が、ほぼ同時に歪む。
 不服だろう、当たり前だ。自身の利害とポリシーのみに縛られる彼らにとって、『命令に従え』と
いうアイの通告は屈辱以外の何物でもない。それも単なる命令ではなく、一度は自分たちを虫けらの
ように捻り潰そうとした少年の意向とあっては。
 それでも、従ってもらう必要がある。
 自分が退場することで不足する手駒は、何かの形で補わなければならないのだ。
「≪蛭≫という男が、まだ彼の傍に残っています。まだ年若い日本人の青年ですが、見かけより遥かに
 有能な男です。何かの際はその男に頼るようお願い致します。それから……」
 アイは静かにまた一つ付け加えた。
「彼の傍に、もう一人別の男がいます。その男には近付かないようにしてください」
「どういう意味だ」
「言葉そのままの意味です。あなた方のためにはなりませんし、私どものためにもなりません。
 できれば彼や蛭との会話も、極力その男の耳には入れないように。他の何を破ったとしても、
 これだけは徹底していただくようお願い致します」
「なるほど」
 早坂が顎髭を撫でた。
「一枚岩ではないと、そういうわけか」
「お恥ずかしい話ではありますが、事実です」
 ある意味ではこちらの弱みを晒すことにもなる指示だったが、これについては割り切るしかないと
アイは考えていた。どの道サイらと直接交渉する以上、隠してもいずれは分かってしまうことである。
 それに。

 ――この兄弟二人に弱みを突かれるより、あの狸に内から侵食される方がダメージが大きい。

 そんな思考はおくびにも出さず、ごく端的にアイは告げた。
「男の名は葛西善二郎。ご存知ですね」
「……!」
 さすがに驚愕の色が顔に浮かぶ。
 無理もない。まさかここで、前科一三四二犯の伝説の犯罪者の名を聞くとは思うまい。
 だが裏社会叩き上げの肝の据わった策士は、そこで怖気づいたりはしなかった。ものの二秒で平静を
取り戻し、サングラスを指の先で押し上げた。
 会話の切れ目を見計らって、アイは最後の一言を口にした。
「私から申し上げるべきは以上です。宜しくお願い致します」
 再び歩き出す。早坂の隣をすり抜け、弟の横を通ってそのまま出て行くつもりだった。
 だが。
「待て」
 太い腕が突き出され、踏み切りの遮断機のごとくアイの行く手を遮った。
「まだ何か?」
「何か、というほどではない。しいて言うなら、上司に捨てられた鼻持ちならない女を笑って
 やりたいというところか」
「あまり良い趣味とは思えませんが、それであなたの気が済むのでしたらお好きなように」
 さらりと答える。
 ユキが『うへぇ』と呻くのが聞こえたのは、この期に及んで揺らがぬ彼女の態度に対してか。
 一方、早坂の方は気にした様子がない。案外弟より順応力があるのかもしれない。
 細い廊下を塞いだまま、短く迷いなくもう一言。
「お前の主人は暗愚だな」
 空気が帯電した、――かのように思われた。
 サングラスに隠された男の目を、アイは無言で見返す。
 沈黙を切り裂いたのはまたも早坂の言葉だった。
「失礼、今は元主人か。力の方はなるほどご立派なようだが、思考が単純で近視眼すぎる。精神的にも
 脆く揺らぎやすい。理想の上司とは程遠いな。その暗愚な主人の下についていたお前もまた、奴と
 同様どうしようもなく暗愚だ」
「何とでも」
 答えながらアイは、早坂の表情の奥にあるものを探っていた。
 冷笑だろうと最初は思った。しかし声音を聞く限り違うようだ。
 ひそかに神経を尖らせる彼女に、早坂が続けた言葉は意外なものだった。
「暗愚なこと自体が恥だとは、私は思わん」
「?」
「暗愚な上司と暗愚な部下でも、互いにうまく噛み合っていればそれなりの成果はあげられるものだ。
 ……恥と思うべきはむしろ噛み合わんことの方だろう」
「何が仰りたいのですか」
「つまらん経験談さ。好きなように解釈してくれて構わんよ」
 行く手を遮る腕が引っ込んだ。
「邪魔をしたな。行っていいぞ、女。お前は最後まで気に食わない女だった」
「そうですか」
 アイは歩き出す。
 暗器使いの弟が一歩脇に逸れて道を空ける。頭を下げて彼の横をすり抜けていく。
 しかし十歩ほど歩みを進め、ふいにアイはその場で足を止めた。
 振り返ることはせず背を向けたまま、
「私からももう一つ、最後に申し上げてよろしいでしょうか」
 兄と弟の視線が、自分の背中に注がれるのを感じる。
 言うべきことは決まっていた。
「早坂久宜、あなたは彼を化物と呼びました。今でもその認識は変わっていませんね」
「ああ」
「口でご説明しても分かっていただけないことは承知しています。ですから私は代わりにこう申し上げます」
 前を見据えていた顔を、アイは兄弟の方に向けた。
 蝋細工のごとく白ざめた今の顔は、この二人の目にどう映るだろうか。魂なき幽鬼、心のない
冷たき人形、僧院にその身を閉じ込め、世俗の欲を捨て去った修道女。もっと別の理解不能なもの。
「いずれ必ず証明されます。他ならぬ彼自身の手によって――彼が紛れもなく人間であると」
 早坂は息をついた。
「捨てられてなお忠実な雌犬か。品種はさしずめスパニエルだな」
「私に言わせればあなたがたは恵まれています。彼の証明の過程を目の当たりにすることができる。
 その眩いまでの幸運に嫉妬を禁じ得ません」
「言っておくが、そんな証明は我々にとって無意味なものだぞ」
「存じています。それでも嫉妬せずにはいられないのです。あなたがたがこれから目にするものを、
 私はこの目で見ることができない」
 アイは再び前を向く。
「――残念です、とても」
 長いスカートがひるがえる。
 怪盗Xの美しき従者は、一ナノミリの憂いを残して颯爽と去った。

 アイの姿が消えた部屋に、拳が壁にめり込む音が鳴りわたった。
 きつく唇を噛み締めたサイが、力一杯殴りつけたのだ。
 直径数十センチの大穴から、腕を引き抜きざまもう一撃。
 激しい音とともにアジトがまた揺れ、白い拳が血にまみれる。衝撃と木片で皮が剥け、肉が剥き出しに
なるのも構わず殴り続ける。壁は芝居の書割のごとく崩れ、萎びた顔を返り血が点々と濡らしていく。
「サイ……」
 止められるものなら止めたかった。だが蛭にはそのための力も資格もない。
 葛西に至っては止めるそぶりもなく眺めているだけだ。
 何発目かもわからぬ拳が、ついに壁一面を突き崩した。かろうじて残っていた部分はメリメリと
軋み、漆喰の粉を吐き出しながら向こう側へと倒れていった。
 ドォンと床をつたう大きな衝撃。
 瓦礫と化した壁をサイは据わった目で眺める。視線はそのまま、半ば潰れた握り拳へと移動する。
 薄ピンク色の骨を生々しくのぞかせた手は、名状しがたき激痛に苛まれているはずだ。にもかかわらず
口元ひとつひきつらせず吐き捨てた。
「疲れた。寝る」
「そうですか、どうぞごゆっくり」
 こともなげに応じた葛西に、サイは返事をしなかった。
 破壊し尽くされた壁から顔をそむけ、ドアとの間に途切れ途切れの血の川を作って出て行く。
 閉じられたドアの蝶番が、哀れっぽい音を立てて弾けて落ちる。
 惨状を呈す部屋に、放火魔と蛭だけが残される。
「――何のつもりだよ」
 先に口を開いたのは蛭だった。
 一方放火魔はといえば、二本目の煙草に火をつけるべくシガーマッチを擦ったところだった。
 尖りきった蛭の声音に火火ッと唇の端を持ち上げ、白い先端にオレンジ色の炎を移す。
「ご挨拶だな小僧。まずは命の恩人様に『アリガトウゴザイマシタ』が筋ってもんだろうが。
 礼の言葉の一つや二つ、土下座の百や二百や億千万もらってもバチ当たんねえ立場なんだがな」
「葛西。あんた、一体何を考えてる?」
 戯言に付き合うつもりはなかった。
 確かに葛西の一言で、蛭とアイの命が助かったのは事実だ。あれがなければ今頃は、彼女と二人で
手に手をとって地獄一丁目行きのバスに乗っていたろう。
 だが博愛主義とも生命への尊崇とも無縁のこの男が、何の損得勘定もなくそんな真似をするわけが
ない。何か裏があることは賭けてもよかった。
 煙を吐きながら葛西は笑う。
「おいおい、あんまりな言い草じゃねえか。確かにちょいとキツイこと言ったかもしれねえがよ、
 あの状況ではああでも言わなきゃ仕方なかったんだよ。まさか『命を大事にしねえ奴は大嫌いだ』
 なんて言うわけにもいかねえだろ?」
「誤魔化せると思うな。あんたはそんな殊勝なタマじゃない」
 葛西はやれやれというように息を吐いた。聞き分けのない親戚の子供に対する態度だった。
「なんで信じてもらえないかねえ。前にも言ったと思うが、俺ぁお前のことは嫌いじゃないんだぜ。
 むしろ好きの部類に入るかもしれねえ。お前だけじゃない、今出て行ったあの女の方もだ。黙って
 見てんのは忍びねえ。何とかして助けてやりてぇと思ったのさ」
 蛭は鋭く葛西を睨んだ。
 気を許してはならない。この男は火の扱いだけでなく、口先三寸で相手を煙に巻くのにも長けている。
「火火火ッ、あんたに好かれる理由なんてねぇってツラだな。お前らにゃなくても俺にはあるんだよ、
 お前らにしてみりゃ迷惑かもしれねえがな」
 葛西は蛭の傍に歩み寄り、ふうっと大きく煙を吐いた。灰色の靄を顔に吹きかけられ、蛭は激しく
咳き込んだ。
「葛西っ、俺はそんな話をしてるんじゃない! 大体≪我鬼≫のこと知ってたのだって……」
 声を荒げる蛭に、口から煙草を離して放火魔は笑った。
「なあ小僧っ子。お前はサイが人間だから仕えてるって言ってたがよ、実を言うと俺も『人間』って
 生き物が大好きなんだよ」
 詰問を続けようとする蛭に、『どうどう』と手を振ってみせる葛西。
「もっとも……お前が言うとこの『人間』とは、多分いくらか意味がズレちゃいるが」
 葛西の手の中で煙草が燃え上がった。
 小さな火の鞠と化したジョーカーは、ニコチンの香りを撒き散らしながら灰になっていく。
「蛭。俺ぁ本当にお前とアイが気に入ってんだぜ。人間として人間のまま人間らしく、犯りてぇことを
 犯りてぇだけ犯りまくってる。見てると胸がスゥッとすんだよ。……常々惜しいと思ってたのさ。
 お前らみてえな連中が、あの程度の奴に付き従ってんのをよ」
 ぴく、と頬が引きつるのを感じた。
 考えるより先に葛西の襟を掴んで引き寄せていた。
「なんて言った。――おい、今なんて言ったんだよ!」
 燃える煙草が床へと落ちた。
 二十一歳の若者の力で襟元を絞め上げられ、それでも葛西は笑っていた。
「おっと悪かったな、言い過ぎたか。……まあそう熱くなんな、誰でも口が滑ることってのはあるもんだ」
「口の滑りなんて関係ない。詳しく説明しろ、今のはどういう意味だ」
 蛭は決して、短絡な性格の青年ではない。
 むしろ同年代の平均に比べれば、驚くほど広い視野と思慮の深さを備えている。
 ただ悲しいかな彼はまだ青かった。年の功で上回る葛西に、たやすく煽られ燃え上がってしまった。
「痛ぇよ蛭。いい年したおじさんはも少し丁寧に扱えって」
「黙れ火事親父!」
 服の上から見るより遥かに鍛えられた蛭の腕は、葛西の首をギリギリと絞めていく。

 一瞬。
 苦しい息を漏らす中年男の目に、赤い炎がかすかに灯った。
「調子乗ンなよ。この生ガキが」

 ゴウッという音が空気を灼いた。
「……っ!」
 理屈より本能で跳び退いていた。
 擦過傷のような熱が顔に走り、蛋白質の焦げる匂いが鼻を突く。
 ――葛西の炎が頬を焼いたのだ。
「やべぇやべぇ。ついまた火ッとなっちまった」
 呆然と顔に手をやる蛭に、葛西がへらへらと笑った。
「まぁ悪く思うな。ツラの皮の一枚や二枚、男なら勲章みてぇなもんさ。むしろ前より色男になってるぜ」
「葛西っ……」
「おっと、性懲りもなくまだやる気か? だが悪いな内勤のお前と違って、おじちゃんは寒ィおんもで
 動き回って疲れてんだ。先にひとっ風呂浴びて寝かせてくれや」
 ひらり、と手を振る。破壊されたドアを目指して歩き出す。
「待て、まだ話が!」
「話? 話してどうするってんだ。どうせお前、今の仕事が終われば御役御免の身の上だろ?」
 振り返り黄色い歯を見せる葛西。
「サイとだって俺とだって、そうなりゃ一切関係がなくなる。無意味なんだよ、何もかも今更。
 それよりせっかく拾ったその命、どう使ったら長生きできるか考えたほうがいいんじゃねえか?
 とりあえず俺としちゃあ、さっさと仕事にケリつけるのが賢いと思うぜ。あの人の気が変わって、
 『やっぱり死ね』とか言い出さねえうちにな」
「葛西!」
「それからよ」
 無骨な指で、放火魔は蛭のジーンズを指し示す。
「さっきからそこに納まってるそいつは確認しなくていいのか?」
「あ……」
 折りたたまれた白い紙が、ジーンズのポケットからはみ出ていた。
 蛭の注意が逸れた一瞬を葛西は逃さなかった。慌てて顔を上げたときには、放火魔の姿は部屋から消えていた。

 自室に戻ったサイはそのままベッドに倒れ込んだ。
 エネルギーを使い果たした体は一刻も早い補給を求めていたが、胸郭の内側を満たしたどす黒く
重たいものが、回復に必要な栄養分の摂取を拒否した。ズタズタの内臓や血みどろの手のひらが
上げる悲鳴も、同様の理由で黙殺された。
 意識を別の世界に飛ばしたかった。どんな奇怪な悪夢だろうと、この現実に比べれば心地よい
ゆりかごに等しいと思った。
 身を投げ出したマットレスの上で、サイはゆっくりと目を閉じた。
 胎児のように丸まろうと膝を曲げたとき、ぐにゃりと柔らかなものが脚に触れた。
 枕? いや、それは頭の下の定位置にある。
 手を伸ばして引き寄せると虎のぬいぐるみだった。≪我鬼≫の捜索の間、手慰みにバラバラにして
遊んでいたものがまだ残っていたのだ。
 手の一閃で引き裂いた。中の綿が溢れ、ぬいぐるみはみすぼらしいボロ布と化した。
 そのまま部屋の壁めがけて投げつけたが、パフンという気の抜けた音が響いただけで、憂さ晴らしにも
何にもならなかった。
「畜生」
 サイは呻く。誰に対する呻きかも定かではない。
「畜生、ちくしょう……ちくしょうっ」

 人間でいたかった。
 人間であり続けたかった。
 不確か極まる己の存在のよりどころは、もはやそれしか残っていなかった。かじかむ手でマッチを
擦って暖を取る少女のように、小指の先にも満たぬ儚い希望に全身ですがった。
 踏みにじられた希望は、その何百倍もの大きさの絶望となってふくれあがる。酸素の代わりに胸を
満たし、心臓の送り出す血液に乗って運ばれ、サイの全身を侵していく。

 変異と忘却を繰り返す彼の細胞が、もし、≪人間であること≫さえ忘れたら。
 自分もああなるのだろうか。
 虎となり果てたあのヒトの子のように、本能のみで彷徨い続けるのか。
 言葉も忘れる。数少ない彼を知る者の顔も忘れる。自分の正体を知るという目的も、鏡に向かって
『お前は誰だ』と問い続けた日々も、跡形もなく崩れて消える。
 サイは顔を覆う。
 そんな未来には耐えられない。

 だが一方で、胸の底から甘い声が囁いてくるのも現実だった。

 ――別にいいじゃん、忘れちゃいなよ。
「うるさい」
 ――その方が楽になれるはずだよ?
「だまれ」
 ――長年の苦悩から解放されるんだよ?
「話しかけるな」
 ――きっとその方が幸せになれるのに。
「引っ込んでろっ!」

 マットに拳を叩きつけた瞬間、ミシィという音を聞いた気がした。自分の体の中から響いた音だった。
 何だ。細胞変異を調整した覚えはないが……
 サイはベッドから跳ね起きる。鏡はちょうど、半身を起こせば覗き込める位置にある。
 磨かれた鏡に映るのは醜悪な老爺の顔だった。正常な老化を経ず、少年から成年を飛び越えて
一足飛びに老境に達した顔だ。いとけない子供の特徴、つまり丸みを残した輪郭や顔全体に占める
目の大きさが、フリークスめいた哀れさを否応なしに喚起させる。
 しかし、他に特に変わったところは見受けられない。
 深呼吸して顔に手を当てた瞬間、ボコッ、と肌が沸騰するように盛り上がった。
「え」
 息を呑む暇もなかった。
 手が、腕が、肩が、胸が、首が、≪我鬼≫の血管に侵食された左上半身すべての部位が、いっせいに
ざわめきながら蠢きはじめた。
「何っ……グ、ァッ!」
 心臓が軋みを上げる。
 胸を押さえ、苦痛にまかせて掻きむしろうとした。できなかった。
 左肩から先の細胞が暴走しはじめた。
 二箇所しかない指の関節が三つ四つ五つと増殖する。短かった爪がメキメキと伸び、蟷螂の鎌のごとき
形状へと変貌する。腕の骨が肉を突き破って伸び、木の枝の先のごとく枝分かれをくりかえしていく。
「あ、あああ、あ、ああっ」
 心臓がまた軋む。
 起こした上半身を支えきれず、サイはマットの上に倒れ込んだ。何とかかろうじて動く右手で、
シーツに爪を立てて強く掴んだ。握り締めたシーツに皺が寄った。

 何。
 これは、何。

 呼吸困難に喘いだ口から、粘っこい血がどろりと溢れた。
 シーツを汚した赤黒いものの中で、無数の細かい何かがうぞうぞと蠢いていた。
 細胞だ。
 体内の細胞が暴走している――

「ア……イッ」
 目の端からも血が溢れる。涙のように頬を汚し顎をつたう。
「アイ、助け……っ」
 それが最後の声になった。
 痙攣とともに、サイの意識は闇に落ちた。