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丘の上の公園に風が吹いていた。


そこにいると僕は幸せが永遠に続くと感じていた。

でも、そんなことは夢のように消えてしまって、後になると全てが幻のように思える。

あのときに話したことは毎日少しづつ忘れていって、

つないだ手のひらに残された温度も確実に冷えていく。

覚えているのは彼女の笑った顔だけだ。

僕たちはどうすればいいんだろう。

忘れていくことの積み重ねの中で、どんな大人になれば

幸せだと感じることができるのだろう。




駐輪場に自転車をとめて鍵をかける。

それまで受けていた風のせいですっかり顔が硬直してしまった。

手袋をしているのに、指先の感覚はすっかりマヒしてる。



10歳にも満たないような男の子がが親の手を力いっぱい引っ張り

市営体育館に隣接されている温水プールへと走っていった。

それをぼんやり眺めながら また丘の上に向かって歩き出した。

市営体育館の裏には小さな丘があり、てっぺんには小さな公園があった。

芝が敷き詰められた丘を登りきると、彼女がベンチに座って待っていた。


ここは 僕が人から逃げる為の場所だった。

そこは 彼女が一人になる為の場所だった。 

人が苦手な僕と、一人が好きな君。

いつの間にか、寄り添って歩き

いつしかそこは僕たちが放課後に待ち合わせをする場所になった。



「補習がちょっと長引いたんだ」僕は遅れた言い訳をして隣に座った。

「受験生だから仕方ないよ」彼女は風のせいですっかり赤くなった頬を向けて言った。

彼女はひとつ年下だ。

僕が来年大学生になって、この街から出て行ったら遠距離恋愛が始まる。

でも僕は、多分 僕たちは そんな不確かなものを信じられずにいた。

電話代とか、交通費とか、

きっと今まで考えなかったようなハードルが僕たちの前に立ちはだかるだろう。

それでも僕はきっとバイトをしたり節約したりして、彼女と会おうとするんだろう。

短い電話で言い足りないことは、メールで話せばいい。

それとは反対に、僕は新しい生活や出会いで変わってしまう自分も想像できた。

そして、そのうち彼女の声も姿も揺らいでいくのだろう・・・



彼女は家の事情で、卒業後は就職することが決まっていた。

大学生になり、これからも青春が永遠に続いていくように感じている僕とは違い、

彼女にとってはこの瞬間がすべてだった。

そのときに感じたことを口にして、キスをして、泣きたいときに泣いて、笑う。

そうしていなければ、その先にある何かに向かっていくことも、

今を楽しむこともできなかった。

だから、彼女の中に後回しという言葉はない。

すべてが 全力 で、すべてが 儚い。





1月になって受験も佳境に差し掛かったころ、

僕たちは卒業前に湖を巡る観光遊覧船に乗ろうと話し合った。

この時期は観光客も少なく、桟橋に着くと僕たち以外に乗客は見当たらなかった。

貸切となった白い遊覧船に乗ると、湖を渡る冷たい風が顔に吹きつけた。

船が動き出すと、さっきまでいた陸地があっという間に遠くなっていく。

彼女は制服の上に紺色のコートを羽織って、

口元が隠れるくらい厳重に白いマフラーを巻いていた。

湖面を走る風は想像以上に冷たくて、顔の細胞ひとつひとつを刺すようだ。

ここに17年も住んでいるのに、遊覧船に乗ったのがはじめてなんておかしいね。

彼女がそう言うと、僕もうなずいた。

僕の暮らした街が、いつもとは違うアングルで遠くなったり近くなったりした。

「いろんなことを忘れない」と僕は誓った。

ほんとにそんな風に思えた。

時間はゆっくりと進んで、僕の心の中にひとつづつ刻み込むように思い出を積み重ねていった。





僕は東京にある第一志望の大学に受かった。

学生生活は順調に進んでいった。

誘われるままにサークルに入って、ほかの学生のように振る舞い、

いつのまにかどこにでもいるような若者になってしまった。

行きたくもない飲み会に参加して、つまらないことで笑い、

求められるまま下品な話をした。

子供のころのように自分を特別な存在のように感じることもなく、

ただ人と同じように見えることを意識して暮らした。

彼女とは毎日のように電話で話した。

メールも一日に何度も送った。



でも、ある日僕は彼女にメールを送ることができなくなった。

何を書けばいいのかまったくわからなくなった。

僕たちはいつのまにか何も共有してなくて、

いいことも悪いことも、全部が他人のようにすれ違っていた。

考えれば考えるほど、僕の中にある小さな彼女の居場所は狭くなり

最後はほとんど自然消滅みたいに、僕たちは連絡をとらなくなった。






彼女が自殺したのは、それから一ヶ月後のことだ。

誰もが笑う年頃だ。

くだらないコトで友人と笑いあう。

そんな人生で一番輝く季節に命を絶ってしまう。

やりきれないって言葉は、

きっとこういうときに使うんだと

僕は思った。

虚無感。

無力感。

本当に

やりきれない。


そんな気持ちに整理をつけたり、

彼女のやったことをうまく忘れたりできるほど僕は大人ではなかった。

夏休みに帰省すると、まっすぐ彼女の自宅へ向かった。

彼女の母親の顔を見ると、自然と涙がこぼれてきた。

2階にある彼女の部屋に案内され、二人でしばらくその場に立ち尽くしていた。

部屋は彼女が生きていたころのままで、

窓に向かって置かれた机と、モスグリーンのカバーが掛けられたベッドが

主人の帰りを待っていた。

机の上には僕と撮った写真が立てかけてあり、

顔を寄せたふたりは兄妹のように見える。



遺書らしき物は遺されてなかったらしい。

心なしか彼女の母親は、ずいぶんふけてしまったように見えた。

この部屋は人に何かを強いる。

それは時間だったり、

後悔だったり、

彼女の思い出を持っている者が等しく背負う何かだ。



東京に戻ると、いつもどおりの生活が待っていた。

学校は新学期を迎えた高揚感の中に包まれていた。

僕は学食で会う友人たちのひとりひとりに、実家に帰省していたこと、

田舎の夏も暑かったことを話した。



どこに行っても、

彼女を失った悲しみや、

彼女がこの世で味わった悲しみや

やりきれなさを相談する相手はいなかった。

仕方なく僕はひとりきりになって、彼女が死を選んだ理由を思った。

忘れる事など出来なかった。

忘れてしまえば、彼女がこの世に存在したことも否定するような気がした。



世の中には死んだほうがいいやつが山のようにいるのに、

どうして彼女が死ななければいけなかったんだろうかと考えた。

そして、なぜ自分は彼女を愛し続けることができなかったんだろうかと責め続けた。

人は一人では生きていけないはずなのに、

僕は大好きな人をあっさり遠くに押しやって、

それほど面白いとも思えない日常に身を任せてしまった。

そんな僕に、彼女の気持ちに触れる力はなかった。

その気持ちに触れることができれば、彼女が死なずにすんだんだ。



昼も夜もなく、曜日の感覚もなくなり、時間だけが過ぎていった。

風呂にも入らず、髭もそらずに布団にくるまっていた。

光の中にいたと思ったら暗闇にひき戻される。

その繰り返しの中で、彼女があちら側の世界で僕を呼んでいるような気がした。

彼女の胸の温かさを思い出した。

その場所こそ僕が帰る場所ではないだろうか。



充電器に挿しっぱなしの携帯の音が遠くで聞こえた。

彼女の母親からの電話だった。

翌日僕は飛行機に飛び乗って、田舎に帰ってきた。

彼女の自宅へ向かうバスの中でも、胸の鼓動が押さえられなかった。

遺書が見つかったのだ。

彼女の母親は 泣いていた。

涙なんて全て流しつくして、もう何も流れてないのに。

心が泣いていた。裂けた傷口のように とめどなく、とめどなく。

見てやってくれ。そう言ったきり、彼女の母親は 僕を迎えた玄関から動かなかった。

彼女のパソコンの中に保存されていた遺書は、

僕が到着するのを待っていたかのように、液晶ディスプレイに映し出されていた。

それは日記のような遺書だった。




    7月15日

    今日期末テストが終わった。数学はやっぱりできなかった。
    意味のないものに費やす時間が最近特に苦痛だ。
    難解な問題を証明してみせたり、二度と読まない外国語を理解することにどんな意味があるんだろう。
    私は、本を読むのが好きだ。小説を書くのも好きだ。
    誰にも言ってないけど、将来は小説を書いてみたいと思ってた。
    このまま卒業して、就職して、誰か好きな人を見つけて結婚する。それはきっと私じゃない。
    贅沢なことを考えてるのかな。彼から連絡がなくなって、だからかな。
    多分、それでそんなこと思ってるんだよね。
    でも、すごく幸せだってことも知ってもらいたい。
    私はお父さんもお母さんも大好きで、二人の子供として生まれてきたことをすごく感謝している。
    ほんとにそう思う。
    でも私は気難しい性格を隠してお母さんたちに接してきて、
    彼にも本当の私を一度も見せずにきたような気がする。
    本当の私は物分りのいい女の子なんかではなくて、
    すごくわがままで自分さえ幸せになればいいと思っている、そんな人間なんです。
    私はこれから何をすればいいのか全然わからない。
    ずっと先まで決められていることはあるのに、何一つワクワクしない。
    それってすごく幸せで、不幸せな気がする。
    その感じってわかってもらえるかな?
    もしかしたら、そのことをわかってくれるのは彼だけかもしれない。
    この世で唯一私のことをわかってくれてたのは彼だから。
    だから、彼が離れていってしまうのもわかっていたし、それでよかったんだって思う。
    人はどんなときに死にたくなるのかって彼と話したことがあった。
    そのときは雨の日とか雪の日とか寂しい天気のような気がしたけど、そうじゃないって今は言える。
    私は、今日のような突き抜けた青空の下で死にたい。
    17歳のきれいな体で、夏の太陽が支配している青空の下で死ぬ。それが私の望みです。
    お父さんお母さん、ごめんなさい。
    さようなら。
    ありがとう。








その日も地平線の向こうまで青空が続いていた。

丘の上の公園に行くと、彼女がいつも待っていたベンチがそのままにあった。

そのベンチの右側に座って、街の中心部に広がるささやかな町並みを見つめた。

不思議と涙は出なかった。

届くはずのない彼女のそばに近づけたような気がしたからだ。

僕はこれから彼女が生きるはずだった人生を生きなければならない。

目を閉じると17歳の彼女が見えた。

僕はその笑顔を何度も思い出して、歳を重ねていく。

何十年もかけて忘れることを仕事として生きていく。

そして、自分が命を落とすときになって思うんだ。

結局忘れることができなかったと。

17歳の彼女に追いつくにはその日を待たなければならない。

その日を待って僕は生きる。そして今もこうして生きつづけている。