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「女か虎か(電車魚さま) 15: BYE BYE BEAUTIFUL (1/2)」(2009/07/18 (土) 18:59:46) の最新版変更点
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おれの中の人間の心がすっかり消えてしまえば、
恐らく、その方が、おれはしあわせになれるだろう。
だのに、おれの中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。
ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう!
おれが人間だった記憶のなくなることを。
この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。
おれと同じ身の上に成った者でなければ。
――中島敦『山月記』より
15: BYE BYE BEAUTIFUL
サイの細い右腕がひらめいたかと思うと、アイの体が軽々と吹っ飛んだ。
背中と後頭部が、壁に叩きつけられ鈍い音を立てた。忠実な従者は低い呻きを漏らしながら、
ずるずるとその場にへたり込み床に手をついた。
それを見つめるサイの目は、蛭が未だかつて見たことがないほど冷え切っていた。
持ち前の残虐な本性と、腹の底からの憤怒の絶妙なブレンド。苛烈な炎が燃えているのに、
どこか肝心なところが凍てついている。
壁際で荒い息を吐くアイに、サイはつかつかと歩み寄った。労わりの欠片もない手でアイの細い顎を
掴み、無理やりに顔を上げさせ覗き込んだ。
「言い訳があるなら三秒だけ聞いてあげるよ」
かふっ、と、アイが咳き込む。唇に薄く血がにじんでいるのは、今の一撃で口の中を切ったのか。
普段から無表情な顔は、信じられないことにこの状況でも変わらなかった。強いていうなら口元が、
苦痛で僅かに歪んでいるのだけが見てとれた。ただでさえ絶頂にあるサイの怒りを、人形のような
この顔が更に煽っていた。
アジトで留守居をする蛭のもとに戻ってきたのは、サイと葛西よりアイの方が先だった。
『お帰り。首尾はどうだった? サイは――』
『蛭』
出迎えた蛭に、アイはマネキンめいた顔を向けた。
『この後、何が起こったとしても動じないでください』
詳しく説明されるまでもなかった。
常より青白いその顔色で、蛭は最悪の事態が起こったことを悟った。
そして今、アイは帰還したサイに詰め寄られ、唇から血の筋を流している。
「そう。言いたくないの。何も」
従者が無言のままなのを見て、サイは眉と唇の両端を同時に吊り上げた。
「じゃ、死ね」
顎を掴んだのとは逆の手が、アイの小さな頭めがけて疾る。
「サッ……!」
声にならない声が口から漏れた。
考えるより早く蛭は飛び出していた。主の肩を後ろから掴み、怒りにまかせた凶行を押しとどめようとした。
だが伸ばしかけた手は、サイの腕の一振りであっけなく払われた。
当人にすれば羽虫をはねのける程度の、軽い動きでしかなかったはずだ。だが激情に支配された
主人の頭に手加減の三文字はなかった。手のみならず体ごと薙ぎ払われ、二メートル近く跳ね飛ば
されて蛭は倒れ込んだ。
「蛭!」
アイが叫ぶ。
よろけながら立ち上がろうとする蛭に、サイは絶対零度の目を向けた。
「何のつもりさ? 邪魔すると承知しないよ」
「ア、アイを殺すのは少し待ってくださいっ」
この二十一年間、少なくとも表向きには大人しい男として振舞ってきた。声を張り上げるなど
滅多にない経験だった。ただ無我夢中で叫ぶ自分と、俺にもこんな声が出せたのかと驚く自分とが
同時に存在していた。
「何? ひょっとして俺に指図してるの? あんた何様?」
「け、決してそんなつもりじゃ。俺はただ」
ぐだぐだ言い訳するのは逆効果だとここで気づく。
「……最初に気づいたのは俺なんです」
ぴくりと、サイの眉が震えた。
「解析を始めてすぐに、おかしいと気がつきました。何度調べてみても虎の細胞のサンプルデータと
合わないんです。人間の細胞だってことは間もなく分かりました。すぐサイに報告しようかとも
思ったんですが」
サイ自身の立ち位置にも関わりかねないこの事実は、より慎重に扱うべきと蛭は判断した。
サイに直接報告する前にアイに相談したのはそのためだ。
そして蛭の解析データを自ら確認したアイは、いつも通りの感情のない目で、この結果を
サイに伝えずにおく旨を告げたのだ。
「隠していたのは俺も同じです。ですからサイ、アイだけを罰するのは……」
「蛭」
場違いなほど静かな声が響く。
口ににじむ血を拭おうともせず、アイが顔を上げてこちらを見ていた。
「あなたは口を挟まないでください。これは私とサイの問題です」
「庇ったつもりかよ、カッコつけて得する状況じゃないだろ」
「恰好などつけてはいません。事実を述べているのです」
一点の曇りもない黒瞳が、今度はサイへと向けられた。
「蛭はこの件に関しては最初から反対でした。あなたには真実を話すべきではないのかと、ぎりぎり
まで私に訴え続けていました。――それを強引に押し切ったのは私です」
「アイ!」
蛭が上げた抗議の声を、アイは毅然と無視した。
従者と協力者が争う光景に、サイは一言も発さずに黙っている。
顔は老人のごとく干からびているが、光の加減で色を変じるアーモンド型の大きな目だけは、
本来の美しさを失っていない。話に聞く虹瑪瑙(イリスアゲート)とはこんな色だろうか。かつて
彼がある事件で在り処を暴き、持ち主の娘に託したという稀少な宝石。
勿論それは、虚構に満ちた仮の姿の麗しさにすぎない。
一皮剥けばそこにあるのは、冷酷きわまる殺人鬼の本性だ。
「つまり」
発された声は静謐だった。それでいて絶大な威力を以って、部下二名の言葉の続きを奪った。
「二人とも死にたい。そういうことだね」
「っ!」
幾百の命を奪ってきた腕が、二人に向かって振り上げられた。
背骨を駆け上がるような怖気が襲う。
床に撒き散らされるのは、アイの血が先か蛭の脳漿が先か。
知るすべのない答えに思いを馳せて奥歯を食いしばった瞬間、肩にぽんと置かれる手を感じた。
「まあまあ、サイ。そう火ッ火(カッカ)しねぇで落ち着いて」
「……葛西。あんたまで何のつもり?」
少年とは対照的な、中年男の荒削りな鼻梁がそこにあった。
目元は見えない。相変わらず帽子の鍔に隠れたままだ。
「随分とお怒りみてえですが、ここでこの二人を殺っちまうのはどうなんでしょうね」
顔の下半分に浮かんでいるのは、いつも通りの煙に巻くような薄笑い。
食いしばった上下の奥歯が、自然と離れるのを蛭は感じた。知らず知らずのうち僅かに開いた唇から、
冷たい外気が流れ込んできた。ヤニの匂いが混じった空気が鼻と舌を苦く刺した
サイが放火魔を睨む。
「あんたも俺に逆らう気?」
「とんでもごぜぇません」
振り上げた華奢な手は普段なら、不吉な音を立てて凶器へと変貌する。今回サイがそれをしないのは、
≪我鬼≫との戦いでエネルギーを消耗しきっているからに他ならない。
それでも、常人を超えた身体能力は維持されている。その気になれば瞬きする間に、彼ら三人を
屠殺場の牛のごとく一度に惨殺できる。
「『罰』を与えるってんなら、この二人には殺るよりもっと効果のある手がありますぜって
言ってるんです」
蛭は自分の口元が歪むのを自覚した。壁際に膝をついたアイに顔を向けると、こちらも同様の表情を
浮かべていた。
己の命を紙一重で救った男に、向ける視線の色は安堵ではなく警戒だ。
恐らくは、蛭自身も同じ目をしているに違いない。
怪盗のこめかみがぴくりと震えた。
「この連中は死ぬほどあなたに傾倒してる。いや、あなたという『人間』そのものが、こいつらに
とっては『生き方』だとでも言うべきか。あなたのためなら死ぬことも厭わないし、それ以外の
ことだって平気でやってのけるでしょう。……つまり、単純に『殺る』ことはこいつらにとっちゃ
大したダメージにならない。こいつら二人にとって一番こたえるのはただ一つ」
いったん口から外していた煙草を、葛西はもう一度咥えて吸った。丹念に味わうかのように数秒
おいて、続く言葉とともにふうっと煙を吐いた。
「『ここから出て行け』と命じることです。『二度と俺の前に姿を見せるな』とね」
「!」
蛭は息を呑んだ。
絶縁宣言。
彼との出逢いもこれまでの出来事も、一切合切をなかったものとして今後生きていけということ。
彼ら二人にとってそれはつまり、人生そのもののリセットを意味する。
「罰としちゃあ充分に効果的だと思いますぜ」
口元をニヤつかせながら、葛西。口調には、純度百パーセントの嫌味が含まれている。
「こいつらにとっちゃ殺られるよりよっぽどきつい。そうだよなあ? アイ、それから蛭」
アイは何も言わない。細い両眉をかすかに寄せて放火魔を見つめるだけだ。
だが付き合いの長い蛭は知っている。これは滅多に感情をあらわさぬ彼女にとって、憎悪を込めて
睨めつけるに等しい表情だと。
「もちろんサイ、決めるのはあなたです。俺ぁ選択肢のひとつを提案してるに過ぎません。
……さあ、どうなさいます?」
日焼けした唇の間から、ヤニで汚れた黄色い歯が覗く。
サイは昂ぶりの冷め切らぬ目で、アイと蛭とを交互に一瞥した。
熱のこもった息が吐き出され――
拳が固く握り締められ――
振り上げられかけていた手がまたひらめき――
蛭は死を覚悟した。
目を閉じる一瞬、故郷の両親と馴染みの老婆の顔が頭をよぎっていった。
衝撃が炸裂する。
二人の男女の体は木の葉のように舞い、さっきより遥かに強い力で叩きつけられる。
骨が床面に激突する音。
蛭の予想ではそこで彼らの人生は終わり、一切の痛みを感じなくなるはずだった。
しかし激痛は途切れることなく続いた。単なる痛覚の刺激にとどまらない、痺れるような感覚が
全身を襲った。一撃入れられた腹の底から酸っぱいものがせり上がった。
同じくはね飛ばされたアイも、体を折って苦しげに咳き込んでいる。
生きている。
今はまだ。
「蛭」
「…………、はい」
サイの言葉に、自身も咳を漏らしながら蛭は答えた。
「あんたにはまだ解析の仕事が少し残ってる。それを最優先で終わらせるんだ」
「了解……しました」
「最後まで片付いたら、そこで終わりだ。もう協力者でも何でもない、あんたと俺とはその後
いっさい無関係になる。せいぜい最後の仕事を精一杯やりとげるんだね」
「…………………。了解、しました……」
痛みで突っ張っていた体の力が、一気に抜けていくのが感じ取れた。
何かが崩れたのが分かった。
高校生だったあの日、去りゆうとするサイの後ろ姿を呼び止めたときから、肌身離さず掻き抱く
ようにして生きてきた何かだった。若輩の蛭のボキャブラリでは説明しきれない、だが決して無く
してはならなかったはずのものだった。
「それからアイ」
「はい」
従者の声は思いのほかしっかりしている。やや掠れてはいるものの、本質たる透き通った声質は
失われていない。膝をついたままながら背筋を伸ばし、いずまいを正して返事を返した。
「あんたは今すぐここから出て行け。そして二度と戻ってくるな」
「!」
反応はアイより蛭のほうが早かった。
「サイ、本気ですか?! 彼女は今までずっとあなたの、」
「うるさいよ蛭」
険悪な目が蛭の顔を一撫でし、再び従者に向けられた。
「どこにでも好きなところに行けばいい。ただし条件がある、今後俺と関わる可能性が万に一つも
ない場所だ」
数秒間、アイは微動だにしなかった。
しなやかな肉体は瞬きさえも忘れたように、人形のごとく静止して主人を見つめる。
やがて膝をついていた足が床を踏みしめた。
美しき従者はよろめきながら立ち上がり、それでも背筋だけはぴんと伸ばしたまま返答した。
「かしこまりました。お心のままに」
「ア……!」
蛭が悲鳴に近い声を上げる。
葛西の口元のニヤつきが大きくなる。
アイは唇ににじむ血を拭い、真っ直ぐにサイの顔を見つめた。
「何さ? 決まったからにはさっさと出て行……」
言い放ちかけた主人の目の前で、しなやかな背がゆっくりと一礼した。
「お世話になりました」
サイのこめかみがぴくりと震えた。
「可能性なき絶望に侵されていた私に、あなたは生きる希望をくださいました。深く感謝しております」
打擲によって切れた唇で、アイは一言一言をはっきりと喋った。
力がある、と言ってしまえば、明らかに誇張表現になる。発音こそ明瞭だが、声量は常と比しても
さして大きいということはない。口調に至っては普段そのままの抑揚のなさだ。
それなのに耳に忍び込んでくる。鼓膜、耳小骨、蝸牛と伝わり、神経系の迷路を辿り脳へと達して
響き渡る。
アイの言葉は続く。
「サイ。あなたはやること為すこと何もかもが荒唐無稽の塊です」
「はあ?」
不機嫌を通り越して理解不能の表情を浮かべるサイに、従者は更に畳み掛ける。
「とにかく後片付けができない。脱げば脱ぎ放し壊せば壊し放し殺せば殺し放し。気分屋の上に
すぐ手が出る性質で、所構わず暴れまわって周囲を破壊する。夕食にエビフライをリクエストしたと
思えば、皿を目にした瞬間ハンバーグがよかったと叫んでちゃぶ台をひっくり返す。飼いたい飼いたいと
騒がれるので苦労して入手した三毛猫の雄を、二時間後には箱に詰めて次はジンベエザメが欲しいと
ねだられたときには、さすがの私も心拍数の上昇を抑え切れませんでした」
「何が言いたいんだよ。恨み言?」
「全くそれが含まれていないと言えば嘘になりますが、それはそれとして今ここで申し上げたいのは
別のことです」
アイは己の胸に手を当てる。柔らかく盛り上がった乳房は、地味な紫紺の上着に慎ましく隠されて
いる。脱げばそれなりのプロポーションのはずだが、どういうわけか彼女は素肌を晒すのを好まない。
サイに付き合って変装するときを除いては、首まで詰まった上着を脱ぐことも、薄手の半袖を着ることも稀だった。
「それでも、私は後悔していません。その場その場でのささいな呆れや疲労感はあれど、あなたを
選んでついて来たのを悔やんだことは一度もないのです。それはここにいる蛭も同様のはずです」
何の前触れもなく名前を出され、蛭は思わず小さく息を漏らした。
「あなた自身が気づいていらっしゃるかは分かりませんが、サイ、あなたには、ある種の人間を強く
惹きつける光があります。それはあなたの特殊な細胞や、それが可能にする完璧な犯罪とは別次元の
ものです」
サイの顔の戸惑いが深くなった。
長いまつげを伏せるようにして、アイはサイを見下ろした。親鳥が雛を見るような目だと蛭は思った。
「私も蛭も、その光に救われ、そして導かれて来たのです。――この場所まで」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、彼女の唇に笑みが浮かんだ気がした。
小さな花のごとくほころんだ唇は、間もなく元通り一文字に引き結ばれた。
「私は残念ながら、ここでお別れせざるを得ませんが……いつも願っています。あなたがこの先も
今と変わらず輝き続けることを。そして、」
いつの日か、あなたの正体が見つかることを。
「失礼します」
X.Iの名の一字を持つ従者は、最後の一言とともに再び深く頭を下げ、高いヒールで床を踏みしめて
部屋の出口へと歩き出した。
サイは黙したまま、ただフンと鼻を鳴らす。去っていくアイから目を反らすように顔をそむける。
主人と従者との距離は見る見るうちに離れていく。
陶器のような手がドアノブを握ったとき、蛭はたまらず声を上げた。
「アイ!」
「蛭」
従者はわずかに振り返る。
「本気で行くのかよ。俺はともかくあんたが消えちゃ……」
「致し方ないでしょう。それが彼のご意志なのですから」
「だけど、」
「あなたもお達者で、蛭。さようなら」
「アイ! 待てよ、アイ……!」
ドアが閉まり、従者とその主と協力者たちを完全に隔てた。
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