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「第097話 「演劇をしよう!!」(後編) (6)」(2013/09/14 (土) 21:16:01) の最新版変更点
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デパート西口。デパートの中でもっとも銀成学園方面に近い出入り口。
「帰るぞ」
返事はない。
「帰るぞといってるだろう鐶!」
ふと手先から質量が消えているのに気付いて慌てて振り返る。鐶はいない。
消えている。泡を喰いつつ左右をグルリと見渡すと、遠くで、かなり遠くで、見慣れた赤い三つ編みがふらふらしていた。エ
レベーターめがけ歩いていた。
「なぜ勝手に歩く!!!」
西口。外。叫ぶと無銘はぜぇはあと息をついた。膝に手を当て前屈だ。すんでの所で回収したはいいが、あまりに早く駆
けすぎた。車道に飛び出す子供を見た親がどんな気持ちかよく分かった。
「……再動で……修理…………です」
「はぁ!?」
良く分からぬ単語が飛び出した。鐶は答える代わり眼前でゲーム機を振った。無銘は見たことがある。なんとかポータブル
という奴だ。鐶がお気に入りのゲームをしているのを良く見かける。一度すすめに応じてプレイしたが将棋より沢山のコマが
何やらゴチャゴチャ犇いていて良く分からなかったし大好きな白黒版の鉄人28号も出てないのでやめた。
聞けば鐶、手を引かれている最中、急に思い出して始めたらしい。
「…………レベルを……7つ上げたら…………脱力……習得……です」
「知るか!!!」
「あ……補給のが能率いい……かも……」
「だから知らん!!」
「私は……ロボットとか……好きな子……です」
「知・ら・ん!! というか歩きながらするな!! 他の、歩いている人にぶつかったらどうする!!」
「…………いえ……無銘くんが…………案内してくれてるから……大丈夫かな…………と」
「……。貴様。そのゲームとやらは片手で出来るのか?」
「なに言ってるんですか……。両手……両手です……よ?」
決まってるじゃないですか。むふーと鼻息を噴き、やや猫背気味で得意気に笑う鐶は何だか不気味だった。
もうこの時点で鳩尾無銘の頭痛は最高潮に達した。本当怒鳴ってやろうかと思ったが、小札から慰労するよう仰せつかった
手前それはできない。
「鐶」
「はい」
「我が、我がだ。手を掴んでいるときゲームしようとしたらどうなる」
「振りほどき……ます」
とても致命的な言葉を聞いた気がするが無視。
「じゃあ我から離れてしまうよな?」
「はい。離れ……ます」
鐶はどこまでもボーっとしている。頭は結構いいのになぜ怒られているか分からぬようで。
「…………我からはぐれた理由、分かるか?」
「………………分かりません」
小首を傾げる。まさに小鳥がそうしたという感じで可愛らしい。無銘自身ちょっと見とれかけたが首を振る。
言い聞かせるよう、思う。
駄目だ。根本的なところで噛み合っていない。いまはただ一刻も早く帰りたい。
「やた…………あとレベルを……1つ上げたら…………脱力……習得……です…………」
もうしているではないか。気力50の少年。レベルアップのファンファーレがむなしく響くなか鐶はおもむろにポシェットをま
さぐって。
「ビーフジャーキー……食べます?」
「いらぬわ!!」
しかしはたかれる。3本だった。宙をかっとぶ肉的嗜好品にシュババ、伸ばした舌を絡ませて見事にキャッチ。
キツツキの特異体質。穴に潜む虫を食うため頭蓋骨表面を縦に一周してなお伸びる長い舌。軽く見積もっても20m超の
それを5分の1ほどボヤーとヌラリーと出すさまは、あたかもターキーレッドの生々しい棘皮動物が潜り込んだようでインモ
ラル。
重力に従い一旦は垂れた舌が筋力で鎌首をもたげているのは、むろん尖端でビーフージャーキーを巻き取って持ち上げ
ているからだ。横から見ればちょうど「ひ」の字──とても巨大。3km先からも読めるほど──を描く少女の口腔器官から
粘っこい半透明が滴り落ちる。
「もうやだこやつ」。無銘は太い眉をハの字にし肩を落とす。むかし小札の膝の上で見た日曜洋画劇場。幼い少年に徹底
的なトラウマを与えてくれたエイリアン。鐶の舌はそれだった。怯える反面、唾液にぬれ光る肉の鞭は、葉脈のように浮か
ぶ血管と相まってどこか淫猥だった。見知った少女の、力なく開く口の、磨いた象牙よりもツヤツヤ輝く乳歯の前からまろび
出ている、舌。生皮を剥いだヘビのような粘膜の、露出。無銘の心はズキリとした。度を越した性的な衝撃は興奮よりもむ
しろ先に心痛をもたらす……少年がそれを知った瞬間だった。
丸く甘い果実。美しい花弁。『よりも』一種、醜を帯びた苦げな歪こそじつは淫靡なのだ。
心臓は張り裂けそうで。だから思考回路は目下拡張中だ。
勢い増す血流をそちらに上にと逃がさねば致命の醜聞は免れえぬ。
ともかく社会通念上うしろ指を指されずに済む身体状況を維持しつつも、硬直し、一部を除いて棒立ちの体に脂汗を流す
無銘の前で、鐶の舌はぐぐりと動いた。デパートの出入り口にも関わらず一切誰にも見られずに済んだのは奇跡だった。
「ビーフジャーキー……食べます?」
「い!! いらんわ!!」
すっかり鐶の唾でベトベトになったビーフジャーキーに赤面する。ちょっと太い針金程度の肉製品だがいまは故あって正視
に堪えない。
「…………他の、ありますけど………………」
「い、いや、いまは遠慮する」
「……あ。お腹いっぱいです、か…………?」
うんといえば収まるだろう。ただもし腹が鳴るとやばそうなので(ウソがばれるとややこしい)、無銘は、そこそこ空腹だと
白状した。
「なら…………どうして……食べないの……ですか?」
「見たら、想像力が、やばい」
それだけ言うのが精一杯だとばかり、無銘は真赤になって目を逸らした。ふだん生意気に吊り上っている金の瞳が熱く湿
りを帯びている。鐶は5秒ほど考えていたが急に背を向ける。舌が巻き戻った。収納ボタンを押された掃除機のコードのよ
うに不規則にくゆり。ビーフージャーキーがどうなったか考えかけた無銘は慌てて首を振る。舌ごと、唇に埋没するジャーキー
はいま考えるべき材料ではなかった。しかし鐶は想像されるコトを想像しているのか、背中越しでも分かるほどただならぬ雰
囲気だ。太い三つ編みはうなじの7割を覆っているが、残りの露出は確かに赤熱で。それが咀嚼につれて動くさまは、実情が
分からないからこそ逆にマズかった。つまりもう見えようが見えまいがどうしようもない詰みだった。そろそろ退避も視野に入
れ始めた無銘を、しかし鐶は肩越しに振り仰ぐ。流し目で、……ビーフジャーキーを1本、しゃぶったままで。
「……無銘くんの…………えっち」
青黒く濡れた恨みがましい瞳。光なき眼差しはいまや虚脱の極致だった。だのに頬ときたら赤い。息も心なしか上がっている。
(や ば い !)
無銘が電撃に打たれたように硬直したのは──…
鐶がふらふら近づき始めたせいだ。
見よ。ぎこちなく細まる垂れ目がちな碧い瞳。
それは恍惚を恍惚として受容できぬ未成熟の証。熱くほとばしる情動の大部分をまだ苦痛としか解せぬつぼみの疼き。
しかし確かに存する快美の泥に囚われて、少しずつだが蕩けてゆく。硬く、芯のある表情筋がまったくこなれぬまま未知の
刺激に犯されていくのは、ふだん日陰の花のごとくシンと佇む鐶だから却って艶かしい。
時おりぐっと奥歯かみしめ情動に抑えようとする表情。
一瞬よぎる苦痛を耐え脱力したところを運悪く横たわる心地よさの針先に貫かれ、一言も発さぬまま幼い肢体をビクリと
震わすさまは、瞳孔を見開くさまは、そして過ぎ去ったとき、生まれたての子馬のようにぶるりと一震えし、鼻先から細く長い
息をつき、長い睫を切なげに伏せるさまは、さすが全身穿つ義姉の虐待に耐え切った鐶ならではの忍辱だ。
「なにがあっても声1つ立てずやりすごせ」。そう教え込まれた習性に無銘の瞳に炎がともるのは、むろん年端もゆかぬ少
女を「元気な声など聞きたくもない」、残酷なエゴを押し付けここまで歪めたリバースへの義憤もあるが、若い獣特有の激し
い欲求にも立脚している。
頬を赤らめ瞳を昏く湿らせる鐶。一言も発さぬからこそ……声が聞きたい。過剰に膨れ上がるものを決壊させたがるの
はどの雄にも備わる本能である。手を加え呱々の声を…………支配とはそれだ。
いま醴酒の濁流を辛うじて受け止めている鐶に。
強敵を見たときの熱く冷ややかな情動が全身を駆け巡るのを感じた。
殺したいが、逃げたい。攻撃と逃走を同時に望む矛盾した想い。
それにやや甘さを混ぜた実感は黄砂が吹き始めた頃のモヤモヤした疼きの原液だった。鐶。小札や、香美の持つ一種
健康的な魅力とはまったく逆を放っている。初めて風邪を引いた女児のような浮かなさで紅い。
それが歩いてくる。
妖しい雰囲気だった。あえなかな息。静かに波打つ発展途上の胸。細く引き締まった足。いつも野ざらしなのにシミも日焼
けも一切無いなめらかな踝。地面を踏みしめる指は童女のように丸く短い。そんな、ふだんは気にもかけない映像のひとつ
ひとつが少年の脳髄を麻痺させる今。張り詰めた、独特の、緊張感に促された少年の青い本能は歩き出す。制御も理知
もなかった。誘蛾灯に向かう虫のように少年は歩みだした。高熱に侵された夢遊病者の足取りだった。からからに乾いた
口内を潤す甘泉を思うとき見据えるのは唇だった。いますぐにでも吸い付き奥底で生鮮にぬめる朱桜の舌をついばまねば
収まらぬ渇きが無銘の息を荒げさせた。
荒げさせつつもまだどこかに残る理性が、忍びとしての自制心が、すんでのところで飛び掛るのを抑えている。
そうこうしている間にもう鐶は目の前で。
しかもどういう意図か手をゆっくり伸ばしていて。
無銘は混乱した。
何もしなければ少女の好きなようにされる。それは、怖かった。自分より背が高くしかも強い鐶が、いつもと違う妖しい雰囲気
を孕んでいる。どういう目に遭うか分からなかった。街中……デパート前という場所柄は副長の高機動を考えた場合、まったく何
ら安全を保障するものではない。連れ去られ、人気のない場所で、遭う目はいかなるもの也か──…
どうなるか興味はあるがまだ怖いお年頃なのだ、無銘は。
そもそも鐶にそういう感情を抱いたコトはない。ニュアンスとしては家族だ。或いは救うべき被害者で、任務を考えれば護衛
対象。手のかかる厄介な奴でもあり、だからこそ威張れる相手。少年らしい片意地はいつだって「こいつよりは上だし」と生意気
な見下しを以て鐶を見ている。なのに傷つかれたり悲しまれたりすると、病気の主人に右往左往する子犬のような感傷が
沸いてきてつい手をさしのべてしまう。
要するに、よく分からない相手なのだ。
で、あるがために、未知かつ恐怖の領域において蹂躙されるのだけは絶対に嫌だった。男子として取り返しのつかないレベ
ルで敗亡するのは絶対に避けるべきだった。
ならば伸びてくる手を逆にひっつかみ少女を寄せて抱きしめれば間違いなく勝てるだろうが──…
それをやると、無銘は、鐶に抱いている感情を、少なくても形而上において確定させざるを得ない。
厳密に言えば、確定を認めなければ生ずる潜在的罪科を抱えてしまう。
好きだから無理やりする。
好きでないのに、した。
忍者だからこそ人間らしい正しさに拘る無銘にとってそれらは禁忌である。
逃れるためには好意と合意を確定する他ないのだが、それもできない。
無銘にとってこの世で一番愛すべき女性は小札ただ一人なのだ。中村剛太が津村斗貴子を愛するように絶対的なもの
なのだ。小札だけが唯一で、鐶は、前述の通り、少年らしく「我は貴様よりすごいからなヘヘーン!」と論拠もなく見下してい
る。見下すことでしかモヤモヤする不確定な気持ちを整理できない。好意を伝え合意を引き出すのは矜持がゆるさない。
八つ当たり気味に、思う。
(本当、鬱陶しい奴だ)
(ああ、鬱陶しい奴だとも。方向音痴の癖にぶらぶらするからな。世話が焼けて仕方ない)
(だが)
──「わわわわし、無銘くんのおいでる所ならドコでもかまんぞなもし!」
──「ほうよ! わし、ついにおおれるならええんよー!!」
いくら邪険にしても、それこそカルガモのヒナのようにノソノソついてくる。
つい辛く当たって「言い過ぎたか」、内心後悔しているときにさえ、気付けば何事もなかったように傍にいる。
きっとそんな存在は、普通の10歳児なら学校で自然に得るのだろう。
けれど無銘は異様な生まれ方をしたホムンクルスで。忍びで。
普通の『普通』を普通に味わえぬ境涯だ。
音楽隊で唯一同年代の鐶が、実はどれほど貴重か……分からぬ無銘ではない。
──「ビーフジャーキー……食べます?」
好物だってくれる。鳥型だから鶏肉には本能的な嫌悪感を催す鐶だ。見るのも嫌な筈なのに、無銘のためにと買ってくる。
(……根はまあいい奴だ)
音楽隊内では総角の次に強く、無銘が貴信や香美、小札と束になってかかっても敵わない。
それだけの腕っ節がありながら、腕力に訴えて無銘を従わせたコトはない。
チワワ時代あれこれひどい目に遭わされたのだって、彼女があまりに強すぎるせいだ。
ゴリラの腕力と鶏卵の殻ぐらいの強度差が横たわっていたのだ、仕方ない。
行為の対象になど、できない。
無銘にとって。
そういう儀礼を行うものは、いつか両親になるべきものだ。
両親というものは、総角と小札のように好きあっていなければならない。
鐶の感情は、分からない。
ぼんやりとだが「いつか他の男を好くのだろうな」とさえ思っている。
ワケの分からぬ狂奔で傷つけるのは、嫌だ。
ただでさえ彼女は義姉に虐げられている。瞳の光が灯らなくなるほど徹底的に。
なのに自らの勝手な情動を晴らすべく傷つけるなど──…
(同じではないか)
無銘をチワワの体へ押し込めた憎き仇ふたりと。
手は尚も迫る。無銘は決然と面を上げ──…
殴られた。
「え……」
びたりと硬直する鐶。何が起きたか理解しかねたが、確かに無銘は殴られていた。
岩のように節くれだった拳にその顔面を、横から、メキメキ歪められている。
殴りぬかれている真っ最中なのは疑いなかった。
鐶が目をぱしぱししながら見比べたのは。
伸びきったままの華奢な手と、いま無銘を殴りぬけて通り過ぎていく丸太のような巨腕。
鐶が殴ったわけではない。にも関わらず無銘はげぶうと血しぶき撒きながら飛んでいく。
どうしてこうなった?
殴る? 誰が、何のために?
原状復帰の鐶は確かにみる。2mを超える巨大な人影を。鐶にとっては見慣れた、しかし最近はとんとご無沙汰の兵馬
俑が、野太い腕を、無銘の方へダラリと伸ばしているのを。犯人は、明らかだった。
(龕灯以外に無銘くんが持つもう1つの武装錬金! というコトはつまり──…)
自らの武器で、自分を殴った。そしていまは錐もみながら飛んでいく。
「ふ、ふはは!! 我は急用を思い出したゆえ先に辞去する!!」
哄笑を上げつつ傍の公園めがけ遠ざかる無銘。遊んでいた人々は上空をすっとぶ少年を見上げただ右から左に見送っ
た。
「後は兵馬俑に案内されるがいい!! いいな!!!」
声はいつもどおり不遜を極めていたが左頬は潰れた瓢箪をつけたように腫れあがり髪ときたら落ち武者のように乱れている。
(いいなも何も……)
やっと状況を理解した鐶はむくれた。要するに無銘、逃げたのである。
清々しいまでの逃げっぷりだった。彼は甘ったるい状況から力づくで逃げたのだ。
兵馬俑に殴らせるという奇行はつまり誤魔化しだった。まさにパンチの効いたアクションで相手の思考をかく乱したのだ。
真意を覆う考証的煙幕はさすが忍びといったところだが──…
残された女性は当然面白くない。一瞬うつむきかけた鐶だがすぐに顔を上げる。
そのとき差した西日の逆行のせいで表情は分からなかったが、唯一右目のあたりで一瞬ギラリとした閃光が瞬いた。
そして彼女は歩きだす。目の周りを影に染めたまま。足取りこそ静かだが、名状しがたい威圧感が地鳴りのような音
を立てる。
「なんとか撒けたか?」
茂みの影で無銘は呟く。落着したのはデパート横の銀成公園。の最外郭。木々と茂みの広がる憩いの広場。殴り飛ばさ
れている最中についたのだろう、枝や葉っぱをはたき落とすと、笑う。
「ふ、ふはは。そうだ最初からこうすればよかったのだ。兵馬俑に案内(あない)させとけば良かったのだ」
頭には耳。犬の耳。武装錬金は1人1つだが無銘は例外。龕灯と兵馬俑を併用できる。どうも精神の問題らしい。無銘は
犬と人、2つを持っている。で、あるからして、その具現たる武装錬金も必然的に複数。そも動物型が武装錬金を発動する
コトじたい、既存の、錬金術的定義から大きく外れている。しかしチワワ時代抱いた人型への憧れはその不文律を覆すほど
激しく巨大だった。つまり兵馬俑は、犬としての無銘の精神が発動したものであるから、念願かなった今でも使役するには
禽獣としての類型を示すほかない。具体的にいえば犬耳としっぽが生える。かの早坂秋水との戦いでそれを発見した無銘
は、戦団に拘留されている最中ずっと克服を考えていたが、そも核鉄は没収されていたから実行に移せなかった。返された
のは毒島監視のもと銀成へ発つときだが、それは龕灯で戦団に状況を逐次報告するためだから、切り替えなどできようも
なくだ。
(着いてから防人戦士長さんが「いいよー」と言ってくれたので練習したが相変わらずしっぽ出てくるしっぽうぜえ)
現段階では練習不足も相まって──そも人型になってまず優先するのは忍法再習得だった。兵馬俑越しに覚えた数々の
わざを肉体に馴染ませる必要があった。更にタイ捨流。忍者刀映えする剣法習得は急務だった。総角とふたりヒマさえあれ
ば速成に勤しんでいた。決戦は近い、とかく時間がなかった──発動時は犬耳としっぽが生える。いわば半獣半人の形態
になってしまう。
ともかくも兵馬俑を発動しからくも難を逃れた無銘だが、やはり鐶が気になるとみえ茂みから元きた方をそうっと覗き見る。
「馬鹿っ! そちらは駅! 銀成学園はあちらなのだ!! くそう兵馬俑がせっかく誘導しているのに何故迷……あ、そうそう
そっちそっち。分かってくれたか良かった」
遠くかすむ少女の一挙手一投足に怒ったりホッとする少年忍者は背後に何がきたか気付かない。
ガラスの靴でも履けそうなか細い足の甲が一歩踏み出す。迫る影。細い足が彼めがけ静かに前進し──…
「何やってるのアナタ」
肩に浴びせられた声は氷水のように冷たく、だから無銘はギクリと振り返る。
「いいわねホムンクルスは。ヒマそうで」
2m先に立っていたのは金髪碧眼の美少女。腰まである艶やかな髪を筒で小分けしているのが特徴的だ。目はひたすら
棘を帯び、無銘のふるう忍法薄氷(うすらい)より絶対零度。不機嫌そうだがそれが平常、デフォルトだ。
(ヴィヴィヴィヴィクトリア=パワード!!)
声にならない悲鳴をあげ尻餅をついたのは、先日些細なきっかけで争いそして負けたからだ。数多くの忍法を持ち、秋水
さえ徹底的に梃子摺らせた無銘だが、ヴィクトリアのような、広範囲を支配する巨大な武装錬金の持ち主相手だと流石に
分が悪い。かの敵対特性……兵馬俑に攻撃されたものが標準およそ3分で創造者に牙を向く反則的能力こそ有している
が、対象が例えばバスターバロンのような規格外のサイズを誇る場合、話はまったく変わってくる。3分ではすまないのだ。
実際試したコトはないが、総角の解説によれば、3時間……ともすれば3日かかってようやく発動する見込みだ。
それゆえヴィクトリア操る避難壕の武装錬金、アンダーグラウンドサーチライトに運悪く敗れて以来、どうにも恐怖心が
よぎってしまう無銘だ。
「ところで聞きたいコトが……」
口を開くヴィクトリアだが、やにわに黙る。ある一点を見てから黙りこくる。
視線を追った無銘はやっと気付く。いまだ燃える男性的な残り火に。いよいよ進退窮まらなくなった象徴的な高ぶりに。
「ふーん」
ヴィクトリアは衣服越しに高ぶる”それ”をしばらく眺めていたが突然鼻を鳴らし薄く笑う。心底小ばかにしていた。
「ち!! 違う!! 貴様に怯えたから縮……い、いや!! おしっこがだな、漏れそうなゆえこーなっただけであって!!」
股間を抑え目を赤く腫らせて抗弁する無銘は女のコ座り。そこにティッシュが投げつけられる。
「恵んであげる。トイレ行きたいんでしょ? 使いなさいよ」
「貴様!!」
がばっと無銘は立ち上がる。しらけた様に目を薄めるヴィクトリア。
(ハイハイ。どうせ必死に自己弁護するんでしょ。見苦しい)
果たして無銘は血相変えて詰め寄った。
「あのな!! ポケットティッシュは水洗トイレに流しちゃいけないのだぞ!! 詰まる! 他の人とか業者さんが困る!!」
(そこ!?)
珍しく目を見開き後ずさる。身の丈5cmは低い少年の気魄につい気圧されたのは、思わぬところから攻撃されたせいで
もあるが、何より言葉が正しいからだ。話題を逸らすためではなく、ただ真剣に訴えるひたむきさ。性根のねじくれたヴィクトリ
アはまったくそういうものに弱い。弱くなければかつて地下で秋水とまひろに説き伏せられたりはしなかった。
「というか何でヴィクトリア姐は来ているのだ」
「……ちょっと待ちなさいよ。なにそのヴィクトリア姐って」
無銘はここでやっと従来の苦手意識を取り戻したらしい。ちょっとオドオドした様子で視線を外し、外しながらも鐶の様子だ
けは抜け目なく確認しつつ
「だって呼び捨てると叱られるし……」
拗ねたように呟く。あどけない様子にヴィクトリアは心中の黒い凍結が溶かされるのを感じた。弟。もし人生が普通なら獲
得できたのだろう。早坂桜花の気持ちが分かるほど、使命感と責任感と、時おり訪れる一抹の幼い敵意を以て、面倒を見
たのだろう。
そういう空想を、強く振り返るコトなく、ただフワリと撫でるようにするだけで、なんとなく満たされた気分になるのは、きっと
心が回復した証だろう。それが感じられて嬉しかった。
尊大だと思っていた無銘が、ホムンクルスが、存外人間らしい正心と、少年特有の純朴さを持っているのも救いだった。
望まずして「なってしまった」人外の少女にとって、いわゆる「普通」ではない同属は、言葉にこそ出さないけれど、「こういう
生き方だってできるんだ」と勇気付けられる思いだ。錬金術を錬金術というだけで嫌っていた時代はもう終わる。終わらせな
ければならない。ヴィクトリアは白い核鉄の開発に乗り出した。助力したい、そう見初めたパピヨンは、かつて抱いた世界への
厭悪などとっくに超越している。悠然と空行く彼に憧れた以上、努力はもはや避けられぬ。
ヴィクトリアは、超えたい。
「かつて」を。
「降りかかった邪悪な意思」を。
父を討たさんと怪物に変えた錬金戦団は今でも許す気にはなれない。だが、だからこそ、辛苦に至った原因は正しく見据
えなければならない。経緯を見つめ、恨むべきものとそうでないものを、ちゃんと区分し、実態を正しく、ありのまま見られる
ようならなければ、白い核鉄という命題は絶対に解けない。
世界は、篭った地下で100年思い描いていたほど悪意に満ちていないのだから。
漆黒の陥穽に堕ちそうなとき、手を差し伸べたのは秋水とまひろ。
暖かな恩義と邪悪な意志。どちらを心におくべきか考えるまでもない。
錆びた怒りや怨恨を晴らす最大の復讐は結局「正しく生きる」なのだ。殺害や破滅を叩きつけても待ち受けるのは同一
化。嫌いぬいていた筈の邪悪な意思”そのもの”になるだけだ。
カズキを刺してしまった秋水。
まひろはそれを知りながら、決して責めたりしなかった。
(アナタ自身、傷ついているでしょうに)
カズキは月に消えた。家族を失った傷心は痛いほど分かるヴィクトリアだ。なぜなら父は、彼と居る。
まひろは、かつて思っていたほど能天気ではなかった。むしろ純真すぎるからこそ、突如降りかかった離別に人知れず
悲しみ苦しんでいる。なのに周囲を慮って務めて明るく過ごしている。それは強さで、ヴィクトリアにはないもので。秋水を
今でも少しずつ救っていて。
だから彼はまひろを救いたいと願っている。半分はきっとまだ贖罪気分なのだろう。だがヴィクトリアの見るところ、もう
半分はもっと根源的な人間としての感情だ。青年らしく少女を大事に思っている。
犯してしまった罪科は簡単には消えない。100年経っても怨恨に凝り固まっていたヴィクトリアだから強く思う。たとえ被
害者が許しても、真摯な者はずっと苦しむ。
けれど、奪おうとした命を、今度は見事救えたなら。
間接的でも構わない、絶望的状況をひっくり返す一助になれば、少しは彼の、恩人の罪悪感は薄まるだろう。
まひろもきっと笑えるようになる。かつての、まだ両親が人の形を留めていた頃のヴィクトリアがそうしていたように。
だから彼女はカズキを救いたい。秋水とまひろが大事に思う存在を、人間に戻したい。
ゆえに白い核鉄を……作る。
それは憧れるパピヨンの悲願と重なる。叶えるには、超えるほかない。
憎悪を抱いたまま熟達できるものなど何一つないのだ。
いつか疑った「人を幸せにする錬金術……果たしてあるのか?」
いまは分からないが、無銘はその端緒のようだった
ホムンクルスという、嫌悪していた存在の一粒を、パーソナリティを、知る。
凝り固まった先入観をほぐすには必要だ。
それでもいきなり好意的にはなれないので……からかう。
「いま見ていたのは例の副長? 出歯亀なんていいシュミね」
「違う!! あやつはちゃんと見ておかねば危なっかしいのだ!! ドコ行くか分からん!!」
「あっそう」
眇めるように見下しながらヴィクトリア。顎を軽く引きつまらなそうに呟いた。
「じゃあちゃんと見ておきなさいよ」
「もう遅いけど」
「ふぇ?」
気の抜けた声が漏れるのと腰の辺りにはみ出たカッターシャツの裾が掴まれるのは同時だった。
もしいまだ龕灯を展開していれば見えただろう。青黒く引き攣る無銘の背後に佇む赤髪の少女を。
(目! ちょっと逸らした隙にもうここまで!!)
「忍者ロボめ……」
頚椎が錆びた音を奏でる。短時間で二度もおっかなビックリ振り返ったからだ。そして飛び込む大きな顔。
「私の経験値…………返せ…………です」
鐶は泣いていた。虚ろな瞳を、ぐしゃぐしゃに丸まった黒い糸くずのようにして。細長い涙は悲壮というよりむしろユーモラス。
固く結ばれた唇ときたら最大限うえに引っ張るものだからカルデラほど台形で不恰好。先ほどの妖しい艶かしさはもうどこへ
やら。安心したようなちょっと失望したような複雑な無銘だがツと気付く。
「マテ。兵馬俑はどうした。おかしな動きしたら止めるよう仕込んでおいたのに」
「んっ」
涙目の鐶は振り返り後ろを指差す。まず無銘が見たのは左足首だ。そのちょっと後ろに右手首。以下、50cm間隔で、右腕、
左足、首、胸、腹が点々と転がっている。邪魔なの薙ぎ払った。事もなげに告げる鐶に無銘は思い知る。
(やっぱこやつ強い……。くそう。早坂秋水でさえ結構苦戦した兵馬俑なのに……)
一方やっと赤い髪のニワトリ少女は気付く。ヴィクトリアに。
「く、曲者じゃ……であえであえ……」
「我を押すな!!」
両手でぐぐっと無銘を押しやる鐶に嘆息するのは欧州少女。
「ひょっとしてアナタ私のコト忘れてる?」
鐶はちょっと目の色を変えてから考え込む。表情は相変わらず暗く変化に乏しい。公園からの喧騒が空しく響く。風が木の葉
とワルツしながら三者の間を通り過ぎた。カタツムリの親子が4匹剥きだしの足の甲を横断する。最後列の殻のないナメク
ジが遠ざかってもなお眉一つ動かさない。死んだと言われても信じるほど立ちすくんでいた。奥州の弁慶だった。
「…………私もヒマじゃないんだけど? さっさと答えてくれる?」
苛立たしげなヴィクトリアに「無理もない」と頷く無銘。弁護の余地がなくなるほどに沈黙は、長い。
「覚えてますよ……。ハイ……覚えていますとも……」
真黒なジト目を明後日に向けながらやっと鐶は呟く。ヴィクトリアは静かに瞑目。こめかみには血管。浮かび上がる血管。
「でも……回答権は……無銘くんに…………あげます……。花を……持たせて……あげます…………。感謝して敬え……です」
「だからなぜそんな上から目線なのだ!!」
口調こそしっとりしているが凄まじく不遜な物言いだった。無銘はただギョッとする他ない。
「ああもう分かったわよ。覚えてないのね」
鐶はちょっと頬を赤らめ頷いた。
「はい…………。かつてブレミュと戦士の間で繰り広げられた戦い……。私に成すすべなく……1人……また1人と…………
倒れていき……いよいよ後は……斗貴子さんを……倒すだけ……というとき…………いよいよ最後の激突に入った私たち
の間に…………突如天井の穴から……飛び降りて……割って入ってきた…………私が……うっかり……沙織さんと間違えて
…………総ての年齢を吸収した…………敗因……の…………ヴィクトリアさんだとは…………ちっとも……分からない、です」
「知ってるじゃないの……」
怒る気力が削がれた。どこかまひろと喋っているようなかみ合わなさを感じた。脱力、した。
「うふふ……引っかかった……引っかかった…………」
「貴様ちょっと逆恨みしとるだろ。姐さんのせーで負けたと」
腕組みしてゾンビがドヤ顔してるような得意気を見せる少女に無銘は嘆息した。
「あと……無銘くん……イジめたら……ダメです……。ダメよダメなの……ダメですよ……です」
明らかにヴィクトリアの雰囲気が硬くなった。無銘はかなり青ざめた。「やめろあまり刺激するな」。小声で忠告するがしか
し鐶は止まらない。
「勝ったらしい……ですけど…………それは……無銘くんが……優しいから…………です……。ムリヤリ……ホムンクルス
にされた……ヴィクトリアさんに…………自分の境涯を重ねて…………危害加えたくない……と……甘甘な……感傷で……
本気出せず……負けた……だけ……です……。調子……乗ったら…………ダメ……です」
「……」
ヴィクトリアは一言も発さない。しかし元来冷酷を体現したような眼差しがいっそう凍っていく。眉もかなり引き攣っている。鐶
は鐶で無銘の無言のジェスチャーを黙殺し言葉を紡ぐ。ひどい修羅場だった。
「こんなんじゃ私…………ヴィクトリアさんを守りたくなくなっちゃう……です」
「アナタ鬱陶しいわね。かなり」
(マズい! このふたりの相性はかなり最悪!! どうなるのだコレから! どうなってしまうのだーーーーーーーーーーーー!!
無銘は両手で頭を抱えた。
「そこで……集中……使うとか……スジが良い……です。そう、運動性的に……必中使わなくても……当たる……です」
「こんなの分かって当然よ。計算式使えばいいだけだし」
数分後、彼女らは仲良くゲームをしていた。ベンチに座って携帯ゲームをガチャガチャするヴィクトリアを、鐶が後ろから
覗き込む格好だ。
「って仲良くなってるし!!」
予想外の展開にビックリの無銘。発端はこうだ。鐶はいきなり「それはともかくスパロボ……しましょう……」と言い出した。
脈絡ない申し出にヴィクトリアは「ハァ!?」と言った。無銘がガタガタ震えるほど拒絶と高圧に満ちた「ハァ!?」だった。
しかし鐶は「こーいうゲームの……最速クリア動画……ネットに上げたら……友達みんな褒めてくれますよ……。まぁ……
私は……友達……いませんが……」と言い出した。いやそんな言い方で食いつかないだろと無銘が思ってると、ヴィクトリア
は「やるわ」と即答。「やるんだ……」。あきれる無銘をよそに、ちょっとカオを赤くして「千里褒めてくれるかな」とボソボソ呟
いていたのが印象的。で、現在。
「この敵、体力減らすと逃げるんだけど」
「…………このユニットの……この武器……使う……です」
「攻撃力すごく低いのに?」
「実は……装甲ダウンレベル1の……効果……あります……。装甲下げて……撤退ギリギリまで削ってから……援護攻撃
……使う……のが……鉄板……です」
「なるほどね」
「インターミッションで……強化パーツつけて……武器の地形適応Sにするのも……地味ですが……効きます」
「確かそれやると攻撃力が1割増しなのね?」
「はい……増し増し……です」
「そう。増し増しなのね」
「増し増しなのです」
からかうように混ぜかえすヴィクトリアに鐶は大真面目に頷いた。
買い物が変なコトになってきた。無銘はあきれる一方、珍しく同年代の、それもホムンクルスの少女と遊んでいる鐶に少し
だけ嬉しくなった。ずっと纏ってやまぬ孤独の影がいまは少しだけ薄らいでいる。きっとそれこそ本来あるべき姿なのだと
心から、思う。
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