「猿の手 53-2」(2008/02/10 (日) 23:54:58) の最新版変更点
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チャイムの音がした。
瞼を開いた斗貴子の瞳に最初に飛び込んできたのはカズキの顔だった。
カズキもこちらを見つめている。
どうやら斗貴子と同様に、覚醒したままに眼を閉じていただけのようだ。
まひろを失って以来、こんな眠れぬ時間を幾夜過ごしてきただろう。
そして、あとどれくらいの時を経れば、平穏な眠りを取り戻せるのだろう。
斗貴子はカズキから視線を逸らし、枕元の時計を見遣る。
――午前二時二十九分。
「誰だ……? こんな時間に……」
斗貴子は不機嫌そうに眉をしかめる。
「俺が出るよ……」
「いい。私が出る」
身体を起こしかけたカズキを制し、斗貴子が起き上がった。そして彼の頭にぽふりと手を置き、
力無い笑顔を浮かべる。
「キミは早く寝るんだ。明日から仕事に行くんだろう?」
「うん……ごめん……」
斗貴子は相変わらずの力無い笑顔のまま、パジャマの上からカーディガンを羽織り、
リビングのインターホンに向かった。
少しずつ。少しずつ良い方向に向かうのだ。
人は大きく集うと異常になるが、良い方向に向かうのは一人ずつでしかない。
斗貴子は思う。
あの事故の晩から今日までの自分達を取り囲んだ、この世の黒禍。
それは“他人の意”と言い換えてもいいかもしれない。
“善意”に“悪意”。それに“興味”。そして最も厄介だった、あらゆる生業を持つ者達の“使命感”。
それらに飲み込まれていたこの数日間はまるで身動きなんて取れなかった。意識も身体も。
けれども、カズキは立ち上がろうとしている。だから、自分もそうあらなければ。
だが――
“二人一緒”
すぐにこの言葉が浮かぶ。
そして、それは確実に心を、精神を深く深く抉った。
外面を取り繕えば取り繕う程、内なる乱れはそのうねりを増していく。
限界は、近い。
斗貴子はインターホンの受話器を取り、ぶっきらぼうな声で言い放った。
「どちら様ですか?」
返事は無い。
イタズラなのだろうか。
それとも、ただでさえ低くて常に不機嫌さを漂わせた斗貴子の声質に、深夜の来訪者が
気後れしているのだろうか。
受話器の向こう側からはやや乱れた息遣いらしきものが聞こえてくるだけだ。
苛立ちを募らせた斗貴子はつい語気を荒げる。
「おい、何のイタズラか知らんが――」
そこまで言うと斗貴子の怒声は、聞き慣れた懐かしさを、それでいて何故かおぞましさを
感じさせる声に遮られた。
『ただいま……』
その声が耳に飛び込むと同時に、背中に氷柱を押し込まれたと錯覚せんばかりの悪寒に襲われた。
この声は。
声は小さく、何らかの雑音が混じっている為、多分に聞こえづらいが。
この声は。
「ま、まさか……! そんな!」
『お義姉ちゃん……』
まただ。
日常的過ぎて聞き慣れた、この声。
いつの間にか呼ばれ慣れた、この言葉。
“今”の家族以外に身寄りなど無い自分をこう呼ぶのはあの子しかいない。
「き、きっ、キミは……――」
斗貴子の脳裏に様々な光景が浮かぶ。
遺体安置所でシーツをめくった、あの瞬間。
死化粧を終えた彼女が棺に入れられる、あの瞬間。
そして、火葬炉から出てきた白い欠片達。
そんな筈は無い。そんな筈は無いのだ。
いや、しかし。
確かに自分はあの時、願った。願ってしまった。
それはほんの七、八時間程前の事だったか。
確かに願ったのだ。
「――まひろちゃん、なのか……?」
『うん、そうだよ……。ごめんね、こんなに、帰りが遅くなって……。私、悪い子だね……』
可愛らしい謝り方だ。
わざとそう演じているのではなく、彼女生来の性格が自然、そうさせるのだ。
この義妹の邪気の無い振る舞いに、幾度も喉元から出掛かった苦言や説教の類を引っ込めて
しまった覚えが、斗貴子にはある。
だが、今は違う。
彼女のこの声に身震いが止まらない。
微笑ましい思い出もどこかへ消し飛んでしまった。
『でも、怒らないで……? 右脚、が、動かないから、上手く、歩けなかったの……。首が、
フラフラして、顔がすぐ、後ろ、向いちゃうし……』
喋り声は所々で不自然に途切れ、そこにゴボリとうがいをするような耳障りな音が混じる。
『ねえ、お義姉ちゃん……早く、ここ、開けて……? 外は、寒いよ……』
斗貴子の胸には喜びなどこれっぽっちも湧いてこない。
戦慄。
それ以外の何ものでもない。
大好きだった義妹が帰ってきてくれた。確かに帰ってきてくれた。
斗貴子の望みは聞き入れられ、まひろはこの世に生き返らされたのだ。
ただし、今の彼女の声からは、斗貴子が期待していたあの天使のような愛らしさは微塵も
感じられない。
まひろは、ある意味そのままの姿で帰ってきた。
潰され、砕かれ、引き千切られ、命の灯火が消える、その寸前のままの姿で。
『私、お義姉ちゃんの、淹れてくれる、ココアが飲みたいな……。温かくて甘――』
ゴキンという骨の鳴る音と共に、まひろの言葉が途絶えた。
多少の間と耳障りな醜声の後、また言葉が戻ってくる。
『――あ、あっ、あ゙あ゙……。ごめ、んね……右の顎が、すぐ、外れちゃうの……』
斗貴子は身震いを止められない。
その震えは受話器にまで伝播し、何度も細かく顎を打つ。
“エントランスを開けていいのだろうか”
家族の帰宅という場面ならば思う筈の無い、そんな疑問が斗貴子の頭に浮かぶ。
(ダメだ! 絶対に開けるな! わからないのか? こんな“もの”はまひろちゃんじゃない!)
斗貴子の本能の声が自答する。
そこに理性や家族愛などというものが差し挟まれる余地は無い。
斗貴子という人間を成り立たせている、最も奥深くにある原始的な働きが、開ける事を
明確に拒否している。
(外にいる“もの”を入れるな!)
と、そう叫んでいるのだ。
その時、横からスッと伸びた手が、人差し指が“開錠”のボタンを押した。実にスムーズに。
寝ていた筈の夫がいつの間にか後ろに立っていた事に、斗貴子は気づいていなかった。
「カズキ!? な、何を……」
非難の声を上げながら振り返る斗貴子が見たカズキの顔は――
「だって、まひろが帰ってきたんだよ? 早く中に入れてあげないと……」
――笑っていた。
何故、笑っていられるのか。
今までのやり取りを聞いていなかったのか。
いや、それ以前に死んだ人間が帰ってくるなどという事を、そんなに簡単に受け入れられる
ものなのか。
更にはその眼。斗貴子を見つめるカズキの眼。
“笑顔の形”に歪められた口元に相反して、眼の色は突き刺すような冷たさを帯びている。
何故だ? 何故、カズキは私をこんな眼で見る?
まさか。やはり。そうなのか。
“知っている”
やはりカズキは知っているのか? 知っていたのか?
私が彼女を生き返らせた事を。
私が彼女を殺した事を。
私がいつも不満に思っていた事を。
不満?
不満って何だ?
私は幸せだったのだ。
あの暮らしに満足していた。
あの三人家族の暮らしに幸せを覚えていたんだ。
不満なんて無い。そんな筈は無い。
そんな筈は無い不満なんて無い不満なんてそんな筈は無いそんな筈は無い不満なんて無い筈は無い。
突如――
ドン! とドアを打つ金属質の音が玄関からリビングへと響いてくる。
それはやがて、ひどくゆっくりとしたリズムのノックへと変わった。
「……!」
リビングのドアを開け、慄然とした面持ちで玄関のドアを見つめる斗貴子。
あの向こうにはまひろがいるのだろう。変わり果てた姿で。
いや、“元の姿”と言ってもあながち間違いではないのかもしれないが。
斗貴子はゆっくりと玄関のドアに近づく。
素足に履いたスリッパがまるで鉛のように重く感じられた。
「ま、まひろちゃん……?」
やや沈黙があり、外のまひろが答えた。ひどく哀しげな問い掛けと共に。
『お義姉ちゃん……。どうして、開けて、くれないの?』
「あ……あ、開けられない……」
また二人に沈黙の帳が下りる。
ふとドアがカリッという小さく不快な音を発した。そう、まるで爪で金属を引っ掻いたかのような。
その音が発せられた直後、まひろは問い掛けを再開した。
だが今度は哀願ではない。幾分、怨嗟が込められているように聞こえる。
『お義姉ちゃんは、私なんて、いない方がいいって、思ってるの?』
「馬鹿を言うな! そんな訳は無いだろう! まひろちゃんは、私の可愛い、義妹だ……」
語尾が頼りなく弱々しい。確かにまひろは可愛い義妹“だった”。では“今”のまひろはどうか。
『お兄ちゃんと、二人きりに、なりたいの?』
「……」
答えられない。ドアを隔ててすぐ傍にいる義妹を気遣う返答さえも、今の斗貴子には困難なのだ。
『お兄ちゃんを、一人占めにする気、なの?』
「ち、ちが――」
斗貴子の否定を遮るように、まひろは三度問い掛けた。
『だから、私を殺したの……?』
「……!」
ダ カ ラ ワ タ シ ヲ コ ロ シ タ ノ ?
言葉を失うしかなかった。
義妹は、自分の命を奪った者が仲の良かった義姉だという事を認識している。
黙り込んでしまった斗貴子に、まひろは途切れがちにまくし立てた。醜悪な音を伴わせて。
『ねえ、そうなの? お義姉ちゃん……。お兄ちゃんと、二人きりになりたいから、私を殺したの……?
お義姉ちゃん、そうなの? だから、私を、殺したの? そうなの? そうなの? そうなんでしょ?
でも、ごめんね。私、帰って、きちゃったよ。お義姉ちゃんは、残念かも、しれないけど……。
フフッ、アハハッ。また、三人で暮らせる、よ。
もう一度、三人、家族に、戻れるよ……?』
「斗貴子さん……」
ワナワナと全身を震わせたまま沈黙を守る斗貴子に、カズキが声を掛ける。
その声には妻の挙動に対する訝しげな色が込められている。
夫の呼び掛けが引き金になったのか、斗貴子は部屋中どころか隣室にまで届きそうな程の
大声で叫んだ。
「やめろォ!!」
激しい呼吸に肩を上下させる斗貴子はフラフラと歩を進め、そして両掌をドアに当てた。
冷たい。
まるでこの向こうにいる義妹のようだ。
「もう、やめてくれ……。まひろちゃん……キミはもう、死んでいるんだ……」
『何言ってるの……? 私、生きてるよ……? お義姉ちゃんが、生き返らせて、くれたんだから……』
まひろの言葉が斗貴子の胸に刺さる。
自分の犯した罪の重さはもう充分にわかっていた。
それでも、その犠牲者であるまひろの口から罪状を宣告されると胸が絞めつけられる。
「私の間違いだったんだ……。私が馬鹿だった……。キミを生き返らせるべきではなかったんだ……」
静かに、小さく、頭を左右に振る斗貴子。
「あの頃には、もう戻れない……戻れないんだ……! キミも、私も、カズキも……」
少しの静寂の後、ドアの向こうからしゃくり上げるような泣き声が聞こえてきた。
言うまでも無い。まひろのものだ。
泣いている。泣いている。あの子が泣いている。あの女の子が泣いている。
身勝手な大人達の思惑に振り回され、無邪気な心を傷つけられ。
『ずるいよ、お義姉ちゃん……ずるい……』
斗貴子は寄り掛かるように頭をドアに付けた。
「すまない、まひろちゃん……許してくれ……」
ギュッと眼を閉じ、眉根を寄せる。
彼女の眼から頬にかけて、一筋の涙が伝い落ちた。
『許さない!!』
ドォン! と一際大きくドアが打ち鳴らされた。
「ひっ!」
あまりの驚愕に斗貴子はドアから飛び退り、玄関のタイルに尻餅を突いた。
『許さないよ! 絶対、許してあげない!!
私を邪魔にするお義姉ちゃんなんて大嫌い! お兄ちゃんを一人占めするお義姉ちゃんなんて大嫌い!
私を殺したお義姉ちゃんなんて大ッ嫌い!!
さあ、開けて! 早く開けてよォ!!』
今までに聞いた事が無いまひろの怒声と共に、ドアは激しく、力強く、狂ったように何度も
何度も打ち鳴らされる。
斗貴子は動けない。身体の震えは最高潮に達し、カチカチと歯が鳴る。
「ま、まひろ、ちゃ……」
まひろは激怒と憎悪を込めてドアを叩き続け、叫び続ける。
『開けて! 開けて開けて開けて! 開けろォ!!』
斗貴子の耳にはまひろの声が低く、野太くなっていくように聞こえた。
まるで正気を失った中年男性の声を思わせる。
「う、うあ……うわああ……」
フッと斗貴子の視界に影が差した。
動けない斗貴子の横にカズキが立っていた。顔は“あの”笑顔のままで。
気づくと、彼の手がドアロックにかかっている。
「やめろ! カズキ!」
カズキがロックを外すと同時に、凄まじい音を立ててドアが開かれた。
だがチェーンに阻まれ、ドアは15cm程しか開けられない。
そこに、“手”が現れた。
至る所が擦り剥け、爪も割れ、痛々しいまでに血だらけだ。
手はドアをしっかと掴んでいる。
そして、“髪”。
あの長い癖毛の茶髪はバサバサに乱れ、何箇所も血や泥で固まっている。
その髪の隙間からは、“眼”が覗いている。
大きく大きく見開かれた眼。爬虫類のように瞳孔が縮小した眼。
憎しみに満ちた視線でこちらを射る眼。
『お兄ちゃん……お義姉ちゃん……』
「うわああああああああああ!!!!」
斗貴子は半狂乱に悲鳴を上げながら、武藤兄妹に背中を向けて四足獣のように這いずり、
逃げ出した。
向かった先は夫婦の寝室だ。
荒々しく押入れの戸を開け、中の物を放り投げ、懸命に何かを探す。
どこに仕舞ったか。夕方の時はすぐ見える場所に置いておいたのに。
“あれ”が。“あれ”だったら。“あれ”ならば。
やがて斗貴子が見つけた古ぼけた木箱。
ひったくるように取り出し、蓋を開ける。
中には、手首の手首の辺りから切断された、黒い毛に覆われている干乾びた小さな手のミイラ。
“猿の手”がある。
「み、三つめの願い、三つめの願いは……――」
舌がもつれて上手く言葉が言えない。
斗貴子は猿の手を取り出して握り締める。
そして絶叫した。心の底からの訴えを。三つめの願いを。
「――二つめの願いを無しにしてくれ! 取り消してくれ! 早く!」
まひろの叫び声がどんどん大きくなっていくような気がする。
もう、すぐ後ろに来ているのかもしれない。
すぐ後ろで斗貴子に――
「早くしろォ!!」
急に辺りは静寂に包まれた。
時が止まったかのように思える。
もう、まひろの声も騒ぎ立てる物音も聞こえてこない。
聞こえてくるのは、斗貴子の嗚咽だけ。
ただ、それだけだった。
[完]
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