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スポーツには故障という概念が存在する。体が不調ならば休息を許され、時には負けの
口実にすることも可能だ。すなわち、スポーツマンとは万全な状態こそがベストコンディ
ション。
一方、武術家に休息の時はない。いつでも、どこでも、だれとでも。骨が折れていよう
が、目や金玉が潰れていようが、不治の病に侵されていようが、一切関係ない。すなわち、
武術家とはいつだってベストコンディション。
たとえ別れを告げた肉体でも、使えるならば使う。
加藤は砕けた左手の爪をくわえると、全力で引き抜いた。五指から爪が剥げ、代わりに
刺すような激痛が召喚された。打撲とも骨折とも異質な痛みが、彼の意識をよりはっきり
と目覚めさせる。
「押忍ッ!」
押忍、と同時に加藤は右腕を振り抜いた。爪の跡地から、大量の血飛沫がばら撒かれる。
一滴一滴が、武神の面を捉える。
「ぬっ」
「ガアァァアッ!」
フェイントもクソもない。初恋時の告白にも似た、真正面から、添加物を含まぬ全力で
の金的蹴り。
もろに入ったが、コツカケを施している武神には通じない。
「まだだァッ!」
つま先がめり込んだ金的を足場に、加藤は肩に飛び乗り、目突きを武神に撃つ。
惜しくも外された。が、評価は高い。
「蹴り込んだ金的を踏み台に、肩へ駆け上っての目突きか。実に君らしい技だな」
「目突きが決まってりゃあ最高だったんだが」必殺の左ハイ。「なァッ!」
これをくぐり抜けるように、武神の低空タックルが決まった。下半身をがっちりとホー
ルドされ、加藤は倒され──ない。
足腰だけでなく、足の指で地面を掴むように堪え、
「倒される前に終わらせるッ!」
武神の延髄に、渾身の一本拳を突き刺す。これで武神の力が緩み、加藤はすばやくタッ
クルから逃れた。
再び向き合う両者だが、武神が一手先んじる。加藤の左手首を掴むと、即座に重心を崩
し、合気投げを決行。空中で頭が下になった加藤に、武神の白く太い腕が伸びる。
「くゥッ!」
急いで体勢を立て直し、着地だけは成功させた加藤。が、すぐ異常に気づいた。
──左半分、視界が消滅していた。
いくら目を凝らしても、左目の機能は戻ってこない。コンマ数秒の後、加藤はさっきま
ではなかった首の痛みによって正答を得た。
「こいつァ、紐切りかッ!」
「察しがいいな」左から、武神の打撃が飛んでくる。左腕は壊れているので、反撃も防御
もできない。「首には目と密接な関連性を持つ神経がある。それを断ち切らせてもらった」
まさか紐切りとは──武神のしたたかさに冷えた汗が湧き出る。
『攻めの消力』『音速拳』『剛体術』と、攻撃手段を掃いて捨てるほどに持つ武神が、
この局面で選んだのは『紐切り』による確実な戦力削減であった。
策が成れば、あとは徹底した左攻め。左脇腹に剛体術が炸裂し、この一撃で左肋骨部が
壊滅状態に陥った。さらには左耳を狙った張り手で鼓膜も破壊された。左半身を再起不能
にした後、右半身の破壊に移るつもりなのだろう。
(こうなりゃとことんまで……がむしゃらに、やってやらァッ!)
左から来ることは分かっている。左手、左目、左耳はもう役に立たないが、まだ左足が
ある。
「ウォッラァッ!」
左側へ蹴りまくるが、まるで当たらない。いくら実戦経験に乏しくとも、防御の理合を
知り尽くした武神が、半ば勘で出している攻撃を喰らってくれるはずがない。
ついには、足裏を肘で迎撃される。
「グァッ!」
動きを止めた加藤の左脇腹に、音速拳が雨あられと衝突する。亀裂骨折が粉砕骨折とな
った。
胃液と血液の混ざった朱色をした粘液が、口から吐き出される。内臓が傷つき胃が驚い
たのか、ぜん動が収まらない。吐き気が止まらない。げえげえと嘔吐を繰り返すうち、右
手に粘液が付着する。加藤ははっとする。
仮にも空手家を名乗るのならば、手は空っぽにしなければならない。
「こんなもん、手に持ってちゃいけねぇ……」
ズボンで汚れを拭き取り、さっぱりとした右手を眺め、満足そうに微笑む。
一方、武神はトドメを刺さんと最後の猛攻に出る。強烈な右ハイは同じく右ハイで迎撃
するが、気と拳と地、三位一体の直突きを胸に受け、よろめいたところへ、少林寺拳法秘
伝『仏骨』がクリーンヒット。読まれぬよう、技を次々に切り替えている。
「武神ッ!」
突然名を呼ばれ、攻撃を中断する武神。すると、右掌をこちらに向けている加藤の姿が
あった。手相までくっきり見える。
「俺は……」
「………」
「手に、何も持ってねぇ……よな?」
「あァ、持っていないな」
文字通り神に誓うと、加藤は小指から折り畳み、お手本のような正拳を組み立てた。
まだ足りない。加藤はさらに拳を握り込む。指が食い込みすぎて血が滴り始めたが、ま
だ止めない。拳の中には何もあってはならない。徹底的に追い出す。汗も、血も、空気で
さえも許さない。
「まだまだまだ……まだ足りねぇッ!」
メキメキと骨を軋ませながら、拳が変形を成していく。小さく、しぼんでいく。
自らも知らぬ現象が起こっていることに、武神も好奇心をあらわにする。
程なく、中に分子一粒すら残さぬ拳が出来上がった。
正拳完成。
武器や凶器だけでなく、大気や体液の介入をも拒んだ正拳。あとはもうぶつけるだけだ。
無数の手札から、武神が選んだのは菩薩の拳。ここまで持ち応えた神心会空手に対する
敬意の表れであった。
時を同じくして、両者が奔(はし)る。
対極を成す二つの光が交わる時、真なる激突が生まれる。
無の拳か、菩薩の拳か。
人か、神か。
どちらの漢が上か。
拳が互いの貌(かお)に触れるのは同刻だった。この瞬間、武神は全関節を固定し、菩
薩の拳を百キロ以上の鉄球へと変貌させる。
空手家の顔面が爆ぜた。眼球が半分近く飛び出し、歯は弾け飛び、耳からも血が噴き出
る。
しかし、無の拳はなおも突き進む。敵であるはずの神にすら誓った「自分の手には何も
無い」という矜持が力を呼ぶ。力強く、武神を抉る。
唐手から空手へ──今、真空など目ではない「空」が成った。
──どうやら君も知る必要があるようだ。
──私が武神などではないことを、これからの武を。
正拳突きは、武神の頬骨から手首までめり込まれていた。
拳を引き抜くと、武神はチェーンソーで切り倒された大木のようにゆっくりと、意識を
失してなお威厳を保ちながら、大地に吸い込まれていった。
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