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「脳噛ネウロは間違えない 53-1」(2008/02/06 (水) 05:32:18) の最新版変更点
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「──はい、分かりました。それじゃ、明日の十五時、駅前で」
わたしはそう結んで、携帯の通話ボタンを押す。
液晶画面が回線の接続が切れたことを教え、そこでやっとわたしはこらえていた溜息を吐くことができた。
なんとも言えない脱力感と、重荷から開放された解放感との半々の気持ちで、
事務所で一番高価な家具、『トロイ』と呼ばれるデスクへと首を向ける。
「……ネウロー、全死さんと待ち合わせしたよ」
半分死んでるようなわたしの声に、椅子にふんぞり返ってうとうとしていた男──ネウロがぱっちりと目を覚ます。
気怠げに軽いあくびをしつつ、ネウロは窓の外に広がる暗闇を見、そしてわたしを見た。
「ふむ……ヤコよ、貴様は飛鳥井全死と何時間電話をしていたのだ?」
ちらり、と携帯の画面に記された通話時間の表示に目を落とす。
「……99,99でカウントストップしてる……朝の九時ごろから始めて今が夜中の三時くらい」
「ほう、そんなにも一体なにを話していたのだ?」
「……なにも。大したことない世間話か、そうじゃなかったら、なに言ってるかさっぱり分からない難しい話だけ。
アンタに言われた『会う約束』を取り付けるのは、電話を切る前の五秒で済んだ」
「人間の女は長電話が好きとは聞いていたが、これほどまでとはな。もっと他にすべきことはないのか?
魔界の電話は長電話を何よりも忌み嫌っていてな、通話時間が三秒を超えると爆発して半径十キロ内を焦土と化すのだぞ」
「あの人がおかしいだけだってば……飲まず食わずで十八時間とかさすがにないわ……」
普段なら、その魔界の電話とやらにツッコミを入れるところだが、精神的にも体力的にも消耗し尽くしていたので、素で答えるのが精一杯だった。
「うう……せっかくの日曜だったのに、丸一日潰した挙句に完徹って……わたしの休日はどこいっちゃったの?」
今日(というかもう昨日)に食べるはずだったあれやこれに思いを馳せ、どうしようもなく惨めな気持ちになってくる。
そして、そんなわたしの惨めな気持ちに拍車をかけるものがある。
「ねえ、ネウロ」
「なんだ」
「いいかげんに外してよ、これ」
と、わたしを椅子に縛り付けるチェーンとロープと南京錠を、辛うじて自由な右手で示す。
魔人の常識外れの力で椅子に緊縛され、その状態で十八時間も意味のない話や意味不明の話に付き合わされる──
ドSなネウロによって様々な拷問を受けてきたわたしだったが、今日のこの仕打ちはトップ3に入るだろう。
なんでいつもいつもわたしだけがこんな目に遭わなきゃいけないのだろうか。
真面目に考えると辛いからあまり考えないようにしてるけれど、さすがに泣けてくるものがある。
「もー……勘弁してよ……」
疲労と空腹と睡眠不足で意識が朦朧としてくる。あとほんの数時間で朝が来て、学校が始まる。
せめて仮眠でも……と、(椅子に拘束されたままなのはこの際諦めることにして)目を閉じた瞬間、
「寝るなヤコ。寝ると死ぬぞ」
首がもげそうな強烈ビンタがわたしの頬を一秒で五往復した。
くわんくわん頭の中で響く衝撃が、わたしの意識を遠のかせるのが自分でも分かる。
乱れた平衡感覚がわたしの視界を一回転半させ、視界がぼやける。
このままだと──オチる。
いや、別に気絶したっていいのだが(ホントはよくないのだろうけど)、この場合「気絶」は「寝る」として見做されるのだろうか。
このままオチたら死ぬってゆーか、ネウロに殺されるのではないだろうか。
そんな思考がわたしの内部を駆け巡るが、それを上回る勢いで、わたしの意識はこの宇宙の遥か彼方へブッ飛んでいこうとしていた。
「しかし実際、貴様には悪いことをしたと思っているのだぞ」
「だった……ら、すんな……よ」
意識を保つためにツッコミを試みるも、ビックリするぐらいの掠れ声。
「本来なら、その右腕も縛りつけ、口にもボールギャグを噛ませなければ、とても緊縛と呼べる代物ではない。
飛鳥井全死との連絡を取らせるために、泣く泣く貴様の腕と口に自由を与えなければならなかった我が輩の心痛……
貴様なら分かってくれるはずだな?」
(分かるか。つーか、拷問に手心を加えることが、ネウロにとっての『悪いこと』なのかよ)
今度は声にすらならなかった。
「踏んで縛って叩いて蹴って殴って吊るして──それが我が輩の愛だ」
「愛なら仕方ないな──って、ンなわけあるか! 虐めて愛情表現とか小学生か! しかもスケールデカすぎだろ!」
──さて、このツッコミはきちんと声になっていたのだろうか?
この直後に意識がぶっつり途絶えてしまったので、わたしにはそのあたりの事は定かじゃなかった。
誰かに呼ばれた気がして、目を覚ます。
時計を見ると夜中の三時だった。
「甲介くん、甲介くん」
いや──気のせいではなく、確かに誰かが俺を呼んでいた。
まだまどろみの中にある意識のままに、声の主を探して照明の消えているワンルームの部屋の至るところに視線を漂わせる。
やがて意識が徐々にはっきりとしてきた頃に、彷徨う視線がベッドの上──というか俺の隣で焦点を結ぶ。
そこには、全裸の女が座り込み、俺の肩を軽く揺さぶっていた。
だが、全裸の定義があくまでも「生まれたままの姿」というやつなら、そいつは決して全裸ではなかった。
顔にはアイマスク、細い首にはチョーカー風の首輪(首輪風のチョーカーではない)、
そして両手首と両足首にはベッドの支柱と鎖で連結された枷。
ちゃらちゃらと鎖が擦れるリズミカルな音で、俺は完全に覚醒した。
その女は真銅白樺だった。
「起こしてごめんね、甲介くん」
「……まだ帰ってなかったのか?」
俺がそう言うと、白樺は肩をすくめてみせたらしく、また鎖が鳴った。
「あのね……君がこの鎖を外してくれなかったら、わたしは帰りたくても帰れないんだけど?」
完全に覚醒したと言うのは俺の錯誤で、どうやらまだ俺は寝ぼけていたらしい。
思い出したからだ。
「──忘れてた。悪い」
思い出してみれば我ながら呆れるしかないが、俺は彼女の拘束を解くよりも先に眠ってしまったようだった。
「ううん、それはいいの。『すっかり忘れ去られた自分』っていうのを実感できて、新鮮だったから」
「そいつは俺には理解しがたい感覚だから、『良かったな』としか言いようがないよ。で、じゃあ、なんで起こしたんだ?」
そこで気が付いたが、白樺はさっきから膝をすり合わせてもじもじとしていた。
だがどうやら、それは羞恥心とかそういった類の感情によるものではないらしく──、
「トイレ」
生理的な欲求によるものだったらしい。
俺が身を起こして手足と首の戒めを解くと、彼女はベッドからするりと降りぱたぱたとトイレへ駆け込んでいった。
それを見るとはなしに見送ってから、俺は再びベッドに横たわる。
すっかり霧散した眠気をかき集めるために、できるだけどうでもいいことを考えようとした。
その材料として選んだのは白樺のことだ。
なぜ、彼女は緊縛された状態での性行為を望むのだろうかという点だ。
そしてまた、なぜその相手に俺を選んでいるのかということ。
俺自身について言えば、その点ははっきりしている。
それは白樺が望んでいることで、しかも断る理由が特に思い当たらないからであり、
そして──ここが一番大事な点であるが──それが習慣として、レギュラーとして定着しているからだ。
別に長く続けるつもりなど毛頭無かったのだが、かれこれ三年くらいになるのだろうか。
元々、彼女とは中学時代からの知り合いだったが、こういう関係になった、つまり白樺が俺のレギュラーとして組み込まれたのは、
まったくの偶然に当時の彼女のパートナーを殺害したことに起因している。
俺はその代役として、いわば穴埋めとして納まっているのであり、それは非常に恣意的な推移の結果だ。
発端はどうあれ、それがレギュラーとして定常化された出来事なら、白樺が俺から離れていくなり、
或いはお互いの環境が変化するなりして、やがてその関係性が消滅するときを迎えるまで、俺は淡々とそれを受け入れるだけである。
来るものは拒まず、去るものは追わず。それが習慣に従って生きていくということだ。
俺が定期的に人を殺すのも、その習慣に従うからこそだ。
始めて殺したのは六歳のときで、それ以来、殺人が俺の習慣になっている。
殺害人数が百人に達したら一度打ち切ってみようかとなんとなく考えるが、それはまだ少し先のことになる。
止めるという発想自体に大した意味はないし、先のことを真剣に考える習慣はない。
鬼に笑われたくはないからだ。
──などと、思考が脱線して当初の目的通りにかなりどうでもいい結論らしきものに辿り着き、
睡魔がじわじわと俺の瞼に被さろうとしたとき──いきなり携帯電話の着信音が鳴り響いた。
闇とレム睡眠の海に満たされた部屋の静寂はその一撃で木っ端微塵に破壊される。
トイレのほうから「うひゃ」という白樺の小さな悲鳴が聞こえてきた。
念の為に横目で時計の針を捉え、現時刻を確認する。
やはり三時過ぎだった。
こんな時間に電話をかけてくる非常識な人間といえば、たった一人しか心当たりがない。
俺はげんなりした気持ちで携帯電話を取り上げ、通話ボタンを押した。
「遅いんだよ、この馬鹿! 何時間待たせる気だ! 電話くらいさっさと取れよ! お前は催促嫌いの漫画家か!?」
「……待たせたのはほんの数秒だと思いますけど」
やはり全死だった。
「嘘こけ! たっぷり三時間は待ったぞ!」
「全死さんは、ダリの作った体内時計でも内蔵してるんですか?」
俺の突っ込みなどに耳を貸す素振りすら見せず、全死はひとしきり俺を罵倒した後に、
この草木も眠る絶好の呪いアワーな時間に近所迷惑を顧みず電話をかけてきたそもそもの本題を切り出した。
「来週、弥子ちゃんとデートするぞ」
「……おめでとうございます。電話、切ってもいいですか?」
トイレから戻ってきた白樺が、自前の拘束具をバッグにしまう。代わりに下着を取り出し、身に着けはじめた。
電話中の俺に遠慮しているのか、それとも今が深夜だということに配慮しているのか、その動作は極力音を潜めたものだった。
「なんで切るんだよ。話はこれからだ」
「その話、長くなるようでしたら明日にしてください。俺は学校があるんです」
「すぐ済むよ。むしろ、そんなお前に渡りに船な話だ──今すぐ、大学まで来い」
「俺は明朝に行きたいのであって、今行きたいわけじゃないですよ」
「関係ない。どの道、用事が済んだら朝になる。冬来たりなば春遠からじって言うだろう?」
下着に次いで衣服をも着終えた白樺は、最後に眼鏡をかけて身繕いを終了させた。
俺個人の希望としては行為の最中にも眼鏡をつけていて欲しいのだが、生憎、眼鏡とアイマスクは両立しない。
「その言い回しはおかしい気もしますし、すぐ済むのか朝までかかるのかはっきりさせて欲しいですが、
用件を聞いていないので断言はできませんね。で、俺に大学でなにをさせたいんですか?
──と言うか、全死さん、今どこにいるんです? もしかして学校ですか?」
「そうだよ。だからお前を呼んでんだよ──いちゃいちゃしようぜ」
その全死の要請と、桂木弥子とデートすることと、なんの関係があるのか俺には推し量ることは不可能だった。
全死の中ではその両者は明確で整然としたロジックで連なっているのだろうが、
全死のような異常な精神構造を持ち合わせていない俺には知るべくもないことである。
どの道──答えははっきりしていた。
「嫌ですよ。なに言ってるんですか。それに──全死さん、出来なかったじゃないですか」
実は、誠に不本意であり遺憾なことに、俺は全死と行為に及ぼうとしたことが一度だけあったのだが──
『痛い』『そんなん入るか』などと半狂乱になって泣き喚く全死に追い立てられたことで、幸いにも未遂に終わった。
「ありゃ、お前が無理矢理犯そうとしたからだろ」
「……全死さんのなかでは、そういうことになってるんですか。俺の認識だと、俺が全死さんの脅迫に負けてしぶしぶ、ということになってるんですけど」
「誰が太宰治の話をしているか」
「『藪の中』のことを言いたいんだったら、それは芥川龍之介ですよ」
「いいからさっさと来い。十分しか待たないからな。一秒でも過ぎたら死刑だ!」
その怒声を最後に、通話は切れた。
誰のためでもない中途半端な溜息をついて携帯電話を放り捨てると、暗闇の中で忍び笑う白樺の声が聞こえた。
「飛鳥井さんから呼び出し?」
「残念なことにね。まったく……せっかく眠れそうだったのに。あの人、いつもいつもいいタイミングで俺の邪魔をするよな。
もしかして、狙ってやってるんじゃないのか?」
「ふふ、ご愁傷様。じゃあ、わたしは帰るね。甲介くんはどうするの?」
俺は数秒ばかり頭を抱え、この迷惑千万な全死の命令をどう処理するか考えていたが──やはり、答は一つしかないようである。
全死の我儘に振り回されるのが俺の日常でありレギュラーである以上、俺は諦めて唯々諾々と従うしかない。
「行くさ。──死刑は嫌だからな」
──同時刻。
『そいつ』は、己の足元に横たわる、人の形をした肉塊を、じっと眺めていた。
手にしていたコンクリートブロックをその上に落とす。
骨が潰れる音のほかには、なんの反応も無い。その肉塊に生命が通っていないのは確実だった。
「……後、二人」
『そいつ』はぼそりと呟く。
「後二人で……僕は自由になれる……」
熱に浮かされているかのようなぼうっとした表情で、『そいつ』はさらに熱く呟いた。
「僕は自由になる……!」
下弦の月の明かりの下、『そいつ』は身体を弓なりに仰け反らせて細く高い声を漏らす。
──いつまでも。
「──はい、分かりました。それじゃ、明日の十五時、駅前で」
わたしはそう結んで、携帯の通話ボタンを押す。
液晶画面が回線の接続が切れたことを教え、そこでやっとわたしはこらえていた溜息を吐くことができた。
なんとも言えない脱力感と、重荷から開放された解放感との半々の気持ちで、
事務所で一番高価な家具、『トロイ』と呼ばれるデスクへと首を向ける。
「……ネウロー、全死さんと待ち合わせしたよ」
半分死んでるようなわたしの声に、椅子にふんぞり返ってうとうとしていた男──ネウロがぱっちりと目を覚ます。
気怠げに軽いあくびをしつつ、ネウロは窓の外に広がる暗闇を見、そしてわたしを見た。
「ふむ……ヤコよ、貴様は飛鳥井全死と何時間電話をしていたのだ?」
ちらり、と携帯の画面に記された通話時間の表示に目を落とす。
「……99,99でカウントストップしてる……朝の九時ごろから始めて今が夜中の三時くらい」
「ほう、そんなにも一体なにを話していたのだ?」
「……なにも。大したことない世間話か、そうじゃなかったら、なに言ってるかさっぱり分からない難しい話だけ。
アンタに言われた『会う約束』を取り付けるのは、電話を切る前の五秒で済んだ」
「人間の女は長電話が好きとは聞いていたが、これほどまでとはな。もっと他にすべきことはないのか?
魔界の電話は長電話を何よりも忌み嫌っていてな、通話時間が三秒を超えると爆発して半径十キロ内を焦土と化すのだぞ」
「あの人がおかしいだけだってば……飲まず食わずで十八時間とかさすがにないわ……」
普段なら、その魔界の電話とやらにツッコミを入れるところだが、精神的にも体力的にも消耗し尽くしていたので、素で答えるのが精一杯だった。
「うう……せっかくの日曜だったのに、丸一日潰した挙句に完徹って……わたしの休日はどこいっちゃったの?」
今日(というかもう昨日)に食べるはずだったあれやこれに思いを馳せ、どうしようもなく惨めな気持ちになってくる。
そして、そんなわたしの惨めな気持ちに拍車をかけるものがある。
「ねえ、ネウロ」
「なんだ」
「いいかげんに外してよ、これ」
と、わたしを椅子に縛り付けるチェーンとロープと南京錠を、辛うじて自由な右手で示す。
魔人の常識外れの力で椅子に緊縛され、その状態で十八時間も意味のない話や意味不明の話に付き合わされる──
ドSなネウロによって様々な拷問を受けてきたわたしだったが、今日のこの仕打ちはトップ3に入るだろう。
なんでいつもいつもわたしだけがこんな目に遭わなきゃいけないのだろうか。
真面目に考えると辛いからあまり考えないようにしてるけれど、さすがに泣けてくるものがある。
「もー……勘弁してよ……」
疲労と空腹と睡眠不足で意識が朦朧としてくる。あとほんの数時間で朝が来て、学校が始まる。
せめて仮眠でも……と、(椅子に拘束されたままなのはこの際諦めることにして)目を閉じた瞬間、
「寝るなヤコ。寝ると死ぬぞ」
首がもげそうな強烈ビンタがわたしの頬を一秒で五往復した。
くわんくわん頭の中で響く衝撃が、わたしの意識を遠のかせるのが自分でも分かる。
乱れた平衡感覚がわたしの視界を一回転半させ、視界がぼやける。
このままだと──オチる。
いや、別に気絶したっていいのだが(ホントはよくないのだろうけど)、この場合「気絶」は「寝る」として見做されるのだろうか。
このままオチたら死ぬってゆーか、ネウロに殺されるのではないだろうか。
そんな思考がわたしの内部を駆け巡るが、それを上回る勢いで、わたしの意識はこの宇宙の遥か彼方へブッ飛んでいこうとしていた。
「しかし実際、貴様には悪いことをしたと思っているのだぞ」
「だった……ら、すんな……よ」
意識を保つためにツッコミを試みるも、ビックリするぐらいの掠れ声。
「本来なら、その右腕も縛りつけ、口にもボールギャグを噛ませなければ、とても緊縛と呼べる代物ではない。
飛鳥井全死との連絡を取らせるために、泣く泣く貴様の腕と口に自由を与えなければならなかった我が輩の心痛……
貴様なら分かってくれるはずだな?」
(分かるか。つーか、拷問に手心を加えることが、ネウロにとっての『悪いこと』なのかよ)
今度は声にすらならなかった。
「踏んで縛って叩いて蹴って殴って吊るして──それが我が輩の愛だ」
「愛なら仕方ないな──って、ンなわけあるか! 虐めて愛情表現とか小学生か! しかもスケールデカすぎだろ!」
──さて、このツッコミはきちんと声になっていたのだろうか?
この直後に意識がぶっつり途絶えてしまったので、わたしにはそのあたりの事は定かじゃなかった。
誰かに呼ばれた気がして、目を覚ます。
時計を見ると夜中の三時だった。
「甲介くん、甲介くん」
いや──気のせいではなく、確かに誰かが俺を呼んでいた。
まだまどろみの中にある意識のままに、声の主を探して照明の消えているワンルームの部屋の至るところに視線を漂わせる。
やがて意識が徐々にはっきりとしてきた頃に、彷徨う視線がベッドの上──というか俺の隣で焦点を結ぶ。
そこには、全裸の女が座り込み、俺の肩を軽く揺さぶっていた。
だが、全裸の定義があくまでも「生まれたままの姿」というやつなら、そいつは決して全裸ではなかった。
顔にはアイマスク、細い首にはチョーカー風の首輪(首輪風のチョーカーではない)、
そして両手首と両足首にはベッドの支柱と鎖で連結された枷。
ちゃらちゃらと鎖が擦れるリズミカルな音で、俺は完全に覚醒した。
その女は真銅白樺だった。
「起こしてごめんね、甲介くん」
「……まだ帰ってなかったのか?」
俺がそう言うと、白樺は肩をすくめてみせたらしく、また鎖が鳴った。
「あのね……君がこの鎖を外してくれなかったら、わたしは帰りたくても帰れないんだけど?」
完全に覚醒したと言うのは俺の錯誤で、どうやらまだ俺は寝ぼけていたらしい。
思い出したからだ。
「──忘れてた。悪い」
思い出してみれば我ながら呆れるしかないが、俺は彼女の拘束を解くよりも先に眠ってしまったようだった。
「ううん、それはいいの。『すっかり忘れ去られた自分』っていうのを実感できて、新鮮だったから」
「そいつは俺には理解しがたい感覚だから、『良かったな』としか言いようがないよ。で、じゃあ、なんで起こしたんだ?」
そこで気が付いたが、白樺はさっきから膝をすり合わせてもじもじとしていた。
だがどうやら、それは羞恥心とかそういった類の感情によるものではないらしく──、
「トイレ」
生理的な欲求によるものだったらしい。
俺が身を起こして手足と首の戒めを解くと、彼女はベッドからするりと降りぱたぱたとトイレへ駆け込んでいった。
それを見るとはなしに見送ってから、俺は再びベッドに横たわる。
すっかり霧散した眠気をかき集めるために、できるだけどうでもいいことを考えようとした。
その材料として選んだのは白樺のことだ。
なぜ、彼女は緊縛された状態での性行為を望むのだろうかという点だ。
そしてまた、なぜその相手に俺を選んでいるのかということ。
俺自身について言えば、その点ははっきりしている。
それは白樺が望んでいることで、しかも断る理由が特に思い当たらないからであり、
そして──ここが一番大事な点であるが──それが習慣として、レギュラーとして定着しているからだ。
別に長く続けるつもりなど毛頭無かったのだが、かれこれ三年くらいになるのだろうか。
元々、彼女とは中学時代からの知り合いだったが、こういう関係になった、つまり白樺が俺のレギュラーとして組み込まれたのは、
まったくの偶然に当時の彼女のパートナーを殺害したことに起因している。
俺はその代役として、いわば穴埋めとして納まっているのであり、それは非常に恣意的な推移の結果だ。
発端はどうあれ、それがレギュラーとして定常化された出来事なら、白樺が俺から離れていくなり、
或いはお互いの環境が変化するなりして、やがてその関係性が消滅するときを迎えるまで、俺は淡々とそれを受け入れるだけである。
来るものは拒まず、去るものは追わず。それが習慣に従って生きていくということだ。
俺が定期的に人を殺すのも、その習慣に従うからこそだ。
始めて殺したのは六歳のときで、それ以来、殺人が俺の習慣になっている。
殺害人数が百人に達したら一度打ち切ってみようかとなんとなく考えるが、それはまだ少し先のことになる。
止めるという発想自体に大した意味はないし、先のことを真剣に考える習慣はない。
鬼に笑われたくはないからだ。
──などと、思考が脱線して当初の目的通りにかなりどうでもいい結論らしきものに辿り着き、
睡魔がじわじわと俺の瞼に被さろうとしたとき──いきなり携帯電話の着信音が鳴り響いた。
闇とレム睡眠の海に満たされた部屋の静寂はその一撃で木っ端微塵に破壊される。
トイレのほうから「うひゃ」という白樺の小さな悲鳴が聞こえてきた。
念の為に横目で時計の針を捉え、現時刻を確認する。
やはり三時過ぎだった。
こんな時間に電話をかけてくる非常識な人間といえば、たった一人しか心当たりがない。
俺はげんなりした気持ちで携帯電話を取り上げ、通話ボタンを押した。
「遅いんだよ、この馬鹿! 何時間待たせる気だ! 電話くらいさっさと取れよ! お前は催促嫌いの漫画家か!?」
「……待たせたのはほんの数秒だと思いますけど」
やはり全死だった。
「嘘こけ! たっぷり三時間は待ったぞ!」
「全死さんは、ダリの作った体内時計でも内蔵してるんですか?」
俺の突っ込みなどに耳を貸す素振りすら見せず、全死はひとしきり俺を罵倒した後に、
この草木も眠る絶好の呪いアワーな時間に近所迷惑を顧みず電話をかけてきたそもそもの本題を切り出した。
「明日、弥子ちゃんとデートするぞ」
「……おめでとうございます。電話、切ってもいいですか?」
トイレから戻ってきた白樺が、自前の拘束具をバッグにしまう。代わりに下着を取り出し、身に着けはじめた。
電話中の俺に遠慮しているのか、それとも今が深夜だということに配慮しているのか、その動作は極力音を潜めたものだった。
「なんで切るんだよ。話はこれからだ」
「その話、長くなるようでしたら今度にしてください。俺は学校があるんです」
「すぐ済むよ。むしろ、そんなお前に渡りに船な話だ──今すぐ、大学まで来い」
「俺は明朝に行きたいのであって、今行きたいわけじゃないですよ」
「関係ない。どの道、用事が済んだら朝になる。冬来たりなば春遠からじって言うだろう?」
下着に次いで衣服をも着終えた白樺は、最後に眼鏡をかけて身繕いを終了させた。
俺個人の希望としては行為の最中にも眼鏡をつけていて欲しいのだが、生憎、眼鏡とアイマスクは両立しない。
「その言い回しはおかしい気もしますし、すぐ済むのか朝までかかるのかはっきりさせて欲しいですが、
用件を聞いていないので断言はできませんね。で、俺に大学でなにをさせたいんですか?
──と言うか、全死さん、今どこにいるんです? もしかして学校ですか?」
「そうだよ。だからお前を呼んでんだよ──いちゃいちゃしようぜ」
その全死の要請と、桂木弥子とデートすることと、なんの関係があるのか俺には推し量ることは不可能だった。
全死の中ではその両者は明確で整然としたロジックで連なっているのだろうが、
全死のような異常な精神構造を持ち合わせていない俺には知るべくもないことである。
どの道──答えははっきりしていた。
「嫌ですよ。なに言ってるんですか。それに──全死さん、出来なかったじゃないですか」
実は、誠に不本意であり遺憾なことに、俺は全死と行為に及ぼうとしたことが一度だけあったのだが──
『痛い』『そんなん入るか』などと半狂乱になって泣き喚く全死に追い立てられたことで、幸いにも未遂に終わった。
「ありゃ、お前が無理矢理犯そうとしたからだろ」
「……全死さんのなかでは、そういうことになってるんですか。俺の認識だと、俺が全死さんの脅迫に負けてしぶしぶ、ということになってるんですけど」
「誰が太宰治の話をしているか」
「『藪の中』のことを言いたいんだったら、それは芥川龍之介ですよ」
「いいからさっさと来い。十分しか待たないからな。一秒でも過ぎたら死刑だ!」
その怒声を最後に、通話は切れた。
誰のためでもない中途半端な溜息をついて携帯電話を放り捨てると、暗闇の中で忍び笑う白樺の声が聞こえた。
「飛鳥井さんから呼び出し?」
「残念なことにね。まったく……せっかく眠れそうだったのに。あの人、いつもいつもいいタイミングで俺の邪魔をするよな。
もしかして、狙ってやってるんじゃないのか?」
「ふふ、ご愁傷様。じゃあ、わたしは帰るね。甲介くんはどうするの?」
俺は数秒ばかり頭を抱え、この迷惑千万な全死の命令をどう処理するか考えていたが──やはり、答は一つしかないようである。
全死の我儘に振り回されるのが俺の日常でありレギュラーである以上、俺は諦めて唯々諾々と従うしかない。
「行くさ。──死刑は嫌だからな」
──同時刻。
『そいつ』は、己の足元に横たわる、人の形をした肉塊を、じっと眺めていた。
手にしていたコンクリートブロックをその上に落とす。
骨が潰れる音のほかには、なんの反応も無い。その肉塊に生命が通っていないのは確実だった。
「……後、二人」
『そいつ』はぼそりと呟く。
「後二人で……僕は自由になれる……」
熱に浮かされているかのようなぼうっとした表情で、『そいつ』はさらに熱く呟いた。
「僕は自由になる……!」
下弦の月の明かりの下、『そいつ』は身体を弓なりに仰け反らせて細く高い声を漏らす。
──いつまでも。
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