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「ヴィクティム・レッド 45-8」(2007/12/24 (月) 11:33:48) の最新版変更点
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ばしっ、と平手が頬を叩く音が、実験室に響いた。
「この出来損ないが! こんな簡単なテストもクリアできないのか?」
叩かれた少年は腫れた顔を片手で抑え、眼前に立つ研究員を睨んでいた。
「なんだ、その目は!」
「……なら、お前がやれよ。簡単なテストなんだろ」
そう言うと、研究員はさらに激昂して少年を殴る。
「モルモットが口答えをするな! 私を馬鹿にしているのか!?」
今度は平手ではなく拳だった。少年の唇が裂け、一筋の血が流れる。
「まったく……同じ兄妹でも妹は偉い違いだな。やはりクズはクズか」
研究員は忌々しげに吐き捨てると、白衣の襟を正して威厳を整え、少年を省みることなく実験室を出て行った。
「ぐ、ぐうう……」
一人残された少年の瞳から涙が溢れ、それは顎を伝って床にぽたぽた落ちる。
「殺してやる……いつかみんな殺してやる……!」
長く伸ばされた金髪をぐしゃぐしゃと掻き毟りながら、少年はいつまでも熱い涙を流していた。
「さて、キース・レッドよ。検査の結果が出たぞ。お前のARMSナノマシン分布域は──」
「なあ、ドクター・ティリングハースト。そーゆー些細な話は後で聞くからよ、要点だけ教えてくれ」
遮るように手をひらひら振るレッドに、ドクターは眉をひそめた。
「些細? これが些細な話かね? では聞こう。お前にとっての要点とはなんだ?」
「オレの『グリフォン』はいつになったら最終形態になるんだ?」
「……やれやれ。キースどもはそういうことしか頭にないのかね?
いいか、レッド。『グリフォン』は急速に成長しておる。お前の望むように最終形態を発現させる日も遠くないじゃろう。
だがな、その急成長に肉体が追いついておらんのじゃ。お前の身体はARMSに蝕まれている、という表現もできる。
命を削ってまで力を手に入れたいのかね? 飽くなき戦闘の果てに、お前はなにを見ているのだ?」
「んなこた知ったこっちゃねーよ。オレは『使えるやつ』だってことを他のやつらに見せつけ続けなきゃいけねーんだ。
そして、オレがたった一人の、誰にも代わりができないキース・レッドだってことを教えてやるんだよ」
「愚かじゃの、レッド。己の価値を求める一方で、その価値を自ら減じておる。これほど不毛なことはないぞ」
ドクターは首を振り、レッドの肩に手を置いた。それはどこか手馴れた仕草だった。
まるで以前にも、こうして誰かの勝気を諌めたことのあるような、それはそういう仕草だった。
「ちっ。説教かよ。たまんねえよな」
レッドは苛立たしげにドクターの手を振り払う。ドクターはそんなことは気にする素振りもなく、じっとレッドの瞳を覗き込んでいた。
その心を見透かすような視線に苦々しく顔をしかめていたレッドは、ふと、
「……あー、ドクター。あのよ──」
「レッドー! お話終わった?」
いきなり医務室に飛び込んできたセピアに背中からタックルをかまされ、レッドは言いかけていた言葉を飲み込んだ。
「痛えな、なにしやがる!」
レッドの抗議を無視し、セピアはドクターに手を挙げて挨拶をした。
「ハロー、ドクター。ご機嫌いかがですか?」
「ああ、見ての通りじゃよ。身体の調子はどうかね?」
「はい、元気です。お薬が良く効いているみたいです。それにわたしのナナノノちゃんも頑張ってるみたいで」
「ナナノノ?」
レッドがその疑問符を投げかけると、セピアは首だけこちらへ向けて答えた。
「ナノマシンよう」
「馬鹿じゃねーのか、あんた」
「ふ、女の子らしいではないか。お前もあまり無理をしてはいけないぞ、セピア」
「それはレッドに言ってくださいよ。わたしの上官なんですから。ね?」
どこかいたずらっぽい声音で告げるセピアへ、ドクターは真面目くさって頷く。
「なるほど。理に適っておる」
「おいおい、ドクター。こいつのたわごとを──」
「レッド。お前に与えられた任務のことは耳にしておるぞ。お前にはセピアの体調を管理する義務がある。そうだな」
その言い方は卑怯だ、と思ったが、なにも言い返せなった。代わりに、最近ではすっかり馴染んだ台詞を口の端に乗せる。
「勘弁してくれよ……」
それからさらにあーでもないこーでもないと益体もない話を絶え間なくしゃべっていたセピアは、話の最後に、
この医療セクションを探検してくる、と言い残して慌しく医務室から出て行った。
嵐の過ぎ去った部屋の中で、レッドは半ば脱力したように天井を見上げていた。
どうも自分とセピアの間には埋めがたい溝がある気がしてならない。
それは別にいい。その程度の溝なんて自分の人生には幾らでもある。
ありすぎてまともに歩けないような現状、今さらその溝が一つ増えたところでどうと言うこともない。
ただ、不可解なのは、セピアのほうはそうした認識に乏しいのか、やたらと無防備に接近してくることである。
バイオレットは彼女を「警戒心が強い」と評していたが、それは間違いなんじゃないか、と思う。
「それで、なんの話だね?」
レッドのあまり生産的でない思考は、ドクター・ティングハーストの声で破られた。
「……なにがだよ」
ドクターはカルテになにかを書き込みながら、目を上げずに重ねて問う。
「先ほど、なにかを言いかけたな?」
「あ、ああ──なにを言うつもりだったかとっくに忘れちまったよ」
肩をすくめかけたレッドは、思い出したように身を乗り出した。
「いや待て。それとは別の話だが……セピアをなんとかしてくれ」
「なんとか? なんとかとはどういうことだね、レッド」
「あいつ、オレのアパートメントに本格的に定住するつもりだ。
日に日に訳のわからん小物や衣服が増えていっている。昨日は得体の知れない料理を食べさせられた」
「ふん、お前にとって良い傾向だと思うがね。キースシリーズは総じて他者とのコミュニケーション能力に欠けるきらいがある。
その中で、セピアのように他人を思いやれる才能は稀だ。お前が彼女から学ぶことはなにもないのか?」
「……は、馬鹿言ってんじゃねーよ。あいつが人の気持ちを思いやれるって?
オレの意思を無視して私生活を踏みにじってるのはどこのどいつだよ」
ドクターは書く手を止め、レッドを見た。まるで本当に分かっていないのか、とでも問いたげに。
そして、およそ関係のないことを話題に上らせた。
「セピアのARMS『モックタートル』について、お前はどれほど把握している?」
「あ? ああ……皮膚に分布するナノマシンによる超感覚と、体表面から発する微弱な生体パルスを併用したアクティブサーチ、
それから『ニーベンルンゲの指輪』──他者のARMS能力を強化させる、いわばアクセラレイターARMS、だろ」
「なるほど。だが、それは正答ではない。それだけでは答の半分ほどにしか到達しておらん」
「なんだと? なら百パーセントの答ってのは、なんだよ」
「それは──」
ドクターが言いかけたその時、医務室のドアが激しい勢いで開け放たれた。
「ドクター・ティリングハースト! 大変です!」
レッドの顔が露骨に不機嫌になる。
困惑と苛立ちの混じったなんとも言い難いその表情をレッドに作らせる相手など、そうはいない──セピアであった。
「迷子を見つけました!」
なぜか嬉しそうに顔を紅潮させるセピアは、彼女よりもさらに幼い少女と手をつないでいた。
透き通るようなブロンドを長く伸ばし、子供らしい麻葱色の衣装に身を包んだその少女は、愛くるしい顔を曇らせてセピアに寄り添っていた。
「ほう……」
ドクターが感心したようにつぶやく。レッドはなんとはなしにその少女を観察してみた。
利発そうな顔立ちだが、なにかに怯えているようにその視線は足元に固定されていた。
なにをそんなに怖がっているのか、と不審に感じるくらいの落ち着きのなさである。
レッドにとっては、数多ある嫌いなものの内の一つに入る、そういう態度の持ち主であった。
(なんだ、この根性無さそうなガキは)
すると、少女はさらに身を縮こませてセピアの影に隠れるようにする。
「もー、ダメだよレッド。この子を怖がらせたら」
「オレはなにもしてねえし、なにも言ってねーよ」
しかしまあ、少女に対して抱いていた悪感情が雰囲気として漏れていたのかもしれない。
こんな子供相手に苛立つのも自分の余裕の無さを示すようで嫌なので、レッドは努めて気持ちを和らげようとした。
そうしたレッドの努力の成果か、少女はおずおずとセピアから離れ、レッドやドクターを含めた医務室の中を見渡した。
「さ、もう大丈夫よ。こっちの目つきの悪いお兄ちゃん、見た目ほど怖い人じゃないからね」
「うん──」
「で、どうしたんだ、それ」
レッドが少女を顎で示すと、
「だから迷子だってば」
「そもそも、なんでこんなガキがこんなところにいるんだよ」
その疑問にはドクターが答えた。
「なに、驚くには及ばないだろう。エグリゴリの研究対象にはこうした子供も多く含まれておる。
お前たちのようなARMS適性者や、チャペルの子供達、それにこの子のような遺伝子強化者。
……ふん、ぞっとしない話じゃの」
「あの、わたし、お薬、もらいにきたんです。……わたしのじゃなくて、兄さんのお薬、です」
それははっきりとした声だった。とても綺麗に澄み切った、天使の歌声のようなソプラノだった。
その細い顔からこうも華やかな声がでるんだな、とレッドは少し感心した。
「兄さん、最近、お熱が続くみたいで」
「それならお前たちの主治医に頼んだほうが良かろう。なぜそうしないんだね?」
少女は言いよどみ、それでも誰かに聞いてほしかったのか、言葉少なに語った。
「……周りの大人の人たち、兄さんに冷たくて。兄さんのことを役立たずとか不良品とか、そう思ってるんです。
みんな、わたしには優しいのに、でも兄さんにだけ辛く当たってて……熱が下がらなくて兄さんとても苦しそうなのに、
……う、うう……ぐすっ」
次第に声の湿り始めた少女を、慌ててセピアが慰める。
「そんな悲しい顔しないで。天使みたいなお顔が台無しよ。ね?
事情はなんか良く分からないけど、そのうちきっと上手くいくわ。あなたも、あなたのお兄ちゃんも幸せになれる」
「……ほんとう?」
「ええ、本当」
(んなわけねーだろ。こいつの兄貴がどこの実験体だか知らねーが、
エグリゴリで『失敗作』の烙印を押されたやつが、どうやったら幸せになれるんだっつーの)
内心でそう嘆息したレッドは、つい言葉を漏らしてしまう。
「無責任なことを言うよな」
それは聞こえるか聞こえないかのほんの小さな声だったのだが、それを耳ざとく捉えたのか少女は火のついたように泣き出した。
「ちょっと、レッド!」
本気で目を怒らせているセピアは、少女の肩を抱いて優しく何度も頭を撫でさする。
「大丈夫、大丈夫よ……なにも心配いらないわ……」
わけも無く後ろめたさを感じているレッドの背後で、ドクターがぼそりとつぶやいた。
「あの二人をどう思うかね、レッド。ああしたことがどういった感情から来ているのかを、お前は正確に理解しているかね?
お前は自分本位すぎる。己の言動のほとんどが、お前にとって都合のいいように組み立てられたものだということを自覚しているか?」
「ふざけんな。あんなの、ただの傷の舐めあいじゃねーか」
レッドは投げやりに答える。だが、その目は、二人の寄り添う少女に未だ注がれていた。
「う、うう……」
目の前に並べられた数枚のカードを前に、少年はうめき声を上げていた。
(この熱さえ引けば……)
そう念じながらカードを凝視する。
「どうした。早くシーケンスを進めろ。カードとにらめっこをすることしか能が無いのか?」
研究員の罵声に歯を食いしばり、少年は再びカードに意識を集中させた。彼らのニーズに応えるために。
カードの表面は白紙である。裏側にはそれぞれ違う図形がプリントされているのだが、
カードを裏返すことなくその図形を当てて見せろ、というのが彼らのニーズであり、少年自身も求めてやまない自己の存在理由だった。
(この熱さえ引けば……)
再び、そう思った。しかしそれでカードが透ける道理もない。
熱とか体調とは関係なしに、少年のごくごく正常な知覚能力は白い面のみを少年に見せるだけである。
自分にはカードを見通すことはできない。それは理解しているのだが、それでもその努力を諦めることはできなかった。
それを諦めることは、少年にとって死を意味するからだ。
物心ついた時からエグリゴリという檻に閉じ込められていた少年にとって、これより他に生きる場所はなかった。
「さあ、早くやれ」
少年がいくら発熱を訴えても、彼らは一顧だにしない。むしろ実験をサボる口実としてでっち上げたのだと詰問されたほどである。
「う、うう……」
高熱でおぼろげな思考の中、少年は自分の妹のことを考えた。
妹は、少年にとって地獄そのものでしかないこの環境でも、破格の厚遇を受けている。お姫様か天使様のような扱いだ。
それは、自分とは違って妹は研究員たちのニーズに完璧に応えているからである。
その妹の存在は少年にとってたった一つの救いだった。
この残酷な世界の中で、互いに助け合うことを誓った唯一の肉親。
妹が自分のような酷い扱いを受けていないことに関してだけは、この研究員たちに感謝しても良かった。
だが、それよりも激しい憎悪が少年の心を満たしていた。
自分を物のように扱い、人間としての価値を認めない者たちに。
「伏せたカードの絵柄が分からない」という、およそ馬鹿げた理由のために、自分はこんな環境に置かれている。
それどころか──。
「どうした、早くしろ。お前のような無能をいつまでも飼っているほど、エグリゴリは優しくない。妹と永遠に引き離されたいか?」
(──殺してやる)
発作的に膨れ上がった少年の怒りは、その呪詛を吐き出した。
(殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる──)
少年は心から願う。だが、どれだけ念じたところで誰も死にはしないし、少年が救われることもない。
「さっさとしろ!」
痺れを切らした研究者が少年の頬を叩く。
(僕に力があれば──それもゼナーカードを読むだけのような、なんの役にも立たない力じゃなく、もっと──)
数日前から続く原因不明の高熱のせいで身体を震わせながら、少年はカードに視線を注いだ。
ひときわ大きな音を立て、テーブルがひっくり返された。
長きに渡って染み付いた暴力への恐れから、少年は反射的に頭をかばった。その頭上から、ぱらぱらと数枚のカードが降る。
「なんだ、この的中率の低さは!」
少年の視界は歪んでいた。
せめて熱が下がれば──せめてこのカードが分かれば──せめて妹と一緒にいられたら──せめて力があれば。
「お前の成果が上がらないと、こっちの査定にまで響くんだぞ! このゼナーカードすら読めない無能力者め!」
力が欲しい……自分を認めくれるような力が……こいつらを皆殺しにできるような力が……。
がんがんと頭痛がした。喉が渇いていた。目がひりひりした。自分の身体が自分のものでないような違和感があった。
「なんだその目は……お前たちはここでは人間ではない」
(神様、僕に力をください……この世界をめちゃくちゃにしてしまうような、悪魔の王様のような力を……)
「『ヴィクティム』だ!」
その瞬間、少年の心の内でなにかが破裂した。
世界のすべてが根底からひっくり返されるような、圧倒的な感覚の反転が少年の内部を蹂躙し、
……そして目の前が真っ赤に染まった。
その異常事態に最初に気がついたのは、そのセクションを担当している警備兵だった。
廊下の歩哨に立っていた彼は。どん、という不審音を聞きつける。
「なんだ?」
彼はその音がした部屋のドアを開け、絶句した。
「こ、これは……?」
まるで高所から突き落とされたように、一人の人間の身体が壁に──広がっていた。
視線を転じると、床には潰れたトマトを連想させる無残な死骸が転がっている。
部屋のあらゆる調度品は奇妙に捻じ曲がり、もはや家具としての体を成していなかった。
その圧倒的ともいえる破壊の限りが尽くされた部屋の中央に、直立する人影があった。
そいつに声をかけようとして、警備兵は絶句する。
そいつは宙に浮いていた。まるでなにかに押し上げられているように、なにもない空間に静止していた。
彼はこのセクションの部門がなんであったかを即座に思い出し、目の前の凄惨な光景と即座に結び付けて考えた。
「これは……お前がやったのか?」
その声に、そいつはゆっくりと振り向いた。
その幼い顔には、悪魔のように吊り上った酷薄そうな笑みが張り付いていた。
「お前が彼らを殺したのか? そうなのか?」
ごくり、と知らず唾を飲む。
「これはお前の仕業なのか──クリフ・ギルバート」
それが彼の最後の言葉だった。
目に見えぬ不可思議な力によって、彼の頭部は一瞬にして吹き飛ばされた。
「……そうさ。僕が殺したんだ。そう、殺した……僕が! 僕が僕が僕が! この力で殺した!」
そいつ──後に『魔王』と綽名される少年、クリフ・ギルバートは血に汚れた頬をぬぐい、満足そうにつぶやいた。
もう、熱はない。涙はない。
代わりに力があった。憎悪があった。
憎しみだけで人を殺す力が。念じるだけで破壊を呼ぶ力が。
ずっと求めてやまなかった、世界を、人類を超越する力が。
第七話『超』 了
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