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「”代数学の浮かす” ~法衣の女・羸砲ヌヌ行の場合~」 3-2 - (2012/03/23 (金) 19:45:05) のソース
ヌヌ行は彼らのようになりたかった。 厳密にいえば布越しに聞いた暖かな鼓動と再び巡り合いたかった。 今でもまだ耳に残るあの鼓動は世界の暗澹に朽ち果てそうだったヌヌ行の心に光を灯してくれた。 いわば希望だった。鼓動を思うとき心は強く蘇り暖かな色に満たされた。 イジメが始まるまえ意中の男子に告白した時のような「向かうコト自体に意義を覚えられる」……柔らかな奔流が全身 を駆け巡った。 卑怯な手段を使えば……顔向けできない。 決めていた。 時間跳躍こそするがそれはあくまで腕力や気力で勝る数多くの敵たちと対等になるための手段。 歴史改変のような不意打ちで勝つつもりは毛頭なかった。 面と向かって真っ向からイジメに立ち向かい凌いでみせる。 結果からいえばヌヌ行はそれを実現した。 果たして……いかなる方法か? まず普通に呼び出しに応じ、イジメを受ける。 ここまではいつもの光景だが解放されるやすぐさま家へ舞い戻り武装錬金を発動。 先ほどのイジメを画面越しに見る。見て、敵どもの動きをノートに書く。 余談だがイジメの現場に核鉄は持っていかない。コトの最中奪われるのを危惧したためだ。 核鉄が保管されている自宅めがけ歩いているときいつもヌヌ行は笑い泣きだ。 「持ち歩けたら帰り道ケガ治せるのに」。もっとも辛いのはもちろん例の空間で鉛筆を動かしているときだ。さんざんと痛め つけられた個所がズキズキ痛む中での授業じみた行為。武装錬金発動中だから核鉄治療はお預けだ。土建屋の娘たちの 動きを描くとき思うのは「やめたい」。さっさと鉛筆を投げたい。寝たい。斬り捨てたはずの楽な道、大掛かりな歴史改変の 誘惑と戦いながらどうにか一通り描き終えるのが3時間後。不明な動きがあれば巻き戻し何度も見るのでそれだけかかる。 ヌヌ行が主軸としたのは回避だった。 敵の攻撃を総て避けきる。相手全員が過度の運動と興奮でヘトヘトになるまで避けきる。 勝利は求めているがそれは戦闘自体の勝利ではない。 イジメが終わるという戦略的勝利。 局地的な戦いでの勝利。それは意味をなさない。下手に勝てば──ふだん見下している相手に下されたからこそ──お ぞましい敵意が膨れ上がる。どうにか武力で勝ちを収めようとする。より強大な暴力が襲ってくる。悪循環だ。ましてヌヌ行 自身が武力にすがれば際限はない。総合的に見れば有利なのはヌヌ行で、その気になれば18人の生涯ごと戦いじたい 消滅させられるとしてもだ。 重要なのは有耶無耶にするコトだ。どちらが勝ちとかいう『真実』はなくていい。担任教師たちが居もしない不審者をわざ と信じ鍵付きのロッカーを導入したようなどこか虚偽的な手段で何もかもを御破算にしてやるのだ。攻撃を総て避けきり 攻撃するコトなく相手方総てを戦闘不能に追い込めばそこに敵意の生まれようはない。何しろ相手を傷つけていないのだ。 自ら高速で舞い続ける羽毛を殴れ。そう命じられた常人が6時間先12時間先で同じ行為を続けられるか? 難しいだ ろう。体力のあるうちはまだ悪罵を投げかけられる。だが尽きてくればそれさえもできない。自らの行為の無意味さを問い ただその状況が終わるコトだけ願い続ける。羽毛が尊厳も生活も財産も何一つ侵さないなら尚そうだ。 ヌヌ行は羽毛たらんとした。人でありながら羽毛という偽りに満ちた存在となり徹頭徹尾敵の攻撃を避けんとした。 だがいわゆる未来予知とやらでそれをするつもりはなかった。 多くの人間が聞けば目を剥くだろうが、時空改変を行えるトップクラスの武装錬金アルジェブラ=サンディファー。 事もあろうにヌヌ行はそれをビデオ代わりにした。 イジメの現場を写し、自分がどう苛まれ、敵が如何なる攻撃パターンを有しているか分析するためだけに………… ともすれば世界総てを一変できる能力を行使した。 そのため本来なら一度で済む暴行を数十回も味わう羽目になったがそれは対価だ。 武力もない。精神力もない。にも関わらず勝ちたいなら犠牲を払う他ない。 犠牲を払い、敵の有り様を間近で見て、更に別視点から研究して。 偽りに満ちた、けれどもヌヌ行自身の信じる真実にそぐう勝利を……掴む。 . 今回の呼び出しをうまくいなしても”次”がある。 それも有耶無耶にしその次もその次も有耶無耶にする。 イジメが起こるたびその総てを物理的に避けきれば──… いつかは終わる。 まどろっこしいがもっとも確実な手段。 現実世界に戻るとすぐさま核鉄治療のスタートだ。体にテープでぐるぐる巻き。夕食が終わるとすぐさま就寝。 そして翌日から3日間、学校を休む。 ただの登校拒否ではない。「体を強くする」期間だ。 核鉄治療は傷ついた体をより強靭にする。舞い込んだ記憶を頼りに彼女はただじっと傷を癒し……。 再び時間跳躍。 座標軸はカズキたちと出会った後。そこから再びイジメの現場へ。 もちろん核鉄治療を施してすぐ加害者たち総て倒せる訳ではない。 肉体組織が以前より少しだけ強くなるという程度だ。 戦いにはもっと技術的な修練が必要だし精神的な慣れもいる。 それらは両方とも錬金戦団のような組織に属さねば培えない。 武装錬金を得たりといえどまだ小学生、まだ一般人のヌヌ行にとって核鉄治療は万能薬ではない。 高圧電流は矛盾しているが人を殺すほど強くなかった。 加減、されている。流石に小学生といえど殺人はマズいと思っているのだろう。 そんな土建屋の娘の機微をニタニタ笑いながら去っていく取り巻きどもを眺めながらヌヌ行は立ち上がり再び自宅めがけ 歩き出す。数瞬前までの絶叫と海老反りはまだまだ体の芯にズシリと残っている。 足取りは重く、されど軽く。 自宅に戻り武装錬金を発動し、また帯を眺めイジメの現場を観察し、3日ほど核鉄治療──… 唸る土建屋娘の掌を紙一重で避けたのは6週目……。 一瞬何が起こったのか理解しかねた彼女は流石に青筋を立て痛烈な前蹴りを叩きこんできた。膝の拉ぐ嫌な音がした。 倒れ込むヌヌ行の全身を貫くのはしかし歓喜だった。 イジめられるうちどんどん内向的になったヌヌ行。 彼女の最近好きなものはとある動画サイトだった。 そこではいろいろなアニメが期間限定とはタダで見れるしいわゆるその派生、映像や音声の一部を使い回した奇妙な 動画だってある。 中でもヌヌ行がお気に入りだったのはゲーム。 プレイしたコトのあるゲームが自分など及びもつかぬ手際で攻略される動画。 いわゆる実況という、投稿者のおしゃべりを織り交ぜた動画。 バグを駆使し抱腹絶倒の世界へ造り替える動画。 そして。 そして──… 縛りプレイ。 わざとプレイヤーに不利すぎる条件をつけた上でクリアを目指す動画。 それがヌヌ行は大好きだった。 分かりやすくいえばたとえばレベル1で魔王を倒すような、1面につきたった30発しかタマを撃てないシューティングゲー ムで──たった1発超過するや爆滅するオンボロ戦闘機! ラスボスはちょうど30発で死ぬ──10周攻略を目指すよう な、そんな動画がヌヌ行は大好きだった。 . 多くは敵が相対的に強い──プレイヤー側の弱体化のせいで──だけだが、中にはゲームそのものを改造しその強さ を絶対的にしているものもあった。魔王の体力が原典の6倍だったりラスボスが変態じみた高速で飛び回ったり……、と にかく無茶な条件をどうにかしようとあがき続ける。ヌヌ行はそういう類の動画が大好きだった。 最初はまったく手も足も出ない。連戦連敗。死に続ける主人公。 だが時にプレイヤーの執念は無情極まるゲームの仕様を凌駕する。 『どうにもならない現実』。プログラムが厳然と弾きだす敵と主人公の圧倒的力量差。 それが覆えり始める瞬間は確かにある。 膝蓋骨から立ち上る強烈な痛みにヌヌ行は叫びだしたい気分だった。 ”やった!” 無慈悲極まる攻撃をかいくぐり一矢報いる主人公。 しかし次の光景はいつも大体無残なものだ。あらゆる努力と奇跡の籠った攻撃はされど敵にわずかしかダメージを与え ない。すかさずの反撃。健闘むなしく散華する主人公。 ヌヌ行の攻撃回避は却ってギャラリーを怒らせた。ブーイングのなか小石が飛ぶ。衝撃。揺らぐ頭。流れる血潮。 だがそれでいいとヌヌ行は思った。羽交い絞めにされながら思った。 『いつもより』早いタイミングで投入されたスタンガンがいつもよりやや強い出力で危害を及ぼしたが──… 『どうにもならない現実』を一瞬だけ上回る奇跡の瞬間。 それは端緒なのだ。一瞬が恒久になり奇跡が常態になる前触れなのだ。 努めさえすれば、対決を投げ出さなければ、人が最奥に隠し持つ黄金の適応力は遂に克服へ結実する。 ヌヌ行はそう思う。 時空の中で土建屋の娘たちの動きを観察するたび思いは強くなる。 対決は続いた。 イジメへの参加にやや消極的なギャラリーたち。やるよりは見る方が安全(さまざまな意味で)と佇んでいる傍観者たち。 ヌヌ行が彼女らに挑みかかり返り討ちに遭い始めたのは匹夫の勇ではない。 いざという時のため。仮に土建屋の娘をいなせるようになっても数を頼みに袋叩きをされれば勝ち目がない。 どころか、命が危ない。乱戦における一般人の感情の昂ぶりは想像を絶する。みな危うい年代なのだ。些細なきっかけ であっさりと命を奪ってしまう。 各人の性格、攻撃のパターン。武器の有無。武器の性状。それらを知るに最適なのが総当たりだ。例え余計に17周した としても結果からいえば近道なのだ。 変わらない現実は確かにある。 だが、超えられない訳ではない。 その過程がいつだって困難なものでひどい痛みを伴うから人は途中で取り組むコトを諦める。 では諦めない人間の条件とは何か? ヌヌ行はまだそれを語る術を持たない。 それでも。 嵐が去った後。 少しずつだが抗する力が付き始めているのを実感しながら帰路についた。 . 縛りプレイ。過度に強大なプログラムへの挑戦。 人がそれを乗り越えられるのは発展があるからだ。指先の敏捷性。反射。判断力。集中力。 プログラムとは止まった時の住人だ。発展はない。時の流れに応じ変わるコトはない。 67周目。 いよいよその時が来た。 両肩を素早く揉み揺すると羽交い絞めが解けた。左膝から力を抜くとそちらに向かって体が沈んだ。練習通りだ。残影が 花柄模様のボールペンに切り裂かれた。やったのは太り気味の女子で予想通り呆然としている。何周か前不意打ちで 痛い目見たから……軽く顔をしかめ両腕を伸ばす。前へ伸ばしたそれはちょうど飛んできた通学カバンを受け止めた。 教科書が満載のそれは結構な重量。7周目で偶発的に当たったそれが腰骨にヒビを入れたのは忘れ難い記憶だ。踵 を軸に46度ほど右旋回。やや必死の表情。縮んだバネが爆発するよう立ち上がる。カバンは顔の前に。右上から左下に 軽く振り抜くように。それだけで何とかとかいう飛び回し蹴りが見事に裁かれた。地面に落ちたしなやかな影は土建屋の娘 の側近で特技はテコンドー。工藤静香を更にシャープにしたような美貌の彼女こそ実は一番の警戒対象。まったくの伏兵、 ダークホース。場の流れがヌヌ行に傾くやいなやいつも出てくる忠義の子分。しゅっと息を吹きながら一足で飛び込んできた 彼女の手足は穴だらけで血だらけだ。落ちたのは尖ったコンクリ片の溜まり場。折れた鉄骨も刺さったのだろう。風ととも に血しぶきが舞う。素早い足刀。後年小札零の存在を知ったときまず思い出したのがココである。華麗で鮮やか、かつ勇 壮なる蹴り蹴り蹴り。千差万別のそれは予習と把握と寿命の3分の1を費やした核鉄治療の成果を得てしても回避するの が精一杯だ。敵ながら見事、濃紺の世界で何度見ても飽きぬ光景。後の世界一というのも納得だ。だからこそ小札に実況 させたいこの風景! もっとも直面している最中はそれどころではない。小札似(鐶ぽくもあるが)の三つ編みを揺らめかしながらメガネの奥を 右往左往、情けない声を上げつつ回避一方だ。 まっさきにカバンを捨てたのは物理的損壊によって恨みを買うのを避けるためだが、一瞬その判断が誤りで誤りゆえにま た詰むのではないかと青ざめたのもしばしばだ。転瞬脳髄に電撃が走り上体を右めがけ目いっぱい逸らした。衝撃。回し 蹴りが当たった。美しい少女のものとは思えぬ重苦しい爪先はヌヌ行の脇腹に深々とめり込み呼吸を妨げた。えずき。呼 吸困難。硬直。致命的な隙。追撃されれば一気に総崩れとなる好機にして悪機。だが倒れゆくのは側近の方だった。振り 返る。残る16人の取り巻きたちは表現こそさまざまだったが……みな凍り付いていた。 もっとも青ざめていたのは土建屋の娘。 数秒前やらかした行為がどれほど致命的な形で跳ね返ってきたか痛感しているらしく、大きな双眸は恐怖と涙でいっぱい だった。「いや……」「違うの」。小さな体がガクガクと震えている。 後ろ向きに倒れ行く側近。この場においてもっとも絶大な武力を持つ少女はいま、額のあたりから拳大のコンクリ片を落とし ている。投げたのはもちろん主である。 ヌヌ行だけが知っていた。乱戦があるや必ず手近なものを投げてくる。それが土建屋の娘だと。しかも誤爆はない。狙えば 必ずヌヌ行に命中する。何らかの方法でスタンガンを使用不能にしていても投げてくる。 幾度となくやられた不意打ち。避けられたのはまったく本能ゆえと言わざるを得ない。 そして。 幾度となく理不尽な攻撃を受けた……受ける道を選んだが故の幸運が遂に訪れた。 側近。白目を剥き切る最中にとうとう背中は硬い地面へ吸い込まれた。幼くもしなやから体がどうっと弾み沈静するころ ギャラリーたちはいよいよ場の流れがマズいものになってきたかを悟った。 視線は冷たい。総ての概要を知るヌヌ行にしてみればあの局面での援護攻撃は主従ゆえにまったく絶妙で最高の策だっ た。ただ悪いコトにヌヌ行は弱者故の悲しさで何も考えずただ咄嗟に避けてしまった。側近が轟沈したのは本当にまったく ただの不幸な偶然だ。当てようと思って避けたのではない。がむしゃらに避けたらたまたま当たった。 だが取り巻きたちはそう思っていないらしい。 「なに下らない手出ししてんだよ」 「空気読めよ」 腕っ節だけなら場で一番の者がよりにもよって首謀者の手で沈んだ。遠巻きでも分かるが今日のヌヌ行は何だか変だ。 まさか何十回も同じ現場を繰り返し参加者総ての攻撃パターンを知りつくし日夜回避の研究にいそしんでいるなど想像も つかないが、にしても普段よりやり辛い。ただキレているだけの相手なら小馬鹿にできるが決死の形相で攻撃を避ける その気迫! 何だか尋常ならざる様子だ。一言でいえば重い。彼女らは日々生じるストレスを手軽な手段で発散させたい だけなのだ。クラスでもっとも権力のある女子。クラス最強のテコンドー使い。そういった連中が味方にいるからこそノー リスクだと思い──いよいよ厳しくなってきた学校の目に潮時を感じながらも──参加したのに何たるザマだ。 それでなくても彫刻刀事件で凋落するのではないかと囁かれている土建屋の娘だ。いまこの場における誤爆は侮りを 呼ぶに十分だ。 冷たい視線を感じたのだろう。土建屋の娘は歩を進めた。向かう先には無論ヌヌ行。 普段なら何人かが加勢するのだがやや不透明になりつつある動静の中ではそれもない。一つには連帯感もあっただろ う。イジメという共同作業を通して芽生えた奇妙な意識。先ほどの誤爆の辱を雪げとばかり見守る気持ち。いま一つには ──結局連帯感さえ出発はそこなのだろうが──打算。下手に加勢して後ほど「一人でも勝てたのに余計なコトを」といっ た類のミソをつけられるのは実にマズい。ヌヌ行がイジメ辛い存在となりつつあるいま下手は打てない。次のターゲットに なるのは誰でもゴメンだ。「加勢? やだよ誤爆されんの」。そういう囁きもどこかで上がった。そして……もし土建屋の娘 がヌヌ行に敗北した場合、その後の学校生活がどうなるかという懸念もある。ただでさえ学校側から全面的に庇護されて いるヌヌ行が実力に置いても勝つとくればそれはもう悪夢である。もともと成績もいい。やや野暮ったいが垢抜ければ土 建屋の娘以上に美しくなる素地もある。イジメに勝ったという勲章はクラスのおとなしい、マジメな連中から支持を── もっとも勲章を得るほかなくなったのは彼らの無責任な傍観のせいでもあるが──得るだろう。 となれば新たな勢力が発生しかねない。5年生といえば奇数だ。彼女らの学校においてクラス編成が変わるのは奇数 とむかしから決まっている。いまは5月。1年ある学校生活の流れが生まれるのはおよそこの時期。それが卒業まで続く……。 以上のコトを見ても分かるように、土建屋の娘に加担する旨味はそろそろなくなりつつあった。 むしろヌヌ行への手出しを控え、様子を見、どうにかして負け組への転落を防ぐ処世こそ彼女らにとっては重要だった。 結果からいえば彼女らの嗅覚は実に素晴らしかった。 土建屋の娘は負けた。 戦いにおいても……器においても。 最後の一撃は奇しくも部下と同じ回し蹴りだったが修練不足のうえに疲労が積み重なったそれは実に不様なものであり 呆気なく避けられた。そのうえ転倒……微かだが数人。確かに噴きだした。 「ビル際まで追いつめておいて」 小馬鹿にしたような笑い。仰向けに倒れていた土建屋の娘は瞬間そちらをカッと睨んだ。 その時である。 ここまで回避一方だったヌヌ行が……。 土建屋の娘の胸を横合いから思い切り蹴り飛ばした。 「何を……!?」 地面を転がり美しい肌のあちこちにすり傷をこさえた読者モデルの少女。 起きあがるや目も三角にヌヌ行見据え…………。 信じがたいものを見た。 鈍い音。 崩れゆくヌヌ行。 イジメに興じていた人間たちもただ愕然とその事実を見た。 顔を見合わせた誰もが……首をノーと振った。 ヌヌ行の後頭部に刺さっていたのは──… 花瓶。 だった。 分厚くザラザラした陶器である。 虎と牡丹が彫られたそれは遠目からでも分かるほど大きい。その重苦しさからするとおそらく5kgはあるだろう。 ギャラリーの1人が「あっ」と上を指差した。 ビル。ガラスが割れ中が剥き出しになっているその建物の3Fあたりで何かうごめく影が見えた。 「落した?」 「誰?」 「とにかく……アレから」 かばわれた。 ありえない状況だ。 土建屋の娘は目を見開き口をパクつかせた。 いまヌヌ行のいる場所というのは先ほど自分が倒れていた場所だ。 罵声に思わずそちらを向き睨み据えていたから気付かなかったが……。 もしヌヌ行の蹴りがなければあの花瓶は間違いなく土建屋の娘の顔面を粉砕していただろう。 「……サン」 愕然とする彼女の意識を現実世界へ引き戻したのは一番の側近だった。 いつ気付いたのか。よろよろと歩み寄ってきた彼女はそっと主人に耳打ちし──… 10数分後。ヌヌ行は救急車に運ばれた。 怪我は思ったよりは軽く済んだ。核鉄治療のおかげかもしれない。 (全周回で受けた傷のリザルトを吐き出せば、その3割は頭部なのだ) いずれにせよ何とか目論見どおりになった。 退院の日、ヌヌ行がそう思えたのは土建屋の娘が見舞いに来たからだ。 どうして救急車を呼んだのか。何気なく聞いてみると彼女はひどく申し訳なさそうにこういった。 「かばわれたから……」 「っていうのはちょっとだけウソがあって」 例の側近の入れ知恵らしい。 もしあそこでヌヌ行を見捨てた場合、ただでさえ下落傾向の株が遂に大暴落してしまう。 ならばまがりなりにも人道を貫いたヌヌ行を助けるべきだ……と。 付記すれば救急車を呼んだ場合、やはり学校からの呼び出しは免れ得ない。 となればである。 あの現場に居た者は総て連座……連帯責任を問われる。 言うまでもないが誰一人として花瓶を落としたりはしていない。だがそういって信じて貰うにはあまりに悪行をやりすぎた のが彼女らだ。仮に花瓶の無罪を信じてもらえたとしても今度はヌヌ行を事故現場に導いた連帯的な責任を追及される。 そもそも土建屋の娘とのサシを止めなかった道義的責任は確かにある。 「だったら、私だけがあの場に居たってコトにすれば」 取り巻きたちからの反感は買わずに済む。むしろ弱味を握れるし恩も売れる。 「ウソかぁ~」 ヌヌ行はとても嬉しい気分だった。ウソのお陰であの件はだいぶ有耶無耶になっている。 誰1人にも勝てず、恨みも買わず、むしろ被害者の立場で英雄的側面を手に入れた。 ケガだけでいえば負けにも等しいのに首謀者はもう攻撃できない。矛盾をはらみながらも合理的な理由が発生している。 命を救われた人物が、救った人間を攻撃する。 なかなかできるコトではない。 これでイジメを継続すれば取り巻きから──連帯責任を免除したという貸しがあるにしろ──3人ないし4人の離反者が 出る。参加者17人の中では小さな数字だが少女とは話し好きなものである。いかに土建屋の娘の人格が酷薄か(自分 のイジメ行為を誤魔化すよう、より過大に)並べ立て次から次へ敵を量産する。まがりなりにもクラスで一大会派を築いて いる土建屋の娘なだけにそういう機微や打算には敏感すぎるほど敏感らしい。 後に聞いたが最初担任の教師はこう疑っていたという。 土建屋の娘が花瓶で殴ったのではないか……? 医師の診断によりその線は消え、花瓶については事故で処理された。 結局先日の彫刻刀事件の件を問い詰めているうちああなった。暴行についてはやはり責められるべき要素はあったが しかし花瓶落下という突然の事故に際しすぐさま救急車を呼んだ姿勢だけは評価され、今回だけは特別に見逃されたとい う。 他にも何人か現場に居た。その事実を教師たちは知っているのだろう。医師の報告はけして擁護にだけはならない。ス タンガンの使用も指摘しテコンドーの鋭い足跡だって炙り出している。所用で街に出向いていたとある教師が事故のあった 時間、あのビルの方からぞろぞろと逃げだしてくる複数の生徒を目撃してもいる。 「ところでなんであの時、花瓶が落ちてくるって気付いたの?」 「……それが私にも分からなくて。なにかあったんだけど。頭を打ったせいかな。記憶がなくて」 ヌヌ行たちは知らなかったが……。 この時間、あの現場にいたものたちはみなぞっとしていた。 ビルの方から逃げてくる少女たちの写真。それが『何者かによって』自宅へ送りつけられていたからだ。 スタンガンを提供した少女もまたカタログを前に震えていた。郵便受けへ無造作に突っ込まれていたカタログ。とある1 ページにドッグイヤーがついているのに気付いた瞬間、心臓は跳ね上がった。ナイフや警棒といった少女に不似合いな 商品満載のカタログ。該当のページを開く。凍りついた。かつてヌヌ行をさんざん痛めつけた電圧的凶器。まさに同型に 花丸が振られている。色も筆致も学校でよく見るやつだ。 教師たちは誰一人彼女らを責めたりはしなかった。 いつも笑顔で。にこやかに。心から将来を心配し、正しく育つコトを望み。 贔屓などなく分け隔てなく公平に接した。 ヌヌ行がたとえば間違って金魚鉢を落っことせばちゃんとお説教はするし反省文も描かせた。 イジメに参加した生徒たちが特定の分野でヌヌ行に辛勝するというコトもしばしばだった。 それが、恐ろしかった。 きっと総ては知られている。知られているのに責められない。 大人だけが持つ本心の見えない笑顔。それを目の当たりにするたび彼女らは恐怖に囚われた。 実は内心で怒っているのではないのか。イジめた分際でヌヌ行に勝ったコトを腹立たしく思っているのではないのか。 被害者たるヌヌ行さえ叱るのだから、もしこれ以上なにか悪事を働けばウラにある何もかもが爆発し悲惨で破滅的な事 態が起こるのではないか……。 猜疑はやがてヌヌ行への罪悪感と混じり合い拭い難いものにしていった。 .