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愛はきっと奪うでも与えるでもなくて、気がつけばそこにあるもの

  •  名もなき詩 - 


 『あるがままに生きる』というのは、難しくそれでいてそうありたいと願うからビートルズも歌ったのだろうし、桜井和寿も歌ったに違いない。そして、上のフレーズは「あるがままに生きる」ことができれば当たり前の事実なのだと私は思った。
 「名もなき詩」のワンフレーズであり、2番目のサミの歌詞だ。1番の歌詞が『あるがままの心で生きられぬ弱さを誰かのせいにして過ごしてる』というもので、この2番の歌詞は同じ事象を違う側面からとらえたもののように思える。しかし、これを考えていくと『あるがまま』というのは、そして『気がつけばそこにあるもの』そう思える境地というのはとてつもなく遠いような気がする。一瞬、そう思えることはあるにしても、その気持を持ち続けることは非常に困難なんじゃないだろうか。

 私たちは、桜井が歌うように『自分らしさ』というものを知らず知らずのうちに作り上げていて、自分の中における自分に対する理想や限界というものを誰もが持っている。逆にそれがもてない人間は世の中や人生に絶望してしまう事だろう。しかしそういう人がいるにしても、多くの人はやはりその間でその人なりにバランスを取っているに違いない。
 では『自分らしさの檻』があるとどうなるのか。それがあると、私たちは自分に対して「こうでなければならない」「自分はこういう人間なんだ」「私はこれこれが長所でこれこれが欠点だからこうなんだ」「だから自分には無理なんだ」というように自分自身の限界や能力を自分で決め付けてしまう事になる。
 そして、自分自身に対する檻は当然のように他者との関係においてもある一定の基準を作り上げてそれにはまるか、はまらないかで判断しようとしてしまう。つまり、型にとらわれてしまうのだ。自分の好きなタイプはこういうので、こういうのが嫌いだからこの人は嫌いだとか、愛なんていう人によっては形が全くないものに対しても、「これは愛じゃない」とか「私は愛を示してる」というように自分勝手な思いは自分と他者に苦しみや悲しみという感情を与える事になる。
 つまり、『あるがままの心で生きられぬ』私たちは、『愛』というものについても、『与える』であるとか、誰かから『奪う』というものだと錯覚してしまう。冷静に考えれば、好きな相手の恋人からその人を奪ったとしても『愛』そのものを奪う事ができるわけじゃないし、自分が『愛』を与えている、そう思っていても相手がそれを愛情だと受け止めていなければそれは単なる嫌がらせに過ぎないのだけど、そうなってしまう。
 しかし、その事実を認めてしまうと、相手の気持を完全に理解する事などできない私たちにとって、『愛』なんていう形のないものは本当に無理な話で、桜井が最後に歌っているように『伝えるのはいつも困難』だという結論に達してしまう。

 では、私たちはどうすればいいのだろう。愛というものが形のないほんの少し眼を離しただけで見えなくなってしまうようなそんなものであるのなら、私たちは何を信じればいいのだろう。
 その答えこそが、桜井和寿の提示した答えなんじゃないだろうか。

愛はきっと奪うでも与えるでもなくて、気がつけばそこにあるもの。
街の風に吹かれて歌いながら妙なプライドは捨ててしまえばいい。

 そう、『気がつけばそこにあるもの』それなのだと彼は歌っている。たとえ、それがどんな形をしていたとしても、自分にとって理想の形でなかったとしても、自分がそこに愛があると思えた瞬間こそが『愛』が形になった瞬間なのだ。そして、私たちはちんけなプライドを捨てて、その瞬間を、そして自分の感覚を信じる事が大事なのだ。
 そうすることで私たちは確かに傷つくかもしれない。他の誰かを傷つけるかもしれない。それでも、『あるがままに』生きようとし、物事を『あるがままに』見つめるとき、きっと私たちの前に愛情と言う形のないものが姿をあらわすのだろう。
 確かに、それはとてつもなく難しいことで愛情を伝えるのはやはり困難だ。けれど、その思いを共有できる相手と出会えるのならばそれは素晴らしいことだし、おそらく誰もがそういう存在に出会える事を願って、今日もあるがままに生きようとし、そして傷ついて、自分の檻の中でもがいているのだ。
 桜井和寿が歌った「名もなき詩」のこのフレーズは私にそんなことを思わせた。