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呼び出された場所から走ること一時間弱、ユキの運転する車は練馬区郊外の雑木林の脇でエンジンを止めた。
キーを引き抜き、運転席から助手席の女を睨む。
普段は兄の久宜が座る場所だが、後部座席に乗せることは得体の知れぬこの女に背後を明け渡すことを
意味する。そんな事態を許容する彼ら兄弟ではない。
「ここでいいんだな?」
「はい」
車内はドライブの間じゅう、微弱な電流のような緊張に満ちていた。アスファルトを疾駆する四輪の
音と、女が数分ごとに道筋を指示する平坦な声がなければ、痛々しいまでの沈黙に逆に耳を痛めていた
かもしれなかった。
「ご案内します。どうぞこちらへ」
しなやかな肢体が車から降り立つ。
周囲に家はあまりない。闇路を歩む女の背を、兄と二人ですかさず追った。
歩を進めること百メートルほど。やがて見えてきたその建物は、元テロリストのアジトというには
あまりに平凡な外観だ。予備知識なしに見れば単なる木造の民家としか映るまい。
都内通勤圏の一軒家にしては、敷地は多少広い部類に入る。薄黄色の外壁はあまり鮮やかではなく、
むしろ胃液か胆汁のような汚らしい色に思われた。
「見覚えのある家だ」
兄がぽつりと呟いた。
「良い記憶力をお持ちですね」
女は立ち止まらず、またこちらを振り返ることもしない。敷地内へと続く門をまっすぐに目指しながら、
兄の顔を見ず淡白な答えを返す。
「この家が世間の話題に昇ったのは、十年と八ヶ月前の話ですが」
「その手のキナ臭い情報が飯の種だったものでね。確か、違法な人体実験で摘発されたカルト教団の
所有だったか。今は国有地になっていたはずだが、一体どんな汚い手を使った?」
「やり方などいくらでもあります」
門の前で女は立ち止まる。
白い顔がこちらを向く。
「お入りください。中で主人にご紹介致します」
このときユキはようやく気がついた。
家の壁は薄黄色ではない。脇に屹立した街灯の光が、白い壁を染め上げているのだった。
*
「ようこそ、早坂久宜。それから早坂幸宜」
通されたのは応接間と思しき部屋。といっても、フローリングの床にビニール張りのソファと、
脚の短いテーブルが置いてあるだけのシンプルな空間だ。
ユキと兄に座って待つよう勧め、あの女はさっさと出て行ってしまった。『お茶を淹れて参ります』と
告げて去った彼女と入れ違いに現れたのは、まだ髭もニキビもないような年の頃の少年だった。
「話は聞いてるよ。なかなかやるじゃん、アイの体に傷をつけるなんて」
ふっくらと愛らしい唇には、屈託のない笑みが浮かんでいる。サングラスの向こう側で、兄が露骨に
顔をしかめるのがユキには分かった。
見た目だけなら自分の顔も、全く同じように歪んでいるだろう。
だがユキの渋面の理由は、兄のそれとは全く異なっていた。
「あの女の主人……なのか? お前が?」
「そうだよ。何か文句ある?」
飛び乗るような勢いで、少年はソファに腰を下ろした。
ホームドラマに息子役として登場しても、何ら違和感のない天真爛漫な容姿。しかし目の前のこの
子供には、ブラウン管や液晶の中の美少年にはない、決定的な違和感がある。
それが何なのかは分からない。ただ、何かが大きく『ずれて』いるのだ。
昔どこかで味わった感覚だと思った。
それがどこだったかまでは分からなかったが。
「納得いかないのは分かるけど、人を見た目で判断するとロクなことないよ。漫画とか映画とかじゃ
決まってヒドイ目に遭ってるじゃん、見かけだけで相手にレッテル貼ってあれこれ言う奴ってさ」
「見た目以前の問題だと思うがね」
「ふふ、手厳しいね。何ならもうちょっと信用してもらえそうなカッコして出てくればよかったかな。
アイがいなくてどこにどの服しまってあるか分かんなかったからそのまま出てきちゃったんだけど」
だぼだぼの服の襟を引っ張りながら、少年。
兄の目が吊り上がるのがユキには分かった。サングラスに阻まれて直接見えはしないが、きりきりと
角度がついていくのが目に見えるようだった。
少年も敏感にそれを悟ったらしい。しかし彼は険のある視線をものともせず、それどころか予想済みと
でもいうように鼻を鳴らす。
「やっぱり気に入らないみたいだね」
「当然だろう?」
「それじゃあ……」
パーを裏向けにしたような手で、少年は自分の顔を覆った。
ミシリ、と音が鳴る。指の隙間から覗く部分が地割れのごとく隆起し、形を変えていく。
「これでどう?」
顔を隠す手が離れたとき、少年は少年ではなくなっていた。
艶と張りのあった肌は、たるみ始めた壮年男性の皮膚へ。国籍不明の面立ちは欧米人の彫り深いそれへ。
口の周りには、品良く整えられた髭までが生えてくる。
息を呑む兄とユキに元少年は、これだけは少年そのままの表情でフフンと笑った。先に変異を遂げた顔に
遅れて、髪が根元から白髪まじりの鳶色へと変じていった。
「……何者だ」
兄が呻く。
「さあ? それが分かってたら苦労しないんだけど」
『お手上げ』のポーズをしてみせる元少年。
「驚くことないさ。新聞やテレビで報道されてるより、地上はずっと怪奇に満ちてるってだけのことだよ。だから」
兄を見て喋っていた元少年は、ここで初めてユキの方を向いた。
「その物騒なもの引っ込めてくれない?」
「っ!」
仕込んだ暗器の構えを見抜かれている。
元少年の弧を描く口元、唇の間から白い歯が覗く。その奥から突き出されたピンクの舌が、ユキの
記憶野への刺激となってイメージを喚起した。
さっき感じた決定的な違和感を、どこで経験したのか思い出したのだ。
前職を捨てるきっかけとなったあの男が、これとよく似た空気をまとっていたと。
「落ち着きなよ。俺に会いに来たんでしょ、あんたたち。一方的に利用されないためにも、後の面倒を
避けるためにも。その積極的な姿勢は評価してあげるから、まずは肩の力抜いてリラックスしたら?」
ドアが開く。ティーセット一式を盆に乗せ、あの女が応接間へと入ってくる。
フィルムを超高速で逆回しにするように、元少年は少年へと戻った。テーブルに並べられるマドレーヌの
皿に、両の目が無邪気にきらめいた。
ポットから紅茶が注がれ『どうぞ』と勧められても、無論飲む気になどなれはしない。
それは兄も同じことらしい。湯気を立てるカップに目もくれず、少年の顔を睨み据えたままだ。
マドレーヌを指でつまみながら、少年はやれやれとばかりに肩をすくめた。
「カタイなー、二人とも。虎を捜してる時点で目的は同じなんだし、もっとこうフランクになれないもんかな。
……そうだ緊張を解きほぐすために、ちょっとした雑談から始めてみようか? そう、たとえば」
口に放り込まれるマドレーヌ。嚥下するまで噛むこと五回。
紅茶のカップを口に運び、味わうようにゆっくりと飲んでから、
「――あの虎の≪我鬼≫って名前、あんたがつけたんだって? 早坂久宜」
兄のこめかみがぴくり、と震えた。
「エゴを意味する言葉。坂口安吾の作品名で芥川龍之介の俳号。興味があるな、中国奥地の暴れ虎に
どうしてそんな名前をつけたのか。聞かせてくれる?」
兄の本棚には仕事に必要な資料に加え、国内外を問わず文学作品もかなりの数置いてある。現在身を
置く暴力の世界には一見そぐわないが、『笑顔』の取締役として社会的地位の高い人間と渡り合うことも
多い兄としては、舐められないために教養を身につけておくことも必要なのだという。
ユキ自身は文学には興味がない。芥川でも読んだ覚えがあるのは『羅生門』のみ、安吾に至っては手に
取ったことすらなかった。
「どうでもいいようなことに興味を持つんだな」
「どうでもいいってほどでもないよ、名前ってすごく大事さ。どんな由来でつけられたものであれ、対象の
中身を少なくとも一部分は表してるんだから」
マドレーヌ二つ目。飲み込むまでの咀嚼は、今度は計三回。
「そしてもう一つ、名づけた人間の中身を表すものでもある。俺はあんた個人にも興味を持ってるからね。
よかったらこの機会に聞かせてもらえないかな? ≪我鬼≫の名の由来を」
食べカスのついた口が笑んだ瞬間、ユキの背筋に冷たいものが走り抜けた。
牙を剥く猛獣のような表情だった。
「フン」
笑顔の鎧を纏い続けてきた兄も、この笑みの本質には気がついているはずだ。
盆を手に脇に控えていた女が、ここで少年の傍に歩み寄った。ソファに腰掛けた主人の口元を、
純白のナプキンで軽く拭う。
兄が口を開いたのは、女がマドレーヌの粉を拭き取り終えたときだった。
「――偶々狂疾に因りて殊類と成る」
低くよく通る声が何かの一文を読み上げた。
「災患相仍りて逃るべからず。今日爪牙誰か敢えて敵せん。当時声跡共に相高し、我は異物と為る蓬茅の下……」
「は? 何それ?」
「『唐代叢書』です」
首をかしげる少年に女が補足した。
「清の陳蓮塘の編で、別名を『唐人説薈』。より厳密にはその中に収められ、李景亮の撰とされる
『人虎伝』にみられる詩です。もっとも日本人であるこの男には、『山月記』のほうが馴染みは
深いかもしれませんが」
「典拠のほうを先に名指されるとはな。テロだけが能の女でもないらしい」
「基礎教養です」
いずれの作品もユキには分からない。それは少年も同じらしく、右に左にと首を捻っては女と兄を見比べている。
「ちょっとちょっとちょっとアイ、二人だけで完結してないで解説してよ。何そのミジンコ何とかって」
業を煮やした少年が女の袖を引いた。
「人虎伝。唐代の伝奇です。筋としては特にアジア周辺でよくみられる、いわゆる人虎変身譚の一種になります。
類似の説話は世界各地にありますが、その中でも特に有名なものの一つです」
「それが何で≪我鬼≫になるわけ?」
「それは本人に聞いた方が――」
ほんの数秒のごく短い時間、少年の注意が女へと向く。
その僅かな隙を兄は逃さなかった。
セーフティの外された銃が火を噴いた。
少年の白い喉に穴が空いた。
「ガッ……!」
がくんと仰け反る少年の首。
一瞬遅れて赤黒い血が、噴水となって勢いよく吹き出した。
一発では済まさない。
頭、心臓、肺、消化器官を収めた腹。生命維持に必要な箇所全てをハチの巣に。
少年の体がソファにくずれ落ちた。
応接間が血に染まっていく。
「『山月記』も『人虎伝』も、エゴが人間を虎にするという話でね」
もろに返り血を浴びたテーブルは、見る見るうちに惨憺たる有り様と化す。
甘い香りを漂わせるマドレーヌも、結局手をつけられることのなかった二人の分の紅茶も、凄まじい
勢いで広がり続ける血の海の中に沈んでいく。
「エゴ、転じて≪我鬼≫というわけさ。芥川とも安吾とも関係がなくて申し訳ないがね。……それとも
もう聞こえないか?」
壊れたマネキン人形のように、ソファに投げ出された少年の体。
それでも兄は油断しない。つきつけた銃口も睨む視線も逸らさない。
五秒待っても十秒待っても、少年は動き出さなかった。剥き出しの白目を天井に向け、さっきまで
女に問いかけていた唇も半開きのまま呼吸を完全に止めている。
仕留めたのか。
だがこのときユキの胸を満たしていたのは、勝利の確信ではなく言い知れぬ不安だった。
原因は女だ。
撃たれた少年のすぐ隣にいた女は、大量の返り血をその身に浴びていた。衣服を染めた深紅の色彩は、
先日ユキの一撃を受けたときよりなお鮮やかだった。
白皙の美貌すら血まみれなのに、毛筋一本分の揺らぎも見られぬその表情は不自然ではないのか。
黒光りする銃身を目の前にして、反撃どころか防御にさえ転じようとしないのもおかしくはないか。
動揺しているだけか、それとも。
倒れた少年は、しかしいくら待っても起き出しては来なかった。兄は銃口を動かし女へと向けた。
「武器を持たせたままにしておいたのは失敗だったな、女。それとも油断か? 私ならここに引き入れた
時点で、手持ちは全て没収しておくところだ」
無言のまま立っている女。
「心配するな、殺しはせん。聞きたいことも利用価値も山ほどある。とはいえ手足の一本ずつぐらいは
覚悟してもら……ん?」
と。
女の色の薄い唇から、ふっと小さくため息が漏れた。
「―――なことを」
「何?」
ユキに聞こえなかった言葉は、兄の耳にも届かなかったらしい。
問い返す兄に女は言い放った。
「無意味なことを」
ミシリ、と響く音。
ほんの数分前に聞いたのと同じ音。
血みどろの少年が、ソファからゆっくりと起き上がった。
「はー、めんどくさ」
ホラー映画のゾンビのような姿に、吐き出された言葉はそぐわなかった。
双眸は光を取り戻し、上半身に空いた穴が家鳴りのような音を立て塞がっていく。
「これだから裏社会の連中って嫌なんだよね。ちょっと優しくしてやったら調子に乗ってつけ上がっちゃって。
あーあ、骨も内臓もメチャメチャだよ、全く」
赤黒い血が口から溢れる。それはもはや血液というより、どろりとした粘土のような塊だった。
「な……」
兄が息を呑んだ。
銃口の先がブレたその一瞬、前後左右全範囲が隙だらけになる。
少年が笑った。吊り上がった唇は、赤く輝く三日月に似ていた。
獲物に狙いを定める顔。
「アニキッ!」
考えるより先に動いていた。
手袋の嵌まった手を掲げ、振り下ろす。
傷の塞がった少年の喉が、再び掻き裂かれた。
傷つけられた呼吸器が笛のようにヒュウッと鳴った。
出血はさっきほど派手ではない。大粒の雨が滴るように溢れ落ちる。服とソファと床を汚すそれには、
呼気と吸気のあぶくが混じっている。
だが。
「無意味と申し上げたばかりですのに」
女の声に呼応するように、また耳をなぶる軋む音。
かはっ、と少年の口から、また血の塊が吐き出された次の瞬間――
「バカだよなあ。この期に及んで俺に攻撃するなんて」
腹に衝撃が沈み込んだ。
せり上がる痛みにえずいたとき、視界が一回転した。
ソファから引きずり下ろされ床に倒されたと悟るのに、要した時間は更にもう一瞬。
「見ようによっては、これも勇気かな。いや、ただの身のほど知らずか」
頭を鷲掴みにされた。目の前の非現実的な光景とはちぐはぐに、ひどく生々しい感触だった。
「さ、どうする?」
唇を舐める薄い舌も、また吐血の色に染まっている。
揶揄を含んだ疑問形は兄に向けられていた。
銃口を少年に突きつけたまま、その場に凍りついた兄に。
「やりすぎは禁物です。彼らにはこれから役に立ってもらわなければ」
「分かってるよ」
ユキを押さえつけたまま、女の声に少年は答える。
「とりあえず、兄貴の方はそのオモチャ捨てて。セーフティオンにするのも忘れないで。弟は手袋脱いで
向こうの壁に向かって投げて。別に死にはしないし怖くも何ともないけど、部屋が汚れるとアイに
文句言われるからさ」
宣告というには軽い口調。
「早くしてよ。兄貴の前で弟の頭ザクロにするなんて、後味悪いこと俺にやらせたい訳?」
頭蓋に食い込む五本の指に、ぎり、と力がこめられる。
「アニキ、俺はっ」
「すまん、ユキ。他に手はないようだ」
セーフティが上がる音。
兄の銃は固い音を立てて床に落ち、蹴り飛ばされて勢いよく転がった。回転しながら床の上を
滑っていき、部屋の反対側の壁にぶつかってようやく止まった。
「これで満足か?」
憎々しげに吐き捨てる。
「この……化物が」
数秒にも満たぬ一語。
兄からすれば、腹立ち紛れの罵りにすぎなかったに違いない。
だが――
少年の両目に火が灯るのをユキは見た。
火は瞬く間に燃え上がり、焔となって渦巻き咆哮をあげた。
掴まれた頭が投げ捨てるように解放される。
華奢な体が跳ね上がり、閃光と化して兄に襲い掛かった。
「アニキ!」
手袋の構えも間に合わない。
壁に叩きつけられる八十キロの体。床に崩れ落ちかけたところを、胸倉を掴んで押さえつけられた。
ガフッと咳き込む兄の顔に、炎で燃え立つ瞳が向けられる。
「誰が化物だって?」
「ク……グ、はっ……」
「答えろよ。もう一度同じセリフ俺に言ってみろよっ!」
次に掴まれたのは髪の毛。ぐいと自分側に引き寄せて、すかさず壁へと叩きつける。
凄まじい音がした。
開いた傷口から血がにじみ、白い壁に新しい血の痕をつけた。
「やめた。虎の件が終わるまで生かしといてやろうと思ってたけど、もういい。あんたもう死んでいいよ。
俺が許可する。俺が今ここで殺してあげる」
ミシミシ、ミシミシ、あの軋む音。
右手の先が変化した。薔薇色すら帯びた柔らかそうな肌が、爬虫類の鱗を思わせる青黒さへ。
浴びた返り血だけはそのままに、鋭利に尖った爪が鈍くきらめく。
「じゃあね早坂久宜。さよなら」
「アニキ!」
ユキの口から絶叫が噴き上がる。
醜く膨れた手が兄に迫る。
首をへし折る嫌な音を覚悟した。
たぁん。
首を折る音の代わりに響いたのは、空気を灼いて轟く銃声。
撃ったのは女だった。放たれた弾丸は、正確に少年の右肩を撃ち抜いていた。
関節を破壊された腕が支えをなくす。だらりと落ちて動かなくなる。
すかさず女は左の肩も撃った。二度目の銃声とともに激しく血がしぶき、左腕もその機能を失った。
押さえ込まれていた兄の体が、ずずずと下がって床へと崩れていく。
「アイ! 何やって……」
「こちらの台詞です」
振り向いた少年の睨みに、女の目はどこまでも平坦だった。
必要とあればこの女は、主人の脳天にであろうと構わず弾丸を叩き込むだろう。眉ひとつ震わせず
口元ひとつ動かさず、冷徹そのもののこの表情のまま。
美しい唇が声を紡いだ。
「彼にはまだこの先、果たしてもらわなければならない役割があります。この場で殺してしまっては
予定が大幅に狂います」
「でも、こいつは俺のことっ」
訴える少年の口調に、女の視線が冷たさを増した。
「一時の激情に流されて、全てを台無しにされるおつもりですか。今回に限ったことではありませんが、
あなたはお考えが短絡すぎます」
「………っ」
「今ここでこの男を殺したところで、何になります。あなたの爆発した負の感情をひととき慰める程度が
せいぜいでしょう。ただそれだけのために計画の練り直しを強いるのですか。利と労があまりに
釣り合わないとは思われませんか?」
少年は歯噛みした。
壁に背を預け床に倒れこんだままの兄に、顔を背けるように背を向けた。
破壊された肩関節が再生する。自由を取り戻した手でこめかみを押さえる。
「部屋に戻って寝るよ、バカバカしい。何で下働きに雇った連中の顔見に来て、撃たれて化物呼ばわり
された挙句アイの説教まで聞かなきゃいけないんだよ。むかっ腹の立つ」
「左様ですか。ごゆっくりお休みくださいませ」
頭を下げる女に一瞥もくれず、少年はすたすたと歩き出す。赤黒い足跡を点々と残しながら。
どうやらこの場は助かった、らしい。
縫い止められたように動けなかったユキは、床から身を引き剥がして兄に駆け寄った。
しこたま頭を打ちつけた兄は、荒い息を吐きながら天井を眺めていた。かろうじて意識はまだ残って
いる。車まで自分の足で歩いて移動するのはまだ難しいだろうが。
ドアへと向かう少年の背中を睨む。
今更抵抗したとしても、勝てはしないのは分かっていた。長年暴力で飯を食ってきたからこそ分かる。
負ける戦闘はするべきではない。
だがそれはそれとして、一言だけでも言ってやらなければ気が済まなかった。
「おいクソガキ、お前」
少年の歩みがぴたりと止まる。
不機嫌そのものの瞳がユキと兄を振り返った。
「何?」
憎悪を孕んだ視線が相絡む。
電流を流し込まれるような緊張感が流れる。
だがその緊張は、突如として鳴り出した着信音に踏みにじられた。
着メロではない、耳障りなまでの電子音。購入した時からのデフォルト設定で、この方が耳につくからという、
ただそれだけの理由でそのままにされている。
兄の携帯だった。
ダメージにまだ震える手を、兄はスーツの胸ポケットへ。取り出した携帯の通話ボタンを押す。
「……私だ。……ああ……分かったのか? ……どこ、に?」
通話は三十秒にも満たなかった。
話が終わって携帯を閉じた兄は、背中を部屋の壁に預けたまま、だが存外にしっかりとした声で告げた。
「≪我鬼≫の現在位置が分かったそうだ」
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