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「永遠の扉 第096話 (1)」(2011/12/23 (金) 18:44:17) の最新版変更点
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「やれやれ。照星君もなかなかしぶといね。あれだけの拷問を受けながらまだまだ理性は残している」
「そろそろ気づいた頃かもな。ウチらの本当の目的に」
「おやデッド君。よくここまで来れたね」
拷問部屋から出るとムーンフェイスは視線を下に移した。
奇妙な来訪者だった。
陳座していたのは1mほどの赤い筒だった。重々しい存在感は視界に入るなり「でん」、無遠慮なる音を立てた。
「ああもう、遅、遅かった。ウィルさぼらんように見に来たけど、あかん、あかん。やっぱウチの武装錬金、めっちゃ重い。
便利で頑丈なんやけど重すぎるさかい、移動、移動、めっちゃしんどい。着くの遅い。しかも通気性悪いから暑い、死ぬ」
息も絶え絶えという調子だ。薄く目を細め廊下を見ると荒れ果てていた。壁のところどこどに爆破の跡があり、更に何か
印刷された紙が焦げも露に散らばっている。床のところどころには何か引きずったと思しき痕跡がある。蒼黒くくすんだ
床板の削られようときたら獣が暴れたといって通じるほどだ。その他、円筒形にくぼんだひび割れなど。
「むーん。爆破の反動で移動してきたらしい。しかしどう反応すべきだろうね。重いなら武装解除したらどうだい……などと
いえばキミはきっと傷つくんじゃないかな」
手を銃へとすぼめながら笑いかける。筒の右上に無数の縦線が走った。それがどんよりとした気落ちのエフェクトだとい
うのは急転直下湿り果てたソプラノがいやというほど証明していた。
「体が体やっからなあ……」
筒が壁に向かってやや傾いた。人体構造に当てはめれば「俯き」だろうとムーンフェイスは分析した。
「一応慣れとるし下手に気ぃ使われるとそれはそれでアレなんやけど、その、やっぱり言われたら言われたで心にチクリと
くる訳やし……ああなんやろこの葛藤」
言い訳がましくボソボソ喋っていたら筒はしかし「いやそーやなくて!」と叫んだ。そしてとてとてと筺体を揺すりながら小刻
みに前身し、ムーンフェイスに体当たりした。
厳密にいえば彼の抱えている、ウィルめがけ赤い表面をブチ当てた。
「起きんかいぼけー! おにーちゃんに手間かけさたらあかんやろーがい!」
「……」
「おま!! いま起きたやろ!! 起きたけどウチと話すのめんどいから寝たフリしとるんやろう!! 見たで!! 見た
からな!! 何かビクリなって腑抜けた図体に力入ったん!! 覚醒や!! 目覚めの時や!! あったらしい朝が来た!
きーぼーうの朝だーーー!! それやのになにお前やり過ごそうとしとんねん!! きぃー!!」
実に騒がしい筒である。どーん、どーんと叫びながら引切り無しに体当たりを繰り返している。
「だいたいお前ウチより年上やろ!! しゃんとせい!!」
「……前から言ってるけど年下だってばあ。だってこの時代にはまだ生まれてないもんボク」
「屁理屈こねんな!! いまこうして存在しくさっとるお前の肉体年齢はどう見てもウチより上やろが!!」
「えー。分からないよ……。だってデッドいつも筒だし」
「お・ま・え・はー! 昔ウチの素顔とか裸見ておきながらよくもヌケヌケとー!」
「うぅ。無視してもめんどいよデッド。分かった。やるよ。やればいいんでしょ」
ウィルはしくしくと涙を流しながら掌を翻した。
同刻。血膿に突っ伏す照星の遥か上で空間が弾けた。水色の光芒を孕む線が4平方mの正方形を描くや”空間そのも
のが”ガラスのように弾け飛び不気味な風切り音が死臭の部屋を突き抜けた。破れた空間から覗いたのは闇だった。この
世のどんな穴よりも深く、底が見えない……直視したが最期、肉体も魂が何もかも引きずり込まれそうな”虚無”だった。そ
の左右めがけ肉厚の扉が観音開きになっていたが、その水銀色の輝きさえ位相を歪めダクダクと呑まれていた。
その虚無から節くれだった一本の影が照星に向かって殺到した。影は腕の形をしていた。異形だった。長短さまざまの黒
ずんだ蔦を何万本もより合わせた筋肉のところどころに生臭く輝く鱗や粘膜がこびりついていた。皮がすりむけ薄紅色の
肉を覗かせている部分もあれば虹色の羽毛と薄茶けた体毛が乱雑に入り混じっている部分もある。指は三本でいずれも
形こそ人間のそれだが太さは電柱ほどあった。更に肉など一切なくただただ醜く肥大した骨だけだった。血膿でようやく
かろうじての彩りを帯びた指どもに握られたとき照星の全身の骨が絶望的な悲鳴を上げた。意識なき照星の顔が苦悶に
歪みその口から血しぶきが飛ぶ中、腕は帰還した。何も見えぬ虚無の中へ。
ガラスのように舞い散った空間が逆回しのように元へ戻った。
照星の姿は部屋になかった。腕に掴まれていたようだ。腕ごと虚無の中へ消えたようだ。
何かを殴るような巨大な音が部屋を揺るがした。音は響くたび遠ざかっているらしい。5回目の打撃音はとても微かで部
屋はそれきり静寂に包まれた。
「同居人にやらすけどいいでしょー。アイツ制御するの結構骨だし」
しばらく後。ウィルは壁際にへたり込んでいた。
廊下は濃い青の合金で造られている。近未来的な様相を呈しあちこちで四角いライトが白い光を振りまいていた。それ
に淡く焙られるウィルの顔つきはひどく疲れ切っていた。薄く目を細め汗ばむ彼はどこか病的な色気があり光の効果も相
まってデッドさえ「お、おお」とたじろぐ様子を見せた。
(同居人、か。そういえば。居たね。確かに)
ムーンフェイスは思い出した。照星誘拐後起こった出来事を。
──突如として大蛇のような巨大な影が空間をガラスのようにブチ破り、ムーンフェイスを襲った。
──「止まれ」
──ウィルの指示で肩口スレスレで止まったそれは低く唸ると、割れた空間に引き戻る。
──そこでは水銀に輝くブ厚い扉が開いており、中には照星の姿が見えた。
──神父風の彼はアザと血に塗れてピクリとも動かない。
──胸のかすかな動きで息があるコトだけが辛うじて分かった。
──「こりゃビックリ」
──感想をもらすムーンフェイスはどこかわざとらしい。
──「失礼。少々気性の荒い者が同席していましてね。坂口照星は殺さないよう命じてありますが、
──それ以外には容赦がなく見物に骨が折れる状態。先に断っておくべきでしたね。申し訳あり
──ません。深くお詫びいたします。戦士を2、3殺したので落ち着いているかと、つい」
「で、あのとき私に攻撃しかけたのは誰なのかな? いや……『何』かと聞くべきかな?」
「誰も何も……」
ウィルはけだるそうに欠伸をしながら立ち上がった。
「あんたの知り合いでしょ? アレ」
「むん?」
「そやな。あのとき攻撃されたんもそのせーかも知れへんでー?」
ムーンフェイスの目が点になった。記憶を探るが当たり前というかああいう異形の存在にやはり見覚えはない。もしかす
ると人間時代の知己が改造されああいう姿になっているのかも知れないが……そうだとしても腑に落ちない。
(調べる筈がない。怠惰な少年が米ソ冷戦時代まで……)
となると「ホムンクルス・ムーンフェイス」の来歴を聞きかじる程度で──…
(把握できる人物。するとL・X・E関係ぐらいしかない訳だけど)
早坂姉弟やパピヨンは健在。爆爵、金城、陣内、太、細は死亡。ヴィクターは月へ。
(一番可能性のあるのは震洋君だがしかし違う。私が襲われたとき彼は逆向君に体を乗っ取られ銀成市に潜伏していた)
(じゃあ一体……誰なんだい?)
(すげえ)
空皿の山を金髪ピアスは唖然と見た。回収しにきたウェイターたちも同じ感想らしく凄まじい目で少女を見ている。
(俺の記憶が確かなら15回目だぞ。回収)
おい急いで作れー!! 厨房の方から騒ぎ声が聞こえてくる。どうやらまだ注文の半分も作れていないらしい。先ほど
店長らしい人間が寝ぼけ眼を緊張に染めながら入ってくるのが見えた。従業員用ではなく顧客用の入口から入って
きたのを見るにつけ余程慌てているらしい。焼き肉ポーションが底をついたとかそういう悲壮極まる叫びさえ聞こえて
くる。米を使った商品については深夜突如の大量注文のせいか一部お作りできませんがいいですかという急使すら
何度か来た。「ないのか」。そのたび少女は寂しそうな顔で人差し指を咥え瞳を潤ませた。潤ませながらもコクリと
頷き机上の皿へと手を伸ばす。はぐはぐはぐむがむがむがむが……。実に元気よく食べている。ハムスターか何か
のようなせわしなさだ。小児性愛者では決してない金髪ピアスさえなんだか「良かったなァ」と和む光景だ。
ひとしきり食べ終わると少女は皿を置き、きらりと金髪ピアスを見上げた。大きな瞳はどこまでも澄みわたり、この
世の総てを信じ切っているようだった。眺めているだけで薄汚れた20代の垢がこそげ落ちる気分だった。
「紹介がまだじゃったの。わしはイオイソゴというものじゃ。本名はイオイソゴ=キシャク」
「イオイソゴ……?」
「おうよ。盟主さまが僕(やつがれ)の一人……木星の幹部じゃ」
.
──「木星、イソゴばーさんwww」
──「気をつけなwwww 見た目はチビっこい可愛らしい感じだしwwwww」
──「温和で穏健だからww暴力もエンコ詰めも拷問もしないけどwww」
──「惚れられたが最後、喰われちまうぜ?」
「……あの、俺イケメンじゃないですし、ダ、大丈夫ですよね?」
「ん? ひょっとして誰かからわしのこと聞いとるのか? なら話が早い」
パスタを啜り終えると彼女はソースまみれの唇を歪めた。「ひひっ」。とてもとても薄暗い笑みだった。
「そーじゃーよ~。わしはこう見えど人を喰ったやつ! わーるーい、やーつーじゃ~」
そういって彼女はバンザイし掌だけ幽霊のように大きく曲げた。どうやら威嚇しているらしい。とはいえ腕をめいっぱい
のばしてやっと金髪ピアスの頭に届くかどうかという身長だ。鼻の低い可愛らしい顔つきと相まってまったく怖くない。
「むう。これでもわしの父御はすごいやつなんじゃぞ」
「はぁ。どんな人すか?」
「薬師寺天膳!!! 伊賀の忍びで不死身じゃ!!」
本当か、どうか。それはともかく、
「このやろー!! びびれー!! びびるのじゃー!!
がたりと立ち上がったイオイソゴは金髪ピアスをぽかぽか殴り始めた。きゃあきゃあと幼い笑いを立てるさまは殴るという
よりじゃれるという方が相応しかった。ポニーテールとフェレットたちがじたばた揺れるさまは金髪ピアスの心を和ませた。
この晩さんざんな目にあってささくれだっていた心が癒されるようだった。子供と笑い合う親という存在どもがどうしてあそこ
まで和やかなのか理解できた。
そのうちイオイソゴはじゃれるのに疲れたのか。くたりとその場に座り込み
「だっこ」
唇を尖らせた。
「え?」
聞き返すと小さな顔が露骨にむくれた。拗ねた苛立ち。ぱたぱたする足は割りたての割りばしのようにまっすぐだった。
「もーわしつかれたあー。自力じゃ立てん。だっこ! だっこしてくれじゃ!」
そういって澄んだ大きな瞳を向けてくるイオイソゴはとても保護意欲をかきたてる存在だった。生まれて間もない子猿の
ような……髪は漆で湿っているように艶やかで輝かしく、控え目な店内照明のオレンジさえ白く瑞々しく照り返している。
「だ、だっこがダメならその……」
人指し指を咥えながらイオイソゴは瞳を赤く潤ませた。羞恥と躊躇がとても濃い遠慮勝がちな表情だ。
彼女は視線を外し
「な、撫でるだけでもええぞ……?」
それから恐る恐る見上げてきた。
「~♪」
数分後。彼女は金髪ピアスの胸の中にいた。席は変わり一番奥の角のソファーだ。あちこち灰色に捲れ上がった古めかしい
緑の皮張りの上。そこでイオイソゴは抱きかかえられていた。後ろから。太ももの上にちょこりと腰かけている。ころころと喉
を鳴らしていた彼女が振り返る。マンゴーの爽やかな香りが広がった。髪を撫でる。それだけのコトがとても嬉しいらしい。
幼い老女はくるくると心地よさそうに声をもらし瞳を細めた。
そして席を立ち隣へ座り、こつり。頭を金髪ピアスの左肩に当てた。凭(もた)れかかった。
小さな体はやがてススリとソファーを滑り隣の男へ密着した。甘えている。甘えられている。未知の体験。どぎまぎと見返す。
純白の笑いが帰ってきた。いわゆる小児性愛じみた背徳を感じた自分を愧じてやまぬほど真白な笑顔だった。心から人を
信じ心から純粋な好意を差し向けてくれる……子供の笑顔だった。頼りない両腕で大人のそれを抱え込み何か他愛もない──
取りとめのなさがとても子供らしい──呼びかけをひっきりなしにやっている。黒目がちな大きな瞳をきらきらさせる鼻の低い
少女はとても悪の幹部には見えなかった。不明瞭な返答にさえけらけら笑い喜んでくれる彼女はやはり人間としてとてもとても
守りたくなる存在だった。
すみれ色した見事な後ろ髪が垂れた。うち一房が肩にもかかった。その軽さをどうしていいか分からない。そんな顔する
金髪ピアスに
「妹さん? かわいいですね」
でも深夜の外食はほどほどに。カップルが笑いながら通り過ぎた。リヴォルハインはといえば無言で輝くような笑みを浮か
べながら金髪ピアスとイオイソゴを交互に眺めている。散歩行くの待ってる柴犬。とは社員の描く社長評。
「とにかくじゃ。来てもらったのは他でもない。ヌシら2人の今後をどうするかという話をしたい」
少女の声が厳かになると同時に金髪ピアスの脳髄に電撃のような感触が走った。
そして、理解した。
.(このコ……500年以上生きてる…………!?)
リヴォルハインからの提供らしい。イオイソゴにまつわる様々な情報が脳髄を暴れ狂った。
曰く、武田信玄一派に連なる歩き巫女のまとめ役。
曰く、伊賀の高名な忍者の娘。
曰く、伝説的な忍び。
曰く、大食い。
妊娠中の女性を拉致しチワワの幼体を埋め込んだという情報さえ頭を駆け巡った。
(そして横文字が苦手!)
(しかも鼻が低いのを気にしている!!)
「これ。話を聞かんかい」
顎が小突かれた。といっても何が起こっているのか察しているらしい。くの一は笑っていた。
「簡単に事情を説明するとじゃな。りばーす、ぶれいく、ぐれいずぃんぐ、でぃぷれす、くらいまっくす……といった連中はい
ま、とある決戦の下準備のため銀成市をうろついておる」
「の、ようですね」
「わしもまたそうなんじゃが……ヌシら2人に関しては彼らほどの企図や方針を持っておらん」
「はい! はい!! 及公は盟主様からちゃんと命令貰ってるのである!!」
「ひひ。盟主様がどれほど気まぐれで場当たり的か知らぬヌシでもあるまい。方策など無きに等しいわ」
「つまり……最年長のあなたの指揮下に入る方が得策。という訳ですか? 確かあなたはまとめ役……他の、アクの強い
連中(マレフィック)たちの調整役……」
察しが早い。ローストチキンを大きく噛み破るとイオイソゴは満足げに頷いた。
「でじゃな。金髪よ。結論からいえばりう゛ぉはわしの手伝いを、ヌシはくらいまっくすとの交代を、それぞれして欲しい」
「クライマックス? あの冴えない女とですか?」
「おうよ。奴はいまでぃぷれすともども隣の市との境界線を巡っておる。おっと理由は聞くな。言われたままやってくれれば
後はまあ母ともども逃がしてやるわい」
逃がす。その単語に唾を呑む。居住地たる銀成市からそうするというコトはつまり──…。
窓から覗く夜景を見る。何の変哲もない街だ。東京辺りと比べれば娯楽も少ない。学生時代はつまらぬ街だと不満を
覚え華やかな都会に憧れたものだ。
目を泳がせる。従えば自分たちの安全”だけ”は保証されるのだ。逆らったとしても勝てる見込みなどあろう筈もない。
今晩出逢った男女のうち誰か一人でも勝てそうな相手がいるだろうか?
いない。
そもそも彼らはいったい何を目論んでいるのだろう。
破壊? ただ単純に街を破壊したいだけなのだろうか?
(それも何か違う。こいつらの敵意とか悪意というのはもっと奥底に押し込められてるもんだ。目的のためなら何であろうと
平気で壊せる恐ろしさがある。けど、壊すだけじゃ満たされないって嫌な歪みもある。だから耐え凌ぐっていう概念がある。
何のために耐え凌ぐ? 簡単な話だ、いまこのコが自分で言った。もっと大きな解放にたどり着くための……)
下準備。
リバースとブレイク。
グレイズィング。
ディプレスとクライマックス。
そしてイオイソゴ。
彼らはそれぞれ何か思惑を秘めて動いている。
めいめいの好き勝手のためではなく──…
(組織の、盟主の理想を叶えるための? 俺はどうすべきなんだ?)
(俺は……銀成市が好きだ。危機を知ってやっと気付いた)
(なーんもない街だけど……壊されるなんて嫌だ)
(じゃあどうすればいい? どうすれば防げる?)
(戦うのか? 勝てないのに)
.
(だったら)
(だったら……)
(戦士たちに知らせるっていうのが一番良i──…)
破裂音。思考が現実に引き戻される。音は大きかった。店内の密かな喧噪が途絶した。横を見る。厚手のマグカップを
握るイオイソゴがそこにいて、まさにいま叩きつけたばかりという余韻が漂っていた。白いカップの下部はひび割れており、
小さい破片がいくつか床へ落ちる最中だった。
「考えるのは勝手じゃが……やめた方がいいぞ。古来知り過ぎた奴の末路などまったく無残なもの」
子供が力余って叩きつけた程度に解釈したのだろう。店内に喧騒が戻ってきた。明け方近くのささやかな喧噪。それに
さえかき消されそうなほど静かな声でイオイソゴは要望を述べた。
「中庸凡庸こそ美徳よ。詮索など全く以て無用。ひひ。無用無用……」
苦み走った笑いを浮かべながらイオイソゴは何かを金髪ピアスを喉笛に突きつけた。黒い舟形をしたそれはとある筍型の
菓子とほぼ同じ大きさだ。それを親指と人差し指で挟み込み軽く揉みねじる少女の顔が近づくズズイ。
声は、一層低い。
「僅かとはいえ我々に叛意を催しているようじゃが無駄な事。ひひ。人間という奴はおかしなものでのう。ふだん堕落を貪り
得手勝手やらかしておる癖にいざ澆季末世(ぎょうきまっせい)……滅びを撒くもの近づかば突然倫理をうるさくしおる」
白い肌と滑らかな髪が眼下で踊る。あどけない少女は相変わらず笑っている。しかし大きな瞳はまったく笑っていない。
「ただなる拒否反応。ひすてりー且つあれるぎーな驢鳴犬吠(ろめいけんばい)を正義とばかり血相を変え唾を飛ばし……ひひ」
ただ射すくめるような光を放っている。声はまったく静かなままだが眼光と同じ清冽(せいれつ)さを孕んでいる。金髪ピアスは
震えた。今まで浴びたあらゆる怒鳴り声より恐ろしかった。彼は悲鳴を喉奥でうろつかせたままただ歯だけをガチガチ打ち
合わせた。それしかできなかった。
「分かるな? 貴様がいま抱きかけている義憤というのはまるで土に根を張っておらん。いや、義憤ですらない。これまでの
腑の抜けた行住坐臥の端々で雇用主なり政治家なり暴力団なりに舌打ちとともに覚えた場当たり極まる怒りじゃ。吹けば
飛ぶ寝ても飛ぶ……小さな、どの対象にも炸裂しなかった庶民の……いいな。理解しろ。貴様はどうしてここにいる? え?」
「ひっ」
「悲鳴などいらんわ。答えろ。え? 今宵さんざ痛苦を味わう羽目になったのは……どうしてじゃ?」
喉笛に黒い舟形──耆著(きしゃく)という忍者が用いる方位磁石の一種──がめり込んだ。肉が溶けた。ジュらジュら
とした液状に何かに置き換わった。その感触にぞっとしながら震える声で応答する。
「青っち……あんたの仲間のリバースって奴を襲おうとしたから……」
「ひひっ」
皮肉めいた笑いが漏れた。強姦未遂が少々力を手にした程度で正義面か。尊厳も何もかもせせら笑っていた。
「それもまあ人間らしくて好きではあるが……やめておけ」
イオイソゴは顎をしゃくった。血走った眼を必死に動かし後を追う。見せつけられたのは……2m超の貴族服。
「筒抜けじゃぞ。ひひ。成程やつの武装錬金は叛意をそそるだけの力を与えはしたが、それゆえ貴様の思考や感情など
丸分かり……。奴のところに行くよ。総てな」
「店員さん店員さんチーズケーキひとつー! 旗立ててね旗ー!!」
リヴォルハインは元気よく手を上げチーズケーキを注文した。社員の危機にまるで無関心らしい。そのくせ何もかも知っている。
詰んだ。情けない表情で金髪ピアスは頷いた。あなたの嘲笑は正しい。降伏の肯定だった。
「いいな? 忘れるな。おとなしく従っている限りヌシと母御の安全は保障してやる。一時とはいえ仲間は仲間。尊厳は犯さ
ん。れてぃくるの目的は悪だが組織自体の質まで悪であってはならん。助ける、といった以上わしは必ずヌシを守ろう」
ゆっくりと耆著が剥がれた。喉の肉はみるまに再生した。それを凄まじい半目で眺めた彼女は明らかに欲情していた。
涎を垂らし腹を鳴らし……空腹のもたらす動物的本能に心のほとんどを支配されていた。
「…………」
唖然と眺める視線に気づいたのか。からぜ気を一つ打つとイオイソゴは
「わしもちーずけーきひとつー!! 旗立ててくれじゃ旗ー!!」
元気よく手を上げた。声はもう元通り。底抜けに明るかった。今の詰問がウソだったのではないかと思えるほどだ。
(喉も治っているし……夢、か?)
そう思いたい自分の世界の中で絶望的な出来事が起こった。何気なく目にしたマグカップ。それ目がけて白い破片が、
”下”から降ってくるのを。思わず目をこする。床に落ちた幾つかの破片はまさに戻ってくる最中だった。
「ひひ。根来めも斯様な忍法を使っておったかのう」
あたかも割れた過程を逆再生しているように。
やがて破片は陶器の鬆(す。穴)にピタリと合致した。ひび割れもいつしか消滅している。
ただ唖然とその光景を眺めているとカップから耆著が飛び出した。横薙ぎの腕で軽やかにそれを受け止めたイオイソゴ
今度はとても意地の悪い笑みを金髪ピアスに向けた。チロリと舌を出す様子はお茶目な少女という風だがそぞろに戦慄
を禁じ得ない。
「とにかくじゃ。くらいまっくすめは明日から演劇に参加することになったからの。りう゛ぉにもそっちへ行って貰おうと思っとる」
演劇? そんな遊びじみたことのために下準備とやらを放棄するのだろうか?
疑問に気付いたのかイオイソゴはくつくつと薄暗い笑みを浮かべた。
「なぁに。実をいうとじゃな。演劇をやってもらった方がわしの目的に合致する。りう゛ぉの調整体収奪もやりやすい」
「そう!!! 及公が武装錬金を一気かつ目立たず発動させるには演劇こそ一番である!!!」
「…………」
「おっと。気を使わせたかの? すまんすまん。わしの目的について語ってやらねば動き辛かろう」
「人探し、じゃよ」
「人探し?」
「ああ。最後の幹部。マレフィックアースの器となりうる者を……わしは探しておる」
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