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「脳噛ネウロは間違えない 50-3」(2007/12/24 (月) 09:13:42) の最新版変更点
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「こっちです、香織さん。全死さんを見つけました」
荻浦嬢瑠璃の指差した先には、確かに全死の姿があった。
見紛うはずもない。あんな奇抜な服装を平気でできる三十路近くの女など、この世にはそういない。
視点をもっと上のレヴェルへ引き上げればそういう人間など佃煮にするほどいるだろうが、それは俺の知っている世界ではない。
俺にとっての『この世』とは極めて限定された範囲の中の話だ。
「やれやれ。虱潰しに大通りの店を覗いて回った努力がやっと実を結んだわけだ」
俺がため息混じりに呟くと、嬢瑠璃は心外そうに異を唱えてきた。
「絨毯爆撃と言ってください」
「どっちでもいいよ」
とりあえず、嬢瑠璃と肩を並べて全死がいるオープンテラスのカフェへと歩いていった。
「肩を並べて」というのは言葉の綾だ。嬢瑠璃の身長は百四十センチそこそこ、俺の肩より下に嬢瑠璃の頭がある。
だが俺は習慣を重んじる人間だ。「肩を並べて」という慣用句が存在するならそれに敬意を払わなければならない。
全死は呑気にもチキンカツサンドを頬張りながらビールを飲んでいた。
俺の目を引いたのは、そのテーブルに並べられた料理の山だ。
所狭しと敷き詰められた皿の数は、見てるだけで食欲を削がれる。過ぎたるは、という典型例だろう。
なんだこれは、と思いながら、全死に呼びかける。
「全死さん。こんなところにいたんですか。探しましたよ」
「よお、辺境人(マージナル)。それから嬢瑠璃ちゃんも。なんだい、ずいぶんと遅かったな」
「遅かったって……待ち合わせ場所から勝手に離れて気ままにウィンドウショッピングを楽しんで
エウリアンを冷やかして無駄に時間をつぶして挙句の果てに昼間からビールかっ食らってる全死さんがそんなことを言うんですか」
「なんだ? ずいぶんと事細かにわたしの行動を把握してるじゃないか。ストーキングか? いい趣味してるな」
「足取りを追ったんですよ。全死さんを探して文字通りの右往左往です。
俺はローレシアの王子じゃないんです。こんな徒労は好みじゃありません。もちろん趣味でもありませんからね。
なにが悲しくて探偵業の職業訓練に励まなければならないんです。俺の進路にはそういう予定はありません。
そもそも将来の展望なんて持ってないんですから、俺の進路を決定させるような行動は慎んでください。
端的に言うなら勝手にちょろちょろ動き回らないでください」
ここまで一気呵成に述べ立てて一息つき、ふと、あることに気がつく。
テーブルの上の料理が減っていた。
考えてみれば当然の話だが、ここに並べられた料理は食べられるために存在してるのだ。
つまり、この牛の餌のごとき量を平らげてるやつがいるということである。
全死は関脇とでも同席してるのか? と思い、今まで全死と料理に取られていた気を取り戻して全死の対面に差し向ける。
──軽く眩暈がした。「あ」とかなんとか、その類の声を上げたかもしれない。
つい先日に起こったイレギュラー中のイレギュラー、『仕事』を目撃されたその張本人たる目撃者であるところの女子高校生と職業不詳の男がそこにいた。
男は極めて無表情に俺を眺めていた。少女は俺の存在に気づいていないらしく、無心に数々の料理に食らいついている。
「どうしたんですか、香織さん。犯行現場を目撃された犯罪者のような顔をしていますよ」
嬢瑠璃がそう言って、固まってる俺の顔を覗き込んできた。
「……それ、君は分かってて言ってるのか?」
「なんのことでしょうか?」
「いや、そんなことより──全死さん、この人たちは誰ですか」
全死は「はあ?」というような顔をし、それから大儀そうに答える。
「桂木弥子ちゃんと脳噛ネウロ」
聞いてるのは名前ではない。そんな識別子は今現在必要とされている情報ではない。
「全死さんとの関係性を聞いてるんです」
「完璧に徹頭徹尾の全然まったく無関係だ。
それに、どっちかと言うとお前の知り合いじゃないのか? お前のメタテキストが弥子ちゃんに引っ掛かってたぞ、辺境人(マージナル)」
「話したでしょう。『仕事』を目撃されたって。この人たちですよ」
つまらなそうに耳をほじりながら応答していた全死が、ここで初めて興味を示した。
「あ、なになに? そうなの? そりゃ大変だ。よし、今すぐ口を塞げ。わたしが許す。
おい、どうするよ脳噛ネウロ。今からこの辺境人(マージナル)がお前を相手に白昼堂々公開殺人を敢行してくれるそうだぞ」
声が大きい、と思ったが今さら言っても遅いので黙っておく。
少女はまだ料理を食べることに夢中になっていた。餓鬼道にでも落ちているのだろうか。前世の業とは恐ろしいものである。
「ほう……我が輩を殺すのか? やってみるがいい。遠慮はいらない」
「貴方もこの人の言うことを真に受けないでくださいよ。──ああっと、脳噛ネウロさん」
「……漫談師みたいな名前ですね」
嬢瑠璃が俺の耳元でそんな感想をぼそっと漏らした。
この子は日に日に物言いが全死に似てきているような気がする。
ペットは飼い主に似る、というやつのヴァリエーションだろうか。
全死に毒された美少女女子中学生の末路がこれとは、彼女の親も草葉の陰で泣かずにはいられないだろう。
「そっちの小娘は何者だ? 貴様たちの同類か?」
と、脳噛ネウロは顎をしゃくって嬢瑠璃を示す。
嬢瑠璃はともかく、全死と同類項で括られるのは甚だ不本意な話だった。俺は全死のような社会不適合者とは違う。
「荻浦嬢瑠璃です。全死さんの同類というよりは……その、妹分です」
嬢瑠璃は不審感を露わにしながらも、形だけは礼儀正しくお辞儀をして見せた。
「自己紹介が恙無く済んだところでそろそろ話を本題に戻していいですかね。──全死さん、なにをやってるんですか?」
「なにって、食事さ」
「どういう経緯でこの人たちと食卓を囲んでるのか、伺ってもいいですかね」
「弥子ちゃんが可愛かったから今さっきナンパした。それでお近づきの印に食事を奢っているのさ。聞いて驚け、なんとBダブルプラスだぞ」
相変わらず言うこと全てが意味不明な女である。
「……Bって?」
「人間の格の話だよ。嬢瑠璃ちゃんといい勝負だよ、この子は。嫉妬しちゃうかい、嬢瑠璃ちゃん」
「いいえ、毛の先ほども。全死さんが誰をどのように評価しようとも、わたしと全死さんとの間にはなんの影響もありません」
「あらら、ちょっとくらいはジェラシー感じてくれてもいいんじゃないの?」
「そういう情緒的な反応をわたしに求められても困ります」
嬢瑠璃は硬質な声音でぴしゃりと言い放った。さすがというべきか、素面で全死の会話についていけるのは彼女くらいだろう。俺も見習いたいものだ。
嘘だが。
「……しかし、辺境人(マージナル)とやら。我が輩と我が輩の下僕を始末しなくていいのか?」
脳噛ネウロはそんなことを言いながら、テーブルの中央に置かれたタバスコの壜を取り、いとも容易くその首をへし折る。
そして、あろうことか──その中に満ちる真っ赤な液体を、今なお旺盛な食欲で食べ続ける少女の目の前の皿にぶちまけた。
そして、あろうことか──少女はそれに気づく素振りも見せずに料理を口いっぱいにかき込み、
「…………」
ポクポクポクチーンという効果音が聞こえてきそうな沈黙が五秒、その後、
「ぶぼぉっ!!」
朱を入れたような顔色の少女が喉を押さえて悶絶し始めた。それはたっぷり三十秒ほど続いた。全死はげらげら笑っていた。
「な、なにすんのよネウロ!」
「注意力散漫だぞ、ヤコ。前を見ろ」
犬のように舌を出してひいひい言う少女の前で、ネウロは俺を指差す。
「はあ? なにがよ──って、あーっ!」
少女も口を丸くして俺を指差した。
開いた口が塞がらないとはこのことだった。
あの日の鮮烈な映像がわたしの脳裏に甦る。
映画館からの帰り道、あの路地裏の、死体と、石と、生まれなかった『謎』と、殺人者と──。
「さて、もう一度訊くぞ、辺境人(マージナル)とやら。我が輩と、この食い意地の張った我が輩の下僕を始末しなくてもいいのか?」
なんで彼がここにいるのか前後関係がさっぱり分からないが、ただ一つ言えることは、大ピンチということだった。
わたしは目の前の青年が殺人を犯すところを目撃してしまった。
ネウロの個人的な理由により、警察にはその旨を届け出ていないが、そんな事情など相手にはお構いなしだろう。
『探偵』として数多くの犯罪者を目の辺りにしてきたわたしは知っていた。
『悪意』には防衛本能があるということを。
だから、悪意をもって誰かを殺すとき、行為の痕跡は隠蔽される。
その機構が『トリック』を生み、『謎』を生むのだ。
その原理原則に従うなら、「見られたからには生かしておけない」という考えが彼に沸き起こるのは当然の成り行きだろう。
事実、あの晩、わたしは殺されかけたのだ。
「さあ、どうした。我が輩を殺さなければ貴様の殺人行為が露見してしまうぞ」
「ちょ、ネウロ! なに挑発してんの!?」
そりゃネウロは魔人だし、べらぼうに強いからいいだろうが、わたしは普通の人間なのだ。
これまではなんとなくのノリのような雰囲気で何度かわたしを危険から守ってくれたネウロだが、今このときも守ってくれる保証などない。
日々の虐待の憂き目を思うに、やはり最後は自分で自分の身を守らなければならないのだ。
逃げる算段をしようかそれとも武器になるものを探そうかとパニックになりかけたわたしだったが、
「──全死さん」
彼は、わたしに食事をご馳走してくれた飛鳥井全死さんの名前を呼んだ。
どうやらこの二人は知り合いのようだった。そういえばそれっぽいことを全死さんが言っていたような気がする。
「なんだ? 今はわたしの出る幕じゃないぞ。ずっとお前のターンだ。戦闘レヴェルでならお前に勝てるやつはいないよ。自信を持て」
「それはまあ自覚してますが……俺がここでこの二人を殺した場合、『保証』してくれますか?」
「オーケイ。有象無象のメタテキストくらい、二十人でも三十人でもいじってやるよ。
お前がこの場でなにをしようとも、一切合切『なかったこと』にしてやる。良かったな、後顧の憂いなく殺しまくれるぞ。武運を祈る」
「そうですか。なら──」
と、青年は首を振り、
「帰りましょう」
「そうそう、お前のエレガントな殺しの芸術を──って帰るのかよ!?」
……現実にノリツッコミをする人を見るのは、(自分以外では)初めてだった。
「なんだあ、この根性なし! 素人童貞! 鈍色鮪! 連続殺人鬼! お前はそれでも辺境人(マージナル)か!」
「全くだ。失望したぞ。この虫ケラめ、プラナリアにも劣る」
なぜかネウロも一緒になって彼を罵倒していた。なにをしたいんだアンタは。
二人の十字砲火を受けて、彼は憂鬱そうに深いため息をついた。
「はあ……どうしてみんなそう血の気が多いんですかね。温厚な俺が馬鹿みたいじゃないですか」
「だってお前馬鹿だろ」
「馬鹿で結構ですから、とにかく帰りますよ。……脳噛ネウロさん、俺の目は節穴じゃないんです。
どうしても俺の『不可触(アンタッチャブル)』のスペックを確かめたいようですけど、その手には乗りません。
俺は『敵意』を伴った攻撃を自動的に回避できます。それが『不可触(アンタッチャブル)』です。
でもそれは、戦わないための『能力』です。戦場の境界線上に、勝者と敗者の狭間に留まり続けるためのものです。
ご期待に沿えず誠に残念ですが、俺にはあなたと戦う理由が存在しません」
「我が輩が貴様の情報を警察機構に漏らす──と言ってもか?」
「ですが、今のところ司直の手が俺に伸びている様子はありませんよね。
何故かは知らないけど、貴方たちは俺の存在を公けにするつもりがないようです」
わたしは、はっとなってネウロを見た。
彼の言っていることは図星だった。
「……我が輩の気が変わったらどうするつもりだ?」
「物事には自走性があります。慣性と言い換えてもいいですけど、一度決めたことは、そう簡単には覆らないものです。──それに」
彼は全死さんの方に視線を送り、
「今、確認しました。全死さんの『保証』は有効のようです。つまり、遡って有栖川健人の件すらも『保証』の有効範囲だということです」
「はは、そこまでわたしを信頼してるのか。感動ものだな。愛してるよ、辺境人(マージナル)」
「茶々を入れないでください、全死さん。それに信頼じゃなくて信用です。……ま、とにかくそういう訳です」
そして、今度はわたしを見た。
「桂木弥子、だったっけ? 心配しなくても君に危害は加えない。目撃されたあの瞬間ならともかく、今となっては殺す意味があまりないからな」
はあ、そうですか、としか言いようが無かった。
「はあ、そうですか」
話の筋はよく分からないけれど、とにかくわたしの口を封じる意思はないらしい。
──しかし、なにかが引っ掛かる。
わたしはネウロの操り人形として、様々な犯罪者、様々な『悪意』に出会ってきた。
そのいずれにも、彼は当てはまらないような気がした。彼のような犯罪者は初めてだった。
「ふん……まあ良かろう。この場は見逃してやる。しかし、貴様等には『謎』の気配が付いて回っている。
いずれそれを解い(くっ)てやるから覚悟しておくがいい」
ネウロはネウロで一人で勝手に納得していた。なにか満足できる結果は得たらしい。
「どういう種類の覚悟かは分かりませんけど、了解しました。ほら、全死さん、帰りますよ」
「やだ。もっと弥子ちゃんとお話しするんだ」
「子供ですか、もう……。なあ、君もなんとか言ってやってくれよ」
気が動転して今まで見えていなかったけれど、彼の背後に中学生くらいの女の子が立っていた。
青年の頼みに応じ、その女の子はまるで子供をあやすように語りかける。
「帰りましょう、全死さん。途中で唐揚げ弁当買って差し上げますから」
「じゃあ帰る。バイバイ、弥子ちゃん。近いうちにまた会おうぜ」
全死さんは拍子抜けするくらいにあっさりと立ち上がった。
女の子はわたしにぺこりと頭を下げ、小走りに全死さんの後を追っていった。
「じゃあ、俺もこれで」
と、軽く会釈して立ち去りかけた青年の背中へ、
「あの」
わたしは思わずそれを追いかけ、呼び止めていた。
「……なに」
大通りの信号が赤になっていたのが幸いしたのか、彼は歩みを止めて振り返った。
呼び止めたはいいが、なにも思い浮かばなかった。
「えーと、その、名前、聞いてもいいですか」
何も考えずに口から出るに任せて、そんなことを言った。
「どうしてだ? はっきりさせておくけど、俺は君たちとは交渉を持ちたくない。
俺はレギュラーを重んじる性質なんだ。君たちのようなイレギュラーとこれ以上関わるのはご免だ」
「でも、あなた、わたしの名前を知ってます。それって不公平ですよね」
言ってる本人ですら無茶苦茶な理屈だったが、意外にも彼は少し考えてそれに頷いた。
「なるほどね。条件を同じにしておこうという訳か。そのディフェンス観念は理解できる」
彼は財布を取り出し、そこから一枚名刺を抜き取って、それを裏返しにしてわたしに渡した。
「え、あ、どうも」
わたしも慌てて『探偵』用の名刺を取り出し、彼に差し出す。
名刺交換なんて慣れないことだったので動きがぎこちなかったけれど、彼は特には気にしてないようだった。
「……ひとつ、訊いてもいいですか」
「答えられることならね」
「さっき、全死さん、あなたのことを『連続殺人鬼』って言ってましたけど、本当ですか」
「世間的にはそういうレッテルが貼られるな、鬱陶しいことに。まあその通りだと自分でも思うけど」
「だけど、自分の『能力』は勝者と敗者の狭間に留まり続けるためのものだって言いましたよね。
なら……どうして人を殺すんですか。勝者になるつもりが無いなら、人を殺す理由、ないと思いますけど」
言いながら、わたしはあの晩に抱いた感想を思い出していた。
彼には『悪意』が無かったのではないだろうか。だから、『悪意』を保護すべき『謎』が生まれなかった。
しかし、『悪意』が無いのなら、どうして彼は人を殺すのだろうか。
わたしは固唾を飲んで彼の答えを待った。それほど時間は掛からなかった。
彼はちょっと肩をすくめ、いとも簡単な口ぶりで言った。
「習慣だからな」
「……え?」
「俺には人を殺す習慣がある。その習慣に則って定期的に人を殺している。
人を殺すのが好きなわけじゃない。中毒でもない。
朝起きたら歯を磨くようなものさ。面倒くさいけど、習慣だからそれをやる。ただそれだけのことだ。
俺にだって道徳観はあるし、人の命が失われるのは残念に思うけど、優先順位の問題だ。俺はレギュラーを優先する。
ただまあ、もちろんこれは犯罪行為だから、あまりおおっぴらにやれることじゃない。
全死さんが持ってくる『仕事』のターゲットは安全だから、今は彼女の『仕事』を請け負うことでその習慣をこなしている」
「安全って……どうして『安全』なんですか?」
まるで訳が分からなかった。
『安全な標的』というのものが存在できるなら、この世に『謎』の存在する余地は無くなるのではないだろうか。
ネウロの主食である『謎』がこの世から消えてしまったら、ネウロはいったいどうするのだろうか。
「あの人はメタテキストをいじれるからな。……言っておくけど、『メタテキストってなに?』って質問は禁止だ。
俺にだって良く分からない。本人は『そいつの視座が見えるんだ』とかなんとか言ってるけど、俺にはメタテキストが見えない。だから分からない」
「全死さんとはどういう関係なんですか? なんか、傍から見ててすごく奇妙なんですけど」
「あの人とは……子供のころに家が近所だったんだ。幼馴染と言えばそうだろうけど、そんな牧歌的な表現は微妙に違和感があるな。
関係がレギュラー化したのは、俺が中二のとき、俺が同級生を殺したことをあの人がどこから嗅ぎ付けてきて、
面白がって密室殺人に仕立て上げたのが馴れ初めってやつさ。……そのお陰で俺は逮捕されかけて精神病院に送られそうになったけど」
信号が青になった。
「他に聞きたいことは?」
わたしが黙っていると、彼も黙って横断歩道を渡っていき、やがてわたしの視界から消えていった。
手に触れる紙の感触で、わたしは彼の名刺のことを思い出す。ひっくり返して表を読むと、そこにはこうあった。
『初めてでも安心 趣味の殺人者 香織甲介』
確信はないけれど、このロゴは全死さんが考えたのではないかと直感的に思う。彼女はこういう悪ふざけが好きそうだ。
悪意なく人を殺す青年と、『悪意』の塊のような女性と。
「なんなのよ、もう……」
動く人の波に揉まれながら、わたしは途方も無い脱力感に襲われてその場にへたり込んだ。
──世界は謎に満ちている。今は、まだ。
「こっちです、香織さん。全死さんを見つけました」
荻浦嬢瑠璃の指差した先には、確かに全死の姿があった。
見紛うはずもない。あんな奇抜な服装を平気でできる三十路近くの女など、この世にはそういない。
視点をもっと上のレヴェルへ引き上げればそういう人間など佃煮にするほどいるだろうが、それは俺の知っている世界ではない。
俺にとっての『この世』とは極めて限定された範囲の中の話だ。
「やれやれ。虱潰しに大通りの店を覗いて回った努力がやっと実を結んだわけだ」
俺がため息混じりに呟くと、嬢瑠璃は心外そうに異を唱えてきた。
「絨毯爆撃と言ってください」
「どっちでもいいよ」
とりあえず、嬢瑠璃と肩を並べて全死がいるオープンテラスのカフェへと歩いていった。
「肩を並べて」というのは言葉の綾だ。嬢瑠璃の身長は百四十センチそこそこ、俺の肩より下に嬢瑠璃の頭がある。
だが俺は習慣を重んじる人間だ。「肩を並べて」という慣用句が存在するならそれに敬意を払わなければならない。
全死は呑気にもチキンカツサンドを頬張りながらビールを飲んでいた。
俺の目を引いたのは、そのテーブルに並べられた料理の山だ。
所狭しと敷き詰められた皿の数は、見てるだけで食欲を削がれる。過ぎたるは、という典型例だろう。
なんだこれは、と思いながら、全死に呼びかける。
「全死さん。こんなところにいたんですか。探しましたよ」
「よお、辺境人(マージナル)。それから嬢瑠璃ちゃんも。なんだい、ずいぶんと遅かったな」
「遅かったって……待ち合わせ場所から勝手に離れて気ままにウィンドウショッピングを楽しんで
エウリアンを冷やかして無駄に時間をつぶして挙句の果てに昼間からビールかっ食らってる全死さんがそんなことを言うんですか」
「なんだ? ずいぶんと事細かにわたしの行動を把握してるじゃないか。ストーキングか? いい趣味してるな」
「足取りを追ったんですよ。全死さんを探して文字通りの右往左往です。
俺はローレシアの王子じゃないんです。こんな徒労は好みじゃありません。もちろん趣味でもありませんからね。
なにが悲しくて探偵業の職業訓練に励まなければならないんです。俺の進路にはそういう予定はありません。
そもそも将来の展望なんて持ってないんですから、俺の進路を決定させるような行動は慎んでください。
端的に言うなら勝手にちょろちょろ動き回らないでください」
ここまで一気呵成に述べ立てて一息つき、ふと、あることに気がつく。
テーブルの上の料理が減っていた。
考えてみれば当然の話だが、ここに並べられた料理は食べられるために存在してるのだ。
つまり、この牛の餌のごとき量を平らげてるやつがいるということである。
全死は関脇とでも同席してるのか? と思い、今まで全死と料理に取られていた気を取り戻して全死の対面に差し向ける。
──軽く眩暈がした。「あ」とかなんとか、その類の声を上げたかもしれない。
つい先日に起こったイレギュラー中のイレギュラー、『仕事』を目撃されたその張本人たる目撃者であるところの女子高校生と職業不詳の男がそこにいた。
男は極めて無表情に俺を眺めていた。少女は俺の存在に気づいていないらしく、無心に数々の料理に食らいついている。
「どうしたんですか、香織さん。犯行現場を目撃された犯罪者のような顔をしていますよ」
嬢瑠璃がそう言って、固まってる俺の顔を覗き込んできた。
「……それ、君は分かってて言ってるのか?」
「なんのことでしょうか?」
「いや、そんなことより──全死さん、この人たちは誰ですか」
全死は「はあ?」というような顔をし、それから大儀そうに答える。
「桂木弥子ちゃんと脳噛ネウロ」
聞いてるのは名前ではない。そんな識別子は今現在必要とされている情報ではない。
「全死さんとの関係性を聞いてるんです」
「完璧に徹頭徹尾の全然まったく無関係だ。
それに、どっちかと言うとお前の知り合いじゃないのか? お前のメタテキストが弥子ちゃんに引っ掛かってたぞ、辺境人(マージナル)」
「話したでしょう。『仕事』を目撃されたって。この人たちですよ」
つまらなそうに耳をほじりながら応答していた全死が、ここで初めて興味を示した。
「あ、なになに? そうなの? そりゃ大変だ。よし、今すぐ口を塞げ。わたしが許す。
おい、どうするよ脳噛ネウロ。今からこの辺境人(マージナル)がお前を相手に白昼堂々公開殺人を敢行してくれるそうだぞ」
声が大きい、と思ったが今さら言っても遅いので黙っておく。
少女はまだ料理を食べることに夢中になっていた。餓鬼道にでも落ちているのだろうか。前世の業とは恐ろしいものである。
「ほう……我が輩を殺すのか? やってみるがいい。遠慮はいらない」
「貴方もこの人の言うことを真に受けないでくださいよ。──ああっと、脳噛ネウロさん」
「……漫談師みたいな名前ですね」
嬢瑠璃が俺の耳元でそんな感想をぼそっと漏らした。
この子は日に日に物言いが全死に似てきているような気がする。
ペットは飼い主に似る、というやつのヴァリエーションだろうか。
全死に毒された美少女女子中学生の末路がこれとは、彼女の親も草葉の陰で泣かずにはいられないだろう。
「そっちの小娘は何者だ? 貴様たちの同類か?」
と、脳噛ネウロは顎をしゃくって嬢瑠璃を示す。
嬢瑠璃とはともかく、全死と同類項で括られるのは甚だ不本意な話だった。俺は全死のような社会不適合者とは違う。
「荻浦嬢瑠璃です。全死さんの同類というよりは……その、妹分です」
嬢瑠璃は不審感を露わにしながらも、形だけは礼儀正しくお辞儀をしてみせた。
「自己紹介が恙無く済んだところでそろそろ話を本題に戻していいですかね。──全死さん、なにをやってるんですか?」
「なにって、食事さ」
「どういう経緯でこの人たちと食卓を囲んでるのか、伺ってもいいですかね」
「弥子ちゃんが可愛かったから今さっきナンパした。それでお近づきの印に食事を奢っているのさ。聞いて驚け、なんとBダブルプラスだぞ」
相変わらず言うこと全てが意味不明な女である。
「……Bって?」
「人間の格の話だよ。嬢瑠璃ちゃんといい勝負だよ、この子は。嫉妬しちゃうかい、嬢瑠璃ちゃん」
「いいえ、毛の先ほども。全死さんが誰をどのように評価しようとも、わたしと全死さんとの間にはなんの影響もありません」
「あらら、ちょっとくらいはジェラシー感じてくれてもいいんじゃないの?」
「そういう情緒的な反応をわたしに求められても困ります」
嬢瑠璃は硬質な声音でぴしゃりと言い放った。さすがというべきか、素面で全死の会話についていけるのは彼女くらいだろう。俺も見習いたいものだ。
嘘だが。
「……しかし、辺境人(マージナル)とやら。我が輩と我が輩の下僕を始末しなくていいのか?」
脳噛ネウロはそんなことを言いながら、テーブルの中央に置かれたタバスコの壜を取り、いとも容易くその首をへし折る。
そして、あろうことか──その中に満ちる真っ赤な液体を、今なお旺盛な食欲で食べ続ける少女の目の前の皿にぶちまけた。
そして、あろうことか──少女はそれに気づく素振りも見せずに料理を口いっぱいにかき込み、
「…………」
ポクポクポクチーンという効果音が聞こえてきそうな沈黙が五秒、その後、
「ぶぼぉっ!!」
朱を入れたような顔色の少女が喉を押さえて悶絶し始めた。それはたっぷり三十秒ほど続いた。全死はげらげら笑っていた。
「な、なにすんのよネウロ!」
「注意力散漫だぞ、ヤコ。前を見ろ」
犬のように舌を出してひいひい言う少女の前で、ネウロは俺を指差す。
「はあ? なにがよ──って、あーっ!」
少女も口を丸くして俺を指差した。
開いた口が塞がらないとはこのことだった。
あの日の鮮烈な映像がわたしの脳裏に甦る。
映画館からの帰り道、あの路地裏の、死体と、石と、生まれなかった『謎』と、殺人者と──。
「さて、もう一度訊くぞ、辺境人(マージナル)とやら。我が輩と、この食い意地の張った我が輩の下僕を始末しなくてもいいのか?」
なんで彼がここにいるのか前後関係がさっぱり分からないが、ただ一つ言えることは、大ピンチということだった。
わたしは目の前の青年が殺人を犯すところを目撃してしまった。
ネウロの個人的な理由により、警察にはその旨を届け出ていないが、そんな事情など相手にはお構いなしだろう。
『探偵』として数多くの犯罪者を目の辺りにしてきたわたしは知っていた。
『悪意』には防衛本能があるということを。
だから、悪意をもって誰かを殺すとき、行為の痕跡は隠蔽される。
その機構が『トリック』を生み、『謎』を生むのだ。
その原理原則に従うなら、「見られたからには生かしておけない」という考えが彼に沸き起こるのは当然の成り行きだろう。
事実、あの晩、わたしは殺されかけたのだ。
「さあ、どうした。我が輩を殺さなければ貴様の殺人行為が露見してしまうぞ」
「ちょ、ネウロ! なに挑発してんの!?」
そりゃネウロは魔人だし、べらぼうに強いからいいだろうが、わたしは普通の人間なのだ。
これまではなんとなくのノリのような雰囲気で何度かわたしを危険から守ってくれたネウロだが、今このときも守ってくれる保証などない。
日々の虐待の憂き目を思うに、やはり最後は自分で自分の身を守らなければならないのだ。
逃げる算段をしようかそれとも武器になるものを探そうかとパニックになりかけたわたしだったが、
「──全死さん」
彼は、わたしに食事をご馳走してくれた飛鳥井全死さんの名前を呼んだ。
どうやらこの二人は知り合いのようだった。そういえばそれっぽいことを全死さんが言っていたような気がする。
「なんだ? 今はわたしの出る幕じゃないぞ。ずっとお前のターンだ。戦闘レヴェルでならお前に勝てるやつはいないよ。自信を持て」
「それはまあ自覚してますが……俺がここでこの二人を殺した場合、『保障』してくれますか?」
「オーケイ。有象無象のメタテキストくらい、二十人でも三十人でもいじってやるよ。
お前がこの場でなにをしようとも、一切合切『なかったこと』にしてやる。良かったな、後顧の憂いなく殺しまくれるぞ。武運を祈る」
「そうですか。なら──」
と、青年は首を振り、
「帰りましょう」
「そうそう、お前のエレガントな殺しの芸術を──って帰るのかよ!?」
……現実にノリツッコミをする人を見るのは、(自分以外では)初めてだった。
「なんだあ、この根性なし! 素人童貞! 鈍色鮪! 連続殺人鬼! お前はそれでも辺境人(マージナル)か!」
「全くだ。失望したぞ。この虫ケラめ、プラナリアにも劣る」
なぜかネウロも一緒になって彼を罵倒していた。なにをしたいんだアンタは。
二人の十字砲火を受けて、彼は憂鬱そうに深いため息をついた。
「はあ……どうしてみんなそう血の気が多いんですかね。温厚な俺が馬鹿みたいじゃないですか」
「だってお前馬鹿だろ」
「馬鹿で結構ですから、とにかく帰りますよ。……脳噛ネウロさん、俺の目は節穴じゃないんです。
どうしても俺の『不可触(アンタッチャブル)』のスペックを確かめたいようですけど、その手には乗りません。
俺は『敵意』を伴った攻撃を自動的に回避できます。それが『不可触(アンタッチャブル)』です。
でもそれは、戦わないための『能力』です。戦場の境界線上に、勝者と敗者の狭間に留まり続けるためのものです。
ご期待に沿えず誠に残念ですが、俺にはあなたと戦う理由が存在しません」
「我が輩が貴様の情報を警察機構に漏らす──と言ってもか?」
「ですが、今のところ司直の手が俺に伸びている様子はありませんよね。
何故かは知らないけど、貴方たちは俺の存在を公けにするつもりがないようです」
わたしは、はっとなってネウロを見た。
彼の言っていることは図星だった。
「……我が輩の気が変わったらどうするつもりだ?」
「物事には自走性があります。慣性と言い換えてもいいですけど、一度決めたことは、そう簡単には覆らないものです。──それに」
彼は全死さんの方に視線を送り、
「今、確認しました。全死さんの『保障』は有効のようです。つまり、遡って有栖川健人の件すらも『保証』の有効範囲だということです」
「はは、そこまでわたしを信頼してるのか。感動ものだな。愛してるよ、辺境人(マージナル)」
「茶々を入れないでください、全死さん。それに信頼じゃなくて信用です。……ま、とにかくそういう訳です」
そして、今度はわたしを見た。
「桂木弥子、だったっけ? 心配しなくても君に危害は加えない。目撃されたあの瞬間ならともかく、今となっては殺す意味があまりないからな」
はあ、そうですか、としか言いようが無かった。
「はあ、そうですか」
話の筋はよく分からないけれど、とにかくわたしの口を封じる意思はないらしい。
──しかし、なにかが引っ掛かる。
わたしはネウロの操り人形として、様々な犯罪者、様々な『悪意』に出会ってきた。
そのいずれにも、彼は当てはまらないような気がした。彼のような犯罪者は初めてだった。
「ふん……まあ良かろう。この場は見逃してやる。しかし、貴様等には『謎』の気配が付いて回っている。
いずれそれを解い(くっ)てやるから覚悟しておくがいい」
ネウロはネウロで一人で勝手に納得していた。なにか満足できる結果は得たらしい。
「どういう種類の覚悟かは分かりませんけど、了解しました。ほら、全死さん、帰りますよ」
「やだ。もっと弥子ちゃんとお話しするんだ」
「子供ですか、もう……。なあ、君もなんとか言ってやってくれよ」
気が動転して今まで見えていなかったけれど、彼の背後に中学生くらいの女の子が立っていた。
青年の頼みに応じ、その女の子はまるで子供をあやすように語りかける。
「帰りましょう、全死さん。途中で唐揚げ弁当買って差し上げますから」
「じゃあ帰る。バイバイ、弥子ちゃん。近いうちにまた会おうぜ」
どうやら唐揚げに釣られたらしく、全死さんは拍子抜けするくらいにあっさりと立ち上がった。
──なんか、そこだけは親近感が湧いた。
女の子はわたしにぺこりと頭を下げ、小走りに全死さんの後を追っていった。
「じゃあ、俺もこれで」
と、軽く会釈して立ち去りかけた青年の背中へ、
「あの」
わたしは思わずそれを追いかけ、呼び止めていた。
「……なに」
目の前の大通りの信号が赤になっていたのが幸いしたのか、彼は歩みを止めて振り返った。
呼び止めたはいいが、なにも思い浮かばなかった。
「えーと、その、名前、聞いてもいいですか」
何も考えずに口から出るに任せて、そんなことを言った。
「どうしてだ? はっきりさせておくけど、俺は君たちとは交渉を持ちたくない。
俺はレギュラーを重んじる性質なんだ。君たちのようなイレギュラーとこれ以上関わるのはご免だ」
「でも、あなた、わたしの名前を知ってます。それって不公平ですよね」
言ってる本人ですら無茶苦茶な理屈だったが、意外にも彼は少し考えてそれに頷いた。
「なるほどね。条件を同じにしておこうという訳か。そのディフェンス観念は理解できる」
彼は財布を取り出し、そこから一枚名刺を抜き取って、それを裏返しにしてわたしに渡した。
「え、あ、どうも」
わたしも慌てて『探偵』用の名刺を取り出し、彼に差し出す。
名刺交換なんて慣れないことだったので動きがぎこちなかったけれど、彼は特には気にしてないようだった。
「……ひとつ、訊いてもいいですか」
「答えられることならね」
「さっき、全死さん、あなたのことを『連続殺人鬼』って言ってましたけど、本当ですか」
「世間的にはそういうレッテルが貼られるな、鬱陶しいことに。まあその通りだと自分でも思うけど」
「……どうして人を殺すんですか。さっき言ってましたよね、勝者になるつもりが無いって。なら、人を殺す理由、ないと思いますけど」
言いながら、わたしはあの晩に抱いた感想を思い出していた。
彼には『悪意』が無かったのではないだろうか。だから、『悪意』を保護すべき『謎』が生まれなかった。
しかし、『悪意』が無いのなら、どうして彼は人を殺すのだろうか。
わたしは固唾を飲んで彼の答えを待った。それほど時間は掛からなかった。
彼はちょっと肩をすくめ、いとも簡単な口ぶりで言った。
「習慣だからな」
「……え?」
「俺には人を殺す習慣がある。その習慣に則って定期的に人を殺している。
人を殺すのが好きなわけじゃない。中毒でもない。
朝起きたら歯を磨くようなものさ。面倒くさいけど、習慣だからそれをやる。ただそれだけのことだ。
俺にだって道徳観はあるし、人の命が失われるのは残念に思うけど、優先順位の問題だ。俺はレギュラーを優先する。
ただまあ、もちろんこれは犯罪行為だから、あまりおおっぴらにやれることじゃない。
全死さんが持ってくる『仕事』のターゲットは安全だから、今は彼女の『仕事』を請け負うことでその習慣をこなしている」
「安全って……どうして『安全』なんですか?」
まるで訳が分からなかった。
『安全な標的』というのものが存在できるなら、この世に『謎』の存在する余地は無くなるのではないだろうか。
ネウロの主食である『謎』がこの世から消えてしまったら、ネウロはいったいどうするのだろうか。
「あの人はメタテキストをいじれるからな。……言っておくけど、『メタテキストってなに?』って質問は禁止だ。
俺にだって良く分からない。本人は『そいつの視座が見えるんだ』とかなんとか言ってるけど、俺にはメタテキストが見えない。だから分からない」
「全死さんとはどういう関係なんですか? なんか、傍から見ててすごく奇妙なんですけど」
「あの人とは……子供のころに家が近所だったんだ。幼馴染と言えばそうだろうけど、そんな牧歌的な表現は微妙に違和感があるな。
関係がレギュラー化したのは、俺が中二のとき、俺が同級生を殺したことをあの人がどこから嗅ぎ付けてきて、
面白がって密室殺人に仕立て上げたのが馴れ初めってやつさ。……そのお陰で俺は逮捕されかけて精神病院に送られそうになったけど」
信号が青になった。
「他に聞きたいことは?」
わたしが黙っていると、彼も黙って横断歩道を渡っていき、やがてわたしの視界から消えていった。
手に触れる紙の感触で、わたしは彼の名刺のことを思い出す。ひっくり返して表を読むと、そこにはこうあった。
『初めてでも安心 趣味の殺人者 香織甲介』
確信はないけれど、このロゴは全死さんが考えたのではないかと直感的に思う。彼女はこういう悪ふざけが好きそうだ。
悪意なく人を殺す青年と、『悪意』の塊のような女性と。
「なんなのよ、もう……」
動く人の波に揉まれながら、わたしは途方も無い脱力感に襲われてその場にへたり込んだ。
──世界は謎に満ちている。今は、まだ。
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