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「番外編 「広がる宇宙の中、小さな地球(ほし)の話をしよう」 2」(2012/12/16 (日) 07:35:08) の最新版変更点
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「如何なる姿を見せていようと、アイツはひとたび飢餓に狂えば平然と人を喰らう化け物だ」
鉤手甲の男は悠然と部屋に足を踏み入れた。
「分かったらさっさと逃げろ。そして忘れろ。この女の存在も過ごした日々も」
気死したがごとくのろのろと階段に向かって歩く尖十郎は……横目で見た。
ゆっくりと木錫の周囲を回りながら手甲を振りかざす男を。ただし距離は詰めない。ゆえに手
甲は鉤の先端さえかすりもしない。
面妖な攻撃である。
男は木錫の周囲を回り、遂には頭上を飛び違えたり横を行き過ぎたりしながらもなお攻撃を
空ぶるのである。しかしその攻撃は威嚇でも牽制でもまして技量の未熟さゆえに当たらぬと
いう様子でもなく、一撃一撃に斬り殺さんばかりの気迫が充溢しているのである。
立場としては男に守られている尖十郎でさえ身ぶるいするほどの殺気である。
だがそれを向けられている筈の木錫は大した動揺も見せず、男が正面に舞い戻るやいなや
うーんと大きく両腕を上げて生あくびを浮かべた。
「んん……。お、なにかよう分からんが、終わったかの?」
「ああ。少なくてもあの青年を逃がすまでの時間稼ぎはこれでできる」
「ほう」
感嘆めいた声が木錫の口から飛び出した。見れば先ほど上げた両腕に微細な傷がついて
いる。
「ぬぅ。何かに斬られたようじゃのう」
濡れた手ぬぐいを叩くような異様な音が木錫から走ったと見るや、彼女と男の間で血しぶきと
肉片が飛び散った。掴んでいた腕が投げられそれがサイコロステーキのように寸断されたの
である。
「こりゃあまたひどいのう。何も講じず出ようとすればばらばらじゃ」
「そこに転がっている信奉者どものようにな」
ふむ、と木錫は両腕の血をねぶりながらしばし思案にくれ、やがて言葉を発した。
「風閂(かぜかんぬき)という忍法を知っておるかの? 主に風摩に伝わる忍法なんじゃが、
髪の毛を周囲に張り巡らすとちょうどこんな感じになるのじゃ。うむ。髪ではないが髪によらざ
るしてかような物を作ろうとはいやはやまさに眼福眼福。見えこそせんが眼福じゃ」
「御託を」
「いやいや。褒めておる。ここまでできるヌシは間違いなく相当の使い手じゃ」
「……」
男は悠然と踏み出した。しかし木錫が「出ようとすればばらばら」と看破した部屋なのだ。そ
れは男自身も首肯したではないか。なれば左様な斬撃の結界に踏み込めば彼もまた足元の
骸と同じ運命を辿るのではないか? いやいや先ほど結界を張った時を思い出してほしい。彼
は部屋を縦横無尽に駆け巡っておきながらかすり傷さえ負っていないのだ。蜘蛛が自らの糸
に絡め取られないように彼もまた自身の巡らす結界の攻撃対象から外れているとみえる。
そうして彼は一歩、また一歩と歩みを進めていく。
迂闊に動けば木錫は足元の偽両親と同じ命運を辿るであろう。
かといって動かねば、結界をすり抜けてきた男の餌食。見よ。彼の手に光る一対の鉤手甲
を。先ほど尖十郎を切り裂いたそれは異様な殺気と憎悪に鈍く輝いている!
しかし果たせるかな、木錫もまた男に向かってじりっと一歩踏み出した!
「斬撃軌道の保持……というところかの? ヌシの能力。その鉤手甲の軌道に沿って斬撃が
残りあたかも透明な刃を置いたかのごとく敵を斬り裂く……とみたがどうじゃ?」
男の顔にありありと驚愕が浮かんだのもむべなるかな。
「大した能力じゃが相手が悪かったの。わしとの相性は残念ながら最悪じゃ」
彼は木錫が踏み出した瞬間、斬れる! と確信していた。
現に部下二人は寸断し酸鼻極まる地獄絵図を醸し出していたではないか。
だが実情はどうか? やんぬるかな、斬れると見えた木錫はまるで斬れぬ!!
いや正確には張り巡らした斬撃軌道の細い線自体には引っかかっている!
それが証拠に皮膚がわずかにへこみ、少女らしい外観に見合った柔らかな肉さえも斬撃の
線にそってすうっと斬られているのだ。木錫は男の能力を「あたかも透明な刃を置いたかのご
とく敵を斬り裂く」と形容したが、まさにその透明な刃は木錫自身の体を通り過ぎてもいるので
ある。現に男は目撃した! 木錫の腹が水平なる透明刃を浴び、脇腹から背中に向かって斬
られていく様を!
なのに斬れぬ!!
物理的には無数の刃が当たっているにも関わらず、傷口が一つたりとも開かない!
刃を浴びた体は次の瞬間にはもう癒合し、何事もなかったかのごとく平然と歩んでいるので
ある。──いかなる名刀とて一ツ所に溜まった水を切断する事は不可能なのだ。斬ったと思っ
た次の瞬間にはもう再生している。
まさに木錫はそれ。立ちながらにして桶の中の水のごとく斬られないのだ。
変化といえばせいぜいが白い肌が蝋のように軽く透けて見える程度──…
何という怪異! 端倪すべからざる魔人のわざ!!
「忍法蝋涙鬼(ろうるいき)。ヌシにはチト余る代物じゃて」
やがて茫然たる男の前にたどり着いた木錫は、意地悪い笑みの籠った上目遣いをしながら
しっしと手を振った。
「ほぅれほれほれ。逃ーげーたーらーどうじゃあ~? どうせヌシはわしにゃ勝てん」
身長差は大人と子供ほどあるにも関わらずこの所業というのは何とも間が抜けた感じだが、
言葉自体は至極理性的で的を射てもいた。
「戦略的撤退もまた良しじゃ。弱いものいじめをする趣味はないし、ヌシほどの使い手をかよう
なつまらぬ争いで殺めるのもつまらん。何十年かの修練、呆気なく水泡に帰したくはなかろ?
第一な。これが一番重要なんじゃが……喰ってもまずそうじゃからのう」
ケラケラとした嘲笑を浴びる男の風采は確かに悪い。だが彼は蒼然たる面持ちから絞り出す
ような声を漏らした。
「逃げたら貴様は先ほどの一般人を喰うつもりだろう」
「わしは彼が好きなのじゃ」
答えになっているかどうかも分からない答えである。
「ところで『きしゃく』というのは名ではなく苗字でのう。字も本当は『木錫』ではない。わしの居
る組織の連中みなみな能力がそのまま名字でな、くされ縁のえろぐろ女医など衛生兵の英語
読みを苗字にしておる。とはいえわしは見ての通りの老体ゆえに横文字には疎い。よってそ
のまま能力を苗字にしたのじゃが、はて困った、みなみなわしが名と苗字を漢字で連ねるたび
に難しくて読めぬという。やはり今日びの若人には漢字は受けんのじゃろうな。よって両方か
たかなにしたのはやんぬるかな。しかし字面で並べるとどうも名より苗字の方が見栄えがよく
てのう、偽名を名乗る際は苗字を名前としておる」
つらつらと長広舌に及ぶ木錫……いやもはや木錫が偽名と自白した少女に、男は何も手出
しが出来ぬ。そうであろう。自らの能力を既に封殺した相手に一体何ができようか……。
「ところでヌシは錬金術と占星術の関連を知っておるか? ああ、別に答えんでもいい。わしが
いいたいのはそれら総ての知識に比ぶれば砂粒のごとき小さな知識、一言二言ですむのじゃ。
要するにじゃな、木星は錫(すず)と関連が深いのじゃ。錫というのは”ぶりき”やら”ぱいぷお
るがん”の”ぱいぷ”やらに使われとる金属だそうなんじゃが、錬金術やら占星術的にはこれと
木星が関連付けられておるという。そしてわしは『まれふぃっくじゅぴたー』なる役職でな。漢字
で書けば『凶木星』……ま、本来、”ぐれーたー・べねふぃっく(大吉星)”といわれるほどの木
星が凶象意を孕むのも妙な話じゃが、そういう決まりゆえ仕方ない。ま、陰陽五行の観点からすれ
ば僚友の雷使いにこそ『まれふぃっくじゅぴたー』を名乗らせるべきじゃとも思うが……おと。話
が逸れてしもうたな。まあぼけた老人の長話として笑って許せい」
まったく隙だらけの少女である。
男は考えた。いかな術法であれ集中力が途切れたその瞬間にならば解けるのではないか?
「要するにだから木錫なのじゃ。わしの偽名な。役職が『木星』で『錫』がそれに連なる金属ゆ
えに縮めて木錫。なかなか頓知が効いてて面白いじゃろ?」
少女が優越混じりの息を吐いた瞬間、うねりを上げた鉤手甲が殺到した。
果たして小さな頭はガリっという音とともに爆ぜ、錫色の髪の毛がばらばらと舞い散った。
(やったか!?)
そう息をのむ男の前で少女の頭はどろどろと溶けていく……。
よく観察すると傷によって溶解したのではなく、口から流れる涎のような液体によって顔面全
体が溶けていくようだった。例えるなら地盤沈下を来したビルの如く、下から順に顎、頬、目、
額、最後に頭というように溶けた肉汁が口中へ埋没していくのだ。そしてその肉汁は首を伝っ
て胸を流れ少しずつ少しずつ少女の原型を崩していく──…
「こりん奴よのう。亀の甲より年の功……。年長者の話はじっくりと聴いて損はないというのに」
だが少女は喋る。動くべき唇も声を発すべき声帯も溶けてなくなっているというのに、どうい
う理屈か声だけは響くのだ。
「仕方ない。退かぬとあらば殺す他なかろうて。仮にも『まれふぃっくじゅぴたー』という要職に
あるわしがここまでされて何もせぬとあらば沽券にかかわろう。といってものう、あまり喰いで
がなさそうな相手ゆえ気乗りせんがのぅ……」
腹も足もとろけて下に垂れて行き、やがてマンゴー色の飴を溶かしたような水たまりが畳に
溜まっても声は続く。まったく不気味極まりない。
「忍法我喰い(われくらい)もどき」
細い目つきをカッと剥きながら男は足元を眺めた。少女だった”モノ”はいまやアメーバか何
かのごとく、ズズッ、ズズッと男に向かって這いだしている。不思議な事に畳に染みついた血や
そこらに転がる肉片とは混ざらないらしく、波濤が砂浜をこそぐる様な調子で通りすぎるのだ。
男は素早くしゃがみ鉤手甲を振り下ろした。もちろん手ごたえなどない。
「愚かじゃのう。液体の類はまず斬れまいよ。わしを従わせるやんどころなき御方なら別じゃが」
ちなみに彼女の服や下着は先ほど突っ立っていた場所で無造作に転がっている。白いフェレッ
トと赤いマンゴーの飾りのついたかんざしも服の上に落ちている。
「あ、そうそう。わしの能力と本名をまだ紹介しておらんかったの」
男の背後で少女は再生した。
「まず能力名じゃが『ハッピーアイスクリーム』という。可愛らしいじゃろ? 横文字に疎いわし
がかたかなで発音できるぐらい気に入っておる」
背中に話しかけるように突っ立つ彼女は当然ながら一糸まとわぬ姿である。
胸に膨らみはなく胴も筒のごとくだ。小さな臀部には絹のごとき肌がしっとりと纏わりつくだけ
で肉は薄い。両足も白木の細棒を揃えたように頼りない。後ろ髪はほどけ肩や背中に見事な
紫混じりの錫の波を落としている。
一方で表情はどこまでも明るく、双眸は少女的な無垢の美しさに生き生きと輝いている。
「ヌシの能力が鉤手甲の形を取っているのと同様、わしの能力は『耆著(きしゃく)』の形を取っ
ておってな。耆著というのは忍者が使う方位磁石みたいなもんじゃ。磁力を帯びており水に浮
かべると北を示す」
濡れ光る肌からはマンゴーの芳しい匂いが立ち上る。どうやら服を脱ぎ捨てたせいで直に体
臭が飛散しているらしい。
「よって苗字は耆著。かたかなで書けばキシャク。偽名にしてた奴じゃな。で、肝心の本名じゃが」
「イオイソゴ、と云う」
「横文字で本名並べるならば『イオイソゴ=キシャク』、奥ゆかしい日本語で書くなれば……ふむ。
戯れに筆談的な会話もやるかの? じゃが『彼女』のあれはサブマシンガンあってこその術技でも
あるからどうしたものか。まあ物はためしじゃ、やってみよう」
何かが男の肘に打ち込まれた。
とみるや畳にぼとりと液状の物が落ちる音がした。
「耆著五百五十五じゃな」
畳の上にできた肉の縦文字を小学生特有の本読みのような調子で読み上げる少女……い
や、イオイソゴとは対照的に、男はこらえにこらえていた悲鳴を遂に上げた。
さもあらん。彼の肘から先は見事に溶けてなくなっている!
それだけでもおぞましいのに、溶けた腕は畳の上で「耆著五百五十五」という文字を描いて
いるのだ。
しかも文字は動く。トカゲの尾は切られた後もしばらく動くというが、この文字の動きはそうい
う反射的な物というよりは例えば電光掲示板に浮かぶイルミネーションのような規則正しさが
あった。肉で描かれた漢字は上から順々にそのフチを膨らませてウェーブを打っている。
「うーむ。我が名ながらいつ見ても仰々しいのう」
仰々しい悲鳴が轟いているのはまったく意に介さぬイオイソゴ、自分の名を眺めつつ、更に
講釈を続けた。
「五百は『いお』とも読むのじゃ。万葉集にも『白雲の五百重(いおえ)に隠り遠くとも夕(よひ)
去らず見む妹があたりは』などという句もある」
溶けた肉が男の残る腕から滴り落ち、イオイソゴの言葉を速記していく。
二本目の鉤手甲がからからと畳を転がり……やがて六角形かつ掌大の金属片へと姿を変えた。
「五十を『いそ』と読むのは馴染み深いじゃろう。山本五十六というお偉い大将がおったからの。
ちなみにわしは越後長岡で小さい頃のこやつと遊んだ事もあるが……まあいらざる話かのう。
五が『ご』と読むと講釈するよりいらざる話。しかしどうも筆記は疲れるのう。やはりわしには
向いておらんようじゃ。ふぉふぉふぉ」
両足の肉が解けて地面に溜まり、文字を描きながら素早く避けた。
何を避けたか……、無論、支えを失いうつぶせに倒れる男をである。
それをきっけけに速記は終了した。
「と。またしても長話がすぎたのう。生きておるか? 聞こえておるか? そのまま死んでは閻
魔の前でも首傾げたままとなろ。されば不敬を問われ沙汰が重うなる。それを良しとするほど
わしは鬼じゃないゆえ教えてやろう」
倒れた男はもはや達磨状態である。
それをよっこらとひっくり返しながら、イオイソゴは呟いた。
「ヌシが溶けたのはわしの耆著・ハッピーアイスクリームの特性のせいじゃ」
その手にはドングリとも銃弾とも取れる先の尖った小さな物体が握られている。
耆著とは正にこれを指すのだが、男の知る由ではない。
「わしも理屈はわからんが、これを撃ちこまれた物体はの、いい感じの磁性流体と化すらしい。
で、わしの持つ耆著で操れるという寸法じゃ。大雑把な磁力操作ゆえ精密動作は難しいがの。
磁性流体というのはそもそも強磁性体の固体微粒子を”べーす”となる液体中に界面活性剤を
用いて分散させた懸濁液。字面は難しいが要するに磁石を近づけたら海栗みたいな形に尖っ
たりいろいろ変形する不思議で面白な液じゃ。恐らくわしの耆著に元来そなわっておる磁力が
物体に作用する事で磁性流体を作るのか……。しかしそれにしては本来の磁性流体よろしく
黒くならぬのが不思議じゃのう……。まあ、わしは錬金術師ではないから科学的究明などは
専門外。ただしわしが数百年来やっとる職業的見地からなれば断言できる」
ピっと親指と人差し指が動くと、耆著が男の胸に突き刺さった。
「忍法だからじゃ!」
男の全身が溶けていく。
「忍者のわしが使うこんな能力は忍法としかいいようがなかろ」
イオイソゴは満面の笑みでハイハイをしながら、かんざしをひったくった。
「なれば荒唐無稽大いに結構じゃっ!」
起伏のない裸体をいきいきと反転させてイオイソゴは男の前に舞い戻った。
「おおそうだ聞いてくれ聞いてくれ。蝋涙鬼やら我喰いもどきやらも耆著の特性の応用なのじゃ。
わし自身に打ち込んだ場合はの、わし自身の意思である程度動けるのじゃ。まぁ、本来の我
喰いは消化液で色々溶かすものじゃから、わしの使うのは”もどき”にすぎぬが」
そしてかんざしの端を持って軽く捻ると、果たしてキャップのように開くと……
ストローが出てきた。
「ふぉっふぉっふぉー! いっつぁ食事たーいむ!! ……あぁでもやっぱまずそうじゃのう。
しかし喰いもせんものを殺すのは主義ではないし、第一自然の摂理に反する。かといってどう
も中年の肉は瑞々しさが無く脂ぎっててうまくない……仕方がない」
ドロドロの肉塊を困ったように眺めると、イオイソゴはその上に握った左拳をかざした。
「わしは”ふぇれっと”と”まんごー”の細胞を入れられた調せ……ええと、そう、怪人なのじゃ」
果たしてぎゅっと絞った左拳からはオレンジ色の汁がダクダクとあふれ出る。
むろんその匂いはマンゴーの物であるから、どうやらイオイソゴは汗腺よりマンゴーの果汁
を出せるらしい。それで味付けするという発想に行きつくのは当人にとりごくごく自然といえよう。
なおこれは余談になるが、マンゴーはウルシ科の植物のため人によっては果汁にかぶれて
しまう事もある。先ほどイオイソゴと手を繋いだ尖十郎が手に痒みを覚えたのはそのせいなの
であろう。
「本当は”らっこ”と”こうがいびる”が良かったのにえろぐろ女医がいらんコトしおったから……」
えぐえぐと泣きながらイオイソゴは『男』だった肉塊にストローをプスリと差し込んだ。
「じゅるじゅる。”ふぇれっと”と”まんごー”の細胞を入れた理由は『淫猥な響き』だからだそう
じゃ。うぅ。何がどう淫猥なのかもわしにゃ分からんから忌々しい。じゅる。じゅるるる」
やがて男を食べ終わると、イオイソゴは粛然と呟いた。
「大丈夫じゃ。お主を痛めつけようとかそういう意思は持っておらぬ」
向き直った遥か先にいたのは尖十郎。壊れた襖の中に茫然と座り込んでいる。
一連の戦いの妖気に囚われたという訳ではない。
彼の周囲の床はことごとくドロドロと溶けている。立てないのはその溶けた床が強烈な磁気を
帯びて尖十郎を拘束しているためである。
イオイソゴは戦闘の最中に尖十郎の足元へ耆著を打ち込み、辺り一帯を磁性流体と化して
いたと見える。
むろん最初は逃れようともがいていた尖十郎であるが、磁力は血中の鉄分に反応したのか
彼を床へと吸いつけた。傷の痛みを堪え必死の思いで階段へ逃れんともがいた彼だが、横目
で見たそこも既に磁性流体のるつぼであった。かろうじて見えた一段目はとろけていた。左右
の壁に至っては何らかの磁力線に沿ったらしく針山のように激しく隆起し、向かいのそれと癒
合するや……扉よろしくばったりと閉じた。後はもう最初からそこに階段などなかったようにふ
よふよと波打つ異常な壁があるばかりである。ならば二階の窓から、と振り返っても磁性流体
と化した窓枠総てことごとく癒合し退路を断っている。そも退路があったとしても、尖十郎はそ
の場から一歩も動けぬ。
そうこうしているうちに前出の妖気を孕んだ戦いを観戦せざるを得なくなり、かつて「木錫」と
呼んでいた憎からぬ隣人が人を喰うおぞましい情景さえまじまじと見せつけられる羽目になっ
たという次第。
脱出を阻まれた時点ですでに精も根も尽き果てていた尖十郎だ。
もはや瞳からは光が消え、ただただ呆けたようにイオイソゴを眺めている。
「できれば知られたくなかったのう。わしの本性」
ストローを仕舞ったかんざしを口に咥えながら、イオイソゴは無邪気な調子で髪をポニーテー
ルに結わえた。服はまだ着ていない。にも拘わらず彼女は裸体を隠そうともしない。少女らしく
そういう所業にあまり羞恥がないのだろう。
とはいえ瞳には憂いと悲しみの光が限りなく宿っている。
「わしはな。人間が憎くて喰っとる訳ではないんじゃ。仲間たちは……それぞれ凶悪な理由で
人間を殺しておるが、わしは違う」
やがてできたポニーテールへかんざしを斜めに刺すと、イオイソゴは白い裸体をくゆらせるよ
うに四つ足で尖十郎にすり寄った。
「ヌシら牛肉とか好きじゃろ? でも牛を見てすぐに殺したいとは思わぬじゃろ? 殺されるさ
だめの牛を見たら、まず『可哀相』って思うじゃろ? ……わしの人間観もそれなんじゃ。食べ
たい。けれど隣人としては愛おしい。だからわしは憎悪で人を殺したくないのじゃ」
そっと尖十郎の首をかき抱くと、イオイソゴは甘い匂いのする唇を彼のそれへと押しつけた。
しばらくそうしていただろうか。ねっとりとした果汁の糸を引きながら、気恥しげに視線を外しな
がら、イオイソゴは呟いた。
「その……好きじゃ。わしはお主の事。許可が出なかったとしても、好きなんじゃ」
わずかに尖十郎の瞳に光が戻った。そして彼は何かを言いかけた。
「だから喰うのじゃ」
耆著が尖十郎の喉笛に深々と突き刺さった。
「安心せい。さっき言った通り『痛めつけは』せん。そのうち脳髄さえもとろけ痛みも何も感じな
くなる。ただわしの中で甘く甘く溶けていくだけじゃ。そう……」
「ハッピーなアイスクリームのように」
「だが唇を合わせるのは好きな者だけじゃぞ。ストローなぞ……使いとうない。ヌシを直接感じ
させて欲しいのじゃ…………」
再び合わせられた唇から、じゅるじゅると何かをすするような音が響いていく。
尖十郎の体はいつしか横たえられ、ずずずと音が響くたび少しずつだがしぼんでいく──…
およそ一時間後。
「くふふ……。好きになった者を喰いたくなるわしの性、正に業腹」
尖十郎のブレザーを前に、口を拭うイオイソゴの姿があった。
彼の姿はもはや辺りにはない。
或いはイオイソゴの腹部を解剖する者があれば観察できるかも知れないが……。
果たして見えざる斬撃線をスルリと切り抜け、果てはゲル状にさえ溶解できる彼女を解剖で
きる者など存在するのだろうか? そもそも磁性流体と化した状態で喰われた”物”を元の存
在として認識できるかどうかと問われればそれもまた難しい。DNA鑑定を用いれば照合自
体はできるが人間的感情では色々認めがたい部分が多いだろう。
「旨かったのう。でも……」
法悦の極みという態でニンマリと笑っていたイオイソゴの瞳にみるみると涙があふれた。
「やっぱり悲しいのう」
涙は頬を伝い、持ち主亡きブレザーの上へぽろぽろとこぼれていく。
「いくら喰っても腹が減る。満腹になっても腹が減る。いつになったらわしは満たされるのじゃ
ろうなあ。わしのような化け物が世界に満つれば変わるのかのう? 教えておくれ……尖十郎」
ひとしきり泣いた後、黒ブレザーを着ると、イオイソゴ=キシャクは仮初の自宅から姿を消した。
以後、その街で彼女を見た者はいない。
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